みなかみ紀行

若山牧水




序文




 幼い紀行文をまた一冊に纏めて出版することになった。実はこれは昨年の九月早々市上に出る事になっていて既に製本済になり製本屋に積上げられてあったところを例の九月一日の震火に焼かれてしまったものであった。幸い紙型だけは無事に印刷所の方に残っていたので、本文をばすべてもとのままにし、僅かにこの序文だけを書き改めて出すことになったのである。

 紀行文集として本書は私の第三冊目にあたる。第一は『比叡と熊野』(大正八年九月発行)、第二は『静かなる旅をゆきつつ』(大正十年七月発行)、そしてこれである。なおそれ以前雑文集として出したものの中にも数篇の紀行文があったとおもう。
 本書に輯めた十二篇は、新しいのを初めに、旧い作を終りの方に置いてある。即ち「みなかみ紀行」は昨年四月初めの執筆で最後の「伊豆紀行」は一昨々年あたりに書いたものであった。或る一つの旅のことを幾つかの題目のもとに分けて書いてあるのがあるが、これは新聞や雑誌等から求められて書いた場合にその要求の行数や期日に合わすために自ずとうなったもので、中には永い時日を間に置いて書き継いだものなどもある。従って文体や筆致及び文の長短等に調和を欠いた処のあるを憾む。
 なお言い添えておきたいのは、私の出懸ける旅は多く先ず心をるための旅である。ためにその紀行文もともすればその場その場の気持や情緒を主としたものとなりがちで、どうしても案内記風のものとは離れてゆこうとする。で、大概は当っているであろうが、文中に認められた里数とか方角とかに就いては必ずしも正確を期し難いという事である。要するに若し読者が私と共にこれら山川の間に心を同じゅうして逍遥し得らるる様な事にでもなれば本書出版の望みは達せられたと見ていいのである。

 旅ほど好ましいものはない。斯うして旅に関して筆を執っていると早やもう心のなかには其処そこ等の山川草木のみずみずしい姿がはっきりと影を投げて来ているのである。折も折、いまは一年中落葉のころと共に私の最も好む若葉の季節で、峰から渓間、渓間から野原にかけて茂っているであろう樹木たち、その間に啼きかわして遊んでいるであろういろいろの鳥たちのことを考えると、しみじみ胸の底が痛んで来る。
 旅はほんとに難有ありがたい。よき旅をし、次第によき紀行文を書いてゆきたいものといままた改めて思う。

大正十三年五月廿日
富士山麓沼津市にて
若山牧水
[#改丁]

みなかみ紀行





 十月十四日午前六時沼津発、東京通過、其処よりM―、K―、の両青年を伴い、夜八時信州北佐久郡御代田みよた駅に汽車を降りた。同郡郡役所所在地岩村田町に在る佐久新聞社主催短歌会に出席せんためである。駅にはS―、O―、両君が新聞社の人と自動車で出迎えていた。大勢それに乗って岩村田町に向う。高原の闇を吹く風がひしひしと顔に当る。佐久ホテルへ投宿。
 翌朝、まだ日も出ないうちからM―君たちは起きて騒いでいる。永年あこがれていた山の国信州へ来たというので、寝ていられないらしい。M―は東海道の海岸、K―は畿内平原の生れである。
「あれが浅間、こちらが蓼科、その向うが八ヶ岳、此処ここからは見えないがこの方角に千曲川が流れているのです」
 と土地生れのS―、O―の両人があれこれと教えて居る。四人とも我等が歌の結社創作社社中の人たちである。今朝もかなりに寒く、近くで頻りに野羊やぎの鳴くのが聞えていた。
 私の起きた時には急に霧がおりて来たが、やがて晴れて、見ごとな日和になった。遠くの山、ツイ其処に見ゆる落葉松の森、障子をあけて見ているといかにも高原の此処に来ている気持になる。私にとって岩村田は七八年振りの地であった。
 お茶の時に野羊の乳を持って来た。
「あれのだネ」
 と、皆がその鳴声に耳を澄ます。
 会の始るまで、と皆の散歩に出たあと、私は近くの床屋で髪を刈った。今日は日曜、土地の小学校の運動会があり、また三杉磯一行の相撲があるとかで、その店もこんでいた。床屋の内儀の来る客をみな部屋に招じて炬燵に入れ、茶をすすめて居るのが珍しかった。
 歌会は新聞社の二階で開かれた。新築の明るい部屋で、麗らかに日がさし入り、階下に響く印刷機械の音も酔って居る様な静かな昼であった。会者三十名ほど、中には松本市の遠くから来ている人もあった。同じく創作社のN―君も埴科はにしな郡から出て来ていた。夕方閉会、続いて近所の料理屋で懇親会、それが果ててもなお別れかねて私の宿屋まで十人ほどの人がついて来た。そして泊るともなく泊ることにより、みんなが眠ったのは間もなく東の白む頃であった。
 翌朝は早く松原湖へゆく筈であったが余りに大勢なので中止し、軽便鉄道で小諸町へ向う事になった。同行なお七八人、小諸町では駅を出ると直ぐ島崎さんの「小諸なる古城のほとり」の長詩で名高い懐古園に入った。そしてその壊れかけた古石垣の上に立って望んだ浅間の大きな裾野の眺めは流石さすがに私の胸をときめかせた。過去十四五年の間に私は二三度も此処に来てこの大きな眺めに親しんだものである。ことにそれはいつも秋の暮れがたの、昨今の季節に於てであった。急に千曲川の流が見くなり、園のはずれの嶮しい松林の松の根を這いながら二三人して降りて行った。林の中には松に混った栗や胡桃くるみが実を落していた。胡桃を初めて見るというK―君は喜んで湿った落葉を掻き廻してその実を拾った。まだ落ちて間もない青いものばかりであった。久しぶりの千曲川はその林のはずれの崖の真下に相も変らず青く湛えて流れていた、川上にも川下にも真白な瀬を立てながら。
 昨日から一緒になっているこの土地のM―君はこの懐古園の中に自分の家を新築していた。そして招かれて其処でお茶代りの酒を馳走になった。杯を持ちながらの話のなかに、私が一度二度とこの小諸に来る様になってから知り合いになった友達四人のうち、残っているのはこのM―君一人で、あと三人はみなもう故人になっているという事が語り出されて今更らにお互い顔が見合わされた。ことにそのなかの井部李花君に就いて私はういう話をした。私がこちらに来る四五日前、一晩東海道国府津こうづの駅前の宿屋に泊った。宿屋の名は蔦屋と云った。聞いた様な名だと、幾度か考えて考え出したのは、数年前その蔦屋に来ていて井部君は死んだのであったのだ。それこれの話の末、我等はその故人の生家が土地の料理屋であるのを幸い、其処に行って昼飯を喰べようということになった。
 思い出深いその家を出たのはもう夕方であった。駅で土地のM―君と松本市から来ていたT―君とに別れ、あとの五人は更らに私の汽車に乗ってしまった。そして沓掛駅下車、二十町ほど歩いて星野温泉へ行って泊ることになった。
 この六人になるとみな旧知の仲なので、その夜の酒は非常に賑やかな、かもしみじみしたものであった。鯉の塩焼だの、しめじの汁だの、とろろ汁だの、何の缶詰だのと、勝手なことを云いながら夜遅くまで飲み更かした。丁度部屋も離れの一室になっていた。折々水を飲むために眼をさまして見ると、頭をつき合わす様にして寝ているめいめいの姿が、酔った心に涙の滲むほど親しいものに眺められた。
 それでも朝はみな早かった。一浴後、飯の出る迄とて庭さきから続いた岡へ登って行った。岡の上の落葉松林の陰には友人Y―君の画室があった。彼は折々東京から此処へ来て製作にかかるのである。今日は門も窓も締められて、庭には一面に落葉松の落葉が散り敷き、それに真紅な楓の紅葉が混っていた。林を過ぐると真上に浅間山の大きな姿が仰がれた。山にはいま朝日の射して来る処で、豊かな赤茶けた山肌全体がくっきりと冷たい空に浮き出ている。煙は極めて僅かに頂上の円みに凝っていた。初めてこの火山を仰ぐM―君の喜びはまた一層であった。
 朝飯の膳に持ち出された酒もかなり永く続いていつか昼近くなってしまった。その酒の間に私はいつか今度の旅行計画を心のうちですっかり変更してしまっていた。初め岩村田の歌会に出て直ぐ汽車で高崎まで引返し、其処で東京から一緒に来た両人に別れて私だけ沼田の方へ入り込む。それから片品川に沿うて下野の方へ越えて行く、とそういうのであったが、斯うして久しぶりの友だちと逢って一緒にのんびりした気持に浸っていて見ると、なんだかそれだけでは済まされなくなって来た。もう少しゆっくりと其処等の山や谷間を歩き廻りたくなった。其処で早速頭の中に地図をひろげて、それからそれへとすじをつけて行くうちに、いつか明瞭に順序がたって来た。「よし……」と思わず口に出して、私は新計画を皆の前に打ちあけた。
「いいなア!」
 と皆が云った。
「それがいいでしょう、どうせあなただってももう昔の様にポイポイ出歩くわけには行くまいから」
 とS―が勿体ぶって附け加えた。
 そうなるともう一つ新しい動議が持ち出された。それならこれから皆していっそ軽井沢まで出掛け、其処の蕎麦屋で改めて別盃を酌んで綺麗に三方に別れ去ろうではないか、と。無論それも一議なく可決せられた。
 軽井沢の蕎麦屋の四畳半の部屋に六人は二三時間坐り込んでいた。夕方六時草津鉄道で立ってゆく私を見送ろうというのであったが、要するにそうして皆ぐずぐずしていたかったのだ。土間つづきのきたない部屋に、もう酒にもいてぼんやり坐っていると、破障子の間からツイ裏木戸の所に積んである薪が見え、それに夕日が当っている。それを見ていると私は少しずつ心細くなって来た。そしてどれもみな疲れた風をして黙り込んでいる顔を見るとなく見廻していたが、やがてK―君に声かけた。
「ねエK―君、君一緒に行かないか、今日この汽車で嬬恋まで行って、明日川原湯泊り、それから関東耶馬渓に沿うて中之条に下って渋川高崎と出ればいいじゃアないか、僅か二日余分になるだけだ」
 みなK―君の顔を見た。彼は例のとおり静かな微笑を口と眼に見せて、
「行きましょうか、行ってよければ行きます、どうせこれから東京に帰っても何でもないんですから」
 と云った、まったくこのうちで毎日の為事しごとを背負っていないのは彼一人であったのだ。
「いいなア、羨しいなア」
 とM―君が云った。
「エラいことになったぞ、然し、行き給い、行った方がいい、この親爺さん一人出してやるのは何だか少し可哀相になって来た」
 と、N―が酔った眼をじて、頭を振りながら云った。
 小さな車室、畳を二枚長目に敷いた程の車室に我等二人が入って坐っていると、あとの四人もてんでに青い切符を持って入って来た。彼等の乗るべき信越線の上りにも下りにもまだ間があるのでその間に旧宿まで見送ろうと云うのだ。感謝しながらざわついていると、直ぐ軽井沢旧宿駅に来てしまった。此処で彼等は降りて行った。左様なら、左様なら、また途中で飲み始めなければいいがと気遣われながら、左様なら左様ならと帽子を振った。小諸の方に行くのは三人づれだからまだいいが、一人東京へ帰ってゆくM―君には全く気の毒であった。
 我等の小さな汽車、唯だ二つの車室しか持たぬ小さな汽車はそれからごっとんごっとんと登りにかかった。曲りくねって登ってゆく。車の両側はすべて枯れほおけた芒ばかりだ。そして近所は却ってうす暗く、遠くの麓の方に夕方の微光が眺められた。
 疲れと寒さが闇と一緒に深くなった。登り登って漸く六里ヶ原の高原にかかったと思われる頃には全く黒白もわかぬ闇となったのだが、車室には灯を入れぬ。イヤ、一度小さな洋燈をともしたには点したが、すぐ風で消えたのだった。一二度停車して普通の駅で呼ぶ様に駅の名を車掌が呼んで通りはしたが、其処には停車場らしい建物も灯影も見えなかった。漸く一つ、やや明るい所に来て停った。「二度上」という駅名が見え、海抜三八〇九フィートと書いた棒がその側に立てられてあった。見ると汽車の窓のツイ側には屋台店を設け洋燈を点し、四十近い女が子を負って何か売っていた。高い台の上に二つほど並べた箱には柿やキャラメルが入れてあった。そのうちに入れ違いに向うから汽車が来る様になると彼女は急いで先ず洋燈を持って線路の向う側に行った。其処にもまた同じ様に屋台店がこしらえてあるのが見えた。そして次ぎ次ぎに其処へ二つの箱を運んで移って行った。
 この草津鉄道の終点嬬恋駅に着いたのはもう九時であった。駅前の宿屋に寄って部屋に通ると炉が切ってあり、やがて炬燵をかけてくれた。済まないが今夜風呂を立てなかった、向うの家に貰いに行ってくれという。提灯をさげた小女のあとについてゆくとそれは線路を越えた向側の家であった。途中で女中がころんで灯を消したため手探りで辿り着いて替る替るぬるい湯に入りながら辛うじて身体を温める事が出来た。その家は運送屋か何からしい新築の家で、家財とても見当らぬ様ながらんとした大きな囲炉裡端に番頭らしい男が一人新聞を読んでいた。

十月十八日。

 昨夜炬燵に入って居る時から渓流の音は聞えていたが夜なかに眼を覚して見ると、雨も降り出した様子であった。気になっていたので、戸の隙間の白むを待って繰りあけて見た。案の如く降っている。そしてこの宿が意外にも高い崖の上に在って、その真下に渓川の流れているのを見た。まさしくそれは吾妻川の上流であらねばならぬ。雲とも霧ともつかぬものがその川原に迷い、向う岸の崖に懸り、やがて四辺をどんよりと白く閉している。便所には草履が無く、顔を洗おうには洗面所の設けもないというこの宿屋で、難有いのはただ炬燵であった。それほどに寒かった。聞けばもうこの九月のうちに雪が来たのであったそうだ。
 寒い寒いと云いながらも窓をあけて、顎を炬燵の上に載せたまま二人ともぼんやりと雨を眺めていた。これから六里、川原湯まで濡れて歩くのがいかにも侘しいことに考えられ始めたのだ。それかと云ってこの宿に雨のあがるまで滞在する勇気もなかった。酔った勢いで斯うした所へ出て来たことがそぞろに後悔せられて、いっそまた軽井沢へ引返えそうかとも迷っているうちに、意外に高い汽笛を響かせながら例の小さな汽車は宿屋の前から軽井沢をさして出て行ってしまった。それに乗り遅れれば、午後にもう一度出るのまで待たねばならぬという。
 が、草津行きの自動車ならば程なく此処から出るということを知った。そしてまた頭の中に草津を中心に地図を展げて、第二の予定を作ることになった。
 そうなると急に気も軽く、窓さきに濡れながらそよいでいる痩せ痩せたコスモスの花も、遥か下に煙って見ゆる渓の川原も対岸の霧のなかに見えつ隠れつしている鮮かな紅葉の色も、すべてみな旅らしい心をそそりたてて来た。
 やがて自動車に乗る。かなり危険な山坂を、しかも雨中のぬかるみに馳せ登るのでたびたび胆を冷やさせられたが、それでも次第に山の高みに運ばれてゆく気持は狭くうす暗い車中にいてもよく解った。ちらちらと見え過ぎてゆく紅葉の色は全く滴る様であった。
 草津ではこの前一度泊った事のある一井旅館というへ入った。私には二度目の事であったが、初めて此処へ来たK―君はこの前私が驚いたと同じくこの草津の湯に驚いた。宿に入ると直ぐ、宿の前に在る時間湯から例の侘しい笛の音が鳴り出した。それに続いて聞えて来る湯揉みの音、湯揉みの唄。
 私は彼を誘ってその時間湯の入口に行った。中には三四十人の浴客がすべて裸体になり幅一尺長さ一間ほどの板を持って大きな湯槽の四方をとり囲みながら調子を合せて一心に湯を揉んでいるのである。そして例の湯揉みの唄を唄う。先ず一人が唄い、唄い終ればすべて声を合せて唄う。唄は多く猥雑なものであるが、しかもうたう声は真剣である。全身汗にまみれ、自分の揉む板の先の湯の泡に見入りながら、声を絞ってうたい続けるのである。
 時間湯の温度はほぼ沸騰点に近いものであるそうだ。そのために入浴に先立って約三十分間揉みに揉んで湯を柔らげる。柔らげ終ったと見れば、各浴場ごとに一人ずつついている隊長がそれと見て号令を下す。汗みどろになった浴客は漸く板を置いて、やがて暫くの間各自柄杓をとって頭に湯を注ぐ、百杯もかぶった頃、隊長の号令で初めて湯の中へ全身を浸すのである。湯槽には幾つかの列に厚板が並べてあり、人はとりどりにその板にしがみ附きながら隊長の立つ方向に面して息を殺して浸るのである。三十秒が経つ。隊長が一種気合をかける心持で或る言葉を発する。衆みなこれに応じて「オオウ」と答える。答えるというより捻るのである。三十秒ごとにこれを繰返し、かっきり三分間にして号令のもとに一斉に湯から出るのである。その三分間の間は、僅かに口にその返事を称うるほか、手足一つ動かす事を禁じてある。動かせばその波動から熱湯が近所の人の皮膚を刺すがためであるという。
 この時間湯に入ること二三日にして腋の下や股のあたりの皮膚が爛れて来る。やがては歩行も、ひどくなると大小便の自由すら利かぬに到る。それに耐えて入浴を続くること約三週間で次第にその爛れが乾き始め、ほぼ二週間で全治する。その後の身心の快さは、殆んど口にする事の出来ぬほどのものであるそうだ。そう型通りにゆくわけのものではあるまいが、効能の強いのは事実であろう。笛の音の鳴り響くのを待って各自宿屋から(宿屋には穏かな内湯がある)時間湯へ集る。杖に縋り、他に負われて来るのもある。そして湯を揉み、唄をうたい、煮ゆるごとき湯の中に浸って、やがてまた全身を脱脂綿に包んで宿に帰ってゆく。これを繰返すこと凡そ五十日間、斯うした苦行が容易な覚悟で出来るものでない。
 草津にこの時間湯というのが六個所に在り、日に四回の時間をきめて、笛を吹く。それにつれて湯揉みの音が起り、唄が聞えて来る。
たぎりくいで湯のたぎりしづめむと病人やまうどつどひ揉めりその湯を
湯を揉むとうたへる唄は病人やまうどがいのちをかけしひとすぢの唄
上野かみつけの草津に来り誰も聞く湯揉ゆもみの唄を聞けばかなしも

十月十九日。

 降れば馬を雇って沢渡さわたり温泉まで行こうと決めていた。起きて見れば案外な上天気である。大喜びで草鞋を穿く。
 六里ヶ原と呼ばれている浅間火山の大きな裾野に相対して、白根火山の裾野が南面して起って居る。これは六里ヶ原ほど広くないだけに傾斜はそれより急である。その嶮しく起って来た高原の中腹の一寸した窪みに草津温泉はあるのである。で、宿から出ると直ぐ坂道にかかり、五六町もとろとろと登った所が白根火山の裾野の引く傾斜の一点に当るのである。其処の眺めは誠に大きい。
 正面に浅間山が方六里にわたるという裾野を前にその全体を露わして聳えている。聳ゆるというよりいかにもおっとりと双方に大きな尾を引いて静かに鎮座しているのである。朝あがりのさやかな空を背景に、その頂上からは純白な煙が微かに立ってやがて湯気の様に消えている。空といい煙といい、山といい野原といいすべてが濡れた様に静かで鮮かであった。湿ったつちをぴたぴたと踏みながら我等二人は、いま漸く旅の第一歩を踏み出す心躍りを感じたのである。地図を見ると丁度その地点が一二〇八米突メートルの高さだと記してあった。
 とりどりに紅葉した雑木林の山を一里半ほども降って来ると急に嶮しい坂に出会った。見下す坂下には大きな谷が流れ、その対岸に同じ様に切り立った崖の中ほどには家の数十戸か二十戸か一握りにしたほどの村が見えていた。九十九折つづらおりになったその急坂を小走りに走り降ると、坂の根にも同じ様な村があり、普通の百姓家と違わない小学校なども建っていた。対岸の村は生須村、学校のある方は小雨村と云うのであった。
九十九折けはしき坂を降り来れば橋ありてかゝるかひの深みに
おもはぬに村ありて名のやさしかる小雨の里といふにぞありける
蚕飼こがひせし家にかあらむを壁を抜きて学校となしつ物教へをり
学校にもの読める声のなつかしさ身にしみとほる山里過ぎて
 生須村を過ぎると路はまた単調な雑木林の中に入った。今までは下りであったが、今度はとろりとろりと僅かな傾斜を登ってゆくのである。日は朗らかに南から射して、路にうずたかい落葉はからからに乾いている。音を立てて踏んでゆく下からは色美しい栗の実が幾つとなく露われて来た。多くは今年葉である真新しい落葉も日ざしの色を湛え匂を含んでとりどりに美しく散り敷いている。おりおりそのなかに竜胆の花が咲いていた。
 流石さすがに広かった林も次第に浅く、やがて、立枯の木の白々と立つ広やかな野が見えて来た。林から野原へ移ろうとする処であった。我等は双方からおおどかになだれて来た山あいに流るる小さな渓端を歩いていた。そしてその渓の上にさし出でて、眼覚むるばかりに紅葉した楓の木を見出した。
 我等は今朝草津を立つとからずっと続いて紅葉のなかをくぐって来ていたのである。楓を初め山の雑木は悉く紅葉していた。あたかも昨日今日がその真盛りであるらしく見受けられた。けれどいま眼の前に見出でて立ち留って思わずも声を挙げて眺めた紅葉の色はまた別であった。楓とは思われぬ大きな古株から六七本に分れた幹が一斉に渓に傾いて伸びている。その幹とてもすべて一抱えの大きさで丈も高い。漸く今日あたりから一葉二葉と散りそめたという様に風も無いのに散っている静かな輝やかしい姿は、自ら呼吸を引いて眺め入らずにはいられぬものであった。二人は路から降り、そのさし出でた木の真下の川原に坐って昼飯をたべた。手を洗い顔を洗い、つぎつぎに織りついだ様に小さな瀬をなして流れている水をんでゆっくりと喰べながら、日の光を含んで滴る様に輝いている真上の紅葉を仰ぎ、また四辺の山にぴったりと燃え入っている林のそれを眺め、二人とも言葉を交さぬ数十分の時間を其処で送った。
枯れし葉とおもふもみぢのふくみたるこの紅ゐをなんと申さむ
露霜のとくるがごとく天つ日の光をふくみにほふもみぢ葉
渓川の真白川原にわれ等ゐてうちたたへたり山の紅葉を
もみぢ葉のいま照り匂ふ秋山の澄みぬるすがた寂しとぞ見し
 其処を立つと野原にかかった。眼につくは立枯の木の木立である。すべて自然に枯れたものでなく、みな根がたのまわりを斧で伐りめぐらして水気をとどめ、そうして枯らしたものである。半ばは枯れ半ばはまだ葉を残しているのも混っている。見れば楢の木である。二抱え三抱えに及ぶ夫等それらの大きな老木がむっちりと枝を張って見渡す野原の其処此処に立っている。野には一面に枯れほおけた芒の穂が靡き、その芒の浪を分けてかすかな線条すじを引いた様にも見えているのは植えつけてまだ幾年も経たぬらしい落葉松の苗である。この野に昔から茂っていた楢を枯らして、代りにこの落葉松の植林を行おうとしているのであるのだ。
 帽子に肩にしっとりと匂っている日の光をうら寂しく感じながら野原の中の一本路を歩いていると、おりおり鋭い鳥の啼声を聞いた。久し振りに聞く声だとは思いながら定かに思いあたらずにいると、やがて木から木へとび移るその姿を見た。啄木鳥きつつきである。一羽や二羽でなく、広い野原のあちこちで啼いている。更らにまたそれよりも澄んで暢びやかな声を聞いた。高々と空に翔びすましている鷹の声である。
落葉松の苗を植うると神代振り古りぬる楢をみな枯らしたり
楢の木ぞ何にもならぬ醜の木と古りぬる木々をみな枯らしたり
木々の根の皮剥ぎとりて木々をみな枯木とはしつ枯野とはしつ
伸びかねし枯野が原の落葉松は枯芒よりいぶせくぞ見ゆ
下草のすゝきほゝけて光りたる枯木が原の啄木鳥の声
枯るゝ木にわく虫けらをついばむと啄木鳥は啼く此処の林に
立枯の木々しらじらと立つところたまたまにして啄木鳥の飛ぶ
啄木鳥の声のさびしさ飛び立つとはしなく啼ける声のさびしさ
紅ゐの胸毛を見せてうちつけに啼く啄木鳥の声のさびしさ
白木なす枯木が原のうへにまふ鷹ひとつ居りて啄木鳥は啼く
ましぐらにまひくだり来てものを追ふ鷹あらはなり枯木が原に
耳につく啄木鳥の声あはれなり啼けるをとほくさかり来りて
 ずっと一本だけ続いて来た野中の路が不意に二つに分れる処に来た。小さな道標が立ててある。曰く、右沢渡温泉道、左花敷温泉道。
 枯芒を押し分けてこの古ぼけた道標の消えかかった文字を辛うじて読んでしまうと、私の頭にふらりと一つの追憶が来て浮んだ。そして思わず私は独りごちた。「ほほオ、斯んな処から行くのか、花敷温泉には」と。
 私は先刻この野にかかってからずっと続いて来ている物静かな沈んだ心の何とはなしに波だつのを覚えながら、暫くその小さな道標の木を見て立っていたが、K―君が早や四五間も沢渡道の方へ歩いているのを見ると、其儘そのままに同君のあとを追うた。そして小一町も二人して黙りながら進んだ。が、終には私は彼を呼びとめた。
「K―君、どうだ、これから一つあっちの路を行って見ようじゃアないか、そして今夜その花敷温泉というのへ泊って見よう」
 不思議な顔をして立ち留った彼に、私は立ちながらいま頭に影のごとくに来て浮んだ花敷温泉に就いての思い出を語った。三四年も前である。今度とは反対に吾妻川の下流の方から登って来て草津温泉に泊り、案内者を雇うて白根山の噴火口の近くを廻り、渋峠を越えて信州の渋温泉へ出た事がある。五月であったが白根も渋も雪が深くて、渋峠にかかると前後三里がほどはずっと深さ数尺の雪を踏んで歩いたのであった。その雪の上に立ちながら年老いた案内者が、やはり白根の裾つづきの広大な麓の一部を指して、彼処にも一つ温泉がある、高い崖の真下の岩のくぼみに湧き、草津と違って湯が澄み透って居る故に、その崖に咲く躑躅や其他の花がみな湯の上に影を落す、まるで底に花を敷いている様だから花敷温泉というのだ、と云って教えてれた事があった。下になるだけ雪が斑らになっている遠い麓に、谷でも流れているか、丁度模型地図を見るとおなじく幾つとない細長い窪みが糸屑を散らした様にこんがらがっている中の一個所にそんな温泉があると聞いて私の好奇心はひどく動いた。第一、そんなところに人が住んで、そんな湯に浸っているという事が不思議に思われたほど、その時其処を遥かな世離れた処に眺めたものであったのだ。それがいま思いがけなく眼の前の棒杭に「左花敷温泉道、是より二里半」と認めてあるのである。
「どうだね、君行って見ようよ、二度とこの道を通りもすまいし、……その不思議な温泉をも見ずにしまう事になるじゃアないか」
 その話に私と同じく心を動かしたらしい彼は、一も二もなく私のこの提議に応じた。そして少し後戻って、再びよく道標の文字を調べながら、文字のさし示す方角へ曲って行った。
 今までよりは嶮しい野路の登りとなっていた。立枯の楢がつづき、おりおり栗の木も混って毬と共に笑みわれたその実を根がたに落していた。
夕日さす枯野が原のひとつ路わが急ぐ路に散れる栗の実
音さやぐ落葉が下に散りてをるこの栗の実の色のよろしさ
柴栗の柴の枯葉のなかばだに如かぬちひさき栗の味よさ
おのづから干て搗栗かちぐりとなりてをる野の落栗の味のよろしさ
この枯野ししも出でぬか猿もゐぬか栗美くしう落ちたまりたり
かりそめにひとつ拾ひつ二つ三つ拾ひやめられぬ栗にしありけり
 芒の中の嶮しい坂路を登りつくすと一つの峠に出た。一歩其処を越ゆると片側はうす暗い森林となっていた。そしてそれがまた一面の紅葉の渦を巻いているのであった。北側の、日のささぬ其処の紅葉は見るからに寒々として、濡れてもいるかと思わるる色深いものであった。然し、途中でややこの思い立ちの後悔せらるるほど路は遠かった。一つの渓流に沿うて峡間を降り、やがてまた大きな谷について凹凸烈しい山路を登って行った。十戸二十戸の村を二つ過ぎた。引沼村というのには小学校があり、山蔭のもう日も暮れた地面を踏み鳴らしながら一人の年寄った先生が二十人ほどの生徒に体操を教えていた。
先生の一途なるさまもなみだなれ家十ばかりなる村の学校に
ひたひたと土踏み鳴らし真裸足に先生は教ふその体操を
先生の頭の禿もたふとけれ此処に死なむと教ふるならめ
 遥か真下に白々とした谷の瀬々を見下しながらなお急いでいると、漸くそれらしい二三軒の家を谷の向岸に見出だした。こごしい岩山の根に貼り着けられた様に小さな家が並んでいるのである。
 崖を降り橋を渡り一軒の湯宿に入って先ず湯を訊くと、庭さきを流れている渓流の川下の方を指ざしながら、川向うの山の蔭に在るという。不思議に思いながら借下駄を提げて一二丁ほど行って見ると、其処には今まで我等の見下して来た谷とはまた異った一つの谷が、折り畳んだ様な岩山の裂け目から流れ出して来ているのであった。ひたひたと瀬につきそうな危い板橋を渡ってみると、なるほど其処の切りそいだ様な崖の根に湯が湛えていた。相並んで二個所に湧いている。一つには茅葺の屋根があり、一方には何も無い。
 相顧みて苦笑しながら二人は屋根のない方へ寄って手を浸してみると恰好な温度である。もう日も※(「日/咎」、第3水準1-85-32)かげった山蔭の渓ばたの風を恐れながらも着物を脱いで石の上に置き、ひっそりと清らかなその湯の中へうち浸った。一寸立って手を延ばせば渓の瀬に指が届くのである。
「何だか渓まで温かそうに見えますね」と年若い友は云いながら手をさし延ばしたが、あわてて引っ込めて「氷の様だ」と云って笑った。
 渓向うもそそり立った岩の崖、うしろを仰げば更に胆も冷ゆべき断崖がのしかかっている。崖から真横にいろいろな灌木が枝を張って生い出で、大方散りつくした紅葉がなお僅かにその小枝に名残をとどめている。それが一ひら二ひらと断間たえまなく我等の上に散って来る。見れば其処に一二羽の樫鳥が遊んでいるのであった。
真裸体になるとはしつゝ覚束な此処の温泉いでゆに屋根の無ければ
折からや風吹きたちてはらはらと紅葉は散り来いで湯のなかに
樫烏が踏みこぼす紅葉くれなゐに透きてぞ散り来わが見てあれば
二羽とのみ思ひしものを三羽四羽樫鳥ゐたりその紅葉の木に
 夜に入ると思いかけぬ烈しい木枯が吹き立った。背戸の山木の騒ぐ音、雨戸のはためき、庭さきの瀬々のひびき、枕もとに吊られた洋燈の灯影もたえずまたたいて、眠り難い一夜であった。

