硯友社の勃興と道程

――尾崎紅葉――

内田魯庵




一 飯田町の中坂――馬琴と「まどき」と思案外史


 震災で破壊された東京の史蹟のその中で最もおしまれる一つは馬琴ばきんすずりの水の井戸である。馬琴の旧棲きゅうせいは何度も修繕されてほとんど旧観をうしなってるから、崩壊しても惜くないが、台所口だいどころぐちの井戸は馬琴の在世時のままだそうだから、埋められたと聞くと惜まれる。が、井戸だからかわらや土砂で埋められても旧容を恢復かいふくするのは容易である。
 この馬琴の硯の水の井戸は飯田町の中坂なかざかの中途、世継稲荷よつぎいなりの筋向いの路次ろじの奥にある。中坂といっても界隈かいわいの人を除いては余り知る者もあるまいが、九段くだんの次の険しい坂である。東京のジオグラフィーを書くものは徳川三百年間随一の大文豪たる滝沢馬琴の故居の名蹟としてのこの中坂を特記する事を忘れてはならない。
 馬琴は二十七、八歳、通油町とおりあぶらまち地本じほん問屋蔦屋つたや重三郎の帳面附けをしていた頃或人の世話で中坂の下駄屋で家主なる寡婦の入夫となった。ようやく高名となってからは下駄屋をめて手習てならい師匠となり、晩年には飯田町の家は娘に婿を取って家主の株を継がせ、自分はせがれ宗伯そうはくのために買った明神下みょうじんしたの家に移って同居したが、一生の殆んど大部分は飯田町に暮したのだ。
 九段の長谷川はせがわ写真館の真向まむかいを東へ下りる坂の下り口の北側が今では空地あきちとなってるが、この空地をはずれて二、三軒目にツイ二十年前まであった小さな瀬戸物屋が馬琴の娘の婿の家で、今でも子孫が無商売しもたやでこの裏に住んでるそうだ。この路次裏の井戸が即ち馬琴の硯の水で、文芸の理解のない官憲も馬琴の名だけは知っていたと見えて、数年前から東京史蹟の高札が建てられた。王侯将相よりも文豪の尊敬される欧羅巴ヨーロッパならとっくに日本の名蹟とし東京の名誉とした飯田町の誇りとして手厚く保管し、金石にろくして永久に記念されべきはずであるが、戦場で拾って来た砲弾の記念碑を建てる事を知っていても学者や文人の墓石は平気で破壊するを少しも怪まない日本では、縦令たとい高札を建てても何時なんどきこの貴い古井戸を埋めてしまわないとは限らない。が、この古井戸がどうなろうとも、この中坂はグレート馬琴が半生を暮した故居の地として永久に記念されべき史蹟である。
 不思議にもこの中坂は文豪馬琴の史蹟であると共にまた、明治の文学史に一エポックを作った硯友社けんゆうしゃの発祥地でもある。
 中坂上の南側に秀光舎という印刷所がある。この秀光舎の前身は同益出版社といって、今から四十年前に小説復刻の元祖たる南伝馬町てんまちょう稗史はいし出版社に続いて馬琴の『俊寛僧都しゅんかんそうず島物語』や風来ふうらいの『六々部集』を覆刻したので読書界に知られた印刷所であった。この工場と相対むかいあってる北側に、今は地震でくずされて旧観をあらためてしまったが、附属の倉庫の白壁の土蔵があった。硯友社という小さな標札がこの土蔵の戸口に掛ったのがタシカ明治二十一年夏の初めであった。もっとも『我楽多がらくた文庫』はそれより二タ月前頃から公刊されていたが、飯田町の国学院大学の横町の尾崎の家を編輯所兼発行所としていた頃には誰にも余り知られなかった。人通りの多い中坂上に看板を掛けてから初めて行人の目をいた。
 馬琴の後裔あとだという瀬戸物屋はここから僅か十二、三軒目であった。馬琴が江戸一の作者として盛んに鳴らした頃は手習師匠であったし、家主であったし、殊にあれだけの学問見識があったのだから、馬琴の清右衛門は必ず町内の学者でもあり口利くちききでもあったに相違なく、硯友社の札を掛けたあたりは大方おおかた清右衛門の世話になっていたろうと思う。少くも硯友社は馬琴の下駄のあとを印し馬琴の声を聞いた地に育ったので、幽明相隔つるといえ、馬琴と硯友社とはいわば大家おおや店子たなことの関係であった。
 更にこの中坂についてう一つ記憶すべき事がある。その頃の『読売新聞』の投書欄は当時の唯一の文芸場であって、前島和橋まえじまわきょう南新二みなみしんじ琴通舎康楽きんつうしゃやすら高畠藍泉たかばたけらんせんというような当時の名流が盛んに寄書して紙面をにぎわしていた。就中なかんずく、最も軽い諷喩ふうゆと円転自在の名文で聞えたのが中坂まどきであって、「まどき」の名は当時の『読売新聞』の読者の間に喧伝された。この「まどき」というは偕行社かいこうしゃ真裏まうらに当るの世継稲荷よつぎいなりの奥の代用小学校の持主で本名を中川真節といった。「まどき」は最う三十年も前に死んでしまったが、当時の『読売新聞』投書欄の愛読者は今でも「まどき」の名を記憶しているだろう。
「まどき」が盛んに『読売』の投書欄を賑わして殆んど独擅場どくせんじょうの観があった頃、中坂思案外史の名がポツポツ投書欄に見え出した。時としては飯台思案外史とも称していた。「まどき」の老熟には及ばなかったが、折々心憎い事をいうので読者の注意を牽いた。同じ中坂だから「まどき」の弟分おととぶん弟子でしじゃなかろうかといううわさもあって、「まどき」の名が盛んなるにれて思案外史の名もまた段々と聞えて来た。
 しかるに二十一年の五月の末『我楽多文庫』の第一号が創刊されたのを早速買って見ると、その巻頭の辞を書いたのが誰あろう思案外史であった。その頃中坂下に住んでいて朝夕この界隈を散歩した私は馬琴の瀬戸物屋の前を通って文豪をしのぶと共に中坂という名に興味を持ち、この中坂を冠する思案外史は中坂の何辺どこらあたりに住んでる人だろうと揣摩しまし、この思案外史の巻頭の辞を載せた『我楽多文庫』をもやはり中坂に縁があるように思っていた。
 すると文庫が創刊されてから二、三カ月目、ふと或る夕方中坂上を※(「彳+淌のつくり」、第3水準1-84-33)※(「彳+羊」、第3水準1-84-32)ぶらついていると、偶然見附けたのが硯友社の標札であった。硯友社が如何なる人の団体だとも、思案外史が如何なる人であろうとも考えないで、ただ何かなしに行衛ゆくえを知らなかった未見の友の有処ありかを突留めたような気がして会心の微笑を禁じ得なかった。
 これより先き数年、今は電車通りの裏となってる神保町じんぼうちょう筋の今川小路いまがわこうじに武蔵屋という絵双紙屋があった。その頃は専門の雑誌屋がなくて絵双紙屋で雑誌を売っていた。いたって貧乏なケチな店だったが、『金毘羅利生記こんぴらりしょうき』を出版してマンマと失敗した面胞にきびだらけの息子むすこが少しばかり貸本屋かしほんや学問をして都々逸どどいつ川柳せんりゅうの咄ぐらいは出来た。この店先きで折々邂逅であう五分刈の大きな頭の近眼鏡をギラギラ光らした青年があった。いつでもドッカと腰を落付けてはしきりに都々逸や川柳の気焔を揚げていた。何処どこの人か知らぬが、雑誌や新刊書を何でもれなく読む人だと感心して、いつでもその気焔咄を謹聴していた。
 一度会ったら忘れる事の出来ない特徴のある人だから、その後往来で摺違すれちがたびにアノ人だなと思った。が、こっちはく覚えていても、先方むこうの眼中には背の低い児供こども々々した私が残ってるはずがないから、何度摺れ違ってもツイぞ一度顔で会釈した事さいなかった。勿論、口を利いた事はなお更なかった。
 ところがその後、予備門(今の高等学校)の生徒控室でゆくりなくもこの五分刈の巨頭君にって、喫驚びっくりしてひそかに傍人にいて、初めてこれが石橋助三郎という人であると教えられた。が、これが音に聞く中坂思案外史だとはマダその時は知らなかった。
 一体私はすこぶる臆病な青年であって、人から話し掛けられれば知らず、自分から進んで口を開く事は決してなかった。それ故、その後何度も顔を見ても、気焔咄を恐る恐る傍聞しているだけで、益々ますます都々逸や川柳にくわしいのを感服したが、『読売』の投書欄でお馴染なじみの中坂乃至ないし飯台思案外史をこの五分刈の巨頭君に結びつけて考える事は出来なかった。その頃は何かなしに新聞に投書でもする人は世故にもけ文章にも長じた中老人だとばかり思っていたから、中坂思案外史も伯父おじさん分に当る年配の人だとばかり信じ切っていた。
『我楽多文庫』が公刊された時、早速買って来て第一に眼に留ったのが思案外史の巻頭の辞であったが、硯友社が私とほぼ同齢の青年の団体だとも、思案外史が二、三年来度々邂逅であう巨頭の青年だとも少しも知らなかった。これを知ったのはそれより二、三年後であって、アレが思案外史かと知った時は唖然あぜんとして、道理こそ都々逸に精しい人であると思った。
 思案外史はその頃中坂から一丁半ばかり、富士見町ふじみちょうの裁判所の横手の、今は暁星ぎょうせい中学校の構内に囲込かこいこまれた処に住んでいたから、中坂というは少し無理だが、馬琴がしばしば飯台蓑笠漁隠さりゅうぎょいんと称した如くに飯台をいただく因縁は持っていたのだ。

