山には別しても秋の來るのが早い。もう八月の暮がたからは、夏の名殘の露草に混つて薄だとか
女郎花だとかいふ草花が白々した露の中に匂ひそめた。大氣は澄んで、蒼い空を限つて立ち並んで居る峯々の頂上などまでどつしりと重みついて來たやうに見ゆる。
漸々紅らみそめた木の實を
搜るいろ/\の鳥の聲は一朝ごとに冴えまさつた。
お盆だ/\と騷がれて、この山脈の所々に散在して居る小さな村々などではお正月と共に年に二度しかない賑かな日の
盂蘭盆も、つい昨日までゝすんだ。一時溪谷の霧や山彦を驚かした盆踊りの太鼓も、既う今夜からは聽かれない。男はみな山深くわけ入つて木を伐り炭を燒くに忙しく、女どもはまた
蕎麥畑の手入や大豆の刈入れをやらねばならなかつたので何れもその
疲勞から早く戸を閉ぢて
睡て了つた。昨夜などはあんなに遲く私の寢るまでもあか/\と點いてゐた河向ひの徳次の家の灯も夙うに見えない。たゞ谷川の瀬の音が澄んだ響を冴え切つた
峽間の空に響かせて、星がきら/\と干乾びて光つて居る。
私は書見に勞れて、机を離れて背延びをしながら

に
凭つた。山々の上に流れ渡つて居る夜の匂ひは冷々と洋燈の傍を離れたあとの勞れた身心に
逼つて來る。何とも言へず心地が快い。馴れたことだが今更らしく私は其處等の谷川や山や
蒼穹などを心うれしく眺め

した。眞實冷々して、單衣と襦袢とを透して迫つて來る夜氣はなか/\に悔
[#「悔」はママ]り難い。一寸時計を見て、灯を吹き消して、廣い座敷のじわ/\と音のする古疊の上を階子段の方に歩いて行つた。
下座敷に降りて見ると、中の十疊にはもうすつかり床がとつてある。けれども寢て居るのは父ばかりで、その禿げ上つた頭を微かな豆ランプの光が靜かに照らして居る。音たてぬやうに廊下に出ると
前栽の草むらに切りに蟲が
喞いて居る。冷い板を踏んでやがて臺所の方に出た。平常は明け放してある襖が矢張り冷いからだらう今夜はきちんと閉めてある。それを見ると何となく胸が沈むやうなさゝやかな淋しさを感じた。
襖を引開くると、中は案外に明るくて、かつと洋燈の輝きが瞳を射る。見ると驚いた、母とお兼とばかりだらうと想つてゐたのに、お米と千代とが來て居て、千代は
圍爐裏近く寄つた母の肩を揉んで居る。
「ヤア!」
と思はず頓狂な聲を出して微笑むと、皆がうち揃つて微笑んで私を見上ぐる。一しきり何等か
談話のあつたあとだなと皆の顏を見渡して私は直ぐ覺つた。
切りに淋しくなつてゐた所へ以て來て案外なこの兩人の若い女の笑顏を見たので、私は妙に常ならず嬉しかつた。母に隣つてお兼が早速座布團を直して呉れたので、勢よくその上に坐つた。さゝやかながら圍爐裡には、火が赤々と燃えて居る。
「如何したの?」
と、矢張り微笑んだまゝで母と兩人の顏を見比べて私は聲をかけた。默つたまゝで笑つてゐる。誰も返事をせぬ。
「たいへん今夜は遲かつたね。」
と、母がそれには答へず例の弱い聲で、
「いま
喚んでおいでと言つてた所だつた。」
と、續くる。
「ナニ、一寸面白い
本を讀んでたものだつたから……え、如何したの、遊びかい、用事かい?」
と兩人を見交して言つてみる。
「え、遊び!」
と、千代が母の陰から笑顏でいふ。
「珍しい事だ、兩人揃つて。」
と、私。
「兩人ともお盆に來なかつたものだから……それにお前今夜は十七夜さんだよ。」
