千早館の迷路

海野十三




     1

 やがて四月の声を聞こうというのに、寒さはきびしかった。夜が更けるにつれて胴慄どうぶるいが出て来たので、帆村荘六は客の話をしばらく中絶して貰って、裏庭までそだを取りに行った。
 やがて彼は一抱えのそだを持って、この山荘風の応接室に戻って来た。しばらく使わなかった暖炉だんろの鉄蓋をあけ、火かき棒を突込むと、酸っぱいような臭いがした。ぴしぴしとそだを折って中にさしこみ、それから机の引出をあけてつかみ出した古フィルムをそだの間に置いて炉の中に突込み、そして火のついた燐寸マッチの軸木を中に落とした。火はフィルムに移って、勢よく燃えあがり、やがてそだがぱちぱちと音をたてて焔に変っていった。
「さあ、もうすぐ暗くなります。……ではどうぞ、お話をお続け下さい」
 そういって帆村探偵は、うるわしい年若の婦人客に丁寧な挨拶をした。
 鼠色のオーバーの下から臙脂えんじのドレスの短いスカートをちらと覗かせて、すんなりした脚を組んでいる乙女は、膝の上のハンドバグを明け、開封した一通の鼠色の封筒に入った手紙を出して、帆村の方へ差出した。
「これがそうでございますの。どうぞ中の手紙を出してお読み下さいまし」
 うれいの眉を持ったこの乙女の、声は清らかに、鈴を振るようであった。
 帆村は肯いて、封筒を受取ると、中からしずかに用箋を引張りだして、彼の事務机の上に延べた。高価な無罫白地の用箋の上に、似つかわしからぬ乱暴な鉛筆の走り書で認めてある短い文面……。
 ――月姫のごとく気高き君の胸に、世の邪悪を知らせたくはないが、これも運命、やむを得ない。あと一週間して、もしか僕が貴女の前に現れなかったら、僕のことは永劫に忘れて呉れ給え。決して僕の跡を追うなかれ。四方木田鶴子を信ずるなかれ、近づくなかれ。さらば……。
三月二十五日。田川勇より。
  春部カズ子さま。
「なるほどねえ……」
 と帆村は沈思し、春部カズ子も黙したままにて帆村のおもに動く一筋の色も見のがすまいとこちらを凝視し、しばし時刻はうつろのままに過ぐる。耳にたつは、煙突の中、がらがらと鳴り始めた焔の流れのみ。
 ややあって帆村は顔をあげ、麗しき客の面を見た。二人の視線はぶつかった。しかしいずれの視線も氷のようにこおりついていた。普通の場合だったら、どちらもぱっと頬を染めたであろうに。
「今日は三月二十七日ですね」
「はあ」
「もっとも、この次、時計が鳴れば二十八日になりますが……。この手紙の日附より一週間後といえば、二十五日に七日を加えて、つまり、四月一日となる。ははは、春部さん、失礼ながらあなたは田川君から四月馬鹿でかつがれているんじゃありませんか」
「いいえ、そんなことはございません」
 言葉と共に、彼女の小さい靴がこつんと床を踏み鳴らした。真剣な光を帯びた大きな眼。
「よく分りました。全力をつくしてあなたの田川君を探し出しましょう。あと四日の余裕がありますから、その間に解決してしまいたいものです」
「どうぞ、そうお願いいたします。そしてわたくしも先生のおともをして、捜査に従事したいんです。さもないとわたくしは、不安と孤独感とで気が変になってしまうでしょう。ね、先生、お連れ下さいますわね」
 カズ子が今にも帆村の前にひざまずきそうに見えたので、帆村はあわててそだを掴んで立上った。そして火の子を散らしながら、暖炉の中へ折って入れた。
「だがねえ、春部さん」
 帆村は眉をひそめていった。
「私の予感を正直に申上げると、この田川君の家出事件には不吉な影がさしていると思いますよ。あなたは聰明だから、やはりそれを察して居られるんだと思いますが……」
 田川君の遺書にうたってある一週間の過ぐるのを待たで、この手紙を受取るとすぐ帆村のところへ駆付けたほどに、春部カズ子は聰明な女だ。
「そうなんです。何故とも訳は分らないのに、わたくしはその手紙を読んだとき、足許に踏んでいる大地が崩れて行くような感じを持ったのです。そういういやな気持の経験は、前にも一二度ありました。それはわたくしの父が戦死したその時刻のことです。わたくしは新見附の停留場に立っていましたが……いや、こんなことは事件に関係ないんですから、よしましょう。とにかく田川さんの身の上に、何かあったに違いありません」
 帆村は肯きながら、湯沸かしを暖炉の上の熱い鉄板の上に置いた。
「先生、今夜から、わたくしを助手に使って頂きますわ。ご迷惑でも、泊らせて頂きますよ」
「ここへお泊りにならない方がいいですね。でないと結婚を待っていらっしゃるあなたにとって……」
「いえ、先生。わたくしはそんなことを気にしませんし、大丈夫ですわ。それよりも、先生は、この事件に不吉な影がさしていると思うとおっしゃいましたが、それを説明して頂けません」
「困りましたね」
 帆村は元のように椅子に腰を下ろし「……不吉な影といったのは、田川君の手紙にあった四方木田鶴子よもぎたずこという女性のことに関係しているんです。今から四年前のこと、日本アルプスで、私の友人である古神行基ふるかみゆきもとという子爵が雪崩なだれのために谿谷深くさらわれて行方不明になりました。救護隊も駆付けましたが、谿が深くて手の施しようがなく、子爵の不運ということになって、空しく引上げましたが、子爵が遭難するとき、彼が同伴していたのが、あの四方木田鶴子だったんです」
「まあ。すると先生は田鶴子さんを四年も前からご存じでいらしったんですの」
「私は、正確にいうとそれよりももう三年前から田鶴子なる少女を知っていました。しかし田鶴子は私を何者であるか、知っていないと思います。というのは、田鶴子は古神子爵が経営していた喫茶店の女給みたいなことをしていたんです。私はしばしば感じのいいその喫茶店の入口をくぐりましたがね、この店が古神子爵の経営店であることを知ったのは、ずっと後のことなんです。なにしろ現今ならともかく、その当時は、子爵が喫茶店を経営しているということが知れては大変なことになる時代でしたからね」
「まあ――」
「そのとき格別田鶴子を注意していた訳じゃありませんが、こっちがはっきり四方木田鶴子へ注目するようになったのは、子爵の遭難からです。早くいえば、私は子爵の本家筋にあたる池上侯爵家からの秘密なる依頼で、田鶴子には気付かれないように、秘密裡に彼女を調べたのです。私は常に黒幕のうしろに居り、田鶴子には婦人探偵の錚々そうそうたるところの[#「ところの」は底本では「ところを」]数名を当らせたんです。要点は、池上侯爵家からの依嘱により、“もしや四方木田鶴子があの雪山で古神子爵を雪崩の中に突き落としたのではないか”を明らかにするためだったのです」
「まあ、なんという恐ろしいお話でしょう」
 春部は自分の両肩をしっかり抱きしめて、身ぶるいした。
「だが、その結果は、そういう嫌疑は無用だということになったんです。婦人探偵たちの一致した答申とうしんでした。そこで私はこの旨を池上侯爵家へ報告しました。それでそのことは片附いたんです。しかしその四方木田鶴子さんの姿を今年になってから突然見掛けたのでびっくりしていました。キャバレのビッグ・フォアでしたよ、実はそのときは田川君が連れていってくれたんですがね」
「わたくしもそうなんです」
「え。何がそうなんです」
「田鶴子さんに初めて紹介されたのが、ビッグ・フォアだったんです。やっぱり田川が連れていってくれたんです」
「ああ、そうですか。するとこれはなかなか因縁がからみ合っていますね」
 帆村はポケットからパイプをとりだした。
「で、田川君の田鶴子に対する態度はどうだったんですか。あなたの目にはどううつりましたか、正直なところ……」
 相手に辛いかと思う質問を、帆村は放ったのであるが、春部は無造作にそれを引取って、
「田川は田鶴子さんを大使令嬢のように尊敬していました。また田鶴子さんもたいへん上品に見えました。わたくしはその間に忌まわしい関係などがあるようにはすこしも思えなかったのでございます」と、しとやかに感想を述べた。
 帆村は感動の色を見せて肯いた。
「先生は、田鶴子さんが古神子爵殺しの容疑者であると考えていらっしゃらないんですか」
 この突然の質問は、帆村を愕かした。しかし彼は静かにこたえた。
「あの事件のときの婦人探偵の一致した『否』という答申を侯爵家に報告したのは責任者の私だったんです。それでお分りでしょう。しかしあのときの田鶴子さんに対する見解が、今日も尚続いているとはいえません。私達は、ここで改めて田鶴子さんを観察する必要があります」
「田川は、田鶴子さんを信ずるな、近よるなと、わたくしへ警告しています。それから考えると、田鶴子さんはわたくしたちへの悪意を持っているものとしか考えられないんですけれど……。いかがでしょうか」
「あの言葉はおよそ四つの場合に分析出来ると思いますよ。よくお考えになってごらんなさい」
「四つの場合でございますか。……さあ、どうして四つの場合が……」
「それは明日でもいいです。ゆっくりお考えなさい。今夜はもうやすんで頂きましょう。今、寝室を用意して来ますから」
「あ、わたくしの泊ることをお許し下さるんですね」
「ええ。その代り私はこの部屋で少し窮屈な寝方をしなければなりません」
「お気の毒ですわ」
「そして明日は田川君のアパートと、田鶴子の身辺を探って、田川君の所在をつきとめることにしましょう」

