その一
酒の話。
昨今私は毎晩三合づつの晩酌をとつてゐるが、どうかするとそれで足りぬ時がある。さればとて獨りで五合をすごすとなると翌朝まで持ち越す。
此頃だん/\獨酌を喜ぶ樣になつて、大勢と一緒に飮み度くない。つまり強ひられるがいやだからである。元來がいけるたちなので、強ひられゝばツイ手が出て一升なりその上なりの量を飮み納める事もその場では難事でない。たゞ、あとがいけない。此頃の
對酌の時は獨酌の時より幾らか量の多いのを
人の顏を見れば先づ酒のことをおもふのが私の久しい間の習慣になつてゐる。酒なしには何の話も出來ないといふ樣ないけない習慣がついてゐたのだ。やめよう/\と思ふ事も久しいものであつたが、どうやら此頃では實行可能の域にだけは入つた樣だ。何よりも對酌後の宿醉が恐いからである。
運動をして飮めば惡醉をせぬといふ信念のもとに、飮まうと思ふ日には自ら
旅で飮む酒はまつたくうまい。然し、私などはその旅さきでともすると大勢の人と會飮せねばならぬ場合が多い。各地で催さゝる歌會の前後などがそれである。酒ずきだといふことを知つてゐる各地方の人たちが、私の顏を見ると同時に、どうかして飮ましてやらう醉はせてやらうと手ぐすね引いて私の
どうか諸君、さうした場合に、私には自宅に於いて飮むと同量の三合の酒を先づ勸めて下さい。それで若し私がまだ欲しさうな顏でもしてゐたらもう一本添へて下さい。それきりにして下さい。さうすれば私も安心して味はひ安心して醉ふといふ態度に出ます。さうでないと今後私はそうした席上から遠ざかつてゆかねばならぬ事になるかも知れない。これは何とも寂しい事だ。
獻酬といふのが一番いけない。それも二三人どまりの席ならばまだしもだが、大勢一座の席で盃のやりとりといふのが始まると席は忽ちにして亂れて來る。酒の味どころではなくなつて來る。これも今後我等の仲間うちでは全廢したいものだ。
若山牧水といふと酒を聯想し、創作社といふと酒くらひの集りの樣に想はれてる、といふことを折々聞く。これは私にとつて何とも耳の痛い話である。私は正直酒が好きで、これなしには今のところ一日もよう過ごせぬのだから何と言はれても止むを得ないが、創作社全體にそれを
全國社友大會の近づく際、特にこれらの言をなす
旅さきでのたべものゝ話。
折角遠方から來たといふので、たいへんな御馳走になることがある、おほくこれは田舍での話であるが。
これもたゞ恐縮するにすぎぬ場合がおほい。酒のみは多く肴をとらぬものである。もつとも獨酌の場合には肴でもないと何がなしに淋しいといふこともあるが、誰か相手があつて呉れゝばおほくの場合それほど御馳走はほしくないものである。
念のために此處に私の好きなものを書いて見ると、土地の名物は別として、先づとろゝ汁である。これはちひさい時から好きであつた。それから川魚のとれる處ならば川魚がたべたい。鮎、いはな、やまめなどあらばこの上なし。
それから
田舍に生れ、貧乏で育つて來た故、餘り眼ざましい御馳走を竝べられると膽が冷えて、食慾を失ふおそれがある。まことに
飯の時には炊きたてのに、なま卵があれば結構である。それに朝ならば味噌汁。
その二
女人の歌。
『どうも女流の歌をば多く採りすぎていかん、もう少し削らうか。』
と私が言へば、そばにゐた人のいふ。
『およしなさいよ、女の人のさかりは短いんだから。』
いやさかと萬歳。
『十分ばかりお話がしたいが、いま、おひまだらうか。』
といふ使が隣家から來た。
ちやうど縁側に出て子供と遊んでゐたので、
『いゝや、ひまです。』
とそのまゝ私の方から隣家へ出かけて行つた、隣家とは後備陸軍少將渡邊翁の邸の事である。土地の名望家として聞え、沼津ではたゞ「閣下」とだけで通つてゐる。私を訪ぬるために沼津驛で下車した人が若し驛前の俥に乘るならば、
「閣下の隣まで」
と言へば恐らく默つて私の家まで引いて來るであらう。首から上に六箇所の傷痕を持つ老將軍である。
