美妙斎美妙

内田魯庵




一 欧化熱の早産児


 丁度この欧化主義の最絶頂に達して、一も西洋、二も西洋と、上下有頂天うちょうてんとなって西欧文化を高調した時、この潮流にさおさして極端に西洋臭い言文一致の文体をはじめたのがたちまち人気を沸騰して、一躍文壇の大立者おおだてものとなったのは山田美妙斎やまだびみょうさいであった。美妙斎はあたかも欧化熱の人工孵卵器ふらんきで孵化された早産児であった。
 これより先き美妙斎は薩摩さつまの美少年の古い物語を歌った新体詞を単行本として発表した。外山とやま博士一流の「死地に乗入る六百騎」的の書生節しょせいぶしとは違って優艶富麗の七五調をならべた歌らしい歌であったが、世間を動かすほどに注意をかないでしまった。が、この詩を発表した時が十八だというから、美妙の早熟の才は推して知るべきである。
 美妙斎の名が初めて世間を騒がしたは『読売新聞』で発表した短篇「武蔵野むさしの」であった。極めて新らしい言文一致と奥浄瑠璃おくじょうるりの古い「おじゃる」ことばとが巧みに調和した文章の新味が著るしく読書界を驚倒した。「美妙斎とはドンナ人だろう?」と、当時美妙斎の作を読んだものは作者の人物を揣摩しませずにはおられなかった。が、新聞で読んで感嘆したのはマダ一部少数者だけであったが、越えて数月この「武蔵野」を巻軸として短篇数種を合冊した『夏木立なつこだち』が金港堂きんこうどうから出版されて美妙斎の文名が一時に忽ち高くなった。
 丁度同時に硯友社けんゆうしゃの『我楽多文庫がらくたぶんこ』が創刊された。紅葉こうようさざなみ思案しあんけんを競う中にも美妙の「情詩人」が一頭いっとうぬきんでて評判となった。続いて金港堂から美妙斎を主筆とした『都之花みやこのはな』とが発行されて、純文芸雑誌としてのエポックを作ったので、美妙斎の名は忽ち喧伝けんでんされて、トントン拍子に一方の旗頭はたがしら成済なりすましてしまった。
 今日の金港堂は強弩きょうどすえ魯縞ろこう穿うがあたわざる感があるが、当時は対抗するものがない大書肆だいしょしであった。その編輯へんしゅうに従事しその協議にあずかるものは皆錚々そうそうたる第一人者であった。しかるにこの大勢力ある金港堂が一大小説雑誌を発行するにあたって如何いかなる大作家でも招き得られるのにやっ二十歳はたちを越えたばかりの美妙をへいして主筆の椅子いすを与えたのは美妙の人気が十分読者をくに足るを認めたからであろう。その頃金港堂の編輯を督していたのは先年興津おきつで孤独の覊客きかくとして隠者の生涯を終った中根香亭なかねこうていであった。が、『都之花』については美妙が一切を主宰して香亭はただ巻尾に謡曲の註釈を載せただけであった。その時は明治二十一年の春であった。
『都之花』以前に『芳譚ほうたん雑誌』とか『人情雑誌』とかいう小説雑誌があった。が、皆戯作者げさくしゃの残党に編輯されていたので、内容も体裁も古めかしくて飽かれていた。『都の花』はあたかも世間が清新の読物に渇する時に生れたので、忽ち当時の雑誌のレコードを破って、美くしい花やかな気持の好い表紙が新らしい気分をみなぎらして若い読書家の心をそそった。したがってその主筆たる美妙の位置と人気とは当時の文学青年の羨望せんぼうの中心であった。
『我楽多文庫』は『都之花』に先んじて、硯友社の名は新時代の若い文人の集団としてその時既に読書界を騒がしていた。二者を比較すると『都の花』は羽二重はぶたえ黒紋付くろもんつきの如く、『我楽多文庫』は飛白かすりの羽織の如き等差があった。その代りに前者はドコとなく市気があったが、後者は微塵みじん算盤気そろばんけがなくて自由な放縦な駄々だだ気分を思う存分に発揮していた。ドチラにも各々長所があってそれぞれ人気を呼んだが、美妙斎はこの二雑誌にまたがって、あたかも政党の領袖りょうしゅうであって内閣の椅子に座しているような観があったから声望隆々として硯友社同人を圧していた。紅葉でさえが当時はなお微々として、美妙に対しては太陽の前の月ほども光らなかった。
 美妙と紅葉とはと同じ町に育って同じ学校に学び、ある時は同じ家に同宿して同じ文学に志ざし、相共あいともに提携して硯友社を組織した仲であった。然るに『我楽多文庫』公刊匆々そうそう二人が忽ち手を別ってしまったはいわゆる両雄ならび立たずであって、陽には磊落らいらくらしく見えて実は極めて狭量な神経家たる紅葉は美妙が同人に抜駈ぬけがけして一足飛びに名を成したのを余り快よく思わなかったらしい。が、『我楽多文庫』の基礎がマダ固まらないうちに美妙が『都之花』にはしって別に一旗幟きしを建て、あまつさえ自分一人が幸運に舌鼓したつづみを打って一つなべ突付つッついた糟糠そうこうの仲の同人の四苦八苦の経営を余所々々よそよそしく冷やかにた態度と決して穏当おだやかでなかったから、紅葉初め硯友社の同人が美妙を謀反人むほんにん扱いしたのも万更まんざら無理ではなかった。
 が、美妙としてはその時既に『都之花』の外に『以良都女いらつめ』という婦人雑誌を経営し、『女学雑誌』の特別寄書家きしょかとして毎号寄稿し、それ以外にもアチラコチラの新聞雑誌社から寄書を依頼されるという日の出の勢いであったから、紅葉はく他の硯友社同人とするには余りに地位が懸隔し、実際上にも糟糠の友を助けて『我楽多文庫』に寄与するだけの余裕はなかったのだ。紅葉と乖離かいりするのは決して本意ではなかったろうが、美妙の見識は既にびょうたる硯友社の一美妙でなくて天下の美妙斎美妙であったのだ。