     2

 中に一日置いて、三月二十九日の朝のことだった。帆村荘六と春部カズ子の二人連が、栃木県某駅に降りて、今しも駅前から発車しようとしているバスに乗り移った。
 このあたりは静かな山里で、あまり高くない山がいくつも重なりつつ、全体が南東へゆるやかな傾斜をなしており、そしてその反対の背後遙かには、奥日光の山々が、まだ雪を頂いてまぶしく銀色に光っていた。
 バスは、道中やたらに停っては人を降ろし、曲りくねった坂道を、案外遅くないスピードで登っていった。赤松の林が、あちらにもこちらにもあって美しく、その間から池の面が見えたりした。
 二人がこんな山里までやって来た訳は、昨日いろいろと手を尽した探査の結論に基づいてのことだった。
 田川の下宿を調べたが、彼の日記帳を得た外には、彼の行方をつきとめる資料はなかった。その日記も、一ヶ月程前から始まった四方木田鶴子との交際に関する熱情と反省とが、彼らしい純情の文章でつづってあるだけで、彼がこれから赴こうとする場所については記載がなかった。
 ただその中で一つ、帆村の注意を惹いたのは、「千早ちはや館」という文字だった。“田鶴子さんは日本中で一番感覚美を持った建築物は千早館であり、田鶴子さんは毎月一回は栃木県の山奥まで行って、千早館を眺めて来ないではいられない程なのよと、うっとりとした面持で僕に語った”と、日記には出ていた。
 千早館! この建物の名に、帆村は古い記憶を持っていた。それはこの建物が、彼の旧友古神子爵が道楽に作ったものであること、そして子爵はその設計を早くも高等学校時代から始めたこと、それは前後十年の歳月を要して出来上ったこと、だがその千早館は公開されるに至らず、客を招くこともなく、その儘にして置かれたが、それから二年後に、例の日本アルプスにおける遭難事件があり、子爵は恐ろしい雪崩と共に深い谿谷へ落ちて生涯を閉じたのである。
 それ以来、千早館の話は聞かなかったし、またそんな建築物のあったことも忘れていたが、それが今、失踪した田川勇の日記の中から拾い上げられたのだった。
 だがこのときの帆村荘六は、千早館と田川勇とを結びつけて考えるほどの突飛さを持ってはいなかった。そして次は一転して、四方木田鶴子の動静について調査を始めたが、これとて千早館と田鶴子とを結びつけてのことではなく、失踪した田川が最近日記帳までに彼女のことを記してさわぎたてているので、或いは田鶴子の動静よりして田川の行方についての示唆が得られるのではないかと思ったのである。
 ところが、田鶴子の身辺を洗ってみると、思いがけなく多彩な資料が集った。まず第一に田鶴子は三月二十四日――つまり田川の遺書にある日附の前日に東京を後にして旅に出掛けていることが分った。これは彼女の住居の周囲から確め得たことである。その行先は残念ながら知っている者がそこにいなかった。しかしよく旅に出ることがあり、一週間ぐらいすると帰宅するのが例であると知れた。
 第二に、キャバレの関係を丹念に叩きまわった結果、怪しいことを聞き出した。それは過去半年あまりの間に、田鶴子に対して情念を非常に燃やして接近していた若い男の中の五名ほどが、揃いも揃って予告なしに突然このキャバレから足を引いたことであり、しかも彼等は帝都の他の踊場にも全然姿を見せないとのことだった。そしてそのキャバレでは、田川勇が今にも姿を消すだろうという噂をたてていたが、それがどうやら本当になったろうし、ここ数日ぱったり顔を見せなくなったといっていた。
「今頃は、田アちゃん、おそろしい女蜘蛛に生血を吸いとられているんだろう」
 と、楽士のひとりがいいだしたとき、指揮者の森山は顔色をかえて、
「あ、いけないよ、そんな不吉なことをいっては……」
 と、両手を振った。
 第三に、四方木田鶴子が去る二十四日、上野駅から栃木県の那谷駅までの切符を手に入れて出掛けたことが分った。これは田鶴子がよく行く割烹料理店の粋月すいげつから聞き取ったものであったが、この切符はその粋月の料理人の野毛兼吉が買って来たものであった。田鶴子は間違いなく二十四日の昼間上野駅を出発した。ところがその同じ日の夜、兼吉も暇を貰って郷里の仙台へ出発して、まだ帰って来ないという。しかし粋月の雇人の中には、兼吉も実は田鶴子と同じ目的地へ行ったんではないかと噂をしている者があった。
 兼吉とは何者ぞ。親の代からの料理人で、この粋月に流れこんで来たのは七八年前で、今年四十二になる男だという。その他のことは分らない。
 こんなわけで、結局帆村は、田鶴子の跡を追うことにしたのである。それで春部カズ子を連れて那谷駅で下車したんだが、この那谷駅で下車するということは、もう一つ別の方向よりする示唆[#「する示唆」はママ]があった。それは例の千早館に赴くのはこの駅で下車するのが順路であり、そして千早館は駅前から出る黒岳行のバスに乗り、灰沼村で降りるのがよいと分っていたのである。
(田鶴子は千早館へ行ったのに違いない)
 帆村は確信をもって、そう解釈していた。