翁の私に話したいといふ事は「いやさか」と「萬歳」とに就いてゞあつた。日本で何か事のある時大勢して唱和する祝ひの聲はおほよそ「萬歳」に限られてゐる。第一これは外國語であり、而かもその外國語にしても漢音呉音の差により一は「バンゼイ」と發音さるべく、一は「マンザイ」と發音されねばならぬのにかゝはらず、現在の「バンザイ」ではどちらつかずの
それも他に
どうかして「萬歳」の代りにこの「いやさか」を擴め度い、聞けば君は世にひろく事をなしてゐる人ださうだから、君の手によつてこれを行つて貰ひ度い、それをいま頼みに行かうと思つてゐたのだ、と翁は語られた。
これは
何かで筧博士のこの説を見た時、私は面白いと思つたのであつた。端なくまた斯ういふところで思ひがけない人からこの話を聞いて、再び面白いと思つた。然し、一方は口馴れてゐるせゐか容易に呼び擧げられるが、頭で考へる「い、や、さ、か」の發音は何となく角ばつてゐて呼びにくいおもひがした。その事を翁に言ふと、翁は言下に姿勢を正して、おもひのほかの大きな聲で、その實際を示された。思はず額を上ぐるほどの、實に氣持のいゝものであつた。
「いッ」と先づ脣と咽喉と下腹とを緊め固めて、一種氣合をかける心持で、そして徐ろに次に及び、最後の「かァ」で再び腹に力を入れて高々と叫び上げるのださうである。
私は悉く贊成して、そして出來るだけの宣傳に努める事を約して歸つて來た。社友にも同感の人が少くないと思ふ。若し一人々々の力の及ぶ範圍に於てこれを實地に行つて頂けば幸である。
全國社友大會の適宜な場合に渡邊翁に音頭をとつていたゞいて先づその最初を試み度く思ふ。
梅咲くころ。
今年は梅がたいへんに遲かつた。
きさらぎは梅咲くころは年ごとにわれのこころのさびしかる月
私はちらりほらりと梅の
好かざりし梅の白きを好きそめぬわが二十五の春のさびしさ
この一首が恐らく私にとつて梅の歌の出來た最初であつたらう。房州の
年ごとにする驚きよさびしさよ梅の初花をけふ見つけたり
うめ咲けばわがきその日もけふの日もなべてさびしく見えわたるかな
これらは『砂丘』に載つてゐるので、私の三十歳ころのものである。うめ咲けばわがきその日もけふの日もなべてさびしく見えわたるかな
うめの花はつはつ咲けるきさらぎはものぞおちゐぬわれのこころに
梅の花さかり久しみ下褪 せつ雪降りつまばかなしかるらむ
梅の花褪するいたみて白雪の降れよと待つに雨降りにけり
うめの花あせつつさきて如月 はゆめのごとくになか過ぎにけり
これらはその次の集『朝の歌』に出てゐる。梅の花さかり久しみ下
梅の花褪するいたみて白雪の降れよと待つに雨降りにけり
うめの花あせつつさきて
梅の木のつぼみそめたる庭の隈に出でて立てればさびしさ覺ゆ
梅のはな枝にしらじら咲きそめてつめたき春となりにけるかな
うめの花紙屑めきて枝に見ゆわれのこころのこのごろに似て
褪 せ褪 せてなほ散りやらぬ白梅のはなもこのごろうとまれなくに
その次『白梅集』には斯うした風にこの花を歌つたものがなほ多い。梅のはな枝にしらじら咲きそめてつめたき春となりにけるかな
うめの花紙屑めきて枝に見ゆわれのこころのこのごろに似て
昨年はことに梅を詠んだものが多かつた。ほめ讚へたものもあつたが、矢張り淋しみ仰いだものが多かつた。
春はやく咲き出でし花のしらうめの褪せゆく頃ぞわびしかりける
花のうちにさかり久しといふうめのさけるすがたのあはれなるかも
ところが今年はまだ一首もこの花の歌を作らない。もう二月も末、恐らくこの花のうちにさかり久しといふうめのさけるすがたのあはれなるかも
その三
『山櫻の歌』が出た。私にとつて第十四册目の歌集に當る。
此處にその十四册の名を出版した順序によつて擧げて見よう。
海の聲 (明治四十一年七月) 生命社
獨り歌へる (同 四十三年一月) 八少女會
別離 (同 年四月) 東雲堂
路上 (同 四十四年九月) 博信堂
死か藝術か (大正 元年九月) 東雲堂
みなかみ (同 二年九月) 籾山書店
秋風の歌 (同 三年四月) 新聲社
砂丘 (同 四年十月) 博信堂
朝の歌 (同 五年六月) 天弦堂
白梅集 (同 六年八月) 抒情詩社