二 初対面の印象


 私が初めて美妙と音信したのは『夏木立』発行後間もなくであった。私はその中の「武蔵野」を感嘆した一人であったから、マダ学生の貧しいポッケットの中から『夏木立』をも購読し、『我楽多文庫』をも『都之花』をも愛読していた。
 今から考えると幼稚な鑑賞眼が楽隊入りの異形な文章にくらまされたのだろうが、「武蔵野」には非常に驚嘆した。が、続いて発表された他の諸作には余り感服しなかった。ことに『都之花』の巻頭の呼物よびものとなった「花車はなぐるま」は愚作であると思った。が、偶然の機会から二、三回音信したのが縁となって、偶々たまたま金港堂の編輯所近くへ用達しに行った戻りに天下の人気作者を見るべく刺を通じたのがタシカ明治二十一年の十一月ごろであったと思う。
 応接室に通されておよそ十五分ばかりも待ってると、やがて軽いくつの音が聞えてスウッとドアひらいて現れたのは白皙はくせき無髯むぜんの美少年であった。「私が山田美妙斎でござります」と叮嚀ていねいに会釈された時は余り若々しいので呆気あっけに取られた。美妙が私と同齢の青年であるとは前から聞いていたが、私の蓬頭垢面ほうとうこうめん反対ひきかえてノッペリした優男やさおとこだったから少くも私よりは二、三歳弱齢とししたのように見えた。が、こと二タ言話して見ると極めて世事慣せじなれていて、物ごし態度も沈着払おちつきはらっていて二つも三つも年長としうえのように思えた。何を話したか忘れてしまったが、こんな色の生白なまっちろい若い男があんなうまい文章を書くかと呆気に取られた外には初対面の何の印象も今は残っていない。かえって当の美妙斎よりはその時美妙に紹介された同席の中根香亭の※(「やまいだれ+瞿」、第3水準1-88-62)せいくづるのような表々たる高人の※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)ふうぼうが今でもなお眼に残っている。香亭は幕人であった。亡朝の遺臣として声利を謝し聞達を求めず、『天王寺大懺悔てんのうじだいざんげ』一冊を残した外には何の足跡をも残さないで、韜晦とうかいしてついに天涯の一覊客として興津おきつ逆旅げきりょ易簀えきさくしたが、容易にひつを求められない一代の高士であった。
 二度目に美妙をおとのうたのは駿河台するがだいの自宅であった。水道橋すいどうばし内の※(「白/十」、第3水準1-88-64)莢坂さいかちざかを駿河台へ登り切った堤際どてきわの、その頃坊城伯爵がすまっていた旗本はたもと屋敷の長屋であった。売れッ子の若い人気作者の住居すまいとは思われない古風な武者窓むしゃまどの付いたすこぶ見窄みすぼらしい陰気な長屋であった。(この家はう三十年も前に取毀とりこぼたれてしまった。)精々せいぜい四室よまかそこらの家であったが、書斎を兼ねた八畳の座敷の周囲に大小の本箱を積み重ね、ギッシリつまった和漢洋の書籍が室内を威圧していた。今考えるとそれほどの蔵書ではなかったが、二本立ちの本箱の一つしか持っていなかったその頃の私の眼には非常な大蔵書家であるかのように映った。殊に函入はこいりの『源氏物語』や上海シャンハイ版の函入の石印せきいん本などが馬鹿に光って無知な書生ッぽの私を驚かした。
 その頃の私は文学よりは経済に志ざしていた。が、小説は好きで新刊も旧刊もかなり広く読んでいた。外国小説も語学の研究かたがた少しは見ていた。専門小説家がドレホド広く読んでいたかは知らぬが、読書の量はそれほど負けているとは思わなかった。が、その晩の美妙斎の談が古今東西にわたってかつて聞いた事もない作家の名を五つも六つも聞かされたには我を折って、自分よりも二つも三つも年下に見えるコンナ若々しい青年がドウしてこんなに博識かとけむに巻かれて降参してしまった。どんな話をしたか、この時の談話はスッカリ忘れてしまったが、古今東西に渉った博覧に煙に巻かれてしまった事だけを記憶しておる。