と、私に言つておいて、
「もう可いよ、御苦勞樣、もういゝよ
眞實に!」
と、肩を着物に入れながら、強ひて千代を斷つて、母は火をなほし始めた。
兩人は一歳違ひの姉妹で、私とは
再從妹になつて居る。姉のお米といふのは私より二歳下の今年二十一歳。同じ村内に住んでゐるのではあるが、兩人の居る所から此家までは一里近くも人離れのした峠を越さねばならぬので、
夜間などやつて來るのは珍しい方であつた。
「さうか、それは可かつた、隨分久しぶりだつたね、たいへんな山ん中に引込んでるつてぢやないか。」
と、母の背後から私と向合ひの爐邊に來た妹の方を見ていふと、
「え、たいへんな山ん中!」
と、妙に力を入れて眉を寄せて、笑ひながら答へる。
休暇に歸つて來てから一寸逢ふことは逢うたのであつたが、その時は仕事着のまゝの汚い風であつたのに、今夜は白のあつさりした浴衣がけで、髮にも櫛の目が新しく、顏から唇の邊にも何やら少しづつ匂はせて居るので、珍らしいほど美しく可憐に見ゆる。山家の娘でも矢張り年ごろになれば爭はれぬ
處女らしい色香は匂ひ出て來るものだ。それに兩人ともツイ二三年前までは私の母が引取つてこの家で育てゝ居たので他の山家の娘連中同樣の賤しい風采はつゆほども無かつた。
「淋しいだらう!」
「え、だけど
妾なんか馴れ切つてゐるけれど……
兄さんは淋しいで御ざんせう!」
「ウム、まるで死んでるやうだ。」
「マア、斯んな村に居て!」
と
仰山に驚いて、
「だけれど、東京から歸つて來なさつたんだからねえ!」
と何となく媚びるやうな瞳附で私の眼もとを見詰むる。さも丈夫相な、肉附もよく色の美しい娘で、
勿論爭はれぬ粗野な
風情は附纒うて居るものゝ、この村内では先づ一二位の
容色好しと稱へられて居るのであらう。そんな噂も聞いて居た。
「ア、ほんに、お土産を
難有う御座んした。」
と、丁寧に頭を下ぐる。
「氣に入つたかい?」
「入りやんしたとむ!」
と、ツイ
逸んで
地方訛を使つたので遽てゝ紅くなる。
「ハヽヽヽヽヽ、左樣か、それは
可かつた、左樣か、入りやんしたか、ハヽヽヽ。」
埓もなく笑ふので母も笑ひ、お兼も笑ふ。と、母が、
「マア、米坊よ、お前どうしたのだ、そんな處に一人坊主で、……もつと此方においでよ。」
私も氣がついて振向くと、なるほど姉の方は窓際に寄りつきりで、先刻から殆ど一言も發せずに居る。
「オ、
然うだ、如何したんだね米ちやん、もつと此方に出ておいでよ、寒いだらう、其處は。」
「エー」
と長い鈍い返事をして、
「お月さんが………」
云ひ終らずにおいて身を起しかけて居る。
「お月さん? 然うか、十七夜さんだつたな」
と、私は何心なく立つて窓の側に行つて見た。首をつき出して仰いで見ても空は依然として眞闇だ。星のみが飛び/\に著く光つてる。
「
戲談ぢやない、まだ眞暗ぢやないか!」
「もう出なさりませう。」
と、ゆる/\力無く言ひながら立上つて、爐の方に行つて、妹の下手に
音無しく坐る。氣が附けば浴衣はお揃ひだ、
彼家にしては珍らしいことをしたものだと私は不思議に思つた。
「厭だよ姉さんは、もつと離れて坐んなれ!」
と、妹は自身の膝を揃へながら、
突慳貪に姉にいふ。
すると母が引取つて、
「お前が此方においでよ、斯んなに空いてるぢやないか。」