寂しき樹木 (同 七年七月) 南光書院
溪谷集 (同 七年五月) 東雲堂
くろ土 (同 十年三月) 新潮社
山櫻の歌 (同 十二年五月) 新潮社
となるわけである。この間に『秋風の歌』まで七歌集の中から千首ほどを自選して一册に輯めた獨り歌へる (同 四十三年一月) 八少女會
別離 (同 年四月) 東雲堂
路上 (同 四十四年九月) 博信堂
死か藝術か (大正 元年九月) 東雲堂
みなかみ (同 二年九月) 籾山書店
秋風の歌 (同 三年四月) 新聲社
砂丘 (同 四年十月) 博信堂
朝の歌 (同 五年六月) 天弦堂
白梅集 (同 六年八月) 抒情詩社
寂しき樹木 (同 七年七月) 南光書院
溪谷集 (同 七年五月) 東雲堂
くろ土 (同 十年三月) 新潮社
山櫻の歌 (同 十二年五月) 新潮社
行人行歌 (大正 四年四月) 植竹書院
があつたが間もなく絶版になり、同じく最初より第九集『朝の歌』までから千首を拔いた
若山牧水集 (大正 五年十一月) 新潮社
との二册がある。處女歌集『海の聲』出版當時のいきさつをばツイ二三ヶ月前の『短歌雜誌』に書いておいたから此處には
『獨り歌へる』は當時名古屋の熱田から『八少女』といふ歌の雜誌を出して中央地方を兼ね相當に幅を利かしてゐた一團の人たちがあつた。今は大方四散して歌をもやめてしまつた樣だが、鷲野飛燕、同和歌子夫妻などはその頃から重だつた人であつた。その八少女會から出版する事になり、豫約の形でたしか二百部だけを印刷したものであつた。形を菊判にしたのが珍しかつた。
程なく私は當時東雲堂の若主人西村小徑(いまの陽吉)君と一緒に雜誌『創作』を發行することになり、その創刊號と相前後して『別離』を同君方から出すことになつた。意外にこれがよく賣れたので、その前の二册はほんの内緒でやつた形があり、かた/″\で世間ではこの『別離』を私の處女歌集だと思ふ樣な事になつた。また、内容も前二册の殆んど全部を收容したものであつた。これの再版か三版かが出た時に金拾五圓也を貰つて私は甲州の下部温泉といふに出向いた事を覺えて居る。歌集で金を得たこれが最初である。
『創作』の毎月の編輯に間もなく私は飽いた來た。そしていはゆる放浪の旅が戀しく、三四年間で日本全國を


『死か藝術か』に就いても思ひ出がある。喜志子と初めて同棲して新宿の遊女屋の間の或る酒屋の二階を借りてひつそりと住んでゐた。その頃彼女は遊女たちの着物などを縫つて暮してゐたのでそんな所に住む必要があつたのだ。一緒になつて幾月もたゝぬところに私の郷里から父危篤の電報が來た。其處で
郷里には一年ほどゐた。一時よくなつた父がまた急にわるくなつて永眠したあと、いつそ郷里で小學校の教師か村役場にでも出て暮らさうかなどとも考へたのであつたが、矢張りさうもならず、五月ごろであつた、非常に重い心を抱いてまた上京の途についた。そしてその途中、前から手紙などを貰つてゐた伊豫岩城島の三浦敏夫君を訪ふことにした。先づ伊豫の
『みなかみ』の次に出したのが『秋風の歌』であつた。
『みなかみ』を瀬戸内海の島で編輯してゐた時のことで書き落した一事がある。餘りに急變した自分自身の歌の姿に驚いた私は、一首を書いてはやめ、二首を清書しては考へ込み、一向に
とかくして出來上つた『みなかみ』の原稿を持つて上京した私は、程なく小石川の大塚窪町に家を借り、一時信州の里へ歸してあつた妻子(その間に長男が生れてゐた)を呼んで、初めて家庭らしい家庭を構ふることになつた。そして其處に永い間の獨身時代の自由や放縱やまたは最近一二年間の歸省時代の妙に緊張してゐた生活と異つた朝夕が始まつた。鎭靜があり、疲勞があつた。さうした一年間のあひだに詠まれたものが『秋風の歌』である。これは『みなかみ』の奔放緊張は急に影を消していかにも
『秋風の歌』で見るべきは、最初『海の聲』あたりから『路上』に及ぶまで殆んど感傷一方で詠んで來たものが『死か藝術か』に及んで(その名の示すが如く)多少の思索味を加へて來、『みなかみ』で一層その熱を加へてやがて本書に及んでるのであるが、これには熱叫するといふ樣なところがなく、たゞ在るがままの自分を見詰めて歌つてゐるといふ形に表れてゐる事などであらう。