三 得意の絶頂


 その頃徳富蘇峰とくとみそほう朝比奈碌堂あさひなろくどう森田思軒もりたしけんの三人が新らしい文人の会合を思立おもいたって文学会を組織した。蘇峰と碌堂とは新進第一の論客として勢望既に論壇を圧していた。思軒の名声はマダ両者に及ばなかったが、造詣ぞうけい文章はつとに文壇の第一人者と推されていた。この三人が幹事となって文壇各方面の第一流と目される名士を毎月案内して会合した。この文学会は後には次第に有象無象うぞうむぞうを狩集めて結局文人特有の放肆ほうし乱脈に堕して二、三年後に自然的に解体したが、初めは最も選ばれたる少数者の集団であって、当時の私設翰林院かんりんいんもって目されていた。美妙は実に純文学を代表して耆宿きしゅく依田百川よだひゃくせんと共に最始の少数集団にくわわっていたので、白面の書生が白髯の翁と並び推された当時の美妙の人気を知るべきである。
 当時徳富蘇峰の『国民之友』は政治を中心としてあまねく各方面の名士を寄書家に網羅もうらし、鬱然うつぜんとして思想壇に重きをなした雑誌界の覇王はおうであった。この『国民之友』が特別附録として小説を載せ初めたのは従来この種の評論雑誌が漢詩文あるいは国風の外は小説その他の純粋美文を決して載せなかった習慣を破った破天荒の新例であった。随って『国民之友』の附録は著るしく読書界の興味をき、尋常小説読者以外の知識階級者の注目をも集めて世評の焼点となった。かつこれに加えて広告に巧みな民友社が商略上大袈裟おおげさ吹聴ふいちょうしたから、自然この附録に載ったものは大家を公認される形があって、読書界が毎年二季のこの附録を迎うるやあたかも回向院えこういんの番附を見ると同一の感があった。その文壇に重きをなしたは今の『改造』や『中央公論』の附録のようなものでなくて、皮肉な正太夫はこれを称して民友社の大家製造といった。もっともこの大家製造は年々次第に粗製濫造らんぞうとなって、終には民友社の折紙おりがみが余りに権威を持たなくなってしまったが、その初めはこの附録が文人の進士登第と認められていた。
 この新例を創めたのは二十二年の春であって、美妙の新作は春廼舎朧はるのやおぼろの短篇と相並んで第一回の選に入った。当時春廼舎は既に文壇の第一人者として仰がれていたから選に入るのは少しも不思議はないが、新進年少の美妙が春廼舎と並んで推されたのは異数であった。シカモ、美妙は特にその作「蝴蝶こちょう」のための挿画さしえを註文し、普通の画をだも評論雑誌に挿入そうにゅうするは異例であるのを、りに択ってその頃まだ看慣みなれない女の裸体画を註文して容易にれしめたのは、蘇峰に作家の意思を尊重する理解があったからだが、また以て美妙の人気が先例のない無理な註文をすらも容れしめたほど高かったのを証する事が出来る。
 が、この挿画の策略が見事にあたって作その物よりは美くしい女の裸体画が公衆の非常なる好奇心を喚起した。この画は平家の若い美くしい上臈じょうろうだんうらからのがれて、岸へ上ったばかりの一糸をも掛けない裸体姿で源氏の若武者と向い合ってる処で、ツイこの頃も明治の裸体画の初めとして或る雑誌に写真が載せられた。今見れば何でもないまずい画であるが、好奇心から評判になると同時に道学先生の物議をかもし、一時論壇は裸体画論を盛んに戦わして甲論乙駁こうろんおつばくしばらくは止まなかった。