二 『我楽多文庫』


 思案外史の巻頭の辞を首途かどでの祝言として鹿島立かしまだちした『我楽多文庫』は四六倍判十六頁の表紙なしの畳放たたみぱなしで、今はすたれてるがその頃流行はやった清朝せいちょう活字の四号刷であった。無装飾のスッキリした、少しも体裁を飾らない、微塵みじん忌味いやみッ気がない江戸前の雑誌であって、正札附金三銅が貧乏書生に取ってはことうれしかった。
 一日絵双紙屋の店をのぞかないと気持が悪るかった私は、文庫が店頭にならんだ当日早速買って来た。全部に若々しい生気があふれていたのは何となく共鳴を感じたが、世間を一向知らない私は前にもいう通りこういうものを書く人は皆世の中のいも甘いも噛分かみわけた中年以上の通人だとばかり漠然ばくぜんと思って、我々同年配の青年の団体とは少しも想像しなかった。だが、巻頭の辞から広告社告の末まで一字も余さず読んで行く中に、硯友社の社則がその頃の青年の集会の会規と何処どこかに共通点があるのを発見して、おぼながらも割合に若い人たちの集団であると気が付いて、どうしてこんな巧い事をいえるだろうと益々ますます感服した。
 硯友社の異宗門たる私は『我楽多文庫』の前世紀の歴史については何も知らないが、第一号の思案の巻頭の辞にると、五カ年以前狂文の羽檄うげきを四方に飛ばして同好の勇士を狩集めとあるから、私が初めて絵双紙屋の店先きで巨頭の青年思案外史の博覧に驚かされた頃には最早もはや成立していたのだ。「字は大篆だいてんの読みにくく絵は丹緑たんろくのあどけない」回覧雑誌として第一号を発表したのが明治十八年の五月二日で、九号から謄写版と改めて十七号を重ねたというから、いよいよ街頭に立つまでの陣容を整えるにはかなりの長い準備を要したので、たびつやたちまち疾風枯葉を巻くが如くに文壇を切捲きりまくったのも当然である。
 文庫の連名中、思案と共に世間に知られていたのは美妙斎であった。美妙の名は思案のように早くから売れていなかったが、その「武蔵野」は天才の出現のように迎えられた。紅葉もまた『読売新聞』の寄書家の一人であったが、才幹はマダ認められなかったので、三人の社幹の中では美妙斎の名が世間的には最も重きをなした。
 が、紅葉の才気は第一号以来の「風流京人形」に早くも現われて、水際立みずぎわだった文章のえが一段引立って見えた。かつ隅から隅まで万遍まんべんなく行渡った編輯上の努力の跡が歴々ありありとして、一座の総帥たる貫録が自ずから現われていた。
 が、一日早く売出していた美妙斎の「情詩人」はやはり一番評判となった。殊に当時の女学生間にはこの為永ためなが今様いまようとしたような生温なまぬるい恋物語が喜ばれて、「わたしの心はこの胡椒こしょう……みくだいて粉にしてかおりを見て下さるなら……」というようなキザな文句が若い女に喜ばれて暗誦あんしょうされたもんだ。が、紅葉の努力は全幅ぜんぷくあふれていたが、美妙斎の色彩は小説以外にはすこぶ稀薄きはくであった。美妙斎が冷淡であった、紅葉が一人で掻廻かきまわしていた乎、どっちか知らぬがどの道『我楽多文庫』には美妙斎の気分が少しも現れていなかったから、自然文庫の読者には紅葉の印象が次第に濃くなった。その中に美妙斎はリューマチスと称して第六号からは小説を休載し、その後九号と十一号とにちょっと顔を出したぎりで何時いつとなく分離してしまったから、美妙斎と硯友社との関係はあった乎なかった乎忽ち世間から忘れられてしまった。
 が、美妙斎と思案と紅葉とがそもそもの創立者であったのは第一号に載ってる百名近くの社員の面々が各々紹介者があるに反して、三人に限って紹介者がないのでも明らかである。ツマリこの三人が硯友社の創立発起人でありかつ無限責任者であったが、如何なる理由があった乎して美妙斎は創刊匆々そうそう無限責任を忘れて忽ち分離してしまった。
 もっとも両雄並び立たずで、紅葉はもとより美妙の指揮を仰ぐを欲しなかったろうし、美妙は一歩を先んじて乗出した一日の長を頼んでいたに相違なく、ドチラにも同感すべき事情があったと思うが、く紅葉の政治的才幹が硯友社を結束し、美妙が忽ちそむいて孤立したのが二者の成功を著るしく懸隔さした一つの原因であった。
 文庫創刊当時の硯友社員はほとんど百名近くを算した。その中には一時大阪で盛んに人気をかして弦斎げんさい以後の全盛を極めた渡辺霞亭わたなべかていの旧名朝霞や、不幸にして早世して今では殆んど忘れられた慶応出身の小説家井上笠園いのうえりゅうえんや、達摩だるま蒐集家しゅうしゅうかとして奇名隠れなかった理学士西芳菲山人の名が見える。が、紙面に載ってるのはことごとく匿名だから、誰が誰であるか今では模索しがたい。が、万更まんざらくすのきの藁人形らしくもなかったので、今なら大方後援者とか維持会員とかいうような連中であったろう。ツマリこういう多数の応援隊を作ってフレエフレエと盛んに旗を振らしたのは紅葉の才幹であって、硯友社がメキメキ文壇に勢力を伸して行ったのはこれらの多数の応援隊の社会的潜勢力に負う処が少なくなかったのである。
 が、実際に文庫の編輯にあずかっていたのは楽屋がくや小説の「紅子戯語こうしけご」に現れる眉山びざんさざなみ、思案、紅葉、つきまどか香夢楼緑かむろみどり、及び春亭九華しゅんていきゅうかの八名であった。漣は紅葉美妙と並んで第一号から小説を載せ、硯友社の麒麟児きりんじたる才鋒さいほうを早くから現わしていた。
 が、この八名中、美妙は社幹という条、初めから関係が薄かった。円と緑は余り振わないで殆んど存在を認められなかった。九華は初めの中こそ新体詩をひねくって、妖怪ばけものを持出すので新体詩壇の李長吉りちょうきつと同人間に称されていたが、高商卒業後は算盤そろばんが忙がしくなって、何時いつにか操觚そうこを遠ざかってしまった。それ故実際に硯友社の基礎を固めた元勲ともいうべきは紅葉、思案、漣、眉山の四人であって、水蔭すいいん乙羽おとわ柳浪りゅうろうやその他の面々は硯友社の旗幟きしが振ってから後に加盟したので、各々一、二年乃至数年遅れていた。
『我楽多文庫』は第十号から京伝きょうでん馬琴種彦たねひこらの作者の印譜散らしの立派な表紙が付き、体裁も整った代りに幾分か市気を帯びて来た。が、だ放縦な駄々ッ子的気分が何処どこかに残っていたが、第十七号以後ただの『文庫』と改題してからは世間並のただの雑誌となってしまった。我楽多を標榜した頃には我楽多の分子が混っていた代りに生気にちていたが、我楽多を取ってしまってからはキチンと締った代りに市気を帯びて若々しい活気が段々稀薄になった。この『文庫』も一年かそこらで廃刊となり、それからしばらくしてから『千紫万紅せんしばんこう』という新らしい名で更に発行されたが、この『千紫万紅』は硯友社よりもむしろ紅葉一個の機関であって、編輯から印刷から体裁から全部に渡って紅葉好みの贅沢ぜいたくな元禄趣味が現われ、内容も一と粒選つぶえりで少しも算盤気そろばんけがなく、頗る垢抜あかぬけがして気持がかったが、余り算盤気がなさ過ぎて、初めから永続しそうもなかった。果して三、四号で永遠の休刊となった。
 この外に文庫の出店でみせというような雑誌があった。柳浪が主宰した『小文学』と『江戸紫』と、水蔭が編輯した『小桜縅こざくらおどし』であって、いずれも明治二十五、六年頃の発行であった。この『小桜縅』から田山花袋たやまかたいが出身したはうぐいすの巣から杜鵑ほととぎす巣立すだちしたようなものだ。
 今から顧みるとまるで夢のようだ。若い花々しい火花が出るような元気の紅葉は三十七の壮齢でもろくも消え、光源氏のように美くしかった紅顔の眉山は思掛おもいがけない悲惨の最後を遂げ、水蔭は芝居と相撲すもうに隠れ、柳浪は息子さんがえらくなって楽隠居してしまった。漣は早くから小説の筆を絶ち、小波さざなみ伯父さんとなって揮毫きごうとお伽講話とぎばなしに益々活動しているが、今では文壇よりはむしろ通俗教育の人である。巻頭の辞を書いた思案外史は早くから表面の活動よりは縁の下の力持の役廻りをして、乙羽なき後の硯友社の総務として『文芸倶楽部ぶんげいくらぶ』の一角に巨頭を振っていたが、数年前から宿痾しゅくあのために全く文壇を隠退してしまった。

三 硯友社の当時の生活――「紅子戯語」


 当時の硯友社の生活を知るには『我楽多文庫』の十号から十三号へ掛けて連載された紅葉の「紅子戯語こうしけご」を見るにくはない。硯友社員も文学を本職とするようになってからはやはり塩酢に追われて、中には随分辛い浮世の塩をめさせられた人もあったが、その看板を掲げたそもそもの初めは皆学生籍の若旦那株であって、真面目まじめ臭って文学というものの実は道楽であったのだ。第一号の広告面に或る人々の連名で、「拙らへ文芸上に関し御用の諸粋兄は爾来じらい硯友社へ御文通あられましょうッ、オホン」という広告が載っておる。第三号には、硯友社員ではないらしいが露の屋尾花という人の改名披露が載っておる。「今般去る貴婦人のもとめに応じグットつやッぽく露の家尾花と改号」云々という文である。先ず万事がこういった素豆腐すどうふ式若旦那調子で、雅号を見ても素晴らしいのになると「唖連美也散生あれみやさんせ」というような歯の浮くようなのがある。頭株あたまかぶの数人を除いたら手もなく「親釜集おやかましゅう」連で、今なら葉書集の投書家程度であった。尤もこれらは硯友社員という条、フレーフレーと応援する旗振連中はたふりれんちゅうであった。
 が、硯友社を知るにはその頃の文壇の調子を考えなければならない。当時は一切の旧文化が維新の革命で破壊され、京伝や馬琴の流を汲んだ戯作者の残党が幇間ほうかん芸人と伍して僅かに余喘よぜんを保っていたのだから、偶々たまたま文学勃興ぼっこうの機運が熟してもかれらはその運動に与かる力がなくて、勃萃ぼっすい無味なる政治小説や半熟未成の翻訳小説の跋扈ばっこするままにまかしていた。いわば当時の文壇は何にも知らないシロウトが白粉おしろいを塗って舞台に踊り出し、巡査が人民をさとすような口調くちょうで女の声色こわいろつかったり政談演説をしたりするようなものばかりで、多少でも文芸の造詣あるものはこの滑稽こっけい田舎いなか講談を馬鹿々々しくて聞いてられなかった。硯友社はこういう時代に起ったので、当時の政治家どもが未熟な政治的空想をでっちて小説家顔するを片腹かたはら痛く思って、これに反抗して化政度の新らしいレネイサンスの運動を起そうとしたのだ。紅葉が元禄復興を唱えたのは研鑽けんさんの歩を進めた数年後であって勃興当初はやはり化政度の復現であったのだ。
 硯友社の調子が初めから如何にも軽くて浮わついて見えたのは、一つは当時文壇に重きをなしたユーゴーやジスレリーの翻訳小説にれた眼で見較みくらべられたからであるが、一つは硯友社の芸術至上が京伝三馬さんば系統の化政度戯作者気質かたぎに即して、とかく世間を茶にして浮世うきよぶん五厘と脂下やにさがるテンと面白笑止おかしき道楽三昧ざんまいに堕したからである。渠らの把持した芸術至上は必ずしも誤まっていなかったが、新らしい文芸を叫びつつも時代遅れの化政度の戯作者生活をお手本にしたのが誤りであった。尤もその頃は英国文学ですら殆んど理解されていなかった。日本の小説戯曲でさえ京伝馬琴以前は余り読まれていなかった。この時代の硯友社の作風や態度を仏蘭西フランス露西亜ロシアの近代作家に対するような心持で批評するのは時代を無視する色盲である。
 元来都会生活には今も昔も通有のデカダン気分がある。殊に徳川末季の江戸生活には三百年の太平に弛緩しかんした廃頽はいたい気分が著るしく濃厚であって、快楽主義の京伝や三馬の生活が遊戯的であったは勿論、道学のかたまり仁義忠孝の化物ばけもののような馬琴すらも『仇討義理与犢鼻褌かたきうちぎりとふんどし』というような、外題げだいを見ても内容が察しられる意外の遊戯的な作を何篇も作っておる。この浮世三分五厘と脂下って世間を茶にする江戸作者の洒落しゃらくな風は江戸の文化に親しむものの大部分が浸染していたので、あながち硯友社のみに限らなかった。一と頃根岸党と歌われた饗庭篁村あえばこうそん一派の連中には硯友社に一倍輪を掛けた昔の戯作者げさくしゃ気質があった。今でこそ謹厳方直な道学先生となって門下に煙がられている坪内つぼうち博士も、春廼舎朧はるのやおぼろ時代にはやはりこの気分が濃厚であったのは雅号でも推量おしはかられよう。その頃から露西亜の深酷な苦鹹くかんの文学を味得して、風采人品からいっても微塵みじん戯作者気げさくしゃけのなかった二葉亭でさえも半面にはまたこの気分をかなり多量に持っていた。看方みかたよってはこの遊戯気分が都会文芸の一要素となってるので、永井荷風ながいかふう小山内薫おさないかおるや夏目漱石の提撕ていせいを受けた三田派や人生派の芸術も著るしくこの戯作者的気分を持っている。強ち硯友社ばかりが戯作者風ではなかったのだが、硯友社は思う存分に傍若無人にこの気分を発揮したので、硯友社が単独ひとりで戯作者のそしり背負せおってしまった。が、この何者にも制肘せいちゅうされない放縦な駄々ッ子的気分が当時の文学好きの青年の共鳴をくに十分力があった。
「紅子戯語」には当時の硯友社の生活がけるが如くに描かれ、幹部の八人の※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ふうぼう動作が紙上におどり出している。若き紅葉の技倆を見るべき傑作の一つであるが、それ以外にこの作はこの理由で後世文学史家の資料とすべき意味深いものである。が、ここにはこの中の一、二節を引いて記述する間緩まだるこい真似まねをするよりは手取早てっとりばやく渠らの生活の十分現れてる松岡緑芽まつおかりょくがの挿画を示すが早手廻はやてまわしである。緑芽もまた硯友社員で当時は仏法科の学生であった。卒業後間もなく、千葉の裁判所に在任中早世して余り現れなかったが、画才があってキャリケーチュアに長じていた。八人の風※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)が活き活きとして、若い花やかな世間を茶にする気分が全幅に漂うておる。
「硯友社の楽屋(劇雅堂緑芽画)」のキャプション付きの図
硯友社の楽屋(劇雅堂緑芽画)

