私はよく山歩きをする。
それも秋から冬に移るころの、ちやうど紅葉が過ぎて漸くあたりがあらはにならうとする落葉のころの山が好きだ。草鞋ばきの足もとからは、
それも餘り低い山では面白くない。海拔の尺數も少ない山といふうちにも暖國の山では落葉の色がきたない。永い間枝にしがみついてゐて、そしていよ/\落つる時になるともううす
昨年の十月の末であつた、利根の上流の片品川の水源林をなす深い山に入り、山中にある沼で
正午近い日がほがらかに照つてゐた。尾根の前もうしろも見下す限り茂り入つた黒木の森だが、僅かに私たちの腰をおろして休んでゐる頂上附近だけそれが斷えて、まばらな雜木林となつてゐた。無論もう一つ葉も枝にはついてゐない枯木の林だ。其處へほつとりと日がさして、風も吹かず、鳥も啼かない。まことに静かだ。
一つ葉も殘つてはゐないと云ふものゝ、ほんの昨日か一昨日散つてしまつたといふほどのところであつた。さうして散つてしまつたと見ると、もう一日か二日の間に次の年の葉の芽が斯のやうに枝ぢゆうに萌え出て來て居るのである。私はまつたく不思議なものを見出した樣な驚きを覺えた。
これら高山の、寒いところの樹木たちは斯うして惶しい自分等の生活の營みを續けてゐるのである。暫らくもぼんやりしてゐられないのだ。少しの時間をも惜んで、自分を伸ばして行かうとしてゐるのである。霜がおりて葉が染まる、落ちる、程なく雪がやつて來るのである。そしてそれからの永い間を雪の中に埋つてゐるのだ。その間こそ彼等のどうにもならぬ永い/\休息の時である。年を越えて、恐らく五月か六月の頃までさうして靜かにしてゐねばならぬのであらう。サテ雪が解ける。それとばかりに昨年の秋からこらへてゐたその芽生の力をいつせいに解きほぐすのである。さう思ひ始めると私はその靜寂を極めた冬枯の木立の間にまことに眼に見えず耳に聞えぬ大きな力の動いてゐるのを感ぜずにはゐられなかつた。大きな力が、何處ともなしに方向を定めて徐ろに動きつゝあるのを感ぜずにはゐられなかつた。
峠をおりて私は湯元温泉に一泊した。そして翌朝其處を立つて戰場ヶ原の方へ出やうとして
それは樹木の場合である。さうした山國の山の奧で人間たちの營んで居る生活に就いても同じ樣な感慨を覺えたことがある。それは畑ともつかぬ山畑に一寸ばかりも萌え出て居る麥の芽を通してゞあつた。
何といふみじめな生活であらうと私は思つた。自然と戰ふといふは無論當らず、自然の前に柔順だといふのがやゝ事實に近からうが寧ろ彼等そのものが自然の一部として生活してゐるのではないかと私には思はれたのであつた。
暖國ではどうしても人は自然に
此間の樣に大地震があつたりなどすると、『自然の威力を見よや』といふ風のことをいふ人のあるのをよく見かけるが、私は自然をさうした恐しいものと見ることに心が動かない。あゝした不時の出來事は要するに不時の出來事で、自然自身も豫期しなかつた事ではなかろうかと思はれる。大小はあらうが、自然もまた人間と同樣、あゝした場合にはわれながらの驚きをなす位ゐのことであらうと思はれる。
そして私の思ふ自然は、生存して行かうとする人類のために出來るだけの助力を與へようとするほどのものではなからうかと考へるらるゝのだ。多少の曲折はあるにしても、その生存を共同しようとする所がありはせぬかと考へらるゝ。と云ふより、自然の一部としての人間人類を考ふることに私は興味を持つのである。
たゞ、人間の方でいつの間にかその自然と離れて、やがてはそれを忘るゝ樣になり、たま/\不時の異變などのあつた際に、
火山の煙を見ることを私は好む。
あれを見てゐると、「現在」といふものから解き放たれた心境を覺ゆる樣である。心の輪郭が取り拂はれて、現在もない、過去もない、未來もない、唯だ無限の一部、無窮の一部として自分が存在してゐる樣な悠久さを覺ゆる。
常にさうであるとは言はないが、折々さうした感じを火山の煙に對して覺えたことがある。自然と一緒になつて呼吸をしてゐる樣な心安さがそれである。心の、身體の、やり場のない寂しみがそれである。
