或る日の午前十一時頃、書き惱んでゐる急ぎの原稿とその催促の電報と小さな時計とを机の上に並べながら、私は甚だ重苦しい心持になつてゐた。
机に兩肱をついて窓のそとを見てゐると頻りに櫻が散つてゐる。小さな窓から見える間に一ひらか二ひらか、
『今年の櫻もけふあたりが終りかナ。』
さう思ひながら私はたうとうペンを原稿紙の上に置いて立ち上つた。そして窓際の椅子に行つて腰掛けた。見れば窓下の庭も、庭つゞきの畑も、いちめんに眞白になつてゐる。たま/\あたりの木等に冷たい音を立てながら風が吹いて來ると、ほんとに眼の前に渦を卷いて花の吹雪が亂れたつのである。
少し身體を前屈みにすると[#「前屈みにすると」は底本では「前届みにすると」]眞白な櫻木立の間に香貫山が見える。その圓みのある山を包んだ小松の木立もこの數日急に春めいて來た、といふより夏めいて來た。山いちめんの小松原の色がありありとその心を語つてゐる。黒みがかつたうへにうす白い緑青を吹いてゐるのである。
何といふことなく私の心は靜かに沈んで行つた。そして頻りに山の青いのが親しくなつた。時計を見るとかれこれ十二時である。あれこれと考へたすゑ、私は椅子を立つた。
茶の間に來て見ると妻は裁縫道具を片づけてゐた。晝飯を待つて
『
不思議さうにこちらを見上げた妻は、やがて笑ひながら、
『何處にいらつしやるの。』
と訊いた。
『山に行つてお晝をたべて來やうと思ふ。ウヰスキーがまだ殘つてゐたね。』
その長い壜を取り出して見ると、底の方に少し殘つてゐた。それを懷中用の小型の空壜に移して、坐りもせずに待つてゐると眞黒な握り飯が出來て來た。
『おさいが何もありませんが……』
『澤庵をどつさり、大切りにして入れておいて呉れ。』
それらを新聞紙に包んで抱へながら裏木戸から畑の中へ出た。
畑つゞきにその山の麓まで私の家から五丁と離れてゐないのだ。畑には大抵百姓たちが出てゐた。麥は穗を
小山ながら海寄りの平野に孤立して起つた樣な山なので、この頂上からは四方の遠望が利く。北東には眞上に富士が仰がれる。が、その山の形よりその裾野の廣いのを眺めるのに趣きがある。次第高になつてゆく
其處には矢張り他の場所と同じく一面の小松が生えて、松の下には枯草が程よく地を覆うてゐる。よく私の行く所なので多分私が吸ひすてたに相違ない煙草の吸殼などが枯草のかげに落ちてゐる。蜜柑の皮の乾びたのも見えた。其處からは海を見るに都合がいゝ。ことに廣い駿河灣一帶よりも直ぐ眼の下に見える江の浦の細長い入江を見るに
『やれ/\』
何といふ事なく獨り言を言ひながら、私は其處につき坐つた。そして煙草に火を點けた。
入江を越した向うの伊豆の連山には重い白雲が懸つてゐた。上は濃く、下は淡く、そしてその淡いところだけがかすかに動いてゐる樣に見えた。山かげの入江の海はいかにも冷たく錆び果てて、何處をたづねても小波ひとつ立つて居やうとも思はれなかつた。不思議とまた、いつもは必ず二つか三つ眼につく發動船も小舟も一向に影を見せなかつた。入江に沿うたこちら側の長い松原の蔭には萼ばかりが散り殘つてゐる樣な桃の畑が濕り深い空氣の中に氣味惡い赤味を帶びて連り渡つてゐた。
ふところから小さな壜を取り出すと、一二杯續けてウヰスキーを飮んだ。重い曇りの底を吹くともなく吹いてゐる風は、ことに山の上だけに相當に寒かつた。一杯二杯と續けてゐるうちに、ぽつりと冷たいものが額に當つた。氣をつけると袖にも足袋にも小さな雨が降つてゐる。然し眞上の空は青みこそ無けれいかにも明るく晴れてゐるので、私はそのまゝぼんやりと海を見ながら盃をなめてゐた。幾らかづつ

が、
次第にあたりの松の葉が濡れて行つた。それ/″\の小松のそれ/″\の枝のさきにはいづれにも今年の新しいしん[#「しん」傍点]がほの白く伸びてゐる。淡い緑のうへに白い粉を吹いた樣なその柔かなしん[#「しん」傍点]のさきにはまた、必ず桃色か紅色の小さな玉が三つ四つづつ着いてゐた。露ほどの大きさで紅色の美しいのもあり、既に松かさの形をして紅ゐの
帽子のさきに垂れてゐる松の葉のさきからぼつり/\と雫が垂りだした。まだ然し羽織の袖は充分には濡れて來ない。幾度かすかして見る壜の底にはまだ少量の酒が殘り、寧ろ海苔の握飯の方が先に盡きかけた。心はいよ/\靜かに明るく、あたりの木も草も、眞直ぐに降る山窪の雨の白さも、みな極めて美しい眺めとなつて來た。
『燕!』
私は思はず聲に出して、自分の前の山合にまひ降りてはまた高くまひ上つてゆく小さな鳥に眼をとめた。まつたくそれは今年初めて見る燕の鳥であつた。
『來たなア』
さう思ひながら私は松の蔭に這ひ出して行つた。
一羽、二羽、三羽と續いてその身輕な鳥は眞青な小松の原を渡つてゐるのだ。
幸ひと雨は晴れて來た。急に輝いて見える伊豆の山の白雲の蔭の海の色は山の根だけ日本刀の峰などに見る青みを宿し、片側の廣い部分にはさら/\として細かな波を立て始めてゐた。