 が、その頃の渠らは皆学生籍にあった。この放縦な生活が如何に学校当局者の眼に映じたかは第四号の広告に歴然と現われておる。思案は「この度某学校を退学し以来は専ら文庫の編輯に従事す」と披露し、前記の劇雅堂緑芽と紅葉とは「当号限り退社す」と広告して、編輯人尾崎徳太郎の名を除いた。が、尾崎徳太郎は退社しても紅葉山人は依然社幹の名を列ねて小説を続載していたので、裏面の消息はこの広告の中に明かに読まれた。

四 文士劇の先駆、黄鶴楼の芝居


 判然はっきりとは覚えないが、たしか二十三年の春であった。小石川水道端こいしかわすいどうばた黄鶴楼こうかくろうで硯友社の芝居があった。黄鶴楼というはその頃区長をした小石川の素封家佐藤氏の邸で、氏の子息が硯友社員であった関係から借りたのである。無論、劇についての特別の抱負があったわけでなく、いわば夷子講えびすこうの茶番のようなものであったが、く文士劇の先駈せんくをしたので、何事にも新らしい試みに率先した当時の硯友社の意気をうかがう事が出来る。
 今なら舞台監督兼作者となったのが水蔭で、一番目の『つも怨切子燈籠うらみきりこどうろう』という半世話物の仇討劇あだうちげきも二番目の何とか太平記といった大塔宮だいとうのみや吉野落よしのおちを材とした一幕物も皆水蔭の書卸かきおろしであった。水蔭は舞台監督と作者とを兼ねた上に尾上おのえ江見蔵と名乗って舞台にも登場した。水蔭は今では専門劇作者となってるが、この時分からの劇道熱心家であった。
 黄鶴楼の庭前に作った仮舞台かりぶたいと面して見物席にてたのは二タつづきの大広間であって、二、三百人のお客がギッシリつまった。森槐南もりかいなん依田学海よだがっかいというような顔振れも見えたが、大部分は若い女で、紅葉さん漣さんというなまめかしい囁※ささやき[#「口+需」、U+5685、205-5]其処そこにも此処ここにもれて、硯友社この夜の人気は当時の花形たる家橘かきつ染五郎そめごろうを圧していた。
 その晩のきりが『花競八才子はなくらべはっさいし』という題で、硯友社の幹部の面々が町奴まちやっこ伊達姿だてすがたで舞台に列んで自作の「つらね」を掛合かけあいに渡すという趣向であった。花道はなみちから八才子が六方ろっぽうを踏んで現れるという花々しいに、どうしたものだかお約束の素足すあしの下駄穿きを紅葉だけが紺足袋を脱ぐのを忘れていた。見物席のそこらここらから笑い私語ささめく声が聞えたが、有繋さすがは紅葉である、少しも周章とっちらないで舞台へ来ると、グルリと後ろ向きになって悠然ゆうぜんとして紺足袋を脱いだ。「これだからシロウトは面白いよ、」と学海先生はおおいに悦に入っていた。
 無論内輪うちわの催しであったが、学海翁が『読売』で劇評を発表したのでパッと評判となって、この次には是非切符をもらいたいというものが多勢あった。が、それから後は社内の余興的の催しは一、二度あったそうだが、半公開的に大袈裟おおげさに催したのはただ一回ぎりであった。
 黄鶴楼劇は前にもいった通り格別抱負があったわけではなかった。が、当時の作者兼俳優兼舞台監督たる水蔭は本より紅葉もまた早くから劇の興味を持っていたので、今に脚本を書く書くと常にい云いした。紅葉が今少し長生きしたら小説よりは脚本にヨリ以上成功したろう。最後の落付き場はあるいは劇作家であったかも知れない。

五 『新著百種』――薄倖の作家北村三唖と天才露伴の『風流仏』


 硯友社の世間に乗出したのは『我楽多文庫』であったが、その芸術を認められて文壇の位置を確立したのは『新著百種』であった。
『新著百種』を語る前に先ず発行者たる吉岡哲太郎を紹介しなけりゃならない。吉岡は水産局の技師として十五、六年前に物故したが、東大出身の化学専攻の理学士であった。科学者に似合わぬ経紀の才があって、大学を出ると直ぐ出版業を経営した。吉岡の業績について特記すべきは
“The Student”
の発行である。英語書生対手あいて啓蒙けいもう的な語学雑誌であったが、やはり当時の欧化熱が産出したもので、日本人の手に成った外国語雑誌の開山である。一時はかなりな部数が出て、和田垣博士の赤壁賦せきへきのふや忠臣蔵の英訳が青年読者の評判となった。佐藤顕理ヘンリーといっても今は余り知る人もなかろうが、一時は英文家として鳴らした佐藤顕理が世間から認められたのもこの雑誌の寄稿で、安鶴伝あんつるでんというのが取材が面白いので評判された。今では国民競技となってる野球や庭球の方式を当時の高等学校の教師たる英人ストレンジの筆で初めて教えられたのもまたこの雑誌であって、当時の英語書生は皆この雑誌を愛読したもんだ。  吉岡は出版業のかたわら私立学校の教師をしていた。学校で英文の講義や輪講をしながら生徒に向って、「ただ講義や輪講をしたって詰らんから毎日済んだ処を諸君が代る代る飜訳して見ちゃどうだ。出版すりゃ牛肉ぐらい喰えるぜ、」などといったもんだ。レムゼンの化学を自分で飜訳して自分で出版し、自分の学校の生徒の参考書として売付けたりした。
 こういう商売人はだの男だったから早くも紅葉初め硯友社の奇才に目をつけて『新著百種』を思い立った。尤も初めは政治、宗教、哲学、科学、工芸、美術、何くれとなく多方面にわたった叢書そうしょを作るツモリで、小説一方と限ったわけではなかったのだ。仮に小説を中心とするにしても各方面の作家を網羅もうらする計画で、硯友社叢書とするツモリはなかったのだ。が、尾崎の派手な創作が予期以上の人気を博したために自然と尾崎の意見が重きをなして、何時いつにか硯友社の機関のようになってしまった。
『新著百種』の第一篇たる『色懺悔いろざんげ』は紅葉の出世作であった。『色懺悔』以前、紅葉の奇才は既に認められていたが、世間の人気を一時に沸騰さしたのは『色懺悔』であった。欧化主義の反動が文学上にも及ぼして安価なシャボン臭い政治小説や人情小説が飽かれて来た時だったので、『色懺悔』というような濃艶な元禄情味をしたたらした書名が第一に人気に投じて、内容はさしてすぐれたものではなかったが、味淋みりん鰹節かつおぶしのコッテリした元禄ばりの文章味が読書界を沸騰さした。さしもに飛ぶ鳥を落す勢いの美妙斎の人気も一時にガタ落ちがして、紅葉露伴ろはんが取ってこれに代ったのは、畢竟ひっきょう欧化主義と国粋主義との勢力消長に原因しているので、あながち紅葉と美妙斎との芸術的優勝劣敗ではないのである。
 先陣の紅葉が先ず花々しい勝名乗かちなのりを挙げたので、『新著百種』は一足飛びに出版界の一枚看板となり、紅葉胸中の成竹せいちくようやく熟してこの機をはずさず硯友社の勢力展開の歩を進めた。第二篇の饗庭篁村の『掘出し物』は丁度新店しんみせ見世開みせびらきに隣家となり老舗しにせの番頭をやとって来たようなものであるが、続いて思案の『乙女心おとめごころ』、漣の『妹背貝いもせがい』と、予定の如くに第三陣第四陣と順々に繰出くりだして、盛んに軍容を整えて威武を張った。三国志流にいえば旌旗せいき林の如く風に飜って喊声かんせい天地に震うというようなすさまじい勢いだった。ツマリ『我楽多文庫』は硯友社の名題なだい披露の初舞台で、その艶っぽい花やかな元禄張の芸風を示した顔見世狂言は『新著百種』であった。硯友社の基礎はこの『新著百種』で固められた。
『新著百種』について憶出おもいだされるは薄倖はっこうの作家北村三唖きたむらさんあである。三唖は土佐の生れで、現内閣のバリバリで時めいてる仙石貢せんごくみつぐ親戚しんせきである。したがって土佐出身の名士には親昵ちかづきがあったが、文人特有の狷介けんかい懶惰らんだとズボラが累をなして同郷の先輩に近づかず、硯友社に投じて紅葉の庇護ひごの下に『新著百種』の一冊として『石倉新五左衛門』を発表した。
 甘ッたるい恋物語で食もたれしている処へ三唖の人を茶にする三馬式の軽い滑稽は餅菓子のあとへ塩煎餅しおせんべいを出したようなもので、三唖の処女作はかなりに受けた。この初陣ういじんの功名に乗じて続いて硯友社の諸豪とくつわならべて二作三作と発表したなら三唖もまた必ず相当の名を成して操觚そうこの位置を固めたであろうが、性来の狷介と懶惰とズボラとが文壇にも累をなし、その上に硯友社からは新参者しんざんものとして外様とざま扱いされ、紅葉にも余り気に入らないで引立てられなかった。最後が岡山の山陽新報社に口があったを幸いに落延びて、馬骨と改名して田舎新聞に隠れたが、一時馬骨の名が岡山に振ったほど地方新聞小説家としてはかなりに幅をかした。が、持って生れた狷介と懶惰とズボラとはここでも永続ながつづきがしないで、折角数年の辛抱で築き上げた地方新聞社の位置をも些細ささいな失敗でてるべく余儀なくされた。それから後は阪神附近をアチコチと流離していたが、ドコにもれられないでとうとう九州に渡って別府に逼息ひっそくし、生活につかれた病躯びょうくかかえて淋しく暮した。再び上京したらと元気を附けてやった事もあったが、盛返す勇気もなくて悶々もんもん数年の後、ついに大正四年の初冬に別府の同情深い友の家で淋しい敗残者の生涯を終った。三唖は『石倉新五左衛門』一冊の外には中央文壇に何の足跡をも残さないで今では殆んど忘られているが、また明治の数奇伝中の薄倖なる奇才であった。
『新著百種』は薄命なる才人三唖を暗黒なる生涯に送り出すと同時に天才露伴の『風流仏ふうりゅうぶつ』を開眼して赫灼かくしゃくたる前途を耀かがやかした。露伴の初めて世間に発表した作は『都之花』の「露団々つゆだんだん」であって、奇思※(「扮のつくり/土」、第4水準2-4-65)ふんようする意表外の脚色が世間を驚かしたが、雄大なる詩想の群をぬきんずるを認められたのは『風流仏』であった。紅葉の『色懺悔』は万朶ばんだの花が一時に咲匂うて馥郁ふくいくたる花の香に息のつまるような感があったが、露伴の『風流仏』は千里漠々ばくばくたる広野に彷徨して黄昏たそがれる時、忽然こつぜん薄靄うすもやを排して一大銀輪のヌッとずるを望むが如く、また千山万岳の重畳たる中に光明赫灼たる弥陀みだの山越を迎うる如き感を抱かしめた。硯友社員にあらざる露伴の『風流仏』を紹介したのは『新著百種』の最も大なる貢献であった。

