あかんぼの首

田中貢太郎





 赤インキの滲んだやうな暑い陽の光があつた。陽の光は谷の下の人家の塀越しに見える若葉を照らしてゐた。若葉の中には塩竈桜か何かであらう、散り残りの白いあざれたやうな花弁があつて、それが青味だつて吹いて来る風に胡蝶のやうにちらちらと散つた。花弁は崖の上の蕗の葉の上にも落ちた。
 電車の乗換場の土雨はぬる湯で拭いた顔や襟にまだ滲んでゐるやうな気がした。電車の交叉点の一方は赤煉瓦塀の高い工場になつてゐた。塀に沿うて街路樹の鈴懸の若葉があつた。若葉の枝は狂人のやうに風のために踊つてゐた。黄色に見える土雨はその四辺に佗しい色彩を施してゐた。京子は正午前に行つて来た病院の往きかへりの路のことを浮べてゐた。
 京子は重い頭を左枕にして寝てゐた。薄青い電燈の光が掻巻にくるまつた彼女の姿をげんなりと照してゐた。床の中は生暖かで、ほこりのある体をぢつと一所に置いてゐると、その個所が熱ざして来るやうな気持になつた。彼は足や手の先を冷たい所へ所へとやつた。冷たい所へとやつた刹那の感触は心好い嬉しいものであつた。彼はふと夕飯の時に夫の唇から洩れた同情のある言葉を思ひ出した。
「来月の十日頃が来たなら、学校の方も休みになるから、海岸の方へ伴れて行つてやらう、一ヶ月位も呑気にしてをれば癒るだらう、」
 砂丘に植ゑた小松の枝振りや、砂の細かな磯際、藍色をした水の色と空の色とが溶け合つた果てしもない海の容などが思ひ出された。それは四五年前結婚した年に、二週間ばかり行つてゐた海岸の印象であつた。ぎらぎら光る陽の光は厭はしかつたが、夕方に小松の葉を動かした風の爽やかさは忘れられなかつた。京子の神経にその風が吹いてゐた。彼は連れていつて貰ふことが出来るものなら、直ぐ明日にでも行きたいと思つた。そして海岸へ行つてその風に吹かれようものなら、斯うした暗いじめじめしたやうな気持はいつぺんになくなつて、体も軽くなるだらうと思つた。彼はそのことを夫に話したいと思つた。そしてそれがはつきりした形になりかけて来ると、もう話して見ようとする気もなくなつた。二階の狭い書斎で海軍省方面の翻訳をしてゐる夫の所へ行くには、きつい梯子段を上がらねばならんし、夫を傍へ来て貰はうとすれば手を鳴らして女中を呼ばねばならなかつた。彼にはそれもこれも憶劫で仕方がなかつた。
 京子は右枕に寝返りした。新しい冷たさが手足に心好かつた。彼は一昨年の春に流産をして以来何処といつて定まつた所はないが、始終頭痛がしたり軽い眩暈を感じたり、その上体がだるくて熱ざした。一年ばかり無くなつてゐた月の物も、昨年からあるにはありだしたが、平生も不順勝で時とすると妊娠でないかと思はれるやうなこともあつた。その日も二三日前からだらけてゐた体が、前晩あたりからえらい熱病にでも罹つたやうに、熱ざしてほてるのでかかり付けの医師に行つて来たところであつた。
「嘔気を覚えるやうなことはありませんか、」
 医師は妊娠の下地ではないかと疑をおいたらしかつた。月の五六日にあるべき筈の月の物がその時も十日ほど延びてゐた。
 勝手の方で瀬戸物を落したやうな音がした。女中が又何かそさうをしたのであらうと思つた。指の先が棒のやうな感じのする赤黒い静脈の蚯蚓のやうに浮あがつた女中の手が其所にあつた。風かそれとも、遠くの方を行く汽車の音とでも云ふやうな、平生も耳に這入つて来る雑音が聞えて来た暗いもやもやした憂鬱がこの雑音に絡らみついてしまつた。彼はだるい体の向を又変へた。
 心好い濁のない風が吹いた。と、青い松の葉の一つづつがその風に動いた。その松の葉へは月が射してゐた。黒い松の幹が飛び飛びに見えた。足許にはメリケン粉のやうに白い踏んでも音のしない砂があつた。時々波の音が思ひだしたやうにざあざあと聞えた。京子は無心になつて何も考へないで足の向く儘に歩いて行つた。
 ちひさな砂丘をだらだらとおりると、ちひさな川が流れてゐて板橋が渡してあつた。橋の向ふにはぼんやり月の光の射した松林の丘があつて、其所には二三軒の別荘風の家が見えてゐた。そろそろと板橋を渡つた京子は、疲びれて休みたくなつたので、とつ着きの家の方へと行つた。家の前には真砂を敷いたかなり広い路が通じてゐた。彼はその路を横切つて門口へと行つた。門の左右には竹の菱垣をして、船板で拵へた門の扉を閉めてあつた。
 門の扉は京子を遮らなかつた。彼は自分の家へでも這入つて行くやうに這入つてしまつた。閉めてあつた玄関の戸も彼女を拒まなかつた。中には四畳半位の玄関の室があつた。彼は其所へ疲びれた足を投げ出して坐つた。室の見付けは壁になつて其所には髪の白い西洋人の半身像の額が懸つてゐた。それは夫の書籍にあつたトルストイと云ふ男の顔に似てゐた。
「トルストイだらうか、」
 京子が斯う思つて顔をあげた時赤ん坊の泣声がした。
「おや、此所には赤ん坊があるよ、」
 彼は赤ん坊が見たくなつてきた。彼は右側の障子を開けた。其所は茶の間になつて向ふの障子の先は縁側になつてゐた。彼はその縁側を伝つて行つた。赤ん坊の泣声は次の室からであつた。彼はその障子を開けた。二つの床があつて夫婦が枕を此方にして寝てゐた。若い女優髷にした細君は派手なメリンスの巻蒲団に包んだ赤ん坊に乳をあてがつて睡つてゐた。
 京子は細君の枕頭にしやがむやうにして赤ん坊を覗き込んだ。丸顔の細君の顔がふと此方を向いた。細君は悪魔でも見たやうに震ひ声を立てた。
「どなたです、どなたです、なにしに来たんです、」
 京子は騒がなかつた。
「奥様、騒がなくつても好んですよ、私は赤ん坊を見に来たのですから、」
 細君は口をもぐもぐしてやつと彼女の顔を見直した。
「あなたはどなたです、斯うして寝てをる所へ、何しに来たんです、何しに来たんです、」
「私は赤ん坊を見に来たんですよ、」
「赤ん坊を見に来たんですつて、誰にことわつて、寝てゐる所へ這入つて来たんです、失礼ぢやありませんか、早く出て行つて下さい、」
 と云つて赤ん坊の泣くのも構はずに後ろを向いて、
「早く起きて下さい、大変です、大変です、」
 男が吃驚して跳び起きた。京子もその音に吃驚した。そして彼の気は遠くなつた。