と、上から被つてゐる自身の夜着の裾を引寄せて妹に言ふ。千代は心もちその方にゐざり寄つた。お兼は母の意を受けて
鑵子に水をさし、薪を添へた。
「姉さんの方が餘程小さいね。」
と兩人を見比べて私がいふ。
妹は姉を見返つてたゞ笑つてる。
「千代坊は精出して働くもんだから。」
と、姉は愼しやかに私に返事して、
「お土産を私にも
難有う御座んした。」
と、これもしとやかに兩手をつく。
「ハヽヽヽヽヽ、これもお氣に入りやんしたらうね。」
そのうち母の平常の癖で
葛湯の御馳走が出た。母自身は胸が
支へてゐるからと言つて、藥用に用ゐ馴れて居る葡萄酒をとり寄せて、吾々にも一杯づつでもと勸むる。私はそれよりもといつて袋戸棚から日本酒の徳利を取出して振つて見ると、案外に澤山入つて居るので、
大悦喜で鑵子の中へさし込む。お兼が氣を利かせて里芋の煮たのと味附海苔とを棚から探し出して呉れる。その海苔は遙々東京から友人が送つて呉れたものだ。
二三杯立續けに一人で飮んで、さて杯を片手にさし出して皆を見

しながら、
「誰か受けて呉んないかな!」
と笑つてると、母も笑つて、
「千代坊、お前兄さんの御對手をしな。」
「マアー」
と言つて、例の媚びるやうな耻しさうな笑ひかたをして、母と私と杯とを活々した輝く瞳で等分に見る。
「ぢや一杯、是非!」
私はもう醉つたのかも知れない、大變元氣が出て面白い。
強ちに
辭みもせず千代は私の杯を受取る。無地の大きなもので父にも私にも大の氣に入りの杯である。お兼はそれになみ/\と
酌いだ。
見て居ると、
苦さうに顏をしかめながらも、美しく飮み乾して、直ぐ私に返した。そしてお兼から徳利を受取つて、またなみ/\と酌ぐ。私は次ぎにそれを姉のお米の方に渡さうとしたが、なか/\受取らぬ。身を小さくして妹の背中にかくれて、少しも飮めませぬと言つてる。千代はわざと身を避けて、
「一杯貰ひね、
兄さんのだから。」
と繰返していふ。面白いので私は少しも杯を引かぬ。
「では、ほんの、少し。」
と
終に受取つた。そしてさも飮みづらさうにしてゐたが、とう/\僅かの酒を他の茶碗に空けて、安心したやうに私に返す。可哀さうにもう眞赤になつて居る。
私は乾してまた千代にさした。一寸
嬌態をして、そして受取る。思ひの外にその後も尚ほ三四杯を重ね得た。私は内心驚かざるを得なかつた。
でも矢張り女で、やがて
全然醉つて了つて、例の充分に發達して居る美しい
五躰の肉には言ひやうもなく綺麗な櫻いろがさして來た。特に
眼瞼のあたりは滴るやうな美しさで、その中に輝いてゐる怜悧さうなやゝ
劒のある双の瞳は
宛然珠玉のやうだ。暑くなつたのだらう、切りに額の汗を拭いて、そして
鬢をかき上ぐる。平常は何處やらに凜とした所のある娘だが、今はその締りもすつかり
脱れて、何とやら身躰がゆつたりとして見ゆる。そして自然口數も多くなつて、立續けにいろ/\の事を私に訊ぬる。いろ/\の事といつても殆ど東京のことのみで、
嘸ぞ東京は、といつた風にまだ見ぬ數百里外のこの大都會の榮華に憧れて居る情を烈しく私に訴ふるに過ぎないのだ。人口一萬の某町に出るのにさへ十四里の山道を
辿らねばならぬ斯んな山の中に生れて、そして、
生中に新聞を見風俗畫報などを讀み得るやうになつてゐるこの若い女性の胸にとつてはそれも全く無理のない事であらう。