十月二十日。

 未明に起き、洋燈の下で朝食をとり、まだ足もとのうす暗いうちに其処を立ち出でた。驚いたのは、その足もとに斑らに雪の落ちていることであった。惶てて四辺を見廻すと昨夜眠った宿屋の裏の崖山が斑々として白い。更らに遠くを見ると、漸く朝の光のさしそめたおちこちの峰から峰が真白に輝いている。
ひと夜寝てわが立ち出づる山かげのいで湯の村に雪降りにけり
起き出でゝ見るあかつきの裏山の紅葉の山に雪降りにけり
朝だちの足もと暗しせまりあふ狭間の路にはだら雪積み
上野と越後の国のさかひなる峰の高きに雪降りにけり
はだらかに雪の見ゆるは檜の森の黒木の山に降れる故にぞ
檜の森の黒木の山にうすらかに降りぬる雪は寒げにし見ゆ
 昨日の通りに路を急いでやがてひろびろとした枯芒の原、立枯の楢の打続いた暮坂峠の大きな沢に出た。峠を越えて約三里、正午近く沢渡温泉に着き、正栄館というのの三階に上った。此処は珍しくも双方に窪地を持った様な、小高い峠に湯が湧いているのであった。無色無臭、温度もよく、いい湯であった。此処に此儘泊ろうか、もう三四里を歩いて四万しま温泉へ廻ろうか、それとも直ぐ中之条へ出て伊香保まで延ばそうかと二人していろいろに迷ったが、終に四万へ行くことにきめて、昼飯を終るとすぐまた草鞋を穿いた。
 私は此処で順序として四万温泉の事を書かねばならぬ事を不快におもう。いかにも不快な印象を其処の温泉宿から受けたからである。我等の入って行ったのは、というより馬車から降りるとすぐ其処に立っていた二人の男に誘われて入って行ったのは田村旅館というのであった。馬車から降りた道を真直ぐに入ってゆく宏大な構えの家であった。
 とろとろと登ってやがてその庭らしい処へ着くと一人の宿屋の男は訊いた。
「エエ、どの位いの御滞在の御予定で被入いらっしゃいますか」
「いいや、一泊だ、初めてで、見物に来たのだ」
 と答えると彼等はにたりと笑って顔を見合せた。そしてその男はいま一人の男に馬車から降りた時強いて私の手から受取って来た小荷物を押しつけながら早口に云った。
「一泊だとよ、何の何番に御案内しな」
 そう云い捨てておいて今一組の商人態の二人連に同じ様な事を訊き、滞在と聞くや小腰をかがめて向って左手の渓に面した方の新しい建築へ連れて行った。
 我等と共に残された一人の男はまざまざと当惑と苦笑とを顔に表わして立っていたが、
「ではこちらへ」
 と我等をそれとは反対の見るからに古びた一棟の方へ導こうとした。私は呼び留めた。
「イヤ僕等は見物に来たので、出来るならいい座敷に通して貰い度い、ただ一晩の事だから」
「へ、承知しました、どうぞこちらへ」
 案のごとくにひどい部屋であった。小学校の修学旅行の泊りそうな、幾間か打ち続いた一室でしかも間の唐紙なども満足には緊っていない部屋であった。畳、火鉢、座布団、すべてこれに相応したもののみであった。
 私は諦めてその火鉢の側に腰をおろしたが、K―君はまだ洋傘を持ったまま立っていた。
「先生、移りましょう、馬車を降りたツイ横にいい宿屋があった様です」
 人一倍無口で穏かなこの青年が、明かに怒りを声に表わして云い出した。
 私もそれを思わないではなかったが、移って行ってまたこれと同じい待遇を受けたならそれこそ更らに不快に相違ない。
「止そうよ、これが土地の風かも知れないから」
 となだめて、急いで彼を湯に誘った。
 この分では私には夕餉の膳の上が気遣われた。で、定った物のほかに二品ほど附ける様にと註文し、酒の事で気を揉むのをも慮ってあらかじめ二三本の徳利を取り寄せ自分で燗をすることにしておいた。
 やがて十五六歳の小僧が岡持で二品ずつの料理を持って来た。受取って箸をつけていると小僧は其処につき坐ったまま、
「代金を頂きます」
 という。
「代金?」
 と私はいぶかった。
「宿料かい?」
「いいえ、そのお料理だけです、よそから持って来たのですから」
 思わず私はK―君の顔を見て吹き出した。
「オヤオヤ、君、これは一泊者のせいのみではなかったのだよ、懐中を踏まれたよ」

十月廿一日。

 朝、縁に腰かけて草鞋を穿いていても誰一人声をかける者もなかった。帳場から見て見ぬ振である。もっとも私も一銭をも置かなかった。旅といえば楽しいもの難有いものと思い込んでいる私は出来るだけその心を深く味わいたいために不自由の中から大抵の処では多少の心づけを帳場なり召使たちなりに渡さずに出た事はないのだが、斯うまでも挑戦状態で出て来られると、そういう事をしている心の余裕がなかったのである。
 面白いのは犬であった。草鞋を穿いているツイ側に三疋の仔犬を連れた大きな犬が遊んでいた。そしてその仔犬たちは私の手許にとんで来てじゃれついた。頭を撫でてやっていると親犬までやって来て私の額や頬に身体をすりつける。やがて立ち上って門さきを出離れ、何の気なくうしろを振返ると、その大きな犬が私のうしろについて歩いている。仔犬も門の処まで出ては来たがそれからはよう来ぬらしく、尾を振りながらぴったり三疋引き添うてこちらを見て立っている。
「犬は犬好きの人を知ってるというが、ほんとうですね」
 と、幾度追っても私の側を離れない犬を見ながらK―君が云った。
「とんだ見送がついた、この方がよっぽど正直かも知れない」
 私も笑いながら犬を撫でて、
「少し旅を貪り過ぎた形があるネ、無理をして此処まで来ないで沢渡にあのまま泊っておけば昨夜の不愉快は知らずに過ごせたものを……」
「それにしても昨夜はひどかったですネ、あんな目に私初めて会いました」
「そうかネ、僕なんか玄関払を喰った事もあるにはあるが……、然しあれは丁度いま此の土地の気風を表わしているのかも知れない、ソレ上州には伊香保があり草津があるでしょう、それに近頃よく四万四万という様になったものだから四万先生すっかり草津伊香保と肩を並べ得たつもりになって鼻息が荒い傾向があるのだろうと思う、謂わば一種の成金気分だネ」
「そう云えば彼処の湯に入ってる客たちだってそんな奴ばかりでしたよ、長距離電話の利く処に行っていたんじゃア入湯の気持はせぬ、朝晩に何だ彼だとかかって来てうるさくて為様しようがない、なんて」
「とにかく幻滅だった、僕は四万と聞くとずっと渓間の、静かなおちついた処とばかり思っていたんだが……ソレ僕の友人のS―ネ、あれがこの吾妻郡の生れなんだ、だから彼からもよくその様に聞いていたし、……、惜しい事をした」
 路には霜が深かった。峰から辷った朝日の光が渓間の紅葉に映って、次第にまた濁りのない旅心地になって来た。そして石を投げて辛うじて犬をば追い返した。不思議そうに立って見ていたが、やがて尾を垂れて帰って行った。
 十一時前中之条着、折よく電車の出る処だったので直ぐ乗車、日に輝いた吾妻川に沿うて走る。この川は数日前に嬬恋村の宿屋の窓から雨の中に侘しく眺めた渓流のすえであるのだ。渋川に正午に着いた。東京行沼田行とそれぞれの時間を調べておいて駅前の小料理屋に入った。此処で別れてK―君は東京へ帰り私は沼田の方へ入り込むのである。
 看板に出ていた川魚は何も無かった。鶏をとりうどんをとって別盃を挙げた。軽井沢での不図ふとした言葉がもとになって思いも寄らぬ処を両人して歩いて来たのだ。時間から云えば僅かだが、何だか遠く幾山河を越えて来た様なおもいが、盃の重なるにつれて湧いて来た。午後三時、私の方が十分間早く発車する事になった。手を握って別れる。
 渋川から沼田まで、不思議な形をした電車が利根川に沿うて走るのである。その電車が二度ほども長い停電をしたりして、沼田町に着いたのは七時半であった。指さきなど、痛むまでに寒かった。電車から降りると直ぐ郵便局に行き、留め置になっていた郵便物を受取った。局の事務員が顔を出して、今夜何処へ泊るかと訊く。変に思いながら渋川で聞いて来た宿屋の名を思い出してその旨を答えると、そうですかと小さな窓を閉めた。
 宿屋の名は鳴滝と云った。風呂から出て一二杯飲みかけていると、来客だという。郵便局の人かと訊くと、そうではないという。不思議に思いながらも余りに労れていたので、明朝来て呉れと断った。実際K―君と別れてから急に私は烈しい疲労を覚えていたのだ。然し矢張り気が済まぬので自分で玄関まで出て呼び留めて部屋に招じた。四人連の青年たちであった。矢張り郵便局からの通知で、私の此処にいるのを知ったのだそうだ。そして、
「いま自転車を走らせましたから追っ附けU―君も此処へ見えます」
 という。
「ア、そうですか」
 と答えながら、矢っ張り呼び留めてよかったと思った。U―君もまた創作社の社友の一人であるのだ。この群馬県利根郡からその結社に入っている人が三人ある事を出立の時に調べて、それぞれの村をも地図で見て来たのであった。そして都合好くばそれぞれに逢って行きいものと思っていたのだ。
「それは難有う、然しU―君の村は此処から遠いでしょう」
「なアに、一里位いのものです」
 一里の夜道は大変だと思った。
 やがてそのU―君が村の俳人B―君を伴れてやって来た。もう少しませた人だとその歌から想像していたのに反してまだ紅顔の青年であった。
 歌の話、俳句の話、土地の話が十一時過ぎまで続いた。そしてそれぞれに帰って行った。村までは大変だろうからと留めたけれど、U―君たちも元気よく帰って行った。

十月廿二日。

 今日もよく晴れていた。嬬恋以来、実によく晴れて呉れるのだ。四時から強いて眼を覚まして床の中で幾通かの手紙の返事を書き、五時起床、六時過ぎに飯をたべていると、U―君がにこにこしながら入って来た。自宅でもいいって云いますから今日はお伴させて下さい、という。それはよかったと私も思った。今日はこれから九里の山奥、越後境三国峠の中腹に在る法師温泉まで行く事になっていたのだ。
 私は河の水上みなかみというものに不思議な愛着を感ずる癖を持っている。一つの流に沿うて次第にそのつめまで登る。そして峠を越せば其処にまた一つの新しい水源があって小さな瀬を作りながら流れ出している、という風な処に出会うと、胸の苦しくなる様な歓びを覚えるのが常であった。
 矢張りそんなところから大正七年の秋に、ひとつ利根川のみなかみを尋ねて見ようとこの利根の峡谷に入り込んで来たことがあった。沼田から次第に奥に入って、矢張り越後境の清水越の根に当っている湯檜曾ゆびそというのまで辿り着いた。そして其処から更らに藤原郷というのへ入り込むつもりであったのだが、時季が少し遅れて、もうその辺にも斑らに雪が来ており、奥の方には真白妙に輝いた山の並んでいるのを見ると、流石に心細くなって湯檜曾から引返した事があった。然しその湯檜曾の辺でも、銚子の河口であれだけの幅を持った利根が石から石を飛んで徒渉出来る愛らしい姿になっているのを見ると矢張り嬉しさに心は躍ってその石から石を飛んで歩いたものであった。そしていつかお前の方まで分け入るぞよと輝き渡る藤原郷の奥山を望んで思ったものであった。
 藤原郷の方から来たのに清水越の山から流れ出して来た一支流が湯檜曾のはずれで落ち合って利根川の渓流となり沼田の少し手前で赤谷川を入れ、やや下った処で片品川を合せる。そして漸く一個の川らしい姿になって更に渋川で吾妻川を合せ、此処で初めて大利根の大観をなすのである。吾妻川の上流をば曾つて信州の方から越えて来て探った事がある。片品川の奥に分け入ろうと云うのは実は今度の旅の眼目であった。そして今日これから行こうとしているのは、沼田から二里ほど上、月夜野橋という橋の近くで利根川に落ちて来ている赤谷川の源流の方に入って行って見度いためであった。その殆んどつめになった処に法師温泉はある筈である。
 読者よ、試みに参謀本部五万分の一の地図「四万」の部を開いて見給え。真黒に見えるまでに山の線の引き重ねられた中に唯だ一つ他の集落とは遠くかけ離れて温泉の符号の記入せられているのを、少なからぬ困難の末に発見するであろう。それが即ち法師温泉なのだ。更らにまた読者よ、その少し手前、沼田の方角に近い処に視線を落して来るならば其処に「猿ヶ京村」という不思議な名の集落のあるのを見るであろう。私は初め参謀本部のものに拠らず他の府県別の簡単なものを開いて見てこの猿ヶ京村を見出し、サテも斯んな処に村があり、斯んな処にも歌を詠もうと志している人がいるのかと、少なからず驚嘆したのであった。先に利根郡に我等の社中の同志が三人ある旨を云った。その三人の一人は今日一緒に歩こうというU―君で、他の二人は実にこの猿ヶ京村の人たちであるのである。
 月夜野橋に到る間に私は土地の義民はりつけ茂左衛門の話を聞いた。徳川時代寛文年間に沼田の城主真田伊賀守が異常なる虐政を行った。領内利根吾妻勢多三郡百七十七箇村に検地を行い、元高三万石を十四万四千余石に改め、川役網役山手役井戸役窓役産毛役等(窓を一つ設くれば即ち課税し、出産すれば課税するの意)の雑役を設け終に婚礼にまで税を課するに至った。納期には各村に代官を派遣し、滞納する者があれば家宅を捜索して農産物の種子まで取上げ、なお不足ならば人質を取って皆納するまで水牢に入るる等の事を行った。この暴虐に泣く百七十七個村の民を見るに見兼ねて身を抽んでて江戸に出で酒井雅楽守の登城先に駕訴をしたのがこの月夜野村の百姓茂左衛門であった。けれどその駕訴は受けられなかった。其処で彼は更らに或る奇策を案じて具さに伊賀守の虐政を認めた訴状を上野寛永寺なる輪王寺宮に奉った。幸に宮から幕府へ伝達せられ、時の将軍綱吉も驚いて沼田領の実際を探って見ると果して訴状の通りであったので直ちに領地を取上げ伊賀守をば羽後山形の奥平家へ預けてしまった。茂左衛門はそれまで他国に姿を隠して形勢を見ていたが、く願いの叶ったのを知ると潔く自首するつもりで乞食に身をやつして郷里に帰り僅かに一夜その家へ入って妻と別離を惜み、明方出かけようとしたところを捕えられた。そしていま月夜野橋の架っているツイ下の川原で礫刑に処せられた。しかも罪ない妻まで打首となった。漸く蘇生の思いをした百七十七個村の百姓たちはやれやれと安堵する間もなく茂左衛門の捕えられたを聞いて大に驚き悲しみ、総代を出して幕府に歎願せしめた。幕府も特に評議の上これを許して、茂左衛門赦免の上使を遣わしたのであったが、時僅かに遅れ、井戸上村まで来ると処刑済の報に接したのであったそうだ。
 旧沼田領の人々はそれを聞いていよいよ悲しみ、刑場蹟に地蔵尊を建立して僅かに謝恩の心を致した。ことにその郷里の人は更らに月夜野村に一仏堂を築いて千日の供養をし、これを千日堂と称えたが、千日はおろか、今日に到るまで一日として供養を怠らなかった。が、次第にその御堂も荒頽して来たので、この大正六年から改築に着手し、十年十二月竣工、右の地蔵尊を本尊として其処に安置する事になった。
 斯うした話をU―君から聞きながら私は彼の佐倉宗吾の事を思い出していた。事情が全く同じだからである。而して一は大に表われ、一は土地の人以外に殆んど知る所がない。そう思いながらこの勇敢な、気の毒な義民のためにひどく心を動かされた。そしてU―君にそのお堂へ参詣したい旨を告げた。
 月夜野橋を渡ると直ぐ取っ着きの岡の上に御堂はあった。田舎に在る堂宇としては実に立派な壮大なものであった。そしてその前まで登って行って驚いた。寧ろ凄いほどの香煙が捧げられてあったからである。そして附近には唯だ雀が遊んでいるばかりで人の影とてもない。百姓たちが朝の為事しごとに就く前に一人一人此処にこの香を捧げて行ったものなのである。一日として斯うない事はないのだそうだ。立ち昇る香煙のなかに佇みながら私は茂左衛門を思い、茂左衛門に対する百姓たちの心を思い瞼の熱くなるのを感じた。
 堂のうしろの落葉を敷いて暫く休んだ。傍らに同じく腰をおろしていた年若い友は不図ふと何か思い出した様に立ち上ったが、やがて私をも立ち上らせて対岸の岡つづきになっている村落を指ざしながら、「ソレ、あそこに日の当っている村がありましょう、あの村の中ほどにやや大きな藁葺の屋根が見えましょう、あれが高橋お伝の生れた家です」
 これはまた意外であった。聞けば同君の祖母はお伝の遊び友達であったという。
「今日これから行く途中に塩原太助の生れた家も、墓もありますよ」
 と、なお笑いながら彼は附け加えた。
 月夜野村は村とは云え、古めかしい宿場の形をなしていた。昔は此処が赤谷川流域の主都であったものであろう。宿を通り抜けると道は赤谷川に沿うた。
 この辺、赤谷川の眺めは非常によかった。十間から二三十間に及ぶ高さの岩が、楯を並べた様に並び立った上に、かなり老木の赤松がずらりと林をなして茂っているのである。三町、五町、十町とその眺めは続いた。松の下草には雑木の紅葉が油絵具をこぼした様に散らばり、大きく露出した岩の根には微かな青みを宿した清水が瀬をなし淵を作って流れているのである。
 登るともない登りを七時間ばかり登り続けた頃、我等は気にしていた猿ヶ京村の入口にかかった。其処も南に谷を控えた坂なりの道ばたにちらほらと家が続いていた。中に一軒、古び煤けた屋根の修繕をしている家があった。丁度小休みの時間らしく、二三の人が腰をおろして煙草を喫っていた。
「ア、そうですか、それは……」
 私の尋ねに応じて一人がわざわざ立上って煙管で方角を指しながら、道から折れた山の根がたの方に我等の尋ぬるM―君の家の在る事を教えて呉れた。街道から曲り、細い坂を少し登ってゆくと、傾斜を帯びた山畑が其処に開けていた。四五町も畦道を登ったけれど、それらしい家が見当らない。桑や粟の畑が日に乾いているばかりである。幸い畑中に一人の百姓が働いていた。其処へ歩み寄ってやや遠くから声をかけた。
「ア、M―さんの家ですか」
 百姓は自分から頬かむりをとって、私たちの方へ歩いて来た。そして、畑に挟まれた一つの沢を越し、渡りあがった向うの山蔭の杉木立の中に在る旨を教えて呉れた。
 それも道を伝って行ったでは廻りになる故、其処の畑の中を通り抜けて……とゆびざししながら教えようとして、
「アッ、其処に来ますよ、M―さんが……」
 と叫んだ。囚人などの冠る様な編笠をかぶり、辛うじて尻を被うほどの短い袖無袢纏を着、股引を穿いた、老人とも若者ともつかぬ男が其処の沢から登って来た。そして我等が彼を見詰めて立っているのを不思議そうに見やりながら近づいて来た。
「君はM―君ですか」
 斯う私が呼びかけると、じっと私の顔を見詰めたが、やがて合点が行ったらしく、ハッとした風で其処に立ち留った。そして笠をとってお辞儀をした。斯うして向い合って見ると、彼もまだ三十前の青年であったのである。
 私が上州利根郡の方に行く事をば我等の間で出している雑誌で彼も見ていた筈である。然し、斯うして彼の郷里まで入り込んで来ようとは思いがけなかったらしい。驚いたあまりか、彼は其処に突立ったまま殆んど言葉を出さなかった。路を教えて呉れた百姓も頬かむりの手拭を握ったまま、ぼんやり其処に立っているのである。私は昨夜沼田に着いた事、一緒にいるのが沼田在の同志U―君である事、これから法師温泉まで行こうとしている事、一寸でも逢ってゆきたくて立ち寄った事などを説明した。
「どうぞ、私の家へお出で下さい」
 と漸くいろいろの意味が飲み込めたらしく彼は安心した風に我等を誘った。なるほど、ツイ手近に来ていながら見出せないのも道理なほどの山の蔭に彼の家はあった。一軒家か、乃至ないしは、其処らに一二軒の隣家を持つか、かくに深い杉の木立が四辺を囲み、湿った庭には杉の落葉が一面に散り敷いていた。大きな囲炉裡端には彼の老母が坐っていた。
 お茶や松茸の味噌漬が出た。私は囲炉裡に近く腰をかけながら、
「君は何処で歌を作るのです、此処ですか」
 と、赤々と火の燃えさかる炉端を指した。土間にも、座敷にも、農具が散らかっているのみで書籍も机らしいものも其処らに見えなかった。
「さア……」
 羞しそうに彼は口籠ったが、
「何処という事もありません、山ででも野良ででも作ります」
 と僅かに答えた。私が彼の歌を見始めてから五六年はたつであろう。幼い文字、幼い詠みかた、それらがM―という名前と共にすぐ私の頭に思い浮べらるるほど、特色のある歌を彼は作っているのであった。
 収穫時の忙しさを思いながらも同行を勧めて見た。暫く黙って考えていたが、やがて母に耳打して奥へ入ると着物を着換えて出て来た。三人連になって我等はその杉木立の中の家を立ち出でた。恐らく二度とは訪ねられないであろうその杉叢が、そぞろに私には振返えられた。時計は午後三時をすぎていた、法師までなお三里、よほどこれから急がねばならぬ。
 猿ヶ京村でのいま一人の同志H―君の事をM―君から聞いた、土地の郵便局の息子で、今折悪しく仙台の方へ行っている事などを。やがてその郵便局の前に来たので私は一寸立寄ってその父親に言葉をかけた、その人はいないでも、矢張り黙って通られぬ思いがしたのであった。
 石や岩のあらわに出ている村なかの路には煙草の葉がおりおり落ちていた。見れば路に沿うた家の壁には悉くこれが掛け乾されているのであった。此頃漸く切り取ったらしく、まだ生々しいものもあった。
 吹路ふくろという急坂を登り切った頃から日は漸く暮れかけた。風の寒い山腹をひた急ぎに急いでいると、おりおり路ばたの畑で稗や粟を刈っている人を見た。この辺では斯ういうものしか出来ぬのだそうである。従って百姓たちの常食も大概これに限られているという。かすかな夕日を受けて咲いている煙草の花も眼についた。小走りに走って急いだのであったが、終に全く暮れてしまった。山の中の一すじ路を三人引っ添うて這う様にして辿った。そして、峰々の上の夕空に星が輝き、相迫った峡間の奥の闇の深い中に温泉宿の灯影を見出した時は、三人は思わず大きな声を上げたのであった。
 がらんどうな大きな二階の一室に通され、先ず何よりもと湯殿へ急いだ。そしてその広いのと湯の豊かなのとに驚いた。十畳敷よりもっと広かろうと思わるる浴槽が二つ、それに満々と湯が湛えているのである。そして、下には頭大の石ころが敷いてあった。乏しい灯影の下にずぶりっと浸りながら、三人は唯だてんでに微笑を含んだまま、殆んどだんまりのままの永い時間を過した。のびのびと手足を伸ばすもあり、蛙の様に浮んで泳ぎの形を為すのもあった。
 部屋に帰ると炭火が山の様におこしてあった。なるほど山の夜の寒さは湯あがりの後の身体に浸みて来た。何しろ今夜は飲みましょうと、豊かに酒をば取り寄せた。鑵詰かんづめをも一つ二つと切らせた。U―君は十九か廿歳、M―君は廿六七、その二人のがっしりとした山国人の体格を見、明るい顔を見ていると私は何かしら嬉しくて、飲めよ喰べよと無理にも強いずにはいられぬ気持になっていたのである。
 其処へ一升壜を提げた、見知らぬ若者がまた二人入って来た。一人はK―君という人で、今日我等の通って来た塩原太助の生れたという村の人であった。一人は沼田の人で、阿米利加に五年行っていたという画家であった。画家を訪ねて沼田へ行っていたK―君は、其処の本屋で私が今日この法師へ登ったという事を聞き、画家を誘って、あとを追って来たのだそうだ。そして懐中から私の最近に著した歌集『くろ土』を取り出してその口絵の肖像と私とを見比べながら、
「矢張り本物に違いはありませんねエ」
 と云って驚くほど大きな声で笑った。

十月廿三日。

 うす闇の残っている午前五時、昨夜の草鞋のまだ湿っているのを穿きしめてその渓間の湯の宿を立ち出でた。峰々の上に冴えている空の光にも土地の高みが感ぜられて、自ずと肌寒い。K―君たち二人はきょう一日遊んでゆくのだそうだ。
 吹路の急坂にかかった時であった。十二三から廿歳までの間の若い女たちが、三人五人と組を作って登って来るのに出会った。真先きの一人だけが眼明で、あとはみな盲目である。そして、各自に大きな紺の風呂敷包を背負っている。訊けばこれが有名な越後の瞽女ごぜであるそうだ。収穫前の一寸した農閑期を覗って稼ぎに出て来て、雪の来る少し前に斯うして帰ってゆくのだという。
「法師泊りでしょうから、これが昨夜だったら三味や唄が聞かれたのでしたがね」
 とM―君が笑った。それを聞きながら私はフッと或る事を思いついたが、ひそかに苦笑して黙ってしまった。宿屋で聞こうよりこのままこの山路で呼びとめて彼等に唄わせて見たかった。然し、そういう事をするには二人の同伴者が余りに善良な青年である事にも気がついたのだ。驚いた事にはその三々五々の組が二三丁の間も続いた。すべてで三十人はいたであろう。落葉の上に彼等を坐らせ、その一人二人に三味を掻き鳴らさせたならば、蓋し忘れ難い記憶になったであろうものをと、そぞろに残り惜しくも振返えられた。這う様にして登っている彼等の姿は、一丁二丁の間をおいて落葉した山の日向に続いて見えた。
 猿ヶ京村を出外れた道下の笹の湯温泉で昼食をとった。相迫った断崖の片側の中腹に在る一軒家で、その二階から斜め真上に相生橋が仰がれた。相生橋は群馬県で第二番目に高い橋だという事である。切り立った断崖の真中どころにかすがいの様にして架っている。高さ二十五間、欄干に倚って下を見ると胆の冷ゆる思いがした。しかもその両岸の崖にはとりどりの雑木が鮮かに紅葉しているのであった。
 湯の宿温泉まで来ると私はひどく身体の疲労を感じた。数日の歩きづめとこの一二晩の睡眠不足とのためである。其処で二人の青年に別れて、日はまだ高かったが、一人だけ其処の宿屋に泊る事にした。もっともM―君は自分の村を行きすぎ其処まで見送って来てくれたのであった。U―君とは明日また沼田で逢う約束をした。
 一人になると、一層疲労が出て来た。で、一浴後直ちに床を延べて寝てしまった。一時間も眠ったとおもう頃、女中が来てあなたは若山という人ではないかと訊く。不思議に思いながらそうだと答えると一枚の名刺を出して斯ういう人が逢い度いと下に来ているという。見ると驚いた、昨日その留守宅に寄って来たH―君であった。仙台からの帰途本屋に寄って私達が一泊の予定で法師に行った事を聞き、ともすると途中で会うかも知れぬと云われて途々気をつけて来た、そしてもう夕方ではあるし、ことによるとこの辺に泊って居らるるかも知れぬと立ち寄って訊いてみた宿屋に偶然にも私が寝ていたのだという。あまりの奇遇に我等は思わず知らずひしと両手を握り合った。

十月廿四日。

 H―君も元気な青年であった。昨夜、九時過ぎまで語り合って、そして提灯をつけて三里ほどの山路を登って帰って行った。今朝は私一人、矢張り朗らかに晴れた日ざしを浴びながら、ゆっくりと歩いて沼田町まで帰って来た。打合せておいた通り、U―君が青池屋という宿屋で待っていた。そして昨夜の奇遇を聞いて彼も驚いた。彼はM―と初対面であったと同じくH―をもまだ知らないのである。
 夜、宿屋で歌会が開かれた。二三日前の夜訪ねて来た人たちを中心とした土地の文芸愛好家達で、歌会とは云っても専門に歌を作るという人々ではなかった。みな相当の年輩の人たちで、私は彼等から土地の話を面白く聞く事が出来た。そして思わず酒をも過して閉会したのは午前一時であった。法師で会ったK―君も夜更けて其処からやって来た。この人たちは九里や十里の山路を歩くのを、ホンの隣家に行く気でいるらしい。

十月廿五日。

 昨夜の会の人達が町はずれまで送って来て呉れた。U―、K―の両君だけはもう少し歩きましょうと更らに半道ほど送って来た。其処で別れかねてまた二里ほど歩いた。収穫時の忙しさを思って、農家であるU―君をば其処から強いて帰らせたが、K―君はいっそ此処まで来た事ゆえ老神おいがみまで参りましょうと、終に今夜の泊りの場所まで一緒に行く事になった。宿屋の下駄を穿き、帽子もかぶらぬままの姿でである。
 路はずっと片品川の岸に沿うた。これは実は旧道であるのだそうだが、ことさらに私はこれを選んだのであった。そうして楽しんで来た片品川峡谷の眺めは矢張り私を落胆せしめなかった。ことに岩室というあたりから佳くなった。山が深いため、紅葉はやや過ぎていたがなお到る処にその名残を留めて、しかも岩の露われた嶮しい山、いただきかけて煙り渡った落葉の森、それらの山の次第に迫り合った深い底には必ず一つの渓が流れて滝となり淵となり、やがてそれがまた随所に落ち合っては真白な瀬をなしているのである。歩一歩と酔った気持になった私は、歩みつ憩いつ幾つかの歌を手帳に書きつけた。
きりぎしに通へる路をわが行けば天つ日は照る高き空より
路かよふ崖のさなかをわが行きてはろけき空を見ればかなしも
木々の葉の染れる秋の岩山のそば路ゆくとこころかなしも
きりぎしに生ふる百木のたけ伸びずとりどりに深きもみぢせるかも
歩みつゝこゝろ怯ぢたるきりぎしのあやふき路に匂ふもみぢ葉
わが急ぐ崖の真下に見えてをる丸木橋さびしあらはに見えて
散りすぎし紅葉の山にうちつけに向ふながめの寒けかりけり
しめりたる紅葉がうへにわが落す煙草の灰は散りて真白き
とり出でゝ吸へる煙草におのづから心は開けわが憩ふかも
岩陰の青渦がうへにうかびゐて色あざやけき落葉もみぢ葉
苔むさぬこの荒渓の岩にゐて啼く鶺鴒いしたゝきあはれなるかも
高き橋此処にかゝれりせまりあふ岩山の峡のせまりどころに
いま渡る橋はみじかし山峡の迫りきはまれる此処にかゝりて
古りし欄干てすりほとほとゝわがうちたゝき渡りゆくかもこの古橋を
いとほしきおもひこそ湧け岩山の峡にかかれるこの古橋に
 老神温泉に着いた時は夜に入っていた。途中で用意した蝋燭をてんでに点して本道から温泉宿の在るという川端の方へ急な坂を降りて行った。宿に入って湯を訊くと、少し離れていてお気の毒ですが、と云いながら背の高い老爺が提灯を持って先に立った。どの宿にも内湯は無いと聞いていたので何の気もなくその後に従って戸外へ出たが、これはまた花敷温泉とも異ったたいへんな処へ湯が湧いているのであった。手放しでは降りることも出来ぬ嶮しい崖の岩坂路を幾度か折れ曲って辛うじて川原へ出た。そしてまた石の荒い川原を辿る。その中洲の様になった川原の中に低い板屋根を設けて、その下に湧いているのだ。
 這いつ坐りつ、底には細かな砂の敷いてある湯の中に永い間浸っていた。いま我等が屋根の下に吊した提灯の灯がぼんやりとうす赤く明るみを持っているだけで、四辺は油の様な闇である。そして静かにして居れば、疲れた身体にうち響きそうな荒瀬の音がツイ横手のところに起って居る。ややぬるいが、柔かな滑らかな湯であった。屋根の下から出て見るとこまかな雨が降っていた。石の頭にぬぎすてておいた着物は早やしっとりと濡れていた。
 註文しておいたとろろ汁が出来ていた。夕方釣って来たという山魚やまめの魚田も添えてあった。折柄烈しく音を立てて降りそめた雨を聞きながら、火鉢を擁して手ずから酒をあたため始めた。

