海嘯のあと

田中貢太郎




 わかい漁師は隣村へ用たしに往って、夜おそくなって帰っていた。そこは釜石かまいしに近いなにがしと云う港町であったが、数日前に襲って来た海嘯つなみのために、この港町も一嘗ひとなめにせられているので、見るかぎり荒涼としている中に、点々として黒い物のあるのは急ごしらえのぶた小屋のような小家であった。それは月の明るい晩であった。壮い漁師はその海嘯のためにもらったばかりの女房を失っていたが、心の顛倒てんとうがまだ収まらないし、それに女房を失った者もざらにあるので、一種の群衆心理でそれをあきらめていた。
(みんな、同じことだ)
 それでも壮い漁師は、その女房がまだどこかに生きていて、ひょっこりと帰って来そうに思われた。
(運じゃ、運がよかったら、助からんこともない)
 なみの音が穏かにざあざあと云うように聞えて来た。それとともに、波のしずかな海がどうしてあんなになるのだろうと思った。その考えはやがて海の上をはしっている船へ往った。
(何かにつかまって、泳いでいるうちに、助けられたかも知れない)
 そうだとすると、五日や十日では判らない。わかい漁師は小づくりな眼に黒味の多い細君さいくんの顔を眼前めのまえに浮べながら歩いた。
 道の両側になった樹木の枝には、凄惨せいさん海嘯つなみの日の光景を思わすように、ぼろぼろになった衣服きものや縄ぎれが引っかかっていた。それを見ると壮い漁師の心は暗くなった。
(いくらなんでも、これじゃ)
 町のうしろになった丘の中腹には、海嘯のために持って往かれた発動機船や帆前船ほまえせんが到る処にあった。
(やっぱり死んだのか)
 壮い漁師は溜息ためいきをついた。と、その眼の前へふらふらと寄って来た物があった。それは向うから来た女で、壮い小づくりなその顔が月の光に浮んでいた。
「おう」
 壮い漁師は飛びつくようにして女のほうへ往った。女は眼に黒味の多い女房であった。
「生きてたのか、おまえは」
 壮い漁師の心は歓喜にふるえていた。
「おれは、あれから探しまわった」
 壮い漁師は夢中であったが、その女はそのままするするとすれちがった。
「おい、どこへ往く」
 壮い漁師はあの騒ぎのために気が狂ってじぶんの顔を忘れているのではないかと思った。
「おい、俺だよ、おれだよ」
 わかい漁師は女房の名を呼んだ。
「――、家はそっちじゃない、どうしたのだ」
 壮い漁師は女房の肩に手をやろうとした。と、女はちらとりかえった。そして、所天おっとの顔を見てにっとしたが、そのまままた見えなくなった。





底本:「日本怪談大全 第二巻 幽霊の館」国書刊行会
   1995(平成7)年8月2日初版第1刷発行
底本の親本:「日本怪談全集 第四巻」改造社
   1934(昭和9)年
入力:川山隆
校正:門田裕志
2012年5月22日作成
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