     3

 灰沼村の停留場で下車したのは、帆村と春部の二人の外に、土地の人らしい一人の老婆があった。この三人が、バスが行ってしまった後に残された。
「お前さんがたは、又千早館へ行く衆かね。やめたがいいね。悪いことはいわないよ」
 婆さんは、胡散くさそうに帆村とカズ子を見くらべていった。
「あ、お婆さん。親切にいってくれて、ありがとうよ。千早館の評判が高いもんだから、私たちもちょっと好奇心を起して見物に来たんだが、そんなにあそこは危いところかね」
 帆村は馴々しく老婆に話しかけた。
「行かないがいい、行くんじゃないよ。悪い怨霊おんりょうが棲んでいるところだよ、村の者はそれを知っているから容易に近寄らねえが、都の衆はずかずか入り込んで皆怨霊の餌食になっちまうだよ」
 老婆は恐ろしそうに肩をすくめた。
「怨霊の餌食になったところを、誰か見た者があるのかね」
「見た者はねえけれど、餌食になり果てたことは誰にも知れているよ。その証拠には、駅を下りて千早館へ向った若い者の数と、それが引返して来て汽車に乗って行った者の数とが、うんと喰い違っているって、駅員さんは言っとるがのう。帰って行った衆は、ほんの僅かの人数だとさ」
「中に泊り込んでいるんじゃないかね」
「ばかいわねえこった。あんな八幡やわたやぶしらずのような冥途屋敷の中に、どうして半年も一年も暮せるかよう。第一その間、ちょっくら姿も見せねえでおいてよう」
「なるほど。で、その八幡の藪しらずというのは何だね」
「わたしも話に聞いただけだが、なんでも千早館の中に入ると、廊下ばかりぐるぐる続いていて、気味がわるいといったらないってよ。そして寝る部屋はおろか、住む部屋さえ見当らないということよ」
「じゃあ現在、誰も住んでいないんだね」
「魔性の者なら知らぬこと、まともな人間の住んでいられるところじゃない」
 魔性の者? 横で聞き耳をそばだてていた春部は、どきんとした。
「ねえお婆さん。千早館を見物に、同じ女がちょくちょくやって来るのを知らんかね。背のすんなりと高い、顔の小さい、弁天さまのような別嬪べっぴんだが……」
 帆村は、ちょっとかまをかけた。
「ああ、あの女画描きかね。あの女ならちょくちょく来るが、ほんとに物好きだよ。物好きすぎるから嫁にも貰い手がなくて、あんなことしているんだろう」
「その女画家は、千早館に泊るんかね」
「いいや、聖弦寺せいげんじに泊るということだよ。聖弦寺というのは、千早館の西寄りの奥まったところにあるお寺のこんだ」
「寺に女を泊めるのかね」
「なあに、住職なしの廃寺だね。そこであの女画描は自炊しているという話じゃが、女のくせに大胆なこんだ」
「お婆さん。その女画家から何か貰ったね」
「と、とんでもねえ。わたしら、何を貰うものかね、見ず知らずの阿魔あまっ子から……」
 帆村は軽く笑んだ。
「私もお婆さんにいろいろ聞いたから、お礼にこれをあげよう」と、帆村は二三枚の紙幣を老婆の手に握らせ「まあいいよ。取っときなよ、いくらでもないんだ。……それからもう一つ、二十五日の晩か二十六日の朝に、一人の若い男が汽車で着いて、千早館の方へ行かなかったかね」
「二十五日か二十六日というと三日前か四日前だね。はて、聞かないね、その話は……」
「五尺七寸位ある大男で、小肥りに肥って力士みたいなんだ、その人はね。もっとも洋服を着ているがね。髪は長く伸ばして無帽で、顔色はちと青かったかもしれない……」
「聞きませんね、そんな人のことは……」
 帆村の一番知りたいと思ったことは、残念にもこの老婆の口からは聞き出せなかった。

     4

 爪先あがりの山道を、春部をいたわりながらのぼって行く帆村荘六だった。
 だが、いたわる方の側の息が苦しそうにあえいでいるのに対し、いたわられている方のカズ子は岩の上を伝う小鳥のように身軽だった。
「先生、田川は本当に、ここへ来ているのでしょうか」
「それは今のところ分らない。しかし田鶴子の動静を掴むことが出来たら、はっきりするでしょう。ああ、あなたは、私が田鶴子ばかりをうかがっているように見えるもんだから、それで不満なんでしょう」
「ええ。でも田川より田鶴子さんの方がずっと探偵事件的に魅力があるんですものね、仕方がありませんわ」
「冗談じゃないですよ、春部さん。私はあなたの御依頼によって田川氏の行方を突き停めようとしてこそあれ、あの今様弁天さまの魅力にとりこになっているわけじゃありませんよ」
 春部は、何とも応えなかった。と、ゆるやかながら一つの峠を越えて、正面の眼界が一変した。左手の方が一面に低い雑木林となり谷を作りながら向こうへ盛りあがり、正面の切り立ったような山の裾にぶつかっているが、その山のふもとに、奇妙な形の洋館が、まわりに刑務所のような厳しい塀をめぐらせて、どきつい景観となっていた。朱色の煉瓦を積んだ古風な城塞のような建物であった。そして外廓は何の必要があってかふしぎにも曲面ばかりを持っていて、平面が殆んど見当らない。なんのこと長い腸詰を束にして直立させたような形だった。永く見詰めていると顔が赭くなるような、そしてふと急に胸がわるくなって嘔吐を催し始めるような、実に妙な感じのする建物だった。……二人の足はすくみ、そして二人はしばらくはものもいわず、その煉瓦館に見入っていた。それは間違いなく、千早館だった。
「出来るだけ近くまで行ってみましょう」
 帆村が、やっとそれだけをいって、春部をふりかえった。春部は肯いた。帆村は彼女の方へ自分の腕を提供した。二人は愛人同士のようにして、林の間を縫う坂道を下って行った。
「あんな気味のわるい建築物は始めて見ましたわ。悪趣味ですわねえ」
 春部の声は、すこし慄えを帯びていた。
「日本人の感覚を超越していますね」
「しかし人間の作ったものとしては、稀に見る力の籠り工合だ。超人の作った傑作――いや、それとも違う……魔人の習作だ。いや人間と悪魔の合作になる曲面体――それも獣欲曲面体……」
「えっ、何の曲面体?」
 このとき帆村は、はっと吾れにかえり、
「はっはっはっ。いや、ちょっと今、気が変になっていたようですよ、突然あんなものを見たからでしょう」
 帆村のさしあげた洋杖ステッキの先に、雑木林の上に延び上っているような千早館のストレートきの屋根があった。
「あれは古神子爵がひとりで設計なすったんですの」
「さあ、全部はどうですかね。しかし古神君は非常な天才であり、そして実に多方面にわたる知識を持っており、時間さえ構わなければ、彼ひとりの力でもって設計をやり遂げることも出来たと思います」
「じゃあ超人ね」
「超人――超人という程でもないが……」
「ねえ先生」
 春部が改まった口調で呼びかけた。
「はい」
「わたくし、何だか前から気になっていたんですが、古神子爵というのは本当の御苗字ですの」
「フルカミが本当の苗字かとお訊きになるんですね。いやあれは本当ですよ。高等学校でも……その前の中学校でも彼は古神行基でしたからね。なぜです、そんなことを気にするのは」
「だって、あまり沢山ない御苗字ですもの」
「殿様の末裔ですからね、殿様にはめずらしい苗字の人が多い」
「じゃあ、あの田鶴子さんの苗字の四方木よもぎというのはどうでしょうか。あれこそ変った苗字ですわね」
「そうでしょうか。……尤も昔あの女は、自分の苗字を四方木とは書かず、よもぎと書いていました、つまり草のヨモギですね。しかし私が知って間もなく四方木と書くようになりました。……そうそう思い出したぞ」と帆村はそこで急ににやっと笑顔になり「四方木と書かせるようにしたのは、あの古神だったのですよ。そのことは、何の時だったか、田鶴子が客の一人に上機嫌でお喋りをしているのを私は傍で聞いた覚えがあります。しかももう一つ話があるのですよ。それは何でも古神が、名の方も田鶴子ではなしに、田津子に改めろといったらしいんですが、あの女はそれを頑として応じないで田鶴子を通しているといっていました。それは田鶴子の方がずっと上品だからという理由に基くんだそうです」
「まあ、面白いこと」
 二人は、そこで声を合わせて朗らかに笑った。
 だが、二人は間違っていたのだ。それが笑うべき事柄でなかったことは、やがて二人にはっきりと、そして深刻に了解されるであろう。
 しかもだ、カズ子の名前も、彼女の愛人の田川の苗字も既に用意せられた恐ろしい舞台の上でスポットライトを浴びていたことに同時に気がつくであろう。