十月廿六日。

 起きて見ると、ひどい日和になっていた。
「困りましたネ、これでは立てませんネ」
 渦を巻いて狂っている雨風や、ツイ渓向うの山腹に生れつ消えつして走っている霧雲を、僅かにあけた雨戸の隙間に眺めながら、朝まだきから徳利をとり寄せた。止むなく滞在ときめて漸くいい気持に酔いかけて来ると、急に雨戸の隙が明るくなった。
「オヤオヤ、晴れますよ」
 そう云うとK―君は飛び出して番傘を買って来た。私もそれに頼んで大きな油紙を買った。そして尻から下を丸出しに、尻から上、首までをば僅かに両手の出る様にして、くるくると油紙と紐とで包んでしまった。これで帽子をまぶかに冠れば洋傘はさされずとも間に合う用意をして、宿を立ち出でた。そして程なく、雨風のまだ全くおさまらぬ路ばたに立ってK―君と別れた。彼はこれから沼田へ、更らに自分の村下新田まで帰ってゆくのである。
 独りになってひた急ぐ途中に吹割の滝というのがあった。長さ四五町幅三町ほど、極めて平滑な川床の岩の上を、初め二三町が間、辛うじて足の甲を潤す深さで一帯に流れて来た水が或る場所に及んで次第に一個所の岩の窪みに浅い瀬を立てて集り落つる。窪みの深さ二三間、幅一二間、その底に落ち集った川全帯の水は、まるで生糸の大きな束を幾十百じ集めた様に、雪白な中に微かな青みを含んでくるめき流るる事七八十間、其処でまた急に底知れぬ淵となって青み湛えているのである。淵の上にはこの数日見馴れて来た嶮崖が散り残りの紅葉を纏うて聳えて居る。見る限り一面の浅瀬が岩を掩うて流れているのはすがすがしい眺めであった。それが集るともなく一ところに集り、やがて凄じい渦となって底深い岩の亀裂の間を轟き流れてゆく。岩の間から迸り出た水は直ぐ其処に湛えて、静かな深みとなり、真上の岩山の影を宿している。土地の自慢であるだけ、珍しい滝ではあった。
 吹割の滝を過ぎるころから雨は晴れてやがて澄み切った晩秋の空となった。片品川の流は次第に痩せ、それに沿うて登る路も漸く細くなった。須賀川から鎌田村あたりにかかると、四辺の眺めがいかにも高い高原の趣きを帯びて来た。白々と流れている渓を遥かの下に眺めて辿ってゆくその高みの路ばたはおおく桑畑となっていた。その桑が普通見る様に年々に根もとから伐るのでなく、幹は伸びるに任せておいて僅かに枝先を刈り取るものなので、一抱えに近い様な大きな木が畑一面に立ち並んでいるのである。老梅などに見る様に半ばは幹の朽ちているものもあった。その大きな桑の木の立ち並んだ根がたにはおおく大豆が植えてあった。既に抜き終ったのが多かったが、稀には黄いろい桑の落葉の中にかがんで、枯れ果てたそれを抜いている男女の姿を見ることがあった。土地が高いだけ、冬枯れはてた木立の間に見るだけに、その姿がいかにも侘しいものに眺められた。
 そろそろ暮れかけたころ東小川村に入って、其処の豪家C―を訪うた。明日下野国の方へ越えて行こうとする山の上に在る丸沼という沼に同家で鱒の養殖をやっており、其処に番小屋があり番人が置いてあると聞いたので、その小屋に一晩泊めて貰い度く、同家に宛てての紹介状を沼田の人から貰って来ていたのであった。主人は不在であった。そして内儀から宿泊の許諾を得、番人へ宛てての添手紙をも貰う事が出来た。
 村を過ぎると路はまた峡谷に入った。落葉を踏んで小走りに急いでいると、三つ四つ峰の尖りの集り聳えた空に、望の夜近い大きな月の照りそめているのを見た。落葉木の影を踏んで、幸に迷うことなく白根温泉のとりつきの一軒家になっている宿屋まで辿り着くことが出来た。
 此処もまた極めて原始的な湯であった。湧き溢れた湯槽には壁の破れから射す月の光が落ちていた。湯から出て、真赤な炭火の山盛りになった囲炉裡端に坐りながら、何はもあれ、酒を註文した。ところが、何事ぞ、無いという。驚き惶てて何処か近くから買って来て貰えまいかと頼んだ。宿の子供が兄妹つれで飛び出したが、やがて空手で帰って来た。更らに財布から幾粒かの銅貨銀貨をつまみ出して握らせながら、も一つ遠くの店まで走って貰った。
 心細く待ち焦れていると、急に鋭く屋根を打つ雨の音を聞いた。先程の月の光の浸み込んでいる頭に、この気まぐれな山の時雨がいかにも異様に、侘しく響いた。雨の音と、ツイ縁側のさきを流れている渓川の音とに耳を澄ましているところへぐしょ濡れになって十二と八歳の兄と妹とが帰って来た。そして兄はその濡れた羽織の蔭からさも手柄顔に大きな壜を取出して私に渡した。

十月廿七日。

 宿屋に酒の無かった事や、月は射しながら烈しい雨の降った事がひどく私を寂しがらせた。そして案内人を雇うこと、明日の夜泊る丸沼の番人への土産でもあり自分の飲み代でもある酒を買って来て貰うことを昨夜更けてから宿の主人に頼んだのであったが、今朝未明に起きて湯に行くと既にその案内人が其処に浸っていた。顔の蒼い、眼の険しい四十男であった。
 昨夜の時雨が其儘に氷ったかと思わるるばかりに、路には霜が深かった。峰の上の空は耳の痛むまでに冷やかに澄んでいた。渓に沿うて危い丸木橋を幾度か渡りながら、やがて九十九折の嶮しい坂にかかった。それと共に四辺はひしひしと立ち込んだ深い森となった。
 登るにつれてその森の深さがいよいよ明かになった。自分等のいま登りつつある山を中心にして、それを囲む四周の山が悉くぎっしりと立ち込んだ密林となっているのである。案内人は語った。この山々の見ゆる限りはすべてC―家の所有である、平地に均らして五里四方の上に出ている、そしてC―家は昨年この山の木を或る製紙会社に売り渡した、代価四十五万円、伐採期間四十五個年間、一年に一万円ずつ伐り出す割に当り、現にこの辺に入り込んで伐り出しに従事している人夫が百二三十人に及んでいる事などを。
 なるほど、路ばたの木立の蔭にその人夫たちの住む小屋が長屋の様にして建てられてあるのを見た。板葺の低い屋根で、その軒下には女房が大根を刻み、子供が遊んでいた。そしておりおり渓向うの山腹に大風の通る様な音を立てて大きな樹木の倒るるのが見えた。それと共に人夫たちの挙げる叫び声も聞えた。或る人夫小屋の側を通ろうとして不図立ち停った案内人が、
「ハハア、これだナ」
 と咳くので立ち寄って見ると其処には三尺角ほどの大きな厚板が四五枚立てかけてあった。
「これは旦那、楓の板ですよ、この山でも斯んな楓は珍しいって評判になってるんですがネ、……なるほど、いい木理だ」
 撫でつ叩きつして暫く彼は其処に立っていた。
「山が深いから珍しい木も沢山あるだろうネ」
 私もこれが楓の木だと聞いて驚いた。
「もう一つ何処とかから途方もねえ黒檜が出たって云いますがネ、みんな人夫頭の飲代になるんですよ、会社の人たちゃア知りやしませんや」
 と嘲笑う様に云い捨てた。
 坂を登り切ると、聳えた峰と峰との間の広やかな沢に入った。沢の平地には見る限り落葉樹が立っていた。これは楢でこれが山毛欅ぶなだと平常から見知っている筈の樹木を指されても到底信ずる事の出来ぬほど、形の変った巨大な老木ばかりであった。そしてそれらの根がたに堆く積って居る落葉を見れば、なるほど見馴れた楢の葉であり山毛欅の葉であるのであった。
「これがとち、あれが桂、あくダラ、沢胡桃さわぐるみ、アサヒ、ハナ、ウリノ木、……」
 事ごとに眼を見張る私を笑いながら、初め無気味な男だと思った案内人は行く行く種々の樹木名を倦みもせずに教えて呉れた。それから不思議な樹木の悉くが落葉しはてた中に、おりおり輝くばかり楓の老木の紅葉しているのを見た。おおかたはもう散り果てているのであるが、極めて稀にそうした楓が、白茶けた他の枯木立の中に立混っているのであった。
 そして眼を挙げて見ると沢を囲む遠近の山の山腹は殆んど漆黒色に見ゆるばかり真黒に茂り入った黒木の山であった。常磐木の森であった。
「樅、栂、檜、唐檜とうび黒檜くろび、……、……、」
 と案内人はそれらの森の木を数えた。それらの峰の立ち並んだ中に唯だ一つ白々と岩の穂を見せて聳えているのはまさしく白根火山の頂上であらねばならなかった。
下草の笹のしげみの光りゐてならび寒けき冬木立かも
あきらけく日のさしとほる冬木立木々とりどりに色さびて立つ
時知らず此処に生ひたち枝張れる老木を見ればなつかしきかも
散りつもる落葉がなかに立つ岩の苔枯れはてゝ雪のごと見ゆ
わが過ぐる落葉の森に木がくれて白根が岳の岩山は見ゆ
遅れたる楓ひともと照るばかりもみぢしてをり冬木が中に
枯木なす冬木の林ゆきゆきて行きあへる紅葉にこゝろ躍らす
この沢をとりかこみなす樅栂の黒木の山のながめ寒けき
聳ゆるは樅栂の木の古りはてし黒木の山ぞ墨色に見ゆ
墨色に澄める黒木のとほ山にはだらに白き白樺ならむ
 沢を行き尽くすと其処に端然として澄み湛えた一つの沼があった。岸から直ちに底知れぬ蒼みを宿して、屈折深い山から山の根を浸して居る。三つ続いた火山湖のうちの大尻沼がそれであった。水の飽くまでも澄んでいるのと、それを囲む四辺の山が墨色をしてうち茂った黒木の山であるのとが、この山上の古沼を一層物寂びたものにしているのであった。
 その古沼に端なく私は美しいものを見た。三四十羽の鴨が羽根をつらねて静かに水の上に浮んでいたのである。思わず立ち停って瞳を凝らしたが、時を経ても彼等はまい立とうとしなかった。路ばたの落葉を敷いて、飽くことなく私はその静かな姿に見入った。
登り来しこの山あひに沼ありて美しきかも鴨の鳥浮けり
樅黒檜黒木の山のかこみあひて真澄める沼にあそぶ鴨鳥
見て立てるわれには怯ぢず羽根つらね浮きてあそべる鴨鳥の群
岸辺なる枯草敷きて見てをるやまひたちもせぬ鴨鳥の群を
羽根つらねうかべる鴨をうつくしと静けしと見つゝこゝろかなしも
山の木に風騒ぎつゝ山かげの沼の広みに鴨のあそべり
浮草の流らふごとくひと群の鴨鳥浮けり沼の広みに
鴨居りて水の面あかるき山かげの沼のさなかに水皺寄る見ゆ
水皺寄る沼のさなかに浮びゐて静かなるかも鴨鳥の群
おほよそに風に流れてうかびたる鴨鳥の群を見つゝかなしも
風たてば沼の隈回くまみのかたよりに寄りてあそべり鴨鳥の群
 さらに私を驚かしたものがあった。私たちの坐っている路下の沼のへりに、たけ二三間の大きさでずっと茂り続いているのが思いがけない石楠木しゃくなぎの木であったのだ。深山の奥の霊木としてのみ見ていたこの木が、他の沼に葭葦の茂るがごとくに立ち生うているのであった。私はまったく事ごとに心を躍らせずにはいられなかった。
沼のへりにおほよそ葦の生ふるごと此処に茂れり石楠木の木は
沼のへりの石楠木咲かむ水無月にまた見に来むぞ此処の沼見に
また来むと思ひつゝさびしいそがしきくらしのなかをいつ出でゝ来む
天地あめつちのいみじきながめに逢ふ時しわが持ついのちかなしかりけり
日あたりに居りていこへど山の上のみいちじるし今はゆきなむ
 昂奮の後のわびしい心になりながら沼のへりに沿うた小径の落葉を踏んで歩き出すと、程なくその沼の源とも云うべき、清らかな水がかなりの瀬をなして流れ落ちている処に出た。そして三四十間その瀬について行くとまた一つの沼を見た。大尻沼より大きい、丸沼であった。
 沼と山の根との間の小広い平地に三四軒の家が建っていた。いずれも檜皮葺の白々としたもので、雨戸もすべてうす白く閉ざされていた。不意に一疋の大きな犬が足許に吠えついて来た。胸をときめかせながら中の一軒に近づいて行くと、中から一人の六十近い老爺が出て来た。C―家の内儀の手紙を渡し、一泊を請い、直ぐ大囲炉裡の榾火ほたびの側に招ぜられた。
 番人の老爺が唯だ一人居ると私は先に書いたが、実はもう一人、棟続きになった一室に丁度同じ年頃の老人が住んでいるのであった。C―家がこの丸沼に紅鱒の養殖を始めると農商務省の水産局からC―家に頼んで其処に一人の技手を派遣し、その養殖状態を視る事になって、もう何年かたっている。老人はその技手であったのだ。名をM―氏といい、桃の様に尖った頭には僅かにその下部に丸く輪をなした毛髪を留むるのみで、つるつるに禿げていた。
 言葉少なの番人は暫く榾火を焚き立てた後に、私に釣が出来るかと訊いた。大抵釣れるつもりだと答えると、それでは沼で釣って見ないかと云う。実はこちらから頼み度いところだったのでほんとに釣ってもいいかと云うと、いいどころではない、晩にさしあげるものがなくて困っていたところだからなるだけ沢山釣って来いという。子供の様に嬉しくなって早速道具を借り、蚯蚓を掘って飛び出した。
「ドレ、俺も一疋釣らして貰うべい」
 案内人もつづいた。
 小舟にさおさして、岸寄りの深みの処にゆき、糸をおろした。いつとなく風が出て、日はよく照っているのだが、顔や手足は痛いまでに冷えて来た。沼をめぐっているのは例の黒木の山である。その黒い森の中にところどころ雪白な樹木の立ち混っているのは白樺の木であるそうだ。風は次第に強く、やがてその黒木の山に薄らかに雲が出て来た。そして驚くほどの速さで山腹を走ってゆく。あとからあとからと濃く薄く現われて来た。空にも生れて太陽を包んでしまった。
 細かな水皺の立ち渡った沼の面はただ冷やかに輝いて、水の深さ浅さを見ることも出来ぬ。漸く心のせきたったころ、ぐいと糸が引かれた。驚いて上げてみると一尺ばかりの色どり美しい魚がかかって来た。私にとっては生れて初めて見る魚であったのだ。惶てて餌を代えておろすと、またかかった。三疋四疋と釣れて来た。
「旦那は上手だ」
 案内人が側で呟いた。どうしたのか同じところに同じ餌を入れながら彼のには更らに魚が寄らぬのであった。一疋二疋とまた私のには釣れて来た。
「ひとつ俺は場所を変えて見よう」
 彼は舟から降りて岸づたいに他へ釣って行った。
 何しろ寒い。魚のあぎとから離そうとしては鉤を自分の指にさし、餌をさそうとしてはまた刺した。すっかり指さきが凍えてしまったのである。あぎとの血と自分の血とで掌が赤くなった。
 丁度十疋になったを折に舟をつけて家の方に帰ろうとすると一疋の魚を提げて案内人も帰って来た。三疋を彼に分けてやると礼を云いながら木の枝にそれをさして、やがて沼べりの路をもと来た方へ帰って行った。
 洋燈より榾火の焔のあかりの方が強い様な炉端で、私の持って来た一升壜の開かれた時、思いもかけぬ三人の大男が其処に入って来た。C―家の用でここよりも山奥の小屋へ黒檜の板を挽きに入り込んでいた木挽たちであった。用が済んで村へかえるのだが、もう暮れたから此処へ今夜寝させて呉れと云うのであった。迷惑がまざまざと老番人の顔に浮んだ。昨夜の宿屋で私はこの老爺の酒好きな事を聞き、手土産として持って来たこの一升壜は限りなく彼を喜ばせたのであった。これは早や思いがけぬ正月が来たと云って、彼は顔をくずして笑ったのであった。そして私がM―老人を呼ぼうというのをも押しとどめて、ただ二人だけでこの飲料をたのしもうとしていたのであった。其処へ彼の知合である三人の大男が入り込んで来て同じく炉端へ腰をおろしたのだ。
 同じ酒ずきの私には、この老爺の心持がよく解った。幾日か山の中に寝泊りして出て来た三人が思いがけぬこの匂いの煮え立つのを嗅いで胸をときめかせているのもよく解った。そして此処にものの五升もあったらばなア、と同じく心を騒がせながら咄嗟の思いつきで私は老爺に云った。
「お爺さん、このお客さんたちにも一杯御馳走しよう、そして明日お前さんは僕と一緒に湯元まで降りようじゃアないか、其処で一晩泊って存分に飲んだり喰べたりしましょうよ」
 と。
 爺さんも笑い、三人の木挽たちも笑いころげた。
 僅かの酒に、その場の気持からか、五人ともほとほとに酔ってしまった。小用にと庭へ出て見ると、風は落ちて、月が氷の様に沼の真上に照っていた。山の根にはしっとりと濃い雲が降りていた。

十月廿八日。

 朝、出がけに私はM―老人の部屋に挨拶に行った。此処には四斗樽ほどの大きな円い金属製の暖炉が入れてあった。その側に破れ古びた洋服を着て老人は煙管をとっていた。私が今朝の寒さを云うと、机の上の日記帳を見やりながら、
「室内三度、室外零度でありましたからなア」
 という発音の中に私は彼が東北生れの訛を持つことを知った。そして一つ二つと話すうちに、自身の水産学校出身である事を語って、
「同じ学校を出ても村田水産翁の様になる人もあり、私の様に斯んな山の中で雪に埋れて暮すのもありますからなア」
 と大きな声で笑った。雪の来るのももう程なくであるそうだ。一月、二月、三月となると全くこの部屋以外に一歩も出られぬ朝夕を送る事になるという。
 老人は立ち上って、
「鱒の人工孵化をお目にかけましょうか」
 と板囲いの一棟へ私を案内した。其処には幾つとなく置き並べられた厚板作りの長い箱がありすべての箱に水がさらさらと寒いひびきを立てて流れていた。箱の中には孵えされた小魚が虫の様にして泳いでいた。
 昨夜の約束通り私が老番人を連れてその沼べりの家を出かけようとすると、急にM―老人の部屋の戸があいて老人が顔を出した。そして叱りつける様な声で、
「××」
 と番人の名を呼んで、
「今夜は帰らんといかんぞ、いいか」
 と云い捨てて戸を閉じた。
 番人は途々M―老人に就いて語った。あれで学校を出て役人になって何十年たつか知らんがいまだに月給はこれごれであること、然し今はC―家からも幾ら幾らを貰っていること、酒は飲まず、いい物はたべず、この上なしの吝嗇だからただ溜る一方であること、俺と一緒では何彼と損がゆくところからああして自分自身で煮炊をしてたべている事などを。
 丸沼のへりを離れると路は昨日終日とおく眺めて来た黒木の密林の中に入った。樅、栂、などすべて針葉樹の巨大なものがはてしなく並び立って茂っているのである。ことに或る場所では見渡す限り唐檜のみの茂っているところがあった。この木をも私は初めて見るのであった。葉は樅に似、幹は杉の様に真直ぐに高く、やや白味を帯びて聳えて居るのである。そして売り渡された四十五万円の金に割り当てると、これら一抱二抱の樹齢もわからぬ大木老樹たちが平均一本、六銭から七銭の値に当っているのだそうだ。日の光を遮って鬱然と聳えて居る幹から幹を仰ぎながら、私は涙に似た愛惜のこころをこれらの樹木たちに覚えざるを得なかった。
 長い坂を登りはてるとまた一つの大きな蒼い沼があった。菅沼と云った。それを過ぎてやや平らかな林の中を通っていると、端なく私は路ばたに茂る何やらの青い草むらを噴きあげてむくむくと湧き出ている水を見た。老番人に訊ねると、これが菅沼、丸沼、大尻沼の源となる水だという。それを聞くと私は思わず躍り上った。それらの沼の水源と云えば、とりも直さず片品川、大利根川の一つの水源でもあらねばならぬのだ。
 ばしゃばしゃと私はその中へ踏みこんで行った。そして切れる様に冷いその水を掬み返えし掬み返えし、幾度となく掌に掬んで、手を洗い顔を洗い頭を洗い、やがて腹のふくるるまでに貪り飲んだ。
 草鞋を埋むる霜柱を踏んで、午前十時四十五分、終に金精こんせい峠の絶頂に出た。真向いにまろやかに高々と聳えているのは男体山であった。それと自分の立っている金精峠との間の根がたに白銀色に光って湛えているのは湯ノ湖であった。これから行って泊ろうとする湯元温泉はその湖岸であらねばならぬのだ。ツイ右手の頭上には今にも崩れ落つるばかりに見えて白根火山が聳えていた。男体山の右寄りにやや開けて見ゆるあたりは戦場ヶ原から中禅寺湖であるべきである。今までは毎日毎日おおく渓間へ渓間へ、山奥へ山奥へと奥深く入り込んで来たのであったが、いまこの分水嶺の峰に立って眺めやる東の方は流石に明るく開けて感ぜらるる。これからは今までと反対に広く明るいその方角へ向って進むのだとおもうと自ずと心の軽くなるのを覚えた。
 背伸びをしながら其処の落葉の中に腰をおろすと、其処には群馬栃木の県界石が立っていた。そして四辺の樹木は全く一葉をとどめず冬枯れている。その枯れはてた枝のさきざきには、既に早やうす茜色に気色ばんだ木の芽が丸みを見せて萌えかけているのである。深山の木は斯うして葉を落すと直ちに後の新芽を宿して、そうして永い間雪の中に埋もれて過し、雪の消ゆるを待って一度に萌え出ずるのである。
 其処に来て老番人の顔色の甚しく曇っているのを私は見た。どうかしたかと訊くと、旦那、折角だけれど俺はもう湯元に行くのは止しますべえ、という。どうしてだ、といぶかると、これで湯元まで行って引返すころになるといま通って来た路の霜柱が解けている、その山坂を酒に酔った身では歩くのが恐ろしいという。
「だから今夜泊って明日朝早く帰ればいいじゃないか」
「やっぱりそうも行きましねエ、いま出かけにもああ云うとりましたから……」
 涙ぐんでいるのかとも見ゆるその澱んだ眼を見ていると、しみじみ私はこの老爺が哀れになった。
「そうか、なるほどそれもそうかも知れぬ、……」
 私は財布から紙幣を取り出して鼻紙に包みながら、
「ではネ、これを上げるから今度村へ降りた時に二升なり三升なり買って来て、何処か戸棚の隅にでも隠して置いて独りで永く楽しむがいいや。では御機嫌よう、左様なら」
 そう云い捨つると、彼の挨拶を聞き流して私はとっとと掌を立てた様な急坂を湯元温泉の方へけ降り始めた。

  中禅寺湖にて
裏山に雪の来ぬると湖岸うみぎし百木もゝきの紅葉散り急ぐかも
見はるかす四方の黒木の峰澄みてこの湖岸の紅葉照るなり
湖をかこめる四方の山なみの黒木の森は冬さびにけり
舟うけて漕ぐ人も見ゆみづうみの岸辺の紅葉照り匂ふ日を
  鳴虫山の鹿
聞きのよき鳴虫山はうばたまの黒髪山に向ふまろ山
鹿のゐて今も鳴くとふ下野の鳴虫山の峰のまどかさ
友が指す鳴虫山のまどかなる峰の紅葉は時過ぎて見ゆ
草枯れし荒野につゞくいたゞきの鳴虫山の紅葉乏しも
[#改ページ]

大野原の夏草





 富士の裾野のうちで、富士をうしろにし、真正面に足柄山、右に愛鷹あしたか山、左に名も知らぬ外輪山風の低い山脈を置いた間の広大な原野を土地では大野原と呼んでいる。地図にもそう書いてあるので、これが此野の固有名詞かも知れない。名の示す通り、うち見たところ十里四方にも及びそうな大きな原野である。東海道線の汽車はその野のはずれ、ずっと足柄山に寄ったところを通って、野原の中に駿河駅、御殿場駅、裾野駅があり、裾野の傾斜を下りつくしたところに三島駅がある。
 御殿場から歩いてこの広大の野原を横断したのは一昨年の秋であった。野原いちめんの芒がほおけ、松虫草のすがれた十月であった。若草の伸び揃うた頃にもう一度この野の中を歩いて見いとその時思ったのであったが、昨年は病気がちで果さず、今年もその春の頃をば空しく過ごして、いつのまにかすっかり夏めいた六月のはじめに漸くその望みを遂ぐることが出来た。
 今度は裾野駅で汽車から降りた。そして其処からてくてく歩いて、野原の中の西寄りに在る唯一の集落須山村というまで、軽い傾斜を四里があいだ片登りに登って行った。
 裾野駅はもと佐野駅と云った。その佐野の旧い宿場を出はずれる時が丁度十一時であったので其処で稲荷鮨を買って提げたが、程なく土ぼこりの立つ道を歩き歩き喰べて行った。心あてにした恰好な木蔭もなく、茶を貰って飲む茶屋らしいものにも行き会えそうになかったからであった。それでも一里ほどの間はとびとびに人家があり、やがてそれが絶えて一面の麦畑と桑畑との原となった。麦は半ば黄色に熟れて、諸所、刈っているのにも出会った。桑には小さな美しい実がなっていた。子供の時の記憶を思い出して、路ばたのそれを一つ二つと摘みとって喰べて見ると、ほほら温いうす甘いものであった。
 路の埃は実に夥しいものであった。このあたりの地質が火山性の乾き易い土らしいのに、数日うち続いた日照のあとであるのだ。途中に渡った黄瀬川など、僅に岩から岩の筋目を辿ってちょろちょろと流れているにすぎなかった。そしてその細い流れも底に着いた水垢のため、枯葉の様な色に見えている。鮎の上って来る話を聞いていたので、暫く橋の上に立ってあちこちとその流れを――水垢の色が透くので色づいては見えるが水はよく澄んでいるのだ――見ていたがなかなかその魚のすがすがしい姿などは見えなかった。ぼくぼくと草鞋で踏んで登るその野の路の両側には麦や桑の畑の中に、またはこまごまと茂り合った丈低い雑木林の中に、頬白の鳥がつぎつぎと啼いていた。路の行手にはあらわに晴れた富士山が鹿の子まだらに雪を残してゆったりと聳えていた。
真日中の日蔭とぼしき道ばたに流れ澄みたる井手のせせらぎ
道ばたに埃かむりてほの白く咲く野いばらの香こそ匂へれ
桑の実のしたたるつゆに染まりたる指さきを拭くその広き葉に
埃たつ野なかの道をゆきゆきて聞くはさびしき頬白の鳥
 腰から下をほの白く土埃に染めながら、登るともなく登って、この野の中のただ一つの村を包むうす黒い杉の林を見出でた時には、富士は全く眼の前に、愛鷹山はツイ左手に迫って見えた。広い野を歩き尽してそのはての山の根に近づくなつかしさをばよく武蔵野で経験したものであったが、久しぶりに今日またそのしみじみした心持を味わった。杉の林を歩き抜けると、一握りにかたまった須山村があった。四方にめぐらした杉林は恐らく風を防ぐためであろう。秋の時に泊った清水館というに草鞋を脱いだ。
 この前通された部屋は富士を仰ぐによかったが、今は繭買が入り込んでいてそちら側は全部ふさがっていた。反対の側の一室に入ると、今度は愛鷹の裏山の青々と茂っているのが真向いに見えた。並び立った若杉、渦を巻いて見える雑木の若葉、眼の覚める眺めであった。末広がりに広がり下った野の末には足柄箱根の連山が垣をなしてうす青く見渡された。
 まだ時間は早かったが、塵に労れて散歩をする元気もなかった。障子をあけ放ってぼんやり煙草に火をつけていると、宿屋の軒下の庭には、伊豆あたりからでも登って来たらしい鰹節売が一杯に荷を拡げていた。そして其処も矢張り軽い坂をなした門さきの路を通る百姓たちを呼び留めては無理強いに一本二本と売りつけていた。多くは真青な桑を脊負ったままの百姓たちは大抵それをばにやにやと笑いながら受取って行き過ぎた。
 一時、その客足の断えた時があった。其処へ一人の男が通りかかった。二十代か三十かそれとも四十にかかっているか、一向に年齢の解らぬ背の低い丸坊主であった。帯をば尻の頭にしめて、だらりと両手をふところに入れて居る。一目見てそれと解る白痴である。門にもたれていた鰹節売の六十爺はそれを見ると、矢庭に声をかけた。
「××!」
 と名を呼んでおいて、
「あれにナ、石を投げて見ろよ、あたるといい音がするぜ!」
 見ると宿屋の石の門の真向いには半鐘柱が立っていた。男はニヤリと笑ったが、やがてその猪首を傾げて、眩しそうに柱の上に吊ってある半鐘を見上げた。そしてまた鰹節売の胡麻塩の頭を見て、ニヤリと笑った。上の前歯が三四本ずらりと欠けているのだ。それが一層この男を白痴らしくも、また可愛らしくも見せて居る。
「投げて見ろよ、見ろ、ソラ!」
 云いながら爺は足許の小石を拾いあげて半鐘の方へ向けて投げあげた。うす赤い歯茎をあらわに見せて相変らず同様な笑いを続けていた男は、度々爺の勧むるままに、やがて自分も一つの小石を取りあげた。そして徐ろに首を動かして高い柱の上を見上げた。
 直ぐ投げるかと見ていると、彼は投げなかった。腕を曲げて投ぐる姿勢に首をも身体をも傾げてはいるが、なかなか投げなかった。もどかしがって胡麻塩頭の脊の高い爺は更に二三度自身が投げて見せて、果は本気になって嗾しかけていたが、終に投げなかった。そしてその投ぐる姿勢をば少しもくずさずにじいっと其処に突っ立っていたが、やがてそろそろと三四間坂の下手に降りて行って其処から改めて振返ってまた半鐘を見上げた。その顔が二階の私からよく見えた。いつか以前のにやにやした笑顔は失せて、いかにも真剣の真顔である。それでも、歯の折れた唇頭は矢張り少しあいていた。この歯も誰かの悪戯で折られたものに相違ないと私は思った。
 其処へ桑を負った客が通りかかった。この客に四本の鰹節を売りつけた爺は、何やら追従を云いながら不図またこの白痴の真面目な顔を見て大きな声で笑い出した。
 私が風呂に入って出て来るまで彼は少しも前と変らぬ姿で石を持って其処へ立っていた。夏でも蚊帳を吊らぬというその野原の夕方は沼津あたりと違ってかなりに冷えた。暮れそめていよいよ青みを増してゆく山を見るのは楽しみであったが、あまりに冷えるので私は夕飯の膳に酒を添えて持って来たのと同時に、障子をしめたのであった。その時までも同じ様に彼は立っていた。上に行き下に行き、四五間の間を廻りながら片手に石を持って半鐘を見上げているのである。鰹節売はいつの間にか荷を片附けて、姿は見えなかった。
 長い食事が終ると、私は立って障子をあけたが、もう白痴の姿も見えなかった。そして半鐘には冷たい月の光が落ちていた。月夜の富士を心に描いて惶てて私はそとに出た。宿から少し坂を登った所から富士はよく仰がれた。朧な月の影を帯びて、昼間よりも一層高みを増して墨絵の様に仰がれた。月には大きな暈があった。見渡す野原いちめんに冷たいその暈の影が落ちているのが感ぜられた。
 ぐっすりと眠っていると、恐ろしい物音が私を呼び覚した。繭買と鰹節売とが私のまん前の部屋で掴み合いの喧嘩を始めていたのである。徳利や皿の割れる音が続いて起った。苦笑しながら蒲団を被っていると、二三の人々が駈けつけて来た。暫く経って後、うとうとと私はまた眠って行ったが再び異様な音に襲われた。半鐘の音である。しかもツイ軒先で鳴るそれである。驚いて私は飛び起きた。そして雨戸を繰りあけた。月光に浮いて一人の男が柱の上の半鐘を打ち鳴らしている。やがて二人三人と宿の前の坂道を人が走り出した。凄じい音で喞筒そくとうも坂を降りて行った。此処から一里半ほど下の山蔭に在る下和田村というのが焼けているのだそうだ。時計を見ると丁度一時半であった。

