最後の大杉

内田魯庵





 大杉おおすぎとは親友という関係じゃない。が、最後の一と月を同じ番地で暮したのは何かの因縁であろう。大杉が初めて来たのは赤旗事件の監房生活から出獄して間もなくだった。淀橋よどばしへ移転してから家が近くなったので頻繁ひんぱんに来た。思想上の話もしたし、社会主義の話もしたが、肝胆相照らしたというわけでもないから多くは文壇や世間のうわさばなしだった。
 大杉は興味がかなり広くて話題にも富んでいた。近年ファーブルのものをしきりに飜訳していたが、この種の文学的乃至ないし学術的興味を早くから持っていて、主義者はだよりはむしろ文人肌であった。小説も好きなら芝居も好き、性的研究などにも興味を持って、性的研究に率先した小倉清三郎の「相対」の会などにも毎次出席して、く「相対」の会の噂をした。
 百人町ひゃくにんちょう移転ひっこしてから家が遠くなったので自然足が遠のいた。如之のみならず、神近かみちか野枝のえさんとの自由恋愛を大杉自身の口から早く聞かされたが、常から放縦な恋愛を顰蹙ひんしゅくする自分は大杉のかなりに打明けた正直な告白に苦虫にがむしつぶさないまでも余り同感しなかったのを気拙きまずく思ったと見えて、家が遠くなると同時に足が遠のいてしまった。日蔭ひかげの茶屋の事件があった時、早速見舞の手紙を送ると直ぐ自筆の返事をよこしたが、事件が落着してもそれぎり会わなかった。それから程経ほどたって野枝さんと二人で銀座をブラブラしている処へ偶然邂逅でっくわし、十五分ばかり立話しをした事があったが、それ以来最近の数年間はただ新聞で噂を聞くだけであった。
 大杉が仏蘭西フランスから追返され、神戸へ帰着して出迎えの家族と一緒に一等寝台車で東上した記事が写真入りで新聞をにぎわしてから間もなくだった。或る朝突然大杉さんがいらしったと家人が取次いだ。大杉何という人だとくと、大杉さかえさんで皆さん御一緒ですといった。近頃何年にも顔を見せた事がない大杉が、シカモ家族をれて来るというは余り思掛けなかったが、く二階へ通せと半信半疑でいうと、やがてトントン楷段はしごを上って来たのは白地の浴衣ゆかたの紛れもない大杉であった。数年前の大杉と少しも違わない大杉であった。そのあとから児供こどもを抱いて大きなおなかの野枝さんと新聞の写真でお馴染なじみの魔子ちゃんがついて来た。
 野枝さんとは数年前に銀座で邂逅であった時に大杉が紹介してくれた。が、十分か十五分の立話中、大杉から遠く離れていたからこの日が初対面同様であった。これが魔子で、これがルイゼで、この外にマダ二人、近日お腹を飛出すのもマダあるといって笑った。以前から見ると面差おもざしおだやかになって、取別とりわけて児供に物をいう時は物柔ものやさしく、こうして親子夫婦並んだ処は少しも危険人物らしくも革命家らしくもなかった。
「イイお父さんになったネ、」と覚えずいうと、野枝さんと顔を見合わしてアハハハと笑った。


 久しぶりで全家うちじゅうそろいは珍らしいというと、昨日きのう同番地へ移転ひっこして来たといった。ツイそこの酒屋の裏だというから段々くと、近頃まで何とかいう女医が住んでいた家だ。
「あのうちとはお医者さんで、移転ひっこしたてに家のへいかどへ看板を出さしてくれとタウルを半ダース持って頼みに来た、」というと、「そんなら僕も看板を出さしてもらおうかナ」といった。「アナーキストの看板じゃタウルの半ダースぐらいじゃ引受けられない」といって笑った。
