港の妖婦

田中貢太郎




※(ローマ数字1、1-13-21)


 山根謙作やまねけんさくさんみやの停留場を出て海岸のほうへ歩いていた。謙作がこの土地へ足を入れたのは二度目であったが、すこしもかってが判らなかった。それは十四年前、そこの汽船会社にいる先輩を尋ねて、東京から来た時に二週間ばかりいるにはいたが、すぐ支那しなの方へ往ってそのねんまで内地に帰って来なかったので、うっすらした輪廓りんかくが残っているだけであった。
 謙作は台湾で雑貨店をやっていた。汽船会社の先輩の世話で上海シャンハイ航路の汽船の事務員になって、上海へ往く途中で病気になり、その汽船会社と関係のある上海の病院に入院中、福岡県出身の男と知己しりあいになって、いっしょに広東カントンへ往き、それから台湾へわたって、あっちこっちしているうちに、今の店を独力で経営するようになって、細君さいくんも出来、小供も出来て、すこしは金の自由もくようになったので、商用をかたがけて墓参ぼさんに帰って来たところであった。
 空気は冷たかったがしずかけむったように見える日で、かがやきのない夕陽がそのまわりをほっかりと照らしていた。彼は気がいてそのの光にやった眼をすぐそこの建物にやった。青いペンキのげかかった木造の二階建になった長い長い洋館で、下にはたくさんの食糧品を売る店がごたごたと入口を見せていた。なまのままの肉やロースにしたのや、さまざまの獣肉じゅうにく店頭みせさきつるした処には、二人のわかい男がいて庖丁ほうちょうで何かちょきちょきと刻んでいた。そこには三四人の客がいたが、その一人は耳輪みみわをした支那しな人の老婆で、それは孫であろう五つばかりの女の子の手を握っていた。く見ると老婆の右側に並んでいるのも、耳輪をした壮い支那の婦人であった。壮い婦人の右側には白痘痕しろあばたのある労働者のような支那人が立っていた。
 彼はふとここは支那人まちだなと思った。彼はそう思いながらあたりに眼をやった。そこは狭い黒ずんだ街路とおりになっていて、一方にも食糧品を売る店がごたごたと並んで、支那人がおもにそこを往来していた。大きな酒瓶さけびんのような物を並べた店も、野菜を並べた店も、して蛇とも魚とも判らない物や、またいもとも木の根とも判らない物などを並べた店も眼にいた。その店さきのガラス戸や内の鴨居かもいなどには赤い短冊たんざくのような紙片しへんを貼ってあるのが見えた。それは謙作が見慣れている支那街の色彩であった。
 謙作は酒のことを思いだした。そして内地に帰って来て一箇月ばかりの間に飲み馴染なじんでいたなだの酒に、いよいよ別れて往かなくてはならぬと云う軽いのこり惜しさを感じて来た。彼は六時出帆しゅっぱんの船を待つ処をまだはっきりとめていなかったので、すぐどこかで一杯やりながらそれを待とうと思いだした。彼は既に十里手前の町で船室を定め、一切の荷物も積んで、着たままの洋服にとうのステッキ一本と云う身軽な自由な体になっていたので、身のまわりのことにいては気になることはなかった。彼はちょっと左の手をあげて手首にけている時計に眼をやった。時計は三時を過ぎたばかりであった。六時までにはまだ三時間ある、二時間はどこにゆっくりしていてもいと思った。彼はどこか入るにい簡単な処はないかとむこうの方に眼をやった。すぐ右側に赤いポストの立っている処があって、そこから横街よこちょうの入口が見え、そのむこうかどになった処にきいろおおいを垂らした洋食屋らしい店があった。
 洋食ではいけない、なるべくなら日本料理がいが、日本料理はないだろうかと思った。しかし、それは絶対に洋食がいやと云うでもなかった。彼は洋食と云っても魚のフライ位は出来るだろうと思った。彼はもうその洋食屋の前へ往っていた。
 もうすこしさきへ往ってみたら何かあるかも判らないと思った。彼はちょと足を止めて、さきへ往こうか入ろうかと考えたが、ぐずぐずしていて時間がってはつまらないと思いだした。彼は横街の方から洋食屋へ往った。
 りガラスの障子しょうじがすこしひらきかけになっていた。もう夕方のように微暗うすぐらい土間には七つか八つの円いテーブルが置いてあって、それに三人ばかりの客が別れ別れに腰をかけていた。謙作の眼はすぐ入口のテーブルに内の方を向いて腰をかけている、茶のぼろぼろになった洋服を着た日本人とも支那人とも判らないような男の横顔へ往った。右のむこうの隅には濃い髪を束髪そくはつにした女が錦紗きんしゃらしい羽織はおり背後姿うしろすがたを見せて、前向きに腰をかけていたが、その束髪にしたくしの玉が蛇の眼のように暗い中にちろちろと光って見えた。
 好い女がいるな、と謙作は男の何人たれでも思うようなことをちょと思い浮べながら、右側のテーブルへ往ってぼろぼろの洋服の男の横顔の見えるように、白く塗った板壁を背にして腰をかけた。わか女給じょきゅうの一人がひらひらとちょうのようにその前へやって来た。
「召しあがり物は」
 謙作はとうのステッキを右側の壁に立てかけていた。
「魚をいたいが、何か魚のフライでももらおうか、フライは何ができるかね」
たいでもさわらでも、どっちでもできます、お魚軒さしみがお入用いりようなら、お魚軒もとれます」
 謙作は嬉しかった。
「あ、あ、魚軒がとれる、これはありがたい、では、ね、ねえさん、その魚軒とフライをもらおうか」
「承知いたしました、御酒ごしゅも召しあがりまして」
「そうだ、その御酒おさけが第一の目的と云うところだ、これからしばらく飲めないことになるからね、船が出るまでには心遺こころのこりのないように、うんと本場の酒を飲んで置こうと云うところだ、好い奴を持っといで」
 謙作は台湾のに焦げた肉の締った隻頬かたほおわらいをちょと見せた。
「承知いたしました」