六 漣山人


 巌谷いわやの伯父さんといったらドンナ山の中の児供こどもでも知ってるが、漣山人さざなみさんじんでは都会の中学生にも今では通用しない。独逸ドイツから帰って来てからの漣は出山の釈迦しゃかが成覚したように小説家たる過去を忘れてお伽噺とぎばなし小波さざなみとなってしまった。が、巌谷の伯父さんの出世作は『我楽多文庫』の創刊号から巻頭を飾った「五月鯉さつきごい」であった。この「五月鯉」は後に『初紅葉はつもみじ』という題で単行本として出版されたが、『文章世界』に載せた小波の告白を待つまでもなく、甕江おうこう川田博士の令嬢に対する小波の幼き恋を描いたものであるのはその頃から誰も知っていた。
 が、この同じ物語を延長した後談が紅葉の『金色夜叉こんじきやしゃ』の藍本らんぽんであるという説は知らないものがないほど広がってるが実は誣妄ふぼうである。『金色夜叉』については小波もしばしば弁明しているし、私も度々紅葉から聞いているが、ほんの発端をこの事実から思付いたという位に過ぎんので、小波をモデルとしたというのは全然虚伝である。が、小波のこの恋物語は硯友社外の私の耳にすらも早くから聞えていたほどかなりに評判されていた。小波の恋が破れて後、その令嬢が縁付いた婚家の近くに住っていた私は時折美貌びぼう垣間見かいまみ、淑徳を聞くにつけて小波のためにすこぶる同情に堪えなかった。小波は小皺こじわの寄った今日でも秀麗閑雅をしのばせる美男だから、少年時代はさこそと推量おしはかられるので、「五月鯉」の第一回に梅若丸うめわかまる然とした美少年が荒くれ男に組敷かれる処があるのも大方小波の稚児ちご時代の自叙伝の一節だろうと想像する。「五月鯉」は傑作というほどのものではないが無垢むくなる少年の無邪気な恋を描いたものとしてかなりに評判された。
 尤も小波の作はこの処女作に限らずすべ何処どこかに無邪気あどけない処があった。そのくせ風俗壊乱に問われた事が一度や二度でなかったが、根が貴族的に生立おいたった人だから、材料がいつでも素直すなお温和おとなしい上品なウブな恋であって、深酷な悲痛やじくれたイキサツや皮肉な譏刺きしが少しも見られなかった。あくまでも無邪気なお姫様式、若様式のお伽恋物語ばかりだった。
 小波がお伽噺に筆を染めたのは随分古い事で、二十一年十二月発行の『我楽多文庫』第十三号から「鬼車」というメールヘンの飜訳を連載したのがそもそもの初めであった。小波の無邪気な筆が恋物語よりはかえってお伽噺に適していたはその頃から見えていた。
 が、小波はお伽噺を一生の仕事とするツモリは少しもなかったのだ。それから数年を経、博文館に入ってから『新桃太郎』や『猿蟹さるかに後日合戦』を書き、『少年文学』の第一巻として『黄金丸こがねまる』を発表した頃、「漣もお伽噺ばかり書いてるようではうおしまいです、その内には必ず本統の小説を書きます」と、或時私に語った事があった。ところがその頃は筆休めに過ぎなかったお伽噺が予期以上に歓迎され、教育界からしきりに頌徳表しょうとくひょうたてまつられ、四囲の事情もまた風俗壊乱に問われがちな小説を作るを許さなくなったらしく、次第に小説よりはお伽噺に傾いて、独逸から帰朝して以来は終に全くお伽噺に没頭し、著述以外に講演をも初めて通俗教育の旗幟きしを建て、博文館を引退してからは文壇よりもむしろ教育界に近い人となってしまった。
 漣山人の名は中坂思案外史と共に早くから『読売新聞』の投書欄に見えていた。私が偶然読んで記憶していた手習の説というは漣が最初の投書であって、その時十四歳であったそうな。十四歳初めて新聞に寄書し、十九歳小説を著わし、二十一歳既に一家を成した漣はまれに見る寧馨児ねいけいじであった。前にもいった通り、その頃の『読売新聞』の投書欄は当時の名士の論戦場であって、昨年の春易簀えきさくした杉浦天台道士もまた寄書家の一人であったが、或時何かの問題で天台道士と漣と論戦した事があった。その後漣が先生の称好塾に入門してから後、偶然この事が解った時、君が漣山人かと天台道士も意外の感に打たれたそうだ。漣はこういう早熟の奇才子であった。
 私が漣に初めて会ったのは二十二年の夏の初めであった。或朝、紅葉を飯田町の三畳の書斎に訪うて話していると、飄然ひょうぜんやって来たのは飛白かすり単衣ひとえ瀟洒しょうしゃたる美少年であって、これが漣であると紹介された時は、かねて若い人だとは聞いていたが、余り若過ぎるので喫驚びっくりしてしまった。美妙斎に会った時も意外に若いので喫驚したが、漣の若いには更にヨリ以上驚かされた。漣はその時二十歳はたちであったが、精々せいぜい十八、九ぐらいにしか見えなかった。しかもこの十八、九ぐらいにしか見えない青年が既に一家をなしていたのだから驚かされてしまった。
 漣はその時あたかも『新著百種』中の『妹背貝』を書終って、丁度発行所の吉岡書店から原稿料を請取うけとって来た処だというので、紅葉はソンナラ午餐ひるめしおごれといい、自分は初対面であったが、三人して上野の精養軒へ行った。電車のない夏の炎天を壱岐殿いきどの坂下まで歩いて紅葉はヨボヨボじいさんの二人乗を見付け、値切ねぎり倒して私と二人で合乗あいのりして行くと、漣は跡から気のいた威勢のい一人乗を飛ばして来てたちまち抜いてしまった。「此奴こいつ乗打のりうちをしたナ、覚えてろ!」と紅葉は手を振上げて打つまねをするとヨタヨタぐるまがいよいよヨタヨタした。やがて精養軒の玄関へおかかえ然たる一人乗を横付けした漣が貴公子然と取澄まして俥を下りる跡からヨタヨタ俥を下りて朴々乎ぼくぼくこいて行く紅葉と私の二人の恰好かっこうは余りい図ではなかった。が、江戸ッ子のチャキチャキたる紅葉は泰然と澄ました顔をして、三人して食堂の卓を囲んだ。隣の卓では若い岡倉天心おかくらてんしんが外国人と相対さしむかいに肉刺フォークを動かしつつ巧みな英語をなめらかにあやつッていた。
 漣は根が洒落しゃらくである上に寛闊かんかつに育ち、スッキリとさばけた中に何処どことなく気品があった。殊に応酬に巧みで機智に富み、誰とでも隔てなく交際し誰にでもしたしまれた。その上に世を推移おしうつる世才にけているから、硯友社という小さい天地にばかり跼蹐きょくせきしないで、早くから広い世間に飛出して※(「皐+栩のつくり」の「白」に代えて「自」、第3水準1-90-35)こうしょうしていた。一味郎党を堅く結束して鎖国する紅葉は漣のこの世間的態度を内心快からず思ってるようにうわさされていたが、漣が硯友社の凋落ちょうらくした後までも依然として一方の雄を称しておるは畢竟ひっきょう早くから硯友社埒外らちがいの地歩を開拓するに努めていたからだ。漣はただに硯友社のみならず全文壇を通じての第一の才人である。