私は醉に乘じて盛んに誇張的に喋りたてた。丁度私の歸つて來る僅か以前まで開かれてあつた春の博覽會を先づ第一の種にして、街の美、花の美、人の美、生活の美、あらゆる事について説いた/\、殆ど我を忘れて喋つた。また氣が向けば不思議な位話上手になるのが私の癖で、その晩などは何を言つても酒は飮んでるし、第一若い女を對手のことで、それに幾分自身と血の通つてゐる女であつてみれば、
遠慮會釋のといふことはてんで御無用、途方もなく面白く喋つた。
聽手は勿論頭から醉はされて了つて、母とお兼は既う二三度も繰返して聽かされて居るにも係らず矢張り面白いらしく熱心に耳を傾けて居る。特に最初から私の話對手であつた千代などは全然當てられて、例の瞳はいよいよ輝いて、ともすれば
壞れやうとする膝を掻き合はせては少しづつ身を進ませて、汗を拭いて、一生懸命になつて聽き入つて居る。お米の方はさすがにこの娘の性質で、同じ面白相に聽いては居たやうだが、相變らず默然とした沈んだ風で、見やうによつては
虚心してゐるものゝやうにも見ゆる。顏も蒼白くて、鈍く大きくそして何となく奧の深かり相な瞳のいろ。眼瞼をば時々重も相に開いたり閉ぢたりしてゐる。山家の夜の更けて行く灯の中に斯うしてこの娘が默然として坐つてゐるのに氣が附くと妙に一種の寂しい思ひがして、意味深い
謎でもかけられたやうな氣味を感ぜずには居られない。
語り終つて私は烈しく疲勞を覺えた。聽いて居る人もホツとしたさまで、一時に
四邊がしんとなる。僅かの薪はもう殆ど燃え盡きて居て、洋燈は切りに
滋々と鳴つて窓からは冷い山風がみつしりと吹き込んで來る。
母は氣附いたやうに、兩人の娘に中の間に寢るか次ぎの座敷に寢るかと訊く。何處でもと姉。中の間に一緒がいゝ、二人だけ別に寢るのは淋しいからと妹が主張する。では押入から蒲團を出して、お前達がいゝやうに布くがいゝとのことで、兩人は床とりに座敷に行つた。それを見送り終つて、
「あの事で來たんでせう。」
と低聲で私は母に訊いた。
「ア、左樣よ。」
「如何なりました、どうしても千代が行くんですか。」
「どうも左樣でなくてはあの老爺が承知をせんさうだ。あの娘はまたどうでも厭だと言つて、姉に代れとまで
拗ねてるんだけど、……姉はまたどうでもいゝツて言つてるんけど……どうしても千代でなくては聽かんと言つてる相だ。
因業老爺さねえ。」
「まるで
※々[#「けものへん+非」、30-11]だ。そんな奴だから、若い女でさへあれば誰だツていゝんでせう。誰か他に代理はありませんかねえ、村の娘で。」
「だつてお前、左樣なるとまた第一金だらう。あの通りの欲張りだから、とても取れさうにない借金の代りにこそ千代を/\と言ひ張るのだから。」
如何にも道理な話で、私にはもうそれに
應へることが出來なかつた。
兩人の家はもと十五六里距つた城下の士族であつたのだが、その祖父の代にこの村に全家移住して、立派な暮しを立てゝゐた。が、祖父が亡くなると、あとはその父の無謀な野心のために折角の家畑山林悉く
他手に渡つて、二人の娘を私の家に捨てゝおいたまま父はその頃の流行であつた臺灣の方に逐電したのであつた。そして二三年前飄然と病み衰へた
身躰を
蹌踉はせてまた村に歸つて來て、そして臺灣で知合になつたとかいふ四國者の何とかいう