     5

 雑木林がようやく切れて、帆村荘六と春部カズ子はひょっくりと千早館の塀の前へ出た。
 帆村は春部の方を振返った。春部は千早館の高い屋根に釘づけになっていた眼をかえして、帆村の方を見た。彼女のつぶらな眼の奥には強い決意の色が閃いていた。
 散歩者のような調子で、二人は塀の前を静かに通って行った。だが二人は、その英国の古城風の煉瓦の塀が三ヶ所において崩れているのを、素知らぬ顔で見て過ぎた。それに反して、正面のいかめしい鉄門も、裏口にある二つの潜り門も共に損傷がなく、ぴったりと閉ざされていて、一部にはさびが出ているのを発見した。本館は塀と門内の木立とに遮られて、窺うことが出来なかったが、中はひっそり閑としていた。
 そのまま千早館の前を通り過ぎた二人は、やがて同じ道を引返して来た。そしてこんどはくずれた塀の前に足をめ足場を調べた上で、二人は一向にわるびれた様子もなく、煉瓦の山を踏みわけて、塀の内に入った。
 と、千早館の本屋は、今やあからさまなる姿を見せて二人の前に立った。
 緊張に、二人とも声が出ない体であった。遠くから見たとは又別の感じがする本館であった。遠くから見たときは異臭紛々ふんぷんたる感じがする臓腑館のように見えたものが、こうやって間近に寄って眺めると、どういうわけか非常に落着いた優雅な調子のものに見えるのだった。煉瓦の色もそれほど赤過ぎることはなく、むしろその表面が白茶けて見えるのであった。何か灰のようなものが附着しているようにも思われる。煉瓦と煉瓦をつなぐモルタルは、ところどころすごく亀裂きれつが走っているが、いかにも廃屋らしく見える。
 この本館の玄関の大戸は、手のこみ入った模様の浮彫のある真鍮扉であったが、これはぴったりと閉っているばかりか、壁との隙間には夥しく緑青ろくしょうがふいていた。そして浮彫の上には、白く砂だか灰だかがもっていて、ここ何年もこの扉が開かれた様子はない。
 帆村は、手袋をはめた手でもって、表扉の把手――それは黄金色の紅葉が散らしてあったが、それを握って廻してみたり、引いたり押したりしてみたが、扉は微動だにせず、ここから入ることの困難なることを示した。帆村は把手から手を放してからカズ子の方を振向いて、軽く肩をすぼめて見せた。カズ子は、よく分りましたという風に二三度肯いた。
 どこか他に入れる戸口があるのだろうと思った帆村は、カズ子をうながして建物について、ぐるぐる廻ってみた。裏手には確かに三つの出入口があったが、いずれも重い小鉄扉が下りていて、侵入をはばんでいた。しかも錆ついていて、ここ何年かそれらの扉が開かれたことがないのを語っていた。その先を建物についてなおも廻っていると、元の玄関の前へ出た。これで一巡したのである。三四丁もある遠道をしたような気がした。雑草が足をしばしば奪ったせいでそう感じたのかもしれないが……。
「どの戸口も開かれた様子がない。ふしぎだなあ」
 と帆村は、春部を振返った。
「でも、これまでにこの千早館を訪れた人は、中へ入ったんでしょう。それならば、どこかに入れる口がある筈ですわねえ」
 春部は、中に入らずには引返さない決意と見える。
「その理屈は尤もです。ではその実際的な入口を探しましょう。窓からでも入るのかな」
 二人は窓を見上げながら、もう一度千早館の周囲を廻ってみた。
 ところが、奇妙なことに、この建物には窓というものが極めて少かった。この大きな建物に、たった六つの窓しかついていなかった。しかもその窓は、背の届くようなところにはなく、地上から四五十尺もある高いところにぽつんぽつんとついていて、それも縦に長い引込んだ窓であって、明かりを取る窓というよりも建物の飾りについているボタンのように見えた。
 そしてその窓という窓が、いずれも外から鎧戸でもってぴったりと閉っていて、空気はもちろん明かりも、中へは入るまいと思われた。従って、その窓を通じて、この建物の中に入ることは、まず不可能だと思われた。
「どこにも、忍びこむのに都合のよい窓がありませんね」
 館の裏手の雑草の中に立って、帆村はがっかりした声を出した。
「でも、どこかに入口がある筈ですわ」
 春部は、先と同じことをいった。
 それから二人は、もくしたまま、その場に突立っていた。そのうえいうべき別の言葉を互いに持合わさなかったからである。
 が、二人が黙してから間もなく、帆村は愕きの表情になって、突然口を切った。
「あ、気のせいだろうか。地鳴じなりがしたようだが……。春部さん、あなたは今、地鳴りを聞きませんでしたか、地鳴りでなければ、エンジンのうなりを……」
「なんだか聞えましたね。でも、わたくしは奏楽そうがくだと思いました」
 カズ子は眉をあげて帆村の顔を見上げた。
「奏楽ですって……。はてな、もうなにも音がしないようだ。ふしぎだな」
「わたくしにも、もう聞えません」
「さっきは確かに音がしたんだ。どういうわけだろうか」
 二人は気味わるさに、背筋に水を浴びたように感じた。
 もしもこのとき、二人が千早館の表側に立っていたとしたら、彼らは意外の収穫を得たであろうに……。それは二人の不運だった。
 だから、それからしばらく経って二人が本館の正面へ廻ったときには、或る事はもう終っていて、何の異常も存しなかった。二人はそこで一先ずここを去ることにして、元の塀の崩れたところから外へ出た。
「あれをごらんなさい」と帆村が洋杖ステッキをあげて、裏口に近い塀の傍に立っている電柱を指した。
「電線があのとおりぷっつり切れています。千早館への電気の供給は、あのとおり電線が切られたとき以来とまっているのですよ」
「すると、あの建物の中は電灯もつかないから真暗なわけね」
「ま、そうです。従って、さっきわれわれが聞いた音は、配電会社には関係のない音だということになる」
「そんなことが何か重大な事柄なんですの」
「いや、それは私の頭を混乱させるばかりです。うむ、ひょっと[#「ひょっと」は底本では「ひっと」]するとこれもわれらへの挑戦かもしれないぞ」
「挑戦ですって、誰からの挑戦? そんなことは今までにちっとも仰有らなかったのに……」
「それはそうです。この千早館のまわりをぐるぐる廻っているうちに、ふとそれに気がついたのです。春部さん、これはいよいよ油断がなりませんよ。さあ、どしどしすることを急ぎましょう」