七 川上眉山


 硯友社は御大おんたい紅葉を初めとし美妙といい漣といい美男のおそろいであったが、美貌をいったら川上眉山かわかみびざんは第一位であったろう。眉山の美貌は硯友社に限らず、文壇に限らず、美男の畑なる役者の中を尋ねても決して数多くの匹儔ひっちゅうを見出しがたいだろう。尤も美男を定める標準にも色々あろうし、人によっての好き不好きもあろうが、如何なる点のからい人でも眉山の美貌には百点近くを決しておしまないだろう。
 眉山の色の白さは透徹すきとおるようで、支那人が玉人ぎょくじんと形容するはこういう人だろうと思うほどに美くしく、何時いつでも薄化粧しているように見えた。いわゆる女にしても見ま欲しいという目眩まぶしいような美貌で、まるで国貞くにさだ田舎源氏いなかげんじの画が抜け出したようであった。難をいったら余り美くし過ぎて、丹次郎たんじろうというニヤケた気味合きみあいがあった。う少し色が浅黒いとか口が大き過ぎるとかいう欠点があったらかえってかったろうと思う。
 眉山が予備門(今の高等学校)へ通う時分、その頃は制服がなかったので思い思いであったが、眉山は何時いつでも黄八丈のふりの長い羽織を着ていた。このなまめかしい羽織が女のような眉山の顔と釣合つりあって、影では蔭間かげまのようだと悪語わるくちをいうものもあったが、男の眼にも恍惚うっとりとするほど美くしかった。通学の道筋に当る町の若い女は眉山の往帰いきかえりをたのしみにして、目牽めひき袖引き目送みおくって人知れずこがれていたものも少なくなかったという評判だった。
 殊に眉山の艶容媚態えんようびたい――というと女の形容になるが、その頃の眉山を彷彿するには女の形容を用ゆるが適していた――を著るしく引立たしたのは春亭九華しゅんていきゅうかであった。春亭九華などというと如何にもやさしげだが、九華は縦も横も大々だいだいした巨漢であった。この九華がクラスの中でも殊に眉山と大の仲善なかよしであって、学校の往復は本より何処どこにでも二人は一緒に連立つれだっていた。筋骨たくましい大兵だいひょう肥満の黒々くろぐろした巨漢と振袖然ふりそでぜんたる長い羽織を着た薄化粧したような美少年と連れ立って行くさまは弁慶と牛若といおう髯奴ひげやっこ色若衆いろわかしゅうといおう乎。小説でなければ決して見られない図であった。今でも憶起おもいおこすと師宣もろのぶの絵にありそうな二人の姿を眼前に彷彿する。九華もまた堂々たる風采であったが、眉山が余り美くし過ぎていた。
 この平家の公達きんだちのような美少年は早くから知っていたが、この人が眉山人であるとは少しも知らなかった。その後紅葉の家で計らず落合った時、この女のような顔の持主が也有やゆうの再来かと疑われる名文章の作者だと聞いて喫驚してしまった。かつ顔に似合わない思切った皮肉や毒口どくぐちを連発するにはあきれてしまった。眉山は遠くからながめてると女のように媚かしいただの色若衆であったが、会って見ると岩本院いわもといんの稚児上りといいそうな江戸ッ子風の伝法肌でんぽうはだであった。
 眉山の家は本郷ほんごう春木町はるきちょうの下宿屋であった。学校から帰ると、素裸すっぱだかになって井戸の水を汲込くみこみつつ大きな声で女中を揶揄からかっていた。真白な肉附きの好い肌が役者のように美くしかったので、近所の若い女が目引き袖引き垣根から隙見すきみしたそうだ。あの下宿屋の若旦那わかだんなは役者よりも美くしいと其処そこじゅうの若い女が岡惚おかぼれしたという評判であった。
 が、眉山の家庭には気の毒な面倒臭い葛藤かっとう絶間たえまなかったそうで、何時いつでも晴れやかな顔をして駄洒落だじゃれをいってる内面には人の知らない苦労が絶えなかったそうだ。親父おやじが死んでから春木町を去って小石川の富坂とみざかへ別居した。この富坂上の家というは満天星どうだん生垣いけがきめぐらしたすこぶる風雅な構えで、手狭てぜまであったが木口きぐちを選んだ凝った普請ふしんであった。為永ためなが中本ちゅうほんにあるりょうというような塩梅あんばいで、美男であり風雅である眉山の住居すまいには持って来いであった。が、その頃から眉山は段々と陰気臭く詩人臭くなった。
 硯友社員中、眉山は一番詩人らしかった。初めはやはり陽気に騒ぐたちであったが、次第に段々沈欝ちんうつとなって、ややともすると考え込むようになった。家庭の事情が面白くなかった処へ自分の力ではとても背負い切れない亡父の債務がにわかに双肩に落ちたからであった。
 その頃眉山と私とは家が近かったので、少くも月に一度や二度は互に往来した。が、文学よりは債権債務の法律問題に熱心であって、こういう負債は弁債の義務があるだろうとか、乃至ないしはこういう督促はどういう風に切抜けたもんだろう乎とかいうようなはなしが多かった。今ではその事情は大抵忘れてしまったが、道徳上には何の責任も義務もない夢にも知らない債務を俄に背負わされて、眉山はその弁債方法にくるしんでいた。
 こういう家庭に関聯かんれんした道徳上及び物質上の難関にくるしみつつある一方には硯友社よりはむしろ『文学界』同人としたしんで生にもだゆる詩人のなやみに共鳴し、一方にはまた、今は全く韜晦とうかいして消息を絶ってしまったが、黒川文淵くろかわぶんえんという一種異色ある思想家が同居していて朝夕互に偏哲学を戦わしていた。眉山は最早のんきに鼻唄はなうたを歌う春木町時代の眉山ではなかった。
 眉山が一葉いちよう女史との浮名うきなを歌われたのもその頃であった。この消息については余りくわしくは知らぬが、眉山がしばしば一葉の家に出入したのは事実であって、ツマリ頻繁ひんぱんな交際と女に好かれそうな眉山の男振おとこぶりから附会した風説であったろう。が、眉山の美貌はその頃は生活の苦労に傷つけられて幾分か険しくなって来た。
 富坂に住んだのはたッた一年かそこらで、眉山は終に債務のために世帯を畳むべく余儀なくされ、わずかばかりの身の廻りのものを友の家に預けて飄然として放浪の旅に上った。その時の道の記が『ふところ日記』となって後に発表されたのだが、当時の眉山の旅は『ふところ日記』に現れてるような暢気のんきなものではなかったのだ。
 三、四カ月ってから眉山が帰って来たと或人から伝言された後、丁度初夏のフラネル時候であった。その頃江戸川べりに住んでいた私は偶然川畔かわべり散策ぶらついていると、流れをりて来る川舟に犢鼻褌ふんどし一つで元気にさおをさしてるのが眉山で、吉原よしわら通いの山谷堀さんやぼりでもくだ了簡りょうけんで、胡座あぐらをかきつつい気持になってるのが中村花痩なかむらかそうであった。
 眉山は三月越しの旅で顔の色がすすけて日に焼けていたが、真白な長身は汗ばんで赤味を帯び、棹は上手じょうず下手へたか知らぬが流れに従って下りるんだから楽々として如何にも威勢がく、とても旅路に放浪して今帰ったばかりの家なき人とは思われなかった。その艶気つやけのある勇肌いさみはだがトンと国貞あたりの錦絵にしきえにありそうであった。眉山の容貌、風采、及び生活は洋画は勿論院派の日本画にもならないので、五渡亭ごとてい国貞あたりの錦絵から抜け出したようだった。
「や、乗らないか、」と眉山は私を見るなり声を掛けた。
「僕ンとこへ来い、美味うまいものを喰わせるぞ。」
「今行くよ、直ぐ行くよ、」といいながら元気に舟を流して行った。
 私の家は川畔かわべりの直ぐ近所だったから、帰って待つもなく、眉山と花痩とは威勢よくやって来た。眉山はその時新小川町しんおがわちょうの花痩の家に泊っていたのだ。
 中村花痩もまた硯友社の一人だった。最も遅れて加盟したが、伯父さんが俳諧の宗匠だったので俳句には相当に苦労し、俳人としては社中の指折ゆびおりであった。これも御多分にれないズボラであって、一度は金のために奇禍を買ったので、その後をきよくする意味で雪後と改称したが、一生借金の苦労に追われて終に名を成すいとまがない中に、夫妻相続いて急性の肺患に犯され、一と月経たぬ間に夫婦とも鬼籍きせきに入った極めて不幸な作者であった。根が三馬鯉丈りじょう系統の戯作者はだに出来上った男だから、いつも月夜に米の飯で暢気に暮し、貧乏にも借金にも少しもげずに、執達吏の応接などは手に入ったもんだった。眉山が債権者と折衝するにあたって相談対手あいてとしたのはもっぱらこの男で、世帯を畳んだ時に身の廻りのものを預けたのもこの男の家なら、放浪から帰ると直ぐたよったのもこの男の家であった。(紅葉が『金色夜叉』を書く時、高利貸の知識や粉本ふんぽんを借りたのもまた花痩からであった。)
 この時は一時間も話した。駄洒落で執達吏をけむに巻く花痩が同席していたから、眉山も元気にはしゃいで少しもシンミリしなかった。
 間もなく二度目に家を持ったのが牛込うしごめ北山伏町きたやまぶしちょうで、債務の段落が一時着いたというもののやはり旧債にたたられていた。或時尋ねると、「昨日きのうは突然差押えを喰って茶呑茶碗ちゃのみぢゃわんまで押えられてしまった、」と眉山は一生忠実に仕えた老婢ろうひに向って、「オイ阿婆ばあや何処どっかで急須きゅうすと茶碗を借りてな、」と平気なもんだった。
 その頃はう眉山も執達吏にれ切っていた。「身体からだに附いてるものは押える事が出来ないッてから、今度はピカピカ光る指環ゆびわを三つも四つも穿めて見せびらかしてやろう、」なぞと平気な顔をして笑っていた。が、眉山はかなり長い間債務の交渉に忙がしかったが、ついぞ服装なりくずさずにリュウとしていた。何時いつでも座敷を奇麗に片附け、床の間には幅を掛け花をけ、庭には植木棚を作って盆栽の二、三十鉢もならべて置くという風で、儀式張った席へ臨む時は、質屋で着更きかえて行くと本人はいっていたが、く黒紋付のつい仙台平せんだいひらというこしらえだったから、岡目おかめには借金にくるしめられてるとは少しも見えなかった。借金取にも最う慣れ切っていて、貧乏ばなしをするにも極めて余裕があって、それほど窮迫しているとは誰も思わなかった。
 眉山は酒の上が余り評判が好くなかった。始終眼が充血していて、頭の具合が悪いと口癖にいっていたのもやはり酒のためらしかった。が、この酒は元来好きでもあったろうが一つは生活の不愉快を忘れたさに益々ますます酒癖をこうじさせたのであろう。春木町時代に極めて陽気であったのが富坂時代には沈鬱となり、北山伏町時代には徐々そろそろすさんで多少自棄やけ気味となり、酒のために警察の厄介やっかいになり、警察で演説をして新聞種になった事もあった。
 それから後、南榎町みなみえのきちょうに転じてから今の未亡人を迎えて沈着おちついて来た。生活も段々順調となって名声もまた次第に高く、これから新らしい運命を展開しようという処で意外な魔の手は忽然こつぜん隕石いんせきの如く落下してこの秀麗なる玉人を撃砕した。
 あたかもその時私は京都に旅していた。蒲団ふとん着て寝たる姿の東山を旅館の窓からながめつつ、眠ったような平和な自然美をあくまでむさぼっていた長閑のどかな夢を破ったのは眉山のであった。その頃は眉山と私との往来はやや疎縁になって、眉山の近状について余り知らなかったが、が、こういう悲惨な最後を耳にしようとはかつて夢にだも想像しなかった。
 眉山が沈鬱となって偏哲学にふけった富坂時代には時々死を考えた事があったそうだ。死の瞬間は歓喜の美しい飽満であろうと話した事もあった。或時暗黒くらやみの中で瞑想めいそうしている刹那せつな、忽然座辺のものが歴然ありありと見えて、庭前の松の葉が一本々々数えられたとソムナンビュリストの夢のような事をいったりした。が、夫人を迎えて家庭の団欒だんらんの悦びに浸るようになってからは詩人の夢からめてすこぶる平穏堅実となったとのみ聞いていた。
 眉山の死の原因について新聞紙は種々の憶測を下して多くは生活難のためといった。が、眉山の生活は豊かでなかったにしろ、自殺するほどさしせまっていたとも思われなかった。富坂時代から貧乏線は度々えて借金学も一と通り卒業して来たから、如何に家族を抱えていても死ぬほど窮苦に堪えられなかったとは想像されない。眉山の死の原因を単なる生活難に帰するは決して穿うがち得たものではない。が、原因は何にてもあれ、あれほど豊かな天分才能を持っていながら一生は実に数奇を極めていた。美人薄命というが、あながち女にのみ限らず、玲瓏れいろうたまの如き美男の眉山もまた頗る薄命であった。