 魔子は臆面おくめんのない無邪気な子で、来ると早々私の子と一緒に遊び出した。野枝さんのひざに抱かれたぎりのルイゼはマダあんよの出来ない可愛いい子で、何をいっても合点々々ばかりしていた。アッチもコッチもとお菓子を慾張よくばってべこぼすのを野枝さんが一々拾って世話する処はやはり世間なみのお母さんであった。エンマ・ゴルドマンを私淑する危険な女アナーキストとは少しも見えなかった。「日本ばかりじゃ騒がし足りないと見えて、仏蘭西までも騒がして来たネ。すずめ百までおどりやまずで、コンナに多勢おおぜい子持こもちになってもやはり浮気はやまんと見えるネ」というと、「やはり時代病かも知れない」と大杉はどもりながらいった。
「それでも」と野枝さんは微笑ほほえみつつ、「尾行びこうが申しましたよ。児供が出来てから大変温和おとなしくなったと。」
 大杉が児供を見る眼はイツモ柔和な微笑を帯びて、一見して誰にでも児煩悩こぼんのうであるのが点頭うなずかれた。野枝さんも児供が産れるたびに、児供がおおきくなるごとに青鞜せいとう時代の鋭どい機鋒きほうが段々とまるくされたろうと思う。
 野枝さんは児供を伴れて先きへ帰ったが、大杉は久しぶりでユックリと腰を落付けた。正午になって迎えが来ても根をやして、有合ありあい午飯ひるめしを一緒に済まして三時ごろまでも話し込んだ。仏蘭西から帰りたてなので、巴黎パリで捕縛されて監獄へほうり込まれたはなしをボツボツ話した。もっとまとまった話でなく、ちぎれ断れで思想上の立入った問題には触れなかった。路傍演説をして捕縛された咄はしたが、その演説の内容はきもしなかったし話しもしなかった。ただ仏蘭西人は一般に案外日本人よりも無知で、何しに来たというから社会学を勉強に来たというと、その社会学という言葉の意味のわかるものが少かったという事や、仏蘭西の巡査が人格も知識も日本の巡査よりも低劣で、第一言語からして野卑で、教養ある仏語が全く通じないという事や、仏蘭西の監獄が不整頓ふせいとんで不潔で、囚人の食事が粗悪で分量が少く、どの点から見ても日本の監獄以下であるという事や、何くれとなく仏蘭西をくさした話ばかりした。
「ただ仏蘭西の監獄で便利なのは差入さしいれの自由です。日本同様監獄の前に差入物屋があって、銭さえ出せばどんなウマイものでも、酒でも煙草でも買う事が出来ます。僕は余り酒をらんが、書物しょもつは格別持たず、面会に来るものはないし、退屈でたまらんから白葡萄酒を買ってゴロゴロしながらチビチビ飲む。三日で一本明けたが、終日陶然としてイイ心持でした。銭さえあれば仏蘭西の監獄はさほど苦しくない。当てがいの食物が足りなくても不味まずくても差入物屋から取りさえすれば相当な贅沢ぜいたくが出来ます。気楽に読書でもしていようてには仏蘭西の監獄は贅沢が出来て気が散らんから持って来いですよ。」
 そんな話をして半日を何年ぶりで語り過ごした。


 それから四、五日して銭湯で会った。魔子を伴れて洗粉あらいこ石鹸せっけんや七ツ道具をそろえて流しを取ったこの児煩悩のお父さんが、官憲から鬼神のように恐れられてる大危険人物だとは恐らく番台の娘も流しの三助さんすけも気が付かなかったろう。が、表へ出て見ると湯屋の角の交番で飛白かすりの羽織の尾行が張番はりばんをしていた。
 ツイ眼と鼻との間におりながらそれぎり大杉は来もしなかったし、私もお産があったと聞いたが見舞にも喜びにも行かなかった。が、大杉は始終乳母車うばぐるまへ児供を乗せて近所を運動していたから、能く表で出会っては十分十五分の立話しをした。魔子は毎日遊びに来たから全家うちじゅう馴染なじみになり、姿を見せない日はほとんどなかったから、大杉や野枝とは余り顔を合わせないでも一家の親しみは前よりは深かった。
 九月一日の地震のあと、近所隣りと一つにかたまって門外で避難していると、大杉はルイゼを抱いて魔子を伴れてやって来た。
「どうだったい。エライ地震だネ。君の家は無事だったかネ?」と訊くと、
「壁が少し落ちたが、大した被害はない。だが、吃驚びっくりした。家がつぶれるかと思った。」