     6

 帆村は急に先を急ぎ出した。
 彼は千早館の前に通っている道を奥へ取って、老婆の話にあった、聖弦寺せいげんじを一覧した。それは今にも化けそうな荒れ寺であった。ぷうんとするかびくさい臭気を犯して、中へ入ってみたが、どの部屋もみな畳はみんな腹を切ってぼろぼろでここで炊事をしたり泊ったりすることは、出来ないことを確めた。
(では、田鶴子がこの土地へ来ているものなら、必ずあの千早館へ入りこんでいるに違いない。どこかに、あの女が出入りしている秘密の戸口があるに違いない。よし、それでは正攻法だ)
 帆村のはらは決った。彼は千早館の前を通りぬけ、どんどん反対の方向へ春部を連れていった。約五丁ばかり東南へ行ったところに、下に池を抱えた一つの丘陵があって、松の木が生いしげっていた。その丘陵へ帆村はずんずん登っていった。
「ここならいい。これから我慢くらべだ」
 春部が聞き返したが、帆村は、しばらく自分のすることを見ていれば分るといって、彼の持っていた洋杖ステッキの分解を始めた。
 まず洋杖の柄を外し、あとの棒をがたがたやっていると、それはいつの間にか三脚台に変った。次にその洋杖の柄を縦に二つに割ったが、それを見ると、中には筒に入ったレンズやその他いろいろな精巧らしい器具がぎっしりまっていた。帆村はその中からいくつかの器具や部品を取出し、それを三脚台の上に取付けた。もう誰の目にもはっきりそれと分る望遠鏡が出来上った。帆村はクランプをまわして望遠鏡の仰角をあげると、その焦点を調整した。
「ああ、千早館をここから監視なさるのね」
「そうです。今、よく見えています。交替で監視を続けましょう。そして、もし誰かが千早館を出入りするようだったら、それはどこから出入りするのか、よく見定めるのです。……しかしこの仕事は退屈ですよ。まず三十分交替としましょう。始めはもちろん私がやります。あなたはそれまでぶらぶらそこらを歩くなり、草の上で仮眠うたたねをするなり好きなようになさい」
 この仕事が如何に退屈なものであるかは、それからいくばくもなくして二人によく分った。さすがの帆村も、二時間目には退屈して下の池まで下りて散歩をした。それから戻って来た彼は、カズ子と、見張りを交替して、池の話をした。
「変った池ですね。水が牛乳のように白いですね。多量に石灰を含んでいる。しかしこの辺は他に石灰質のところを見かけないんだが、あの池だけが石灰質の池なのかなあ。そんなことは有り得ないと思うが……」
 そんなことをいわれたので、春部カズ子はその池へ興味を持って、下へ降りていった。
 その春部は十五分ほど経つと、息をせいせい[#「せいせい」はママ]切って帆村のところへ駆け登って来た。
「た、大変よ。恐ろしい発見をしたんです。ちょっと来て下さらない、池のところまでですの」
 春部はこれまでいつも面憎つらにくいほど取澄とりすましていたが、このときばかりは若い女子動員のように騒ぎ立てた。
「困りましたね。なにか重大なものを発見したらしいが、この千早館の監視は一秒たりとも中断することが出来ないのです。一体何ですか、あなたの発見したものは……」
「あの人の着ていた服地です」
「えっ、何といいました」
「田川のいつも着ている服の裏地なんです。それがこまかく切られて、はさみでつまんだ髪の毛のようになっているんですが、それが池の中に浮いているんです……」
「間違なしですか。見誤りじゃないでしょうね」
「いいえ、決して間違いではありません。わたくしは念のために、竹を拾って池の水にけ、そのこまかく切られた服の裏地をそっと引揚げたのです。これがそうです。この瑠璃るり色とくちなし色と緋色の絹糸を、こんな風に織った服の裏地は、わたくしがあの人へ贈ったもので、他にはない筈のものです。どうしてあの人の服の裏地が、あんな池の中に浮いていたのか、ああ、恐ろしい……」
「なるほど。そうだとしたら、これは重大だ」
「ねえ帆村さん。千早館の入口を探すよりも、あの池をさらえる方が急ぎますのよ。もしもあの池の中に、あのひとの死骸が沈んでいたら……ああ、いやだ、いやだ」
「お嬢さん。気をしずめなければいけませんよ、まだ、そう思ってしまうのは早い……」
「でも、わたくしは、もうじっとしていられません。下へ行って人を呼んで来て、あの池をさらって貰います」
「待ちなさい、春部さん。今が大事なところだ、私が――」
 といいかけた帆村は突然口をつぐんだ。彼の全身の関節がぽきぽき鳴った。彼は望遠鏡にのしかかった。喘ぐように、彼の大きな口が動いた。
「……分りました。千早館の入口が……」
 帆村は望遠鏡から目を放して、歓びの色を隠そうともしなかった。
「今、ねえ、たしか田鶴子と思われる女が外から戻って来て、千早館の中へ入っていったのですよ。玄関の脇に、巧妙な仕掛がある。あんなところから自由に出入りしていたんです。さあ、急いで行ってみましょう」
「どっちへ行くんですか。千早館ですか、池の方ですか」
「ああ、池……。池へ行ってみましょう」

     7

 帆村は実は心の中で春部の感傷を笑っていた、下の池の面に浮いていた絹の小さな破片が、田川の服の裏地に違いないなどという彼女の感傷を……。
 だから彼としては、千早館の入口を見付けた今、急いで千早館へ駈付けたい気持であった。しかし春部の思いつめた顔を見ると、池の方を後廻しにともいえなくなって、帆村は遂に、池を先に調べることにした。
「先生。ほら、あの水面に、まだいくつも浮いていますのよ。お分りになります」
 春部は、さっき使った竹竿を再び手にして水面を指す。なるほど、こまかく千切った布片のようなものが浮いている。
(もしあれが、本当に田川の服の裏地だったとしたら[#「だったとしたら」は底本では「だったとした」]、どういうことになるのか)
 帆村は、それが極めてまれな場合だと思いながらも、考えてみないでいられなかった。そのとき春部はその布片を更に採取するために竹竿を身構えた。
「あ、お待ちなさい」
 帆村が突然大きな声を発した。春部は愕いて帆村の方を振返った。
「……よくごらんなさい。あそこを。あなたのいった布片は、静かに池の底から浮き上がって来るのですよ。よく見てごらんなさい」
 なるほど帆村のいうとおりだった。毛のような黒いやつが、灰白色の水の中から静かに水面へ浮び上って来て、やがて静止するのであった。春部の愕きは大きかった。
「見えますわ。でも、どうしてでしょうか。……まさか田川の死骸が池の底に沈んでいるのではないでしょうね。ああ……」
 春部は、そうでないことをひたすら祈った。
「そうではないと思います。仮りに池の中に田川君の死骸があったとしても、着ている服の裏地があんなにこまかくぼろぼろになって、池の面へ浮きあがって来るためには、少くとも死骸が一年以上経ったあとでなくては起らないですよ。それも、特別に池の底をかきまわしたときに限るので、水が静かになれば、あのような布片もとっくの昔に水と同じ比重になっているから浮いて来ないものなんです。浮いて来る以上は、池の底を何者かがかきまわしているか、さもなければ……さもなければ、あの布片は極く最近、破れやすい新聞紙か何かに包んで池の中へ投げこまれ、その紙包が破れたため、まだ水を十分に含んでいないあの布片は水よりも軽いからああして浮き上って来る――この二つの場合しか考えられないですね」
 帆村のこの分析を、春部は感動を以て聞き取った。
「すると田川の死骸は、今池の底に沈んでいないと断言なさるのですか」
「そういう理屈になるというわけです。恐らくそれに間違いありません。が、何故あのように裏地の布片が中から浮いて来るか、この説明は今直ぐにつかないですね。しかしこれは直接田川君の死を決定するものではない。田川君の生死の鍵は、むしろあの千早館の中にあるのだと思います。それも今、相当切迫した状態にあると思うんです。ですから春部さん、池の方は今はこれくらいにして置いて急いで私たちは千早館の中へ入ってみましょう。もちろん冒険ですよ。しかしわれわれは今、冒険を必要とする要路にさしかかっているんです」
「ええ、分りました。では千早館へ行きましょう」
 と、春部はきっぱりいって、手に持っていた竹竿を草叢に落とした。