八 硯友社の全盛時代


 硯友社の勢力は団体的の結束の力であって各自の個々の力ではなかった。紅葉の芸術的天分はエポックを画するだけの十分な力を持っていたが、それよりもなお一層すぐれていたのは傘下さんかの英才を統率して芸術的地盤を固めた政治的手腕であった。紅葉にもし芸術的天分がなくて政治か実業方面に働かせたなら、社会的にはヨリ以上成功したろう。
 紅葉勃興ぼっこう当時の文壇は各々私交はあっても団体的に行動する事はなかった。春廼舎はるのやつや半峰居士はんぽうこじ伯牙はくがにおける鍾子期しょうしきの如くに共鳴したが、早稲田わせだは決して春廼舎を声援しなかった。二葉亭と嵯峨さがとは春廼舎傘下の寒山拾得であったが、その運動は離れ離れであった。美妙は硯友社の一人であったが、抜駈ぬけがけの功名にはやって終に孤立してしまった。が、紅葉は早くも孤立の力なきを知って、初めから百名以上の応援隊を率いて起ち、固く結束して団体的に文壇を開拓し、進退行蔵こうぞうすべともにして自家の勢力を扶植した。
 当時文壇は全く旧作家に飽いて新作家を迎うるに鋭意していたから、多士済々たしせいせいたる硯友社は忽ち章魚たこの足のように八方に勢力を伸ばし、新聞社に雑誌社に出版人にそれぞれ多少の関係を附けざるはなかった。その上に固く結束して互に相援引し、応援するにも敵対するにも一斉にって進退緩急の行動をともにした。歩武の整然として訓練のく行届いたは有繋さすがに紅葉の統率の才の尋常でなかった事が解る。硯友社はこの全体の力で常に文壇にあたったから、一時硯友社はあたかも政友会が政界に跋扈ばっこしたように文壇を壟断ろうだんして、操觚者そうこしゃも出版者も新聞雑誌社も硯友社にらざれば文壇の仕事は何一つ出来ないような形勢となった。当時の硯友社は実に政友会であって紅葉の手腕は原敬はらたかし以上であった。
 当時硯友社と相対峙あいたいじした団体は思軒しけん篁村こうそん、三昧、得知ら一派のいわゆる根岸党であった。が、本来根岸党の名は根岸を中心とする文人の一群をして他から与えた名称であって、かれらは折に触れて相集っていわゆる詩酒徴逐の風流に遊んだが、酒を以て集まる無形の交友倶楽部であって、硯友社のような文壇的運動を目的とする団結ではなかった。かつこの根岸党の中心となっているものは大抵旧作家の系統に属し、硯友社に比べては清新の思想と敏活の元気を欠き、文壇の選手権を争うには余りに老成し過ぎていた。
 根岸党を外にしては鴎外の『しがらみ草紙』派があったが、この『しがらみ草紙』派は実は鴎外一人であって、その他は興味あれば集まり興味去れば散ずる去就常ならざる遊離分子であった。派という条、実は鴎外が単独ひとりで八人芸をしていたので、弟の三木竹二みきたけじの外には鴎外の片腕の指一本の力となるものすらもなかった。したがって個人としての鴎外の権威は認められていても文壇的の実際の運動には全く無力であった。
 硯友社の最全盛期は明治二十六、七年頃から三十二、三年頃までだったろう。『読売新聞』を牙城がじょうとした紅葉は堀紫山ほりしざんを幕僚と頼んで三面及び文芸欄は思うままに主宰した。春陽堂には前田曙山まえだしょざんが座し、博文館には大橋乙羽おおはしおとわが控え、『新小説』も『文芸倶楽部』も硯友社の統轄に帰した。あまつさえ後藤宙外ごとうちゅうがいは早稲田を出ると紅葉幕下ばっかに参じ、硯友社の客将として主宰する『新著月刊』を硯友社の新版図しんはんとに献じた。当時の紅葉は四方の書肆しょし文人来貢すという勢いであった。随って傘下の硯友社員は各々その拠る処を得て勢力を張った。
 が、この勢力は他の文人が各々孤立していたと反して団体的に築き上げたのだから、これと拮抗きっこうする他の団体が生ずれば自然に気勢をがれるのは当然であった。果然、万年上田かずとしうえだ博士が帰朝して赤門派が崛起くっきすると硯友社の勢威が幾分か薄くなった。続いて早稲田派が新旗幟きしを建つるにいたって、硯友社はた更に幾分か勢力を削がれた。幸いこの二派は硯友社の秀才に取って代るだけの創作家を出さなかったから当分はなお創作壇の選手権を握っていたが、紅葉門下の風葉ふうよう鏡花きょうか徐々そろそろ流行児はやりっことなり掛けた頃には硯友社の勢力は最早峠の絶頂を越していた。それからいくばくもなく紅葉が多年の牙城たる『読売』をてて『二六にろく』に移った時は、一葉落ちて天下の秋を知るで、硯友社の覇権はけんがそろそろ徐々もろもろ傾き出した。三十六年の冬、紅葉が物故して以来硯友社の団結はまた旧の如くならず、あまつさえ自然主義が勃興して創作の権威が他の集団に移ったので、硯友社は漸次に凋零ちょうれいして今では全く過去の夢物語となった。

九 紅葉の性格の半面


 紅葉と私とは二十七、八年頃まではかなり親しくしていた。元来思想上相容れなかったので思想上の扞格かんかくが感情上の乖離となって、一時は交際が殆んど途絶とだえていた。が、紅葉と私とは都会育ちの共通の趣味や性格があったので、思想上では相容れなくても紅葉に対しては丁度郷友に対するような親しみを持っていた。それ故論壇では紅葉の態度や硯友社の作風にあきたらないで忌憚きたんのない批評をしても、私交上には何の隔心も持たなかった。が、紅葉の方ではとかくに疎隔して会えば打釈うちとけていても内心は敵意をはさんでいた。
 丁度その頃であった。今は殆んど忘れられてしまったが、一時はユーゴーの紹介者として相当に鳴らした原抱一庵はらほういつあんが度々遊びに来た。抱一は好き嫌いのはげしい感情家であったが、紅葉が大嫌いで、談紅葉に及ぶごとに口を極めて痛罵つうばするので、その度毎たんびに、「君は喰わず嫌いだよ。会って見もしないで悪くいうやつがあるもんか。一度会って見ろ、決して不快わるい気持はしない、ごくさばけた男だよ、」といった。が、何と理解しても抱一は「あんな戯作者輩に会う必要はない、」とばかりいって、尋ねようともしなかった。
 すると或時、朝っぱらから飛んで来て、「会ったよ、会ったよ、紅葉に会って来たよ。徳太郎なかなか話せる。すこぶる快男子だ。昨宵ゆうべ徹宵よっぴて話して、二時まで大気焔だいきえんを挙げて来た。紅葉は君、実にえらい。立派な男だ!」
と、今度はめるとも、褒めるとも。余り褒めすぎるので、私が何とかいってくさすと、今までと打って変って反対あべこべに、「それは君、君は誤解している。紅葉は※(「研のつくり」、第3水準1-84-17)んな男じゃない。君、今度は十分肝胆を披瀝ひれきして話して見給え、」とにわかに紅葉の弁護を做初しだした。
 紅葉はこういう男で、誰に会っても旧知の友のように胸襟きょうきんを開いて歯切れの好い江戸ッ子弁でサックリと竹を割ったように話すから、誰でも快く感じて一見百年の友に接するような心持がした。抱一は放縦と無検束ずぼらで人に誤まられたが、根が多感多恨の単純な好人物であったから一見コロリと紅葉にれ抜いてしまった。
 嫌いとなると根こそぎ嫌いだが、好きとなると直ぐのぼせ上る抱一は矢継早やつぎばやに三、四回も続けて紅葉を尋ねた後、十日ほどもってから私のとこへ頗る厄介な提議を持込んで来た。当時抱一は万朝報よろずちょうほう社に在籍して黒岩くろいわの秘書のような関係であったが、読売新聞社から紅葉を朝報社へ引抜こうという献策をして、黒岩の内意をけてその斡旋方あっせんかたを私に持込んだ。
 当時紅葉は私を忌避してイツ尋ねても居留守を遣い、途中で会ってもろくすっぽ口を利かないという場合であったから、事情を話して私の仲介ではとても駄目だと断わった。が、抱一は何といってもかないで、「自分の口からは言い兼ねるし、自分が言出したのではとても承知しそうもないが君なら必ず紅葉を口説き落せる、」としきりに迫って承知しないので、紅葉が読売の待遇に不平である内情も聞込んでいたので、そんなら黒岩と直接談合してからと、抱一と同道して黒岩を訪問し、精しく招聘しょうへいの条件を相談してから改めて紅葉に会見を申込んだ。
 当時紅葉は私に対して何時いつでも不在と称して面会を避けていた。蛇蝎だかつの如くでないまでも蚰蜒げじげじぐらいには嫌っていた。その時の返事も突然の会見申込をお辞儀をして原稿の周旋でも頼む用事と早呑込はやのみこみしたものと見えて、その頃私が産業界に首を突込み掛けていたので、つとに実業に雄飛せんとする君がこの陋巷ろうこうの貧乏文人に何の求むる事があるかというような頗るイヤ味タップリなものだった。が、会って見れば少しも隔意がなく打解けていた。私は本より論壇の上にこそ紅葉と対敵したが、先方はどうあろうと私交上ではやはり親友のツモリでいたから、胸襟を開いて黒岩の意嚮いこうを話し、紅葉一身の利害のために黒岩との提携を勧説した。紅葉もまた打解けて少しもわだかまりがなく用件以外の四方山よもやま世間咄せけんばなしをしてその夜をかした。続いて同じ用件で数回の会見を重ね、或時は家では沈着おちついて相談が出来ないからと、半日余りも旗亭きていで談合した事もあった。その頃読売新聞の社内の空気が面白くなくて紅葉は不平満々だったから、その頃としてはレコード破りの有利な黒岩の招聘条件に紅葉も一時はグラグラ動揺し、いよいよ日を定めて黒岩と会見する段取だんどりにまでなったが、順序上先ず読売の最高顧問たる高田早苗たかださなえに内々打明けた処が、「団十郎はやはり歌舞伎でなければ納まらんので、イクラ給金が良くても公園の舞台で踊っては名がすたれる」と理解され、九分通りまでグラグラしたが、結局名をおしんで思いとどまる事となって一と先ずこの相談を打切った。が、紅葉の心はその時既に読売新聞社を離れていたので、その時は高田の斡旋で引留条件の花を持たせられて一時中止したが、ついに読売を去るようとなった。
 紅葉はこうした男であった。日頃は罵詈讒謗ばりざんぼうしてやまなかった抱一庵をも一見コロリと感服させ、犬と猿のように仲違なかたがいしているものにでも会えば奥底なく打解けて、自分の身上などを細々こまごま打明けて話すほどさばけていた。が、心から捌けて洒落しゃらくであったかというと実は余り洒落でなかった。些細ささいな事を執念しゅうねく気に掛けて何時いつまでも根に葉に持つ神経質であった。が、表面うわべはガラガラして江戸ッ子とアングロサクソンを搗交つきまぜた紳士形気を理想としていた。
 紅葉は親分肌で、門下や友人の面倒をく見た。が、厚意をありがたがって感謝しないと不機嫌だった。殊に門下生に対しては、七尺去って師の影を踏まずというような厳格な奴隷的道徳を強圧した。『青葡萄あおぶどう』という作に、自分はむちなわとで弟子を薫陶するというような事をいってるが、門下の中には往来で摺違すれちがった時、ツイ迂闊うかつして挨拶あいさつしなかったというので群集の中で呼留められて、新兵が古兵にトッチメられるように威丈高いたけだかしかられたり、正月の年始が遅れたとか近火の見舞をいわなかったとかいうので勘気をこうむったりしたものもあった。
 門下生ばかりでなく、友人関係の同人に対しても草創時代の同輩は別として、後進生に対しては世話もする代りに先輩の権威で臨んだものだ。北村三唖さんあが紅葉にうとんぜられたのも、初めは何かの用事で暫らく無沙汰ぶさたをした時、「ちっとも顔を見せんじゃないか、ほかの家へは行ってもおれの家へは来るひまはないのか、」と妙な見当違いをてこすられた。三唖も旋毛つむじの少々曲った変梃へんてこな男だから嫌気いやきがさしてた暫らく足を遠のくと、今度は他の家へはマメに出掛けるくせに社のものの方へはまるきりいたちの道てのはあんまり義理を知らなさ過ぎるぜと、一々不義理を数え立てられてネチネチと油をしぼられた。三唖は紅葉に引立てられたのだから、腹の中では済まないと思ったろうが、口不調法くちぶちょうほうの男だからもぞくさして弁解もしなかった、あやまりもしなかった。これが益々ますます紅葉の気に入らなかった。その上に三唖が頻繁ひんぱんに出入したのが社外の異宗門だったので、終には謀叛人むほんにん扱いされて棄てられてしまった。三唖は紅葉の世話になったという条、『石倉新五左衛門』を認められて『新著百種』に推薦されたというだけであったが、この一篇の原稿の斡旋を永久に徳として弟子の礼を執らなかったのが忘恩者として紅葉の勘気に触れた所以わけで、三唖はこれがために紅葉の勢力圏の新聞社や雑誌社からボイコットされてしまった。
 乙羽おとわもまた紅葉の世話になった男である。が、乙羽もまた硯友社外の誰とでも交際したのが紅葉の気に入らないで折々忌味いやみをいわれた。が、乙羽は三唖と違って如才ない利口者だったから、三唖のように紅葉の機嫌を損じるような事はなかったし、背後に資本家の博文館を背負っていたから紅葉の方でも遠慮していた。それでも博文館に入ってから一年ほど経った或時、近頃は忙がしくて紅葉さんのとこばかりへ行ってられないで諸方へ顔を出すので、紅葉さんの御機嫌が悪くて困ると愚痴ぐちこぼした事があった。
 こんな塩梅あんばいに人の世話もしたが十分感謝して自分を立てないと満足しない親分肌通有の欠点をも持っていた。それでも後進生や門下生が帰服していたのは紅葉が文壇に勢力があったばかりでなく、尋常なみなみならぬ熱情と親切とを持っていたからであった。紅葉は人に叱言こごとをいう時は涙をボロボロ覆して、これほど俺のいうのが解らないかと泣く事が珍らしくなかったそうだ。この熱情とこの親切とがあってあれだけの門下を養成し、多数の硯友社員を一身同体の如くに率いて活動する事が出来たのであろう。紅葉はたしかに人にたけたる親分的性格をっていた。