下町したまちはヒドかろうナ。安政ほどじゃなかろうが二十七年のよりはタシカに大きい。これで先ず当分は目茶苦茶だ。」
「だが僕は、毎日々々セッ付かれて困ってたんだから、地震のおかげで催促の手が少しはゆるむだろうと地震に感謝している、」と軽く笑った。何でも大杉は改造社とアルスから近刊する著書の校正や書足かきたしの原稿に忙殺されていたのだそうだ。
 かれこれ一時間も自分たちと一緒に避難していたろう。余震の絶間たえまなくる最中で、新宿から火事が出たとか、帝劇が今燃えてるとかいう警報が頻りであったので、近所隣りの人々がソワソワしてったり来たりしていた。
 そこへ安成二郎やすなりじろうがコダックを下げて来て、イイ獲物もがなとソコラココラの避難の集まりを物色していた。
「ドウだい、」と私は安成に向っていった。「大杉に何処どこかソコラの木の下に立ってもらってアナーキストの避難は面白かろう。」
 大杉は笑っていた。安成がこの写真をったらい記念だったろうに、惜しい事をした。(後に聞くと、それから大杉の自宅へ行って大杉夫妻を庭前でうつしたのだが、名人だから光線が入ったのだそうだ。)
 その晩は恐怖に明けて翌る朝、近所の川本かわもとの原に大勢おおぜい避難していると聞いて容子を見に行った戻りに大杉の家を尋ねると、マダ寝ていたが私の声を聞くと起きて来た。
く家の中に寝たネ、」というと、
「大抵大丈夫だろうと度胸をきめて家の中で寝た。尤も、」とへいの外をして、「彼処あそこへ避難所をこさいて置いて、ざといえば直ぐ逃げ出す用意はしていた。アナーキストでも地震の威力にはかなわない、」と笑った。
 九月の上半は恐怖時代だった。流言蜚語ひごは間断なく飛んで物情恟々きょうきょう、何をするにも落付かれないで仕事が手に付かなかった。大杉も引籠ひきこもって落付いて仕事をしていられないと見えて、日に何度となく乳母車を押しては近所を運動していたから、表へ出るとは番毎ばんこ邂逅であった。遠州縞えんしゅうじまの湯上りの尻絡しりからげで、プロの生活には不似合いな金紋黒塗きんもんくろぬりの乳母車を押して行く容子はかかえの車夫か門番が主人の赤ちゃんのお守をしているとしか見えなかった。地震の当座、私の家の裏木戸は大抵明け放しになっていたので、く裏木戸からヒョッコリ児供を抱いてノッソリ入って来ては縁端へ腰を掛けて話し込んだ。
 日は忘れたが或る晩、夜警の提灯ちょうちんを持って家の角に立ってると、買物帰りらしい野枝さんが通り掛って声を掛けた。左の手には大きな部厚ぶあつの洋書を二冊抱え、右には新聞と小さな風呂敷包ふろしきづつみを下げていた。
「報知の夕刊を御覧なすって?」
いいエ。」その頃はマダ新聞が配達されなかった。
「鎌倉は大変ですワ。八幡さまが潰れて大仏さまが何寸とか前へ揺り出しましたって。御覧なさいまし、」と手に持つ新聞を見せた。
 提灯の照明あかりではハッキリ解らなかったが、ちょっとのぞいて直ぐ返すと、
「お宅へ持ってらしって御覧なさいまし、」としきりにいったが、野枝さんも今買って来たばかりでマダ読まないらしいので無理に押返した。
「夜警は大変ですワネ。家から椅子を持って参りましょうか。イクラもありますから。」
「イエ、家にも持ってくればあるんですが、面倒だもんですから。」
「そうですか。でもお草臥くたびれでしょうネ。大杉も御近所同士で家の角へ夜警に毎晩出ておりますワ。町内のお附合いですもの、」と野枝さんはいった。
 能く大杉は夜警に出ると思ったが、実際毎晩ステッキを持って、自宅の曲り角へ夜警に出ていたのを見た。


 鮮人襲来の流言蜚語が八方に飛ぶと共に、鮮人の背後に社会主義者があるという声がイツとなく高くなって、鮮人狩が主義者狩となり、主義者の身辺が段々危うくなった。この騒ぎを余所よそに大杉は相変らず従容しょうようとして児供の乳母車を推して運動していた。