美妙自身もまた幼稚な裸体画論を主張して、議論が盛んになればなるほど「蝴蝶」の挿画が益々ますます評判となって、知るも知らざるも皆裸蝴蝶を喧伝した。この評判に蹴落けおとされて春廼舎の洗練された新作を口にするものはほとんどなく、『国民之友』附録に対する人気を美妙が一人で背負せおってしまった。が、実をいうとこの評判は美妙の作よりは省亭しょうていの拙い裸体画の成功であったのだ。今なら当然発売禁止となるべきこういう下劣な裸体画を寛仮した当時の内務省の役人の頭は今の官憲よりも美妙斎よりも進歩していた。S・S・S即ち鴎外おうがいの新声社派の「おも影」が『国民之友』に載って読書界を騒がしたのはこの年の夏の第二回の特別附録の時であって、美妙は文壇的には鴎外よりも早く、春廼舎に次いでのエポック・メーカーであった。
 一方、美妙斎が経営していた『以良都女』は、婦人雑誌としての思想上の位置こそ巌本善治いわもとよしはるの『女学雑誌』に及ばなかったが、美妙の編輯だけに頗る文学的色彩に富み、てて加えて美妙の人気が手伝ってかなりに多数の読者を吸収していた。質も量も今の雑誌と比べては話にならぬが、丁度一と頃売れた『女子文壇』に若干の芸術趣味を加味したような相当な雑誌であった。厳本の『女学雑誌』の素朴に引換えて極めて花やかな色彩を帯び、その寄書欄から多くの若い女の秀才を輩出した。後に美妙と結婚して蜜月の甘い陶酔がめない中に果敢はかない悲劇の犠牲となった田沢稲舟たざわいなふねもまたこの寄書欄から出身した女秀才であった。
 美妙は美男であった。ドチラかというと為永ためながの人情本にありそうなニヤケ男であった。言語が物柔らかで応対も巧みであった。女の好きな国文の素養があって、歌や韻文も上手じょうずなら芝居や音楽をもかじっていて、初対面のものを煙に巻く博覧の才弁を持っていた。その上に天下の人気を背負って立って、一世をむなしゅうする大文豪であるかのように歌いはやされていたから、当時の文学少女の愛慕の中心となっていた。『我楽多文庫』に載った「情詩人」というは多分自分自身を主人公としたのであろうが、如何にも多恨多感な詩人らしい生活を描いたものだ。男の我々が見るとたまらなくキザで鼻持がならないもんだが、当時の若い女をゾクゾクさした作で、キザな厭味いやみな文句を文学少女は皆暗誦あんしょうしていたもんだ。
 が、美妙斎の全盛は裸蝴蝶時代が絶頂で、それから以後は次第に下り坂となった。『都之花』に載った「花車」は人気のおかげで多少読まれたが、具眼者の間には愚作と認められていた。最も苦辛くしんした労作と自からも称していた「いちご姫」は昔しの物語の焼直しみて根ッから面白くなかった。一時は好奇心を牽いた「おじゃる」ことば徐々そろそろ鼻に附いて飽かれ出した。これに反して一方妙なイキサツから美妙とにらみ合いになった紅葉はメキメキ売出して硯友社の勢力が漸次に文壇を席巻せっけんし、何時いつとはなしに美妙に取って代って人気を蚕食してしまった。文壇の寿命が如何に短かいにしても美妙の人気は余りに飽気あっけなくて線香花火のようであった。だが、その短かい間の人気は後の紅葉よりも樗牛ちょぎゅうよりも独歩どっぽよりも漱石そうせきよりも、あるいは今の倉田くらたよりも武者むしゃよりも花々しかった。美妙がもし裸蝴蝶時代に早世したなら必ず一代の大天才なるかのように天下を挙げて痛惜哀悼を惜まなかったろう。なまじい生延いきのび過ぎて最も気の毒な末路に終った。