 女も口元に笑いを見せてから引返して往った。謙作はい気もちになって衣兜かくしから敷島しきしまの袋を出し、その中から一本抜いて火をけ、それをゆっくりと吸いながら、やるともなしにぼろぼろの洋服の男に眼をやった。
 洋服の男はさかずきを口のふちに持って往ったままで、とろりとした眼をしてなにか考えているふうであった。その洋服の男の前のテーブルにも街路とおりの方を背にして、鳥打帽を筒袖つつそでの店員のようなわかい男がナイフとホークを動かしていた。そこには女給の一人が傍の椅子いすに腰をかけて、その男と何か話していた。
 謙作はふと女のことを思いだしたので右の方に眼をやった。女の束髪のくしからはやはり蛇の眼のようなちろちろした光が見えていたが、何か物を飲んでいるのかすこし体をそらして、右の手をちょと曲げていた。
「お待ちどおさま」
 はじめの女給が銚子ちょうしと盃を持って来て、もう盃を出していた。
「や、ありがとう」
 謙作は煙草たばこの吸いさしを前の灰皿の中へ入れてから盃を持って女にしゃくをしてもらった。
「すこしおぬるいかも知れません、お温ければなおします、如何いかがでございます」
 かんは飲みかげんであった。
「けっこう、けっこう」
「では、すぐお料理を持ってまいります」
 女は銚子を置いてくるりと背後うしろ向きになった。
「おい、酒だ」
 洋服の男が右の指端ゆびさきでテーブルの上を軽くたたいた。謙作のテーブルから離れて往きかけた女が足を止めた。
「まだおあがりになります」
 それは愛嬌あいきょうのない聞く者をして反感を起させることばであった。と、洋服の男のテーブルがどんと鳴った。
「おい、なにがまだだい、ねえさん、ばかにしちゃいかんよ、俺はお前さんのおしきせを飲んでるのじゃないよ、が、まあ、い、黙って酒を持って来た」
 女は洋服の男の権幕に驚いたのかそのままむこうへ往った。
「あのたまがあってみろ」
 洋服の男は独りでこんなことを云ってから、またテーブルの上を叩いて思いを遠くの方へせるようにしたが、その拍子に隻方かたほう赤濁あかにごりのした眼がちらと見えた。謙作は玉とはなんのことだろうと思って、考えてみたがさっぱり見当がつかなかった。
「お待ちどうさま」
 女が魚軒さしみの皿とフライの皿をげて来ていた。
「あ、これは宜い、後をすぐけておくれ、すこし時間があって、ね、船に乗るところだからね」
「どちらへいらっしゃいます」
「台湾へ帰るところだよ」
「おや、台湾へ、それは大変でございますのね」
「あ、あ、ちょとみちが遠くってね」
 謙作は魚軒さしみに添えた割箸わりばしを裂いて、ツマの山葵わさびを醤油の中へ入れた。
「台湾はいな、台湾にいたのですか」
 それは洋服の男がじぶんの方へ向って云ったことばであった。謙作は箸を控えて顔をあげた。洋服の男は赧黒あかぐろい細長い顔をこっちへ向けていた。
「そうです、もう十年あまり、むこうで商売をやってるのです」
基隆きいるんですか、台中たいちゅうですか」
「台中です」
「そうですか、台湾は暢気のんきで宜いのですなあ、私も台湾にすこしいたことがあるのです、私はシンガポールにも、バタビヤにも、広東にも、マニラにも、上海にも、南京ナンキンにも、東洋の名高い港と云う港は渡り歩いてるのですがね」
「そうですか、私も上海と広東へは、ちょと往ったことがあります、何か御商売でも」と謙作は云ったものの、その男の風体なりから押して漂泊癖ひょうはくへきのある下級船員ののんだくれであろうと思った。
「なに風来坊ですがね、すこし探しているものがあるのですが、ね、しかし、もうだめです」
 洋服の男はどろんとした手でまたテーブルの上をどんと打った。
「なんです、何か旨いもうけ口ですか」
 謙作はそう云って魚軒を口にしながらその後でさかずきを持った。
「そんなものじゃないのです、石です、へんな石ですがね」
 謙作はふと洋服の男がさっきあの玉があってみろと云ったことを思いだして好奇心を動かした。
「そうですか」
 そこへ女があとの銚子を持って来た。謙作は洋服の男がさきに酒を注文したことを思いだしたので、ちょと指を洋服の男の方へ差した。
「このお客さんが早かった、まあ、さきへあげておくれ、後で好い」
 女はちょとへんな顔をしたが、そのまま黙って洋服の男の方へそれを持って往った。
ねえさん、まあ、おこるなよ、お客さんの好意じゃ、俺にくれ」
 洋服の男はあざけるような笑いかたをして、女の置いた銚子をすぐってさかずきいだ。
「石ってなんです、宝石かなんかですか」
 謙作は深入りしてはいけないと云う用心を一方に持ちながらいてみた。洋服の男はなんと思ったのか、口のふちにやっていた盃を急いでぐっと飲んで、下に置くなりって来て、謙作の前の椅子を引寄せた。
「あなたに一つお話しましょう、すこし、へんな話しですが、聞いてくれるのですか」
 そう云って洋服の男は腰をおろした。謙作はうるさい話になっては困るなと思ったが、断るわけにもゆかないのでしかたなしに盃をだした。
「一つあげましょう」
 洋服の男は隻手かたてでそれをさえぎるようにした。
「いや、それはいただきません、そう云うことは煩さいことですから、いただきません、あなたはかまわずに飲んでください、私も飲みたくなったら、じぶんで執って来て飲みます」
「そうですか、では、あげますまいか」
「そうしてください、そうしていただくと私も自由でいのです」
「では、どうぞ御自由に」
 謙作はそのさかずきに己で酒をいで飲みながら洋服の男の云いだす話を待っていた。
「それじゃ、これからお話しますがね、すこしへんな話ですよ、アインスタインだの、なんだのと云う今の世の中に、ちょっと変った話ですからね」
「まあ、まあ話してください」