     8

 帆村は、小型のピストルを春部に渡した。帆村の手にはさっきまでは望遠鏡の役目をしていた洋杖が元の形に返って握られていた。
 二人は大まわりをして、千早館の真裏に当る山側から塀を越えて構内へ入った。それから壁伝いに玄関の正面に廻った。玄関は館内へ引込んでいて、四坪ほどの雨の懸らない煉瓦敷の外廊下があった。そのずっと左の隅に立って手を上に延ばすと、玄関の扉と同じ面にある壁の装飾浮彫の紅葉見物の屋形船にわる。田鶴子が爪先つまさきを伸ばして、屋形船の上を指先で探っていたのを、帆村は望遠鏡の中で認めた。それだから彼は今、同じことを試みた。その屋形船に乗合っている男女の頭を一つ一つさぐっているうちに、短冊たんざくを持って笑っている烏帽子えぼし男の首が、すこしぐらぐらしているのを発見した。これだなと思い、その首を指で摘まんであちこちへ押してみるうちに、首は突然楽に壁の中に引込んだ。
「あっ、先生。壁が……」
 春部が帆村の腕にすがりついた。見るとすぐ傍の壁が煉瓦を積んだなりに、寄木細工を外すようにその一部が引込んで行く。あとには高さ六尺ばかり、人の通れるような穴が明いた。と、内部から響き来る異様な音響が、二人の耳を突いた。それはリズムを持っていることが分った。
「あ、音楽だ。あなたが朝聞いたのはあれでしたか」
「ああ、そうです。あの曲は田川の作曲したものですわ。“銃刑場の壁の後の交響楽”」
「カズ子さん、入りましょう。その穴の中へ入るのです」
 帆村は春部を左腕で抱き、壁穴を中へ飛び越えた[#「壁穴を中へ飛び越えた」はママ]。急いであたりを見廻わすと、そこは天井の高い、曲面の壁をもったがらんとした部屋だった。……ぱたんと音がして、部屋の中が闇となった。二人の背後に、壁穴が閉じたのである。
 春部は、力一杯帆村に獅噛しがみついた。帆村の指先に力がぐっと入ったのが春部に分った。
 無気味な、銃刑場の壁の後の曲が、化け蝙蝠こうもりのように暗黒の空間を跳ねまわる。――と、その部屋が、薄桃色の微かな光線で照明されているのが、二人に分った。闇に目が慣れたせいであった。
「どこでしょう、あの音楽を鳴らしているのは……」
 春部が声を忍んで、帆村に話しかけた。
「地の底から聞えて来るようですね。あなたは感じませんか、足の裏から振動が匐いあがって来る」
「ええッ……」
 春部は愕いて帆村の胴中を両腕で締めた。足が慄えている。
「ふしぎだ。いよいよふしぎだ」
 帆村の声が、別人のように皺枯しわがれた。
「えッ、何がふしぎ……」
「さっきあなたも塀の外で見たでしょうが、この建物への電気供給は断たれている。それにも拘らず、ほらあの通り、薄赤い光で照明されており、それから電気蓄音器も鳴っている……」
「あれはこの館の中で演奏しているんじゃないんですの」
 春部にとっては、その方が気懸りだった。田川がこれに幽閉されて、あの奏楽を指揮しているのではなかろうか。
「ふしぎだ。この建物の中には暖房設備があって、部屋を温めている。煙突一つ見えず、もちろん煙もあがっていなかったのに。……すると電気暖房かな。それにしては配電線が断たれているではないか。一体どうしてこのエネルギーを得ているのか」
 帆村は、これらのエネルギー源の追求に、彼の全精力をふり向けている。
「分らない。他の部屋を探すのだ」
 やがて帆村は、はき出すようにいった。そして春部の手を引いて、部屋の中を歩き出した。どこにも扉はない。部屋の片隅から、向こうへ伸びている廊下があるばかり。
 必然的に、その廊下を行くより外に途はなかった。帆村は、再び春部を抱えるようにして、その廊下へ進み入った。幅は一間ほどのその廊下だった。壁は同じ赤煉瓦を厚く積み重ねてある。叩けば、それとすぐ分った。何の特徴もない。天井はおそろしく高くて、二十尺はあるだろう。暗いのでよく分らないが、やっぱり煉瓦らしい。煉瓦をどんな方法であんなところへ貼りつけるのだろうか。
 廊下はところどころで曲っていて、長かった。二三度そういう角を曲った後で、帆村は急に足を停めて、春部に囁いた。
「カズ子さん。どうやらこれは普通の廊下でなくて、迷路のようですよ」
「メイロというと……」
「今朝バスで一緒になったお婆さんがいったでしょう。千早館の中には八幡の藪しらずがあるとね。その八幡の藪しらずというのがこの迷路なんですよ。待って下さい。思い出しかけたことがある……」
 と、帆村はそこで暫く薄あかりの中に沈思していたが、やがて元気を加えて語り出した。
「むかし古神君は、迷路の研究にふけっていましたよ。彼は主に洋書をあさって、世界各国の迷路の平面図を集めていましたが、その数が百に達したといって悦んで私たちにも見せました。……この千早館の中に迷路があるのは、だからふしぎではない。が、早く知りたいのは、彼がどんな迷路を設計したかということです。さあ、先へ進んでみましょう」
「ええ」
「あ、ちょっと待って下さい。迷路を行くには定跡がある。これはあなたにお願いしたい。春部さん。あなたの左手は自由になるでしょう。その左手で、このチョークを持って、これから通る左側の壁の上に線をつけていって下さい。必ず守らなければならないことは、チョークを絶対に壁から離さないことです。いいですか」
 そういって帆村は、ポケットの奥から取出したチョークを手渡した。それは緑色の夜光チョークというやつであった。
「なぜそんなことをしなければならないんですか」
「迷路に迷わないためです。その用意をしなかったばかりに、迷路に迷い込んで餓死した者が少くないのです」
「まあ、餓死をするなんて……」
「気が変になるのは、ざらにありますよ。さあ行きましょう。もし、チョークのついているところへ戻って来たら、知らせて下さい」