十 紅葉と外国文学


 紅葉は常に門下の諸生に対して外国小説研究の不必要を説き、創作家に必要なるは実世間の観察であって外国小説なんぞを読んだって役に立たないといっていた。紅葉門下が秋声しゅうせい一人を除くの外は皆外国語におろそかであったは師家の厳しい教訓のためであった。
 が、紅葉自身は常に外国小説を読んで頭を肥やしていた、就中なかんずくゾラの作を愛読して『ムール和上の破戒』の如きは再三反読してその妙を嘖々さくさくしていた。『かれの傑作』を読んだ時はあたかも地方に暮していた私のもとへわざわざ手紙をよこして盛んにゾラの作意を激賞して来た。『むき玉子』はゾラのこの作から思付いたのである。その外にも外国小説からヒントを得、あるいはそのままに換骨奪胎したものは少くなかった。紅葉は決して外国小説が嫌いではなかった。
 私が初めてドストエフスキーの名を聞いたのは紅葉からである。或時飯田町の三畳の書斎を訪ずれると、昨宵ゆうべ嵯峨さがが来て『罪と罰』という露西亜ロシアの小説の話をしたが、嵯峨の屋がモグモグしながら妙な手附きをしてはなすのが実に面白かったといった。かつ、この小説は露西亜の近代の最大傑作で、何でもこの頃丸善まるぜんへ英訳が来ているそうだといった。その翌日、私は早速丸善へ行って、果して一冊あったのを直ぐ買取った。明治二十二年の春で、後に聞くと三冊来たのを、一冊は坪内博士、一冊は森田思軒、残る一冊を私が買ったのであるそうだ。
 が、紅葉は芸術本位であった故、仏蘭西フランスの写実派には興味を持っても、人生本位の露西亜の小説はジメジメして陰気だとくさし、その頃からツルゲネフやトルストイを推奨した私を外道げどうと呼び、私等の主張した人生のための文学説を※(「不/見」、第3水準1-91-88)ねちみゃく哲学とあざけっていた。何かというと能く「君らの外道文学では……」などといったもんだ。
 私が初めてドストエフスキーの『侮辱』を読んだ時、これなら脚色の山もあるし、常識的な恋物語もあるから、紅葉も必ず感服しそうなものと思って、度々物語の筋や目貫めぬきの個処を話した後に是非読んで見ろといって英訳本を貸した。一と月ほど経ってから読んだかとくと、何だかしちくどくて面倒臭いもんだといってろくすっぽ読んでいなかった。三月みつきほどしてから会った時もやはり読んでいなかった。それから四、五カ月も経ってから或時、やっと百頁ばかり読んだそうで、女主人公のネルリが朝早く起きてストーヴの前を掃除している姿が眼前にチラチラするような気がしたと言っていた。が、それぎりでとうとう十月とつきほどして返して来た時、余り拗過くどすぎて我慢にも読通よみとおす気になれない、やはり外道の喜ぶもので江戸ッ子の読むもんじゃアないといった。紅葉は万更まんざら外国文学が嫌いじゃなかったが近代文学にはほとんど同感を持たなかった。

十一 紅葉の筆蹟及び人気


 三越みつこしで紅葉の真蹟展覧会が小波さざなみその他の主催で開かれてからモウ十年になる。それから以来紅葉の真蹟は益々ますます持てはやされて今では短冊一枚が三十円以上を値いしてるそうだ。明治の文人の筆蹟では正岡子規まさおかしきのと夏目漱石のと紅葉のが一番高く売買される。明治の大儒として名声中外に著聞する中村敬宇けいう先生のよりも、天子の師範として近代の書聖と仰がれる長三洲ちょうさんしゅう先生のよりも、近世の大徳として上下の帰依あつ行誡ぎょうかい上人のよりも、敷島の三十一文字をもて栄爵をかたじけのうした高崎たかさき正風大人まさかぜうしのよりも何らの官位勲爵のない野の一文人紅葉の短冊の方がはるかに珍重されてヨリ高価を以て市場に売買されておる。
 数年前、或る書画商の店に書画ちょうの売物があった。その中には漢学者では息軒そっけん鶴梁かくりょう宕陰とういん、詩人では五山、星巌、枕山、湖山、画家では老山、柳圃、晴湖等その他各方面の一流の近代名家の揮毫きごうがあって、一枚々々随意のものをがして売っていた。ところが誰のよりも数倍高価である紅葉の色紙が誰のよりも一番早く売れてしまったそうだ。
 紅葉は死ぬ前に盛んに短冊を書いて、「俺の字は死ぬと値が出るぞ」といって人に与えたそうだが、果して自信の通りであった。もっとも紅葉は書が巧みであったし、人気が盛んであったから早くから筆蹟が珍重された。今から三十年も前、或る懇意な田舎の素封家に所望されて名士の手紙を十数通与えたところが、一年ほど経って偶然その家を訪問した或る男から、私にてた紅葉の手紙が錦襴きんらん表装の軸となって床の間に掛けてあったと知らせて来た。間もなくその素封家から「紅葉先生と露伴先生のだけは早速表装しました、おかげで自慢の家宝が二幅出来でけえました、」と、慇懃いんぎんな礼手紙が来た。これほど熱心な崇拝家があろうとは思掛けなかったので、早速紅葉にその話をすると、その頃の紅葉はまだ若かったからうれしそうな顔をして、「ありがたいネ、お礼に藤村ふじむら羊羹ようかんでも贈ろうか、」といって笑った。が、今では紅葉の手蹟を立派に表装して伝家のお宝物のように秘襲するものは決して少なくないだろう。
 これも数年前のはなし、日本橋の或る骨董屋こっとうやに紅葉の手紙を表装した額面が出ていた。宛名はツイその近傍の著名な書肆しょしで、「先達せんだっての○は何々へ届けてくれ、本人が義務を怠たったら自分が返債する」という罪な文面だ。何々というはズボラで通ってる門生で、原稿引当ての前借を紅葉が口入くちいれしたものらしい。こういう書面を、当の書中の本人がマダ健在であるのに、かりそめにも書肆たるものが他事ひとでに渡すというはしからん話で、あまつさえ額面に表装するというは言語道断である。が、それはくもとしてこの額面の正札が、驚くなかれ、金六十八円なりとある。イクラの前借を申込んだか知らぬが、多分この正札の額よりも少なかったろう。ツイこの頃の大阪の柳屋の目録にも紅葉の不養生訓という自筆の原稿が載っておる。どんなものか知らぬが弐百五拾円という突飛とっぴな価には驚かされる。紅葉の人気の高いのはこれを以ても証される。
 明治の文人の全集中、漱石全集の予約高は近頃群を抜いてるそうだが、紅葉全集の既刊部数も恐らくこれに劣らないだろう。全集ではないが、『金色夜叉』の如きは何度重版しても足りないで、毎年の出版部数が今だに相当な高率を維持しているそうだ。実をいうと『金色夜叉』は最初の構想が中途で何度も変ってまとまりが附かなかった未成品であるが、真珠の頸飾くびかざりちぎれたのを南京玉ナンキンだまで補ったような続篇が二つも三つも出来て、芝居は勿論、活動写真ともなれば流行唄はやりうたともなり、中学校の国文教科書にも載れば絵葉書にも発行され、今ではどんな田舎の片山里でも『金色夜叉』の名を知らないものはない。お伽噺とぎばなしの外には何にも読まない小学校の児供こどもですらが『金色夜叉』の名だけは知っておる。芥川龍之介あくたがわりゅうのすけ谷崎潤一郎たにざきじゅんいちろう菊池寛きくちかん倉田百三くらたひゃくぞう賀川豊彦かがわとよひこの新らしい作を読耽よみふけるものもやはり『金色夜叉』を反覆愛読しておる。
 今村清之助いまむらせいのすけは常に紅葉の作を愛読していたが、感服の余りに一夜旗亭きていに紅葉を招いて半夜の清興をともにしたそうだ。西園寺さいおんじ公も誰のよりも紅葉の作を一番多く読んでおられるようだ。今では政治家や実業家の中にもかなりな文芸の理解者があるらしいが、紅葉の小説はその頃からして奥さんやお嬢さんばかりでなく、紳士にも学生にも宗教家にも教育家にも有識者にも無知文盲の俗人にも読まれた。弦斎げんさい春葉しゅんようの作は広く読まれたにしても、その範囲は低級者に限られて高級知識階級に及ばなかった。紅葉のはこれに反して高級者にも低級者にも学者にも無学者にも男にも女にも愛読された。新らしい文芸家の中には最高文学は低級者には理解されないものと独断して、読者の少数階級に限られるを高しとするものもあるが、最大なる文学は高級者にも低級者にも等しく同感される普遍の興味を持ってる。トルストイやドストエフスキーは決して高級の知識階級者にのみ読まれるのでなくしてかえって文盲な農民間にヨリ多く愛読されてる。換言すれば人気ある作家を直ちに目して最大作家とする事は出来ないが、最大なる作家は多くの場合大抵人気がある。紅葉がトルストイやドストエフスキーのような最大作家であったか否かは別問題であるが、普遍の興味を持つ点でははるかに今日の新らしい作家にまさっておる。