 京子は朝飯の給仕をしてゐた。日比谷にある中学校へ行つてゐる夫は背広の間服を着て胡坐をかいてゐた。夫が好きで毎朝の味噌汁に入れることになつてゐるわかめの香がほんのりとしてゐた。京子はそれが鼻に泌み込むやうに思つて仕方がなかつた。どうした連想であつたのか彼はふと海岸の家のことを思ひ出した。
「昨夜、面白いことがあつたんですよ、」
「どうした、」
 夫は軽い好奇心を動かしたやうであつた。
「昨夜海岸の砂丘をおりて行くと、ちひさな川があつて、それに板橋が架つてゐるんですよ、その橋を渡ると、向ふに小石を敷いた広い通りがあつて、その通りに沿うて二三軒の家があるぢやありませんか、私はくたびれたから、ちよつと休まうと思つて、船板の門をした家へづんづん這入つて行くと、玄関があつて、それが四畳半位でしたよ。其所で両足を投げ出して休みながら見ますと、壁に西洋人の額が懸つてをるぢやありませんか、それが、何時かあなたに見せて戴いた、トルストイですかね、偉い露西亜の小説家の肖像ですよ、」
「何んだ、それは夢か、」
 夫は飯を貰ひながら笑つた。
「それがどうも夢のやうぢや無いんですよ。松の木の色も、葉の色も、波の音も、家の様も、なんでもかでも、ちやんと分つてゐるんですよ、」
「それが夢さ、宵に海岸の話をしてゐたから夢に見んだらう、」
「でも夢ぢやないやうよ、それで玄関で休んでゐると、赤ん坊の泣声がするぢやありませんか、私は赤ん坊が見たくなつたので、右の方から這入つて見ると、茶の間があつて、その先に縁側がありますから、縁側に出て見ると、赤ん坊は直ぐ次の室に寝てゐるやうですから、其所へ這入つて見ると、御夫婦が寝てゐて、奥様は円顔の女優髷にした、それはきつさうな方ですよ、私が赤ん坊を覗いてゐると、眼を覚まして、どなた、何しに来たのだつて怒るんですよ、私は平気で、赤ん坊を見に来たと云つてやると、その奥様が怒つちやつて、大声で旦那を起したもんだから、旦那が寝ぼけて跳び起きたんですよ、私もそれにびつくらした拍子に、何が何やら分らなくなつたんですが、その時が夢の覚めた時でせうよ、」
「だから夢と云つてるぢやないか、夢さ、海岸のことが頭にあつたから、そんな夢を見たんだよ、矢張り体のせいだ、来月は行こう、翻訳の方もその時分に出来上るから、一ヶ月位はゆつくり行つて遊んで来よう、其所で仕事をすれば好い、」
 夫は飯の後で茶を飲みながら海岸行の話をしてから出て行つた。京子はその後で飯も食はずにちやぶ台に片肱を突いたなりで考へ込んでゐた。