 拵えて貰った握り飯を腰に提げて、新しい草鞋に履代えて朝早くその宿を出ようとすると驚いた。例の白痴がいつのまにかやって来て昨日の通りに石を持ち腕を曲げ首をかしげて、今朝ほどじゃんじゃんと鳴りわめいた半鐘の下に佇んでいたのである。側をそっと通り抜けながら、私はその真面目な顔を見るのが恐ろしかった。
 村を出はずれると、一里ほどの間低い灌木の林の中を登った。つゆじめりのした林の茂みには黒つがという鳥があちらこちらで啼いていた。行々子よしきりに似た啼声で、それより遥に寂びのある山の鳥の声である。一里ほど登ったところで、私は路を右にとった。真直ぐに行けば戸数十軒あまりの十里木という峠村を越えて、駿河湾に面した裾野の森林帯を横切って大宮の方へ行くのである。一昨年はそれを行ったのであったが、今度は十里木まで行かず、その手前で折れて、いわゆる大野原の夏草原の中間を横断して御殿場へ出ようというのである。
 林から折れて出ると直ぐ大野原の一端に入り込んだ。この前の時も一寸此処へ立ち入って、涯のない野原の美しさと、それを前に置いて独り高く聳えて居る富士山の神々しさにつくづくと心を酔わせたのであった。その時は眼に満つる一面の秋草の野であった。たまたまに野のうねりの円い岡から岡へ啼いて飛ぶのは鶉であった。いまはまた見ゆる限りの青草の海である。珍らしく紅空木の花が咲いて居るほかは何ひとつ花とて無く、名さえもわかぬ草の種類がひた茂りに茂って居る。そして天にも地にも入り乱れて雲雀が啼き交わして居るのであった。
 元来この大野原は陸軍野砲兵の実弾射撃演習地となっているのだ。野の中央所に砲を据えて、一日は野の下部を目がけて撃ち、一日は上手の方に的を置いて撃つのだそうだ。今日は幸いにもその上手に当る富士の根際の方の休みの日であった。それで其処を通る事が許されていたのである。
 それでもやがて下の方で撃ち出した大砲の殷々たる響きを聞くと何となく心が騒いだ。ことに自分の通っている道から両側にかけ三四尺四方の穴を穿って落下した弾の痕が無数に散らばっているのを見ると、あたり一面に草のみ茂って人の影とても無い中のことで、どうしても落ちついて歩いている気になれなかった。大海のうねりの様に、野から野にかけて穏かな円みを持った岡が柔かな草に掩われて連り亘っているのであるが、その中でもやや大きな岡のあるのを見ると道から逸れてその上へ登って行った。そして其処へ腰をおろして両手で膝を抱きながら眼の前に聳えた富士を仰ぐのが楽しみであった。空は紺青色に晴れているのだが、何処からとなく薄い雲が生れては富士の方へ寄って行って、やがてまた夢の様に消えていた。その雲も眩ゆく寂しく、その雲の落すうす黒い影の動きも富士の肌えに寂しく仰がれた。
 二三里をひたすらに草の中を歩いて、印野村へ出た。須山より更に小さい野中の村であった。通り抜けるとまた野原である。更に二三里を歩いて御殿場へ出た時は、漸く正午に近い頃であった。
ひそやかにもの云ひかくる啼声のくろつがの鳥を聞きて飽かなく
草の穂にとまりて鳴くよ富士が嶺の裾野の原の夏の雲雀は
夏草の野に咲く花はたゞひといろ紅空木の木のくれなゐの花
寄り来りうすれて消ゆる真日中の雲たえまなし富士の山辺に
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追憶と眼前の風景





 私は日向の国尾鈴山の北側に当る峡谷に生れた。家の前の崖下を直ぐ谷が流れ、谷を挟んで急な傾斜が起ってほぼ一里に渉り、やがて尾鈴の嶮しい山腹に続いて居る。
 この山は南側太平洋に面した方は極めてなだらかな傾斜をつくり、海抜四千何百尺かの高さから海に向って遠く片靡きに靡き下っているのであるが、私の生れた村に臨んだ側は殆んど直角とも云い度い角度で切り落ちた嶮峻な断崖面をなして聳えて居る。無論岩骨そのままの山肌で、見るからにこごしい姿であるが、その割には樹木が深い。伐り出すにも伐り出せないところから、いつとはなしに其処に生えたいろいろな樹が昔のままに芽ぐみ茂っているのであろう。村人に聞くと樅の木など最も多いという事である。そして春になると其処に意外に多くの山桜の咲き出すのが仰がれた。
 一日二日と雨がつづけば、その山腹には三つも四つも真白な見ごとな滝が懸った。日頃はあるかなきかに流れているその岩壁の水が雨のために急に相当の谷となり滝となって現われて来るのである。そうしてそういう日には実にいろいろの形をした雲が山に生れて、あちこちと動くのが見えた。それほど嶮しい山であっても唯だ一面の鏡を立てた様な岩壁となっているのではない。その間には、全体の傾斜に添う様な嶮しい角度で幾多の襞が切れている。無論そういう山肌である処から縦に切れる処は無く、多くはみな横に切れて畳まっているものらしい。そしてその畳まった岩襞の間から雲は生れて来るのである。
 この雨の日の滝と雲とが、どれほど幼い頃の私を喜ばして呉れたであろう。子供心にも常の日のその自分の眼の前の山は余りにも嶮しく余りにも鋭く感ぜられたに相違ない。眼鼻があかないという気がしていたに相違ない。それが雨の日となると全く山の姿が変ってしまう。襞々から湧いた雲は、平常ただ一面に聳えて居る岩の山を、甚だ奥深いものに見せて呉れた。更らに雲は濃く淡くたなびいて、幾つかに畳まり聳えて居る岩山の尾根の樹木の茂みをそれぞれに浮き立たせて見せて呉れた。そしてそれらの雲よりもなおはっきり白く落ちて居る大小の滝は平常の寂しい山を甚だ賑かにし柔かにして呉れた。その山の雨の日に対する讃美と感謝とからであったろう、私は中学を出る頃まで自ら若山雨山と号していたことを思い出す。そしてなおそれと共に思い出すのは、その山に山桜の花の咲き出す頃の美しさである。
 尾鈴からその連山の一つ、七曲峠というに到る岩壁が、ちょうど私の家からは真正面に仰がれた。幾里かに亘って押し聳えた岩山の在りとも見えぬ襞々にほのぼのとして咲きそむる山ざくらの花の淡紅色は、躍り易い少年の心にまったく夢のような美しさで映ったものであった。そんな山だけに樹という樹は大抵年代を経た古木であったに相違ない。うすべに色に浮んで見ゆるその山ざくらの花は多くふくよかな円みをもっていた。枝を張り渡した古木にみっちりと咲き静もっている花のすがたであったのだ。その円みを持った一団の花一樹の花が、うす黒い岩山の肌に其処此処に散らばって見渡さるる。北側だけに、山腹にはおおく日がかげっていた。そのうすら冷い日蔭に在ってもなおこの花だけはほのかに日の光を宿しているかの様に浮き出でて見えたのであった。
さくら花咲きにけらしなあしひきの山の峡より見ゆるしら雲
 中学の文法の時間に、或る引例として引かれてあったこの古歌に無上の憧憬を覚えたのも矢張りそうした心を桜に対して懐いていたからであった。私の生れた処はそうした山奥であったために、その頃尋常小学だけしか村になかった。で、高等小学と中学とをば村から十里余り離れた海岸の城下町で学んだのであったが、その中学の寄宿舎に在って恋しいものはただ父であり母であり、その故郷の山の山ざくらの花であった。その頃、幼いながらに詠んだ歌にそのこころが残っている。
母恋しかゝるゆふべのふるさとの桜咲くらむ山のすがたよ
父母よ神にも似たるこしかたにおもひでありや山ざくら花

 そうした山あいの郷里を出て来てから十七八年たっている。その間におりおり思い出す郷里のことは、年のたつに従って種々の事情と共に私にはあまり香ばしからぬ心持をのみ起さしめる様になって来た。それでも不思議にその谷間から仰ぎ馴れていた山ざくらに対してだけは寧ろ年ごとになつかしい追懐を深めてゆく傾向があるのである。十七八年の間に二三度帰国はして居るが、いつもあわただしい時間であったり、その花の咲く季節でなかったり、心ゆくまでそれに向うということを一度もようしていない。いつか一度ゆっくりその花の頃を選んで帰国したいと思いながら次第に年を重ねて来ている。そしてその季節に逢うごとに、オ、もうあの花が咲くのだなア、とその面影を心に描くのが常となっている。
 一体桜には非常に種類が多いとかで、東京近郊に咲くのだけでも何十種とかに上るそうである。専門的の詳しい事を私は知らないが、此処に謂う山桜は花よりも早く葉が出て、その葉は極めて柔かく、また非常にみずみずしい茜色をしている。花の色は純白、或は多少の淡紅色を帯びているかとも思われる。或はその美しい葉の色が単弁のすがすがしい花に映じて自ずと淡紅色に見えるのかとも思われる。多くは山地にのみ見られる様で、あれほど桜の多い東京にもこの花ばかりは殆んど見掛けなかった様におもう。
 丁度その花の頃は旅行のしたい季節ではあるし、よくあちこちと出かけて行っては山に咲き野に咲く一本二本のそれを見出して心を躍らしていたのであったが、今年偶然にもこの花の非常に多い処を発見した。それはいま私の滞在している伊豆湯ヶ島温泉附近である。
 東海道三島駅で分れた駿豆鉄道の終点大仁駅から四里、乗合の馬車なり自動車なりによって軽い片登りの道を登ってゆくと天城山の北の麓に在る湯ヶ島の宿場に着く。その宿はずれから右手を見下すと其処は思いがけぬ嶮しい崖となっていて丁度崖の下で二つの渓流が落ち合い、白い奔湍となって流れ下っているのを見る。その渓沿いに、川下にまた川上に、次ぎから次ぎと実に限りないこの山桜の花の咲いているのを私は見たのである。
 私の此処に来たのは三月の末、廿八日であった。右に云った宿はずれの崖の上から見下した渓間の流れに臨んで二軒の温泉宿がある。その一軒に暫く滞在して病後の疲れを直そうと思って来たのであったが、その時に既に或る場所の桜は咲いていた。同じ山桜のうちにも幾つかの種類があるらしく、また樹齢にもよると見えて、その時からかけて次ぎ次ぎと咲き継いだ花は到る所の渓間にそのみずみずしい姿を見せていた。
 此の渓流は天城山及びその連山から流れ出して来た流で末は沼津町の裏に青々と湛えて伊豆通いの汽船をも入れ、千本松原近くの海に落つる狩野川となるのであるが、まだこの湯ヶ島附近では岩から岩を越え石から石に飛沫をあげて走る純然たる渓流である。その渓を挟む両岸の木立のなかに眼覚むる様な色とかがやきとを点じて最も多く咲き混っているのである。或は木立から抜けて真白な瀬の上にあらわに咲き垂れているのもある。また渓から山腹に茂っている杉山の中に、一本二本くっきりと鮮かに咲いているものもある。杉山のはずれが薄黄いろい枯萱の山窪となり、その山窪の原の中に一本ぽっつりと寂しく咲いているのもある。またその萱山のいただきの円みの上に何かの目じるしででもある様に見ごとな古木がうららかに咲き盛っているのも見えた。常磐木の茂みのなか、または流れくだる瀬々のうえに咲いているのはいかにもみずみずしく鮮かであるが、萱野のなかに独りだちに咲いているのはあたりの日の光を其処に集めて咲いてでもいる様に美しいなかに何とも云えぬ寂しさを含んでいる。炭焼の煙のうすあおく立ち昇る雑木林のまだ芽ぶかぬなかに咲いているのもまたほのかでものさびしい。
 普通湯ヶ島温泉と云っている二軒の湯宿――それも渓に沿うた三四丁の上と下とに在るのだが――から七八丁川上の方へ入ると其処にまた世古の湯木立の湯という温泉が渓を距てて湧いている。二つとも極めて原始的な温泉で世古の湯の方には二軒の小さな宿屋があるにはあるが、湯はその二軒の間の渓ばたに僅かに屋根といい壁という名のみのものを持った浴場の中に湧き、殆んど脱衣場や休憩室というべき場所もないので、晴天の日は人は多く渓の石の頭に衣服を脱ぎ、飛沫のかかる瀬際に立って浴後の赤い素肌を晒すのである。この湯は晴雨によって温度を異にし、雨となると少し過ぎる位いの熱さとなる。その湯の筋向うの同じく渓ばたに湧く木立の湯というのは更らに変っている。地面よりやや低く掘り下げた四周に石垣が築かれ、その上に草葺の屋根が拵えてある。それが即ち浴場なのだが、唯だこれだけの設備があるのみで附近に人家も無ければ何も無い。切り立った岩に挟まれた深い淵とそれに続く激しい瀬と岩の崖と崖の上の森とが在るのみなのだ。湯槽の中には堆く散り溜って腐れた落葉の間に、僅かに両足を置いて蹲踞しゃがむだけの石が二つ三つ置いてある。湯は泡の玉をなしてその落葉の間に湧き、温度は極めてぬるいが、ラジュウムを含んでいる事では伊豆諸湯のうち一二を争うのだそうだ。
 私は此処でこの不思議な二つの湯の紹介をしようとしたわけでなく、唯だ云い度いのはこの二つの湯を囲む渓ばたの樹木のうち、殆んどその半ばが山桜ではないかと疑わるるほど、その花の多いのに驚いたことであるのだ。若木も多いが、更らに老木が多い。樫や椎の茂みを抜き、この木とは思えぬほどのたけ高い梢を表わして咲き靡いているのもあれば、同じ様に伸び古りた幹や枝を白々とした瀬の真上にさし横たえて滴る様に咲いているものもある。世古の湯の崖に咲けば、対岸の木立の湯の背後の森には更らに見ごとに咲き出でているのである。
 其処から四五丁上にのぼれば二百枚橋という橋がある。そのあたりは両方が萱山で、岸に木立とてもなく、やや打ち開けた川原となっているが、その川原にすら二三本の老樹が山の風に片靡びきに傾かせられたままの枝にみっちりと花をつけて咲き静もっていた。

 地味に適しているのか、薪炭に伐られぬのか、兎に角此処の渓間にはこの花が多い。散る盛りには渓の流の淵という淵淀みという淀みに到るところ純白な花片が散り浮いていた。
 そしてこの渓には河鹿が頻りに鳴く。よほど早くから鳴くと見え、私の来た時には既にその声が聞えていた。ようよう窓の明るみそめる夜明方の浴槽にたんだ独りひっそりと浸りながら、聞くともなくそれの鳴く音に耳を澄ますのはまた渓間の温泉の一徳であろう。
 山魚やまめ、うぐい、はやなどの魚が瀬や淵で釣れる。どういうわけだか、私はこれらの川魚、といううちにも渓間の魚をば山桜の花の咲き出す季節と結んで思い出し易い癖を以前から持っていた。冬が過ぎて漸くこれらのうろくずと近づき始めた少年時の回憶からのみでなく、矢張り味も色もこの頃が一番いいのではないかとおもう。
 温泉場から一里ほど上に溯ったところに浄蓮の滝という、伊豆第一の名瀑と伊豆案内記に書いてある滝があるが、其処の滝壺で釣れる山魚の腹からはよく蛇や蜥蜴を見出すことがあるという。荒瀬にふさわしい敏捷な魚ではあるが、また誠に美しい色と姿とを持った魚である。

 天城山が火山であったということは極めて当然な様な話で、しかも私はそれを知らなかった。その噴火口のあとが山上にあって、小さな池となり、附近に青篠あおすずの茂っているところから青篠の池ともいい、周囲が八丁あるところから八丁池とも呼ぶという話はことに私の興味をそそった。或る日、案内せられて其処へ登ることになった。
 登り三里の山路というので、病後で弱っている身体には少し気にもなったが、久しぶりに履きしめた草鞋の気持は非常によかった。四月十二日、天気もまた珍しい日和であった。
 何しろ眼につく山ざくらの花である。温泉宿の附近はもうその頃はおおかた散っていたが、少し山を登ってゆくと、まだ真盛りであった。そして眼界の広まるにつれて、あちらの渓間こちらの山腹と、例のくっきりと縁をとって浮き出た様に咲き盛った一本二本の花の樹木がまったく数かぎりなく見渡された。東京あたりに多い吉野桜などは先ず遠く望む時にはいいが、近づいて見るといかにもこてこてと花弁ばかりが枝さきにかたまっていて、ともすれば気品に乏しい憾みを抱く。山ざくらは近寄って見たところもまことに好い。そのうす紅いろのみずみずしい嫩葉がさながらその花びらを護る様にもきおい立って萌えて居る。その中にただ真しろくただ浄らかな花がつつましやかに咲いているのだ。雨によく、晴によい。ことに私の好きなのはうららかな日ざしのもとに、この大木の蔭に立ってその花を仰いだ時である。この文章のなかに私はよく咲き籠る咲き静もるという言葉を使った様に思うが、それは晴れた日に見るこの花の感じがまったくそれである。葉も日の影を吸い、花びらもまた春の日ざしの露けさを心ゆくまでに含み宿して、そしてその光その匂を自分のものとして咲き放っているのである。徒らに日光を照り反す様な乾いたところがなく、充分にくくみ含んで、そして自ずと光りかがようという趣きがある。それがこの花を少なからず露けくし輝やかにし、咲きこもり咲き静もるという言葉が自ずと出て来ることになるのである。そうして近くから仰ぐもいいが、斯くまた山の高みからあちこちに咲き盛っているのを見渡すのも静かで美しい。一つ一つと飛び飛びに咲いているのがいかにもこの花に似つかわしい。
「海が見えだしました」案内の一人が云った。
「静浦から江の浦の海ですね、そうれ、沼津の千本松原も見えます」
 と、も一人がいう。
 いつ湧いたともない霞がその入江その松原をうす色に包んでいた。
「オ、富士!」
 私は思わず手を挙げた。
 ツイ其処から続いているのが箱根の連山、その次ぎが愛鷹山、それらの手前に青々した平野が田方郡の平野、中にうねうねと輝いているのが狩野川、それらを囲む様にして低くごたごたと散らばっているのが城山、徳倉山、寝釈迦山その他で左に寄って高く連っているのが真城、達磨の枯草山であり海の向うにずうっと雪を輝かしているのが赤石山脈の連峰であるとそれぞれに教えられながら、私は暫くは富士のいただきから眼を離すことが出来なかった。
 何という高さにその嶺は照り輝いていたことであろう。たとえそれを背後にして登って来たとは云え、既に幾度か振り仰いでいねばならなかったこの嶺に、今まで気づかずにいたのは、まったくそれが思いがけぬ高い中空に聳えていたからである。毎日毎日見馴れているこの山でありながら、全く異った趣き、異った高さで仰ぎ見ねばならなかった。斯うした場合によく思い出す言葉の、高山に登り仰がずば高山の高きを知らず、という意味が事新しく心に湧いて来るのであった。その意味に於て乙女峠から見た富士もよかった。愛鷹のいただきに這い登って見た富士もよかった。また遠く信州の浅間、飛騨焼岳の頂上に立って足許に湧き昇る噴煙に心をとられながらも端なく遥かな雲の波の上に抜き出でている富士を見出でて拝み度い思いに撲たれたこともあった。が、乙女愛鷹は余りに近く、狎れ過ぎる感がないではない。焼岳浅間山では余りに遠くて、ただ思いがけなく望み見た心躍りが先立ったものとも云い得る。そういう点に於て富士を望み仰ぐに同じ山地からするにはこの天城などが最も恰好な位置に在るのではあるまいかとも自ずと思い出でられたのであった。
 ちょうどまたその日は程よい霞が麓の平野を罩めていた。箱根愛鷹の峰もそれに浮んでいる形であったが、富士はまったくその水際だった美しい大きな傾斜を東西ともに深い霞の中に起して、やがて大空の高みに哀しく鋭くそのいただきを置いているのである。麓の野山の霞み煙っているだけに雪に輝く中腹以上の美しさはいよいよ孤独にいよいよ神々しいものとなっているのである。その背景には更らに深い霞のおちに赤石連山が白栲しろたえの峰をつらね、前景ともいうべき一帯には愛鷹箱根の山の散らばりから裾野の端を包むに海があり、其処の渚には静浦の浜に起り千本浜を経てとおく富士川の河口田子の浦に及ぶ松原あり、少し離れては三保の松原がさながら天の橋立の形に浮んでいる。然し、そういうものを一向に内に入れずに、富士の山だけ、遥かに青い空に聳えて美しく寂しく仰がるるのであった。

 其処等は丁度御料林の杉の植林地帯であった。
 温泉場から十四五町も来た頃から直ぐに御料地となり、打ち渡す峰から峰、渓から渓がすべて御料林であり御猟場であるのであった。十五年から二十年に及ぶらしい若々しい杉の木立が行けども行けども尽きなかった。そしてその林道の曲り角、山の襞へ折れ込もうとするあたりごとに振返ると必ず富士が仰がれたのであった。その山の襞、僅かに水の落ちている様な渓あいにまた一つ珍しいものを見出でた。それは山葵沢わさびざわであった。
 天城山の山葵という名をば久しく聞いていた。そしてその山葵沢なるものをも絵葉書などではたびたび見ていた。然し眼のあたりに親しく見るのは初めてであった。山と山との間の渓に石垣で築きあげて小さな段々田とか棚田とかいう風のものを幾つも幾つも作りなす。その田の中には程よい小石を一面に敷きならし、それに全体にゆきわたる様に次ぎ次ぎにちょろちょろと水を落す。その小石原いちめんに真緑の山葵が植えつけられているのである。水を行きわたらせる為か小さいは小さいなりに大きいは大きいなりにその次ぎから次ぎの田はすべて極めて平らかに作られてある。茂りならんで居る山葵の大きさも殆んどみな相均しい。蕗に似て更らに小さな柔かな葉を、ただいちめんに瑞々しくうち広げて茂っているのである。見るからに清浄なすがすがしいものであるのに、今が季節と見えて其処にも葉の茂みから抜けた一尺ほどの茎に群って花弁の小さな真白な花が咲いていた。虎耳草ゆきのしたに似て、疑いもなく深山のものらしい花である。
 通ってゆく道ばたでもその幾つかに出逢ったが、それらはみな杉の蔭の小さなものであった。
「ア、彼処を御覧なさい、あんなに大きい山葵沢が」
 と呼ばれて見た渓向うのそれは、道で見て来たものより遥かに見ごとなものであった。向う側の山はこちらと違って雑木林であった。そしてまだ少しも春の気の見えぬ落葉林であった。こまかに網の目を張った様な落葉樹の枝の煙り渡っているなかに、それこそ眼覚むる様なその段々田が山の襞に沿うて長々と下から上へ作りあげられているのであった。然かも一つならず二つ三つと山の切れ目ごとに、大きく縦に群青の縞をなし朽葉色の森の中に浮き出でているのであった。

 二里あまりも登った頃、やがて我等三人はいま渓向うの山葵沢つづきに眺めて来たと同じい落葉樹林のなかへ歩み入った。年代といい、植物性といい、すべてそういうものから超越してしまっている様な、珍しい面白いを通り越し何となく不思議なものを見る様なそれら老樹の幹や枝の限りなく群り連っているなかを、私はただひっそりと二人の案内者のあとについて歩いて行った。うずだかい落葉朽葉の柔かく草鞋を埋むる道を二十町も歩いたであろうか、我等がきょうの目的として登って来た旧噴火口のあとだという青篠の池に着いたのであった。
 その広い林を出はずれたあたりはやや下り坂になっていたが、其処を降りて相向ったこの池は先ずいかにも可憐なものに眺められた。周囲八丁というのが卵なりに湛えているのである。一寸から二三寸の深さが汀から二三間ずつ相続き、さきは小波が輝いてよく見えぬが湖心でも三四尺どまりの深さだろうという。水は清く澄んで、飲むことも出来ると聞き、私は先ず手頃の朽木を汀の浅みに置いてそれに飛び移り、草鞋を濡らすことなしに充分に咽喉をうるおした。
 そして、汀に近く枯れ伏した草の中につき坐って、更らにこの可憐な池に向えば、池のめぐりはなるほど一面の青篠の原である。我等のいま降りて来た南側と幾分西がかった側の両面には近く大きな落葉樹林が迫って居るが、それでも林と池との間の多少の坂地には矢張りいっぱいに茂って居る。そして東と北との側には汀から極めてなだらかな傾斜が高まり行き、やがて両方ともまんまるい頂きをつくり、其処にはただ青篠の密生があるのみである。これらの茂みが作る青やかなふくらみは、一層この池を優しいもの可憐なものに見せているのだ。
 水際の枯草の上ではやがて楽しい昼餉のむしろが開かれた。酒とウイスキイと魔法瓶とお茶と蜜柑と林檎と、折詰の料理と、味噌焼の握飯とが、白茶けた柔かな草の上にひろげられたのだ。海抜四千尺の山上では流石に伊豆の春ともおもえぬうすら冷い風が吹いて、眼の前の小さな池は断えず一面に皺ばみながら微かに白く光り、枯草続きの汀のこまかな砂の上ではそれでも湛えた水のめぐりの際を示すようにちゃぶちゃぶという音を立てて居る。茶と酒とウイスキイとはめいめいの手に配られながら、楽しい時間が極めて静かにたって行った。
 我等の坐っている真正面の池越しの篠山の上に鋭く尖った落葉樹林のいただきが見えて居る。それがこの天城連山中の最高峰である万次郎岳というのだそうだ。実は初めは其処まで登って、炭焼小屋か山葵沢の小屋を探して一晩野宿しようかという相談が起ったのであったが、まだなかなか寒かろうというので見合せることにしたのであった。来て見ればなるほど寒い。四合壜を独りであけて、後にはウイスキイの人の領分にまで侵入して行ったが、それでも私はまだ寒くて酔うことが出来なかった。
 然し、野宿せぬのは惜しかったと、ぼんやりと水の輝きから青篠の山の円み、次いで万次郎岳の尖った頂きなどを見廻しながら、考えていると、不図或る面白い企てを思いついた。私の友人にまだ年若い一人の政治家がいる。その友人は自分の好みからわざわざ一人寝の携帯天幕を作らせて持って居る。そしてそれを自分の主義政策発表宣伝のための途上に使う目的でこの次ぎの総選挙から用いるのだと云っている。あの天幕を借りて、この夏此処に登って五日なり十日なりを独りで過して見たらどうであろうと思いついたのであった。
 そう思うとその天幕の出来上った頃、東京の或る新聞に大きな写真となって出ていたその小さな天幕、天幕の中に唯だ一つ吊るされた丸型のランプ、その下の寝台に腰かけている友人、さては天幕の入口際に立ってさびしく微笑している某政党の老首領の面影などまで、ありありと眼の前に浮んで来た。みな私の親しみ尊とんでいる人たちである。
 然し、よく独りで、この山上の夜に耐え得るであろうか。此処は帝室御猟地で、猪や鹿の巣とされている深山の奥である。然かも彼等は自分等の恰好な遊び場としてこの池を選んでいるのではなかろうか。然し、求めて彼等から危害を加えることはあるまい。唯だこちらの気持、その中にいて動ぜぬ気持だけである。それだけの信念を持ち得るかどうか。まんざら持てないこともない、と平常の自分を考えながら私は思った。一夜だけならば知らず、五日十日となると唯だの興味だけの事ではなくなるだろう、そうなれば……。
 ふとした思いつきから、いつか本気になってその天幕の中で勉強するという事にまで空想して行っていた時、傍らの一人は私を呼びかけた。
「ねえ先生、そんなに野宿に心残りならこの六月か七月かにも一度いらっしゃい。その頃なら野宿だって出来ますよ。それにその頃だと万次郎は石楠木しゃくなぎの花ざかりですからね」
 単に万次郎岳での野宿の事ばかり考えていると思ったか、斯う云って彼は慰めて呉れたのであった。石楠木も此処の名物であることを思い出しながらなるほどその頃の山もいいだろうと思った。そしてなおひそかに天幕の空想を追おうとした。が、いつかそれも本気ではなくなっていた。
 池には飛び跳ねる小魚もいぬのであった。風は幾らか凪いで来て、池の輝きも薄れた。唯だひっそりとした篠山の向うに垂れた蒼空の重たい霞、池の左手に突き出て来ている雲の様な落葉樹の端、すべてが唯だ静かであった。
 ただ可憐だとのみ見ていた池に対する私の考えが次第に変って来た。いわゆる池らしくないこの水面の明るみも、水の浅いのも向う側に低く円くつづいている篠の山も、森のはずれも、それらの上に垂れた大空も、何れもみな相寄って此処に一つの大きな調和を作っているのを感じて来たのである。矢張りこれは山上の池である、噴火口跡の池であると思う心が、一種の寂しさが、眼の前の小波のひかりの様に、また枯草の蔭に寄せているその小さな音の様に、親しく身体に浸みて来た。箱根の蘆の湖や、榛名の榛名湖などに覚えた親しさが、自ずと私の心に来て宿っていたのである。
「ほととぎすは啼きませんか」
 私は先刻の石楠木の花の話を思い出しながら、一人に訊いた。私の国の尾鈴山の八合目以上が夏の初めになるとこの石楠木の花の原でそして其処に非常に杜鵑の多かった事を思い出していたのだ。
「居ますとも、よく啼きますよ」
郭公かっこうは?」
「……?」
「カッコウ、カッコウと啼く、あれです」
「ア、居ます」
 他の一人が答えた。
 これはどうしても、もう一度出直して来なくてはいかぬと私は思った。小さい天幕の中に唯だ一つ吊りさげられている丸型ランプの影がまた心をかすめて行った。
 そんな話をする頃、私たちは池の汀を歩き出していた。そのあたりの砂――不思議なほど白いこまかい砂であるのだ、おりおり海浜の何処かで見る様な――や枯草には真新しい、二三日前の激雨に消されていない獣の脚あとが盛んについているのを見た。これは猪で、これは鹿だという説明を聞きながら、私はまた故郷に於ける自分の少年時代を思い出した。幼い頃よく其処の山の沢などでこの二つの脚あとを見つけ出しては心をときめかしたものであった。私の父は医者であったが、私の友だちの父は大抵は猟師であった。
 汀の一点から折れて青篠の中に入り込んだ。入って見ると肩をかくす深さである。先に行く人のそれを押し分くるざわざわという音が、まるで人間でない様な気をそそった。
「それ、見えます、ツイ其処です」
 二人のうち、一人の中年の案内人は篠から身体を伸び出す様にして山の下を指ざしながら私を顧みた。
 黒いかと思われるまで蒼い海が眼下の山の峡間から向うに広がって見下された。今まで見て登って来たのは駿河湾の海であった。此処のは相模湾である。
「それが大島です」
 島とはおもわれぬまでに近い所にそれは見えた。意外に大きい島だともおもわれ、極めて小さい島だとも思われた。私の好きな三原山の頂上の煙は、その時途断えていたか、見えなかった。
 さきに食事をした場所に引き返して二三服の煙草を吸い、この可憐いじらしい池に「左様なら」をした。時計は午後一時半であった。そして、また前の森の中を落葉の音を立てながら歩み始めた。