四 人気失墜の原因


 美妙斎はドウシテ人気を失墜したろう。美妙斎について実は余り多くを知っていないから、私の憶測があたるか中らないかは請合うけあわないが、試みにその原因を数えようなら、
 第一、美妙斎には限らないが、少年名を成すは第一の不幸で、美妙斎は余り早くから世間に管待もてはやされ過ぎた。詩人には随分早くから売出したのが古今珍らしくないが、美妙斎は世間に出るなり直ぐ大家となってしまった。二十はたちか二十一で一躍して数年以上の操觚そうこの閲歴を持つ先輩を乗越して名声を博し、文章識見共に当代の雄を以て推される耆宿きしゅくと同格に扱われた。如何に天才でも非凡人でもこう易々やすやすとトントン拍子に成上ると勢い矜驕きょうきょうとなり有頂天うちょうてんとなるは人間の免かるべからざる弱点である。美妙斎は余りに早く大家となったために自分をもまた余りに高く買い被り過ぎて少しも造詣ぞうけいに励まなかった。自然頭の中が忽ち空乏となって、文章上の工風くふうも構想上の進歩も行詰ゆきづまって飽かれてしまった。
 第二、美妙斎の人気を博した第一の理由は文章上の新味であるが、この新味はこれまでの日本文には余りなかった非情物即ち草木や動物の擬人法、たとえば花が囁※ささや[#「口+需」、U+5685、179-8]いたとか犬が欠伸あくびしたとかいうような文句や、前にもいった足利あしかが時代の「おじゃる」ことばや「発矢はっし!……何々」というような際立きわだった誇張的の新らしい文調であったので、初めの珍らしい中こそヤンヤと喝采かっさいされたが、段々れると鼻に附いて飽かれてしまった。匂いの高いものは鼻に附くようになると嘔吐むかつくほどイヤになるもんで、美妙斎の文章の新味も余り香気が高過ぎたので一時は盛んに管待もてはやされたが、その反動として今度は極端にきらわれるようになった。
 第三、美妙斎に限らず、創作家は余り評論をしない方が得策である。創作家と評論家とはおのずから領分が違ってる。二者共に長ずる少数特殊の人を除いては、創作家は評論をするとボロが出る。どういうもんだか美妙斎は評論が好きで、やたらと幼稚な評論をしては頭の貧弱を惜気おしげなくさらけ出してしまった。殊に美妙斎の生緩なまぬるい冗漫の言文一致は論難に不適当であって、いとど薄弱なる議論を益々力弱くさせて世間の軽侮を招くようになった。(この点においてはかつて一度もマジメな議論をした事のない紅葉は有繋さすがに怜悧であった。)
 第四、美妙斎は余りに多才多能で、何でもちょっとは器用にやってのけたので、一事の完成に全力を注がなかった。創作もすれば評論もする、文学も論ずれば婦人も論ずる、小説の評判が悪くなると字引を作る、著述が受けなくなると算盤を持つ、はなはだしいのはラムネの製造までもして損をしたというように、始終転々して一事を貫く熱心が欠けていた。文壇に乗出したそもそもの初めこそ小説を生涯の使命とする意気込いきごみがあったらしいが、人気が去ってからは他の仕事に転々して、最後に再び文壇に舞戻った時はう時代に遅れてしまって、口をのりするに忙がしくて捲土重来けんどちょうらいの花を咲かせようとする意気地が抜けていた。