「では話しますが、ね、私の生れた処は申しますまい、私は支那におれば、支那のことばつかいます、ジャワにおれば、ジャワの詞をつかいます、私がどこの者であるかは、あなたの推測にまかせますが、私の家はその土地でも有数な富豪かねもちで、父には七人のめかけがあったのです、私は他の兄弟もないひとのことでしたから、非常に父からも母からも可愛がられていたのです、教育もフランス人とイタリヤ人の二人の教師を家へ呼んで、それからひととおりのことを教わったのですが、私には、みょうにを好む性癖がありまして、今でしたら飛行機にも乗ったでしょう、珍らしい遊戯とか、興業物こうぎょうものとかがあると、金にあかしてそれを教わったものです、その結果、私は印度インドから来た女奇術師の一座をしばらく別荘へ置いて、それからいろいろな奇術を教わったのです、石を投げると、それがはとになって飛んだり、ステッキを地べたへ置くと、それが蛇になってったり、帽子の中から犬を出したり、皆、ちゃんと仕掛けがあって、教わってみればつまらないものですが、見ている者が感心するので、それがばかに面白くって、時どき裏庭へ隣の人や朋友ともだちを入れて、それに見せてやったのです、そうです、ね、そのとき、私は十七でしたよ、お話の眼目がんもくはこれからですが、どうか、さあ、私にかまわずに、あなたは飲んでください」
 洋服の男はそう云って思いだしたように双手りょうて兜衣かくしに入れた。
「ああ」
 謙作はうなずいてみせた。洋服の男は一本の葉巻とマッチをだして、面倒くさそうに火をけた。
「事件はこれからですが、ね、ある日、それは夏でしたね、私の裏庭には、一本の大きななつめの木があって、それに棗の実がいっぱいにみのっていたのです。私はその棗の木の下へ仕掛けのある箱を置いて、二つ三つ得意の奇術をやり、それから石を投げてはとにして飛ばしたところで、
(ふうう)
 とさもおかしくてたまらないと云うようなあざけり笑いをする者もあるのです、私はしからん奴だと思って、見ると赤い帽子をた、顎髯あごひげの白い、それもまばらにえた老人が笑ってるのです、私は後のことばによっては、なぐり倒してやろうと思って、その顔をにらみつめると、
(若旦那、そんな小供のするような奇術は駄目ですよ、私の奇術を見せましょうか)
 と云うのじゃないですか、私は腹が立つし、種も仕掛けもない手ぶらの老人が、気の利いたことができるものか、何かやらして、気の利いたことができなかったら、おおいにとっちめてやろうと思ったので、
(そうか、では、やってもらおう、お前さんは、どんなことができるのだ)
 と云うと、老人はにやにや笑って、
(若旦那、私にはなんでもできますよ、私は若旦那をさるにしろとおっしゃれば、ほんとうに猿にしてみせますよ、しかし、まあ、それよりも、一ばん早いところをお眼にかけましょう、若旦那、その大きななつめの木を枯らしてみましょうか)
 と云うのです、いくら奇術がうまいからと云って、立木たちきが枯らされるものでない、私は老人がでたらめを云って、私を笑わせて銭でももらおうとしているのだな、と思ったので、ますます腹が立って、
(よけいなことを云わずに、この棗の木が枯らされるなら、枯らしてもらおう)
 と云いますと、老人は十字架をかけたように首にかけていたプラチナの鎖をはずして、その鎖に附けてあった小さな袋を出し、それを右の手のてのひらに握ってから、
(それ、すぐ枯れますよ)
 と云って、その手を上にあげて棗の木をのろうとでも云うようにすると、どうでしょう、今まで青あおしていた棗の葉が急にしおれて来て、棗の実がぼろぼろと落ちるのじゃありませんか、私はびっくりして驚くと云うよりも恐ろしくなったのです、すると老人は、
(どうです若旦那、私の云うことに嘘はないでしょう)
 とすまして云うのです、
(私が疑ったがわるいのです、どうか許してください)
 私はしかたなしに老人にあやまったのです、すると老人は、
(若旦那が判ってくだされるなら、この木を枯らすも可哀そうですから、かしましょう)
 と云って、この手を横に二三度動かすと、今まで落ちていたなつめの実が落ちやんで、しおれていた葉がみるみる青あおとなるのじゃありませんか、私は老人を神様のように思って、奇術の箱などは、もう打っちゃらかしといて、老人を上へあげて、父も母も呼んで来て引き合せたうえで、おおい饗応ごちそうをして、その日から老人にいてもらおうと思って、老人にそのことを云ってみると、老人は、
(若旦那の御親切はありがたいのですが、私は家族をれておりますから、一人こちらで御厄介になることはできません)
 と云うから、その家族も伴れて来ていっしょにおれと云っても、
(いや、また御厄介になります、私の法術は若旦那のお気に入ったように思われますから、そのうちにお教えします、しかし、これは手品と違って、不思議な術ですから、はらが出来ないとお教えしても駄目だめです、そのうちに若旦那に腹が出来たなら、何時いつでもお教えします、これからちょいちょい遊びにあがります)