 さきに私たちの登って来る時、私は涯知れぬこの森を見渡して、殆んどただ一葉の青い木の葉をも見ないと思ったのであった。そして池の縁に坐ってこの森のはずれが池に差し迫ったあたりを見ながら、其処に初めて一団のうち茂った常磐樹のあるのを見た。黒光りのする緑葉で、一本一本がまるまると茂って居る。落葉木の中にも見え、森から青篠の中にもとびとびに立っていた。何の木であろうとその時思ったのであったが、いま帰り路に近づいて見ると、どうもその葉が馬酔木あしびに似ている。然し、その幹は違っている様にも見え、またそうらしくも思われる。これは何の木ですと訊いて見ると、たけ高い方の案内人は言下に、
「牛殺しです」
 と答えた。では矢張り馬酔木であったのだ。この木の葉に毒素があって、好んで植物を喰う獣も、この木ばかりは喰わないのだそうだ。そこから馬の酔う木と云い、此の土地では牛殺しの木と呼ぶのに相違ない。けれども驚いたのはその幹である。例の鹿の群に木の芽立を荒らされるを恐れて殆んどこの木ばかりが植えてある奈良の春日神社の公園にかなりの老木があったと覚えていたが、なかなかそれらの比ではない。幹のまわりは正に一抱えに余り、元来が灌木である筈のこれの高さが一丈から一丈五尺に及んでまるまると茂って居る。幹の大きさで驚いたのはこの木ばかりでない。大抵普通の大きさが普通の鉄瓶位いのものと思っていた百日紅さるすべりの幹を試みに私は両手で抱えて見たが、なかなかその半ばにも及ばず、両人で腕を伸ばし合って辛うじて抱き廻すことが出来た。
 此処に私がこの二種類の樹木を引いてこの山の森の木の大きさを語ろうとするのはこの二つが最も普通に知られた木であり、且つ一種はその葉で、一種はその幹の特殊の色でこの森の中に在っても私にも見分がつき易すかったからであるがその他の樹木に対しては、平常樹木の好きなだけに普通の人よりは幾らか樹木に就いての知識のある身だと自信している私にも皆目見当がつかぬのであった。山桜山桜といつも大騒ぎをしている私が、この山桜などは随分大きい方でしょうねエと案内人に杖で叩いて見せられて、その根その幹その枝さきまで熟視しながらまだ山桜だと納得出来兼ねたのを見ても、それは知れる。山毛欅ぶなだの、欅だの、これは此処で初めて名をも聞いた木のうりの木だの、そのの木だのというのの幹の大きさ枝の繁さ、そしてその全体の美しさ不思議さに至っては私は初めから筆にすることを断念せねばならぬのである。
 私は初めに、年代を超越し植物性を超越した樹木の森と云った。全くその通りなのである。罅裂の入った巨岩が其処に立っていると見れば、それはぼろぼろとした緑青色の苔を纏うた何やらの樹の幹であるのだ。うち交し差し渡した枝のさきの、殆んど電信線にも似た細さのものがある。試みにそれを杖のさきで叩いて見ると意外にも動こうとはしないで、ただカンカンと響いて金属同様の音を立てる。二本の木が一二丈の高さのところで一本に結ばりついて真直ぐに立って行っているのもあれば、横倒しに倒れた大きな直い幹から直角に伸び出でた枝ともひこばえともつかぬ二三本がそれぞれ一抱え以上の大きな木となって並び立っているのもある。そしてその倒れた幹の根は四畳敷の座敷全体ほどの容積を持った土壌をまだしっかりと抱いて放たず、その土の上から周囲には小さな庭園にでも見る様な木立が新たに出来て茂っている。一体この木などはどの位い昔に生れ、どの位い前に横倒しになったものであろう。
 なめらかな木肌の色のうす赤い百日紅ばかりが唯だ一面に矗々と伸び茂っている所もあった。山毛欅ばかりがその巨大な根や幹を並べつらねて、空には日の光さえ煙ろうばかりに細かい枝を張り渡しているところもあった。おおくは落葉樹の林だが、時には樅の老木の一ところ茂っているのを見た。これはまたいかにも世を譲った老人たちの集りらしくも仰がれて可笑しかった。また稀に半ば折れたか朽ちたかした様な杉が一本だけぽっつりと落葉木の中に混って立っているのをも見た。死ぬのを忘れ、知慧を忘れた老婆が眼をつぶり指を組んで其処に坐っている様であった。或る窪地では思いがけないしきみの密生林に出会った。いまその青黄いろい花の盛りで、烈しい香気が樹木に酔い樹木に疲れた私の心に怪しい注射を射す様に思われた。
 初め私たちは池から離れてまた二十町も戻った時、最初に入り込んだ林をば出はずれたのであった。そして其処から更にもと来た道を下って行けば何の事もなかったのだが、不図其処に一条の分れ道のあるのを見て、これは何処へ行くのかと訊くと、ずっと林の中を通って下田街道の峠にあたる隧道のところへ出る道だというので、それでは是非これを行こう、なあに途中で暮れても月があるじゃないかというので強いて其道へ折れたのであったが、さて行けども行けども森であり林であった。おりおり振り返って見ると、落葉の枝の網の目を透して遥かに遠く富士山の姿が望まれるばかり、他に何もなかった。流石に私も疲れ果てて、折から右手に折れる小径のあったを幸いそれを辿って、やがて落葉林を出はずれ、杉の林に入り、永い間そのうす暗い木下道を急いで降りて来ると漸く枯れなびいた萱草山の頂上に出た。
 其処に来ると、久しぶりに遠望が利いた。やれやれと立って眺むると、其処の峰、彼処の襞、眼下の渓間と到るところにほのぼのとして暮れ残っている山桜の花が見渡された。
 萱山を馳せ下ると、其処には下田街道の広い往還があるのであった。
(伊豆湯ヶ島にて)
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杜鵑を聴きに





 毎月一回、きまって東京から歌を見て呉れと云ってやって来るS―君が、今月十四日の夕方に来た。歌を見て貰うのも目的の一つではあろうが、一緒に一晩飲もうというたのしみが寧ろ大きいかも知れぬ。
 その夜は子供たちのがやがやする私の宅の茶の間でとりあえず一杯飲むことにした。そして、明日は何処かへ出かけようという相談が二人の間に交わされた。土地の料理屋も珍しくないし、静岡まで延すか、それとも近くの長岡温泉にするか、裾野へ登って五竜園の滝を見るのもそろそろ時候がよくなった、と杯の重なるにつれて(その癖彼は四五杯も飲むと赤くなる側なのだが)いろいろな行きたい処が話題に上って来た。
「君、箱根へ行こう、蘆の湖だよ、屹度きっといま杜鵑が啼いているに相違ない」
 かなり更けたが、まだ其処だけあけ放ってある雨戸の間から灯かげの流れた庭さきの闇の色をうっとりと眺めながら、私は或る感覚を覚えて斯う云い出した。湿りを含んだ夜風が、庭木の柔かな葉むらを動かしているのを見ていると、不意にこの鳥の鋭い声が身に感ぜられたのだ。
「そうだ、彼処に限る、もう屹度啼いているよ、……」
 私の追っかけて云う言葉と共に、話はすぐきまった。小田原へ廻らずに、三島から旧道を登って蘆の湖へ出る。そして其処へ一泊して、翌日は蘆の湖から強羅へ廻って小田原へ降りる、という風に。そうきまると、ちびちび飲んでいるのが面倒になって、直ぐ二人とも床に入ってしまった。床に入りながらも、私には湖水の縁で啼いている鳥の声があれこれと想像せられた。ことに、一夜眠った明方の湖水の静けさ、恐らく深々とあたりの山腹に動いているであろう朝靄の真白さ、その中を啼いて渡る杜鵑の声、若葉の輝き、すべて身近にまじまじと見る様な気がして、なかなかに寝附かれないほどであった。
 翌朝、私は三時に起きた。或る二つの雑誌へその日のうちに歌の原稿を送らねばならなかったのだが、歌は幸いにもその前、伊豆の湯ヶ島温泉滞在中に詠んだのがあったが、すべて詠みすてたままで、イザ清書するとなるといろいろと見直さねばならぬ処が多かった。それで友人の起き出るまでに一つの雑誌へ出す分をば辛うじて清書し終えたが、一方分だけは残ってしまった。止むなくそれを蘆の湖の宿屋でやる事にして、午前九時二人とも草鞋を履いて、門を出た。初夏の頃にありがちの朝曇の深い空であった。
 三島の宿を出はずれると直ぐ旧道の登りになるのだが、いつの間に改修されたのか、名物の石だたみ道はすっかり石を掘り出して普通の砂利敷道に変っていた。雲助やごまの蠅や関所ぬけやまたは種々のかたき打だの武勇伝などと聯想されがちであったこの名高い関所道も終に旧態を改めねばならなくなったのかと思いながら、長い長い松並木の蔭を登る。山にかかった頃から雲は晴れて、うしろに富士が冴えて来た。
 見晴らしの利く木蔭などを見つけては幾度となく腰をおろした。労れたわけではなかったが、私は湖に着くまでにS―君の持って来た歌稿を見てあげようと思ったのであった。或る処では真正面に富士の聳え立って居る松の蔭で見た。或る処では伊豆駿河の平野に続いて同じ様な重いみどりの色に煙っている海面を見下しながら、脚に這い上る山蟻を払い払い深い若葉の蔭で見た。次第に登って道ばたに樹木の絶えた草山の原を登る処に来ると、帽子をぬぎ、肌をも抜いであらわに日の光に照らされながら、やわらかな芒の茂みの中で見た。そして、肩を並べながら、此処が面白くない、この句を斯うしたらいいだろうと、一々ペンでノートに書き入れて行ったのであったが、部屋の中で向き合って見る時よりも遥かに身が入って、私自身にも面白かった。また、この人の熱心はいつとなくその作の上に今迄にない進歩を見せているのであった。
 片登り四里の傾斜を登りつくして、峠の青草原から真下に蘆の湖を見下した時は、流石にいい心持であった。この前私独りで矢張りこの旧道を登って此処から見下した時はあたりの草も湖辺の樹木も悉く落葉しつくした冬であった。その時はいかにもこの山の間の湖が寂しい荒れたものに眺められた。今日見るのはすっかりその時と趣きを変えて、水の色も柔かく、ことに向う岸の権現の社からかけて大きな森林に萌え立った若葉の渦巻の晴々しさ、その手前に聳えた島の上の離宮の輪奐の輝やかさ、すべてみな明るい眺めに満ちていた。真青な上に白い波を立てて走っている一二のモーターボートも親しい思いをそそった。
 程なく旧本陣石内旅館の離室に我等はおちついた。部屋の玻璃窓の下にはすぐ小波がちゃばちゃばと微かな音を立てておる。広々と山から山の根を浸した湖の面を坐りながらに眺むる事が出来た。
 お茶を一杯飲むと直ぐ私は机に向わねばならなかった。側にいて邪魔をすまいと、今まで途々ひろげて来たノートを懐中しながらS―君は散歩に出かけた。乱暴に鉛筆で書き捨ててある歌を一首一首とノートから拾って原稿紙に写しとってゆくのだが、作る時にはみな相当に思い昂って詠んだものでも、暫くの時日を経ていま改めて見直すとなると、なかなかに意に満つものがない。一句写してはペンを擱き、一首書いては一服吸いつけるという風で、一向に為事がはかどらない。二十首写そうとして、漸く六七首も写し終えた頃風呂がわいた。丁度S―君も帰って来た。あとは明日の朝早く起きて書き次ぐことにして、諦めて机を片附けた。
 風呂から上って来ると、湖には一面に夕空の明るい光が映っていた。庭さきの石垣の上に濡手拭をさげて立っていると、少し離れた山の根の岸で、頻りに何やらの鳥の啼いているのが聞える。そのみずみずしい音色からたしかに水鳥の声ではあるが、行々子とも違うし、友もその名を知らなかった。其処へ、思いがけなく杜鵑の啼くのが聞えて来た。
 実は宿屋に着く早々、机に噛りついたので最初楽しみに来たこの鳥の事など、まるで忘れていたのであった。また、実際昼間は啼かなかったのかも知れない。そして次第に夕づいて来た空や山や湖の静けさのなかに、いま漸く嘴を開いたものであろう。実に久しぶりに聞くおもいである。昨年も聞いたではあろうが、聞かずにおいた筈はないが、サテ、何処で聞いたか一寸思い出せない。或はどうかして聞かなかったのかも知れない。一昨年もまたそうである。とにかく心の中に奥深く巣くっているこの声が、久しぶりにそのねいろを挙ぐるが様に、一声二声と耳を傾けているうちに、胸は自ずとそのときめきを強めて来た。啼く啼く、実によく啼く。この鳥の癖で、啼き始めたとなると全く矢継早に啼きたてるのである。
 部屋には膳が運ばれた。山の上の空気の意外の冷たさには初め部屋に入った時から驚いていたのであるが、今は湖に面した側の玻璃戸を悉くあけ払い、ツイ眼下に小波のきらめきを眺めて二人は徐ろに盃をふくんだ。杜鵑の声は、湖とは反対の側の山の上から落ちて来るのであった。夕日の光が向う岸の森のうえに聳えて居る山のいただきに消えてしまっても、なお暫くは啼き続けていた。その山の中腹から上の草原は、まだ真冬のままの枯れほおけた色を残しているのであるが、その枯野の色と杜鵑の声とが妙に寂しい調和をなす様にも思われて、円味を帯びた頂上の暮れてゆくのが惜しまれた。わざと点けずにおいた電燈の光が部屋を照らしてもなお暫くこの鳥は啼きつづけていた。
 気持よく飲んだ酒のあと二三時間を実によく熟睡する癖の私は、やがてからりとしたすがすがしい心地で眼を覚ました。あおむけのまま、身うごきもせずに眼を開いている瞬間に、
「ほったんかけたか、ほったんかけたか、けきょ、けきょ」
 と啼く例の声が耳に入った。オヤ、と思いながら、なお静かに待っていると、ツイ軒ちかくででも啼く様に、しみじみと聞えて来る。僅かに首を傾けて縁側の方を見ると、玻璃戸がほんのりと明るい。サテよく眠ったものだと、枕許の時計を見ると矢張り真夜中で、丁度二時半であった。
「すると月夜だナ」
 そう思いながら私は躊躇なく夜具から出た。そして、玻璃戸から覗くと、何という明るい静かな景色であろう、湖も、山も、しっとりと月の光を吸い込んでいるのである。
 友人はよく眠っていた。私はひそかに手拭を取って、戸をあけて、庭へ出た。湿った水際の土に自分の影が墨の様に映った。月は丁度湖水の真中の空に在った。岸に並ぶもろもろの山も森もすべて一抹の影を帯ぶる事なく、あらわにその光を浴びているのであった。この明るい世界の中に、何処にひそんで啼くのか、実に自由自在に、ほしいままにこの鳥は啼き入っているのである。
 私は岸にしゃがんで手拭を水に浸した。そして冷い音を立てながら丁寧に髪を洗い顔を洗った。水の揺らぎが遠く丸く、月のもとに影を起してひろがった。それを見ている間も、澄み張った鳥の声は、声から声を追うものの様に、明るい中へ落ちて来るのであった。
 次ぎの間の電気をつけて、私は机に向った。昨日の残りの為事を続けるためである。四辺の気配と、自分の頭の澄んでいるために、昨日より遥かに心地よくペンを動かす事が出来た。時々労れて、頭を挙ぐると、玻璃戸越しの月明とそれをうつした水の輝きとが、この静かな部屋を包んでいるのである。私は次第に興奮して、終には小さな声に出して、いま写している自分の歌をうたい始めた。
 其処へ、次ぎの部屋から友人が顔を出した。黙ったまま私のゆびさす戸外を見て、彼も急に眼を瞠りながら、そっと庭へ出て行った。そして永い間、帰って来なかった。
 夜が次第に明けそめた。私も、大抵で諦めて、為事の机を片附けた。そして友を探すともなく戸外へ出た。月はいつか、湖心を去って、うしろの山の端近く移っていた。そして、先刻は見なかった陰影が山々の襞に生れていた。ことに、湖に浸った麓の方に、それが深かった。
 何処からとなく薄い靄が水のおもてに動きそめた。山の方にも、ところどころにそれが見え出した。またたくうちに、どちらからとなくそれらが落ち合って、やがて湖も山も、すべて姿をまっ白い中に消してしまった。
 宿の庭から、モーターボートのための小さな桟橋が湖の中へ設けられてあった。その端にしゃがんで、飽くことなく煙草を吸って居る私のめぐりの水の上に、無数のかすかな音が聞え始めた。靄がぴったりと水のおもてを閉ざしてしまうと、急に其処にも此処にも魚が跳び始めたのである。ちょぴっ、ちょぴっ、ちゃぽん、ちゃぽん、と実に数かぎりないその音が、さながら俄雨でも降り出した様にあたり一面の水の面に起ったのである。
 靄の中から友の影が現われて私の側に来た。たけの高い彼の姿が、しめっているものの様にも思われた。同じ様に彼も蹲踞んだ。そしてこのちいさな水の音に久しい間、二人とも聞きとれていた。
 朝飯の膳に一二本の熱い酒を啜っていると、嘘の様に靄は晴れて行った。まったく不思議な速さで、影もなく何処かへ消えてしまった。それとともに、柔かな日の光が向うの峰から滑って来た。魚のとぶのも一斉に減ってしまったが、稀にとびあがる小さな姿は銀の色に輝いて見えた。そして、魚のとぶ音から離れた聴覚は、また、
「ほったんかけたか、ほったんかけたか」の湿った、鋭い声に神経を澄ませねばならなかった。
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白骨温泉





 嶮しい崖下の渓間に、宿屋が四軒、蕎麦屋が二軒、煎餅や絵葉書などを売る小店が一軒、都合唯だ七軒の家が一握りの狭い処に建って、そして郵便局所在地から八里の登りでその配達は往復二日がかり、乗鞍岳の北麓に当り、海抜四五千尺(?)春五月から秋十一月までが開業期間でその他の五個月は犬一疋残る事なく、それより三里下の村里に降って、あとはただ全く雪に埋れてしまう、と云えば大抵信州白骨温泉の概念は得られる事と思う。そして胃腸に利く事は恐らく日本一であろうという評判になっている。
 松本市から島々村まではたしか四里か五里、この間はいろいろな乗物がある。この島々に郵便局があるのである。其処から稲※いねこき[#「てへん+亥」、U+39E1、128-10]村まで二里、此処に無集配の郵便局があって、附近の物産の集散地になって居る。それより梓川に沿うて六里、殆んど人家とてもない様な山道を片登りに登ってゆくのだ。この間の乗物といえば先ず馬であるが、それも私の行った時には道がいたんで途絶していた。ただ旧道をとるとすると白骨より三里ほど手前に大野川という古びた宿場があって、其処を迂回する事になり、辛うじて馬の通わぬ事もないという話であった。温泉はすべてこの大野川の人たちが登って経営しているのだ。女中も何もみな大野川の者である。雪が来る様になると、夜具も家具も其儘にしておいて、七軒家の者が残らずこの大野川へ降りて来るのだ。客を泊めるのは大抵十月一杯で、あとは多く宿屋の者のみ残り、いよいよ雪が深くなってどんな泥棒も往来出来なくなるのを見ると、大きな家をがら空きにしたまますべて大野川に帰って来るのだそうだ。稀な大雪が来ると、大野川全体の百何十人が総出となって七軒の屋根の雪を落しに行く、そうしないと家がつぶれるのだそうだ。
 信州は養蚕の国である。春蚕夏蚕秋蚕と飼いあげるとその骨休めにこの山の上の温泉に登って来る。多い時は四軒の宿屋、と云っても大きいのは二軒だけだが、この中へ八百人から千人の客を泊めるのだそうだ。大きいと云っても知れたもので、勿論一人若くは一組で一室を取るなどという事はなく所謂追い込みの制度で出来るだけの数を一つの部屋の中へ詰め込もうとするのである。たたみ一畳ひと一人の割が贅沢となる場合もあるそうだ。彼等の入浴期間は先ず一週間、永くて二週間である。それだけ入って行けば一年中無病息災で働き得るという信念で年々登って来るらしい。それは九月の中頃から十月の初旬までで、それがすぎて稲の刈り入れとなると、めっきり彼等の数は減ってしまう。
 私の其処に行っていたのは昨年の九月二十日から十月十五日までであった。矢張り年来の胃腸の痛みを除くために、その国の友人から勧められ遥々と信州入りをして登って行ったのであった。松本まで行って、其処でたたみ一畳ひと一人の話を聞くと、折柄季節にも当っていたので、とてももう登る元気は無くなったのであったが、不思議にまた蕎麦の花ざかりのその季節の湯がよく利くのだと種々説き勧められて、半ば泣く泣く登って行ったのであった。前に云った稲※[#「てへん+亥」、U+39E1、130-11]からの道で馬の事を訊ねたほど、その頃私の身体は弱っていた。
 が、行ってみると案外であった。その年は丁度欧洲戦のあとの経済界がひどく萎縮していた時だとかで、繭や生糸の値ががた落ちになっていたため、それらで一年中の金をとるお百姓たちのひどく弱っている場合であったのだそうだ。白骨の湯に行けば繭の相場が解ると云われているほど、その影響は早速その山の上の湯にひびいて、私の行った時は例年の三分の一もそれらの浴客が来ていなかった。一番多かった十月初旬の頃で四五百人どまりであった。ために私は悠々と滞在中一室を占領する事も出来たのであった。
 彼等の多くは最も休息を要する爺さん婆さんたちであるが、若者も相当に来ていた。そしてそうした人里離れた場所であるだけその若者たちの被解放感は他の温泉場に於けるより一層甚だしく、入湯にというより唯だ騒ぎに来たという方が適当なほどよく騒いだ。騒ぐと云っても料理屋があるではなく(二軒の蕎麦屋がさし当りその代理を勤めるものであるが)宿屋の酒だとて里で飲むよりずっと割が高くなっているのでさまでは飲まず、ただもう終日湯槽から湯槽を裸体のまま廻り歩いて、出来るだけの声を出して唄を唄うのである。唄と云っても唯だ二種類に限られている。曰く木曾節、曰く伊奈節、共に信州自慢の俗謡であるのだ。また其処に来る信州人という中にも伊那谷、木曾谷の者が過半を占めている様で、従ってこの二つの唄が繁昌するのである。朝は先ず二時三時からその声が起る、そして夜は十一時十二時にまで及ぶ。私は最初一つの共同湯に面した部屋にいたのであるが、終にその唄に耐え兼ねてずっと奥まった小さな部屋へ移して貰ったのであった。然し、久しくきいているうちに、その粗野や無作法を責むるよりも、いかにも自然な原始的な娯楽場を其処に見るおもいがして、いつか私は渋面よりも多く微笑を以てそれに面する様になった。粗野ではあっても、卑しいいやらしい所は彼等には少なかった。これは信州の若者の一つの特色かも知れぬ。
 湯は共同湯で、二個所に湧く。内湯のあるのは私のいた湯本館だけであったが、それは利目が薄いとか云って多く皆共同湯に行って浸っていた。多勢いないと騒ぐに張合が無いのであろうと私は割合にその内湯の空くのをいつも喜んでいた。サテ、湯の利目であるが、私はその湯に廿日あまりを浸って、其処から焼岳を越えて飛騨の高山に出、更らに徒歩して越中の富山に廻り、其処から汽車で沼津に帰って来たのであったが、初め稲※[#「てへん+亥」、U+39E1、132-11]から白骨まで六里の道を危ぶんだ身にあとでは毎日十里十一二里の山道を続けて歩き得たのも、見様によっては湯の利目だと見られぬこともない。然し私は温泉の効能がそう眼のあたりに表わるるものとは思わぬ者である。胃腸の事はとにかく、風邪にも弱い私が昨年の冬を珍しく無事に過し得たのは(もっとも伝染性の流感には罹ったが)一に白骨のお蔭だと信じている。其処の湯に三日入れば三年風邪を引かぬとも称えられているのだそうだ。
 山の上の癖に、渓間であるため眺望というものの利かぬのは意外であった。渓もまた渓ともいえぬ極めて細いものであった。八九町も急坂を登ると焼岳と相向うて立つ高台があった。紅葉が素敵であった。十月に入ると少しずつ色づきそめて、十日前後二三日のうちにばたばたと染まってしまった。それこそ全山燃ゆるという言葉の通りであった。附近の畑にはただ一種蕎麦のみが作られていた。「蕎麦の花ざかり」の言葉もそれから出たものであろうと思われた。
 私は時間の都合さえつけば今年の秋も登って行き度いものと思っている。夏がいい、夏ならば東京からも相当に客が来るのでお話相手もあろうから、と宿の者は繰返して云っていたが、それよりも寧ろ芋を洗う様な伊那節を聞く方が白骨らしいかも知れぬ。それに一時はアルプスの登山客で大変だそうだ。私の考えているのは、それらの何にもが影を消すであろう十月の半ばから雪のちらちらやって来る十一月の半ば頃まで、ぽっちりとその世ばなれのした湯の中へ浸っていたいということだ。無論、ウイスキーに何か二三種のよき鑵詰などどっさり用意してだ。其処から四里にして上高地、六里にして飛騨の平湯がある。共に焼岳をめぐった、雪の中の温泉である。
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通蔓草の実





 宿を出て二三丁とろとろと降ると宿の横を落ちて来た小さな渓が洞穴を穿って流れている処がある。其処まで見送るつもりで、私は友人親子と今一人の女客と共に宿を出た。が、何となく別れかねてせめて峠まで行こうかと云いながら、洞穴の上を越して森の中へ入って行った。檜峠は温泉より二里ばかり、その渓を越すと径はずっと深い森の中を片登りに登ってゆくのである。
 一月あまりも降り続けた雨が漸くその一二日前からあがっていた。そしてそれと共に今まで遅れていたという附近の山々の紅葉が一時に色を増した。それは全く湯宿の二階から眺めていて可笑しい位いに一晩二晩のうちに真紅に燃えたって来た。私どもの登ってゆく大きな国有林も同じく二階から望んで呆れた山の一つであるのだ。紅葉している木はみな喬木であった。中でも山毛欅が最も多く、橡も美しくその大きな葉を染めて立ち混っていた。樅、栂などの常磐木にはことに見ごとな老木があった。白樺ばかりが山の窪に茂っている所もあった。これの紅葉は既に過ぎて、針のように棒の様に大小さまざまな幹のみがその雪白の色を輝かせ窪みに沿うて立ち続いているのである。径を埋めている新しい落葉もかなりに深く、私ども四人が踏む足音は際立って森の中に響いていた。山鳥の尾の長いのがツイ足許からまい立って行った事もあった。
 森と云っても平野のそれと違い、極めて嶮しい山腹に沿うて茂っているので、木立の薄い処では思いがけぬ遠望が利いた。遥かな麓に白々と流れている渓流が折々見えた。日本アルプスの山々を縫うて流れて来た梓川の流である。それに落つる他の名もない渓が、向うの山腹に糸の様に細々と懸っているのも見えた。そして峠真近になった或る崖の端からは真正面に焼岳が望まれた。その火山の煙は頂上からも、また山腹の窪みからも、薄々とほの白く立ち昇っていた。晴れ渡った秋空にその煙の靡いているのを見ると、続けて来た話を止めて、ツイ両人とも立ちどまってぼんやりと瞳を凝らさねばならぬ静けさが感ぜられた。また、思いもかけぬ高い山の腹に炭焼の煙の立っているのをも見出すことがあった。歩きながら一二首の歌が出来た。
冬山に立つむらさきぞなつかしき一すぢ澄めるむらさきにして
来て見れば山うるしの木にありにけり樺の林の下草紅葉
 声に出してそれを歌ってみると、友人はひどく昂奮してめて呉れた。
「これは佳い、この調子だときょうは珍しく出来るかも知れませんね」
 身体の具合を損ねて以来、私はまったく久しい間歌らしい歌を作らずにいたのであった。そう云われてみると、これらを皮切りに今日は何だか詠めそうな気もして、我にもなく私まで珍しい昂奮を覚ゆるのであった。
 峠には一軒の茶屋があった。其処で私どもはお別れの杯を挙げ、女たちは早昼のお弁当を使うということになった。肴には幸いにも串のままの岩魚が囲炉裡に立ててあったので、それで燗をぐっと熱くして一杯二杯と飲み始めた。十月初旬でも其処等の山中はもう充分に寒かった。それに別盃というので自然飲む速度も早く、酔うのも早かった。ツイ自分の横手の障子に暖く日影のさしているのを見ながら、お蔭さまで山の淋しさにも多少は馴れた、これからはゆっくり心を据えて湯治をしようとか、この次ぎにはいつ何処で逢うのかね、などと云っていると私の心には何とも云えぬ或る落ちついた寂しさが萌えて来た。そうですね、またほどなく逢えるでしょう、大抵一年に一度位いは何処かで逢える様に自然となっている様だからと友人もやや酔って赤い顔を挙げながら云った。この友人と私とはよしあしにつけその性質に実によく似た所を持っていた。自ずと話もよく合った。で、楽しい時、寂しい時に最もよく思い出されるのはこの友人であった。逢うのは嬉しく、別れるのはいつでも辛かった。
 その日もそうであった。二本ときめて飲み始めた銚子が三本となり、四本目になった時、私は笑いながら云い出した。
「ねエ君、ついでに峠の下まで送って行こう、何だかもう少し歩き度いとも思うからね」
「そうですか」
 と云った友人も笑い出した。峠から麓までは一里ほどの坂であったが、今までよりずっと嶮しいのをお互いに知っていた。
「それは難有ありがたいが……」
 友人はすぐ真顔になって、
「帰りが大変でしょう」
「帰りかね、……帰りは、なアに大野川の方に廻って今夜は其処で泊って来るよ」
 と、ほんの突嗟の思いつきで私は口に出して了った。白骨温泉は湯宿が四軒、他の家が三軒、それだけの七軒が全く他の集落とかけ離れた山の奥にあるのであった。そして其処から一番近い集落というのが大野川であった。のみならず七軒の人たちはすべてその大野川の者で、一年のうち五月から十一月まで、雪の消えた間だけ其処から登って白骨で営業しているのであった。で、飲食物から何から、すべて大野川から運んで来るのを私は知っていた。そしてその耳に馴れた大野川という宿場に種々な好奇心が動いていたのである。然し、その日峠から其処へ出かけて行こうとは全く夢にも思いがけぬ、酔が云わせた即興にすぎなかったが、そう言葉に出してしまって見ると可笑しくも実際にそうしてもいいという気が湧いて来た。
「そうですか、なるほど、それも面白い」
 友人も勢い立って調子を合せた。
「あアれ端や、お前先生にそんな事してお貰い申しちゃ済まねエに」
 年寄は惶てて息子の名を呼びながら注意した。が、なアに、それもいいでしょうと笑いながら息子は相手にならなかった。
 其処からの下りのひどく嶮しいのを知っている私は、茶店で草鞋を買って下駄に代え尻端折の身軽になりながら、下駄には別に手紙を添えて丁度白骨の湯宿の方へ通りかかった牛引の若者にことづけた。何を運ぶにも此処では殆んど牛を使っていた。馬では道が通りかぬるのだそうだ。
 茶屋を出て少し下ると四五軒の古び果てた百姓家が窪みを帯びた傾斜なりの畑の中に散らばっていた。そして其処で路は二つに分れる。一つは大野川の方に向う本道で、一つは私たちの行こうとしている新道である。私はいま新道を下って明日その旧道を登ろうというのだ。左に折れた新道は山腹というより懸崖というに近い大きな傾斜を横切って、ひた下りに下る。この辺、今までの森は既に尽きて多く一帯の灌木林となっている。右手真下に先刻とは異った一つの渓流が同じく真白になって流れ下っている。即ち乗鞍岳から出た大野川である。その大野川と、先に左手下に遠望した梓川とが合う所で、この新道もまた峠から大野川の宿を廻って来た旧道と相合うことになる。其処で我等は別れることになっているのだ。
 その別れの場所は程なく来た。一里あまりの急坂を下りて来た我等は其処で釣橋を渡って大野川を越え、直ぐ左手に梓川の思いの外の大きな奔流が岩を越え岸を噛んでいるのに相対したのである。四人は先ず一服と水に臨んだ路傍の落葉を敷いてそれぞれ煙草に火をつけた。もう云うことも無さそうに見ゆる別れの言葉が何度も取り交わされ、そして改めて帽子をとり手拭をとって辞儀をしながら三人は梓川の流に沿うて南の方稲※[#「てへん+亥」、U+39E1、140-3]の宿へ、私一人は逆に大野川の右岸を溯って大野川宿の方へ、いよいよ最後の「左様なら」をした。時計はまだ午後一時であった。
 一人となって急に私の歩みの速度は増した。酒の酔も眼立って出て来た様に感ぜられた。今までは片側の空のうち開けた山の中腹を通って来たのであるが、其処からは両方に嶮しい山の切り立った狭い狭い峡間の底を渓に沿うてゆくのである。別れた三人も北と南の差はあるが、これも今日一日同じ様な谷底道を歩かねばならぬのだ。「左様なら」「左様なら」という心持がいつまでも胸に残って、わけもなく私は急いだ。寂しいとか悲しいとか云うのではないが、急がずには紛らし兼ぬる心持なのだ。然し、程なく疲労がやって来た。元来が白骨籠りの病人には今日の道は無理であった。それに友人が多く飲んだにしても兎に角二人で四本の田舎酒が身体に入っている。「疲れた!」と思うと、埒もなく手足の筋が緩み痛んで来た。
 一日のうち一時間も日光が射すだろうかと思われるこの谷間の径には到る処に今を盛りの通蔓草あけびの実が垂れ下っていた。じめじめと湿った落葉の上を踏んで急いでいると、ツイ其処の鼻さきに五つも六つも十あまりもうす青くまたうす紫に一条の蔓に重なり合って熟れているのなどが眼についた。一つ二つと手すさみに取って食いながら歩いていたが、私は不図遠くの留守宅に兄妹三人して仲よく遊んでいる子供たちの事を思い出した。彼等にとっては恐らく生れて初めて見るものらしいこの山の果物を手にとる時の彼等の笑顔がはっきりと思い浮べられた。そして母を取巻いてぞろぞろと青い葉や蔓と共にこれを引出す彼等のそれぞれを思い浮べると同時に、私は早速これを蔓のまま箱詰にして郵便局から送ってやろうと思い立った。普通の郵便局は白骨から八里松本市の方に離れた島々村でなくてはない事を知っているが、無集配局ならば島々より二里近い稲※[#「てへん+亥」、U+39E1、141-9]村にあるのだから当然大野川にもあるものと思われたのだ。そう思うと其処等に下っているこの通蔓草の実を無関心で見る事が出来なくなった。あれかこれかと選み始めたが、サテそうなると多い様でもかっきり都合のいいのになかなか行き会わなかった。さがっている枝が余りに高かったり、滝の中流に垂れていたり、粒が小さかったり、青過ぎたり、五町十町と道ぞいに探してゆくに甚だ骨が折れた。それでもいつか片手には青々としたその蔓が幾重にか垂れ下って来た。
 或る一本の樫の木に草鞋のままに攀じ登って頻りに蔓を引いていると、不図遠くの方でうたう唄声を聞いた。人にも会わぬ寂しい山路であったので、いかにも思いがけないものに思われ、茂った枝葉の中に身を静めながら耳を澄ますとそれは例の伊奈節を唄っている男の声であった。唄はよくわからぬが一人か二人の声である。信州を旅行した人はよく知っているであろうが、この国に専ら流行している民謡に二つの節がある。一は木曾川の流域を本場とする木曾節であり、一は天竜川に沿うた伊奈谷の伊奈節である。簡素に於ては前者まさり、優婉の節廻しは伊奈節遥かに木曾節にすぐれて居る。いまその伊奈節がこの日影乏しい秋の渓間に起って居ようとは思わなかった。そぞろに身内に湧く興趣に心をときめかせてなお聴いていると、やがてはその唄も解って来た。
東高津谷西駒ヶ岳あいを流るる天竜川
天竜下れば飛沫しぶきがかかる持たせやりたやひのき笠
 私はそれを例の牛を追って来る若者たちの唄だと思った。そして彼等を驚かすことを恐れて急いで樫から降りて来た。何故ならば私の登っていた枝はその渓間の径の真上にさして出ていたからである。そしてまた急ぎ足に歩き始めた。程なく途中で逢うことときめて来た牛追いたちにはなかなか出逢わなかった。が、やがてその伊奈節は渓に沿うて洪水のためにくずれ落ちた道路を直している若者の唄っているものであることを知った。一人の老爺と二人の若者とが其処の川原に榾火を焚きながら石を起し、砂を掘っていた。薄暮の様な深い日蔭が其処を掩い、流れの白い飛沫と榾火の煙との間に動いている三人の姿は如何にも寂しいものに私には眺められた。やがて其処に私が近づくと、二人は唄をやめた。老爺も背を伸してこの不意の旅客の通りがかりを見詰めた。私は帽子をとりながら、二言三言の挨拶を置いて足早に通り過ぎた。通蔓草とりの間に私の酒の酔はすっかり醒めていた。そして気味の悪い様な寒さと寂さが足の先までも浸みて来た。
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山路