     9

 迷路は、とても長かった。
 ようやく元のところへ戻って来たので時計を見ると、一時間五分経っていた。
 帆村はそこで小憩をとることにした。彼はオーバーのポケットから、チョコレートとビスケットを出して、春部の手に載せてやった。そしてなお小壜に入ったウィスキーを飲むようにと彼女にすすめた。
「何も異状はなかったようね」
 春部は、新しいチョコレートの銀紙を剥きながらいった。
「さあ、それはまだ断定できないです。今のは迷路を正しい法則に従って無事に一巡しただけなんです。これからもう一度廻ってみて、この迷路館が用意している地獄島を見付けださねばならないんです」
「何ですって。地獄島とおっしゃいましたか」
「いいました。地獄の島です。迷路の或るものには“島”というやつが用意されてあるんです。この島へ迷い込んだが最後、なかなかそこを抜け出すことが出来ないんです」
「わたくしには、よく意味がのみこめませんけれど……」
「島というのはねえ、そのまわりについていくらぐるぐるまわっても、外へは出られないんです。そうでしょう、島ですからね。当人にそれが島だと気がつけば、そこで道が開けるんです。向いの壁へ渡っていけば、島を離れて本道へ出られるチャンスが開けるからです。しかしそれに気がつかないと、いつまでも島めぐりを続けて、遂には発狂したりたおれたりします」
「先生は、千早館にそのような島のあることを予期していらっしゃるんですか」
「有ると思いますよ。古神君は、迷路の島には異常な興味をかしていましたからねえ」
「島がみつかれば、どうなるんでしょう。そういえば私たちは、田鶴子さんの姿を見つけなかったし、田鶴子さんのいこっている部屋も見かけなかったですわねえ」
「そのことです。島を探しあてることが出来たら、そこに何かあなたの疑問を解く手懸りがあるだろうと思っています」
「田川の居る場所は? いや、田川の死骸のある場所といった方がいいかも知れませんが……」
「まず迷路の島を。島が分れば田鶴子の居所が分る。田鶴子に会えば、田川君の所在が分る――と、こういう工合に行くと思うんです」
「まるで歯車が一つ一つ動き出すようなことをおっしゃいますのね」
「でも、今は、そういう道しか考えられないんですよ。もしもその間の連絡が切れているとしたら、捜査にも恐るべき島が――いや、そんなことはあるまい。連絡はきっとつく」
 それから間もなく二人は、同じ迷路に再び入った。こんどはチョークを使わなかった。前に通ったときに春部がつけた夜光チョークの痕が、うすく蛍光を放って続いていた。春部にはなんだかそれがたいへんいじらしく見え、はからずも勇気を奮い起こすえにしとなった。
 帆村の期待は外れなかった。両側とも蛍光の筋のある壁を見ながら前進して行くと、三四丁ほど歩いたと思われる頃、三つ股の辻を渡ったところで右側の壁に筋のついていないのを発見した。それこそ島に違いなかった。
 帆村は春部を促して、島の側に渡って、こんどは右手に持った洋杖の先で壁を辿りながら尚も前進していった。
 すると壁は、鍵の手なりに忙しくいくたびも曲った。帆村は、恐ろしい予感に身慄いした。そして春部の耳に口せ寄せて、彼女が右手でピストルを身構える必要のあるところへ近づいたことを告げた。
 彼女はいわれる通りにした。
 それから一つの角を曲ったとき、急に例の音楽の音が高くなった。と、その通路は、今までの通路とちがい、ずっと明るさを増した。帆村は、注意の言葉を春部に囁く代りに、彼女の肩を軽く叩いて警戒せよとの合図にした。
 二人の歩調は極度にゆるやかになった。帆村は全精力を前方に集中している。比較的明るい光が前方の左側から来ることが分った。そのあたりで左へ曲る角があるらしい。しかし右側はそのまま壁が前方に続いていた。その明るさは、雪の降ったような白っぽさがあった。
(あそこまで行けば、必ず何かある)
 帆村は洋杖の柄を握りしめ、いつでもそれを繰出せるように身構えて歩を進めた。
 とうとうその角まで来た。
ッ!」
 その角のところで、左側へ目を向けた帆村は思わず驚愕の声を放った。何となれば、そこには全く想像も及ばないほどの奇妙な有様が見られたから。
 まず何よりも目をひいたのは、その角から左へ切れ込んで、十尺ばかり奥で壁に突当っているその狭い横丁――幅は今までの通路の半分にあたる三尺ほどの狭さだった――。
 その横丁の左右の壁の異様な構成だった。その壁は左右とも、人間の眉の高さあたりから床までが硝子ばりになっていて、その中に大きな金魚がゆったりと尾鰭をゆすぶって泳いでいるのだった。しかもその金魚というのが、珍らしく白と紫の斑のものばかりだった。
 なお、右側の壁だけには、金魚槽の上が深く引込んで横に細長い棚のようになっており、その中によく磨かれたプロペラのようなものがまっていた。だがそれはプロペラではないようで、中心軸はあったが、翼にあたるところはプロペラのように波状をなしておらず、真直に平面的に伸びていた。よく磁針にそういう形をしたものがあるが、もちろんこれは非常に大きく、長さが六七尺もあった。
(一体何だろうか、これは……)
 帆村には、すぐにこの妙な物品の正体が分らなかった。このプロペラの兄弟分のようなものは、その細長い棚の中にじっとひそんでいて、動き出す様子はなかった。
 奇妙なものは、まだ外にもあった。この横丁は、奥で壁につきあたり、そこから通路は左右に分れていたが、その正面突当りの壁が真赤に塗られていることだった。その壁には煉瓦が見えなかった。煉瓦の上に漆喰を塗り、更にその上に赤いペンキを塗ったものらしかった。
 もう一つ奇妙なことは、その正面の赤い壁が、よく見ると扉になっていた。扉の枠が白いペンキで区劃をつけてあるし、引手もついていた。そしてその扉には、どういうわけか分らないが「戸ろ」と大きく白ペンキで書いてあった。
 左右の壁の金魚槽、右側の壁の中にひそんでいるプロペラまがいの金属体、正面奥の赤い壁と、「戸ろ」と書いた扉! そしてこの横丁だけが、白々とした怪光に照らし出されている!
(一体これはどうしたわけか?)
 さすがの帆村も呆然ぼうぜんとして、しばらくは春部のことも何もかも忘れて、塑像そぞうのように突立っていた。