十二 紅葉と最後の会見――世間に伝わらざる逸事


 紅葉の病気が重態であると新聞紙に伝えられてから間もなく、或日の午後、私があたかも丸善の事務室に居合わした時、紅葉さんがお見えになりましたと一店員が知らして来た。重態の病人が自身に来るはずはないから、紅葉の使いのものか、さなくば尾崎違いであろうといぶかりながら店へ出て見ると、せ衰えた紅葉が書棚しょだなの前で書籍をあさっていた。
 余り意外だったので、きつねつままれたような心地がしてしばらく離れて立って見ていると、紅葉はっと顧盻ふりむいて気が付いたと見えてニッと微笑した。
「どうしたい!」と私は束々つかつかと進んで、「アこっちへ来給え、」と応接へ案内し、卓をなか相対さしむかいとなるや、「大変悪いように聞いたが、能く出て来られたネ!」
「本統に悪いんだよ、」と紅葉はニッと笑いながら、血のせたぎ落したようなほおてのひら扱下こきおろしつつ、「寿命はきまったんだが、元気はマダこの通りだ。」
「何しろ結構だ。ここまで出て来る元気がありゃア、医者は何といっても大丈夫取返しは附くよ」と元気づけつつ顔を見ながら、「思ったほどに痩せないナ。」
「顔だけ見ているとそうでもないが、裸体はだかになると骸骨がいこつだ。ももなんか天秤棒てんびんぼうぐらいしかない。能く立ってられると思う、」と大学でがんと鑑定された顛末てんまつを他人のはなしのように静かに沈着おちついて話して、「人間も地獄のお迎えが門口かどぐちに待ってるようになっちゃ最うおあいだだ。所詮どうせ死ぬなら羊羹でも、天麩羅てんぷらでも、思うさま食ってやれと棄鉢すてばちになっても、流動物ほか通らんのだから、喰意地くいいじが張るばかりでカラキシ意気地いくじはない。ア餓鬼だナア!」
と、淋しい微笑を浮べた。壮健じょうぶな時と同様にガラガラしていたが、底力そこぢからが抜けていて、一緒に声を合わして笑う事が出来なかった。
 やがていて、「何を買いに来た!」とくと、「『ブリタニカ』を予約に来たんだが、品物がないッていうから『センチュリー』にした」といった。(『ブリタニカ』と『センチュリー』とを同時に提供していた時で、丁度『ブリタニカ』が品切れになっていた時であった。)
「『センチュリー』を買ってどうする?」と瀕死ひんしの病人が高価な辞書を買ってどうする気かと不思議でならんので、「それどころじゃあるまい、」というと、
「そういえばそうだが、評判はかねて聞いてるから、どんなものだか冥土めいど土産みやげに見て置きたいと思ってネ。まだ一と月や二タ月は大丈夫生きてるから、ユックリ見て行かれる。」
「そんなら『ブリタニカ』にしたらどうだ。最う二タ月も経てば荷が着くから、今予約して置かんでも着いた時に知らせよう……」と、実は私の内心では、余り豊かでもなかろうに、見す見す余命いくばくもないのが解っていながら※(「研のつくり」、第3水準1-84-17)んな高価な辞書を買うでもあるまいと、それといわずに無益のついえをさせたくないと思っていうと、
「そうさナア、」と暫らく考えていたが、「二タ月ぐらいは大丈夫と思うが、いつ何時なんどきどうなるか解らん。二タ月先きに本が着いた時、幸い息がかよっていたにしてもヒクヒクして最う眼が見えないでは何にもならない。」
「大丈夫、大丈夫。その元気ならマタ一年や二年は大丈夫。字引はどうでもいが、病気の方は大丈夫だよ。今から※(「研のつくり」、第3水準1-84-17)んな弱音よわねを吹くのは愚だ。きっとなおると思わにゃ駄目だ。」
「愚でも駄目でも仕方がない。医者が三月みつきと宣告したんだから、りきんでも踏反ふんぞり返っても三月経てばゴロゴロッとたん咽喉のどひっからんでのお陀仏様だぶつさま――とこう覚悟して置かにゃ虚偽うそだよ、」と片頬かたほえみを含みつつ力の抜けた空元気からげんきで、「そこは大悟徹底している。生延びようとは決して思わんが、欲しいと思うものは頭のハッキリしているうちに自分の物として、一日でも長く見て置かないと執念が残る。字引に執念が残ってお化けに出るなんぞは男がすたらアナ!」と力のない声で呵々からからと笑いながら、「『センチュリー』なら直ぐ届けられるだろう。」
「むむ、『センチュリー』なら直ぐ届ける、」というと、ようやく安心したような顔をして、「これでア冥土へ好い土産が出来た、」と笑いながら丁度店員が応接室の外を通ったのを呼留めて申込書と共に百何円の現金を切れるような紙幣さつで奇麗に支払った。
 それからかれこれ一時間も悠然ゆうぜんと腰を落付けて久しぶりで四方山よもやまの話をした。紅葉と私とは妙なイキサツから気拙きまずくなっていたが、こうして胸襟きょうきんを開いて語ればお互に何のわだかまりもなく打解ける事が出来た。が、最早余命のきまったかれ、再び快く語る機会は恐らく最う与えられまいと思うと何となく名残が惜まれ、最後の会食を一緒にしたいような気がしたが、病気が病気だからそれもならず、壮健じょうぶの時と同じように平気な顔をして談笑していてもおのずと憂愁に閉ざされて話を途切らしがちだった。
「あア、あア、」とやがて平手ひらてで左の肩をたたきながら、「何しろ流動物ばかりだから、腹にこたえがなくてつかれる。カラキシ意気地がなくなッちゃった。」
といいつつ椅子いすったので、一緒に席を離れて淋しい後影うしろかげを店先まで送り出した。
「じゃア君、頼むよ、一時間でも早く届くように。」と待たして置いたくるまに乗移って、「片脚かたあし棺桶かんおけに掛ってるんだから気が短かくなった。」
と、病み衰えた顔に淋しい微笑を浮べ、梶棒かじぼうの上ると共に互に黙礼をかわしてわかれた。暫らくは涙ぐましく俥の跡を目送みおくったが、これが紅葉と私との最後の憶出おもいでの深い会見であった。
 それから二タ月ほど経って、いよいよ重態となったと聞いて門口かどぐちまで見舞に行ったが、その時は最うドッとまくらいて普通の見舞人には面会を謝絶していた。
 間もなく紅葉のは伝わって、世をこぞってこのたぐい少ない天才のくを痛惜したが、訃を聞くと直ぐ、私は弔問して亡友の遺骸に訣別わかれを告げた。晩年暫らく相乖離あいかいりしていたのを衷心遺憾に思いながらも、最後の会見に釈然として何もも忘れ、笑って快く一時間余りも隔てなく話したのはめてもの心遣こころやりであった。が、暫らく交際が途絶えていたので、硯友社同人や門下の人々は私のもとには死亡の通知さえよこさなかったが、永眠する前三月みつきに紅葉と笑って最後の訣別を叙した私は、如何いかに疎隔していても紅葉を親友の一人と見ていた。
 だが、自分の死期の迫ってるのを十分知りながら余り豊かでない財嚢ざいのうから高価の辞典を買うを少しも惜まなかった紅葉の最後の逸事は、死の瞬間までも知識の欲求を決して忘れなかった紅葉の器の大なるを証する事が出来る。この紅葉の最後のページを飾るに足る美くしい逸事は誰も知らぬと見えて誰の口からも世間に伝わらなかった。
 紅葉は決して豊かでなかった。先年或る雑誌に、紅葉は生前三円五十銭の画だか骨董だかを買えなかったほど窮していたという逸話が見えた。紅葉は豈夫まさかに三円五十銭やそこらのものを買えないほど窮していなかったが、こういう馬鹿々々しい誤聞が伝わるのも万更まんざらでないほど切詰めた生活であった。しかるに不起の病にかかって、最早余命いくばくもないのを知りつつも少しもみだれないで、余り余裕のないふところから百何十円を支払って大辞典を買うというは知識に渇する心持の尋常でなかった事が想像される。あるいは最後の床の上で、『ノートル・ダーム』の翻訳を推敲すいこうしていたからであったかも知れないが、それならばなお更、死のふちひんしてすらも決して苟且かりそめにしなかった製作的良心の盛んであったを知るべきである。
 普通ならば医者から三月しか寿命のないのを申渡もうしわたされて死後を覚悟すべき時である。いささかでも余財があれば家族のために残して置く、さらずば自分のための養生喰いをする乎、病気のために食慾の満足が得られないなら慰みになるものでも買うのが普通である。病気のためにも病床の慰みにもまた死後のはかりごとの足しにもならないこういう高価の大辞典を瀕死の間際まぎわに買うというは世間に余り聞かないはなしで、著述家としての尊い心持を最後の息を引取る瞬間までも忘れなかった紅葉の最後の逸事として後世に伝うるを値いしておる。
 有体ありていにいうと、私は紅葉の著作には世間が騒ぐほどに感服していなかった。その生活や態度や人物にもあきたらなく思う事が多かった。私が文学のためというよりは実は紅葉のために常に苦言を反覆したのは畢竟ひっきょう紅葉の才の凡ならざるを惜んで玉成したかったためであるが、これがために紅葉から含まれて心にもなく仲違なかたがいするようになった。が、瀕死の瀬戸際に臨んでも少しもくじけなかった知識の向上慾の盛んなるには推服せざるを得なかった。紅葉は真に文豪の器であって決してただの才人ではなかった。
(大正十四年三月補訂再記)





底本:「新編 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店
   1994(平成6)年2月16日第1刷発行
   2008(平成20)年7月10日第3刷発行
底本の親本:「思ひ出す人々」春秋社
   1925(大正14)年6月初版発行
初出:「きのふけふ」博文館
   1916(大正5)年3月5日発行
※底本の奥付では「新編 おも人々ひとびと」となっています。
※初出時の表題は「硯友社のむかしの憶出」です。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2014年6月12日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「口+需」、U+5685    205-5


●図書カード