 朝八時、案内者と共に白骨温泉を立つ。逗留二十日の馴染で宿の者は皆出て来て名残を惜んで呉れる。ことに今まで誰がそれだか気もつかなかった無口の内儀などは急に勝手許から飛んで来て、既に草鞋をつけて土間に立っている私の袂をとらえて、これは俺からあげるのだからと云いながら手拭やら煙草やら菓子包やらを無理強いに押し込んで呉れた。
 送られて裏の脊戸口を離れると直ぐ切り立った崖の森となっている。嶮しい径にかかると其処には真新しい落葉が堆く積って、濡色をした美しい橡の実も沢山落ちていた。三四丁も登ると崖は尽きて山間の枯芒のなかをとろとろ降りに降ることとなった。着物や着茣蓙の端に触れて頻に音をたてながら芒の霜が落つる。この辺の霜は雪ともつかず氷ともつかぬ細かな結晶となっていて地といわず草木の枝葉といわず、一面に真白に置き渡しているのである。
 先に立ってその荒い霜を落しながら歩いていた老案内者は不意に径からそれて傍の雑木の中に入って行った。そして高い脊を屈めて頻りと何かを探している。やがて一種の昂奮をその赭ら顔に見せて林から出て来た。如何したのだ、何があったと訊くと、イヤ熊が出たという。熊はこの深山に円い土の塔を作って棲んでいる蟻の群を好んで食うので、先刻から熊の足あとらしいものをちょいちょい見て来たのだが、いまその蟻を食った跡があったので愈々そうだということが解った。而もその跡の乾いている所を見れば一昨夜の雨より後、昨夜あたり出たに相違ないという。此辺にも出て来るのかと呆れれば、どうしてどうして温泉宿の勝手口の裏にもよく餌をあさりに来るという。
 蟻の巣の跡を見てからこの七十歳前後の老人は急に雄弁になった。そして自分のこと他人のこと、いろいろな熊狩の話をしだした、一人で年々七八頭も打つ者がいるが、それ等はそれで十分一年の生活費が得らるるわけだけれど皆博奕に打込むので、もともとだとも笑った。昨今はよほど熊も少くなったが、まだまだ向うの、と我等の歩いている渓向うに大らかに峰を張って朝日を浴びた木深い山を指さしながら、霞沢岳などにはかなりの数が棲んでいるだろう。現にもう今年もあの山で一頭打った者がいたが、まだ鑑札日の前だったので値段はずっと安かったそうだ、と語りながら、ふと気づいた様に、
「今日からが丁度鑑札日だが、宿の総領も、あとから若い衆打ちに来る筈だ」
 という。成程その日は十月十五日、銃猟の解禁日であった。若い衆とは何だと訊くと、猿の事だそうだ。そして、俺も旦那のお供をしねエと総領と一緒に来るのであったと如何にも残念そうに云った。お前もそんな歳をしていてまだそんな荒猟をやるのかと笑いながら振向いて老爺の顔を仰ぐと、熊打にはもうよう出かけねエが若い衆位なら何でもねエ、去年は七尺からある大鷲を打ったが、斯んな山でもあれ程の鷲をば皆珍らしがったとややてれ気味に自慢する。そして話は鷲に移って、折々田畑に出ているとこの大きな鳥が飛んで来て被っている手拭をさらってゆく、それも若い者と老人とをよく見分けて老人のばかりを狙って来る、然し俺はまだこの歳になるが一度も浚われた事がない、老人でも少し違うのが鷲にも解るらしいとまた自慢である。手拭をば巣を編む材料にするのだそうだ。温泉宿に乾した着物なども浚われる事があるという。
「この山だよ、若い衆の居る山は」
 渓ばたに出て一里ほども来て、径が再び山腹の傾斜を登る頃、老爺は立ち止まって私に教えた。我等の歩いている大きな傾斜は一面に荒れた野原となっていた。火を放って焼いたあとらしく、二抱えも三抱えもある大きな白樺の幹が大方は半ば燃えたままに立ち枯れていた。そしてその跡には落葉松の苗が井条式に植えられてあるのだが、多くはまだ芒の蔭となっている位の大きさであるのだ。その野原の続き、山の頂上に近いあたりから深い森となってずっと奥に茂って行っている。その森を彼は指しているのであった。森はまた見ごとな紅葉の森であった。こんもりと立ち並んだ喬木から喬木がいずれもまだ渦を巻いた様な茂みをなして、そして残りなく美しく染っている。思わず挙げた私の讃歎の声を聞いて案内者は云った。
「そうだ、今日あたりが丁度さかりずらよ、明日明後日となるとへエ散るだから」
 私は雨ばかり続いた温泉宿の二階から其処の渓向うの山を毎日眺めていたのであったが、丁度昨日一昨日その長雨があがると同時にほんとに瞬く間に見まがうほどの紅葉の山と染まったのを見て驚いたのであった。高山は季節を急ぐという。今日見てゆくこの紅葉もまったく明日は枯木の山となっているのかも知れない。
 枯芒を折り敷いて我等は暫く其処で休んだ。其処からは焼岳が手近く真正面に見えた。我等の休んでいる山と、向うの霞沢岳と次第に奥狭く相迫った中間の空にあらわれて見えるのである。焼岳と硫黄岳と二つ並んだ火山からは相連なって濛々たる白煙を上げ、その煙は僅に傾いて我等のいる方角に靡いているのであった。きょうは別しても煙が深い様に見えた。時とするとほんの一筋二筋、それこそ香の煙の様に立ち昇っていることもあるのである。きょうは山の根方からも中腹からも頂上からも山全帯が薄白く煙りたっている様に見ゆる。
「この天気も永くねエな、煙が信州地の方へ向いているだから」
 老爺は煙草の煙を吹きながら私と同じ茣蓙に坐っていて云った。
「ホウ、あの煙の向うは飛騨かね」
 向う向きに飛騨に靡けば晴れるというのを聞いて私は云った。そして我慢していた慾望が腹痛の様に身内に起きて来るのを覚えながら、それを押し静める如くひそかに息を呑んだ。そして自分も惶しく一二本の煙草を吸いすてたが、やがてツイ側の老爺の顔に微笑を投げながら云ってみた。
「ねエ爺さん、お前さんはどうしてもあの山に登るのはいやかね、ほんとにそんなに危険なのだろうかナ」
 老爺も私の微笑を感ずる様に矢張り向うを見たままに薄笑いして、
「登れねエことはねエだが、何しろもう永いこと登って見ねエだからなア、路がどうなってるだかサ」
「上高地の宿屋で今夜詳しい事を訊けばいいじゃアないか、大体の事はお前よく知ってるわけなんだから、路だってそう大した変りはないだろうよ」

 私は持病の胃腸によくきくというので遥々駿河からこの信州の白骨温泉というへやって来て三週間ほど湯治していた。島々郵便局所在地から八里もあるという全く世の中と隔離した山奥の温泉場であった。乗鞍岳の北麓に当り、海抜四千八百尺、温泉宿の裏山に登ると殆んど相向いにこの火山と対することが出来た。そしてどうかして一度その煙の傍まで登って行きたくてたまらず、頻りに機会を窺ったが不幸にもその滞在中殆んど雨ばかりが続いて、よく完全に朝から晴れたという日がなかった。漸くその天候の定まりかけた頃になると私は其処を立たねばならぬ日取に当っていた。それも初め入って来た松本市へ出て行く道を帰るが惜しく、白骨から上高地温泉へ出、其処から飛騨へ越して平湯温泉というへ廻り、更に飛騨の都高山町へ出て遠く越中路へ歩き、富山市から汽車で駿河へ帰ろうと定めたのであった。そして白骨から上高地へ、上高地から平湯への道を地図で見ればすべてこの火山の麓を通ることになっているのである。そこで宿の者を呼んで焼岳登りの相談をして見た。どうせ山深い道を通るのだから平湯までは案内者を伴れなくてはならぬが、それにしても今頃は焼岳登山は危険である。第一あの山をよく知っている案内人がいまこの湯にいない、八月二十日頃を先ず登山期の終りとしてあるので其頃までだと幾人もいるのだが……と番頭は云った。更に主人に逢って訊いてみると、平湯までは誰にでも案内させるが、焼岳は先ず無理でしょう、何しろもう十月の半ですから、と云って笑った。そう云われて見ると私も笑って諦めねばならなかった。そしていよいよ昨夜、平湯までならこの年寄が詳しいからと案内人の定まると共にそれとなく案内人自身にももう一度私は謎をかけて見た。そして矢張り同じ結果を得ていたのであったのだ。
 この背の高い、年老いた案内者はそれでも此処に来て終に私の熱心に動かされた。今夜上高地温泉でよく訊いてみて、あまり昔の道と変らない様だったら一つ登って見ましょう、なアに、行って見れば何程の事もないに相違はないのだから、と云う様にまでなって呉れたのだ。私は思わず立ち上って遠く真白な煙に向いながら帽子を振った。そして何ということなく一声二声の大きな叫びを挙げた。すると老爺も惶てて立ち上ってその大きな掌を振った。
「あんまりあの辺で高話をして若い衆を追い散らすでねエと今朝総領が云うとりました」
 と笑う。成程そうかともう一度私はこの深い色に燃え立っている頭上の大森林を見上げて新たな讃美と歓喜の情を致した。
 径は程なくその森つづきの密林の中へ入って行った。誠に驚くべき樹木である。いろいろと木の名をも尋ねたが、一番眼についたのは山毛欅であった。いずれも幹の直径二尺から三尺に及び、おおかた青い苔を纏うて真直ぐに天に聳えて行っているのである。それが十本二十本百本と次ぎ次ぎに相聳えてすくすくと伸びた大枝小枝のさきに鮮黄色の葉をつけている。既に地に散っているのもあるが、まだ枝にある方が多い。まことに今日を盛りの黄葉の木であり森であるのであった。この木の葉は朴に似てやや小さく、長さ八寸幅二寸位い、朴よりも繁く枝についている。そして同じく葉脈のすじを浮かして見せるほどの鮮かな色に黄葉している。中にはまた常磐樹の栂もあった。樅も立っていた。樅などの老いて倒れたあとは其儘に小さな野菜畑にもなりそうに広く苔づいて朽ちているのがあった。到る所のそれらの朽木には種々雑多な茸が生えていた。食えるもの、毒なもの、闇に置けば光るものなど、私には到底見分けもつかず名も覚えられないものであった。そのうちでも美味なものというのを老爺は行く行くもぎ取って行った。今夜宿で煮て貰おうというのである。
 国有林であるというこの森林を我等はただ黙々として一時間も一時間半も歩いて行った。行けども行けどもただ樹木であり、幹であり、黄葉であり、落葉であるのだ。洩日の美しい所もあった。じめじめとうすら冷い日蔭をくぐって行く所もあった。たまたまからりと晴れた所に出たと思うと、直ぐ足もとから下が何千尺の山崩れとなった断崖の上に立っているのであった。

 丁度そうした崖に近い所にちょろちょろと水が流れ落ちていた。日を真正面に受けて、下を覗けば目眩めくるめく高さだが、径のめぐりには綺麗に乾いた落葉が散り敷いて極めて静かな場所であった。其処で我等は昼食をすることにした。時計も折よく十二時にほどなかった。
 落葉の上に坐ると、遥に崖下に白々と輝いて流れている渓が見えた。梓川の上流であらねばならぬ。単に山崩れの場所といわず、附近の山全帯が屏風を立てた様な殆ど垂直の嶮しい角度で双方に切り立って起っている底をその渓は流れているのであった。其処に見え、なおそのずっと上の方にも見えた。すべて激しい奔流となっているのであろう、飛沫をあげて流れている雪の様な白さである。我等の眼の前に一本の楓の木が立っていた。さほど大きい木ではなかったが、清らかに高く伸びていた。その紅葉も真盛りであった。一葉二葉と酒の香に似た秋の日の光の中に散り浮いて来る小さな葉は全く自ら輝くもののごとくに澄んだ光を含んでいた。山蕗の葉で傍えの清水を掬んで咽喉をうるおしながら永い時間をかけて、そして何となくうら悲しい様に静かな心になりながら握り飯を貪り喰った。歌が一二首出来る。
うち敷きて憩ふ落葉の今年葉の乾き匂ふよ山岨道やまそばみち
うら悲しき光のなかに山岨の道の辺の紅葉散りてゐるなり
 其処を立って暫く行くと上高地に行く道と平湯に向うのとの分れる所に来た。明日は焼岳から降りてまた此処を通って飛騨へ越すのだナ、と話し合いながら右に折れた。また暫く森が続いたが、やがて思いがけぬ異様な場所に通り懸った。今まで続いた密林と截然たる区劃を置いて其処には全部白々とした枯木の林立があった。枝は折れて巨大な幹のみ聳ゆるもあり、ばらばらと白い枝を張り渡して枯れているもある。これらはみな数年前、大正二三年の頃の焼岳大噴火の時にその熱灰を被ったものであったのだ。なお少し行くと次第に枯木は尽きて、終に山肌一面が真白に崩れ落ちている所に出会った。此処を通るはかなり危険であった。上下何百丈かにわたるざらざらとした崖を横に切って紐の様な径がついているのだが、両足を揃えては立ち停る事も出来ぬほどの狭さである。自然崖の腹を両手で抱く様にべったりと身体を崖に寄せて片足ずつ運ばすのである。心して踏むその足許からは断えず音を立てて白色の土塊が落ちてゆくのだ。ばらばらと崩れ落ちてゆく遥かの下には梓川が岩の間を狭く深く流れている。
 其処を過ぎると広大な川原に出た。ただの川原でなく、山の火の流れたあとの川原である。見る限り、浪の起伏に似た岩石の原となって、ところどころに例の骨ばかりの枯木が梢を見せている。そして其処からは直ぐ眼の上にその火山のあらわな姿が仰がれた。遠くから望んだ通りに、この火山は山の八合目ほどより上の到る所から煙を噴いているのであった。濛々とした煙は今は空をさして立つことなく、山に沿うて我等の立っている真白な川原の方にしめりを帯びて流れ落ちて来ているものの如くであった。
 異様な緊張が私の心に起った。そして、静かに杖を両手に執って見廻すと徒らに広いその岩の原の中にはもう径というものがついていなかった。夏を過ぎては往来もないらしく、稀に通った人の足あとは先日来の長雨ですっかりかき消されていた。老爺にもよく行くさきの見当がつかなかった。で、両人して手分をしてあちこちと適当らしい方角を選んで岩から岩を渡って行った。そして其処に私は旧い地図には記されていない一つの大きな池、兼ねてよく話には聞いている大正池というのを眼の前に見た。
 大正池は噴火の熔岩が梓川の流を堰き留めて作りなした池である。蒼々と湛えられた池の中には先に見て来たと同じい枯木の林が白々として梢を表わし、枝を張っているのである。そうした森全部を地殻と共に此処まで押し流して来たのか、それともまだ以前の森のままでいる間に下を堰かれて水に浸ったものかであるであろう。私は見失わない様に岩の中の最も巨大なものの傍に案内人を置いて独りでその池まで石原を横切って行った。池の近くには流石に痩せた熊笹などが疎らに生えていた。水は真蒼に澄んでいた。汀から急に深くなった水中の枯木の幹や枝には藻草が青く纏っていた。そしてその中には何やら小魚の群などでも潜んでいるらしく眺めらるるも寂しかった。三四町の幅をおいた池の向うには岩ばかりから成り立った嶮しい山が恰もその池を抱く様にして聳えていた。何の声なく音なく、ただ冷く湛えた水と、いつか夕づいて来た日の光とが私の眼の前にあるばかりであった。
 急に寂しくなって、私は水際を離れた。大股に岩の原を歩き出して見返ると、例の大きな岩に登ってわが老爺は頻りに煙草の煙を吹いていた。言葉少なになった両人は折々声をかけ合わせつつ次第にその岩の原を渡り終り、また一つの森の中に入った。これは殆んど栂の木から出来ている様な常磐木の寒い森であった。森で辛うじて一本の径を見出すと、老案内者はその顔に寂しい微笑を浮べて云った。
「もう大丈夫だ、この森を抜けさいすりゃ宿屋だ」
 まことにその森を抜け切ろうとするあたりで、俄に烈しい犬の吠声が我等を目がけて起って来た。そして今見て来た池の上流なる川の岸に二棟三棟の屋根の低い家が見えた。それが今夜私達を休ませ眠らせて呉れる上高地温泉旅館であったのだ。
 やれやれと安心して振返ると、今通って来た黒い森の上に濛々として焼岳の山の煙が流れ落ちているのが見えた。今夜はよくその煙までへの路を聴きただす必要もあるのであった。
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或る旅と絵葉書





この一篇は大正十年秋中旬、信州から飛騨に越え、更らに神通川に沿うて越中に出た時の追懐を、そのさきざきで求めて来た絵葉書を取出して眺めながら書きつづったもので、前に掲げた「白骨温泉」「通蔓草の実」「山路」の諸編に続くものである。

上高地温泉


 上高地の温泉宿はこの時候はずれの客を不思議そうな顔をして迎えた。そして通された二階にはすっかり雨戸が引いてあった。一つの部屋の前だけがらがらとそれが繰りあけらるるとまだ相当に高い西日が明るく部屋にさし込んで来た。その日ざしの届く畳の上できゃはんを解いていると、あたりのほこりのにおいが感ぜられた。
 やれやれと手足を伸ばしてうち浸った温泉は無色無臭、まったく清水の様に澄んでいた。そしてこの宿に入った時玄関口に積まれてあった何やらの木の実がこの湯槽の側までも一杯に乾しひろげてあった。よく見ると落葉松の松毬であった。この松毬をよくはたいて中の粒をとり、種子として売るのだそうで、一升四円からする由をあとで聞いた。湯から出てそこ等をのぞいてみると座敷から廊下からすべてこの代赭色の鮮かな木の実で充満しているのであった。一年にとり入れるその種子が何斗とか何石とかに及ぶそうで、金にして幾ら幾らになると、白骨温泉から私の連れて来た老案内者は頻に胸算用を試みながらその多額に上るのに驚いていた。
 長湯をして出てもまだ西日が残っていた。下駄を借りて宿の前に出て見ると、ツイ其処に梓川が流れていた。どうしてこの山の高みにこれだけの水量があるだろうと不思議に思わるる豊かな水が寒々と澄んで流れている。川床の真白な砂をあらわに見せて、おおらかな瀬をなしながら音をも立てずに流れているのであった。私は身に沁みて来る寒さをこらえて歩むともなく川上へ歩いて行った。
 川に沿うた径の左手はすぐ森になっていた。荒れ古びた黒木の森で、樅栂の類に白樺などもまじり七八町がほども沢の様な平地で続いてやがて茂ったままの山となっている。川の向う岸は切りそいだ様な岩山で、岩の襞には散り残りの紅葉が燃えていた。そして川上の開けた空には真正面に穂高ヶ岳が聳えているのであった。
 天を限って聳え立ったこの高いゆたかな岩山には恰もまともに夕日がさして灰白色の山全体がさながら氷の山の様な静けさを含んで見えているのであった。今日半日仰いで来たこの山は近づけば近づくだけ、いよいよ大きく、いよいよ寂しくのみ眺められ、立ちどまって凝乎じっと仰いでいるといつか自分自身も凍ってゆく様な心地になって来るのであった。
 そぞろに身慄いを覚えて踵をかえすと、其処には焼岳が聳えていた。背後に傾いた夕日に照らし出されて真黒に浮き出た山の頂上にはそれこそ雲の様に噴煙が乱れて昇っていた。
 右を見、左を見、この川端の一本道を行きつ帰りつしているうちに私はいつか異様な興奮を覚えていた。これほど大きく美しく、そして静かな寂しい眺めにまたと再び出会うことがあるであろうか、これはいっそ飛騨に越す予定を捨ててここに四五日を過ごして行こう、そのためどれだけ自分の霊魂が浄められることであろう、という様なことを一途になって考え始めていたのであった。
いはけなく涙ぞくだるあめつちの斯るながめにめぐりあひつつ
またや来むけふこの儘にゐてやゆかむわれの命の頼みがたきに
まことわれ永くぞ生きむ天地あめつちのかかるながめをながく見むため
 その夜は凍った様な月の夜であった。数えて見ると九月十五夜の満月であった。

焼岳の頂上


 焼岳の頂上に立ったのはその翌日の正午近かった。普通日本アルプスの登山期は七月中旬から八月中旬の間に限られてあるのに私がその中の焼岳を越え様としたのは十月十六日であったため案内者という案内者が求められず、僅かに十年前そこに硫黄取りに登っていたというだけの白骨温泉の作男の七十爺を強いて口説いて案内させたので、忽ち路に迷ってしまった。そして大正三年大噴火の際に出来た長さ十数町深さ二三十間の大亀裂の中に迷い込んだのであった。初めは何の気なしにその中を登っていたが、やがてそれが迷路だと知った時にはもう降りるに降りられぬ嶮しい所へ来ていた。そしてまごまごしていれば両側二三十間の高さから霜解のために落ちて来る岩石に打ち砕かるるおそれがあるので、已むなく異常な決心をしてその亀裂の中を匍い登ったのであった。
 あとで考えると全く不思議なほどの能力でその一方の焼石の懸崖から匍い出した時は、両人ともただ顔を見合わせるだけで、ろくに口が利けなかった。そして兎にも角にもその山の頂上、濛々と煙を噴いている処に登って来たのであった。
 悲しいまでに空は晴れていた。
 真向いに聳え立った槍や穂高の諸山を初め、この真下の窪みはもう飛騨の国で、こちらが信州地、あれが木曾山脈でそのなお左寄りが甲州地の山、加賀の方の山も見える筈だと身体を廻しながら老案内者の指し示す国から国、山から山の間には霞ともつかぬ秋の霞がかすかに靡いて、真上の空は全く悲しいまでに冴えていた。
 黙然と立ってそれらの山河を眺め廻しているうちに、私は思わず驚きの声を挙げた。木曾地信州地と教えられた方角に低くたなびいた霞のうえに、これはまた独り静かに富士の高嶺が浮き出て見えているのであった。
群山の峰のとがりの真さびしくつらなるはてに富士のみね見ゆ
登り来て此処ゆ望めば汝が住むひむがしのかたに富士のみね見ゆ(妻へ)
 この火山は阿蘇や浅間の様な大きな噴火口を持っていなかった。其処等一面の岩の裂目や石の下から沸々と白い煙を噴き出しているのであった。
岩山の岩の荒肌ふき割りて噴き昇る煙とよみたるかも
わが立てる足許広き岩原の石の蔭より煙湧くなり

平湯温泉


 噴火の煙の蔭を立去ると我等はひた下りに二三里に亘る原始林の中の嶮しい路を馳せ下った。殆ど麓に近い所に十戸足らずの中尾という集落があった。そして家ごとに稗を蒸していた。男とも女とも見わかぬ風俗をした人たちがせっせと静に火を焚いている姿が何とも可懐なつかしいものに私には眺められた。この辺にはこの稗の外は何も出来ないのだそうである。
 一刻も速く其処に着いて命拾いの酒を酌み、足踏み延ばして眠ろうと楽しんで来た蒲田温泉は昨年とか一昨年とかの洪水に一軒残らず流れ去っているのであった。そしてその荒れすさんだ広い川原にはとびとびに人が動いて無数の材木を流していた。その巨大な材木が揃いも揃って一間程の長さに打ち切ってあるので訳を訊いてみると川下の船津町というに在る某鉱山まで流され、其処で石炭代りの燃料とせらるるのだそうである。
 止むなく其処から二里ほど歩いた所に在るという福地温泉というまで来て見ると、此処もまた完全に流されていた。そうなると一種自暴自棄的の勇気が出て、其処から左折して更に二里あまりの奥に在るという平湯温泉まで行くことにきめた。実は今日焼岳に登らなかったならば上高地から他の平易な路をとってその平湯へゆく筈であったのである。福地からの路は今迄の下りと違って片登りの軽い傾斜となっていた。月がくっきりと我等の影をその霜の上に落していた。
 焼岳と乗鞍岳との中間に在る様なその山あいの湯は意外にもこんでいた。案内者の昔馴染だという一軒の湯宿に入ってゆくと、普通の部屋は全部他の客人でふさがっていた。止むなく屋根裏の様な不思議な部屋に通されたが、もう然し他の家に好い部屋を探すなどという元気はなかったのである。
 やがてその怪しき部屋で我等二人の「命びろい」の祝いの酒が始まった。まったく焼岳の亀裂の谷では二人とも命の危険を感じたのであった。這いかけた岩の腹からすべり落るか、若しくは崖の上から落ちて来る石に打たるるか、どちらかの運命が我等のいずれにか、或は双方ともにか、落ちて来るに相違ないと思われたのであった。其時の名残に荒れ傷いた両手の指や爪をお互いに眺め合いながら一つ二つと重ねてゆく酒の味いは真実涙にまさる思いがするのであった。
 路に迷ったのは兎に角として蒲田や福地温泉の現状すら知らずにいた此老爺は或はもう老耄し果てているのではあるまいかと心中ひそかに不審と憤りとを覚えていたのであったが、其皺だらけの顔に真実命びろいの喜びを表わして埒もなく飲み埒もなく食い、埒もなく笑いころげている姿を見ていると、わけもなく私はこの老爺がいじらしくなった。そしてあとからあとからと酒を強いた。彼の酒好きなことをば昨夜上高地でよく見ておいたのであった。
 そのうち彼は手を叩いてその故郷飛騨の古川地方に唄わるるという唄をうたい出した。元来が並外れた大男ではあるが、眼の前で頻りに打ち鳴らしている彼の掌は正しく団扇位の大きさに私には見えたのであった。
オンダモダイタモエンブチハウノモオマエノコジャモノ、キナガニサッシャイ、イカニモショッショ。
ヒダノナマリハオバエナ、マタクルワイナ、ソレカラナンジャナ、ムテンクテンニオリャコワイ、ウソカイナ、ウソジャアロ、サリトハウタテイナ。
 斯うしたものを幾つとなく繰返して唄った末、我を忘れて踊り出そうとしてはその禿げた頭をしたたかに天井に打ちつけて私を泣きつ笑いつさせたのであった。
としよりの喜ぶ顔はありがたし残りすくなきいのちを持ちて
 余りに疲れ過ぎたせいかその夜私はなかなかに眠れなかった。真夜中に独り湯殿に降りてゆくと、破れた様な壁や窓から月が射し込んでいた。平湯温泉には一箇所共同湯があるのみであるが、僅かにその宿だけが持っているというその内湯の小さな湯殿の三方は田圃となっていた。そして霜の深げな稲の上に照り渡っている月光は寧ろ恐ろしいほどに澄んでいた。

