「
聖くまことなる心、無極の意と相繋がる意、世の雑染を離れて神に達するの
眼、是等の三要素を兼有する詩人文客の詞句を聴くは楽しむ可きかな。」
とは英人某がトルストイ伯を
崇めたる賛辞なり。露国が思想の発達に於て欧洲諸隣国に
後れたる事、既に久し。其記者が仏独の旧形を摸倣するに甘んじて、創造の偉功を顕はさゞる事も、
亦た
已に久しと云ふべし。
然れども形勢
俄かに一変し、自国の胸底より文学の新気運湧き出でゝ、今や其勢力充実して殆ど全欧を凌駕せんとするに至れり。
而して
斯る気運を喚起せしめたるもの種々あるべしと
雖、トルストイ伯の出現こそ、露文学の為に万丈の光焔を放つものなれ。彼は露国の平民的生活を描く作家なり、彼は明らかに吾人に向つて、露国には中等民族あらず、貴族と平民のみなることを示すなり。
露国の農民
は、
徒らに西部文明の幻影を追随して栄華を
春日の永きに
傲る貴族者流と、相離るゝ事甚だ遠し。彼等は聖書を愛読し、宗教思想に富み、日常の業務に満足して、敢て虚栄の影を追はず、或時はむしろ迷信に陥り易く、宗教に伴へる在来の悪弊も
亦少なからず。然れどもトルストイ伯は是等の卑野なる農民を愛する事、慾情に耽惑せる上流の人に比して、幾層の深きをあらはせり。げに
露西亜の農民はあはれなる生活を送るもの多く、酸苦
交もせまれども
能く
耐へ、能く忍ぶは、神の最後のまつりごとに希望を置くと見えたり。而してトルストイ伯の如きは
自ら
先達となりて、是等の農民を救ひつゝあるなり。其の旧作の
中に言へることあり、曰く「怖れ惑ふ事なかれ、我等が苦痛は一時のものなり、我等が永遠の
生命は何物と雖、奪ふ事能はざるべし」と。再び曰く「何事も神の聖意より出でざるはなし、死も生も」と。
蓋し露国の農民の信仰を代表する者にして、死も自然の者なれば、
刺多き者として
悪まれはせで、極めて美くしき者とまで彼等の心には映るなり。「神は彼女を取り去れり、彼女が至るべきところは、彼女の如き美くしき心ある者ならねばかなふまじきによりてなり、彼女の死はいたむべきものならず」と言ふも、亦たこの平民的詩人なり。吾人はトルストイ伯によりて、露国の平民を知るを得つ、彼等が
鞏固なる宗教上の観念を
涵養しつゝあるを見て、露西亜の将来に望むところ多からざるを得ず。
トルストイ伯は理想派詩人にはあらず、彼は理想を抱ける実際派なり、何となれば彼が写すところ、公平無私に農民の状態を描出し、其欠所を隠蔽することを
為さゞればなり。もし彼が貴族の家に生れ、顕栄の位地に立つべき身を以て、農民を愛撫し、誠信を以て世に
屹立するに至りたる来歴を問はゞ、
彼は長く生命を疑ひしなり。
彼が出生を尋ぬれば、千八百二十八年のことなりしとぞ。貴族の栄華は、彼をして
虚しき世のものをあさりめぐるの
外に楽しみとてはあらずと、思はしめにき。爵位の如き、娯楽の如き、学芸文事
悉く一たびは彼を迷はせしことあれども、
遂に彼を奴僕となせるものあらざりき。人生彼に向つて常に暗惻たり、何の為に、何の故に、人は世に生息するやと疑ひ惑ひつゝ、月日を暮らす事多かりき。人生は神が
玩弄する為に製作したる
諧謔にあらずやとは、彼がその頃胸間に往来しける迷想なりき。彼は世を教へんとて、世を救はんとて著作をなせり、然れども著作の真意すでに誤りたれば、世の人はさておき、己れを
安むるの
効もあらず。彼は悲しめり、然り、彼は迷想の極にのぼりて、今は自殺の外に、万事を決し疑惑を解くものあらずなりぬ。然れども伯は
冥なる迷想の
中より、生活の一
秘鑰を覚りはじめたり。「神よ
爾は我等を爾の為に造りたまへり、故に我等は爾を得るまでは我等の心に安みを得る能はず」と言へりしアウガスチンの言葉は、同じくトルストイの言はんと欲せしところならむ。彼は
漸く教義を探り、この中に
安慰を求めんとしたりしたが、この事も亦た彼を失望せしめたり、教にありて世を渡るといふなる信者づれも