 第五、美妙斎は人となりが偏狭で、誰とでも親密になれなかった。かつ誠実が多少乏しかったようである。その頃我々は大抵独身で、始終互いに往来して共に飲食する事が珍らしくなかったが、美妙と一緒に飯をったという話を誰からも聞いた事がなかった。勿論もちろん美妙の家で蕎麦そば一つ御馳走ごちそうになったという人もなかったようだ。かえって美妙を尋ねる時は最中もなかの一と折も持って行かないと御機嫌ごきげんが悪いというような影口かげぐちがあった。かつ、文人の集まる席へ案内されても滅多に顔を出さなかった。尾崎と一緒に下宿して一つ鍋のものを突ッついた仲でありながら、文壇の羽振はぶりくなると忽ち裏切してしまった。二葉亭ふたばていとは親同士が同僚であって、小学時代からの友人であったが、中年以後は全く疎隔して音信不通であった。文壇人とは誰とも面識があったが、親友というものは殆んど一人もなかったようだ。であるから金港堂を離れて後の美妙斎は全く孤立して、誰とも交際つきあわないから随って誰にも余り同情されないで、社会的にも私的交際にも段々存在を認められなくなってしまった。
 第六、稲舟女史との関係については真相を判断する材料を持っていないが、無責任な新聞紙に大袈裟に伝えられるほどの不徳が美妙にあったとは思われない。美妙にも必ず同情すべき気の毒な事情があったろうと思うが、平生へいぜい誰とも交際わないから自然文壇の同情が薄く、同情したいにも同情するだけの材料を持ってる者がなかったから、かげにも日向ひなたにも美妙のため弁疏する事が出来ないで、新聞紙の報道を半分虚伝と思いつつも暗々裡あんあんりに認める外はなかった。実をいうと、日本のような道徳的基準の低い国で美妙が犯したぐらいの恋愛的過失で社会的に葬むられてしまうというのは不思議である。が、嶮峻けんしゅん隘路あいろに立つものは拳石こいしにだもつまずいて直ぐ千仭せんじんの底にちる。人気が落ちて下り坂となった時だから、責むるに足りないいささかの過失でも取返しの付かない意外な致命傷となったのであろう。愛の冷却した夫婦の結合は不自然であるとか虚偽であるとかいう勝手な理窟りくつを附けて不条理極まる破縁を不人情とも没義道もぎどうとも思わず、あるいは三角や四角の恋愛を臆面もなく手柄顔てがらがおに告白するのを少しもあやしまない今から考えると、ただこれだけで葬むられてしまったのは誠に気の毒であった。
 以上は美妙が文壇に失墜した所以ゆえんの重なる理由である。それ以外に幾多の遠因も近因もあろうが、畢竟ひっきょうするに最後が極めて悲惨であったのは自ら求めて世間や友人の同情を薄くしたためである。文壇が美妙にそむいたのではなくて美妙が文壇に背いたのである。
 だが、ドウしてこんな風に偏小狭隘求めて世間に遠ざかるようになったかというと、美妙をこんなに偏屈に孤立を好むようにならしめた所以の美妙の生立おいたちの家庭の事情にさかのぼらねばならないが、美妙と交際の極めて浅かった私はこれをきわむるだけの材料に不足しておる。が、美妙の生立ちには一貫した一条の悲劇的径路があったように聞いている。