飛騨高山町


 翌朝、老案内者は別れて安房峠というを越えて信州地白骨温泉へ帰って行った。私は平湯峠を越えて高山町まで出るつもりであったが、流石に昨日の疲労で足が利かず、途中の寂しい村に泊って其次の日の夕方高山町に着いた。
 高山では某という旅館が一等いいという話を聞いていたので、とぼとぼとその門口へ辿り着いて一泊を頼んだ。ところが茣蓙を背負い杖をつき、一月余りも床屋に行かなかった私の風態からか、一も二もなく断られてしまった。然し、もう私は其処から動くのが苦しかった。でもう一度押し返して頼んでいると内儀が笑いながら帳場から出て来て、どんな部屋でもよろしくば、ということで階子はしご段上の長四畳に通された。それでも嬉しく、風呂から上って夕飯の膳に向いながら一杯飲み始めていると、階子段の下で珍らしい音の鳴り響くのを聞いた。電話の鈴が鳴っているのである。オヤオヤ高山に電話があるのか、と先ず思った。これは強ち高山町をそう見たわけではなかった。私は二十日余り、郵便局まで八里もあるほどの白骨温泉に身を養っていて、二三日前から急に無理な歩行を続けて来たので、全く世離れのした、茫乎とした気持になっていた。其処へ不意にその珍らしい音が鳴り響いたのでひどく不思議に聞えたのであった。それを聞きながら私は不図或る事を思い浮べた。そして急いで女中に電話帳を持って来させた。
 幸いにその中に福田という姓を見出したので、この福田という家に斯ういう人がいはせぬかと女中に訊くと、おいでになります若旦那様ですという。それを聞くと私は躍り上って喜んだ。そして大急ぎで女中に電話口までその福田夕咲君を呼び出して貰った。
「君は福田夕咲君か、僕だ僕だ、解るかね僕の声が!」
 解りようはなかった。私が高山町に来て福田君の事を思い出すのはそう不自然でなかったが、斯うして電話口で私の声を聞こうとは彼にとっては全く思いもかけぬ事であったのだ。
 彼と私とは早稲田の学校で同級であった。そして同じ詩歌友達で、飲仲間であったのだ。そして聞くともなく彼の郷里が飛騨の高山で、その父か兄かが其所の町長をしていると云う様な事をも耳にしていた。それを偶然その高山町に来て思い出したのであった。
 彼も丁度夕飯を喰いかけていたのだそうだが箸を捨てて飛んで来た。話し合って見ると八年振の邂逅であった。その間彼はずっとこの郷里に引込んで居り、筆無精のお互いの間には手紙のやりとりも断えていたのであった。
 何しに、どうして来たのかと彼は問うた。実は私の此処に来たのはひどい気紛れからで、胃腸病には日本一だというその山奥の白骨温泉に一箇月間滞在の予定で遥々駿河の沼津からやって来て居り、その帰りを長野市に廻って其処で我等の社中の短歌会を開く事になっていた。その歌会までにあと六日七日というところまで来ると、じいっとその寂しい湯の中に浸っているのがいやになった。そして順路を長野市まで出るより、四五日をかけて飛騨から越中を廻って其処へ出る方が面白そうだと急に白骨を立って斯んな所まで来たのであった。
 で、頻りに滞在を勧める彼の言葉をも日数の上からどうしても断らねばならなかった。そして明日早朝出立だと云い張っていると、彼は不意に怒った様に立ち上った。そしていま取り寄せたばかりの膳を突きやって、それでは斯うして宿屋の酒など飲んでいられない、さア、速く立ち給えという。
 それからが大変であった。此処の家は高山一の老舗で、娘は歌も詠むし詩も作ると云って一軒の料理屋に連れて行かれた。やがてすると、高山一の庭のいい家を見せようと云って、その歌を詠む娘や芸者たちを引率したまままた他の料理屋へ行った。「あそこはオツなものを食わせるネ」とまた他へ移った。よくよく時間が切れて流石馴染の料理屋でも困り切る様になるとそれでは夜通し飲める所へ行こうと大勢して或る明るい一廓へ出かけて行った。斯くしてとろりともせず飲んでるうちにいつか東が白んで来た。サテ引上げようとその明るい街から出ようとすると丁度その出口に古びはてた三重の塔が寂然として立っていた。例の飛騨のたくみの建てたものであるという。

飛騨古川町


 高山一泊は終に二泊になり、次ぎの日には郊外の高台に在る寺で歌会が開かれた。そして三日目の朝また茣蓙を着、杖をついてその古びて静かな町を離れる事になった。
 福田君は急に忙しい事が出来たという事で、自動車の出る所で別れ、その代りに昨日の歌会に出席した中の同君の友人某々両君が高山の次ぎの町、四里を離れた古川町まで送って呉れる事になった。古川町と云えば二三日前に平湯で別れた老爺の故郷である。高山よりももっと古びた平かな町であった。そぞろになつかしい思いで自動車から降りて眺め廻していると、一寸草鞋酒をやりましょうと、とある家に案内せられた。草鞋を履いてからの別れの酒の意味だそうだ。
 正直にそのつもりでいると、終に草鞋をぬがされた。そして一二杯と重ぬるうち、いつか知らこの二三日来の身体に酔の廻るが速く、うとうととなっている所へ、なんの事だ、いま別れて来たばかりの福田君がひょっこりと立ち表われた。長距離電話で呼び出されて、自動車で駆けつけて来たのだそうだ。そうなるといよいよ私も腰を据えて杯を取らざるを得なくなった。
 折から雨が降り出した。この雨では屹度鮎の落つるのが多かろうと、急に夕方かけて其処から二里の余もある野口の簗というへ自動車を走らす事になった。
 簗は山と山の相迫った深い峡谷に在った。雨は次第に強く、櫟の枝や葉で葺いた小屋からは頻りにそれが漏り始めたが、然し、どんどと燃える榾火の側に運ばるる鮎の数もそれにつれて多くなった。連れて来た二三人の中に今日初めて披露目をしたという女がいた。今迄一切黙って引込んでいたのが、その雨漏に濡れながら急に唄い出した声の意外にも澄んで清らかであったも一興であった。
時雨降る野口の簗の小屋に籠り落ち来る鮎を待てばさびしき
たそがれの小暗き闇に時雨降り簗にしらじら落つる鮎おほし
簗の簀の古りてあやふしわがあたり鮎しらじらととび跳りつつ
かき撓み白う光りて流れ落つる浪より飛びて跳ぬる鮎これ
おほきなる鯉落ちたりとおらび寄る時雨降るなかの簗の篝火
 翌朝は三人に別れて雨の中を船津町へ向った。途中神原峠というへかかると雨いよいよ烈しく、洋傘などさしていてもいなくても、同じようなので、私は古川町で買って来た一位笠(土地の名物一位の木にて造る)を冠ったまま、ぐっしょりと濡れて急いだ。
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野なかの滝





 八月×日。
 此頃は大抵毎朝斯うだが、今朝はことに空の紺が深い。
 その空の右手寄りにずっと低く伸びて行っている富士の裾野の一部が見ゆる。おおらかに張り渡した傾斜のうえにはおたまじゃくしに似た薄雲うすぐもがちらちらと散らばって、如何にも朝明あさけの風を思わしめる。
 門の前に立って暫くそれらを眺めていたが、急にその辺を歩いて見度い気持が起きて来た。埃をあびた草の原の大きな傾斜、そのなかにぼつぼつと咲いている撫子や桔梗などの花、そうしたものがまざまざと思い浮べられて来た。
 顔を洗ったままの濡手拭を持って急いで門口から入って、汽車の時間表と時計とを見比べると其儘そのままに私は家を飛び出した。それでも停車場に着いてみるとまだ六時五十分発のに十分ほど余裕があった。余りに急いだので、其処までで私はもう労れを覚えていた。爪先から裾にかけては土埃でうす白くなっていた。そして夥しい場内の人ごみを見るとツイ先刻の感興にも可なりの嫌気がさして来て、よほど其儘自宅へ引返そうかと思った。然し、帰ったところで家内の者に笑われる位いのもので其処には何の事も無かった。で、出札口への行列にいつとなく入って兎に角に裾野駅までの赤切符を買った。
 車内に辛うじて一つの席をとるとお茶と弁当とを買った。発車と共に始めた朝食の間に、私はゆっくりと窓から富士を見ることが出来た。これはまた一層深い紫紺の色に晴れて、頂上近い地肌の色さえも見とめられる。そのあたり、二三ヶ所の残雪がくっきりと浮き出ている。見ている間に一時澱んだ気持もまた少しずつ冴えて来るのを覚えた。三島を過ぎ、次第に野原を登る様になると、矢張り出て来てよかったと思う様になった。
 次ぎの駅、裾野で降りた。初めて下車する駅である。停車場から真直ぐに型の様に田舎びた一本筋の宿場町が出来ている。料理屋、医院、郵便局、小さな銀行出張所、そうしたものが眼につきながら二三丁も行くと、行きどまりになって、左右にやや広やかな道路が通じている。ぽくぽくと乾き果てたそれは左から右へ微かな登りになっている。即ち三島から御殿場へ登っているものである。それを登って御殿場まで出れば沼津から見た傾斜の一端を縦断することになるのだが訊いてみれば四里からの道のりだという。私は真白く続いたそれを見て暫く其処に佇んだ。
 その道路を突き切る径があった。私はぶらぶらとそれへ歩いて行った。六七軒の家並を出はずれると眼の前には斜めに広く黒ずみ渡った林が見られた。見るからに裾野らしい植林である。喜んでその方へ歩んでいると、とろとろと降りた田圃のはずれに意外に綺麗な橋が架っていた。温情橋と真新しく記されてある。
 その名から思い出したのは一時大阪で鳴らした実業家の岩下清周という人が富士の裾野に広大な土地を買い込んで、其処に一種の植民事業を試み、そのために学校をも建て、橋をも架けたと聞いていたそれである。それとすればその学校の校長をしている柳下君は兼てから歌などやる人で、私も一二度逢っていた。突嗟の思いつきでその人を訪ねて行こうと思った。
 橋に立って見ると、下を流れている水はまことに清らかに澄んでいる、そして水量も豊かだ。散らばった岩の一つ一つに白い瀬を立てて、淙々と流れている。渡るとすぐかすかな登りになって、あたりは瑞々しい林だ。老木というではないが、いずれも伸びやかに伸び揃った青々しい樹木である。道には真青な小さい櫟の実などが落ちていた。冷やかな風があって、眼下の瀬の音をかき消す位いの蝉時雨が林を包んでいる。
 温情舎と呼ぶその学校は林を出はずれた所にあった。洋風二階建の立派なものである。校舎の二階の開け放たれた辺に人のけはいがするので、其処へ声をかけようとして門を入って行くと、草花など植えた庭の右手に平屋建の長屋風の家があって、その一番はずれに柳下という門標が出ていた。其処へ歩み寄って、二三度声をかけたが、返事がない。やがて真向いの校舎の二階から三十歳あまりのしとやかな婦人が私の声を聞きつけたと見えて降りて来た。聞けば其家の主人は沼津の少年団を率いて御殿場の奥で植林の講習とかをやっているという。奥さんは町の医者に出かけられたのだそうだ。そう聞けばいま橋の渡りあがりの林の中でそれらしい若い身持の婦人に逢ったのであった。
 然し私は落胆しなかった。これはもう一度訪ねて来たいものだと思いながら、其処を辞した。引返して橋を渡って、佐野(停車場の名も以前は佐野と呼んでいた様に其処は佐野という土地である)の町へ出たが、前に困った道端へ出てまた途方に暮れた。朝日もそろそろ暑くなっていた。兎に角もう少しこの道路を上の方へ登って草の深い渓ばたにでも出会ったら其処で遊んで帰ろうと心をきめた。
 その道路沿いにもさびしい宿場町が続いていた。門口にはちょろちょろと澄んだ水が流れて、ダリヤ、おいらん草、松葉菊などの紅い草花が水のほとりに植えられてあった。五六町でまた田圃中に出た。金時足柄長尾などの低い山垣が田圃越しの右手に見え、左には野原を距てて森の深い愛鷹山の墨色が仰がれた。富士は此処に来ると、愛鷹を前にせず、ただ単独に青広い野の中に聳えているのである。見馴れた雲というものが一片もそのあたりに見えない。千とか二千とかいう登山客が今日は大喜びでその山を這い登り這い下りしているのであろうと思いながら仰いでいるとそぞろにその晴れたあらわな山の姿に微笑が湧く。
 なお十町も歩いてゆくと、不図左手に立てられた古びた木札に佐野瀑園五竜館佐野ホテル入口と和洋の文字で認められてあるのを見た。雑誌の口絵などから記憶のある富士裾野佐野の滝というのの滝の形が思い出されて来た。余りのあてなさに困っていたこととて、一も二もなく私は其処を左に曲ってとろとろと降りて行った。埃を浴びた畑の中の石ころ路である。
 古びて骨の出た樅か栂らしい枝つきのままの大きな木の門を入ってもまた畑が続く。滝のひびきはかなりの重みを含んで近くに響く。木立があって、その蔭に俥が四五台休んでいた。木立の中を下ろうとすると前面に滝が見えた。一つ、二つ、三つ、見廻せばなお一つ二つのそれが岩と樹木との間に僅かの距離をおいて白々と相並んで落ちているのである。滝の前に架けられた危い橋には水煙がまっていた。その向うの高みに洋館まがいの宿屋が建っているのである。
 通された部屋からは六つあるうちの四つの滝がよく見えた。庭木立を距ててであるが、その木立には水煙が薄い輪をひろげて後から後から降りかかっているのである。滝壺にはいちめんにちゃぱちゃぱと波が押し合っている。滝の高さはすべて四丈ばかり、彎曲した断崖の五六ヶ所から三間四間、乃至は十間十五間の間に分れてとりどりに落ちているのだ。うち一つ二つのの水量は意外に豊かなものであった。滝のめぐりをば浅い林がずうっと囲っている。林の向うは斜め登りの畑になっているわけだ。
 部屋の裏手には孟宗竹が少しばかり並んで、その奥が小広い櫟の林となっている。滝からと林からと入り乱れた微風が室内を吹き通した。
 思いもかけぬ処に来たという気がした。部屋のまんなかにつくねんと坐ると、滝を見るでも何でもないが、とにかくに好い処へやって来たと思わずにはいられなかった。サイダーを飲みながら、これでは今夜一晩ゆっくり此処に睡って行こうかという気も起きて来るのであった。昼飯の註文を訊きに来た少女の女中の態度も気に入って、
「今夜一晩泊めて貰います」
 と云ってしまった。そして枕を借りて昼飯の時間までぐっすり其儘睡ってしまった。
 ツイ庭さきの滝のそばまで下りてゆくのも懶かったが、午後二時三時となると流石にたいくつした。そして昼食の時に聞いておいた景が島というのへ出かけて見ることにした。
 裏手の林を抜けると其処は一段高い平地の青やかな田圃であった。小さな渓を渡り、集落を過ぎ、小山の間に入り込んだ所にその景が島というのはあった。小さな渓が深々と岩を穿って流れている或る一ヶ所に、水が二手に分れ、中に二三十坪ほどの広さの岩塊を置いて流れている。その岩塊には松や雑木が茂り、中に何やらお堂が祭ってある。其処が即ち景が島であるのであった。二手に分れて流るるとは云え、その一方は今は悉く水が涸れて、狭深い岩の間に小石原のみが見られた。一方の流れは同じく深く岩を刳って、小さいが青く湛えた淵と、飛沫をあげて流れくだる短い瀬とが岩の蔭に連続していた。
 景が島の景色のいい話を女中から聞きながら私は何故だか広やかな浅瀬の中に大きい円い石が無数に散らばって、水がそれらの間をしゃあしゃあざあざあと流れ騒いでいる――そんな処を想像していた。つまり部屋から見えているすべての滝を合せた上流のそうした処であったのだが、来て見ると僅かに滝の一つに相当する位いの水の流るる一支流の斯うした景色であった。
 が、これもまた好かった。木立の深いが先ずよく、筋ばった岩もよく、岩を穿って流るる渓はことに私の心を惹いた。私は嶮しい岩を流まで下りて行った。
 下りた所は小気味の悪い淵と淵とをつなぐ小さな激しい瀬であった。滑らかなうねりを作り、真白な泡と玉とを打ちあげて流れていた。暫く蹲踞んでそれを見ていたが、やがて私は着物をぬいで肌襦袢一つになり、その瀬の中に入って行った。膠のような、そして実に強い力を持った水の筋は滑かに冷かく私の病み痩せた両脛を押したくって流れてゆく。私は手近の石の頭につかまって一生懸命に身体を支えていねばならなかった。
 押し流される様にして二三間下へ下って行った。其処はもう壺の様な淵である。瀬から上って淵の頭の岩の蔭に私は腰をおろした。前も岩、うしろも岩、左は淵、右は短い激しい瀬、見上ぐれば蒼い空にさし出て両岸の樹木が茂っている。
 切り立った様な両岸の岩はみなふところ深く刳れている。そしてその刳れた所に模型地図の山脈などに見る幾つかの高まりが縦横に岩面を走っているのである。前を見、うしろを見して私は思った。此辺一帯が火山岩とか火山何岩とかいう軟かな岩質で――というよりか富士の噴火のあとのまだ硬まらぬ上を水が流れて斯う細く深く刳ったものであろうと。そして宿の前に滝を懸けた断崖なども溶岩の流れの毛すじほどの皺に相違なかろうと。そう思うと裾野一帯のだだっ広い平野の中に、普通に見ては眼につかぬほどの自分一人の窪みを作ってひそかに流れている此処等の渓がいじらしくもまた滑稽にも考え出されて来た。
 立てば頭のつかえる岩蔭に坐った私に気づかぬのであろう、眼の前の石に鶺鴒がとんで来た。頻りに尾を振って、石から石へと移っている。脚のほそさ、糞を落す微妙さ、そして其処に一羽の友が飛んで来ると一緒にくるくるところがる様にまって行った。鶺鴒を見ていた私の眼は、其処にまた一つの小さな生物を見出した。うす黒い岩にぴったりとしがみついた蛙である。痩せに痩せて、そして岩と全く同じい色あいの、果物の皮の落ち散っている様な平たい蛙である。多分河鹿であろうと思うが、それにしてはやや大きい様にも見ゆる。これは水際の泡にまい寄る細かな羽虫を覗っているのだ。そう見ると眼と口とは生き生きとした矢張まがいのない生物である。おりおり水に飛んだ。そして円みを作って拗れながら流れている激しい水の中を眼にもとまらず敏捷に泳ぎ渡る。
 淵ではおりおり魚が飛んだ。ぴしょん、ぴたりと云うかすかな冷たい音が、岩の蔭から蔭へ伝わる。淵の上からは蜩の声が雨の様に落ちているのであった。その中に法師蝉の夕日づいた澄んだ声も混っていた。
 景が島を去って田圃に出ると、矢張り裾野のみが持つ風景の広さ大きさがしみじみと感ぜられた。下るともなく下り行った傾斜の遥かな四方には夕方の低い雲の波が起って、近い山、遠い山脈をうす黒く浮ばせている。埃を被って咲いているみそ萩の花が路傍に続き、田から田に落ちているかすかな水のひびきもそぞろに秋を思わせる。立ち止ってうしろを見送ると、富士もまたむら雲の渦巻の中に夕日に染まりながら近々と立っていた。
 宿に帰ると、先刻とは違った女中がやって来てどうか部屋を換って呉れ、此処には多勢連の客を通し度いからという。まったくその部屋は一室だけ小高く離れた離室になっており、混雑する場合など私一人には勿体ない部屋であった。移された部屋の隣りにもやがて二人連の客が来た。私は鈴を押して女中を呼んだ。そして、いま見る所では向うの西洋室が皆あいている様だ。あちらに私をゆかして呉れぬかと尋ねた。帳場に訊きに行った女中はやがて帰って来て、先刻横浜から電報で西洋人が来ることになっており、どの部屋もすべて駄目だという。諦めて風呂に行って帰って来ると、女中が来て、一室だけ不要の様ですから西洋室にお移り下さいという。喜んでそちらへ移って、粗末な椅子を窓に寄せて滝を見ながら麦酒をとり寄せた。暑かろうが、静かなだけを喜ぼうと洋室を選んだのであったが、来て見るとよく風が通した。今夜は十二三日頃の月夜の筈、珍らしい寝台の上からゆっくり月と渓の流とを見て一夜を明そうと、子供の様に楽しんでいると、また女中が来た。そして如何にも云いにくそうに、また意外な西洋人から電報でいま直ぐ此処に来るように云って来た、他に洋室が無いし、誠に申兼ねますがもう一度あちらの日本間へ移って頂き度いというのである。
 私は暫く黙って麦酒を口に含んでいた。いつもならば必ず此処で顔の色を変えるか、大きな声を出すかする所であるがと思いながら、その日の私は自分でも不思議な位い怒る気になれなかった。困り切って立っている女中の顔を見やりながら、承知の旨を答えて、手ずから飲み残しの壜とコップとを持って立ち上った。移ってみると、流石に気持は平らかではなかった。病気によくないのを知りながら更らに一本の麦酒を命じて、惶しく飲み乾すと散歩に出た。
 今度は宿の前の橋を渡って、昼間初めてやって来た御殿場道の方へ歩いて行こうとした。橋に来ると、面を掩い度い水煙である。月が明かに滝に射して、はじけ散る荒い飛沫も、練る様に岩から落つる大きな流もただ一様に白々と月光の裡にある。暫く橋の上に立っていると、滝の流は断えずこまかに動いているものであることを知った。際立って風があるでもないに、滝は決して真直ぐには落ちていない。或は右に、或は左に、時には飛沫のかたまりの様に砕けて落ち、時には生絹を練る様に滑らかに円く光って落ちている。滝から起る響きもまたそれにつれて変っていた。
 木立を通りすぎると野なかの畑である。豆畑があった。玉蜀黍畑があった。茄子畑があった。桑の枝の乱れている畑もあった。それらがごちゃごちゃに植わっている様な狭い畑もあった。すべてが打ち開けた月光の世界である。そして蟋蟀が鳴き、馬追が鳴き、或るものの細かな葉さきには露の玉が光っていた。ことに私の心を動かすのは玉蜀黍の長い垂葉とそのほおけた花の穂さきである。ひっそりと垂れた葉のみだれには月の影も乱れながらにこまごまと静けく宿っているのであった。
 睡れ、睡れと念じながら帰って蚊帳に入ると、難有ありがたや願いの通りぐっすりと睡りつくことが出来た。
 翌朝早く起きて便所にゆくと、廊下で一人の大きな西洋人に逢った。注意して見ると西洋人はこの男一人であった。私の一寸いた室は勿論、他の室も空いていた。室料が高く私を気の毒がっての宿の処置か、それともこちらの懐中を危ぶんだか、または電報の約束が間違ったか、変な事をするものだと思いながら、朝飯を待った。
 宿を出て御殿場道に出ると忽ちこの野中の滝も西洋建の宿屋も青い田圃に隠れてしまった。停車場に入ると運よく汽車が来た。案の如くこんでいた。一番最後の列車の、展望車の様にうしろのあいている昇降台に立っていると、側にいた東京者らしい少年が、
「やア、活動写真活動写真!」
 と叫ぶ。
 見れば汽車の停ったあとの線路の中を一人の女が裾もあらわに馳けて来るのであった。乱暴なことをするものだと呆れて見ておると、それでも車掌が二三十秒も笛を吹くのを待ったためか、とうとう汽車に乗ってしまった。そして私のまん前に来て立った。切符をば無論車掌から買ったのである。
 十七八歳の、肉づきのいい、女学生風の女であった。横顔が汽車の壁に凭って立っている私の正面一二尺の所に見ゆる。ゆたかな耳朶は濃い紅いに染り、水際だった襟からは見る見る汗が玉となって滴った。そして大きく吐く息づかいがこちらの身にも伝わる様であった。
 眼をそらすと富士は昨日の朝の様に同じく深い紫紺の色に冴えて汽車のうしろに聳えて見えた。汽車はおおらかな野原の傾斜を素直ぐにせ下ってゆく。

  秋近し
畑なかの小みちを行くとゆくりなく見つつかなしき天の河かも
うるほふと思へる衣の裾かけてほこりはあがる月夜の路に
園の花つぎつぎに秋に咲き移るこのごろの日の静けかりけり
うす青みさしあたりたる土用明けの日ざしは深し窓下の草に
愛鷹の根に湧く雲をあした見つゆふべ見つ夏の終りとおもふ
明けがたの山の根に湧く真白雲わびしきかなやとびとびに湧く
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或る島の半日





 旅さきの癖で朝飯の膳に一二本の酒をとり寄せ重苦しい宿酔を呼び出しながら飲んでいると、惶しく女中が飛んで来てほんとうにもう舟が出ますという。案内役の伊勢崎君もその顔を見て流石に腰を浮かした。そして窓に出て向うを見ていたが、
「ほんまに出よるわ、しようのないやっちゃなア」
 と舌打ちしながら、手を振り声をあげてその舟を呼んだ。そして私共二人は飯も喰うことなしにあたふたと袴を著けてその舟まで駆け著けた。「郵便船やよって、出るとなったら一分も待ちよりゃしまへん」という宿屋の女中に「なアに、あの船頭知っとるよって、構うことあらへん」と伊勢崎君はたかをくくっていたのであったが、矢張り斯う周章うろたえねばならなかった。
 あたふた乗り込んだ舟は普通の漁船の小型なもので、中央に屋根が葺いてあり、その上に〒の字の旗が立ててあった。先客のために屋根の中に入り得ない私たちは艫の荷物の上に辛うじて腰掛けたが、ツイ眼の前には昨夜真夜中に著いた停車場が見えた。停車場から左寄りの山蔭と海岸の石垣との間に寂しげな宇野の町が眺められた。石垣に寄する小波の音といい、朝あがりの日かげに忙がしげに行き交うておる船頭や仲仕や客人や泣いてる子供や、聞きわけかぬるふれ声の女の魚売やの姿が、惶しい自分の心に如何にも粗雑な新開港であるという感じを抱かせた。
 それらの背景に極めて不似合に大きな見ごとな桟橋が停車場前から突き出ていた。山陽線と四国鉄道とをつなぐ連絡船は即ちその桟橋から発著するのである。我等の小舟は桟橋につかまりながら徐々と海に出て、帆を張った。
「えろう此頃は郵便船も見識が高うなったのう、万作さん」
 伊勢崎君は汗を拭き拭き船頭に声かけた。裾長の著流しで学生帽を被った四十年輩の船頭はただにやにやと笑いながら懐中から煙管を取り出していた。
「お蔭で飯もよう喰わんと走り出して来居って……、ひもじゅうて叶わんがな」
「どだい此処等の宿屋の女中があきまへんわ」
 船頭の代りに屋根の下から答うる者がいた。白髪でもありそうな年恰好の声であった。
「じっきに出るのはよう解り切ってるのに、まだじゃまだじゃとぬかしおって……」
「おなごの手じゃわい、そりゃ」
「ちょっとでも長う楽しもうと思うてけつかるのや」
 屋根の下は急に賑わって来た。
 桟橋を離れると前面の海に幾つかの島が見え出した。海に島が浮んでいると云うより、島に囲まれた海と云った方が適当か知れない。ぺたりと凪いで、池の様に静まっている。そしてその古池の様な海に瀬戸特有の潮流があらわな水脈みおとなって流れておるのが見ゆる。奥から奥へと並んだ島々の蔭にかけて、その流はほの白う流れ渡っているのである。大小さまざまな船がまたそれらの島蔭に見えていた。上り下りの帆の向きの異っているのも馴れぬ眼には興深く眺められた。何百間かに亘る天然石に日蓮の寝像を刻みかけている牛が首島というのも、遠く近く垣の様につらなり渡った島の中にさし示された。
「ホウ、金毘羅参りが来居った」
 一艘の帆前が綺麗に満艦飾を施しながらとある島の蔭から現われて来た。
「えらい静かなお参りや」
 誰やらが云った様に、すれちがうまでに近づいてもその青や赤の新しい旗で飾り立てた船はただひっそりと走るのみで人影もろくに見えず話声ひとつ聞えなかった。
「これが直島ですよ、もう著きます」
 長い旅の疲れと朝酒の酔とで、ろくに何を見るともなくぼんやりと何やらの荷に腰かけて風に吹かれている耳のはたで伊勢崎君が囁いた。
「そう、もうこれが直島ですか」
 私は船の右手に近く塩田でもあるらしい砂浜の出た一つの島を改めて見やりながら強いて睡気を追おうとした。時計を見れば宇野を出てから一時間ほど経っている。見廻せばそのあたり左手の海にも三つか四つの島が濃淡の影を重ねて居るのであった。
 舟から上ると、其処は小さな舟著場らしい集落になっていた。この直島の主都に当る所だという。友人のあとについてその集落を横切り、この島の郷社八幡宮の下に宮司三宅其部氏を訪うた。三宅氏の家はこの島の神官職を勤むる十数代にわたり、当主其部翁は友人伊勢崎君の為に月下氷人に当るのだそうだ。きょう突然両人して翁を驚かしたのは瀬戸内海の中のこの小さな島に崇徳上皇配流の故跡があるというのと、今一つは瀬戸名物の鯛網を見物するにこの島は甚だ恰好だというのとで、私は岡山市滞在中同市の人伊勢崎君に勧められ同君はまた島の三宅翁を頼って、此処までやって来たのであった。
 髪にも髭にも白いのがかなり混った割には極めて元気な矮躯赭顔の翁は折柄処用で外出しかけて居たにも係らず、懇ろに我等がために古文書を展き、絵図を示し、流されてこの島に三年の月日を送られた上皇の故跡をいろいろと説明せられた。そして当時上皇の詠まれた
松山や松のうら風吹きこして忍びて拾ふ恋忘貝
 という歌によって忘れ貝と呼ばれて居るこの島特有の貝殻の拾い取ってあったのを特に私のために分けられたりした。中に美しい純白なものがあったが、これなどは今極めて稀にしか拾えない種類なのだそうだ。
 併し、惜しい事に歴史上の年代や考証がかった話を聴くべく余りに私は旅に疲れていた。今度の旅に出てまだ幾日もたってはいないが、その出立前からかけての烈しい不摂生、不健康、ことに岡山に来てからの四五日が間、夜昼なしに飲み続けていた暴酒や不眠のために殆ど全くの病人となっていた私にとってはそれらの入り込んだ話はともすると頭の中で纏らぬがちであった。幸いに翁は説明を中途でやめ、これから順々と重もな故跡を案内しましょうと自分から立ち上った。そしてそのあとを兼ねて鯛網見物の場所ときめてあった琴弾の浜へ出ようというのである。
「なアに、御覧の通り島が小さいのですから全体を廻るにしてもざっと半日あれば足りますよ」
 と云って、長い杖を一本私に渡しながら大きい声で翁は笑った。
 三人続いて門を出ると、直ぐ径は坂になった。若い松がまばらに生えて、山の肌はうす赤い。雲は多いが、折々暑い日が漏れて、私の身体はすぐ気味の悪い汗になった。その赤い山襞のあちこちに遥々都から御あとを追うて来た御側の女がやがて身重になって籠ったあとの森だとか、同じくおあとを慕われた姫宮がどうなされたとかいう様な伝説のあとを幾箇所も見てすぎた。
 程なくその島の脊に当っていると思わるる峠を越すと、今まで見て来たと違った海が割合に広々と見渡された。峠に崇徳上皇を祭ったお宮があった。小さいながらにがっしりとした造りで、四辺には松が一面に枝を張っていた。東南に向った海の眺め、海に浮ぶ二三の島の眺め、それらを越して向うに見渡さるる四国路の山から山の大きい眺め、流石に私も暫しは疲れを忘るる心地になった。其処を磯の方にとろとろと二三丁も下ると、きょう目ざして来た重もの目的のお宮の跡というのに出た。
 其処も小さな山襞の一つに当っていた。波の寄せている磯まではほんの十間もないほどの僅かに平たい谷間で、あたりには同じく松がまばらに立ち並び、間々雑木が混っていた。三宅翁は携えた杖で茂った草や落葉をかき分けていたが、やがて目顔で私を呼んだ。行って見ると、その杖の先には小さな石を畳んだ石垣風の所が少し現われていた。
「どうした建築の法式でしたか、この石垣が三段に分れて積まれています、此処が一段とその上と、もひとつ上の平地と……」
 翁の杖の先に従って眼を移すと、成程それぞれ三坪ほどの平地を置いて、二三尺の高さに三段に重なっているのである。想うにこの一段ごとに一軒ずつの小屋があり、御座所やお召使または警護の者共それぞれの住所にあてられていたものらしいと想われた。二坪ほどの御居間に三年余もお籠りになった当時の御心持を想うと、古い歴史のまぼろしが明かに眼の前に現われて来る様な昂奮を覚えずにはいられなかった。仰げば峰まで二三丁の嶮しい高さ、下はとろとろと直ぐ浪打際になって、真白な小波が寄せて居る。住民とても殆んど無かったと伝えらるる当時のこの小さな島の事を心に描いて来ると、あたりに立っている松の木も茅萱ちがやの穂も全く現代のものではない様な杳かな杳かな心地になって来るのであった。
 いつまで立っているわけにもゆかなかった。帽子をとって四辺の木や草に深く頭を下げて、私たちは磯の方に降りて行った。崖下の浪打際をややしばし浪に濡れて歩いて行って、やがて少し打ち開けた平地の所に出た。其処等にもくさぐさの伝説のあとがあった。平地の南の端、三四十の家の集っている玉積の浦(この名もなつかしい)には寄らずに田園を西に横切って行くと一列の並木の松が見えた。其処に著くと松並木の蔭におおらかに湾曲した大きな浜があって、同じく弓なりに寄せている小波が遥かに白く続いていた。例の忘れ貝は多くただ其処からのみ出るという琴弾の浜(この名も同じ上皇に因縁した伝説から出たものであった)が其処であった。そして其処に粗末な漁師の小屋が五六軒松の根に建ててあった。私たちは其処でこれから鯛を網しようというのであった。