 二人の学生が話しながら通つて行つた。その学生の下駄の音が敷いてある通りの真砂にことことと当つた。小川の上には靄がきれぎれに浮んでゐた。京子は板橋を渡つてしまふと彼の家へと行つた。船板の門の扉も玄関の戸も這入つて行く彼の体を支へなかつた。玄関へあがると昨夜の肖像があるだらうかと思つて眼をやつた。肖像は依然として懸つてゐた。
「今晩こそ意地でも、あの赤ん坊を抱いてやらう、」
 京子は又昨夜のやうに茶の間へ通り、茶の間から又縁側へと出て夫婦の寝てゐる室へと行つた。細君は巻蒲団に包んだ赤ん坊を側へ置いて、その方に顔を向けて睡つてゐた。赤ん坊は出来て三月位になるらしい人形のやうな子供であつた。呼吸器に故障のあるらしい夫の寝息が、ぐうぐうと蛙の鳴き声のやうに聞えてゐた。
「男の子であらうか、女の子であらうか、」
 京子は無邪気な赤ん坊の寝姿を眺めてゐたが、抱きたくなつたので坐つたままで両手を差し出した。赤ん坊の巻き蒲団にその手が掛つた。細君の眼が開いた。細君の両手は京子の右の手首に蛇のやうにからみついた。
「何をするんです、あなたは何をするんです、」
 京子はその権幕に驚いて手を振り放さうとしたが放れなかつた。
「早く起きて下さい、早く、早く、昨夜の奴が来て、坊やを何うかしようと云ふんですよ、早く、」
 細君は起きあがつて来て京子を横に突き仆して片手をその髪にかけた。細君は又叫んだ。
「早く起きて下さい、昨夜の奴が赤ん坊を取りに来たんですよ。早く、早く、」
 夫は跳び起きた。そして夫の手は京子の頸筋にかかつた。
「よし、此奴か、此奴が昨夜の奴か、」
 京子の咽喉は塞がつて来た。細君の意地悪い手は京子の頬や額のあたりにあたつた。京子は苦しみもがいた。
 赤ん坊の泣き声が聞えた。京子はその泣声をすこし耳に入れたままで分らなくなつてしまつた。