五 美妙と紅葉との比較


 美妙と紅葉とは種々の点で違っていた。第一に雅号である。美妙斎美妙と名乗った理由は知らぬが、別段説明を聞かないでもわかるほど露骨であって詩人の奥床しさを欠いておる。小説家よりは曲芸師みて寄席よせのビラに書かれそうだ。紅葉山人というは青年時代に芝にすまっていたちなみから紅葉山もみじやまの人という意味で命じたので、格別ひねくらない処に洒落の風が現われている。第二に筆跡である。美妙斎の筆蹟は定家ていかようの極めて美くしい書風であったが、何となく芸人披露の名弘なびろめの散らしの板下然はんしたぜんとして気品に欠けていた。紅葉は蜀山人しょくさんじんを学んで、若い頃のは蜀山人以上に衒気げんき満々としていたが、晩年はスッカリ枯れ切って蒼勁そうけいとなった。蜀山人から出て蜀山人よりも力があって、何処どことなく豪快の風が現われていた。
 風采からいっても、美妙は色白いろじろ柔々よわよわしい、ドチラかというと少し柔気にやけて、如何にも「詩人でございます」といったような美男であったが、紅葉は色の浅黒い、にがみ走った、スッキリと背の高い江戸前の、美男というよりは好男子という方であった。美妙はいなの背のように光ったベラベラ着物に角帯かくおびをキチンと締め、イツでも頭髪あたまを奇麗に分けて安香水やすこうすいの匂いをさしていたが、紅葉はくすんだ光らない着物に絞りの兵児帯へこおびをグルグル巻いて、五分刈頭の紺足袋で八幡黒やわたぐろの鼻緒の下駄が好きであった。万事がこんな風に著るしく違っていた。
 私が先ず二人の性格の相違を著るしく感じたのは初対面の印象であった。美妙斎との初対面は前にもいった通りに何をいても知らざる事なく、打てば響くように直ぐ答える博覧に驚かされたが、二度三度と重なるとイツデモ一つ話ばかりをしていて博覧の奥底が忽ちえ透いて来たには嫌気いやぎが挿して来た。
 紅葉を尋ねたのは美妙に会ってから三、四カ月後であった。その頃紅葉は飯田町いいだまちの国学院大学の横町にお祖父じいさんと一緒に住んでいた。美妙の武者窓むしゃまどの長屋よりは気のいた一軒だてであったが、美妙が既に一人前の紳士であったと違って、紅葉はマダ書生ッぽで三畳の書斎に納まっていた。何しろ三畳敷だから二、三人座るとギッシリ詰って身動きも出来ない位で、美妙の書斎のようにおどかし道具をならべる余地もなかったし、美妙のように何でも来いとあごでる物識ものしりぶりを発揮しなかった。例えば美妙は、これなら豈夫よも知っていまいとひそかに予期して質問した西鶴さいかくについてすらも初対面の私を煙に巻くだけの批評をしたが、紅葉はこの頃やっと『一代男』を読んだばかしで何が何やらサッパリ解らない、女の行水ぎょうずいしている処を隣りの屋根から遠目鏡とおめがねのぞいている画なんぞあって面白そうだが少しも解らない、『源氏』よりは難かしいもんだと率直に答えた。美妙はディッケンスもサッカレーも鵜呑うのみにした批評をしたが、紅葉はやはり難かしくて少しも解らないといった。字引をコツコツ引いて油汗をダクダク出して考え考え読んで、なるほどコイツはうめエやではちっとも面白くないと言った。美妙は学者然と取澄ましていたが紅葉は極めてザックバランで少しも飾らなかった。美妙の知識の領分はかなり広いようだったが、イツデモ一つ領分の中を彷徨ほうこうして同じ話ばかりしていた。紅葉はこれに反して段々と新らしい領分を開拓して、会う度毎たんびに必ず新らしい本を読んでいて新らしい話をした。
 美妙斎は少しも温か味がなかった。何度なんたび会っても他人行儀で、心底しんそこから胸襟きょうきんを開いて語るという事がなかった。あながかみしもを付けた四角四面の切口上きりこうじょうで応接するというわけではなかったが、態度が何となく余所々々よそよそしくて、自分では打解けてるツモリだったかも知れぬが、ひとには何時いつでも城府じょうふを設けてるように見えた。紅葉はこれに反して、腹の中には鉄条網を張って余人の闖入ちんにゅうを決して許さなかったが、表面うわばは城門を開放して靴でも草鞋わらじでも出入しゅつにゅう通り抜け勝手たるべしというような顔をしていた。それゆえ美妙斎とは何年交際つきあっても親友となる事が難かしかったが、紅葉は初対面の時から百年の友のように打解け、戯言じょうだんもいえば気焔きえんも吐いて誰とでも直ぐ肝胆を照らして語り合った。
 その実、紅葉は初対面から誰でも親友扱いするが心から打解けるのではなかった。江戸ッ子風の洒脱しゃだつらしく見えて実は根ッから洒脱でなかった。硯友社という小さな王国に立籠たてこもって容易に人を寄せ付けなかった。実をいったら美妙の方がリベラルで、紅葉の方がはるかにオーソドキシカルであったかも知れぬが、リベラルな美妙が人に嫌われてオーソドキシカルな紅葉がかえって人にしたしまれたというは紅葉の社交の才がすぐれていたからで、文壇的には狭量偏固な鎖港攘夷党であっても、社交上には如才なく振舞って勢力を扶植し、硯友社以外にも多数の後援を擁していた。美妙はこれに反して自分から世間を狭くして友人にも遠ざかったから、文壇的にも社会的にも孤独無援の位置に落ちて、ついに悲惨の生涯の幕を閉じた。