  はつ夏
うす日さす梅雨の晴間に鳴く虫の澄みぬる声は庭に起れり
雨雲のけふの低きに庭さきの草むら青み夏虫ぞ鳴く
真白くぞ夏萩咲きぬさみだれのいまだ降るべき庭のしめりに
コスモスの茂りなびかひ伸ぶ見れば花は咲かずもよしとしおもふ
いま咲くは色香深かる草花のいのちみじかき夏草の花
朝夕につちかふ土の黒み来て鳳仙花のはな散りそめにけり
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伊豆紀行





二月九日。

 O―君とS―君と、一人は会社を一人は学校を怠けて、東京駅まで見送って来た。この二人は昨日珍しく降った雪に浮れて私を訪ねて来、ツイ雪見酒が過ぎて昨夜そのまま泊っていたのである。
 停車場の食堂の入口で飲み始めたビールがやがてウイスキイに変る頃は十二時幾分かの汽車に乗るのがいやになって、一時三十五分の京都行に延ばす事にきめた。昨夜の名残もあるので、三人とも直ぐ真赤に酔った。
「先生は斯んな帽子を被って旅行しようというのですか、一体これはもう何年被りました、僕のを貸してあげますよ、これをお被りなさい、ソラ、よく似合うでしょう」
 と、首まで赤くなったS―君は自身の帽子をぬいで私に被せた。何という型だか、毛の深い温い帽子である。
「ほんとだ、それに手袋もお持ちでありませんネ、これを差上げましょう、まだ買ったばかりのだから」
 とO―君は、これも毛深い真新しい手袋を取って私に渡した。あやしき帽子を被って眼の垂れた私の顔が食堂の鏡に映って居る。食堂内には西洋人が多かった。
 歩廊に登ると、まことに好い天気だ。雪を被った全市街の上にうららかに射し渡した日光の底の方には微かに霞が醸されている。静かに汽車は動き出した。
 駅を出ると直ぐ私は睡った。品川をも知らなかった。そして眼をさますと汽車は停っていた。見廻せば国府津である。乗降のりおりが大分混合こみあっている。其処を出ると足柄か天城か、真白に雪の輝いた連山が眺められた。車窓近くの百姓家の段々畑の畔に梅が白々と咲いて居る。今年初めて見る梅である。箱根にかかると私の好きな渓流が見え出した。そして、細かな雪がちらちらとまい始めた。御殿場では構内を歩く駅の人が頭布を被って居る程繁く降っていた。而かも其処を離れて裾野を汽車が走せ下ると次第に晴れて遥かの西空は真赤な夕焼、竜巻に似た黒雲が二すじ三すじその朱色の光の中に垂れ下っていた。
 沼津駅下車、直ぐに俥で狩野川の川口へ行く。この前泊った川岸の宿は満員というので名も知らぬ小さな船宿へ入る。ぬるい風呂に浸っている頃から耳についていた風は次第に烈しく雨戸を揺るがし何という事なく今夜の酒は飲むだけ次第に気を沈ませてゆく。三方壁の様になった――一方に小さい四角な高窓がついてはいるが――四畳半の煤びた部屋の床に古木らしい大きな枝の梅がなかなか器用に活けてある。
「いい梅でしょう、わたしが自宅うちから持って来たの」
 あやしげな女がひょっこり入って来て煙草をねだりながら云う。活けたのもお前か、と訊けば、それは此家ここの旦那だと正直にかぶりを振る。不図思いついた事があって沼津在に二瀬川という所があるそうだが、と尋ぬると二瀬川はツイこの川向うで、わたしの家はその隣村だという。そんなことから、私はもと上州前橋の生れで、沼津の廓に身を売り、その何とか村の者に受出されていたが姑との仲が合わず、今は此処に預けられている。兄さん(と彼女は云った)は旦那より五つ年下だと側の宿帳をひろげながらの身の上話などが出た。そのうちに階下したから呼ばれて降りて行ったがまた上って来て、此家の旦那は根が遊人だけによく解っているがお内儀かみさんは芸者上りの癖にちっともわけが解らず、辛らくて為様がないという風の事をまだ抜け切らぬ上州弁で話して、たとえ何にせよ宿屋一軒に番頭板場が居るでなし、女中はわたし一人で昼は子守までさせられ、肩が張って斯の様だと骨をめきめきいわせながら泣顔をする。
 漸く私も酔うのを断念して、直ぐ床に入る。風はいよいよひどい。明日はどうせ汽船は出まい、そうなればその二瀬川の知人を訪ねて見ようなどと思っているうちに案外に早く熟睡した。

二月十日。

 夜中一二度眼の覚めた度び毎に例の風を聞いたのであったが、朝六時過ぎ、暫く耳を澄ましてもひったりと何の音もせぬ。怪しみながら床を出て高窓の戸を引開けて見ると驚いた、その小汚こぎたない窓の真正面にそれこそ玲瓏を極めた大富士の姿が曙のあやを帯びて如何にも光でも発するものの様に聳えているのである。見廻したところ其処等の樹木の梢から屋根からいずれもみなしんと静まり返って唯だ雀の声のみ鮮かだ。惶てて階下に降りて訊くと汽船は二時間遅れてこの七時半には出るそうだという。
 以前はツイこの川岸に横着けになっていたものだが、今は川口が浅いため汽船は沖にいて其処まで艀を発動船で運ぶのだ。川口を離れると昨夜の名残らしく随分大きい浪が打ち寄せる。四五十人鮨詰に立っていた艀の人達も大抵は蹲踞しゃがんでしまうほどであった。本船に移って大半は階下の船室に入り込んだが私は早速蓆を敷いて甲板に席を作った。船に強そうな十二三人もみなその様にした。積荷は既に済んでいたらしく、程なく発船、私の席からは其処に積み重ねられた魚の空樽の間に殆ど断えず富士が仰がれた。やがてそれぞれの人の間に船の上らしい談話が交わされ始めた。どうも今朝五時頃に裾野に靡いていた雲で見ると私は東南風ならいらしいと見たがという人が居ると、イヤ、あれは確かに西風にしだ、今こそ斯う不気味に凪いでいるがやがてこれが月の落ちぐちにでもなったらどっと吹いて来ましょうよという老人もある。この老人の言葉に私は狭苦しい席に身体をねじ向けて空を探すと、なるほどくっきりと澄んだ沖近くに二十日頃の有明月が寂しく懸っているのであった。
 戸田へた近く、汽船は断崖にひたひたと沿うて走る。切りそいだ崖の根がたにどばんどばんと浪の打ちあげている所もあり、またその根に狭く荒い石原があってそれに白々と寄せている所もある。崖の上は大抵一面に枯れ果てた萱山で、海岸沿いに電信柱が一列遠く連っているのが見ゆる。一昨日この辺も降ったらしく、雪が斑らにその山のいただきに残って居る。浪の色は深い紺碧、風は無くても船はいい加減に揺れて居る。
 戸田の港を出た後から先刻の老人の予言が力を表して来た。煙筒や帆柱に風のうなりが起る様になると、船は前後に烈しく揺れ始めた。私は幸に身体を凭せ懸ける所を持っていたのでよかったが、そうでない人々は坐りながらに前後にずり動かされねばならなかった。いつの間にか話声はぴたりと止んで、例のもどすうめきが起り出した。階下したの船室から這い出して来て欄干てすりにしがみつきながら吐いている若者もあった。ものにつかまりながら辛くも立ち上って沖の方を見ると空は物凄いほどにも青く冷く澄み渡って、沖一面の白浪が泡立ちながら此方を目がけて寄せて来ているのである。この西伊豆の海岸は、西風にしの吹き出す秋口から冬にかけてよく荒れがちであるのだそうだが、終に今日もその例に漏れぬ事となったのである。あとで聞くと、その荒れるうちでも今日のなど最も強いものであったそうだ。
 土肥には寄るには寄ったが、なかなか艀が近付かない。またそれに乗り移る時汚物によごれた婦人客の有様など、見て居られなかった。そして此処ではまだずっと先きまで、松崎とか下田とかまで行く可き人のうちでもものを吐き吐き下船する人が随分あった。いたましい汽笛を残してこの小汽船米子丸はまた外洋の白浪の中に出て行った。土肥は温泉のあるため乗降客は多いが港らしくなっていないので船は永く留っている事も出来ぬのである。
 土肥を出て直ぐ、私は眼覚しい風景に接した。高い岩壁に沿うて十丈又は十五丈もある黒鉄色の岩礁が二三本鎗の穂尖ほさきの様に鋭く並んで聳え立って居る。沖から寄せた大きなうねりはその岩礁という岩礁、岩壁という岩壁に青く寄せ白く砕け縦横自在に荒狂っているのである。わが汽船はその真近に吹き寄せられながら或は高く或は低く上りつ下りつして実にあわれな心細い歩みを続けて行く。その辺に来るともう私すらが無事に坐っている事は出来なくなった。物につかまりながら立つか、或はぺったりとこれも同じく何物かに身を寄せて俯伏せに寝ているか、いずれかでなくては身が保てない。私は飛沫しぶきを浴びながらS―君の帽子を耳までも深く被って全身に力をこめながら立っていた。そして時には甲板よりも高くうねってゆく長いうねりを息をひそめて見つめていたが、思わず知らず或時大きな声を上げてしまった。岩壁と岩礁との僅かの間、浪という浪が狂い廻ってうち煙っている真中に実に見ごとな、遥かな富士を発見したからである。何という崇厳、何という清麗、朝見たよりも益々うららかに輝き入って、全面白光、空の深みに鎮っているのである。富士は近くてはいけないが、いつの間にか此処あたりは恰度距離も見ごろな所となっていたのである。船よ、御身もこれで幾らかずつは歩いているのだナ、と思わず欄干を叩いて微笑せざるを得なかった。
 然し、甲板の上は富士どころの騒ぎでないのであった。三つずつ積み重ねて七八所に束ねてあった空樽が余りの動揺にいつか束ねた縄を切って一斉に甲板の上に転げ出したのである。甲板にいた人たちは幾らか船に強い方の人であるべきだが、うち見た所私のほかには最初強風を予言した例の痩老人のみが先ず生色あるのみで、他は大抵もうへたばってしまって居る。汚物のかんが倒れ溢れても起さず、汐を被っても拭わず、ただもうべったりと甲板にしがみついているのである。その上を鱗だらけの空樽が幾つとなく転げ廻るのだから耐らない。思わず私も手を出しかけたがつかまっている手を離せば忽ち私自身空樽同様とならねばならない。為方がないから唯だ大きな声を上げた。私と反対の側に掴って立っていた老人も等しく金切声を張りあげた。聞きつけて船長らしい大男と今一人若いのとが出来たが、彼等だとてそう自由に歩けるものではない、暫く樽と角力をとっていたが流石に如何どうにかくくりつけてしまった。今までの遠景から眼を移してその樽の転げるのを見廻しているうちに私も何だか少し気持が変になって来た。嘔くのかナ、と思っている所へ向側の老人が這う様にして私の方へやって来た。そうして私に並んで立ちながら、
「どうも貴方は豪気ですナ、私は始終この船には乗っているからだが、普通の人でこの荒れに酔わないとは珍しい、まったく豪気だ」
 とめる。そうなるとこちらも気を取り直さねばならず、暫く話しているうちにいつか嘔気をも忘れてしまった。老人は年六十七八、墨染の十得の長い様なものを着て、まだ斯んなに船の揺れなかった前にはちゃんと正座しながら茶道捷径という本を手提の上に置き、歯の無い声で高らかに読んでいたのであった。沼津本町の人、茶を教えに田子港まで行くのだそうな。ひとしく浪の面を見詰めながら並んで立っていると彼は口のうちで、然しかなりいい声で、「鳥も通わぬ八丈が島へ……」と追分を唄い出した。それが船の烈しい動揺につれては間々常磐津に似た節廻しにも移ってゆくのである。
 そうしている間に船は八木沢、小下田、宇久須という様な幾つかの寄港場を悉く見捨て阿良里あらりという港へ非常な努力で入って行った。この港はどの風にも浪一つ立たぬ附近唯一の良港であるという。成程小さくはあるが港らしい港だ。奥に入ってゆくと赤茶色の山の蔭に僅かに沖の余波を思わせる小波が立っているのみであった。あわれな汽船は其処に入りながら寧ろ物悲しい汽笛を長々と鳴らし始めた。
 私は元来今日はこの船で松崎まで行くつもりであった。イヤ、若し船の都合がよかったらずっと一息に下田まで行ってもいいと思っていた。が、今日は一切此処より出船しないという。それもまた強ちに悪くないと私は快く諦めた。そして何処に泊るも同じだからこの思いもかけなかった小さな港に一夜を明すも面白かろうと心にきめた。艀に移ろうとして不図見ると例の老人が――彼はこの次ぎの田子港まで乗る筈で、其処には迎いの人も来るべき筈であったのだそうだが――幾つかの手荷物を持て余している。私はそれを手提一つと風呂敷包一つとに区分させ、自身のものをば腰に結びつけて、その手提をば代って持ってやることにした。サテ、陸に上って、私はこの老人と別れ様としたのだが、此処から田子まで距離が約一里、其間に峠もあると聞いて、その田子に宿屋の有無を訊きながら其処まで老人と一緒に行く事にまた覚悟を変えた。そしてとぼとぼと歩き始めると、船にいたよりも私は身体のふらつくのを感じた。最初の峠は随分嶮しく、且つ路が水の無い渓見た様な路なので歩きにくい事夥しい。其処を幾度となく礼を云い云い先きに立ってちょこちょこ歩いて行く老人の後に従いながら私は彼れの健康さに舌を巻かざるを得なかった。
 二つ目の峠――という程でもなかったが――を登り切ると、泡浪立った広い入江の奥に位置する田子の宿が直ぐ眼下ましたに見えた。屋並の揃った、美しい宿場である。鰹節の産地で、田子節というのは此処から出るのだと老人は説明した。宿屋は高屋と云った。ところが、生憎と部屋がいま全部ふさがっていて合宿で我慢して頂くわけには行くまいかという事である。私を案内して一緒に其処まで行って呉れた老人はそれを聞くと却って喜んだ様に、それでは矢張りこれから私の行く家へ御一緒に参りましょう、極く懇意な仲で、ことに私はいつも其家そこ離室はなれに滞在する事にきめてあるので少しの遠慮もいらないから、とたって勧める。兎に角昼飯だけ――もうその時二時を過ぎていた――此家で済ませましょう、貴方も如何です、と当惑しながら私がいうと、ではそうなさい、その間に私は向うに行って主人にもよく話をして来ます、後程伺いますからと云い置いて老人はそそくさと出て行った。
 日の当る窓際で私は焦れていた酒にありつき乍ら考えた、斯うした浦曲うらわで茶の師匠と相食客をするのも面白くなくはないが、多少でも窮屈の思いをするのは嫌だ、それに茶の一手でも弁えているとまだ便利だが、どうも新派和歌では始まらない、これは矢張り断るに限る、と思うと今更ら老人に逢うのも面倒で、大急ぎで飲み乾して飯をば喰べず其処を出た。出がけに手紙代りの歌を一首、書きつけて宿に頼んで来た、もう一度あの好人物そうな老人の顔を見たくも思いながら。
 如何にも鰹節が到る所に乾してあった、高くなった高くなったと朝晩勝手で女中を相手にこぼしている妻の顔などが心に浮んで苦笑しながら無数に乾しひろげられたそれ等を見て通り過ぎた。風は相変らず烈しく、私の五六歩前を歩いていた二人の若い酌婦風の女の上にまだ乾かぬ乾物が竿のまま落ちて来たりした。宿場を離れると直ぐまた山にかかった。
 酒のせいか、幾らか風をよけた山蔭のせいか、その峠をば私も極めて穏かな気持で登り始めた。梅が幾つか眼につく。初めこの旅を思い立った時、この花の盛りを見る気でいたのであったが次第に日が遅れてもう過ぎてしまったろうと諦めて来たのにまだ結構見らるる。浪に揉まれながらの船からも海岸の崖の上に咲いているのがよく見えていた。一帯にこの国にはこの木が多いかも知れぬ。段々畑の畔などに列を作って咲き靡いている所もある。伊豆は天産物の豊かな上によく細かな所にまで気をつけて人々がその徳を獲ようとする、と云った数年前天城を越す時道連みちづれになった年若い県技手の話を私は端なく思い出した。国が暖かだから山椒の芽や桜餅に用いる桜の葉などを逸早く東京あたりへ送り出す、その山椒の価額が年平均何万円、桜の葉が何万円、などとその技手は細かな数字をあげて話して呉れたのであった。そんな風でこの伊豆には模範村と表彰された村が全体で何個村とかあると云う事であった。気候や地味を利用する事には余程鋭敏な国であるらしい。
 今度は独りだけに荷物とても無く、極めて暢気のんきに登って行くとやがて峠に出た。何という事なく其処に立って振返った時、また私は優れた富士の景色を見た。いま自分の登って来た様な雑木山が海岸沿かいがんぞいに幾つとなく起伏しながら連っている。その芝山の重なりの間に、遥かな末に、例の如く端然とほの白く聳えているのである。海岸の屈折が深いから無数の芝山の間には無論幾つかの入江があるに相違ない。その汐煙しおけぶりが山から山を一面にぼかして、輝やかに照り渡った日光のもとに何とも云えぬ寂しい景色を作っているのである。現にいま老人と通って来た阿良里と田子との間に深く喰い込んだ入江などは眼の醒むる様な濃い藍を湛えて低い山と山との間に静かに横わって居るのである。磯には雪の様な浪の動いているのも見ゆる。私は其儘其処の木の根につくねんと坐り込んで、いつまでもいつまでもこの明るくはあるが、大きくはあるが、何とも云えぬ寂びを含んだながめに眺め入った。富士の景色で私の記憶を去らぬのが今までに二つ三つあった。一つは信州浅間山の頂上から東明しののめの雲の海の上に遥かに望んだ時、一つは上総の海岸から、恐しい木枯が急に吹きやんだ後の深い朱色の夕焼の空に眺めた時、その他あれこれ。今日の船の上の富士もよかった。然しそれにもまして私はこの芝山の間に望んだ寂しい姿をいつまでもよう忘れないだろうと思う。
 風が冷く夕づいて来たのに気がついて身体を起すと、また此方側の麓には藍甕の様な海と泡だった怒濤とがあった。雑木のにそれを眺め眺め下りて行くと時雨らしいものが晴れた空からはらはらと降って来る。最初はほんとに時雨か霰かと思った。が、まことは風が浪の飛沫を中空に吹きあげて、それが思わぬあたりに落ちて来るのである。汐けぶりなどいう言葉ではとても尽されない、汐吹雪、汐時雨、しかもそれがいい加減に高い山を越えて降って来るのである。そして海と風とのどよめきが四辺を罩めている中に、ちちちちと木の葉の様な眼白鳥が幾つとなく啼いて遊んでいる。この小鳥もこの海岸には非常に多いらしい。
 私が異常な昂奮に自ら疲れて仁科村字浜町という漁村に着いたのはもう灯の点く頃であった。普通に歩けばその日のうちに充分松崎まで行けたのであるが、また行くつもりでもあったが、この附近の余りに景色のよさに諸所道草を食っていて斯うなったのであった。其処の鈴卯旅館というに泊る。

二月十一日。

 終夜怒濤を聞きながら睡りつ覚めつして朝早く起きて見るとよく晴れたなかに相変らず風が荒れて、日の丸の旗が惨めに美しく吹きはためかされている。紀元節なのだ。朝食をすますと風の中を犬の子の様にして散歩に出た。昨日通って来た海岸をもう一度見直し度かったからである。昨日の夕方、もううす赤くなりかけた夕日のなかを疲れ切って歩いて来ると片方かたえは麦畑になっている、とある路傍に思いがけなく怒濤の打ち上る音を聞いた。終日濤声に包れていたのであるから普通なら別に驚かないのだが通りかかった其処は左がやや傾斜を帯びた青い麦畑で右手海寄りの方は一寸した窪地を置いて直ぐその向うに小高い雑木林の丘がある許り、その附近暫く浪や海の姿に遠のいている場所であった。其処へ突然足許からどばーんというのを聞いたのだ。怪しみながら窪地の辺を窺いて見ると、一つの大きな洞穴がその雑木の丘の根にあいていて、その洞の中で例の浪が青みつ白みつ立ち狂っているのである。しかもその洞が外洋から如何どう通じているのか、打ち見たところどの方角からにせよ直径二三丁の距離を穿っているのでなくては浪は導けない地勢にある。私は痛い足を引きずりながら洞の側へ下りて行った。洞は次第に奥が広くなっているらしく、暗いなかに大小の浪が怪しい光を放ちつつ縦横に打ち合っているのであった。宿に着いてその話をすると、向う側は三所みところから洞になって入り込み中程で落ち合いながらこちらに抜けている、その中ほどの所には上からも大きな穴があいていてそれを土地の人は「窓」と呼んで居るという事であった。今日はその「窓」をも見たい希望であった。
 この浜町という所は――この附近全体がそうではあるが――恰も五本の指をひろげた様に細高い丘が海中に突出して、その合間あいま合間が深い入江となって居るという風の所である。で、一つの入江の浪打際を過ぎて丘を越ゆると思いもかけぬ鼻先はなさきに碇泊中の帆柱がゆらりゆらりと揺れていると云った具合だ。宿しゅく出外ではずれた所に御乗浜と呼ばれた大きな入江がある。その前面、即ち外洋に面した方には大小数個の島礁が並び立って、美しく内部を取り囲んで居る。風の無い日ならばどんなにか静けく湛えているであろうに今日はまた隅から隅まで浪とうねりとに満ち溢れ、宛ら入江全体藍の壺を揺りはためかす形となっている。路は崖を鑿って入江に臨んで居る。岩蔭に身をかがめて暫くその浪と島と風とに見入って居ると、駿河湾を距てた遥かな空には沖かけての深い汐煙しおけぶりのなかに駿河路一帯の雪を帯びた山脈がほの白く浮んで見えて居る。富士は見えなかった。
 洞穴に来て見ると昨日の通りに暗い奥から生物いきものの如く大きな浪が打ち出して居る。その「窓」というのへ行こうと其処等を探したが勝手が解らない。また一度路傍まで出て久しい間行人を待ったが流石に土地の人もこの風をば恐れたか誰一人通らない。見ると山際の麦畑の中に百姓家らしい唯だ一軒の藁屋が日を浴びて立って居る。四方森閑と締め廻してあるのでてっきり留守と思い諦めているとたまたま戸口があいて一人の老婆がちょこちょこと出て来て直ぐまた引っ込んだ。私はそれを見ると喜んでその一軒に登って行った。そして裾に吠えかかる小犬を制しながら庭に立ったまま戸口にはやや遠くから声をかけた。暫て先刻遠くから見たらしい老婆が着ぶくれた半身を現わしてさも不審そうに私を見て居る。私は口早に(犬が恐かったのだ)この路下の洞穴のほかにもう一つ附近に洞穴があるそうだが(矢張り犬のために窓という言葉を忘れていた)それにはどう行くかと訊くと、それには……と云いかけてそそくさと奥へ引っ込んで了った。そして今度は愛憎笑いの顔を出して、とにかくこちらへ入れという。犬に追われながら戸口を入って私も意外な思いをした。唯だの百姓家とのみ思い込んでいたのに、中に入って見ると其家は何かの御堂であった。土間の左手はささやかながら物寂びた本堂、正面の所が庫裡――と云っても長四畳程の小さな部屋で、中に切られた炉には赤々と焚火が燃えていた。そしてその囲炉裡の正面には小机を置いて六十歳あまりの和尚らしい人が坐り、同じく不審そうに私を見迎えていた。
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雪の天城越





幾年か見ざりし草の石菖の青み茂れり此処の渓間に
 乗合自動車の故障の直されるあいだ、私はツイ道ばたを流れている渓の川原に降り立って待っていた。洪水のあとらしい荒れ白んだ粒々の小石の間に伸びている真青な草を認めて、フト幼い頃の記憶を呼び起しながら摘み取って嗅いで見ると正しく石菖であった。五つ六つから十歳位いまでの間夏冬に係らず親しみ遊んだ故郷の家の前の小川がこの匂いと共に明らかに心の底に影を浮べて来た。私の生れた国も暖い国であるが、なるほどこの伊豆の風物は一帯に其処に似通っている事などもなつかしく思い合わされた。
 まだ枯葉をつけている櫟林や、小松山や色美しい枯萱の原などを、かなり烈しい動揺を続けながらこの古びた乗合自動車は二時間あまりも走って、やがて下田街道へ出た。其処で私だけ独り車と別れた。車は松崎港から下田港へ行く午後の定期であったが、私は下田とは反対の天城の方へ歩こうというのであった。
 裾を端折って歩き出すと、日和の暖かさが直ぐ身に浸みた。汗が背筋に浮んで、歩かぬさきから何となく労れた気持ちであった。時計は午後の三時すぎ、今夜泊ろうと思う湯が野までは其処から四里近い道と聞いて、少し急がねばならぬ必要もあった。
 梅が到るところに咲いていた。ことに谷向うの傾斜畑の畔に西日を受けて白々と咲き並んでいるのが何れも今日の日和に似つかわしく眺められた。暖くはあるが、はっきりと照らない日ざしに今をさかりらしいこの花の白さは一本一本静かな姿で浮き出しているのであった。
 同じ湯が野まで帰るという荷馬車屋と道づれになった。少し脚を速めて行って、矢張り少しは夜に入ろうという。そう聞けばなおこの荷馬車を離れるのが心細く、一生懸命に急いで彼に遅れまいとした。木炭を下田まで積み出しての帰りだということで、炭の屑が真黒に車体に着いていたが暫て私は彼の勧めて呉れるままにその荷馬車に乗ってしまった。二十歳前後の口数少い荷馬車屋は、そう勧めると同時に馬車を留めておいて田圃の中へ走り出したと見ると其処の積藁の中から一束の藁を抱えて来て炭屑の上に打ち敷きながら席を作って呉れた。労れ始めた身には、そんな事が少からず嬉しかった。その藁の上に尻を据えて、烈しい動揺に耐えながら、膝を抱いて揺られて行くとまったくそのあたりは梅の花の多いところで、山の襞田圃の畔到るところにほの白く寂しい姿を見せていた。
 長い長い坂を登りつくして、山の頂上らしい処で一つの隧道を通り過ぎると、思いもかけぬ大海が広々と見渡された。そしてツイ眼下とも云いたい近くに一つの島が浮んでいた。驚いて名を訊くと、あれが伊豆の大島だという。いかにも、ほのかに白い煙が島のいただきに纏り着いている。島全帯が濃い墨色に浮んでいるので、このかすかな火山の煙がよく眼立つのであった。
「明日は雨だよ」
 と若い馬車屋は云う。斯う島が近く明かに見えると必ず降るのだそうだ。
 また長い長い坂を降りる処があった。右手下、海に近い処に遥かに電燈らしい灯の集りが見下された。河津の谷津温泉だという。少し行くと更らに前方に一団の灯影が見えて来た。それが今夜泊ろうとしている湯が野温泉であるのであった。
 とっぷりと暮れてその渓間の小さな温泉へ着いた。若者に厚く礼を云って別れ、その別懇だという宿屋へ寄って、やれやれと腰を伸した。荷馬車に乗ったのは生れて初めての事であったが、併しそれに出会わないとすると案外に山深い街道の独り夜道となる処であった。
 困ったことに私の通された部屋の真下が共同湯の浴場となっていた。多分先刻の若者なども毎晩此家に入浴に来る処から此家と親しくしているのであろうが、その喧騒と来たら実に烈しいものであった。しかも夜の更けるに従って温泉の匂いとも人間の垢の匂いともつかぬ不快な臭気がその騒ぎと共に畳を通して匂って来て愈々眠り難いものとなった。止むなく私は出立の時東京駅の売店で買って来た西洋石鹸の香気の高いのを思い出してそれを枕の上に置き、やがて鼻の下に塗り込む様にして臭気を防いだ。
 眠り不足の重い気持で翌朝早くその宿を出た。見廻すとまったく山蔭の渓端に小ぢんまりと纏り着いた様な温泉場であった。自分の泊ったのよりずっと気持のよさそうな宿屋が他に一二軒眼についた。
 温泉場の裏から直ぐ登り坂となっていた。一里二里と登って漸く人家も断えた頃から思いがけない雪が降り出した。長い萱野の中の坂を登って御料林の深い森の中に入る頃には早や道には白々と積っていた。立枯になった樅、掩い被さる様な杉の木などの打ち続いた森の中に音もなく降り積る雪の眺めは美しくもあり恐ろしくもあった。峠に着いた時には既に七八寸の深さとなっていたが其処の茶屋で飲んだ五六合の酒に元気を出して留めらるるのを断りながら終にその日、天城山の北の麓に在る湯が島温泉まで辿り着いたのであった。その渓端の温泉も無論円やかに深々と雪を被っていた。真白に濡れながら上下七里の峠道を歩き歩き詠んだ歌二三首をかきつけてこの短い紀行文を終る。
冬過ぐとすがれ伏したる萱原にけふ降り積る雪の真白さ
大君の御猟みかりにはと鎮まれる天城越えゆけば雪は降りつゝ
見下せば八十渓に生ふる鉾杉の穂並が列に雪は降りつつ
天城嶺の森を深みかうす暗く降りつよむ雪の積めど音せぬ
岩が根に積れる雪をかきつかみ食ひてぞ急ぐ降り暗むなかを
かけ渡す杣人がかけ橋向つそばにつづきて雪積める見ゆ





底本:「みなかみ紀行」中公文庫、中央公論社
   1993(平成5)年5月10日発行
底本の親本:「みなかみ紀行」書房マウンテン
   1924(大正13)年7月
※「陰」と「蔭」、「着いた」と「著いた」、「背」と「脊」、「舟」と「船」、「湯ヶ島」と「湯が島」の混在は、底本通りです。
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校正:岡村和彦
2017年7月11日作成
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●表記について

「てへん+亥」、U+39E1    128-10、130-11、132-11、140-3、141-9


●図書カード