聾の老爺を連れて來て、四邊の山林から樟腦を作る楠と紙を
製るに用ふる糊の原料である
空木の木とを採伐することに着手した。それで村里からは一二里も引籠つた所に小屋懸けして、私の家で從順に
生長くなつてゐた兩人の娘まで引張り出して行つて、その事を手傳はしてゐた。所が近來その老爺といふのが二人の娘に
五月蠅く附き纒ふやうになつて、特に美しい妹の方には大熱心で、例の借金を最上の武器として、その上尚ほその父親を金で釣り込んだうへ、二人一緒になつて火のやうに攻め立てた。それでどうか逃れやうはなからうかと一寸の
隙を見ては私の母に泣きついて來たのであつた相なが、同じやうに
衰頽して來て居る私の家ではなか/\その借金を拂ひもならず、まア/\と
當もなく慰めてゐたのであつたといふが、いよ/\今夜限りで明日の晩から妹は老爺の小屋に連れ込まれねばならぬことになつたのだ相な。
それでも
既う今夜はあの娘も
斷念めたと見えて、それを話し出した時には
流石に泣いてゐたけれども、平常のやうに父親の惡口も言はず
拗ねもせずあの通りに元氣よくして見せて呉れるので、それを見ると却つて可哀相でと、母は切りに
水洟を拭いてゐる。三人とも默然として圍爐裡の火に對して居ると、やがて兩人の足音がして襖が明いた。耐へかねたやうに妹は笑ひ出して、
「伯父さんが、ホヽヽヽヽヽ姉さんを、
兄さんと間違へて、ホヽヽヽヽヽ。」
蓮葉に立ち乍ら笑つて、尚ほそのあとを云はうとしたらしかつたが、直ぐ自身の事が噂せられた後だと、
吾等の
素振を見て覺つたらしく、笑ふのを半ばではたと止めて、無言にもとの場所に坐つた。私はそれを見ると耐らなく可哀相になつて來たが、何といつて慰めていゝのかも一寸には解らず、わざとその背後に立つてゐる姉に聲かけて、
「何だ、さも寒む相な風をしてるぢやないか。此方へおいでよ。」
と、身を片寄せて微笑みながらいふと、同じく微笑んで、例の重い瞼を動かして私を見詰めてゐたが、やがて默つて以前坐つてゐた場所に座をとつた。
「どれ妾はもう寢よう。明朝はお前だちもゆつくり
寢むがいゝよ。」
と母は立上つて奧へ行つた。お兼もそれを送つて座を立つたので、あとは吾々若いものばかり三人が殘つた。
「
兄さん。」
と不意に千代は聲かけて、
「
蒸汽船は大へん苦しいもんだつてが、……誰でも然うなんでせうか?」
「それは勿論人に由るサ、僕なんか一度もまだ醉つたことは無いが……」
云ひかけて、
「如何するのだ?」
「如何もせんけど……
先日本村のお春さんが豐後の別府に行つてからそんなに手紙を寄越したから……」
と何か
切りに思ひ
乍ら云つて居る。
「別府に? 入湯か?」
「イエ、機織の大きな店があつて、其處に……あの人は近頃やつと絹物が織れるやうになつたのだつたが……妾に時々習ひに來よりましたが……」
談話は切れ/″\の上の空である。で、私は突込んだ。
「行くつもりかい、お前も!」
「イゝ
[#「ゝ」はママ]エ!」
と仰山に驚いて、
「どうして妾が行けますもんけえ!」
と、つとせき上げて來たと見えて見張つた瞳には既う涙が
潮して居る。
「ウム、大變なことになつたんだつてねえ、どうも……
嘸ぞ……厭やだらう!」
返事もせずに
俯頭いてゐる。派手な新しい浴衣の肩がしよんぼりとして云ひ知らず淋しく見ゆる。まだ幾分酒のせゐが殘つてゐると見えて、襟足のあたりから