 と云って、いくら止めても帰って往くのです、居処いどころを聞いてもそのうちに知れると云って云わないものですから、私は老人をますますえらい異人だと思うようになったのです、それから老人は、二日き、三日隔きに、どこからともなしに飄然ひょうぜんとやって来ては、石をかえるにしたり、壁へ女の姿を現わしたりして見せて、そのあと饗応ごちそうって帰って往ったのですが、それから一箇月ばかりすると、私の家に大きな不幸が起ったのです、午後の茶を飲んでいた父が、病気でもなんでもないのに、そのまま倒れて亡くなったのです、私の家は他に近い親類もないので、母が雇人やといにんを指揮して、やっと葬式とむらいをすましたところで、父が亡くなってから十日目の朝になって、その母がまた宵に寝たままで亡くなっているのです、これは後で判ったのですが、そんなことを知らない私は、もう力にする者はその老人一人だと思いまして、母の亡くなった後のあとしまつは、一いち老人に相談したものです、それでも老人は、私の家にとまるようなことはしなかったのです、すると、ある日のこと、老人がわかい可愛らしい女を伴れて来たのです、それが老人のむすめです、そのむすめは三度老人にれられて来て、三度目に私の家に泊ることになったのですが、私とむすめとの間は、その晩からもう他人でなくなったのです、しかし、これは恐ろしいわなだったのです、父も母もその妖賊ようぞくの手に死に、私もその手に死のうとしていたのです、私は翌日、そのむすめが帰ると云うので、送って往ったのですが、むすめの家は入江の水際みずぎわに繋いである怪しい舟です、私はそのまま舟の一室へめられるように入れられたのです、もしいて帰ろうとしたなら、むすめの姉の使うけんと、老人の毒手どくしゅが待っているのです、むすめの姉は跛の醜い女でしたが、七本の短剣を使うのです、あとから後から空に投げあげるさまが、魔神の手がそれを手伝うように思われたのです、私が往った時、老人はその姉女あねむすめを呼んで、饗応ごちそうだと云って剣を使わせたのですが、それは私に死の命令をしたものです、しかし、むすめは私をかばってくれたのです、何も知らない私は、老人がどうしても帰さないので、しかたなしに泊って、夜中ごろに一度目を覚ましてみると、次のへやむすめが姉と激しく云い争っているのです、
(あまり可哀かわいそうじゃありませんか、私はいやです、あの方は、私に免じて助けてやってください)
 その声の後から姉のことばがするのです、
(あんな男にふざけやがって、ばか、お前が厭なら、私がやるよ)
 私はその殺されようとしていたのです、私は歯の根もあわずにふるえてると、となりの声はすぐ聞えなくなって、ひっそりとなったのです、私は私に好意を持っているむすめがどうかして助けてくれるとい、もし金で往くことなら、自家うちの財産を皆投げ出しても宜いから、それをむすめに話して、助けてもらおうと思っていると、の明け方になって、そっとむすめが入って来て、黙って私の手に鎖の附いた小さな袋のような物を握らして、
(これは私の父の持っている靺鞨まっかつたまです、もし、危険なことがあれば、これをってくだされば宜いのです、これさえあれば、何事でも思うとおりになります、これを持っとれば、もう父も姉も、あなたに害を加えることはできないのです、帰ってください、もう、これっきりお目にかかりません)
 と、云ってから、むすめは泣きだしたのです、私は心に余裕があれば、何か云ってやったのですが、まだ恐ろしさがかないものですから、そのまま急いで戸を開けてみよしに出たのです、気がくと老人のうなるような怒る声が聞えていたのです、もう黎明よあけで東のほうが白くなっているのです、私はそれから家に帰ったのですが、むすめのことが気になるし、老人のこともうすきみがわるいので、五六人のわかい男に銃を持たして、入江の岸へ往ってみると、逃げたのか舟はもういなくなっていたのです、私はそれでもむすめのことが気になるので、そののちも人を頼んで詮議をさせたのですが、とうとう判らなかったのです、その玉は木の葉の形をした瑠璃紺るりこんの石です、その玉を手に入れた私は何をしたのでしょう、私には金がたくさんあったので、強盗の真似まねをする必要はなかったのです、私はそれを女に用いたのです、私は知事の奥さんとも、公使の奥さんとも、市長の姉女あねむすめとも、歌妓げいしゃとも、女優とも関係したのです、そして、それが世間の問題になりかけた時、マニラ生れの日本人だと云う歌劇の一座が来たのです、私は性懲しょうこりもなくまたその座頭ざがしらだと云う女優に眼をつけて、それに関係をつけたのですが、その女優のために、その玉を盗まれてしまったのです、私は世間の攻撃がうるさいし、その玉がおしいので、一切の財産を金にして、それから十年あまり……」
 洋服の男がそれまで云いかけたところで軽いゴムうらの音がした。謙作はふと顔をあげた。前の隅のテーブルにいた女が帰りかけているところであった。長手ながてな重みのある、そしてどこかなまめかしいところのある顔を見せて、洋服の男の背後うしろの方から出ようとするふうで、長い青っぽい襟巻えりまきの襟をき合せていた。謙作は背後姿うしろすがたかったが、い女だなと思ってちょっとその容貌きりょうに引きつけられた。と、洋服の男が顔をあげた。洋服の男は女の顔を見ると驚いたような眼をして、じっと眼を見据みすえるようにしたが、いきなり飛びあがるようにちあがった。
「おい、天華てんかじゃないか」
 謙作は夢から覚めたように洋服の顔と女の顔を見くらべた。女は冷然とした顔をしていた。
「うむ、天華じゃ、天華」
 洋服の男は女の肩のあたりに手をやろうとして、体の向きを変えて背後向うしろむきになった。女は見向みむきもせずにその前をつかつかと通ろうとした。
「待て」
 洋服の男の手は女の左の肩のあたりに往った。
「なにをなさるのです、失礼な」
 女の強い声とともにどうしたのか洋服の男は、土間の上に仰向あおむけに倒れてしまった。と、ガラス戸がいて女の姿は外へ出てしまった。
「この盗人ぬすっと
 洋服の男は跳ね起きるなり女の締めかけにしてあったガラス戸を開けて走りでた。
「もし、もし」
 謙作と洋服の男のテーブルを受持っていた女給じょきゅうは、急いで洋服の男のあとから追って往った。謙作はもしかすると今の女が、あの男の玉を盗んだと云う女優ではあるまいかと思った。しかし、それにしてもあまり現実にかけ離れている荒唐無稽こうとうむけいに近い話であるから、その話と今の女をいっしょにすることはできなかった。謙作はふとあれは狂人きちがいではあるまいかと思った。