「用心しなけりゃイカンぜ」と或時邂逅であった時にいうと、
「用心したって仕方がない。つかまる時は捕まる」と笑っていた。後に聞くと、大杉に注意したものは何人もあったが、事実この頃の大杉は社会運動からは全く離れて子守ばかりしていたから、危険が身に迫ってるとは夢にも思ってないらしかった。
 或る夕方、夜警に出ていると、警官が四、五人足早に通り過ぎながら、今二人れて来るからっちゃア不可いかんぞと呼ばわった。その頃の自警団は気が立っていて、警吏が検挙して来たものにさえ暴行を加えてはばからなかったからだ。
 誰か挙げられるナ、主義者だろうと、誰いうとなく予覚して胸を躍らしていると、やがて七、八人の警吏が各々めいめい弓張ゆみはりを照らしつつ中背ちゅうぜいの浴衣掛けの尻端折しりはしおりの男と、浴衣に引掛ひっかけ帯の女の前後左右を囲んで行く跡から四、五十人の自警団が各々提灯ちょうちんを持ってゾロゾロいて行った。
 提灯の薄明りで夜目にはシカと解らなかったが、背恰好せかっこうが何となく似ていたので、「大杉じゃないか知らん、」と、ハッと思って急に不安になったので、大杉の家へ曲る角の夜警の集まりへ行った。そこにはいつでも警吏がいた。
「今のは鮮人ですか?」と訊くと、「鮮人じゃない、」と誰かが答えた。
「ドコで挙げられたんですか、」と重ねて訊くと、「ぐソコの自宅で挙げられたんだ」と同じ人が答えた。
「大杉じゃないですか、」と思切って明らさまに訊くと、
「イヤ、大杉じゃない。大杉は家にいる、」と警察官らしいのが答えた。
 それでヤッと安心したが、マダ何となく不安で、家へ帰って床に就いてからも警吏と自警団に護送されて行く男女の後姿が眼にチラクラした。(後に聞くと、この男女は直ぐ近所の近頃検挙された或る社会主義者の家の留守番をしている某雑誌記者で、女は偶然居合わした主義にも何にも関係のないものだそうだ。この男は沖縄人で相貌そうぼうが内地人らしくないのでうからねらわれていたのだそうだと、当人が後に来ての話である。)
 その頃から大杉に対する界隈かいわいの物騒な噂が度々耳に入った。大杉は外国の無政府党から資金を持って来て革命を起そうとしているとか、大杉は毎晩子分を十五、六人も集めて隠謀を密議しているとか、「あんな危険人物が町内にいては安心が出来ないからヤッつけてやれ」とか、或る近所の自警団では大杉を目茶苦茶になぐってやれという密々の相談があるとか、うそまことか知らぬがそういう不穏の沙汰を度々耳にした。随分相当分別のある人までがそういう虚聞を信じて、私と大杉とが交際あるのを知らないで、「アナタのお宅の裏には大変な危険人物がいて、毎晩多勢おおぜい集って隠謀をたくらんでるそうです、」と告げたものもあった。同じ近所の或る口利きの男は、これも大杉と私と友人関係であるのを知らないで、「柏木かしわぎには危険人物がある、大杉一味の主義者を往来へならべて置いて、片端かたっぱしからピストルでストンストン打ったら小気味こきみかろう」とパルチザン然たる気焔きえんを吐いてイイ気持になってるものもあった。
 こういう危険な空気が一部にかもされてるのを知ってるのか知らないのか、大杉は一向平気で相変らず毎日乳母車を押していた。近所に住む大杉の或る友達がそれとなく警戒したが、迫害にれてる大杉は平気な顔をして笑っていたそうだ。ただ笑ってるばかりならイイが、「俺をつかまえようてには一師団の兵がる」ナドト大言していた。大杉にはこういう児供げた見得みえを切って空言を吐く癖があったので、この見得を切るのが大杉を花やかな役者にもしたが、同時に奇禍を買う原因の一つともなった。