高山のいたゞきに立つのもいゝものである。
一つの最も高い尖端に立つ。前にも山があり、背後にも見えて居る。そして各々の姿を持ち、各々の峰のとがりを持つて聳えてゐる。
靜まり返つたそれら峰々のとがりに、或る一つの力が動いてゐる樣な感覺を覺ゆることが折々ある。峰から峰に語るのか、それらの峰々がひとしく私に向つてゐるのか、とにかくそれらの峰の一つ/\に何か知らの力、言葉が動いてゐる樣な感じを受取つたことが屡々ある。
いま斯う書きながら、囘顧し、空想することに於てもそれと同じいものを感じないではない。
雲が湧く。深い溪間から、また、おほらかにうち聳えた峰のうしろから。
その雲に向つても私は私の心の開くのを覺ゆる。煙の樣にあはい雲、
眼を擧げるのがいゝ時と、眼を伏せるのゝ好ましい時とがある。更に唯だぢいつと
伏せてゐたい時、
溪や瀧の最もいゝのも同じく落葉のころである。水は最も痩せ、最も澄んでゐる。そしてそのひゞきの最もさやかに冴ゆる時である。
捉へどころのない樣な裾野、高原などに漂うてゐる寂しさもまた忘れ難い。
富士の裾野と普通呼ばれてゐるのは富士の眞南の廣野のことである。土地では大野原と云つてゐる。見渡す限り、いちめんの草野原である。この野原を見るには
富士のやゝ西に面した裾野はまたいちめんの灌木林である。そしてその北側はみつちり茂つた密林となつてゐる。いはゆる青木が原の樹海がそれである。
八ヶ岳の甲州路の廣大な裾野を念場が原といふ。方八里といはれてゐるこの原を越えてゆくと信州路に入る。そして其處に展開せられた高原を野邊山が原といふ。
野邊山が原から御牧が原を横切つてゆくと淺間の裾野に出る。追分、
阿蘇山の太古の噴火口の跡だつたといふ平原は今は一郡か二郡かに亙つた一大沃野となつてゐる。この中央の一都會宮地町から豐後路へ出やうとして眞直ぐの坦道を行き行くとやがて思ひもかけぬ懸崖の根に行き當る。即ちこれが昔の噴火口の壁の一部であつたのださうだ。私の通つた時には、その崖には
芒が刈られ
これらの野原がすべて火山に縁のあるのも私には面白い。武藏野はもと/\富士山の灰から出來たのであるさうな。
人は彼の樹木の地に生えてゐる靜けさをよく知つてゐるであらうか。ことに時間を知らず年代を超越した樣な大きな古木の立つてゐる姿の靜けさを。
獨り靜かに立つてゐる姿もいゝ。次から次と押し竝んで茂つてゐる森林の靜けさ美しさも私を醉はすものである。
自然界のもろ/\の姿をおもふ時、私はおほく常に靜けさを感ずる。なつかしい
樹木の持つ靜けさには何やら明るいところがある。柔かさがある。あたゝかさがある。
森となるとやゝ其處に冷たい影を落して來る。そして一層その靜けさが深んで來る。森の中でのみは私は本統に遠慮なく心ゆくばかりに自分の兩眼を見開き、且つ瞑づる事が出來る樣である。山岳を仰ぐ時、溪谷を
森をおもふと、かすかに/\、もろ/\の鳥の聲が私の耳にひゞいて來る。
自分の好むところに執して私はおほく山のことをのみ言うて來た。
海も嫌ひではない。あの青やかな、大きな海。うねり浪だち、飛沫がとぶ。大洋、入江、海峽、島、岬、そして其處此處の古い港から新しい港。
然し、いまそれに就いて書き始めるといかにも附けたりの樣に聞える
庭さきに立つ一本の樹に向つてゐても、春、夏、秋、冬の移り變りの如何ばかり微妙であるかは知り得べき筈である。
それでゐて人はおほく自然界に於けるこの四季の移り變りのこまかな心持や感覺やを知らずに過して居る樣である。僅かに暑い寒いで、着物のうつりかへで寧ろ概念的に知り得るのみの樣である。
何といふ不幸なことであらう。
一寸にも足らぬ一本の草が芽を出し、伸び、咲き、
砂糖の壜に何やら黒いものが動いてゐる。
『オヽ、もう蟻が出たか!』
といふあの心持。
私はあれを、骨身の痛むまでに感じながらに一生を送つて行きたいと願つてゐる。それは一面、自然界のもろ/\のあらはれが自分の身を通して現はれて來る意にもならうかと思はるゝ。