耳朶などほんのりと染つてゐる。
「どうも然し、仕樣がない。全く思ひ切つて
斷念るより仕方がない。然しね、そんな場合になつたからと云つても、自分の心さへ
確固して
[#「して」は底本では「りして」]ゐたら、また如何とかならうから、そしたら常々お前の言つてたやうに豪くなる
時期が來んとも限らん。第一非常の親孝行なんだから……」
と言ひかけて、ふと見ると、袂を顏にひしと押當てゝ泣きくづれて居る。
私はそれを見て、今強ひて作つて云つた
慰藉とも教訓とも何とも附かぬ自分の言葉を
酷く耻しく覺えた。自己のもとの身分とか又は一家の再興とかいふことに對しては少女ながらに非常に烈しく心を燃やしてゐた彼女にとつては、今度の事件はたゞ單に普通の
處女が老人の
餌食になるといふよりも、更に一種烈しい苦痛であるに相違ない。彼女は
痛く才の勝つた女で、
屹度一生のうちに郷里の人の驚くやうな女になつてやらねば、とは束の間も彼女の胸に斷えたことのない祈願であつた。才といつた所で、もとより斯んな山の奧で育てられた小娘のことなので、世に謂ふ小才の利くといふ位のものに過ぎなかつた。然し兎に角僅か十七八歳の娘としては不相應な才能を
有つてゐるのは事實で、それは附近の若衆連を操縱する上に於ても著しく表はれてゐるらしい。一つは田舍での
器量好であるがためか隨分とその途の情も強い方で現に休暇ごとに歸つて來る私を捉へて、
表はには云ひよらずとも掬んで呉れがしの嬌態をば絶えずあり/\と使つてゐた。然しあまりに私が素知らぬ振をしてゐるので、さすがに
斷念めたものか、昨年あたりからはその事も失くなつてゐた。そしてそれ以後は私の前では打つて變つて愼しやかに
從順くなつてゐた。
何時までも泣いて彼女は顏を上げぬ。私も續いて默つてゐた。爐の火は既に殆ど燃え盡きて厚い眞白の灰が窓からの山風にともすれば飛ばうとする樣で、薪形に殘つて居る。座敷の方で煙草盆を叩く音がする。母と老婢ともまた
屹度この哀れむべき娘のことに就いて、頼り無い噂を交はして居るのであらう。
お米は妹の泣きくづれて居る側に坐つてゐて、別に深く感動したさまも無く、
虚然と、否寧ろ冷然としてそのうしろ髮の邊を見下してゐる。その有樣を見て居ると、今更ながら私は何とも知らずそゞろに一種の
惡感を感ぜざるを得なかつた。兎角するうちとぼ/\足音をさせてお兼が入つて來た。私は立上つて土間に降りて、そして戸を開いて戸外に出た。
戸外はまるで
白晝、つい今しがた山の端を離れたらしい十七夜の月はその秋めいた水々しい光を豐かに四邊の天地に浴びせて居る。戸口の右手、もと大きな物置藏のあつた跡の芋畑の一葉一葉にも殘らずその青やかな
光は流れてゐて、芋の葉の廣いのや畑の縁に立ち並んでゐる
玉蜀黍の葉の粗く長いのが、露を帶び乍らいさゝかの風を見せてきら/\搖らいで居る。今までの室内を出て、直ぐこの畑の月光に對した私は一時に胸の肅然となるのを感じた。蟲の音が何處やらの地上からしめやかに聞えて來る。
そのまま畑に添うて、やがて左手の半ば朽ちかゝつた
築地の中門を潛つて、とろ/\と四五間も降るとこの村の唯一の街道に出る。街道と云つたところで草の青々と茂つた道で、僅かに幅一間もあらうかといふ位ゐ、その前はあまり茂からぬ雜木林がだら/\と坂のままに續いてゐて、