 九月の十六日の朝九時頃、大杉は野枝さんと二人連れで、二人とも洋装で出掛けるのを家人は裏庭の垣根越しにチラと見た。直ぐ近くの聖書学院の西洋人だろうと思ってると、丁度遊びに来ていた魔子も後影うしろかげを見ると周章あわてて垣根の外へ飛び出したが、すぐ戻って来て、「家のパパとママよ」といった。
 その日の午後魔子は来て「パパとママは鶴見つるみ叔父おじさんとこへ行ったの。今夜はお泊りかも知れないのよ」といった。
 それぎり大杉は姿を見せなかった。が、自分もその頃余り表へ出なかったから大杉を見掛けないでも格別気にも留めなかった。
 二、三日経つと大杉が検挙されたという風説が立った。その前にも地方から来た或る男が、大杉は拘留されて留置かんへ入れられたまま火事で焼死やけしんだそうだネというから、大杉は直ぐこの近所にいて、毎日乳母車を押して運動しているといって無根の風説を笑った事があるので、た例の風説かと一笑に附していた。
 するとその翌る晩、十一時過ぎに安成が来て、「大杉が行方不明ゆくえふめいとなりました、」とひど昂奮こうふんして、「十六日鶴見へ行ったぎりで帰って来ません。家でも心配して八方捜しているがサッパリ踪跡ゆくえが解りません。検挙されたなら検挙されたでドコかの警察にいそうなもんですが、ドコの警察にもいません。警察では検挙したものを検挙しないとかくす事は絶対にないので、全く警察にはいないようです、」と満面不安の色をたたえて昂奮して話した。
 血腥ちなまぐさい噂がそこら中に広がってる時である。女のような美術家が袋叩ふくろだたきにされて半死半生になったという噂も聞いている。温厚玉のような君子がれっきとした官職の肩書かたがききの名刺を示しても聞かれないで警察へ拘留されたという話も聞いている。ましてや大杉のような官憲からもにらまれ民衆の一部からものろわれてる人間は何時いつどんな処で奇禍を買わないとも限らんから、行方不明になったと聞くと不安に堪えられなかった。
 安成は、その日あたかも戒厳軍司令官を初め二、三の陸軍の重職が交迭し、一大尉一特務曹長そうちょうが軍法会議に廻されたという明日発表される軍憲の移動を話して、こういう重職の交迭は決して尋常事ただごとではない。よほどの重大な原因がなければならない。当局者の言明に由れば数日前に突発した事件に関聯するというが、その突発事故というのは何だか、マダ発表を許されないと堅く緘黙かんもくしている。が、ウッカリ当局者がすべらした口吻くちぶりに由ると不法殺人であって、殺されたものは支那人や朝鮮人でないのは明言するというのだ。
「どうもそれが大杉らしいのです、」と安成は痛く昂奮していた。
 ヨモヤとは思うが、大杉は野枝と一緒に鶴見の弟の家からすえの妹の子を伴れて、弟に送られて川崎まで帰って来たのはタシカで、それから先きが行方不明なのだそうだ。マサカに足弱あしよわを連れて交通の不便なこの際に野越え山越え行方をくらましたとは思われない。ドコかに拘留されてるに違いないが、ドコの警察にもいないとすれば陸軍より外にはない。が、陸軍では知らないという。が、支那人でも朝鮮人でもないものを殺した不法殺人で戒厳軍司令官初め二、三の重職が解職され、一、二の軍憲が司法へ廻されたというこの日の突発事件はヨモヤとは思うがドウも大杉と関聯しているらしいというのが安成の憶測であった。
 が、その翌る日も、そのまた翌る日も魔子は相変らず遊びに来た。児供の事で周囲の不安には一向感じないらしく、毎日来ては家の児供と一緒に歌を歌ったりダンスをしたりして無邪気に遊んでいた。大杉の家もヤヤ人出入ひとでいりしげく取込んでるらしく想像されたが、安成もそれぎり見えないので、不安を感じながら身辺の雑事に紛れていると、或時魔子がイツモの通り遊びに来ていると家から迎えが来て帰った。暫らくするとた来て、新聞社の人が来て写真を撮ったのよといった。新聞社が児供の写真を撮りに来たというは尋常ではないので、恐ろしい悲痛な現実に面する時が刻々迫って来たような感じがした。