     10

「先生、奥に何かあるようですわ。奥へ入ってみましょう」
 春部の声に、帆村ははっと吾れに戻った。
「あ、危い、待った!」
「ええッ」
「軽率に入ってはいけません。これこそ、この千早館の中の最大の謎なんでしょうから」
「千早館の最大の謎ですって?」
「なんと異様なものばかりが並んでいるじゃありませんか」
 と、帆村は出来るだけ低い声でいったつもりであったが、しかしそれはかなり高く響いた。
「綺麗ですわ。趣味はいいとは、思われないけれど……」
「異様ですよ。グロテスクですよ」
「あの金魚のことをおっしゃるのでしょう、白と紫の斑の……っ、先生どうなすったんです」
「何がです。私がどうかしましたか」
「ああ、どうなすったんです。先生の唇、血の気がありませんわ。紫色よ。気分がお悪いのですか」
 帆村はこのとき春部の顔を見て、おどろきのあまり大きく目を見開いた。
「カズ子さん、あなたの唇も紫色ですよ」
「まあ。わたくしの唇も……」
 春部は、大きな声を出そうとして、周章あわてて左手で自分の口を塞いだ。
「だが、もう訳が分りました。心配しないでいいのです。これは光線のせいです。ここを照らしている白っぽい光は、水銀灯が出す光線なんです。紫の方の波長の光線ばかりで、黄や赤の光線が殆ど欠けているから、赤いものでも紫または黒っぽく見えるのです」
「まあ、どうしてそんな気持のわるい光線でここを照らしているのでしょう」
「そこですよ、謎の一つは……」
 帆村は歎息した。
「向うに見える『戸ろ』とは何だ。それんばかりの謎がとけなくてなんの帆村荘六か。戸の『ろ』号だ。『ろ』だ、『ろ』だ。『ろ』は何だ。そうだ、戸の『ろ』号があれば『戸ノい』があってよろしい。『戸ノは』もあってよろしいわけ……『戸い』、『戸ろ』、に『戸は』……はっはっはっ、僕は莫迦だった。なんと頭の働きの悪い男だろう、はっはっはっ」
「せ、先生。どうなすったんですの」
 春部の声に、帆村は自嘲を停め、
「カズ子さん、謎は解けました。全く子供騙しのような謎なんです」
「どうして、それが……」
「私はポン助だから、今気がついたのですよ。いいですか。ここは千早館でしょう」
「ええ、そうです」
「千早ふる神代もきかず龍田川――知っていますね。小倉百人一首にある有名な歌です。その下の句に、からくれないに水くぐるとはとあるではありませんか。からくれないとは、正面奥の、あの真赤に塗った壁です。水くぐるとはこの水族館です。左右の金魚槽の間をけて奥へ進めば、水くぐるです。最後の『とは』はすなわち『戸は』です。正面に見ているのは『戸ろ』だから、その隣りに『戸は』がある筈です。その『戸は』を開け――というのがこのところに集められた謎の解答なんです。行ってみましょう、この奥にある筈の『戸は』のところへ。それからきっと、秘密の間に続く道があるんでしょう」
 帆村は謎を解き捨てた。
「綺麗な答えですわ。やっぱり奥へ行けばいいのでしたわね」
 春部は身を翻して奥へ駆入ろうとする。それを帆村が呀っと叫んで引戻した。
「待った、恐ろしい関があるんだ。この水銀灯の光だ。カズ子さん、このままあなたがこの小路を奥へ駆込めば、あなたの首はすっとんで、あたり一面はそれこそ唐紅からくれないですぞ」
「まあ、恐ろしいことを仰有る」
「これを見てごらんなさい」
 帆村は前へ三歩進んで、洋杖を前方へ斜に突出し、それから徐々にその洋杖を奥の方へ深入りさせた。すると発止と音が鳴ったと思うと鋼鉄製の洋杖が石突のところから五寸ばかりが、すっぱりと切れて飛び、壁にあたってから下に落ちた。春部はびっくりしたが、訳が分らない。
 すると帆村は、洋杖を一旦引いてから、右側の壁にひそんでいるプロペラの兄弟みたいなものを指し、
「こいつが曲者なんです。こいつはここにひそんでいると見せて、実はあの軸を中心に、すごい勢いでプロペラのように廻っているのです。それがわれわれに見えないで、じっと静止しているように見えるのは、水銀灯のいたずらです。この水銀灯は恐らく千分の一秒だけ点火し、あとの千分の一秒は消えているのでしょう。そして千分の一秒点火したときだけ、ここを照らし、あの殺人回転刀――あのプロペラの兄弟のようなのがそれです――殺人回転刀を照らすのです。そのとき回転刀は、いつもあの位置にいるのです。つまり回転刀があの通り壁の中に入ったときに、水銀灯はちかっと光るのです。そうなると回転刀はあそこに静止しているように見えます。元来人間の眼は、残像時間が相当永いので、一秒間に二十四回以上断続する光は、それが断続するとは見えず、け放しになっているように感ずるのです。だから、あのように一秒間に千回も断続する光があっても断続するとは感じないんです。春部さん。あの殺人回転刀の刃は、われわれの目には見えないが、そこに見える小路一杯に廻っているのですよ。だから今あなたがごらんになったように、洋杖の先がこのとおりすっぽりと切られたんです。このとおり切口は鮮かです。これじゃ軟い人間の首なんぞ一遍にちょん切れてしまいますよ」
 そういって帆村が見せた洋杖の先の切口は、磨いたように綺麗に斜めに切断されていた。春部の顔は真青になった。あのとき帆村がすぐ手を伸ばして自分を引停めてくれなければ、自分の前の小路の床を唐紅に染めていたことであろう。
「さあ、私についていらっしゃい」
「え、あなたは奥へいらっしゃるの。生命をお捨てになるんですか」
「なあに、この下を潜れば危険はないのです。千早ふるの歌に、水くぐれと示唆しているじゃありませんか。つまり腰を低くしてそこを通れば、水槽の間を抜けることになるから、それで安全だというわけです。さっき私はまだそのことに気がついていなかったんです」
 帆村のする通りにして、春部も恐ろしき回転刀の下を無事に向こうへ通り抜けることが出来た。からくれないの壁にぶつかり、左を見ると、「戸ろ」に並んで、果して「戸は」と記した扉があった。
 躊躇なく、帆村は「戸は」の前に立った。扉の引手に手をかけて引いた。扉は苦もなくがらがらと開いた。すると犬くぐりほどの穴があって、その穴を通して中に広い部屋が見える。
「この中ね」
「いや、これも気に入らない、この部屋の照明も、さっきと同じ水銀灯だ」
 なるほど例の気味の悪い白っぽい光だ。
 帆村は洋杖を取直して、そっと犬くぐりの穴から中へさし入れた。
 ぴしりッ。再び手応えあって、洋杖の先は飛んだ。
「念入りな首斬り仕掛けだ。おお危かった」
 と帆村は首をおさえて身慄いした。
 また一命を拾ったのはいいが、折角勢いこんだのに、館内の安全な部屋への入口が分らない。まだ何か、解き切っていない謎があるのか。
 帆村はそこで、例の千早ふるの歌を、声に出して誦んでみた。
「千早ふる、かみ代もきかず、たつた川、からくれないに水くぐるとは……」
 分らない。上の句に謎があるのか。
「その歌、在原の業平朝臣の詠んだ歌ね」
 そういった春部の言葉が終るか終らないうちに、突然すぐ左の壁が動き出してすうっと引戸のように横手に入ってしまった。そしてその向こうに廊下がひらけ、そして階上へつづいた階段が見えた。灯火は普通の電灯であった。
「これだ。これが探していた最後の通路だ。入りましょう、春部さん」
 帆村は、短くなった洋杖を、今開いた引戸の敷居にしっかりめこんだ。この秘密の引戸が再び閉まらないようにするためであった。
 帆村の手にも、今やピストルが握られた。
 二人は臆する気色もなく階段をあがって行った。すっかり貴族の部屋らしい飾りつけであった。住居区がここであるのは最早疑いを容れなかった。
 階段を上ってから、厚い絨毯じゅうたんの上をずんずん奥へ進むと、紫色の重いカーテンが下っている前へ出た。
 そのときカーテンの奥に人の気配がしたと思うと、
「野毛さん、帰って来たの」
と、女の声がした。[#天付きはママ]
 その声に帆村は、胸を躍らせた。
(田鶴子の声だ!)
 帆村はすかさず返事をした。
「へい、遅くなりやして……」
「仕様がないね。あたしが替りに怒られているのよ。早く謝ってよ」
「へいへい。――どうぞお手をおあげ下さい」
 と、帆村はピストルを構えてカーテンの脇からぬっと入ったものの、彼は危く気が遠くなるところだった。その場の異様な光景! いや、世にも恐ろしき舞台面だ!
 大きな純白の絹を伸べたベッドがある。そこに上半身を起している死神のような顔をした痩せ衰えた男。それと、その横に寄り添っている凄艶なる女性――それこそ田鶴子に違いなかったが、気味の悪い死神のような病人は何者?
 田川勇ではない。
 帆村のピストルが見えぬか、二人の男女は平然としている。男の手にあるシャンパン用の硝子盃へ、女は銀色の大きな容器から血のように真赤な酒をつぐ。
 男はその盃を目の高さにあげて透して見てにやりと笑う。盃は紫色の唇へ近づく。ごくり、ごくりと、うまそうに呑み終わって、死神男は盃を唇から放すを、傍なる女は白いあらわな腕をさし出して盃を受け取る。死神男の感にたえたという舌打――突然その男が、皺枯れた声を張り上げた。
「おい帆村荘六……」
 その声音に、帆村はぶるっと慄えた。
「……わしの臨終に、間に合うように来てくれたか。しかしピストルとは無風流な……」
「おお、古神行基か」
「そう……今気がついたのか。ひっひっひっひっ」
「君はまだ生きていたのか」
「……設計どおり人は揃った。カズという名の女人、こっちへお入り……」
「入っちゃいけない」
 帆村はカーテンの蔭へ叫んだ。
「ひっひっひっ。帆村荘六、何をいうか。……あっ、もう迎えだ。地獄へのお迎え……吸血鬼がひとり消える。さらば……」
「あなた!」
 生きていた古神行基が、ばったり前へのめるのに打重って田鶴子は激しく嗚咽おえつする。
 帆村はいつの間にかピストルをポケットに収って、旧友の亡骸なきがらに向って合掌していた。
 こうして七人の青年の血をすすった吸血鬼古神行基は、本当にこの世から姿を消した。従ってこの物語も終ったわけであるが、四方木田鶴子は妖婦というのでもなく、彼女は古神のためには貞淑な忠実な側妾だった。
 後に分ったことであるが、古神は或る時、吸血の快楽を知って、遂に呪うべき吸血鬼と化した。しかし彼はそのままでは吸血鬼としての生活を送ることの危険を悟り、田鶴子とよく打合せて、アルプスで遭難したように見せかけ、戸籍面から名を消したのであった。それから以後に、彼は田鶴子の手引で七人の青年をこの千早館へ誘い込み、あの殺人回転刀でその生命を断ち切り、その新鮮なる血を絞って、毎日の用に供したのであった。最後の犠牲者は田川ではなく、田川はこの館内の地下室に繋がれて生きていた。彼は元来頭のいい男だったから、千早館の謎を解いて二度目の危険区域を脱したが、最後の謎である「在原の業平朝臣」の暗号言葉を知らなかったために内部へは入れずまごまごしている所を野毛に発見されて、地下へ繋がれたものである(野毛は古神家に代々仕えた料理番だった)。
 地下には水力発電所があった。その水力は愕くべきことに、この千早館の地下が鍾乳洞になっており、その地下水を利用したものであった。彼はその排水路に、自らの服の裏地を裂いて捨て、万一の救援をたのんだわけであるが、その排水は例の池へ開いていたのである。
 帆村と春部が、古神の死を前に呆然たる間に、田鶴子は階下へ走って、自らあの殺人回転刀に掛って、愛人のためとはいえ犯した罪を清算した。
 なお、この上、古神の稚気漫々たる謎遊びを覗いてみたい人は、業平のあの歌の上の句の中から、この物語の登場者の姓又は名を拾ってみるのも一興であろう。





底本:「海野十三全集 第11巻 四次元漂流」三一書房
   1988(昭和63)年12月15日第1版第1刷発行
初出:「ロック 増刊 探偵小説傑作選」
   1947(昭和22)年8月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:tatsuki
校正:kazuishi
2005年12月3日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について