大塚窪町に住んでゐる間に妻が病氣になつた。轉地を要するといふので相模の三浦半島に移り住んだ。大正三年の二月末であつた。そして其處で詠んだものを輯めたのが『砂丘』である。これにはいかにも物蔭に隱れて勞れを休めてゐるといふ樣な、か弱い感傷から詠まれたものが大部分を占めて居る。春の末から夏にかけての景象を歌つたものが多く、いはゞ「夏の疲勞」とも謂ふべき歌集であつた。前に『路上』を出した博信堂主人が一度悉く失敗した後、琴の音譜の本を出して大いに當て日本橋の方に引越して開業してゐる店から出版したのであつた。今でもその當時の樣にこの店が繁昌してゐるかどうか其後一向に消息をしらない。
次が『朝の歌』である。『砂丘』と同じく三浦半島北下浦の漁村で詠んだ歌が大半を占め、東北地方の旅行さきで出來たものが加はつてゐる。同じ三浦半島で詠んだものではあるが、前の『砂丘』とは歌の性質がすつかり變つてゐる。前と違つて歌に生氣がある。しかも『みなかみ』の樣に神經質のそれでなく、おほどかな靜かな力を持つた生き/\しさであると思つて居る。この歌集あたりから私の詠風といふ樣なものがほぼ一定して來たのではないかと考へらるゝ所がある。最近の著『くろ土』『山櫻の歌』はまさしくこの『朝の歌』直系の詠みぶりであると見ることが出來るのである。さういふ所から前の『みなかみ』とはまた異つた意味で私には忘れ難い一册である。これは神樂坂に天弦堂といふを開いてゐた中村一六君の書店から出したのであつたが、これも程なく閉店し、紙型は他へ轉賣せられてしまつた。同じ店から出した散文集『和歌講話』また然りである。
いつまでもその漁村に引込んでゐるわけにゆかず、大正五年の夏から私だけ上京して本郷の下宿に住んで原稿などを書いてゐた。その間に出來た歌を輯めたのが『白梅集』である。これはまた歌の姿が『朝の歌』とは急に變つてゐるのが不思議なほどだ。ひどく神經衰弱的で、そしてすべてが絶望的な主觀で滿ちてゐる。謂はゞ『みなかみ』をきたなくした樣なもので、それだけまた鋭くなつたとはいへるであらう。
これは妻の歌との合著になり、内藤

『寂しき樹木』はその次、巣鴨の天神山に移つた頃、出したものであつた。これはよく『砂丘』の詠みぶりに似通つたもので、即ち夏の輝やかしさとその光の中に疲れて居る自分の心とを詠んだ歌が一册の基調をなしてゐる。細いけれど、何處にか光を含んだものとしてこの本を振返ることが出來る。これは本郷邊の印刷所に勤めてゐた青年が(その以前籾山書店にゐた關係から歌集出版などに眼をつけてゐたと言つてゐた)突然訪ねて來て叢書の中の一編として出したいからと云つて急に原稿を纒めさせられたものであつた。彼はひどく病身で、それに初めての事ではあり、事ごとにまごついて原稿を渡してから出版まで隨分な時間がかかり、ためにその半年ほど後に東雲堂から同じく歌集叢書の一編として出す事になつた『溪谷集』の方が先に町に出てしまつたのであつた。しかも彼はこの一册を(その前に吉井勇君の『毒うつぎ』といふのがあつた)出すと直ぐ死んでしまつた。そしてこの本もそれなりになつてしまつた。印税の約束で出版した『秋風の歌』『砂丘』『朝の歌』『寂しき樹木』、それに散文集二册、すべて初版を出すか出さぬに本屋の都合でその版權が行衞不明になつてしまふなど、よくよくの貧乏性に生れて來たものと苦笑せざるを得ない。
その『寂しき樹木』と前後して出たものに『溪谷集』がある。『朝の歌』と比べれば歌の
其處で自分の歌集の出版が一寸途切れて居る。それまでは必ず一年に一册、どうかすると二册づつも出して來てゐたのであるが、『溪谷集』を出してからまる三年の間何物をも出してゐない。そして大正十年三月に出したのが『くろ土』であり、二年おいて同十二年五月出版のものが即ち最近の『山櫻の歌』となるのである。この二册に就いては多く諸君の