 京子は並んで寝てゐた夫に揺り起されてゐた。夫の何か云ふ声が遠くの方でするやうに思ひながらやつと眼を覚ました。
「何うした、大変うなされてゐるぢやないか、夢を見たんぢやないか、」
 京子は眼を開けた。青い電燈の光が自分の肩に懸けた夫の手を照らしてゐた。京子は首から顔にかけて重い痛みが残つてゐた。
「夢でも見たのかね、うなされてゐたよ、」
「どうも夢ではないんですよ、赤ん坊を抱きに行つて、ひどい目にあつたんですよ、奥様に髪を掴まれて顔を滅茶滅茶に摘ままれたり、旦那は旦那で跳び起きて来て私の咽喉を締めつけるんですもの、」
 夫は笑ひ出した。
「矢張り体のせいだ、体が悪いと深刻な夢を見るもんだ、」
「夢ぢやないんですよ、本当ですよ、顔を滅茶滅茶に摘ままれたんだから、どうかなつてゐやしない、未だに顔から頸の廻りが痛いんですよ、」
 京子は顔に手をやつて、顔一面を撫でた後ちに、夫に見せるやうにした。
「どうもなるもんかね、なつてゐやしないよ、夢ぢやないか」
「でも本当よ、昨夜の家へ又行つて赤ん坊を抱かうとすると、やられたんですよ、何んだか口惜しいんです、」
「それが、矢張り体の具合さ、」
「でも、夢であんなことがあるんでせうか、今でも口惜しいんですよ、あの奥様をどうかして、赤ん坊を取つて来て、投げつけてやりたいと思つたんですよ、」
「やつぱり体だ、体が好けれや、そんな夢は見ないよ、」

 月の表を霧のやうな雲が飛んで沖の方からは強い風が吹いてゐた。砂丘の小松の枝が音を立ててゐた。落松葉が顔にかかつた。砂丘をおりて小川の板橋を渡らうとすると、向ふから渡つて来た人があつた。京子は草の中へ寄つて向ふから来るのを待つてゐた。村の人らしい帽子を冠らない老人であつた。老人は京子の顔をぢつと見た後に砂丘の方へとあがつて行つた。
 京子は橋を渡つた。京子の心は緊張してゐた。京子はずんずんと船板の門の中へと這入つて行つた。彼はもう壁の額も茶の間も見ずに夫婦の寝室へと這入つた。細君の寝床には赤ん坊ばかりで細君は見えなかつた。
「厠へでも行つてるだらう、宜い所だ、」
 京子はいきなり赤ん坊を抱きあげて寝床の上に坐つた。赤ん坊はすやすやと睡つて覚めなかつた。夫の方のぐうぐうと鳴る寝息が耳に付いた。
「この人質を持つてをれば、女がどんなにしても負けることはない、」
 京子は斯う思つて勝利者の愉快を感じてゐた。
「大変、大変、あなた、早く起きて下さいよ、又彼奴が来てゐるんですよ、」
 入口へ立つた細君が縁側を踏みならすやうにして叫んだ。京子は冷笑を浮べてその顔を見た。
「奥様、今晩は私が勝つたんですよ、人質が此所に居りますから、」
 夫の方も起きあがつた。
「何の恨があつて、あなたはそんなことをなさるんです、」
 細君は口惜しさうに云つた。
「何にも恨は無いんですよ、恨はないが、この赤ん坊が好きだから抱きに来たんですよ、」
 京子は冷笑を浮べて云つた。
「好きでも何んでも、誰に許可を受けて、ここへ這入つて来た、」
 夫は立つて京子の方へやつて来た。
「そんなことは聞く必要がない、赤ん坊を抱かすことはならん此方へ寄越せ、」
 細君も這入つて来た。
「お寄越しなさい、それは私の赤ん坊ですよ、あなたに抱かすことはなりませんよ、」
 京子は子供を抱いたなりで立ちあがつた。
「いくら何んと云つても、この赤ん坊はもう渡しませんよ、」
 夫の手は京子の肩にかかつた。細君の手は赤ん坊にかかつた。
「駄目ですよ、」
 京子は二人の手を払い除けるやうにして茶の間の方へと行つた。夫婦は叫び声をあげて追つて来た。京子は茶の間へ這入つた。茶の間の電燈の下には、細君の縫ひかけた洗ひ張の着物の畳んだ物と、ちいさな栽縫箱とが[#「栽縫箱とが」はママ]あつた。栽縫箱には[#「栽縫箱には」はママ]柄を赤く塗つた花鋏があつた。京子は其鋏を片手に取つて広げながら赤ん坊の首の所へと持つて行つた。夫婦は入口へとやつてきた。
「乱暴するなら、これを斯うするんですよ、」
 細君の悲痛な叫びが聞えた。細君の両手は鋏を持つた京子の手にかかつた。京子の手がそのはずみに働いた。赤ん坊の首が血に染まりながらころりと畳の上に落ちた。