苟且の思ひ定めにて、たしかに己れの生涯をしかなさんとにはあらざるを知りたればなり。彼は遂に、農民の生活をもて尤も能く己れの疑惑を解くものとせり。神の意に従へる生活は一の意味を有せり、
自らは我が
業の目的如何なるを
弁へずと雖、これを用ゆるの
主には大なる目的あり。トルストイ伯曰く「神を知ることゝ
生命とは一にして離るべからざる者なり。神は生命なり。神を求むるを
主むべし、神なくして生命ある事
能はじ」と。
トルストイ伯の基督教
基督教は
元とより製作的のものならず、然るを世の変遷につれて追々に製作的進化をなし来りて、始めの純樸透清を失ひたり、今は唯だ其外被のみを残して、道徳といふものも
所謂世俗的のつとめとこそ堕ち沈みけり。こゝに於てか伯の全心は、基督教を最初の純朴なる位地に
回へす事に注ぎたり。其小説の
中に一箇の偶人をやとうて、言はしめて曰く、
「聴きね、わが思ふやう、基督が世にありし頃に為せるところ
何人をも
退けし跡はなく、世にさげすまるゝ者には
却て慈悲を垂れたまへる事多かりき。彼は卑しき者より使徒を撰み挙げたまひしのみか、常に
卑賤ものをあはれみたまひし跡、
蔽ふ可からず。自ら高しとするものは
卑くせられ、自ら卑くするものは高めらるべしと教へられ、自らも万民の主と言ひながら弟子達の足を洗ふ程に、身を卑うせられき。」云々。
伯の道徳本領
は、基督の山上の教訓より転化し来れりと思はるゝ
節多し。曰く、
(1) 戦ふこと勿れ。
(2) 義きする勿れ。
(3) 姦婬を犯す勿れ。
(4) 誓を立つる勿れ。
(5) いかりを起す勿れ。
(6) 悪を為す者に暴を以て加ふる勿れ。
「平和と戦争」と題するトルストイの著書の終局に載するところ、即ち
是なり。其他の著書にも、此意を談ずるところ少なからず。即ち神の
法に従ひて生活するものにあらざれば、自然なる、幸福なる生涯を終る事能はずと云へる真理は、伯の著書に散見して、伯が世を
教るの真意を
窺ふに足るべし。伯は言へらく、
「吾等は
惟一の案内者を持てり――
即ち凡ての物に衆合的及び個物的に通徹して存せる
宇宙大精気なり。草樹を日の光に
頼りて発萌せしむるも、百花を
熟らして菓実とならしめ、以て山野を
富実ならしむるも、皆なこの精気の致すところなり、吾等人類を
相協和せしめ、相擁護せしむるもまた。」
蓋しトルストイ伯の所見は、此点に於て
彼フレンド派が唱道するところと符合せり。唯だ伯は之を露国の農民に適用せしのみ。
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戦争に対する伯の意見
伯の著書「コサック」を読み、「イバン・ゼ・フール」を読みたらん人は必らず、伯が戦争に対する悪感情を認むるなるべし。「イバン」の
中に其主人公なるイバンの口を仮りて言はしむるところを見るに、イバンは兵卒を以て無用なるものと認め、敵ありて来り犯すに及びては満面の愛笑と懇情とを以て出でゝ彼を迎へ、遂に彼をして帰服せしめたる有様を叙するが如き、伯が平和主義の本領を推知するに余りあり。其他の諸著を読みても、伯の精神は人間の霊魂を改造するを以て、大主眼となすにある事を
知べし。
伯の朴実

し伯が貴族の家に
産れたる身を以て、
自ら
降りて平民の友となり、其一生を唯だ農民の為に尽すところあらんとするの精神を読み得なば、誰れか伯の資性の天真爛

たるを疑ふものゝあるべき。ひとり伯の資性が然るのみにあらず、伯の抱持する基督教主義も実に朴実なる信仰に外ならず。外部厳粛なる教法は、彼に取りて何の関するところもあらず、彼は唯だ其胸奥に自然に湧き出でたる至愛を以て、自ら任じて平民の保護者となれるのみ。露西亜は世人の尤も危ぶむ国なり、而して今や此
真摯なる大偉人を
有てり、
謂ふべし、前途
望多しと。
(明治二十五年五月)