 もう時間はどうだろう、謙作はふと時間のことが気になった。彼は急いで手首の時計に眼をやった。時間は四時十分になっていた。
 まだ二時間はあるが、ぐずぐずしていては、またどんなかかりあいが出来るかも判らない、いっそ船へ往って船で飲もうと思いだした。謙作は勘定かんじょうをして出ようと思って顔をあげた。朋輩ほうばいの出て往ったのを気にしていた、三人の女給が、いたガラス戸のがわに立って外の方を見ていた。
「おい、ねえさん」
 謙作が右の指節ゆびふしで軽くテーブルの上に音をさすと、一人の女がすぐ来た。
「勘定をしてもらいたい、いくらかね」
 女は皿と銚子を眼で読んでいたがすぐを云った。それは二円と少しのものであった。謙作は小銭を三円出した。
「後はさっきの姐さんにやって貰おう」
 謙作は女が金を持って往くのを見て煙草を出し、それにマッチの火をけて、一吸いっぷくしてから腰をあげた。
「大変よ、大変よ」
 おびえたような声をしながら出て往っていた女が、ガラス戸の処に姿を見せた。
「どうしたの、どうしたの」
「どうしたって、大変よ、今のお客さんが、じぶんで首を突いたのよ、私、もうどうしようかと思ったわ」
 謙作は煙草をとり落した。
「あの横町よこちょう水菓子屋みずがしやの前まで走ってって、いきなり短刀を出して首を突いたのですよ、おっそろしい」
「どうしたと云うのでしょう、あの女のかたを追っかけて往ったのじゃないこと」
「そうなのよ、でも女の方は見えなかったわ」
「いったいどうしたと云うのでしょう、狂人きちがいでしょうか」
「まあ狂人きちがいだ、わ、よ、女の方に怨みがあるなら、女の方を殺したら好いじゃないの」
 謙作もそのことばを聞くとあの男はたしかにどうかしていたのだ、だからあんなことを云ったのだと思った。そして、己が今その男の対手あいてになっていたことを思いだして、係りあいになって出発が出来ないようなことがあっては大変だと思いだした。
「そいつはえらいことになったものだ」
 謙作はすこしも心にかけていないようなことを云い云い女の傍を通って外へ出たが、横街よこちょうのほうは見ずにそのまま初めの街路みちを逃げるように歩いて往った。

※(ローマ数字2、1-13-22)


 何時いつの間にか電燈がいていた。謙作は洋食屋を出る時の物に追われているような気もちは改まって、ゆっくりした足どりになって微暗うすぐら黄昏ゆうぐれ街路まちを歩いていた。
 天気が変ったのかんもりした空気が酒のあるほおにそそりと触れて暖かった。彼の頭には自殺したと云う怪しい洋服の男の印象が残っていたが、それは何年も昔のことのようなまたちがった世界の出来事のような気がしていた。
 ふと煙草のことを思いだした。彼はちょと立ち止まってステッキを左脇ひだりわきはさみ、衣兜かくしに入れた煙草の袋から一本抜いて口にくわえ、それからマッチをだして火を点けながら燃えさしのマッチの棒を地べたに捨て、ひと吸いしてから歩こうと思って、顔をあげて右側につらつらと眼をやった。
 そこには電燈の明るい洋館の二階があって、その窓から長手ながてな顔の女が胸から上を見せていた。女の顔はにっと笑った。謙作はその女の顔に見覚えがあるようであったからじっと眼をめて見た。それは今のさき洋食屋にいた女であった。謙作は怪しい洋服の男が口にした天華てんかと云う名をちょと思いだした。女は頭をさげて見せた。
「今、失礼いたしました、ちとお立ち寄りくださいまし、お茶でもさしあげましょう」
 謙作は時間のことは心配しなかったが、女の素性すじょうが判らないうえに、一度位それも洋食屋などで顔を合せた位の人の内へ慣れなれしく入って往くのも気がとがめるし、またわかい女があまり慣れなれしくするのもうす鬼魅きみがわるいので躊躇ちゅうちょした。
「おあがりくださいまし、よ、他に何人たれも御遠慮なさる者はいませんから」
 謙作はふと考えた。この女の物ごし風体ふうていはどうしても良家りょうかの子女じゃない、女優のあがりか歌妓げいしゃのあがりである、それに一人でおると云うのは、旅にでも来ているのか、それともと考えて、金のある男を待っているある種の女の群に思った。彼は船にはまだ時間があると思った。
「さあ、どうぞ」
「では、ちょっと失礼しましょうか」
 謙作は煙草のみさしを捨てて入口の方へ注意した。門燈もんとうのぼんやりとともっている入口のガラス戸がすぐ見えた。
「そこの入口を入って、右側の階段をおあがりくださいまし、四つ目のへやでございます」
 謙作はちょと女の顔を見てから入口の方へ歩いて往った。そこにはりガラスのようにほこりの白く附着したガラス戸が彼の来るのを待っているように、ハンドルがはずれて口を細目にけていた。彼はそのガラス戸を軽い気もちでけた。
 見附みつけに受附のような出っぱった室の窓ガラスが見えて、中に肥ったほおペタのあかい老婆が鼻眼鏡のような黒いひもの附いた玉の大きな眼鏡をかけて、横向になって表紙の赤茶けた欧文の小本こほんのぞいていた。その室の右にも左にも微暗うすくらいたがあって、そのさき梯子はしごの階段が見えていた。謙作は右の板の間のはしについた棕櫚しゅろの毛の泥拭どろぬぐいで靴の泥を念入りに拭ってからゆっくりと階段をあがって往った。
 彼はそうして白い煉瓦れんがの階段を一段一段あがりながら、うっかり女の誘惑に乗ると帰りの旅費まで無くする恐れがあるので、めんどうと見たなら茶代ちゃだいに相当する物を置いてさっさと逃げだそうと思った。彼はそうしてい考えの浮んで来るじぶんの頭に、こころよい満足を感じながら二階の廊下に出た。
 微暗うすくら窟穴ほらあなのような廊下のさき一処ひとところ扉がいていて、内から射した明るいが扉を背で押すようにして立っている者を照らしているところがあった。謙作はそれがあの女であろうと思ったので、その方へ歩いて往った。それはたしかにの女であった。