 その翌日である、大杉の非業の最期が公表されたのは。恐ろしい予感が刻々迫って来て、こういう悲惨を聞く日があるのを予期しない事はなかったが、その日の朝刊の第一面の大活字を見た時は何ともいい知れないおののきが身体中からだじゅうを走るような心地ここちがした。殊に軍憲から発表された大杉外二名の一人がマダ可憐かれんな小児であると思うと、三族をちゅうする時代の軍記物語か小説かでなければ見られない余りの残虐に胸が潰れた。
 朝の食卓は大杉夫婦を知る家族の沈痛な沈黙の中に終った。今日も魔子は遊びに来るかも知れないが、「魔子ちゃんが来ても魔子ちゃんのパパさんのはなしをしてはイケナイよ、」と小さい児供を戒めた。何にも解らない小さい児供たちも何事か恐ろしい事があったのだという顔をして、黙って点頭うなずいていた。
 暫らくすると魔子は果して平生いつもの通り裏口から入って来た。家人を見ると直ぐ「パパもママも死んじゃったの。伯父さんとお祖父じいさんがパパとママのお迎えに行ったから今日は自動車で帰って来るの、」といった。お祖父さんというのは東京より地方へ先きに広がった大杉の変事を遠い郷里の九州で聞いて倉皇そうこう上京した野枝さんの伯父さんである。
 茶の間へ来て魔子は私の妻を見てた繰返した。「伯母おばさん、パパもママも殺されちゃったの。今日新聞に出ていましょう。」
 私は児供たちに「魔子ちゃんのお父さんの咄をしてはイケナイよ、」と固く封じて不便ふびんな魔子の小さな心を少しでもいためまいとしたが、怜悧れいりな魔子は何も彼も承知していた。が、物のわきまえも十分でない七歳の子である。父や母の悲惨な運命を知りつつもイツモの通り無邪気に遊んでいた。おなどしの私の児供は魔子を不便がったと見えて、大切だいじにしていた姉様あねさまや千代紙を残らず魔子にってしまった。


 その日は大杉の遺骸いがいが帰るというので、留守番だけの大杉の家へ二度も三度も容子を聴きに行った。この晩は大杉に親しいものだけが遺骸の前で通夜つやするという予定だったので、午後からは待受けしてボツボツ集まるものがあった。自働車の音の響く度毎たんびに耳を傾けたが、イツまで待っても帰って来なかった。その中に遺骸は直ちに自宅へ引取るはずだったが、余り腐爛ふらんしているので余儀なく直ちに火葬場へ送棺したと知らせて来た。
 その夕方、遺骸を引取って火葬場まで送った近親同志が帰って来た。待受けた我々は官憲の口から語られたという大杉の殺害された顛末てんまつや、引渡された遺骸が腐爛して臭気が鼻をいて近寄る事さえ出来なかったという咄を聞いた。大杉の思想の共鳴者でなくともその悲惨な運命には同情せずにはいられなかった。
 その翌々日の朝、大杉外二名の遺骨は小さな箱へ入れられて自宅に迎えられた。大杉は無宗教であったが、遺骨の箱の前に三人の写真を建て、祭壇を設けて好きな葡萄酒と果物を供えた。その晩は近親と同志とホンの少数の友人だけが祭壇の前に団居まどいして、生前を追懐しつつ香を手向たむけて形ばかりの告別式を営んだ。門前及び附近の要所々々は物々しく警官が見張って出入するものに一々眼を光らした。折悪おりあしく震災後の交通がマダ常態に復さないので、電車の通ずるよいうちに散会したが、罪の道伴みちづれとなった不運の宗一の可憐な写真や薄命の遺子の無邪気に遊び戯れるのを見ては誰しも涙ぐまずにはいられなかった。大杉の一生を花やかにした野枝さんとの恋愛の犠牲となった先妻の堀保子も、イヤで別れたのでない大杉に最後の訣別わかれを告げに来て慎ましやかに控えていたが、恋と生活とにやつれた姿は淋しかった。(大杉と別れた後の堀保子は大杉は必ず再び自分のふところに戻ってくるものと固く確信して孤独の清い生涯を守っていたが、大杉が果敢はかなくなった後はその希望も絶えて、同棲時代からの宿痾しゅくあにわかかさなって、去年の春ついに大杉の跡を追って易簀えきさくした。大杉の生涯は革命家の生血なまちしたたる戦闘であったが、同時に二人の女にもつれ合う恋のどもえの一代記でもあった。)
