沈痛、
悲慘、
幽悽なる
心理的小説「
罪と
罰」は
彼の
奇怪なる
一大巨人(
露西亞)の
暗黒なる
社界の
側面を
暴露して
餘すところなしと
言ふべし。トルストイ、ツルゲネーフ
等の
名は
吾人久しく
之を
聞けども、ドストイヱフスキーの
名と
著書に
至りては
吾文界に
之を
紹介するの
功不知庵に
多しと
言はざる
可からず。
露國は
政治上に
立て
世界に
雄視すと
雖もその
版圖の
彊大にして
軍備の
充實せる
丈に、
民人の
幸福は
饒ならず、
貴族と
小民との
間に
鐵柵の
設けらるゝありて、
自からに
平等を
苦叫する
平民の
聲を
起し、
壯烈なる
剛腸屡ば
破天荒の
暴圖を
企て、シベリアの
霜雪をして
自然の
威嚴を
失はしむ。
乳を
混ぜざる
濃茶を
喜び、
水を
割らざる
精酒を
飮み、
沈鬱にして
敢爲、
堅く
國立の
宗教を
持し、
深く
祖先の
業を
重んず、
工業甚だ
盛ならざるが
故に
中等社界の
存するところ
多くは
粗朴なる
農民にして、
思ひ
狹く
志確たり。
然れども
別に
社界の
大弊根の
長く
存するありて、
壯年有爲の
士をして
徃々にして
熱火を
踏み
焔柱を
抱くの
苦慘を
快とせしむる
事あり。
佛人の
如くに
輕佻動き
易きにあらず、
默念焦慮して
毒刄を
懷裡に
蓄ふるは、
實に
露人の
險惡なる
性質なり。
「
罪と
罰」は
實にこの
險惡なる
性質、
苦慘の
實况を、
一個のヒポコンデリア
漢の
上に
直寫したるものなるべし。ドスト
氏は
躬ら
露國平民社界の
暗澹たる
境遇を
實踐したる
人なり、
而して
其述作する
所は、
凡そ
露西亞人の
血痕涙痕をこきまぜて、
言ふべからざる
入神の
筆語を
以て、
虚實兩世界に
出入せり。ヒポコンデリア
之れいかなる
病ぞ。
虚弱なる
人のみ
之を
病むべきか、
健全なる
人之を
病む
能はざるか、
無學之を
病まず
却つて
學問之を
引由し、
無知之を
病まず、
知識あるもの
之を
病む
事多し。
人生の
恨、この
病の
一大要素ならずんばあらじ。
開卷第一に、
孤獨幽棲の
一少年を
紹介し、その
冷笑と
其怯懦を
寫し、
更に
進んで
其昏迷を
描く。
襤褸を
纏ひたる
一大學生、
大道ひろしと
歩るきながら
知友の
手前を
逃げ
隱れする
段を
示す。
高利貸の
老婦人、いかにも
露西亞は
露西亞らしく
思はれ、
讀者をして
再讀するに
心を
起さしむ。
居酒屋に
於ける
非職官人の
懺悔?
自負?
白状と
極て
面白し。その
病妻の
事を
言ひて、
「所が困つた事にア身躰が惡く、肺病と來てゐるから僕も殆んど當惑する僕だつて心配でならんから其心配を忘れやうと思つて、つい飮む、飮めば飮むほど心配する。何の事アねへ態々心配して見たさに飮む樣なもんで一盃が一盃と重なれば心配も重なつて來る」
何ぞ
醉漢の
心中を
暴露するの
妙なる。
更に
進んで
我妻を
説き
我娘を
談じ、
娘が
婬賣する
事まで、
慚色なく
吐き
出づるに
至りては
露國の
社界亦た
驚くべきにあらずや。
而して
其の
再官の
事に
説き
及ぶや、
「
又た
或時は
僕が
寢て
仕舞つてからカテリーナ、イワーノウナは
何だか
嬉しくて
堪らなくなつたと
見えて
一週間前に
大喧嘩した
事ア
忘れちまつてア………フ………を
呼んで


なんぞを
馳走しながら
荐りに
色んな
餘計を
附けちやア
亭主の
自慢をする」
と
女性の
無邪氣なる
輕薄を
笑ひ、
更に
一旦與へたる
財貨を
少娘の
筐中より
奪ひて
酒亭一塲の
醉夢に
附するの
條を
説かしめ
遂に
再び
免職になりし
事を
言ひ、
唯僕が心配でならぬは家内の眼――眼だ。殊に頬が紅を點した樣になつて呼吸が忙しくなる。僕之を見るのが實に辛い。先生は家内と同じ疾のものが挑動つ時の呼吸を聞た事があるかネ。それはそれは堪つたもんじやない。
とその
家庭の
苦痛を
白状し、
遂にこの
書の
主人公、
後に
殺人の
罪人なるカ……イ……を
伴ひて
其僑居に
歸るに
至る
一節極めて
面白し。
(五十六頁)
人間實にくだらぬもの。と、この
病者の
吐く
言葉の
中に
大なる
哲理あり。
下宿屋の
下婢が
彼を
嘲けりて
其爲すところなきを
責むるや「
考へる
事を
爲す」と
云ひて
田舍娘を
驚かし、
故郷よりの
音信に
母と
妹との
愛情を
示して、
然どもこの
癖漢の
冷々たる
苦笑を
起すのみなる
事を
示し、
實際家を
卑しむの
念をあらはし、「でなくば
生命を
捨てんのみ。
運命に
服從し、
百事を
放擲し」、
云々の
語を
發せしむるに
至る。
「
必然の
惡」を
解釋して
遊歩塲の
一少女を
點出しかの
癖漢の
正義を
狂欲する
情を
描き、
或は
故郷にありしときの
温かき
夢を
見せしめ、
又た
生活の
苦戰塲に
入りて
朋友に
一身を
談ずる
處あり。
第六囘に
至りて
始めて、
殺人の
大罪なるか
否かの
疑問を
飮食店の
談柄より
引起し、
遂に
一刹那を
浮び
出さしめて、この
大學生何の
仇もなき
高利貸を
虐殺するに
至る。
第七
囘は
其綿密なる
記事なり。
讀去り
讀來つて
纖細妙微なる
筆力まさしくマクベスを
融解したるスープの
價はあるべし。
是にて
罪は
成立し、
第八
囘以後はその
罪によりていかなる「
罰」
精神的の
罰心中の
鬼を
穿ち
出でゝ
益精に
益妙なり。
余は
多言するを
好まず。
嘗つてユーゴのミゼレハル、
銀器を
盜む
一條を
讀みし
時に
其精緻に
驚きし
事ありしが、この
書載するところ
恐らく
彼の
倫にあらざるべし。
余は
不知庵がこの
書を
我文界に
紹介したる
勇氣をこよなく
喜ぶものなり。
第二
卷の
速に
出でんことを
待つ。
(明治二十五年十二月十七日「女學雜誌」甲の卷、第三三四號)