「ようこそ」
「失礼します」
 謙作は曖昧な返事をしながらちょと頭をさげるようにした。
「ひどい処でございますわ、さあどうぞ」
「失礼」
 謙作は中へ入った。雲母きららのようにぎらぎら光る衝立ついたてが立っているので、それを左によけて通った。そこはへやの中程にかくなテーブルをえて、薔薇ばらのような花の咲いたはちをのっけ、そのまわりに真紅まっか天鵞絨びろうどを張った椅子いすや安楽椅子を置いてあった。窓のほうには緑色のカーテンが垂れていた。その窓の下にも真紅な天鵞絨を張った寝椅子ねいすをはじめ種種いろいろの椅子が※(「女+朱」、第3水準1-15-80)きれいに置いてあった。
 謙作はそれを見ると外套がいとうを脱がなくてはすまないように思った。彼は帽子掛けはあるまいかと思って左の方に注意した。三段になった小さな棚がそこにあった。彼はその傍へ往って下の段にステッキと帽子を置き、それから外套を脱ぎかけた。ふわりとした暖かい手が背後うしろにあった。
「おとりいたしましょう」
 外套はそのままするりと脱がされてしまった。謙作はきまりがわるかった。
「これはどうも」
「では、どうかおかけくださいまし」
 女はそう云い云い外套をたたんで二つに折って棚の上に置いた。謙作はテーブルの方に往きながら手首の時計に眼をやった。時計は四時四十分になっていた。
「私は、すぐおいとまします、船に乗ることになってますから」
「それでも、まあ、すこしお話しくださいまし」
 女はもう傍へ来ていて廻転かいてん椅子の口をこっちに向けて勧めた。謙作はそれに腰をかけて鉢の微白ほのじろい花に眼をやった。
「さっきは失礼いたしました、私はひとりこうやっておりますものですから、淋しくなると、つい独りであんな処へ出かけてまいりますの、でもさっきは、変な男に係り合って、びっくりいたしましたわ、どうしたと云うのでしょう、私に天華とかなんとか云いましたの、ね」
 女は右横の椅子に腰をかけていた。
「そうですよ、ありゃ狂人きちがいですよ、あれからえらいことがありましたよ、あなたは御存じないのでしょう」
「ちっとも存じません、私を追いかけて来るようでしたから、変なろじを抜けて逃げてまいりましたわ、何かありまして」
「あなたのあとから、追っかけるようにして出て、あのさき咽喉のどを突いて死んだと云うのですよ、私は見なかったが、じょちゅうあとから往って、見て来ての話でしたよ、どうも狂人きちがいですね」
「ま、咽喉を突いて、どうしたと云うのでしょう、可哀そうでございますの、ね」
「可哀そうですよ、私のテーブルへ来て靺鞨まっかつたまと云うのを人に盗まれたから、それを探して、東洋の港から港をさまようていると云ったのですよ、へんな夢のようなことを云ってましたから、どうしても狂人きちがいですね」
「そうでしょうか、それにしても、可哀そうじゃございませんか、どこのかたでしょう」
「さあ、どうも支那人らしいです、ね」
「そうでございましょうか」
 謙作はこの時、この女は思ったような女でないと思って軽い失望を感じた。彼はすぐ切りあげようと思って衣兜かくしから煙草をだした。
「今、何か持ってまいりますから、どうぞ御ゆっくり、ひとりで淋しくって淋しくって困ってるところでございますから」
 女は隻手かたてをテーブルにかけてすがるようにしていた体を起して、鉢の陰からマッチをって出した。謙作はその火に煙草をだした。
「すみません、お茶を一ついただいて帰りましょう、六時の船に乗ることになってますから」
「でも、すこしはおよろしゅうございましょう」
 その途端とたんに扉のきしる音がして入った者があった。それは白い前垂まえだれをしたわかい女が盆の上に瓢箪ひょうたんの形をした陶品せともののビンを載せ、それに小さなあしの長いコップをえて持って来たところであった。
「ここへ持ってらっしゃい」
 白い前垂の女は島田しまだうていた。彼女はその盆をテーブルの隅へ置いてからお辞儀じぎをして出て往った。
「つまらんものがありますから、さしあげましょう、そのうちに何か出来ましょうから」
 女はビンを持ってそれをコップにいで謙作の前へだした。謙作はここでぐずぐずしていては船に遅れるから、一ぱい飲んだらすぐ帰ろうと思った。
「それでは折角せっかくですから、一ぱいいただきましょう」
 謙作はちょとお辞儀をして、煙草を前の灰皿に置いて微青うすあおく見えるその液体を口にした。それはウイスキーの薄いような味の物であった。と、その液体の匂いであろうかそれとも鉢の花の匂いであろうか、こころよ牛蒡ごぼうにおいのような匂が脳にとおるように感じた。
如何いかがでございます、お口にあいまして」
 謙作はふた口にそれを飲んでしまってコップを置いた。
「たいへんうまい物ですね、……では、遅くなりますから、これで失礼いたします」
 謙作はそう云って体を起そうとした。やわらかな女の足端あしさきがその右の足首にふわりとさわっていた。謙作はその足をのけるのが惜しいように思われた。謙作はそうして鉢の花に眼をやった。今まで微白ほのじろいように見えていた花はあざやか真紅しんくの色に染まっていた。彼は驚いて女の顔を見た。女の濃艶のうえん長目ながめな顔が浮きあがったようになっていた。
「およろしければ、二三ばいつづけておあがりくださいまし、い気もちになりますから」
 女はビンを持って二度目のしゃくをした。それと同時に女の二つの足端あしさきが右の足首にからまるのを感じた。謙作はまぶしそうに眼を伏せた。
「お婆さんのお酌で、お気のどくですけれど」
 謙作は隻頬かたほおで笑ってコップを持った。
「私もいただきますわ」
