富嶽の詩神を思ふ

北村透谷




 くうを望んで駿駆する日陽、虚にしたがつて警立する候節、天地の運流、いつを以て極みとはするならん。
 あしたに平氏あり、ゆふべに源氏あり、飄忽へうこつとして去り、飄忽としてきたる、一潮いつてう山をんで一世紀没し、一潮退き尽きて他世紀来る、歴史の載するところ一潮毎に葉数を減じ、古苔こたい蒸し尽して英雄の遺魂日に月に寒し。
 嗟吁あゝ人生の短期なる、昨日きのふの紅顔今日けふの白頭。忙々促々として眼前の事に営々たるもの、悠々いう/\綽々しやく/\として千載の事をはかるもの、同じく之れ大暮の同寝どうしん。霜は香菊をいとはず、風は幽蘭をゆるさず。たちまき忽ち消え、※(「二点しんにょう+貌」、第3水準1-92-58)ばくめいとしてたづぬべからざるを致す。
 墳墓何の権かある。宇内うだい睥睨へいげいし、日月を※(「口+它」、第3水準1-14-88)しつたせし、古来の英雄何すれぞ墳墓の前に弱兎じやくとの如くなる。誰か不朽といふ字を字書の中に置きて、しかして世の俗眼者流をしてほしいまゝに流用せしめたる。嗚呼あゝ墳墓、汝の冷々たる舌、汝の常に餓ゑたる口、何者をかまざらん、何物をか呑まざらん、而して墳墓よ、汝も亦た遂に空々漠々たり、水流滔々として洋海におもむけど、洋海は終に溢れて大地を包まず、冉々ぜん/\として行暮する人世、遂に新なるを知らず、又たなるを知らず。
 花には花にろうせられざるもの誰ぞ、月には月にもてあそばれざるもの誰ぞ、風狂も亦た一種の変調子、風狂も亦た一種の変調子なりとせば、人間いかにして変調子ならざる事を得む。暗冥あんめいなる「死」の淵に、あひ及び相襲あひつぎて沈淪するもの、果して之れ人間の運命なるか。舌能く幾年の久しきに弁ぜん。手能く幾年の長きに支へん。弁ずるところ何物ぞ。支ふるところ何物ぞ。わが筆も亦た何物ぞ。言ふなかれ、蓊欝をううつたる森林、幾百年に亘りて巨鷲を宿らすと。言ふ勿れ、豊公の武威、幾百世を蓋ふと。あゝ何物かつひに尽きざらむ。何物か終に滅せざらむ。めざるもの誰ぞ、悟らざるもの誰ぞ。損喪そんさうせざるものつひ何処いづこにか求めむ。
 果して寤か、果して寐か、我是を疑ふ。深山しんざん夜に入りて籟あり、人間昼に於て声なき事多し。むる時人真に寤めず、寐る時往々にして至楽の境にあり。身躰四肢必らずしも人間の運作を示すにあらず、別に人間大に施為せゐするところあり。ひそかに思ふ、終にさめざるもの真のか。終に寐せざるもの真の寐か。此境に達するは人間の容易たやすく企つる能はざるところなり。
 愛すべきものはれ故郷なるか、故郷には名状すべからざるチヤームの存するあり。風流雅客をあざけるもの、邦家を知らざるの故を以て彼等をへんせんとする事多し。故郷は之れ邦家なり、多情多思の人の尤も邦家を愛するは何人か之を疑はむ。孤剣ひつさげ来りて以太利イタリーの義軍に投じ、一命を悪疫にしたるバイロン、我れ之を愛す。」請ふ見よ、羅馬ローマ死して羅馬の遺骨を幾千万載に伝へ、死してほ死せざる詩祖ホーマーを。」邦家の事いづくんぞ長舌弁士のみ能く知るところならんや、別に満腔の悲慨をたゝへて、生死悟明の淵に一生を憂ふるものなからずとせんや。
 俗物の尤も喜ぶところは憂国家の称号なり。而して自称憂国家の作するところ多くは自儘じまゝなり。彼等は僻見多し、彼等は頑曲ぐわんきよく多し。彼等は復讐心を以て事を成す。彼等は盲目の執着を以て業をいそぐ。彼等は夢幻中の虚想を以て唯一の理想となす。彼等の慷慨、彼等の憂国、多くは彼等の自ら期せざる渦流に巻き去られて終ることあるものぞ。
 朽ちざるものいづくにある、死せざるものいづくにある。われ答をちて躊躇ちうちよせり、而して答遂に来らず。朽ちざるに近きものいづくにかある。死せざるに近きものいづくにかある。われこの答へを聞かんが為に過去の半生を逍遙黙思につひやせり。而して遂にその一部分を聞けりと思ふは、非か、非ならざるか。
天地あめつちの分れし時ゆ、神さびて高く貴き駿河なる富士の高嶺たかねを、天の原振りさけ見れば渡る日の、影もかくろひ、照る月の、光も見えず、白雲もい行憚ゆきはゞかり時じくぞ雪は降りける、語り継ぎ云ひ継ぎ行かん富士の高嶺は。(赤人)
 白雲、黒雲、積雪、潰雪くわいせつ閃電せんでん、猛雷、是等のものを用役し、是等のものを使僕し、是等のものを制御して而して恒久不変に威霊を保つもの、富嶽ふがくよ、夫れ汝か。渡る日の影も隠ろひ、照る月の光も見えず、昼は昼の威を示し、夜は夜の威を示す、富嶽よ汝こそ不朽不死にちかきものか。汝が山上の浮雲よりも早く消え、汝が山腹の電影よりも速に滅する浮世の英雄、何の戯れぞ。いさましや汝の山麓を西に馳する風、こゝろよや汝の山嶺を東に飛ぶ風。流転の力汝に迫らず、無常のちから汝をおそはず。「自由」汝と共にあり、国家汝とともてり、何をかおそれとせむ。
 遠く望めば美人の如し。近く眺れば威厳ある男子なり。アルプス山の大欧文学に於ける、わが富嶽の大和民族の文学に於ける、淵源えんげんするところ、関聯するところ、あにすくなしとせんや。遠く望んで美人の如く、近く眺めて男子の如きは、そも我文学史のあかしするところの姿にあらずや。アルプスの崇厳、或は之を欠かん、然れども富嶽の優美、何ぞ大にゆづるところあらん。われはこの観念を以て我文学を愛す。富嶽を以て女性の山とせば、我文学も恐らく女性文学なるべし。雪の衣をかつぎ、白雲の頭巾づきんを冠りたる恒久の佳人、われはその玉容をたのしむ。
 尽きず朽ちざる詩神、風に乗り雲に御して東西を飄遊し玉へり。富嶽駿河の国に崛起くつきせしといふ朝、彼は幾億万里の天崕てんがいよりその山巓さんてんに急げり、而して富嶽の威容を愛するが故に、その殿居にとゞまりみて、遂にた去らず。是より風流の道大に開け、人麿赤人よりくだつて、西行芭蕉の徒、この詩神と逍遙するが為に、富嶽の周辺を往返して、けいなくざうなき紀念碑を空中に構設しはじめたり。詩神去らず、この国なほ愛すべし。詩神去らず、人間なほあぢはひあり。
(明治二十六年一月)





底本:「現代日本文學大系 6 北村透谷・山路愛山集」筑摩書房
   1969(昭和44)年6月5日初版第1刷発行
   1985(昭和60)年11月10日初版第15刷発行
初出:「文學界 一號」女學雜誌社
   1893(明治26)年1月31日
入力:kamille
校正:鈴木厚司
2005年5月18日作成
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