終に谷となる。谷はいまこの冴えた月のひかりを
眞正面に浴びて、數知らぬ小さな銀の珠玉をさらさらと音たてゝうち散らしながら眞白になつて流れて居る。谷を越えては深い森林、次いで小山、次いではどつしりと數千尺も天空を突いて聳え立つ某山脈となつて居る。山も森も何れもみな月光の裡に睡つて水の滴り相な輪郭を靜かな初秋の夜の空に
瞭然と示して居る。
私は路の片側に佇んで、飽くことなく此等の山河を見渡してゐた。酒のあと、心を亂した後に不意に斯かる靜かな自然の中に立つて居ると、名の附けやうのない感情、先づ悲哀とでもいふのか、が何處からともなく胸の中に沁み込んで來る。果ては私は眼をも瞑つて宛も石のやうになつて立つてゐた。
すると背後の中門の所から何時の間に來たのか、
「
兄さん」
と千代が私に聲かけた。
返事はせずに振向くと、例の浴衣の姿が半ば月光を浴びてしよんぼりと立つて居る。
「
兄さん、もう皆
寢みませうつて。」
「ウム、いま、行く。」
と言つておいて私は動きもせず千代を見上げて居る。千代もまたもの言はず其處を去らずに私を見下して居る。
何故とはなく暫しはそのままで兩人は向き合つて立つてゐた。私の胸は澄んだやうでも早や何處やらに大きな
蜿
がうち始めて居る。
やがてして私は驚いた。千代の背後にお米が靜かに歩み寄つて物をも言はずに一寸の間立つてゐて、そうして、
「何してるのけえ?」
と千代に云つた。
「マア!」
としたゝかに千代は打驚かされて、
「何しなるんだらう!」
と、腹立たしげに叱つた。お米は笑ひもせず返事もせぬ。斯くて千代もお米も私も打ち連れて家に入つた。そして臺所の灯をば其處に寢るお兼に頼んでおいて、私等は床の敷いてある座敷に行つた。
片側には父が端で、次が母、その次が私の床。それと枕を向き合はせて片側には彼等姉妹の床、廣い着布團を下に敷いて兩人一緒に寢るやうにしてある。
父もよく睡入つてゐた。病人の母もこの頃はよく睡れる。一つは涼しくなつた氣候のせゐもあるだらう。それを覺さぬやうに私達は靜かに寢支度をして床に入つた。私の方は男のことで、手輕く寢卷に着換へて直ぐと横になつたが、女だと左樣はゆかぬ。一度次の間に行つて、寢衣の用意もないので襦袢一つになつたまゝ、そゝくさと多く私に見られぬやうにと力めながら、何か低聲で云ひ合ひつゝ床に入つた。私とは少し
斜向ひになつて居るので、眼を開けると水々しい結ひ立ての
銀杏返しに赤い手柄をかけたのが二つ相寄つて枕の上に並んだのが灯のなかに見えて居る。髮のほつれや肩のあたりの肉の丸み、千代は此方側に寢て居るのだ。
それを見て居るとまた種々のことが思ひ

らされて、胸は痛むまでに亂れて、なか/\に睡られ相にない。千代も左樣らしくあちこち寢返りをして、ふと私と顏を見合はせては淋しく微笑む。
噫、その優しい美しい淋しい笑顏、見る毎に私の胸は今更らしくせき上げて來るのであつた。千代がそんな風であるからだらう、お米も同じく睡られぬらしく、何かともぢ/\してゐたが終に彼女の發議で枕もとの灯を消すことにした。
灯を消すと一段と私の眼は冴えた。父の鼾母の寢息、相變らず姉妹の身を動かして居る樣子など交々胸に響いて、いつしか頭はしん/\と痛み始めて居る。これではと私の常に
行り馴れて居る催眠法をいろ/\と