六 悲惨な最後


 美妙の文壇生活の最高調は『都之花』時代であったが、社会生活としての最得意は平永町ひらながちょうに新築した頃であったろう。駿河台のくらぼったい旗本屋敷の長屋から移転したので、タシカ今の神田かんだキネマの辺であった。軒並のきなみの町家の中で目立った相当に大きな門構えの二階建で、間数もかなり多かったらしい。木口きぐちは余り上等とも思わなかったが、く木ののする明るい新築だった。今と違ってマダ操觚者そうこしゃの報酬の薄かったその頃に三十になるかならぬかの文筆労働者でこれだけの家を建築したのは左も右くも成功者であった。
 書斎は二階であったが、椅子テーブル式で、クローム画の額や、ブロンズや、西洋家具の古道具屋から仕入れたものをゴテゴテ列べ、何のツモリか知らぬがけもせぬヴァイオリンが壁へ掛けてあった。今なら文化生活で、美妙の得意はこの安価洋風装飾に現れていた。が、その頃は字書を編纂へんさんしていたので文壇人としては既に一歩を降り坂に踏入れていたのだ。
 美妙を訪問したのは前後三、四回しかなかったが、この平永町の新居を偶然通りすがりに尋ねたのが最後であった。わずか二十分ほど話して美術学校の一年生ぐらいが作ったらしい木雕もくちょうの牛を見せられたが、それぎり美妙とは会わなかった。自分ばかりじゃない、その頃から以後は美妙が時折寄稿した雑誌の編輯者以外には美妙と往来したものはほとんどなかったろう。
 それでも稲舟と結婚した時は両人連名で益々御愛顧を願うというような開業の引札然たる活版ずりの通知を交友間に配った。が、新婚のお祝いをするいとまがない中にう二人の恋の破綻はたんが新聞で剔抉すっぱぬかれた。それから以来はラムネを作って損をしたとか、公園芸妓げいぎを引入れたとかいうような面白くない風説を新聞の三面で聞くばかりで、文壇人としての消息はまるきり絶えてしまった。それから二、三年経ってからたポツポツと美妙の名が低級な雑誌に見え出して、そういう雑誌の発行者や編輯者の口からうわさを聞く事があったが、おなさけに原稿を買ってやるというような口吻こうふんで美妙の気の毒な境遇が想像された。書いたものもまた色も香もつやも生気もないしおれた花のあわれさを思わせるようなものばかりだった。
 二葉亭が没した時、諸家の追懐談を集めた追悼録を作ろうとして少年時代の友たる美妙斎へも寄稿を依頼した。その時の美妙の返事は敗残者の卑下した文体で、勝誇った寵児ちょうじのプライドにちた昔の面影は微塵も見られないで惻隠そくいんに堪えられなかった。
 それから一、二年経ってからであろう、美妙のの伝わったのは。最後の隠れ家は駒込こまごめの伝中辺だと聞いたが、丁度旅行していたし、十何年間もまるで音信不通であったし、それ以前とても親友というほどの関係でなかったから葬儀に行かなかったが、後に聞くと送棺者がただ僅かに三、四人だったそうだ。自ら世を狭くしたのだとはいえ、誠に気の毒な最後であった。
 それから数月経って聞いたはなしだが、最後は石橋思案いしばししあん丸岡九華まるおかきゅうかもっぱら世話をしたそうだ。いよいよ重体となってから、九華はシュークリームが美妙の大好物であると聞いて見舞に一と折持って行った。美妙は大変喜んだので、家人も厚く感謝して大切にし、病人の外は子供にさえも手をつけさせなかったそうで、かびえたシュークリームが臨終の枕頭まくらもとに残っていたそうだ。日本の言文一致の先駆者(あるいは創始者)として文壇の風雲を捲起まきおこした一代の才人の終焉しゅうえんとして何たる悲惨の逸事であろう。こういう悲惨な運命をまねいたのは畢竟美妙自身の罪であったが、身から出たさびであったにしても、日本の新文体の創始者に対して天才の一失を寛容しなかった社会は実に残忍である。
(大正十三年九月補修再録)





底本:「新編 思い出す人々」岩波文庫、岩波書店
   1994(平成6)年2月16日第1刷発行
   2008(平成20)年7月10日第3刷発行
底本の親本:「思ひ出す人々」春秋社
   1925(大正14)年6月初版発行
初出:「きのふけふ」博文館
   1916(大正5)年3月
※初出時の表題は「山田美妙」です。
入力:川山隆
校正:門田裕志
2014年7月16日作成
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●表記について

「口+需」、U+5685    179-8


●図書カード