 告別式の済んだ跡の大杉の家は淋しかった。遺子を中心として野枝さんの伯父さん老夫妻と大杉の実弟と、大杉の異体同心たる数四の同志に守られていた。刑事の眼は門前に光って看慣みなれぬものは一々誰何すいかしたから、誰もイイ気持がしないで尋ねるものが余りなかった。いよいよ明日は一と先ず郷里へ引上げるというその前夜、長い汽車の旅の児供の眠気ざましにもといささかのはなむけを持って私の妻が玄関まで尋ねた時も誰何され、何の用事かと訊問された。
 十月二日だった。五人の遺子は野枝の伯父さん老夫婦に伴われてこの恨の多い父の家を跡に郷里へと旅立った。親しい友や同志に送られて行ったが、魔子は先きへ立って元気よく「さよなら、さよなら!」といってけて行った。パパもママも煙のように消えてしまったかなしみをも知らぬ顔の無邪気の後ろ姿が涙ぐましかった。
(大正十二年九月記 ○大正十三年十月補筆 ○改造社出版『大正大震火災誌』中所掲「甘粕対大杉事件」参照)

追記

 大杉が警察のスパイであって主義者の秘密を供給していたので、大杉殺害が警察と陸軍との反目になったという噂が当時或る一部に広がった。近頃また警視庁の特高課とスパイの関係が暴露されて問題となったについて、警視庁のスパイには往々意外の人があるという話から大杉もまたスパイであったようににおわした或人の談話が某紙に載っておる。
 一体噂ぐらいアテにならぬものはないので、大抵な噂の出処が出鱈目でたらめである。出鱈目でないはずの当事者や関係者の話からしてアテにならぬのが多い。大杉が果してスパイであった否乎のなぞは大杉自身がかぎを握ってるので、余人の推測は余りアテにならないが、大杉がもし果して真にスパイであったなら問題の何とかいう男のように月給何百円ももらって自働車で出入しないまでもう少し貧乏しないでも済んだろう。貧乏してまでも同志を欺く苦肉のはかりごとをしておかみの御用を勤めていたというなら、それこそ楠正成くすのきまさしげほどでなくとも赤穂あこうの義士ぐらいに値踏み出来る国家の功労者である。おき横川よこかわと一緒に招魂社にまつられてもイイわけだ。
 大杉は時偶ときたま金が手に入るとむやみと自働車を飛ばしたりして不相当な贅沢ぜいたくをするので同志者の反感を買った。この贅沢の資本がもしスパイの報酬として請取うけとった金なら公々然と同志の前で札びらを切る事は豈夫よも出来なかったろう。大杉は一時は米塩べいえんにも事欠ことかいた苦境にくるしんでいた事もあったが、最後の柏木に落付いた時は八十円の家賃を払い、奉公人も置き、夫婦から児供までが洋装でかなり贅沢な生活をしていた。が、これがもしスパイの余得であったなら同志を欺くためにもこういう不当所得のかされるような真似まねは決してなかったろう。
 大杉が誰の口入くにゅうであったかまたどういう名目であったか知らぬが後藤子爵から若干金(タシカ三百円だと思った)を貰ったのは大杉自身から聞いている。私に話したくらいだから公々然と誰に話しても差支さしつかえない金であったのだろう。また大杉が警視庁に頼まれて仏訳の法華経ほけきょうの賃訳をした咄もやはり大杉から聞いた。一体仏典を欧洲語から邦訳するというも逆な話であるし、第一警視庁が何の必要があって法華経を訳させたのか、すこぶ変梃へんてこな話であるが、これは大杉を窮地におとしいれて自暴自棄させないための生活の便宜を与える高等政策であったろう。後藤子爵が何らかの名目で金を与えたのもやはり同じ意味で、大杉を手馴てなずけて犬とするツモリでもなかったろうし、また高が三百円かそこらの僅かばかりの目腐れ金に尻尾しっぽを振る大杉でもなかった。(危険人物の激発を緩和する手段としてのこの種の高等政策は一向珍らしくないので、幸徳秋水こうとくしゅうすいも長い肺患の療養費を或る筋から給せられていたはずである。)
