屋根の上の黒猫

田中貢太郎




 昭和九年の夏、横井春野君が三田稲門とうもん戦の試合を見て帰って来たところで、その時千葉の市川にいた令弟れいていの夫人から、
「病気危篤、すぐ来い」
 と云う電報が来た。横井君は令弟の容態を心配だから、夜もいとわずに市川へ駈けつけた。そして、令弟の家の門口をくぐろうとして、何気なく屋根の上へ眼をやったところで、其処に一匹の黒猫がいて、それが糸のような声でいていた。瞬間横井君は、
「しまった」
 と思った。それは横井君のお父さんがまだわかころ、酒興のうえで、一匹の黒猫を刺し殺したことがあったが、それからと云うものは、横井君の家には、何か不幸なことでもあると、きっと黒猫が姿をあらわした。お父さんが歿くなった時にも、また四人の兄弟をはじめ二人の小供の歿くなったときにも、やはり黒猫が来て屋根から離れなかった。横井君はそのつどそれを見ているので、
「この野郎」
 と云って、そこにあった小石を拾って投げつけた。すると猫は屋根の向う側へ姿をかくしたようであるから、家の中へ入ろうとすると、すぐまた出て来て淋しそうに啼いた。横井君は令弟のことが気になるので、もいちど小石を投げつけておいて家の中へ入った。と、令弟は気息えんえんとして、今にも呼吸を引きとろうとしているところであった。
 横井君は猫が気になるので、また外へ出て猫を追ったが、猫は依然として屋根の上から離れなかった。そして、けがたになってその猫の声がぴたりとやむと同時に、令弟が呼吸を引きとった。





底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
   2003(平成15)年10月22日初版発行
底本の親本:「新怪談集 実話篇」改造社
   1938(昭和13)年
入力:Hiroshi_O
校正:noriko saito
2010年10月20日作成
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