 謙作がその方を見た時には、女はもうコップを赤く火照ほてった口元に持って往ってなまめかしいえみを見せていた。謙作のまわりにははなやかなかがやかしい世界が広がっていた。
「あなたの名はなんと云うのです」
「わたし名なんかありませんわ、そうですわ、ね、天華とでもして置きましょうか」
 謙作はテーブルのはしにやったじぶんの右の手に暖かな手のなまなましく触れたのを感じた。彼はもどかしそうにその手を握ったのであった。

※(ローマ数字3、1-13-23)


 謙作は呼苦いきぐるしい眠りから覚めた。それは花園かえんの中を孔雀くじゃくか何かのようにして遊び狂うていた鳥のつばさが急にばらばらと落たような気もちであった。彼は二三度大きくいきをしてから眼を開けた。白い暖かな裸の体が草色の羽蒲団はねぶとんおおわれていた。
 謙作はびっくりした。それと同時に奇怪な詩のような印象が頭によみがえって来た。しらじらと明け離れた朝の光がその印象のすきからして来るように感じた。彼は船に乗り遅れたことを思いだした。
「これは」
 謙作は腹這はらばいになった。彼はひどく後悔した。昨日きのうの船に乗って帰ると云う電報を打ったことを思いだした。彼はこの瞬間、八つになる女の子と五つになる男の子がじぶんを待って母親と噂をしているさま眼前めさきに浮べた。彼はたまらなく苦しかった。彼は寝てはいられなかった。彼はいきなりきようとして、己も裸になっているのに気がいた。
「まだお早いですよ、もすこし休んでいらっしゃい」
 女はうす目を開けていた。謙作はじっとしてはいられなかった。
「いや、こうしてはいられない、洋服はどこにあるのでしょう」
 ねだい枕元まくらもとの台の上に乱れ箱に入れて洋服やシャツが入れてあるのが見えた。彼はすらりと羽蒲団を横にけだして下におりた。
「今から何をなさるのですよ」
「これから汽船会社へ往って来るのです」
 謙作はシャツを着ながら云った。
「だって船はないのでしょ」
 女はすまして云った。謙作はそれがいまいましかった。
「今日はないが、三日目にありますからね、ちょと往って来るのです」
「そう」
 女は冷笑を含んだように云った。謙作はこせこせとワイシャツを着、ズボンをけ、靴もあるので靴も穿き、それから上衣うわぎに手をしながら見ると、時計も紙入かみいれもちゃんと箱の中に入れてあった。彼はふと金がどうかなっていはしないかと思ったが、そこでしらべることも出来ないので、それを上衣の内兜うちかくしに入れ、時計を手首に着けた。
「そんなにせかせかしたって、会社なんかが見つかるものですか」
 女はもとの枕で寝ていた。
「なに、海岸通りへ往ったらありますよ、ちょと往って来ます」
「御飯は」
「どこかでいましょう」
「そう」
 謙作は入口と思われる方へ往ってそこの扉を開けた。そこは宵に見たままのへやであった。彼はその室を横切って衝立ついたての立っている方へ往った。そこの右側の棚には外套がいとうも帽子もステッキも宵に置いたままであった。彼はそれを持って急いで外へ出た。
 廊下は明かるかった。謙作は廊下へ出ると内兜うちかくしに手をやって紙入を出してみた。金にはすこしも異状がなかった。彼は幾等いくらか女に置いて往かなくてはならないと思ったが、なんだかばかばかしくもあった。彼はそのまま階段をおりた。
 戸外そとへ出ようとして扉に手をかけた時、ふ、ふ、ふと笑うような声がした。り返って見ると、見附みつけの窓の中に宵のままの老婆が大きな眼鏡めがねを見せていた。謙作は気もちがわるいので、くは見もしないで戸外そとへ出た。
 朝陽あさひがむこう側の屋根瓦を寒く染めていた。労働者が群をして狭い街路まちを往来していた。謙作は海岸の方角が判らなくなっていた。彼は人にこうと思った。
「しょうしょううかがいます、海岸の方へ往くには、どう往ったらいでしょう」
 三人づれの道具箱を肩にした大工の一人を見つけて訊いてみた。
「俺達も海岸へ往くところだが、海岸はどこかね」
「台湾航路の汽船の会社のある処ですがね」
「それじゃすぐだ、俺達にいて来るが宜い」
 謙作は三人のあとから跟いて往った。狭い街路とおりから電車通りへ出て、線路を横切ってむこうの広い街路とおりへ入ったところで、三人の大工はどっかへ往ってしまった。
「しょうしょう伺います、海岸の、台湾航路の汽船会社のある方へは、どう往ったら宜いのでしょう」
 謙作は海員のようなマドロスパイプをくわえて来た男に訊いた。
「それは、この横町よこちょうを往って、それから三つ目の街路とおりを、右へ折れてけば宜い」
 マドロスパイプはすぐ左の方に折れている横町に指をさした。謙作はその方へ歩いて往った。そして、三つ目の街路とおりを見つけて、それを右へ折れて往ったが、海岸へも来なければ会社らしい建物も見つからなかった。
「海岸はまだでしょうか」
 謙作は鰌汁どじょうじるの荷をおろしている老人にいた。
「ここはやまじゃ、有馬ありまの温泉ならそう往っても好いが、海岸はあべこべだよ」
 老人はもと来た方へ指をさした。謙作はしかたなしにとぼとぼと引返した。そして、歩いているうちにみちが判らなくなった。
「海岸はどう往ったらいでしょう」
「これから、右の方へ往ったら宜いが、よっぽどありますよ」
 謙作はまたその方へ往った。しかし、依然として海岸は来なかった。
「このあたりに食事をする処はないでしょうか、どこでも宜いのですが」
 謙作は空腹のことから旅館やどやへ入って、旅館やどやから電話をかけるなら宜いと思いだした。彼は旅館やどやを尋ねて往った。
旅館やどやならこのさきにあるよ」
 謙作は教えられた方へ往ったが、旅館やどやは見つからなかった。
 謙作はへとへとになって黄昏ゆうぐれ街路とおりを歩いていた。
「まあ、今まで何をしていらしたのです、奥様がどんなにお待ちしているか判りませんわ」