 大杉の巴黎パリへ行った洋行費が問題となった。後藤子爵から或る中間者を通じて与えられたという説があるが、大杉が子爵から何百円かをもらったのはモウ十四、五年も前で、二者の関係が今まで長く継続していた乎否乎は疑問である。大杉が柏木へ移転して来て久しぶりで会った時、私が第一に訊いたのはまたこの洋行費の出処であった。「本屋へ出鱈目のウソをついて七処借ななとこがりをしたのサ、」と大杉はいった。大杉の本が売れるにしたところで二軒や三軒の本屋で欧羅巴へ出掛ける旅費が調達出来るかとその時は疑ったが、死後に大杉が本屋に残した負債が一万円以上ある事を聞いて打明け咄のまるきりウソでなかった事が解った。大杉がいよいよ帰朝するからと送金を打電した時に野枝が調達に奔走して七処借をしてやっとこさと工面したという咄は大杉の帰朝前に聞いている。それ以外に領事館からも汽船賃その他を立換えてもらったそうだ。神戸へ帰着してから出迎えの野枝や児供と共に一等寝台車で東京へ帰った汽車賃は大杉の自由行動を防止して同志から遮断しゃだんする必要上官憲が支弁したのである。前後の事情から考えて見てもこの疑問の渡欧費は全部が本屋から調達したのでなくとも、後暗うしろぐらい金の出場でばが別にあったとは思われない。
 歴史上の事実には、今だに真相が解らなくて黒白のハッキリしない人物が少くない。大杉が果してスパイであった乎否乎はマダ謎であるが、大杉の人物性行や日常生活から推してスパイであったとはドウしても考えられない。大杉は直情径行でスパイの勤まるがらではない。もしその一本気いっぽんぎ肝癪かんしゃく傍若無人ぼうじゃくぶじん傲岸ごうがんが世間や同志を欺くの仮面であるなら、それは芝居が余り巧み過ぎる。ワザワザ旅費をつかって仏蘭西まで行って、仏蘭西の監獄に入れられて仏蘭西人までを欺く必要もなかったろう。
 芝居乎何乎は知らぬが大杉はアナーキストとして死んだ。百年まれに見る自然の大破壊を背景として大陸軍を背後に控える一軍憲の手でアナーキストに相応ふさわしい最後の幕を閉じた。欧洲戦の開幕の血祭となったジョーレスの運命はあたかもこれに等しいもので、殺害当時大杉はしばしばジョーレスと比較されたが、ジョーレスの遺骸は今やパンテオンにまつられようと騒がれておるそうだ。骨となってまでも宙宇にさまよった大杉は永久に浮ぶ瀬はあるまいが、鼠色でも鳶色とびいろでも歴史上の大立物おおだてものとなったのはめてもの満足であろう。
(大正十三年十月追記)





底本:「新編 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店
   1994(平成6)年2月16日第1刷発行
   2008(平成20)年7月10日第3刷発行
底本の親本:「思ひ出す人々」春秋社
   1925(大正14)年6月初版発行
初出:「読売新聞」
   1923(大正12)年10月2日〜6日、8日
※初出時の表題は「此頃の大杉の思い出」です。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2014年7月16日作成
青空文庫作成ファイル:
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