 京子は夫に抱き竦められて寝床の上にゐた。京子は眼をきよときよとさして四辺を見廻した。
「赤ん坊の首なんかがあるもんか、何所にそんなものがある、」
 夫は叱るやうに云つた。京子はそれでも恐ろしさうな眼をして四辺を見てゐた。
「矢張り夢さ、体が悪いからそんな夢を見るんだ、今日は脳病院へ行つて、石川博士に診察して貰はう、体のせゐだよ、」
 京子は稍気が静まつて来た。
「夢でせうか、本当に恐ろしかつたんですよ、」
「夢さ、神経衰弱がひどくなると、つまらん夢を見るもんだよ、」


 学校の休みになるを待ち兼ねて京子の夫は京子を連れて、海岸へとやつて来た。其所は山裾になつた土地で、山の方には温泉もあつた。二人は先づ友人から聞いた海岸の旅館へ行つてその上で貸間を探すことにして、汽車からおりると海岸へと向つたが、その海岸へは俥で行くと十四五町もあるが、歩けば五町にも足りないと云ふので、雇うた俥屋にトランクを担がして、夫婦はちひさなバスケツトを一つづつ持つて歩いた。
 二時を廻つたばかりの所であつた。風の無い蒸し暑い日で松の葉が真つ直ぐに立つてゐた。松原を出はづれて小松の植はつた砂丘をおりと行くと小さな川が流れてゐた。
「何んだか、私こゝは見覚えがあるやうですよ、」
 夫の後から歩いてゐた京子が云つた。
「ちいさい時に、誰かと来たことがあるだらう、」
 夫は心持ち振り返るやうに左の片頬を見せた。
「此所へ来たことは無いんですよ。お父さんもお母さんも、昔気質で、旅行なんかしなかつたから来やしないんですよ、」
「さうかなあ、」
 丘をおりてしまふとちひさな板橋へ来た。板橋の向ふに真砂を敷いた広い路があつた。
「あの路へ出て来るんだね、」
 夫は俥屋に向つて云つた。
「さうです、ずつと廻つてここへ来るんですから、十町以上もありまさア、」
 俥屋はトランクの肩を換へて片手にした手拭で顔の汗を拭いた。夫は橋を渡つて行つた。水の中には短い葦が一面に生えてゐた。路の向ふにはすこし高まつた松林の丘があつて其所に三軒ばかり別荘風の家があつた。
 京子は厭な顔をして橋の向ふのとつつきにある家を見直した。
「あなた、あなた、」
 京子は夫に声をかけた。彼女は橋を渡つて行つた。路の上へあがつた夫は彼の方を向いた。
「何だね、」
「いつかの家ね、この家のやうよ、」
 夫には合点がゆかなかつた。
「家つて何んだね、」
「あの夢の家ですよ、」
 京子の声は震ひを帯びてゐた。夫はその方へ眼をやつた。竹垣を結ふた船板の門の扉が閉まつた家が眼に付いた。夫は笑ひだした。
「そんな馬鹿なことがあるもんか、」
「でも、さうですよ、小松の生えた丘の具合から、この板橋の具合まで、そつくりですよ、だから見覚があると私が云つたんですよ、」
「そんなことは無いさ、無いが、門が閉まつて空家らしいね、空家なら借りたいもんだが、」
 トランクを担いだ車夫がやつて来た。
「俥屋さん、この家は空いてるかね、」
「空いてます、」
「一ヶ月位貸さないだらうか、」
「貸さないことは無いでせうが、この家は、変な家ですよ、先月まで此所にゐた東京者が、赤ん坊を妙な女に締め殺されたつて、借り手が無いんですよ、」
 夫は妙な顔をして京子をちらと見た。京子は真青な顔をしてゐた。
「ぢや、まあ宿屋へ行つてからのことにしよう、縁起の悪い家はいけない、」
 夫は斯う云つて海岸の方へと歩き出した。京子は並ぶやうにして歩いた。二人はもう何も云はなかつた。向ふの方から老人が一人やつて来た。老人は二人にすれ違はうとして京子の顔をぢつと見た。そしてその眼を車夫に移した、車夫とは見知越の顔であつた。二人は立ちながら何か話しだした。
 夫と京子の二人は半町ばかり向ふに歩いてゐた。老人と分れた車夫が早足に追いついて来た。
「旦那、今の男があの家の家主ですよ、」
「さうかね、」
 夫は斯う云つたきりで何んとも云はなかつた。車夫は京子の方へ言葉をかけた。
「奥様は、一度、此方へお出でになつた事がありますか、今の男が、何処かでお見かけしたやうだと云つてをりますよ、」
 京子は返事をしなかつた。
「いや、これは此方は初めてだ、何処か東京へでも来た時に見たんだらう、」