行つて辛くもとろ/\と夢うつゝの裡に睡るとも覺めるともなき状態に陷つて了つた。それがどの位の間續いてゐたであらう。
不圖、
「伯母さん」
といふ聲が微かに耳に入つた、千代のだ。尚ほ耳を澄ませて居ると、また、
「伯母さん」
と
極めての
低聲。
それから暫く間を置いて、更に一層きゝとれぬ程に低く、
「
兄さん」
といふ。私はどきつとして、
故らに息を殺した。それからはもう何とも云はぬ。空耳だつたかなと思つてゐると、今度は確かに身を動かして居る容子が聽ゆる。私は思はず眼を見開いてその方を見遣つたが、油のやうな闇で何にもわからぬ。と、
暫て疊の音がする。此方へ來るのかなと想ふと私は一時にかつと
逆上せて吾知らず枕を外して布團を
被いだ。
程なく千代は私の枕がみに來て、そしてぶる/″\と打慄ふ聲で、
「
兄さん、
兄さん!」
と二聲續けた。そして
終にその手を私の布團にかけたので、同じく私も滿身に火のやうな戰慄を感じた時、
「千代坊、何
爲てゐるのけえ、お前は!」
とあまり騷ぎもせぬはつきりした聲で、お米が突然云ひかけた。
「アラ!」
と消え入るやうに驚き
周章へて小さな鋭い聲で叫んだが、直ぐまた調子を變へて、落着かせて、
「何も何も、……灯を點けて……一寸
便所にゆき度いのだから……マツチは何處け。」
と、漸次判然と云ひ來つて、そして更めて起き上つてマツチを探し始めた。お米はもう何も言はぬ。私は依然睡入つた風を裝うてゐたのであつたが、動悸は浪のやうで、冷い汗が全身を浸して居る。やがて千代は便所に行つて來た。そして姉に布團を何とやら云ひ乍ら、又灯を消して枕に着いた。
それから暫くはまた私も睡入られなかつたが、疲勞の極でか、そのうちにおど/\と不覺の境に入つて了つた。
次いで眼を覺されたのが
東明時、頓狂な母の聲に呼び起されて見て、私は殆ど眞青になつた。千代はその時既にその床の中に居なかつた。
書置の何のといふものもなく、逃げたのか、それとも何處ぞで死んでゐるのか、それすら解らぬ。あの娘のことだ、とても死にはせぬ、若し死ぬにしたら人の
眼前に
死屍をつきつけてからでなくては死なぬ、どうしても逃げ出したに相違ない、逃げたとすれば某港の方向だ、女の足ではまだ遠くは行かぬ、それ誰々に追懸けて貰へ、と母は既に半狂亂の態である。
然し、私は思つた、一旦逃げ出してみすみす捉へらるゝやうな半間な眞似はあの娘に限つて
爲る氣遣はない、とうとうあの娘は逃げ出した、身にふりかゝつた苦痛を脱して、朝夕憧れ拔いて居る功名心を滿足せしむべく、あの
孱弱い少女の一身を
賭して澎湃たる世の濁流中に漕ぎ出したと。
何よりも早くあの父親に告げ知らせねば、と母は此方にも氣を揉んで、早速若い男を使した。半病人の彼女の老父は殆んど狂人のやうになつて、その片意地に凝り固つた兩眼に憤怒の涙を湛へつゝ
息急とやつて來た。そして一人の娘の行衞などを氣遣ふといふよりも、先づ眞先に一人殘つた姉のお米を引捉へて、斯く叫び立てた。
「可し、ぢや貴樣が彼奴の
代理になるんだぞ、もう今度こそは!」
と、血の樣な眼をして娘を睨みすゑた。
幾人も集つて居る中に混つて、私も同じくハラ/\としながら見詰めて居ると、案外にも娘は、お米は、
「ハイ」
と低く云つて、例の大きい鈍い瞳を閉ぢて、そして又開いた。