 謙作は不思議に思ってその方を見た。そこには洋館の入口の扉を半ば開けて島田髷しまだまげの女が半身はんしんあらわしていた。それは昨夜ゆうべ飲み物をはこんで来た女であった。謙作は昨夜ゆうべの家の前に帰っていることに気がいた。
「あ、君か」
 謙作はしかたがないので二階へあがって往った。へやの中はもういていた。の女は室の中のテーブルに寄りかかって、彼の入って来るのを笑って見ていた。
「汽船会社へいらしって」
 謙作は判らなかったとは云えないので、曖昧あいまいな返事をしながらその前へ往った。
「お疲れになったのでしょう、おかけなさいまし、おなかも空いたのでしょう、すぐ何か持ってまいります」
 女は始終笑顔をしていたが、なんだか皮肉に見えるところがあった。謙作は煙草を飲もうと思って衣兜かくしに手をやった。煙草は無くなって内には敷島しきしまの袋ばかり残っていた。彼はしかたなしにじっとしていた。
「今まで会社にいらしったのですか」
「いや、そうでもないのです、あっちこっち歩いていたのですから」
 謙作はその日のことが奇怪でたまらなかった。彼は海岸も旅館やどやも見つからないと云うのは、じぶんがどうかしているためかも判らないと思った。彼は恐ろしかった。
 島田髷の女が広蓋ひろぶたに入れて料理をはこんで来てテーブルの前に置いた。
「私はとうにいただきましたから、あなたがあがってくださいまし」
 謙作は空腹ひもじいのですぐはしを持った。それはパンまで添えた洋食であった。
昨夜ゆうべのお酒をおあがりなさいまし、気がせいせいしますわ」
 陶品せともののビンからいだ飲み物が女の手から渡された。謙作ははしを置いてそれを口にした。と、謙作の前にははなやかな世界が来た。
 朝になった。謙作は昨日きのうと同じ状態のもとに体を置いていた。謙作は今日こそ車に乗って会社に往こうと思った。彼はまた起きて洋服を着た。
「またどこへいらっしゃるのです」
 女は寝たままであった。
「ちょっと往って来る」
「そんなつまらないことはおよしなさいましよ」
 謙作はそれでも出かけて往った。老婆の、ふ、ふ、ふと云うような笑声があざけるように聞えた。外へ出たところで空車あきぐるまが来た。彼はまずその事で旅館やどやへ往って朝の食事をしてから会社へ往こうと思った。
「どこか海岸通りの旅館やどやへ伴れて往け」
 車は謙作をんで走りだした。街路とおりから街路とおりを休みなしに往ったが、旅館やどやがないのかちっとも止まらなかった。
「おい、旅館やどやはまだかい、旅館やどやがなければ、台湾航路の会社へでもいぞ」
 それでも車は止まらなかった。謙作はしかたなしに車をえて走らしたが、その車もまたどこにも止まらなかった。車の上を一日照らしていた何時いつの間にかかすれてしまった。
「もう宜い、おろしてくれ」
 謙作は車からおりて車賃くるまちんを払って歩こうとした。
「おや、お帰りなさいまし」
 二階の窓からあの女が顔を出していた。謙作は内へ入りながら俺はどうかしていると思った。
 翌日になって謙作はじぶんの身が恐ろしくなったので、警察の保護を願おうと思って、警察を尋ねて往った。
「警察はこのさきですよ」
 いくらさきへ往っても警察はなかった。警察署がなければ交番でもいと思った。
「交番ならこの街路とおりを抜けたところにありますよ」
 しかし、交番も見つからなかった。謙作はがっかりして歩いていると、何時いつの間にか洋館の前へ来ていた。二階の窓にはあの女の顔。
 その翌日、謙作はその町を逃げだすつもりで三ノ宮駅へと往ったが、三ノ宮駅も見つからなかった。気がいてみると女の顔が二階の窓からのぞいていた。
 その夜、の女は謙作の頭を己の胸のあたりに持って来さして、その耳に何かささやいていたがなんと思ったのかその体を起さなかった。
「うちの坊ちゃん、いことをして見せてあげようね」
 女はそう云ってから右の手を左の袖口そでぐちに入れて、何か握ったものを引出した。
「その花が生意気なまいきだから枯らしてみましょうよ」
 謙作の夢のようになっている頭にぴんと響いたことがあった。謙作はうっとりとなっている眼をつとめてけた。
「こんな花は枯れってしまえ」
 女が右の手を鉢の上にさしたが、みるみるその花はしおれて花弁がぼろぼろと落ちだした。
「うちの坊ちゃん、どう」
 謙作はそれをちょと見たのちに、眼をつむってしまった。
「おや、ねむっちゃったのだよ」
 謙作はの女と島田の女でじぶんを寝室にれて往くのを知りながら睡ったふりをしていた。夜の明け方になって一夜中やじゅう睡らずにいた謙作の手は、女の左の腕に往った。
「なにをする」
 女は急に起きあがろうとした。と、同時に女の腕にくさりで附けてあった袋が謙作の手に移った。
「あ」
 女は叫ぶなりうさぎのように下へ飛び下りて寝室の外へ逃げた。
 謙作はその袋を口にくわえて、手早く洋服を着て外へ出たが、の女はもう姿も見せなかった。
 夜はもう明けていた。謙作の頭ははっきりしていた。彼は一ちょうばかり往ったところで、一軒の旅宿やどやを見つけたので入って往った。

 謙作はその日の夕方出帆しゅっぱんした高雄丸たかおまると云う台湾航路の船に姿を見せていた。





底本:「日本怪談大全 第一巻 女怪の館」国書刊行会
   1995(平成7)年7月10日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第二巻」改造社
   1934(昭和9)年
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年5月2日作成
青空文庫作成ファイル:
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