 京子と京子の夫は海岸の旅館の二階に通つてゐた。京子は蒼白い眼をして坐つたなりに俯向いてゐた。
「着物を着換へるが好い、何んでもないよ、お前の夢と、変なこととが暗合したんだ、そんな馬鹿馬鹿しい事があるもんか、」
 京子はそれでも動かなかつた。夫は洋服を宿の寝衣に着換へながら、女中の置いて行つた茶を飲んでゐた。
「着物でも着換へると、気が変るよ、お着換へよ、」
 京子はそれでも返事をしなかつた。番頭が這入つて来た。番頭の手には名刺があつた。
「この方がちよつとお目にかかりたいと申します、」
 夫は手に取つて見た。それは警察の名刺であつた。
「警察か、何の用事だらう、」
 夫は斯う云つて考へた。
「近頃は、もう、警察がどなたにでも会ひに来て、煩さくて困るんですよ、此所へ通しませうか、」
「では通して貰はう、」
「本当にお気の毒でございます、」
 番頭が腰を上げた。
 何か恐ろしい叫び声をしながら京子が立ちあがつた。夫が驚いて腰を浮かした時にはもう彼女は廊下へ出てゐた。そして欄干に片足をかけた。夫は追つて行つて抱き止めた。
「何をする、」
 夫は斯う云ひながら庭の方に眼を向けた。庭の赤松の傍を京子とすこしも変らない女が駈けて行つた。夫は眼を見張つて抱いてゐる京子の顔を見返した。それでも不思議であるから、又庭の方を見た。駈けて行つた女の姿はもう見えなかつた。京子は夫の手を振り放さうとしてもがき狂うた。

 京子の夫の矢島文学士は、翌日恐怖の塊とも云ふやうになつた京子の体を介抱しながら、東京行の汽車の隅に悄然として腰を掛けてゐた。





底本:「伝奇ノ匣6 田中貢太郎日本怪談事典」学研M文庫、学習研究社
   2003(平成15)年10月22日初版発行
底本の親本:「黒雨集」大阪毎日新聞社
   1923(大正12)年10月25日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2009年8月12日作成
2012年5月24日修正
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード