血の文字

黒岩涙香




前置(著者の)


「あア/\うも警察のお手がく行届き、うしても逃れぬ事が出来ぬとしったら、決して悪事は働かぬ所だッたのに」とはある罪人がおのれの悪事露見して判事の前に引据ひきすえられし時の懺悔ざんげの言葉なりとかや、この言葉を聞き此記録を書綴る心を起しぬ、此記録を読むものは何人なんびとも悪事を働きては間職ましょくに合わぬことをさとり、算盤珠そろばんだまに掛けても正直に暮すほど利益な事は無きを知らん、こと今日こんにちは鉄道も有り電信も有る世界にて警察の力をくゞおおせるとは到底とうてい出来ざる所にして、おそかれ早かれ露見して罰せらるゝは一つなり。
 斯く云わば此記録の何たるやはおのずから明かならん、は罪人を探り之を追い之と闘い之に勝ち之に敗られなどしたる探偵の実話の一なり。
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第一回(怪しき客)


 余が医学を修めて最早もはや卒業せんとせし頃(時に余が年二十三)余は巴里府ぱりふプリンス街に下宿したるが余が借れるの隣のへやに中肉中背にて髭髯くちひげ小綺麗こぎれい剃附そりつけて容貌にも別に癖の無き一人の下宿人あり、宿やどの者此人を目科めしなさん」とて特に「さん」附にして呼び、帳番も廊下にて摺違すれちがうたびに此人には帽子を脱ぎて挨拶あいさつするなどおおい持做もてなしぶりの違う所あるにぞ、余は何時いつとも無く不審を起し目科とはも何者にやと疑いたり、もとより室と室、隣同士の事とて或は燐寸まっちを貸し或は小刀ないふを借るぐらいの交際つきあいは有り、又時としては朝一緒に宿をで次の四辻にて分るゝまで語らいながら歩むなどの事も有りたれど其身分其職業などは探り知ろうようも無くだ此の目科に美しき細君ありて充分目科を愛しうやまう様子だけは知れり、れど目科は妻ある身に不似合なる不規則千万せんばんの身持にて或時は朝なお暗き内に家をいずるかと思えば或時は夜通し帰りきたらず又人の皆寝鎮ねしずまりたるのちいたり細君を叩き起すことも有り其上そのうえ時々は一週間ほど帰り来らぬことも珍しからず、かくも不規則なる所夫おっとに仕え細君がく苦情をならさぬと思えば余は益々いぶかしさにえず、ついに帳番に打向うちむかいて打附うちつけに問いたる所、目科の名前が余の口より離れ切るや切らぬうち帳番は怫然ふつぜんと色をし、いつも宿り客の内幕を遠慮も無く話しちらすに引代ひきかえて、余計な事をおといなさるなと厳しく余を遣込やりこめたれば余が不審は是よりしてかえって、益々つのり、はては作法をも打忘れて熱心に目科のおこないを見張るに至れり。
 見張りはじめてより幾程いくほども無く余は目科の振舞にと怪しくかつ恐ろしげなる事あるを見てうせろくな人にはあらずと思いたり、其事はほかならず、或日目科は当時の流行を穿うがちたるいと立派なる服をかざり胸には「レジョン、ドノル」の勲章をきらめかせてほかより帰ると見たるにそのわずか数日後に彼れは最下等の職人がまとごときたならしき仕事衣しごとぎに破れたる帽子をいたゞきて家をいでたり、其時の彼れが顔附は何処どことも無く悪人のそうを帯び一目見るさえこわらしき程なりき、是さえあるに或午後は又彼れが出行いでゆかんとするとき其細君がしきいもとまで送り出で、余所目よそめにもうらやまるゝほどしたしげに彼れが首に手を巻きて別れのキスを移しながら「貴方あなた、大事をおとりなさい、うちにはわたくしが気遣うて待て居ますから」と叫びたり、大事を取れとは何事にや、委細いさいの心は分らねどさては、扨は、細君が彼れの身持をとがめぬのみかは何も彼も承知の上で却て彼れに腹を合せ、彼れが如き異様なる振舞をさしむるにや、斯く思いて余はほとんど震い上り世には恐ろしき夫婦もあるかなたんじたれど、此後の事は是よりもひどかりき。
 余は修学に身を委ねながらも、夜にりては「レローイ」珈琲館かひいかんと云えるに行きたま歌牌かるたの勝負を楽むが捨難すてがた蕩楽どうらくなりしが、一夜あるよ夫等それらの楽み終りて帰り来り、球突たまつきたわむれを想いながら眠りにつきしに、夢に球と球と相触れて戞々かつ/\と響く音に耳を襲われ、驚きめてかしら※(「てへん+擧」、第4水準2-13-59)あぐれば其響は球の音にあらで外より余が室の戸を急がわしく打叩くにぞありける、時ならぬ真夜中に人の眠りを妨るはいずれの没情漢ぼつじょうかんぞと打呟うちつぶやきながら、起行おきゆきて戸を開くに、つい一人いちにんは是なん目科其人にして衣服の着様きざまみだれ、飾りしゃつの胸板は引裂かれ、帽子は失い襟飾りは曲りたるなど一目に他人と組合いつかみ合いたるを知る有様なるに其うえ顔は一面に血まみれなれば余は全く仰天し「や、や、貴方はなさッた」と叫び問う、目科は其声高しと叱り鎮めて「いや此傷は、なにたいした事でも有ますまいが何分にも痛むので幸い貴方が医学生だから手当をて貰おうと思いまして」と答う、余は無言のまゝに彼れをすわらせ其傷をあらたむるにるほど血の出る割にはたいした怪我にもあらず、れど左の頬を耳より口まで引抓ひっかゝれたる者にして処々ところ/″\に肉さえ露出むきいでたれば痛みはこそと察せらる、やがて余が其傷を洗いて夫々それ/″\の手術を施し終れば目科は厚く礼を述べ「いや是くらいの怪我で逃れたのはまだしもです。しかし此事は誰にも言わぬ様に願います」との注意をのこして退しりぞきたり、是より夜の明るまで余は眠るにも眠られず、様々の想像を浮べ来りて是かれかと考え廻すに目科は追剥おいはぎ盗坊どろぼうたゞしは又強盗か、何しろ極々ごく/\の悪人には相違なし。
 れど彼れ翌日は静かに余が室に入来いりきたり再び礼を繰返したる末、意外にも余に晩餐の饗応せんと言出いいいでたり、晩餐の饗応などとは彼れが柄に無き事と思い余は少し不気味ながらもたゞ彼れが本性を見現みあらわさんと思う一心にて其招きに応じ、気永く構えて耳と目の及ぶだけ気を附けたれどつゆほども余の疑いを晴す如き事柄は聞出しもせねば見出しもせずに晩餐を終りたり。
 そうは云え是よりして余と目科の間柄は一入ひとしお近くなり、目科も何やら余にまじわりを求めんとする如く幾度と無く余を招きて細君と共々に間食かんじきことに又夜にりてはかゝさず余を「レローイ」珈琲館まで追来おいきたり共に勝負事を試みたり、くて七月の一夕あるゆうべ、五時より六時の間なりしが例の如く珈琲館にてたわむたるに、衣類もむさくるしくあやしげなる男一人いちにんあわたゞしく入来いりきたり何やらん目科の耳に細語さゝやくと見る間に目科は顔色を変て身構し「し/\すぐに行く、早く帰ッて皆にそうえ」と、命ずる間もいそがわしげなり、男は此返事をるや又一散いっさんに走去りしが、後に目科は余に向い「誠に残念ですが、勤めには代られぬたとえです、此勝負は明日に譲り今日は是で失敬します」とて早や立去らん様子なり、勝負の中止も快からねどそれよりも不審に得堪えたえず、彼れが秘密を見現すは今なり、と余は思切ッて同行せざるの遺憾をのぶるに「そうさ、なに構うものか、来るなら一緒においでなさい、随分面白いかも知れませぬから」く聞きて余は嬉しさにこゝろき、返す言葉の暇さえ惜しく、其儘そのまゝ帽子をいたゞきて彼れに従い珈琲館を走出はしりいでたり。


第二回(血の文字)


 目科に従いて走りながらも余はだ彼れが本性を知る時の来りしを喜ぶのみ、此些細なる一事が余の後々に至大しだいなる影響を及ぼすしとは思い寄ろうはずも無し、目科はあたかも足を渡世とせい資本もとでにせる人なると怪しまるゝほど達者に走り余はかろうじて其後に続くのみにてあえぎ/\ロデオンまちに達せし頃、一りょうの馬車を認め目科はれを呼留よびとゞめてず余に乗らしめ馭者ぎょしゃには「出来るだけ早くれ、バチグノールのレクルースまち三十九番館だ」と告げ其身も続て飛乗りつ只管ひたすらうませかたてたり、「はゝア、行く先はバチグノールだと見えますな」とて余は最も謙遜のことばを用い目科の返事を釣出つりださんと試むれど彼れ今までとは別人の如く其唇固く閉じ其眉半ばひそみたるまゝにて言葉を発せず其様深く心に思う所ありて余が言葉の通ぜぬに似たり、彼れ何をく考うるや、まなこいたずらにくうを眺めて動かざるはむつかしき問題ありて※(「研のつくり」、第3水準1-84-17)を解かんめ苦めるにや、やがて彼れ衣嚢かくしを探りいとふとやかなる嗅煙草かぎたばこの箱を取出とりいだし幾度か鼻に当て我を忘れて其香気をめずる如くに見せかくる、れど余はかねてより彼れに此癖あるを知れり、彼れ其実は全く嗅煙草を嫌えるもからの箱をたずさり、喜びにも悲みにも其心の動くたびわが顔色を悟られまじとて煙草をぐにまぎらせるなり、兎角とかくするうちに馬車は早やクリチーの坂を登り其外なる大通おおどおりを横に切りてレクルースまちに入り約束の番地より少し手前にて停りたり、停るも道理や三十九番館の前にはおよそ二三百の人集り巡査の制止をも聞かずして推合おしあえる程なれば馬車は一歩だも進み得ぬなり、余は何事なるや知らざれどこゝにて目科と共に馬車をくだり群集を推分おしわけて館の戸口に進まんとするに巡査の一人強く余等よらさえぎりて引退ひきしりぞかしめんとす、目科は威長高いたけだかに巡査に向い「貴官は拙者せっしゃしりませんか、拙者は目科です、是なる若者は拙者と一処いっしょに来たのです」目科の名を聞き巡査の剣幕は打って代り「いや貴方あなたでしたか、そうとは思いも寄りませず」とあわたゞしく言訳するを聞捨てしきいを一足館内に歩み入れば驚きてこゝつどえる此家の店子たなこの中に立ち、口に泡を吹かぬばかりに手真似しながら迫込せきこみて話しせる一老女あり定めし此家の店番なるし、目科は無遠慮に話の先を折り「何所どこだ、何所です」と急ぎ問う「三階ですよ、三階の取附とっつきです、本統ほんとうア此様な正直な家の中で、それに日頃あの正直な老人を」と老女が答えきたるを半分聞き直様すぐさま段梯子を四段ずつ一足に飛上とびのぼる、余は肺の臓の破るゝと思うほど呼吸いき世話せわしきにも構わず其まねをして続いて上れば三階なる取附の右の室は入口の戸も開放せしまゝなるゆえ、之を潜りて客室、食堂、居室等を過ぎ小広こびろ寝室ねまへと入込いりこみぬ、見ればこゝには早や両人の紳士ありて共に小棚の横手に立てり、其一人の外被うわぎ青白赤せいはくせき三色の線ある徽章しるしおびたるはとうでもしるき警察官にして今一人は予審判事ならん、判事より少し離れたる所に、卓子ていぶるに向い何事をか書認かきしたゝめつゝ有るはたしかに判事の書記生なり、是等これらの人々何が為に此室にきたりたるぞ、余は怪むひまも無く床の真中に血に塗れたる死骸あるに気附たり、小柄なる白髪の老人にして仰向あおむき打倒うちたおれ、傷所きずしょよりいでたる血潮は既にこゞりて黒くなれり。
 余は驚きの余り蹌踉よろめきて[#「蹌踉よろめきて」は底本では「蹌跟よろめきて」]倒れんとしわずかに傍らなる柱につかまり我が身体を支え得たり、支え得しまゝしばしが程はほとんど身動きさえも得せず、読者よ余は当時医学生たりしだけに死骸を見たるは幾度なるを知らず病院にも之を学校にも之を見たり、しかれどもまのあたり犯罪の跡を見たるは実に此時が初てなり。然り此老人の死骸こそは恐ろしき犯罪の結果なること言う迄も無し、たゞ余の隣人目科は余ほどに驚き恐れず足踏あしぶみも確に警察官のもとに進むに、警察官は其顔を見るよりも「アア目科君か、折角よびやったけれど君を迎えるほどの事件ではなかッたよ目「とは又う云う訳で「いや君の智慧を借るまでも無く罪人が分ッて、仕舞ッた、実はう逮捕状を発したから今頃は捕縛ほばくされた時分だ」罪人が解りたらばずほッと安心すべきところなるに目科はは無くて痛く失望の色を現わし※(「研のつくり」、第3水準1-84-17)体好ていよく紛らさんため例の嚊煙草の箱を取出し鼻の先に二三度当て「おやおや罪人が分ッたのか」と云う、今度は予審判事が之に答えんとする如く「分ッたにも、う明白に分ッたよ、罪人は此老人が死切れた物と思い安心して逃て仕舞ッたが実はれが本統ほんとう天帝てんていの見張て居ると云う者だろうよ、老人は死切しにきらずに居て、必死の思いで頭を上げ、傷口から出る血に指を浸して床へ罪人の名を書附ておいしんだ。ア見たまえそれ血の文字が歴々あり/\と残ッて居る」このいたましき語を聞きて余は直ちに床中ゆかじゅうを見廻すにるほど死骸の頭の辺に恐ろしき血の文字あり MONISモニシ の綴りは死際しにぎわの苦痛に震いし如く揺れ/\になりたれど読擬よみまごくもあらず、目科も之を見しかども彼れ驚きしか驚かざるか嚊煙草を振るのみにて顔色には現わさずだ単に「それで」と云う、今度は又警察署長「それで分ッて居るじゃ無いか藻西太郎もにしたろうと云う者の名前の初めを書掛かきかけて事切れとなったのだ、藻西太郎とは此老人の唯一人の甥だ、老人が余ほど寵愛ちょうあいして居たと云う事だ」と説明す、目科は唯口のうちにて何事をか呟くのみ、さらに予審判事は今言いし警察官の説明を補わんとする如くに「此文字が何よりの証拠だからの様な悪人でも剛情ごうじょうは張り得まい、ことに此老人を殺してそれが為に得の行くのは唯此藻西太郎一人いちにんだ、老人は巨多あまたの財産を持て居て、しにさえすれば甥の藻西へ転がり込む様になって居る、のみならず老人の殺されたのは昨夜の事で、昨夜老人のもとへ来たのはだ藻西一人さ、帳番の証言だからこれも確かだ、藻西は宵の九時頃に来て十二時頃まで居たそうだ、其後では誰も老人の室へ這入はいった者が無いと云うから是ほど確な証拠は有るまい」目科は無言にて聞き終り意味有りげなる言葉にて「なるほど明かだ、日を見るよりも明かに藻西太郎と云う奴は大馬鹿だ、此老人が殺されさえすれば第一に自分は疑われる身だから、其疑いを避る様に、せめ盗坊どろぼう所為しわざにでも見せ掛け何か品物を盗んで置くとか此室を取散とりちらして置くとかそれくらいの事はそうなものだ、老人を殺しながらそれをせぬとは余り馬鹿過ると云うものだ警察官「そうさ別に此室を取散とりちらすとか云う様な疑いを避ける工夫は仕てなかッた、殺すと早々逃たのだろう、余り智慧のたくましい男では無いと見える、此向このむきなら捕縛すればじきに白状するだろう」と云い、おも目科を小窓の所に誘い行きて小声にて何か話しを初め、判事は又書記に向いこれも何やらん差図を与え初めたり。


第三回(又不審)


 これにてず目科の身の上に関する不審だけは全く晴れたり、彼れは盗坊どろぼうにもあらず追剥にも非ず純然たる探偵吏たんていりなり、探偵吏なればこそ其身持不規則なりしなれ、身姿みなり時々変ぜしなれ、いたく細君に気遣われしなれ、「さんづけにも呼ばれしなれ、顔に傷をも受けしなれ、今は少しの不審も無し彼れが事は露ほども余が心に関せず、之に引代てたゞいたく余の心に留り初めしは床の上の死骸なり、余が心は全く彼の死骸に縛附しばりつけ[#ルビの「しばりつけ」は底本では「しぱりつけ」]られたるに似たり、今まで目科を怪みたるよりもお切に彼の死骸を思う、初て死体しがいを見し時の驚きと恐れとは何時いつしか消えて次第に物の理を考うる力もわれかえりしかば余は四辺あたりに在るすべての物に熱心に注意を配り熱心に考え初めぬ、身は戸の口にたちまゝなるもまなこ室中しつじゅう馳廻はせまわれり、今まで絵入の雑誌などにて人殺ひとごろしの場所を写したる図などは見し事ありいずれにも其辺そのあたり取散とりちらしたる景色見えしに、実際なる此人殺しの寝室ねまの内には取散したる跡を見ず老人の日頃不自由なく暮ししかも質素をむねとして万事に注意のあまねき事はこれだけにて察せらる、寝床及び窓掛を初め在ゆる品物に手入く行届きちりも無ければ汚れも見えず、此老人の殺されしは必ず警察官及び判事等の推量せし通り昨夜の事なりしならん、其証拠とも云うきは寝床の用意既に整い、寝巻及び肌着ともに寝台のわきいだしあり枕頭まくらもとなる小卓ていぶるの上には寝際ねぎわのまん為なるべく、砂糖水をもりたる硝盃こっぷ[#ルビの「こっぷ」は底本では「こっぶ」]其儘そのまゝにして又其横手には昨日の毎夕新聞一枚とほか寸燐まっちの箱一個あり、小棚の隅に置きたる燭台は其蝋燭既に燃尽もえつくせしかど定めし此犯罪を照したるものならん、曲者は蝋燭を吹消さずに逃去りしと見え燭台の頂辺てっぺん氷柱つらゝの如く垂れたる燭涙しょくるいは黒き汚れの色を帯ぶ、は蝋燭の自から燃尽すまで燃居もえいたるしるしなり。
 すべ是等これらこまかき事柄はほとんど一目にて余のまなこに映じつくせり、今思うに此時の余の眼はあたかも写真の目鏡めがねの如くなりし、眼より直ちに種板たねいたとも云うき余の心に写りたる所は分明ふんみょうなるのみかは爾後じご幾年を経たる今日こんにちまで少しも消えず、余は今もお其時の如くおぼれば少しの相違も無くそのへやを描き得ん、予審判事の書記が寄れる卓子ていぶるの足の下に転がりて酒瓶さけびんの栓のりし事をも記臆し、そのせんはコロップにて其一端に青き封蝋ふうろうそんしたる事すらも忘れず、此後こののち千年生延いきのびるとも是等の事を忘る可くもあらず、余は真に此時までく仔細にて仔細に心に留る事の出来ようとはみずから思いも寄らざりき、不意の事柄にて不意に此時現れたる能力なれば我が心の如何いかんくわし思見おもいみひまも無かりき。
 我れと我が心に分らぬほど余は老人の死骸にちかづき望みを起し自ら制せんとして制し得ず、我心よりもなお強き一種の望みにされ推されて余は警官及び判事を初め書記や目科の此へやに在るをも忘れし程なり、彼等も別に余が事には心を留めざりしならん、判事は書記に差図を与え目科は警官と密々ひそ/\語らう最中なりしかば、余はとがめられもせず又咎めらる可しと思いもせず、いと平気に、いと安心して、あたかも言附られし役目を行うが如くに泰然自若として老人の死骸のもとに行き、そのそばひざまずきてそろ/\と死骸を検査し初めぬ。
 此老人歳は七十歳より七十五歳までなる可し、背低くして肉せたれど健康は充分にして随分百歳までも生延得る容体とし頭髪かみのけお白茶けたる黄色の艶を帯びて美しく、頬には一週間も剃刀かみそりを当ぬかと思うばかりに贅毛むだけの延たれどは死人にく有る例しにて死したるのち急に延たるものなる可く余は開剖室かいぼうしつなどにて同じたぐいを実見せしこと度々たび/\なれば別にあやしとも思わずだ余がおおいに怪しと思いたるは老人の顔の様子なり、老人の顔附はおだやかにしてえみを浮めしとも云うことに唇などは今しも友達に向いて親密なる話をはじめんとするなるかと疑わる、読者記臆せよ、老人の顔には笑こそあれくるしみの様子は少しも存せざることを、一突ひとつきに、痛みをも苦みをも感ぜぬうちに死し去りたる証拠ならずや、余は実にう思いたり、此老人はつかれてより顔をしかむる間も無きうちに事切ことぎれりしなりと、し真に顔を蹙むる間も無かりしとせば如何いかにして MONISモニシ の五文字をそのゆか書記かきしるせしぞ、しぬるほどの傷を負い、其痛みをこらえて我生血いきちに指を染め其上にて字を書くとは一通りの事にあらず、充分に顔を蹙め充分にそうくずさん、それのみか名を書くからには、死せし後にも此悪人を捕われさせ我があだかえさんとの念あること必定ひつじょうなれば顔に恐ろしき怨みの相こそ現わるれ笑の浮ぼうはず万々ばん/\無く親友に話を初んとするが如き穏和の色の残ろう筈万々なし、今にも我が敵に噛附かみつかんずる程の怒れる面色めんしょくを存すべき筈ならずや。
 ことに老人の傷処きずしょあらため見ればのどを一突にて深く刺れ「あっ」とも云わずに死せしとこそ思わるれ、曲者くせものの去りたる後まで生存いきながらえしとはみとむ可からず、笑の浮みしは実際にして又道理なり、血の文字を書きしとは、如何に考うるとも受取られず、あゝ余はたゞこれだけの事に気附てより、後にも先にもおぼえなき程に打驚うちおどろき胸のうちにわかに騒ぎいだして、轟く動悸どうきに身も裂くるかと疑わる。
 去れば余はお老人のそばを去るあたわず、更に死体しがいの手を取りてあらたむるに、余の驚きは更に強きを加えきたれり、読者よ、老人の右の手には少しも血のあとを見ずだ左の手の人差指のみあかく血にまみれしを見る、此老人は左の手にて血の文字を書きたりと云うきか、いな、否、否、左りの手にてかこう筈なし余は最早もはや我が心をおさゆあたわず、我が言葉をも吐くあたわず、身体に満々みち/\たる驚きに、余は其外の事を思う能わず、あたかも物に襲われし人の如く一せい高く叫びしまゝ跳上はねあがりて突立つったちたり。
 余の驚き叫びし声には室中の人皆驚きしと見え、余が自ら我が声を怪みて身辺を見廻りし頃には判事も警察官も目科も書記も皆余の周囲まわりに立ち「何だ「何事だ「うした「うしました」とあわただしく詰問つめとう声、矢の如く余が耳を突く、余はお一語をも発し得ずだ「あ、あ、あれ、あれ」とどもりつゝくだん死体しがいに指さすのみ、目科は幾分か余の意をさとりしにや直様すぐさま死体しがいかさなり掛り其両手を検め見て、猶予ゆうよもせずに立上り「なるほど、血の文字は此老人が書いたので無い」と言い怪む判事警察官が猶お一言ひとことも発せぬうち又せくゞみて死体しがいの手を取り其左のみ汚れしをげ示すに、警官も此証拠は争われず「あゝ大変な事を見落しておったなア」とつぶやけり、目科は例のから煙草を急ぎて其鼻にあてながら「る奴さ一番大切な証拠を一番後まで見落すとは、しかし老人が自分でかいたので無いとすれば事の具合が全く一変する、さア此文字は誰が書た、勿論老人を殺した奴が書たのだろう」判事と警官も一声に「そうとも爾とも目「愈々いよ/\爾とすれば曲者くせものが老人を殺した後で自分の名を書附けると云う馬鹿はせぬなら、此曲者は無論藻西で無いと思わねばならぬ、是丈これだけは誰も異存の無い所だから、此断案だんあんは両君何と下さるゝか」警官はこゝに至りて言葉無し、判事は深く考えながら「爾さ、曲者が自分の名を書ぬ事は明かだ、かくのはすなわち自分へ疑いの掛らぬ為だから、爾だ他人たじんに疑いを掛けて自分がそれを逃れる為めだから、此名前で無い者が曲者だ、吾々われ/\は曲者の計略に載られて居たのだ、藻西太郎に罪は無い、爾とすれば本統ほんとうの罪人は誰だろう警「爾さ誰だろう目「夫を見出すは判「目科君、君の役目だ」
 く一同の意見が全く一変せし所へ、あたかも外より入来いりきたる一巡査は藻西太郎を捕縛に行きたる一人いちにんなる可し「唯今帰りました」の声を先に立てゝ第一に警察官の前に行き「命令通り夫々手を尽しましたが是ほどうまいった事は有ません警「では藻西を捕縛したか、それは大変だが巡「はい手も無く捕縛して仕舞いました夫に彼れ全く逃れぬ所を見てか不残すっかり白状して仕舞いました警「や、や藻西が白状したとな」


第四回(白状)


 罪なき人が白状するはずなければ藻西太郎が白状せしと云うを聞き一同は言葉も出ぬまでに驚き果て、中にも余の如きはだ夢かと思うばかりなりき、今まで余の集め得たる証拠はすべれのほかまことの罪人あることを示せるに彼れ自ら白状したりとは何事ぞ、かゝる事の有り得べきや、人々のうちにて一番早く心を推鎮おししずめしは目科なり彼れ五六遍も嚊煙草の空箱を鼻にあてたるすえくだんの巡査に打向いて荒々しく「それは全く間違いだ、お前が自分で欺されたのかくば吾々を欺して居るのだ必ず其ふたつひとつだ巡「其様そのような事は有ませんそれは私しが誓います目「いや誓うには及ばぬ無言だまって居なさい、何でも藻西太郎の言た事をお前が聞違て白状だと思たのか、それともお前が手柄顔に何も彼も分ッた様に言い吾々を驚かせようと思ッたのだ」此厳しき言葉を聞くまでと謙遜に構えたる巡査なれど今は我慢が出来ずと思いし如く横柄に肩を聳動うごかし「へえ御免をこうむりましょう、はゞかりながら私しは其様な馬鹿でも無ければ嘘つきでもありません自分の言う事くらいは心得ておりますから」と遣返やりかえす、此儘に捨置なば二人の間につかみ合も初りかねざる剣幕なれば警察長は捨置かれずと思いし如く割て入り「いや目科君待ち給え詳しく聞終ッた上で無ければ分らぬから」と云い更に巡査に打向いて「さ事の次第を細かに述べ今一応説明ときあかして見ろ」と命じたり、巡査は此命を得てにわかに己の重きを増したる如く一寸ちょいと目科を尻目に掛け容体ようだいぶりて説き始む「私しは貴官の命を受け検査官一名及び同僚巡査一名と共に、都合三名で、ビヽエン街五十七番館に住む飾物模造職藻西太郎と云う者をば、バチグノールの此家に住で居る伯父おじを殺したと云う嫌疑で捕縛の為め出張致しました」警察長は、成るく彼れの言葉を切縮きりちゞめさせんと思う如く、た感心する如くに「其通り、其通り」と軽く頷首うなずく、巡査は益々力を得て「吾々三人馬車に乗りやがて其ビヽエン街に達しますと藻西太郎は丁度夕飯を初める所で妻と共に店の次の間で席につこうとて居ました、妻と云うのは年頃二十五歳より三十歳までの女で実に驚く可き美人です、吾々三人引続て其家に入込ますと藻西太郎はかくと見て直様すぐさま何の用事だと問いました、問うと検査官は衣嚢かくしより逮捕状を取出し法律の名を以て其方を捕縛に参たと答えました」此長々しき報告を目科は聞くに得堪ずと思いし如く「お前は要点だけ話す事が出来ぬのか」とせかし立るに巡査は一向頓着せず、「私は今まで随分捕縛には出張しましたが、捕縛と聞て此藻西太郎ほど喫驚びっくりしたのは見た事が有りません、彼れはようやく我れに復りて其様な筈は有ません必ず誰かの間違いでしょうと言ました、検査官が推返おしかえして決して人違いで無いと答えますとそれでは何のかどで捕縛しますと問返しました、オイ何の廉などゝ其様な児供欺こどもだましをいっても駄目だめだよ其方の伯父おじうした、既に死骸が其筋の目に留り其方が殺したと云う沢山の証拠が有る其方に於いて覚え有う、と詰寄る検査官の言葉を聞て驚いたの驚か無いのと云てまるで度胸を失ッて仕舞ました、何かいおうとするけれど其言葉は口から出ず蹌踉よろめいて椅子に倒れると云う騒ぎです、検査官は彼れの首筋を捕えて柔かに引起し今更彼是れ云うても無益だ有体ありていに白状しろ白状するに越した事は無いとさとしました、彼れは早や魂も抜けた様に成り馬鹿が人の顔を見る様に検査官の顔を見上てハイ何も彼も白状致します全く私しのわざですと答えました」警察長は聞来りて「やった、能く遣た」と再び賛成の意を示すに巡査は全く勝誇りて「私し共はもとより出来るだけ早く事を終る所存です、成る可く人を騒がすなと云うお差図を得て居ましたが何時いつの間にか早や弥次馬ががや/\と其戸口に集りましたから検査官は罪人の手を引立てさゝ警察署で待て居るから直に行こうと云いますと罪人はやッと立上りありだけの勇気を絞り集めた声でハイ参りましょうと答えました吾々は是でう何も彼もうまく行たと思て居ましたが実は彼れの背後うしろに女房の控えている事を忘れて居ました、此時まで藻西太郎の女房は気絶でも仕たかと思わるゝほど静で、腕椅子に沈込んだまゝ一言も発せずに居ましたが吾々が藻西を引立ようとするとまるで女獅々の狂う様に飛立て戸の前に立塞がり、通しませんこゝを通しませんと叫びましたが本統ほんとうに凄い様でした、流石さすがに検査官は慣て居るだけ静に制してイヤ内儀ないぎ腹も立うが仕方が無い其様な事をするだけ不為ふためだからと云ましたけれど女房は仲々聴きませんはては両の手に左右の戸を捕え所天おっとに決して其様な罪は無い彼に限ッて悪事は働かぬとか所天が牢へ入られるなら私しも入れて下さいとか夫は/\最う聞くも気の毒なほど立腹し吾々を罵るやらそしるやら、容易には収りそうも見えませんでしたが、何と云ても検査官の承知せぬのを見、今度は泣ながら詫をしてうか所天を許して呉れと願いました、気の毒は気の毒でも役目には代られませんから検査官は少しも動きません、女もついには思いきったと見え所天の首に手を巻て貴方は此様な恐ろしい疑いを受けて無言だまって居るのですか覚えがないと言切てお仕舞いなさい貴方に限て其様な事の無いのは私しが知て居ますと泣きつ口説くどきつするさまに一同涙をもよおしました、それだのに藻西太郎と云う奴は本統にひどい奴ですよ、うでしょう其泣て居る我が女房を邪慳じゃけんにも突飛つきとばしました、本統に自分のかたきとでも云う様に荒々しく突飛しました、女房は次のまで蹌踉よろめいて行てたおれましたがそれでもア幸いな事には夫でいさくさも収りました、何でも女房は仆れたまゝ気絶した様子でしたが其暇に検査官は亭主を引立て直様すぐさま戸表とおもてに待せある馬車へとかついで行きました、いえ本統に藻西を舁いだのです彼れは足がよろ/\して馬車まで歩む事も出来ぬのです、え何と恐ろしい者じゃ有ませんか、我が悪事が早や露見したかと失望したので足が立なく成たのです、先々まず/\是で厄介を払たと思た所ろ女房の外にだ一つ厄介者が有たのですよ、夫を何だと思います、彼れのかって居る黒い犬です、犬の畜生女房より猶だ手に合ぬ奴で、吾々が藻西太郎を引立ようとすると※(「けものへん+言」、第4水準2-80-36)わん/\と吠て吾々にくらつこうとするのみか追ても追ても仲々聴ません、実に気の強い犬ですよ、夫でもア味方は三人でしょう敵はわずかに一匹の犬だからようやくに追退おいのけて藻西を馬車へ引載ると今度は犬も調子を変え、一緒に馬車へ乗うとするのです、夫も到頭追払おっぱらいやッとの事で引上る運びに達しましたが、其引上る道々も検査官は藻西太郎を慰めようとしますけれど彼れこうべを垂れて深く考え込む様子で一言も返事しません、夫から警察本署へ着た頃は少し心も落着た様子でしたが、やがて牢の中へいれますと、彼れ唯一人淋しい一室へ閉籠られただけ又首を垂れあゝうしたんだなア本統にと繰返し/\呟きます検査官は之を聞て再び彼れの傍に近附て何うしたか自分で知って居るだろう、愈々罪に服するかと問ますと彼れはそうですと云わぬばかりに頷首うなずきながら何うか独りで置て下さいと云うのです、夫でもしや独りで置いて自殺でも企てる様な事が有ては成らぬと思い吾々はひそかに見張をつけて牢から退き、検査官と同僚巡査一人とは本署に残り私しが此通り顛末の報告に参りました」と世に珍しき長談議もこゝようやく終りを告げたり。
 聞終りて警察長は「是で最う何も彼も明々白々だ」と呟き予審判事も同じ思いと見え「左様さよう、明々白々です、外にの様な事情があろうとも藻西太郎が此事件の罪人と云う事は争われぬ」と云う、余は実に驚きたれどお合点の行かぬ所あり横鎗を入んためまさ唇頭くちびるを動さんとするに目科も余と同じ想いの如く余よりも先に口を開き「これを明々白々とすれば藻西は伯父を殺した後で自分の名を書附て行た者と思わねばならぬ、其様な事は何うも無いはずだが、警「無さそうでもいじゃ無いか当人が白状したと云えば夫から上確な事は無い、成るほど血の文字が少し合点が行かぬけれど是も当人にとくと問えば必ず其訳が分るだろう、唯吾々が充分の事情を知らぬからだ合点が行かぬと云う丈の事」判事は目科の横鎗にて再び幾分のあやぶむ念を浮べし如く「今夜早速さっそく牢屋へ行きとくと藻西太郎に問糺といたゞして見よう」と云う。
 これにて判事はお警察長に向い先刻死骸検査のむかえりたる医官等も最早もはきたるに間も有るまじければそれまでこゝとゞまられよと頼み置き其身は書記及び報告に来しくだんの巡査と共に此家より引上げたり、後に警察長は予審判事の頼みに従いて踏留ふみとゞまりは留りしかど最早夕飯の時刻なれば、成る可く引上げを早くせんと思いし如くそろ/\室中しつちゅう抽斗ひきだし及び押入等に封印を施し初めぬ。
 余と目科両人は同じ疑いに心迷い顔見合せて立つのみなりしが、目科は徐々そろ/\と其疑いの鎮まりし如く「そうさなア、矢張り血の文字は老人が書たのかも知れぬ」余はたちまち目を見開き「老人が左の手でかね、其様な事が有うかそれに老人がたゞ一突ひとつきで文字などを書く間も無くしんだ事は僕が受合う」あゝ余と目科との間柄は早やきみぼくと云う程の隔て無きまじわりとれり目「全く相違ないのかね余「傷から云えば全くそうだよ、今に検査の医者も来るだろうから問うて見たまえ、もっとも僕はお卒業もせぬ書生の事だからあてには成らぬかも知れぬが医官に聞けば必ず分る」目科は又も空箱を取出しながら「此事件にはだ吾々の知らぬ秘密の点が有るにきまッて居る、其点を検めるが肝腎だそれを検めるには是から更に詮策を初めねばならぬが、そうだ更に初めても構いはせぬなア面白い初めようじゃ無いかし/\其積そのつもりず第一に此家の店番を呼び問正といたゞして見よう」こういて目科は梯子段はしごだんきわに行き、手欄てすりより下階したのぞきて声を張上げ店番を呼立たり。


第五回(種々しゅ/″\の証拠)


 店番の来るまでにて目科は更に犯罪の現場の検査を初め、中にもこのへやの入口の戸に最も深く心を留めたり、戸の錠前は無傷にして少しも外より無理に推開きたる如きあとければこれだけにて曲者くせものにもかくにも老人と懇意こんいの人なりしことはたしかなり、余は又目科がく詮さくする間に室中を其方此方そちこちと見廻して先に判事の書記が寄りたる卓子てえぶるの下にて見し彼のコロップの栓を拾い上げたり、ようも無きただ一個ひとつの空瓶の口なれば是がまでの手掛りにろうとは思わねど少しの手掛りをも見落さじとの熱心より之も念の為にとて拾い上げしなれ、拾い上げてあらため見るに是れ通常の酒瓶の栓にして別にかわりし所も無し、上の端には青き封蝋の着きし儘にて其真中にきりをもみ込し如き穴あるは是れ螺旋形うずまきのコロップぬきにて引抜ひきぬきたるあとなるべし、もっと護謨ごむ同様に紳縮のびちゞみする樹皮きのかわなれば其穴はおのずかふさがりてだ其傷だけ残れるを見るのみなれば更にくつがえしてしもの端を眺ればこゝには異様なる切創きりきずあり、何者が何の為にコロップの栓の裏にかゝる切創を附けたるにや、其創はもっとも鋭き刃物にて刺したる者にて老人ののんどを刺せし兇刃きょうじんかゝ業物わざものなりしならん、老人の咽を突きしも此コロップを突し如くに突しにや、く思いて余はゾッと身震いしつ、其儘そのまゝ持行きて目科に示すに彼れ右見左見とみこうみ打眺うちながめたるすえ「コレハ大変な手掛だ」と云い嚊煙草の空箱を取出す間も無く喜びの色を浮べたれば、余は何故なにゆえ是が大変の手掛りなるやと怪みて打問うに彼れ今もお押入其他の封印に忙わしき彼の警察長を尻目に見、彼れに何事も聞えぬ様小声にて説明ときあかす「何故だッて君、此コロップは曲者が捨て行たのでは無いか、ず此傷を見給え此傷を、是は確に老人を刺した刃物で附けたのだ」余も同じく小声にて「何の為に目「何の為に、其様な事を聞く奴が有るものか、曲者は余程鋭い両刃もろはの短剣を持て来たのだ、両刃と云う事は此傷の形で分る、傷の中程が少し厚くて両のふちが次第に細く薄くなって居るじゃいか余「成るほどそうだ目「すればこの鋭利するどい短剣を曲者はうして持て来たゞろう、人に見られぬ様に隠して居たのは明かだ、さア隠すなら何所どこへ隠す、着物の衣嚢かくしとか其他先ず自分の身のうちには違い無いが其鋭利するどいものを身の中へ隠すのは極めて険呑けんのんだ、少し間違えば自分の身に怪我をするか或は又剣先きっさきの刃を欠くと云うおそれが有る、して見れば何かで其剣先を包んで置かねばならぬ、さア何で包んだ、即ち此コロップだろう、コロップはやわらかで少しも刃を傷めるうれいが無いからそれで之をそッと其剣先へ刺込で衣嚢かくしへ入れて来たのだ余「説き得て妙目「老人を突く時に此コロップを外したが後ではう誰にも認られぬうち早く立去ろうと思うからコロップなどは打忘れて帰たゞろう余「成るほど目「ところで比コロップには青い封蝋が附いて居るから何か一種の銘酒の瓶に用いて有ッたに違い無い、く段々推して行けば次第に捜すのも易くなる、何にしろ此コロップは大変な手掛だ、是が手に入る以上は僕必ず曲者を捕えて見せる」と云終いいおわりて其コロップを衣嚢かくしいるるに此所へ入来るは別人ならず今しも目科が呼置きたる此家の店番にして即ち先刻余と目科と此家に入込しとき店先にて大勢の店子等たなこらに泡を吹きつゝ話し居たる老女なり、女「何御用か知ませんが少々用事も有ますので余りお手間の取れぬ様に願います」と云いつゝ老女は目科の差出す椅子に寄れり、目科は何所どこと無く威光高き調子を現わし「少し聞度きゝたい事が有るので、是から一々お前に問うから何も彼も腹臓なく答えぬと返てお前の不為ふためだよ女「はい心得ました」目科は判事の尋問する如く己れも先ず椅子に寄りて「殺された老人の名は何と云う、女「梅五郎ばいごろうもうしました目「何時いつからこのいえに住で居る女「はい八年前から目「其前は何所どこに住だ女「それまではリセリウまちで理髪店を開いて居ました、老人は理髪師で身代しんだいを作ッたのです目「れほどの身代が有る女「たしかには知ませんが老人の甥が時々申ますに伯父は命を取られると云う場合には随分百万フランクくらいは出し兼ぬと云いました」目科は心の中にて「ふゝむ予審判事は何かの書面をしきりと書記に写させて居たから梅五郎の身代を残らず調べ上て行たと見えるな」と打呟うちつぶやき更に又老女に向い「して梅五郎老人は平生へいぜいの様な人だッた女「極々ごく/\の善人でした、もっとも少し我儘わがまゝで剛情な所は有ましたが高ぶりは致しません、少し機嫌のい時は面白い事ばかり言て人を笑せました、そうでしょうよ流行社会の理髪師で巴里ぱり中の美人は一人残らずの人の手に掛ッて髪をくねらせて貰ッたと云う程ですもの目「暮し向は女「ア当前ですねえ、自分で儲溜もうけためた金で暮す人には丁度相当と思われる暮し方でした、それかとて無駄使などは決して致しませんでしたが目「夫だけではしかと分らぬ何か是と云う格別な所が有そうな者だ女「有ますとも老人の室の掃除むきと給仕とはわたくしが引受けて居ましたもの、大層甲斐々々かい/″\しい老人で室の掃除などは大概たいがいにんで仕て仕舞い私には手を掛させぬ程でした、何がなし暇さえあればはいたりふいたりみがいたり仕て居るが癖ですから目「給仕の方は女「給仕の方は毎日昼の十二時を合図に私しがお膳を持て来るのです、夫が老人の朝飯です、朝飯が済でから身仕度するがおよそ二時まで掛ります、大層着物をるのがかましい人でいつでも婚礼の時かと思うほど身綺麗みぎれいにして居ました、身仕度が終ると家を出てよいの六時まで散歩し六時に外で中食ちゅうじきを済せ、夫から多くはゲルボアの珈琲館に入り昔友達と珈琲をのんだり歌牌かるたを仕たりして遅くも夜の十一時には帰て来て寝床ねどこに就きました、ですがたった一つ悪い事にはあの年になっだ女の後を追掛る癖が止みませんから私しは時々年に恥ても少しはつゝしむがよかろうと云いました、ですが誰でも落度は有るものそれに若い頃の商売が商売で女には彼是かれこれ云れた方ですから言えば無理も有りますまいが」と云い少し笑いを催しきたれど目科は極めて真面目にて「して梅五郎のもとへは沢山たくさん尋ねて来る人が有たのか女「はい有ッても極極ごく/\わずかです其うちで屡々しば/\来るのが甥の藻西太郎さんで、土曜日の度には必ず老人に呼ばれてラシウル料理店へ中食に行きました目「甥と老人との間柄は女「此上も無く好い仲でした目「是までに言争いでも仕た事は女「決して有りません、尤もおくらさんの事に就ては両方の言う事が折合ませんですけれど目「お倉さんとは誰の事だ女「藻西太郎さんの細君おかみさんです、実に奇麗な女ですよ。あの様なのがア立派な女と云うのでしょう、それに外に悪い癖は有りませんけれど其お倉さんも大変な衣服蕩楽なりどうらくで藻西太郎さんの身代に釣あわぬほど立派な身姿みなりをして居ますから綺倆きりょうが一層引立ちます、ですから全体云えば老人が大層誉め無ければ成らぬ筈ですのにう云う者か老人は其お倉さんが大嫌いで藻西太郎さんに向ッては手前は女房を愛し過る今に見ろ女房の鼻の先で追使われる様になるからとか、お倉は手前の様な亭主に満足する女じゃ無い、今に見ろ何か間違いを仕出来しでかすからとか其様な事ばかり言て居ました、爾々そう/\夫ばかりでは有りませんよ昨年も老人とお倉さんと喧嘩をした事が有ます、お倉さんは亭主やど飾屋かざりみせの株を買せるからと云い老人に大変な無心を言て来たのです、すると老人は一も二も無く跳附はねつけて、おれが死んだ後では己の金を藻西太郎がの様に仕ようと勝手だけれど角も己の稼ぎ溜た金だから生て居る間は己の勝手にせねば成らぬ、一文でも人に貸して使わせる事は出来ぬなんぞと言ました」読者よ余の考えにては此点こそ最も大切の所なれば目科が充分に問詰るならんと思いしに彼れ意外にもたって問返さん様子なく余が目配めくばせするも知らぬ顔にて更に次の問題に移り「したが老人の殺されて居る所はうして見出した女「何うしてとは、夫は私しが見出したのですよ、あ何うでしょうお聞下さい私しはいつもの通り十二時を合図に膳を持て老人の室まで来、かねて入口の合鍵を渡されて居る者ですから何気なく戸を開て、内へ這入はいって見ますると、可哀相に、此有様です」と言来いいきたりて老女は真実あわれに堪えぬ如く声をすゝりて泣出せしかば目科は之を慰めて「いやお前がそうまで悲むは尤もだが、う時が無い事で有るし先ず悲みをこらえて――女「はい堪えます、堪えます目「わしの問う事に返事を仕て、さゝ、夫から何うした、其老人の死骸を見て其時お前は何と思ッた女「何と思わ無くとも分ッて居ます、甥の畜生が伯父のしぬるのを待兼て早く其身代を自分の物にする気になり殺したに極て居ます、私しは皆にそう云てやりました目「しかし、何故其甥が殺したに極て居る人を人殺しなどゝ云うは実に容易の事で無く其人を首切台へ推上おしのぼすも同じ事だ、少し位は疑ッても容易に口にまで出して言触す事の出来る者で無い、夫くらいの事はお前も知て居るだろう女「だッて貴方あなた、甥で無くて誰が殺しましょう、藻西太郎は昨夜老人にあいに来て、帰て行たのは大方おおかた夜の十二時でした、いつも来れば這入がけと帰掛かえりがけとに大抵私しへ声を掛る人ですのに昨夜に限り来た時にも帰る時にも私しへ一言の挨拶をせぬから私しは変だと思て居ましたよ、何しろ昨夜其甥が帰てから今朝私しが死骸を見出した時まで誰も老人の室へ這入ッた者の無いのは確かです夫は私しが受合います」
 読者よ是だけの証言を聞き余は驚かざる、余は実に仰天したり、余は此時猶お年も若く経験とても積ざれば、最早や藻西太郎の犯罪は警察官の云し如く真に明々白々にて此上問うだけ無益なりと思いたり去れど目科は流石さすが経験に富るだけ、つは彼れ如何に口重き証人にも其腹のうちに在るだけを充分吐尽はきつくさせる秘術を知ればお失望の様子も無くあたか独言ひとりごとを云う如き調子にて「る程昨夜藻西太郎が老人にあいに来た事はう確だな女「確かですとも、是ほど確かな事は有ません目「するとお前は藻西を見たのだね、其顔をしっかみとめたのだね女「いえ少しお待なさい、見たと云て顔を見た訳では有ません廊下へ行く所を見たのです、夫も彼れ急いで歩きましたから、何でも私に目認みとめられまいと思う様に本統ほんとうに憎いじゃ有ませんか廊下の燈明あかりが充分で無いのを幸いちょい/\と早足に通過とおりすぎました」余は此一ふしを聞きて思わず椅子より飛離れたり、是れ実に軽々しく聞過し難き所ならん、余は殆ど堪え兼てかたわらより問を発し「し夫だけの事ならばお前が確に藻西太郎と認めたとは云われぬじゃ無いか」老女はいとあやしげに余を頭の頂辺てっぺんより足の先までくまなく見終り「なに貴方、仮令たとい当人の顔は見ずとも連て居る犬を確に見ましたもの、犬は藻西に連られて来るたびに私しが可愛がッてりますから昨夜も私しの室へ来たのです、だから私しが余物あまりものやろうとして居ると丁度ちょうど其時藻西が階段の所から口笛で呼ましたから犬は泡食あわくって三階へ馳上はせあがッて仕舞ました」此返事を目科は何と聞きたるにや余は彼れの顔色を読まんとするに、彼れ例の空箱にて之をけ「して藻西の犬とはの様な犬だ」と老女に問う女「はい前額ひたいに少し白い毛が有るばかりで其外は真黒な番犬ばんいぬですよ、名前はプラトと云ましてね、大層気むずかしい犬なんです、知ぬ人には誰にでも※(「口+曹」、第3水準1-15-16)うなりますがたゞ私しには時々食う者を貰う為め少しばかりおだやかです、藻西太郎より外の者の云う事は決して聴きません」こゝだけ聞きて目科は「夫で好しう聞く事は無いからお前下るが好い」と云い老女が外の戸まで立去るを看送みおくすまし更に余がかたに打向いて「うしても藻西太郎の仕業しわざと認める外は無い」と嘆息たんそくせり。
 目科が猶お老女を尋問し居たるうちに、先刻判事が向いにやりしと云いたる医官二名出張し来りて此時までも共々とも/″\に手を取りて老人の死骸をあらため居たれば余は一方に気の揉めるうちにも又一方に医官が検査の結果如何いかゞほとんど心配の思いに堪えず、およそ医師二人ににん以上立会うときは十の場合が七八なゝやつまで銘々見込を異にする者なればし此場合に於ても二人其見る所同じからず、し一方が余の見立通り老人は唯一突にていたみを感ずる間も無きうちに事切れたりと見定むるとも其一方が然らずと云わば何とせん、あお書生の余が言葉はかゝる医官の証言に向いては少しの重みも有る可きに非ず、かく思いて余は二人の医官を見較ぶるに一方はせて背高く一方はこえて背低しかくも似寄たる所少き二人の医官が同様の見立を為すは殆ど望みがたき所なれば猶お彼等の言葉を聞かぬうちよりすでに失望し居たる所、彼等はやがて検査し終り、今まで居残れる警察長に向い不思議にも同一の報告をしたり、同一の報告とは他ならず梅五郎老人は唯一突にて即死せし者なれば従ッて血の文字は老人の書し者に非ずと云うに在り。
 余は意外にも二人の医官が二人ながら余の意見と同一の報告を為せしを見、ほッと息して目科に向えば目科は益々怪しみて決し兼たる如く「フム老人が書たで無いとすれば誰が書たのだろう、藻西太郎か、藻西太郎が自分で自分の名を書附て行くと云う事は決して無い、無い/\何うしても無い、自分で自分の名を書くとは余り馬鹿げ過て居る」
 余は此言葉に何の批評をも加えねど、己が役目のようやく終り、やッと晩餐に有附く可き時の来りしを歓びながらいでて行く彼の警察長は目科の言葉を小耳に挟み彼れをからかうも一興と思いし如く「当人が既に殺しましたと白状した後で他人の君がむずかしく道理を附け独り六かしがッて居るのは夫こそ余り馬鹿さが過るじゃ無いか」目科は怒りもせず「左様さよう、馬鹿さが過るかも知れぬ、事に由ると僕が全くの馬鹿かも知れぬ、けれども今に判然と合点の行く時が来るだろうよ」警察長は聞流して帰り去り、目科もまた言流して余に向い出しぬけに「さア是から二人で警察本署へ行き、捕われて居る藻西太郎に逢て見よう」


第六回(犬と短銃ぴすとる


 藻西太郎にあって見んとはもとより余の願う所ろ何かは以て躊躇ためらき、早速目科に従いて又もや此家を走りいでたり、余と云い目科と云い共に晩餐ぜんなれどたゞ此事件に心を奪われ全くうえを打忘れて自ら饑たりとも思わず、只管ひたすら走りて大通りに出でこゝにて又馬車に飛乗りゼルサレム街にる警察本署をしていそがせたり目科は馬車の中にても心一方ひとかたならず騒ぐと見え、引切ひっきりなしにからの煙草をぐ真似し時々は「うしても見出せねば、そうだ何うしても見出して呉れる」と打呟く声を洩す、余は目科に向いて馬車の隅にすくみしまゝ一つは我が胸に浮ぶ様々の想像を吟味ぎんみするにいそがわしく一は又目科の様子に気を附けるが忙わしさに一語だも発するひま無し、目科は又暫し考えし末、たちま衣嚢かくしを探りて先刻のコロップを取出しあたかも初めて胡桃くるみを得たる小猿が其の剥方むきかたを知ずしてむなしく指先にてひねり廻す如くに其栓を拈り廻して「何にしても此青い封蝋が大変な手掛りだ何うかして看破みやぶらねば」との声を洩せり、かくて長き間走りし末、馬車はついに警察本署に達し其門前にて余等よら二人をおろしたり、日頃ならば警察の庭と聞くのみも先ず身震する方にして仲々足踏入る心はいでねど今は勇み進みて目科の後に従い入るのみかは常に爪弾つまはじきせし探偵の、良民社会に対して容易ならぬ恩人なるを知り我が前に行く目科の身が急に重々しさを増しきたり、其背長せたけさえ七八寸も延しかと疑わる、やがて其広き庭より廊下へ進み入り曲り曲りて但有とあ小室しょうしつの前にいずればうちには二三の残りいん卓子てえぶるを囲みて雑話せるを見る、余は小声にて目科を控え「今時分藻西太郎に逢う事が出来ようか」と問う、目科は「出来るとも僕が此事件の詮鑿を頼まれて居るでは無いか仮令たとい夜の夜半よなかでも必要と認れば其罪人に逢い問糺といたゞす事を許されて居る」と云い余を入口に待せ置き内に入りて二言三言、何事をか残員のこりいんと問答せし末、出来いできたりて再び余を従えつ又奥深く進み行き、裏庭とも思わるゝ所に出で、※(「研のつくり」、第3水準1-84-17)を横切りて長き石廊に登り行詰る所に至ればいかめしき鉄門あり、番人に差図さしずして之を開かせ其内に踏み入るに是が牢屋の入口なる可く左右に広き室ありて室には幾人の巡査集れるを見る、室と室との間にいとけわしき階段あり之を登れば廊下にして廊下の両側につらなれる密室はこと/″\く是れ囚舎ひとやなるべく其戸に一々逞ましき錠を卸せり、廊下の入口に立てる一人、是が世に云う牢番ならんか、かねて小説などにて読みたるこわらしき人とは違い存外に気も軽げなれど役目が役目だけ真面まじめには構えたり、此者目科を見るよりも腰掛を離れて立ち「やア旦那ですか、多分いらッしゃるだろうと思ッて居ました何でもバチグノールの老人を殺した藻西とか云う罪人にお逢いなさるのでしょうね目「そうだ、何か其藻西に変ッた事でも有るのか牢番「なにかわった事は有りませんがッた今警察長がおみえに成り彼れに逢て帰たばかりですから目「それだけでく己の来たのが藻西に逢う為めだと分ッたな牢番「いえ夫だけでは有ません、警察長は僅か二三分囚人と話て帰り掛けにアノ野郎言張て見る気力さえ無い、う早く罪に服そうとは思わなんだが是でう充分だ今に目科が遣て来て彼奴きゃつの言立を聞き失望するだろうと何か此様な事を呟いて居ましたから」目科は之を聞きさては罪人や既にそうまで罪に服したるやと驚きしものゝ如く、嚊煙草を取出す事すら打忘れて牢の入口を鋭く見遣みやれり、牢番は目科の様子に気を留ずして言葉を続け「成るほどあれでは服罪しましょう、わたしは一目見た時から此野郎とて言開いいひらきは出来まいと思いました目「して藻西は今何をして居る番「私しは役目通り今まで彼れをのぞいて居ましたが、彼れくに後悔を初めたと見え泣て居ますよ、まるで身体の大きい赤坊です、声を放ッて泣て居ます目「れ行て見よう、だがおれの逢て居る間、外で物音をさせてはいけないよ」と注意を与え目科は先ず抜足して牢の所に寄りひそかに内を窺い見る、余も其例に従うに成る程囚人藻西太郎は寝台ねだいの上に身を投げて俯伏うつぶせしまゝ牢番の言し如く泣沈めるていにして折々に肩の動くは泣じゃくりの為なるべく又時としては我身の上の恐ろしさに堪えぬ如く総身そうしんを震わせる事あり、見るだけにても気の毒なり、やゝありて目科は牢の戸を開かせつ余を引連れて内に入る、藻西太郎は泣止みて起直り、寝台の上に身を置きしまゝ目科の顔を仰ぎ見るさま、痛く恐を帯びたるかなくば気抜せし者なり、余は目科の背後うしろより彼れの人とりを倩々つく/″\見るに歳は三十五より八の間なるく背は並よりもむしろ高く肩広くして首短し、いずれにしても美男子と云わるゝ男には非ず、美男子を遙か離れ、強き疱痘ほうそうあとありて顔の形痛く損し其ひたい高きに過ぎ其鼻長きに過るなどは余ほど羊に近寄りたる者とも云う可し、れどそのまなこは穏和げにして歯は白くかつ揃いたり。
 目科は牢に入るよりもおおいに彼れが気を引立んとする如く慣々なれ/\しき調子にて「おやおや何うしたと云うのだ、其様にふさいでばかり居ては仕様が無い」と云い彼が返事を待つ如く言葉を停めしも彼れ更に返事せざれば目科はお進み「え、奮発するさ奮発を、これさこれ藻西さんお前も男じゃ無いか、わししお前なら決して其様にしおれては居無いよ、男の気象きしょうを見せるのは此様な時だろう、何でお前は奮発せぬ、こゝで一つ我身に覚えの無い事を知せ判事や警察官に一泡ひとあわ吹せてくれようじゃ無いか」実に目科は巧なり彼れが言葉には筆に尽せぬ力あり妙に人の心を動かすに足る、余若し罪人ならばたゞ彼れの一言に奮い起き仮令たとい何れほどの疑いに囲まれようとも其の疑いを蹴散して我身の潔白を知せ呉れんと励み立つ所なり、は云え目科は気も気に非ず、此一言実に藻西太郎の罪あるや無きやを探り尽す試験なれば胸のうち如何いかほどか騒立さわだつやらん、藻西太郎は意外にも、無愛想なる調子にて「そう仰有おっしゃッても仕方が有りません、自分で殺した者は到底隠しきれませんから」と答う、此返事に余は殆ど腰抜すほど驚きたり、あゝ当人が此口調では最早や疑いをるゝ余地も無し問うも無益、疑うはお駄目なり、爾れど目科は猶おくじけず「何だとお前が殺した、本統か、本統にお前か」藻西太郎は忽然こつぜんとして、あたかも狂人が其狂気の発したるとき、まさに暴れんとしてたつが如く、怒れるまなこに朱をそゝぎ口角に泡を吹きて立上り「私しです、はい私しです、私し一人いちにんで殺しました、全体何度同じ事を白状すれば好いのですか、今し方も判事が来て、同じ事を問うたから何も彼も白状しました、ヘイ其白状に調印まで済せました、此上貴方は何を白状させくて来たのですか、夫とも私が泣いて居るから信切しんせつに夫を慰めようとて来て下さッたのかも知ませんが、今となっては恐しくも有ません、首切台は知て居ます、はい私しは人を殺したから其罪で殺されるのです」彼れの言条いいじょう愈々いよ/\いでて愈々明白なり、流石さすがの目科も絶望し、今まで熱心に握み居たる此事件も殆ど見限りて捨んかと思い初めし様子なりしが、空箱を一たび鼻に当てたちまち勇気を取留し如く、彼の心を知る余にさえも絶望の色を見せぬうち早くも又元にかえり「そうか、本統にお前が殺したのか、夫にしてもだ首切台ノ殺されるノと其様な事を云う時では無いよ、裁判と云う者は少しの証拠で人を疑うと同じ事で其代り又少しでも証拠の足らぬ所が有れば其罪を疑うて容易には罪に落さぬ。好いか、此度の事件でもお前の白状は白状だ、夫にしてもお前の白状だけでは足りぬ、お其外の事柄をく調て愈々いよ/\お前に相違ないと見込が附けば其時初めて罪に落す、若しお前の白状だけで外の証拠に疑わしい所が有れば情状酌量じょう/\しゃくりょうと云て罪を軽める事も有り又証拠不充分と云て其儘そのまゝ許す事も有る」とほとんかんふくめぬばかり諄々じゅん/\説諭ときさとすに罪人は心の中に得も云えぬ苦しみを感じせんかかく答えんかと独り胸の中に闘いて言葉には得出えいださぬ如く、空しく長き※(「口+曹」、第3水準1-15-16)うめき声を洩すのみ、此有様も如何ように見て取る可きか、目科はすかさずついて入り「つい問度といたい事が有る、お前は殺すほどあの伯父が憎かッたのか藻「なアに少しも憎くは有ません目「では何故殺した藻「伯父の身代しんだいが欲いから殺しました、此頃は商買しょうばいが不景気で日々にちにち苦しくなるばかりです、夫は同業に聞ても分ります、幸い伯父は金持ですけれど生て居る中は一文でも貸て呉れず、しにさえすれば其身代がひとりで私しへ転がり込むと思いまして、目「分ッた/\、夫でお前は殺しても露見しまいと思ッたのか藻「はいそう思いました」あゝ目科は何故なにゆえかく湿濃しつこく問うなるや、余は必ず深き思惑の有る可しと疑いめしに果せるかな彼れたちまち語調を変じ「夫はそうとしてお前あの、伯父を殺した短銃ぴすとる何所どこかった」余は藻西が何と答うるにやと殆ど気遣きづかわしさに堪えず手に汗を握れども藻西は驚きもせず怪みもせず「なに買たんじゃ有ません余程前から持て居たのです」と答う目「殺した後で其短銃を何うしたか藻「え、別に何うもしません、左様さ投捨て仕舞いました、外へ出てから目「では誰か拾た者があろう、好し/\わしく探させて見よう」読者よ目科は奥の奥まで探り詰ん為めことさらかゝいつわりの問を設けて、試みながらも其色を露現あらわさず相も変らぬ静かなる顔付なり、やゝありて又問掛け「一つ合点の行かぬ事は全体犬を連て行くと云う事は無いよ、あれが大変な露見のもとなった、あの様な者は内へ置て自分一人で行きそうな者だッたのに」此問は何の意にて発せしや余は合点し得ざれども何故か藻西太郎は真実に打驚き「え、え、犬、犬を目「爾よ、プラトと云う黒犬をさ、店番がたしかにプラトを認めたと云う事だ」此語を聞きて藻西太郎の驚きは殆どたとうるに者も無し、彼れ驚きしか怒りしか歯を噛みこぶしを握りて立ち、何事をか言出さんとする如く唇屡々しば/\動きたるもようやくに我心を推鎮おししずめ「え、え」と悔しげなる声を発して其儘寝台に尻餠しりもちき「えゝ、是でさえう充分の苦みだのに此上、此上、何事も問うて下さるな、最うう有ても返事しません」断乎だんことして言放ち再び口を開かん様子も見えず、目科も此上問うの益なきを見て取りしかたっ推問おしとわんともせず、是にて藻西太郎を残し余と共に牢を出で、はしごを下りて再び鉄の門を抜け、廊下を潜り庭をよぎり、余も彼れも、無言の儘にて戸表おもてへと立出しが余はこゝに至りて我慢も仕切れず、目科の腕に手を掛けて問う「是で君は何と思う、え君、彼れ自分で殺したと白状して居るけれど伯父が何の刃物で殺されたか夫さえも知ぬじゃ無いか、君が短銃ぴすとるの問は実にうまかッたよ、彼は易々やす/\と其計略に落ちた、今度こそ彼れの無罪が明々白々と云う者だ、若し彼れが自分で殺したなら、なに短銃ぴすとるで無い短剣だッたと云う筈だのに」目科は簡単に「左様さ」と答えしが更に又「しか何方どちらとも云れぬよ罪人には随分思いの外に狂言の上手な奴が有て、判事や探偵を手球てだまに取るから余「だッて君目「いや/\僕は今まで色々な奴に出会でっくわしたゞけ容易には少しの事を信ぜぬて、しかし今日の詮索は先ず是だけで沢山だ、是から帰て僕の室へ来、何か一口べ給え、此後の詮索は明日又朝から掛るとしよう」


第七回(馬鹿か、いな


 是より目科が猶も余を背後うしろに従え我宿に帰着き我室の戸を叩きしは夜も早や十時過なりき、戸を開きて出迎える細君は待兼し風情にて所天おっとの首にすがり附き情深きキスを移して「あゝ到頭とうとうお帰になりましたね今夜は何だか気に掛りまして」と言掛けて余が目科の背後うしろに在るを見、たちまち一歩引下り「おゝ御一緒に、今まで珈琲館にいらしッたのですか、私しは又用事で外へお廻りに成たかと思いました、あそんでお帰りなさるには余り遅過るじゃ有ませんか」帰りの遅きは用事の為とのみ思いたるに余と一緒なるを見てさては遊びの為なりしかと疑い初めたる者と知らる、目科はすきも有らせず「なに珈琲館を出たのは六時頃だッたがバチグノールに人殺ひとごろしが有たので隣室の方と共に其方そのほうへ廻ッて夫故それゆえ此通このとおり」と言開く、細君は顔色にて偽りならぬを悟りし、調子を変て「おやそう」と呟けり、此短き「おや爾」には深き意味ある如く聞ゆ「おや/\、探偵を勤めて居ることを隣の方にまで知せたのですか」と云うに同じかるし、目科は直ちに其意をみ「隣の方と一緒でも構わぬよ、探偵を勤めるが何も恥では有るまいし」と言い掛るを細君が「なに爾では有りませんよ」としずめんとすれど耳に入れず「成る程世間には探偵を忌嫌いみきらう間違ッた人もあろうけれど一日でも此巴里ぱりに探偵が無かッて見るが好い悪人が跋扈ばっこして巴里中の人は落々おち/\眠る事も出来ぬからさ、私は探偵の職業を誰に聞せても恥と思わぬ」とて喋々ちょう/\言張んとす、細君はかゝいかりに慣たりと見え一言も口をはさまず、目科もやがて我言葉の過たるを悟りし如くがらり打解て打笑い「いや其様な事は何うでも好い、夫よりア、二人とも空腹に堪えぬから何なりとたべるものを」と云う、不意の食事は此職業には有りがちなれば細君は騒ぎもせずくりやかたに退きて五分間とぬうち早や冷肉の膳を持出で二人の前に供したれば、二人は無言むげんの儘忙わしくべ初めしも、喫て先ずだるさの鉾先だけ収まるや徐々そろ/\と話に掛り、目科は今宵の一条を洩さず細君に語り聞かす流石探偵の妻だけに細君も素人臭き聞手と違い時々不審など質問するいずれも炙所きゅうしょに当れば余は殆ど感心し「此の聞具合では必ず多少の意見も有るだろう」とひそか思待おもいまつうちに、ようやく目科の話が終れば果せるかな細君は第一に「貴方は失念ぬかった事を仕ましたね」と云う、目科はあたかも今までの経験にて細君の意見のあなどり難きを知れる如く、此言葉に多少の重みを置き「失念ぬかった事とは何が細「現場を立去ッてからすぐに牢屋へ行くと云う事は有りませんよ目「だッて牢屋には肝腎かんじんの藻西太郎が居るだろうじゃ無いか細「でも貴方、藻西に逢た所で別に利益はなかッたでしょう、それよりは何故直に藻西太郎の宅へ行きそのさいを尋問しませぬ」目科は成るほどゝ思いしか一語を発せずお細君の説を聞く、細君は語を継ぎて「直に行けばだ藻西太郎が捕縛されて間も無い事では有るし、妻の心も落着いて居ぬ間ですから其所そこ附込つけこみ問落せばの様な事を口走たかも知れません、包みかねて白状するか、それほどまでに行かずとも貴方のまなこで顔色ぐらい読む事がいとやすかッただろうと思いますよ」此口振は云う迄も無く藻西を真の罪人と思い詰ての事なれば余は椅子より飛上り「おや/\奥さん、それでは藻西太郎を本統の犯罪人と思召おぼしめすのですか、ヱ貴女」細君は不意の横槍よこやりに少し驚きし如くなりしも、直に落着て何所どこやら謙遜の様子を帯びつゝ「はいしやそうでは有るまいかと私しは思います」余は是に対し熱心に藻西太郎が無罪なる旨を弁ぜんとするに細君は余に其暇を与えず、直ちに又言葉を継ぎて「いずれにしても此犯罪が其妻倉子とやら云う女の心から湧て出たには違い有ません私しは必ずそうだと思いますよ、若し犯罪が二十有るとすれば其中そのうちの左様さ十五までは大抵女の心から出て居ます、それは私しの所天おっとに聞ても分ります、ねえ貴方」と一寸ちょいと目科に念を推して更に「のみならず店番の言立いいたてでも大概は察せられるじゃ有ませんか、店番は何と云いました倉子と云う女は大変な美人で、望みも大きく、決して藻西太郎の様な者に満足して居る者で無くて、夫で彼れを鼻の先で使い兼ないと云た様に私しは今聞取りましたが、そうですか余「爾です細「して又藻西が家の暮しはなんの様です随分困難だと云いましょう、ですから妻は自分の欲い物も買無かわないし、現在金持の伯父が有ながら此様な貧苦をするのは馬鹿/″\しいと思ッたに違い有りません、既に昨年とかも藻西太郎に勧め伯父から大金を借出させようとした程では有ませんか、最早もはや我慢が仕切れ無く成た為としか思われません、それを老人が跳附けて一文も貸さなかッたゆえ自分の望みは外れて仕舞い老人が憎くなり夫かと云て急に死相しにそうな様子も無くあゝも達者では死だ所が自分等のう歯の抜ける頃だろうが悪ければ自分等の方がかえって老人にとぶらいを出して貰う仕儀しぎに成るかも知れぬとこう思ッた者ですから是が段々とこうじて来てついに殺して仕舞う心にも成りがな隙がな藻西太郎に説附ときつけて到頭彼れに同意させはては手ずから短刀を授けたかも知れません、藻西太郎も初めの中はどうでしたか手をえ品を変えて口説かれるうちにはツイ其気になり、それに又商売は暇になる此儘居ては身代限り可愛い女房もくわし兼る事に成るし、貧苦の恐れと女房の嘆きに心までくらんで仕舞いうやらこうやら伯父を殺して其身代を取る気に成たのです藻西のほかには誰も其老人を殺して利益を得る者は一人も無いと云うたでは有りませんか、盗坊どろぼうならば知らぬ事、老人を殺した奴が何一品盗まずに立去たと云う所を見れば盗坊で有りません愈々いよ/\藻西に限ります藻西の外に其様な事をする者の有う筈が有ません、妻が必ず彼れに吹込み此罪をおかさせたのです」と女の口にはめずらしきほど道理を推して述べ来る、其言葉に順序も有り転末も有り、目科も是に感心せしか「成るほど」とて嘆息せり、余も感心せざるにあらねど余は何分なにぶんにも今まで心に集めたる彼れが無罪の廉々かど/\を忘れ兼れば「ではどうですか、藻西太郎は伯父を殺して仕舞た後で故々わざ/\自分の名前を書附けて置て行く程の馬鹿者ですか」唯此一点が藻西の無罪を指示す最も明かなる証拠にして又最も強き箇条なれば是には目科の細君も必ずひるみて閉口するならんと思いしに、細君は少しもひるまずかえッて余の問を怪む如くに「おや自分の名前を書附たからそれで馬鹿だと仰有るのですか、私しは馬鹿にはとても出来ぬ所だろうと思いますよ余「とは又何故です細「何故とて貴方、若し其名前を書附けずに行て仕舞ば一も二も無く自分が疑われるに極ッて居ます、疑いを避けるには大胆に自分の名前を書附ける外は有ません、夫を書附て置たればこそ現に彼の仕業で有るまいと思う人が出て来たでは有ませんか、貴方にしろそうでしょううしても自分が疑われるに極ッて居るなら其疑いを避る為には充分の度胸を出し自分の仕業とは思われぬ様な事を仕て置きましょう」此の力ある言開いいひらきには余も殆どひるまんとす、図らざりきかゝる堂々たる大議論が女流の口より出来いできたらんとは
 余が怯まんとする色を見て細君は更に又力強き新論鋒しんろんぽう指向さしむけて「それで無ければ第一又老人の左の手に血のついて居たのが分ら無くなッて来ます、若しも貴方の云う通り藻西太郎より外の者が老人を殺し其疑いを藻西に掛ようと思ッて血の文字を書たのなら、其者こそ文字は右の手で書くか左の手で書くかもしらぬ馬鹿ものと云わねばなりますまい、夫ほどの馬鹿ものが世に有ましょうか、老人の左の手へ血を附けて置けば誰も老人が自分で書いたとは思いません、曲者の目的は外れます、藻西太郎へ疑いを掛けようとしてかえって彼の疑いを掃い退のける様な者です、人を殺して後で其血で文字を書附るほど落着た曲者くせもの真逆まさかに老人の左の手を右の手とは間違えますまい、ですから藻西の外に曲者が有るとすれば其曲者は決して老人の左の手へ血は附けません必ずう見ても老人が自分で書たに違い無いと思われる様に右の手へ附けて置きます、所が之と事かわり、其曲者を私しの云う通り藻西自身だとすれば全く違ッて参りますうでも左の手へ血をつけおかねば成らぬのです、何故と仰有おっしゃれば藻西ならば其文字を本統に老人が書たものと認められては大変です、自分の首が無く成ります、うしても老人が書たで無く曲者の書たに違い無い様に見せて置ねばなりません、そう見せるには何うすれば好いのでしょう、即ち血を老人の左の手へ附けて置くに限ります、左の手に附て置けば誰も老人の仕業とは思わず、ればとて現に藻西の名をかいて有るから真逆まさかに藻西が自分で自分の名を書く程の馬鹿な事を仕様とは猶更なおさら思われず、否応いやおうなく疑いが外の人へ掛ッて行きます、論より証拠には貴方さえも無理に疑いを外の人へ持て行こうとなさッて居るでは有ませんか、く考えて御覧なさい」と是だけ言て息を継ぐ、余が返事のいでぬを見、細君は少し気の毒と思いし如く「もっとも女の似而非えせ理屈とか云う者でしょう、もとより現場も見ませんで、真逆当りは仕ませんけれど既に店番が藻西を見たと云い其上つれて居た犬は藻西の外の者へは馴染なじまぬとも云たのでしょうそれこれや考えて見ると藻西と云う方がうしても近いかと思われます、つまり藻西はなんでしょう随分智慧のく男で、通例の手段では倒底助からぬと思ッたからずッと通越して此様な工夫を定めたのでしょう」細君の言葉の調子がおおいに柔かくなるに連れ余の疑いも亦再び芽を吹き「そうすると藻西が自分で白状したのはう云う者でしょう細「それが即ち彼れの工夫の一部分では有ませんか余「だッて貴女、彼れは老人が何で殺されたかそれさえ知ぬ程ですもの細「知ぬ事は有ますまい、貴方がたが鎌を掛たからそれを幸いに益々知らぬふりをするのです、此方から短銃ぴすとると言た時に直様すぐさまはい其短銃ぴすとる云々しか/″\と答えたのが益々彼れの手管てくだですわ、つまり彼れは丁度計略の裏をかいて居るのです、其時若し彼れがいえ短銃ぴすとるでは有ません短剣でしたと答えたなら貴方がたも之ほどまで彼れを無罪とは思わず彼れの工夫が破れて仕舞いましょう、貴方がたの見て驚く所が彼れの利口な所だと私しは思いますが」
 余はお何とやら腑に落ぬ所あれば更に議論を進めんとするに、目科は横合よこあいより細君に声を掛け「これ/\、和女そなたは今夜うかして居るよ、いつもと違い余り小説じみた事を云う」と制し更に余がかた向来むききたりて「今夜はう置きたまえ、僕は既に眠くなッた。其代り明早朝に又君を誘うから」
 実に目科は多年経験を積みし為め事に掛れば熱心に働き通し、其代り又ひとたび心を休めんと決すれば、其休むる時間け全く其事を忘れ尽して他の事を打楽しむ癖を生じたる如くなるも余には仲々其真似出来ず「らば」とて夫婦に分れを告げ居間に帰りて寝て後もたゞ此事件のみ気に掛り眠らんとして眠り得ず、「あゝ藻西太郎は罪無きに相違なし」と呟き「罪なき者が何故に自ら白状したるや」と怪み、胸に此二個の疑団ぎだん闘い、微睡まどろみもせず夜を明しぬ


第八回(太郎の妻)


 読者よ、初めて此犯罪に疑いをれたるは実に余なり、余が老人の死骸を見て其顔に苦痛のていなきと其右の手に血の痕なきを知りてよりかくは疑い初めたる者なれば余は如何にしても藻西太郎の無罪なるを証拠立てねばならず、のみならず現に無罪と思う者が裁判官の過ちや其外の事情の為め人殺しの罪に落さるゝを見、知ぬ顔にて過さるきや、余は此事件の真実の転末を知んが為には身をすてるも可なり職業をすつるも惜からずとまでに思いたり、思い/\て夜を明し藻西太郎は確に無罪なりと思いつむるに至りしかど又ひるがえりて目科の細君が言たる所を考え見れば、余が無罪の証拠と見認みとむる者はこと/″\く有罪の証拠なり細君の言葉は仮令たとい目科の評せし如く幾分か「小説じみ」たるに相違無しとするも道理に叶わぬ所とては少しも無し、成るほど藻西太郎は其妻にほだされて伯父を殺すの事情充分あり「之加しかも自ら殺せしと白状したり」愈々いよ/\彼れが殺せしとすれば成るほど其疑を免るゝ奇策として我名をしるすの外なきなり、我名を記すも老人の右の手を以て記す可からず、唯左の手を以て記すの一方なり、余の疑いは実に粉々に打砕かれたるに同じ、余は殆ど返す可き言葉を知ず、あゝ余はついに此詮索を廃す可きか、余の過ちを自認す可きか。
 余が殆ど思い屈したる折しも昨夜の約束を忘れずして目科は余の室に入来れり、彼れは余の如く細君の言葉には感服せざるかおもいくっするてい更に無く、かえって顔色も昨夜より晴渡れり、彼れ第一に口を開き「今日も君一緒に行くが其代り今からいましめて置く事が有る僕がの様な事を仕ようと決して口を出し給うな、し僕に口をきゝいなら誰も外に人の居無い本統の差向いになった時を見て言給え」余はもとより自ら我が智識我が経験の目科に及ばざるを知れば此誡めを不平には思わずたゞ再び此詮索に取掛るの嬉しさに一も二も無く承諾して早速に家をいでしが、目科の今日の打扮いでたちいつもより遙か立派にして殊に時計其他の持物も殆ど贅沢の限りを尽しう見ても衣服蕩楽なりどうらく、持物蕩楽なる金満家の主人にして若し小間物屋の店の者にでも見せたらばかゝる紳士を得意にししと必ずよだれを流すならん、何故なにゆえかくも立派に出立いでたちしや、余は不審の思いを為し、歩みながらも「君今日はの様な方針を取る積りか」と問しに目科は平気にて「問わずとも知れて居よう、藻西太郎の妻倉子を調しらべるのさ」さては目科も細君の議論に打負け、昨夜分るゝまで藻西を無罪と認めしに今朝はや藻西が其妻に煽起そゝのかされて伯父を殺せし者と認め藻西の妻を調べんと思えるなるか、く思いて余は少し失望せしに目科はさとくも余の心を察せし如く「僕が吾が妻の意見を聞くのを君は可笑おかしいと思うだろうが、有名なる探偵のうちには下女の意見まで問うた人が有る、今までの経験にり僕はの様な事件でも一度ひとたびは女房の意見を聞いて見る、女房は女の事で随分詰らぬ事も言い殊に其意見が何うかすると昨夜の様に小説じみて来るけれど、僕は又単に事実の方へのみ傾き過る事が有ッて僕の考えと妻の考えを折衷せっちゅうすると丁度好い者が出来て来る」と云うこれにて見れば満更細君の意見にのみ心酔したる様にも有らねば余はや安心し、今日中に如何ほどの事を見出すならんとそれのみを楽みて再び又口を開かず、歩み/\て遂に彼の藻西太郎が模造品の店を開けるビビエンまちに到着せり、此町の多く紳士貴婦人の粧飾そうしょく品をひさげる事はかねてより知る所なれど、心に思いを包みて見渡すときは又一入ひとしお立派にしていずれの窓に飾れる品も、実にぜんつくつくし、買き心の起らぬものとては一個ひとつも無し、藻西太郎の妻倉子は此上も無き衣服なり蕩楽とか聞きたりかゝる町に貧く暮してはさぞかし欲き者のみ多かる可くすれば夫等それらの慾にいざなわれ、ついに貧苦に堪え得ずして所天おっとに悪事を勧むるにも至りしあゝ目科の細君が言し所は余の思いしより能くあたれり藻西の無罪を証拠立んとする余の目的は全くはずれんとするなる歟、余は此町のうるわしさに殆ど不平の念を起し藻西が何故身の程をもかえりみず此町を撰びたるやとまで恨み初めぬ、目科も立留りてしば彼方此方かなたこなたを眺め居たるがやがて目指せる家を見出せし如く突々つか/\歩去あゆみさるにぞ藻西の家に入る事かと思いの外、彼は縁も由縁ゆかりも無き蝙蝠こうもり傘屋に入らんとす「君それは門違いで無いか」と殆ど余の唇頭くちびるまでいでたれどこゝが目科のいましめたる主意ならんと思い返して無言のまゝに従い入るに、目科は此店の女主人じょしゅじんに向い有らゆる形の傘を出させそれいけぬ是も気に叶わずとて半時間ほども素見ひやかしたる末、ついに明朝見本を届くる故其見本通りあらたに作り貰う事にせんと云いて、此店を起出たちいでたり、余はこゝに至り初て目科がいつもより着飾きかざりたる訳を知れり、彼はく藻西が家の近辺にて買物を素見ひやかしながら店の者に藻西の平生へいぜいの行いを聞集めんと思えるなり、身姿みなりの立派だけ厚くもてなさるゝ訳なればさても賢き男なるかな、既に蝙蝠傘屋の女主人なども目科が姿立派なると注文のいとむずかしきを見て是こそは大事の客と思い益々世辞沢山に持掛けながらしらしらず目科の巧みなる言葉に載せられ藻西夫婦の平生の行いに付き己れの知れる事柄だけは惜気も無く話したり、かくて目科は幾軒と無く又別の店に入り同じ手段にて問掛るに、藻西太郎の捕縛一条は昨夜より此近辺の大問題とれる事なれば問ざるも先より語り出る程にして中に口重き者あらば実際に少しばかりの買物を為し※(「研のつくり」、第3水準1-84-17)を餌に話の端緒いとぐちを釣出すなど掛引万々抜目なし、六七軒八九軒およそ十軒ほど素見ひやかし廻りたる末、藻西夫婦が事に付き此辺の人が知れるだけの事は残り無く聞集めたるが其大要をつまめば藻西太郎は此上も無き正直人しょうじきじんなり何事ありとも人を殺す如きことは決して無く必ず警察の見込違いにて捕縛せられし者ならん遠からず放免せらるゝは請合なり、れ其妻に向いては殆どやわらか過るほど柔かにして全く鼻の先にて使われ居し者なり、かくも妻孝行の男は此近辺に二人と見出し難し、とうの事柄にして殆ど異口同音なり、だ彼れの妻お倉に就きては人々の言葉に多少の違い有れど引括ひきくゝれば先ず、お倉は美人なり、身体に似合ぬほど其衣類立派なり、れど悪き癖とては少しも無し、身持は極めて真面目なり、亭主に向いては威権いけんはなはだ強過れどればとてうやまわざるにあらず、人附ひとづきはなはだ好ければいやらしき振舞はたえて無く、近辺のたわむれ男のうちには随分お倉に思いを掛け彼れれ言寄らんとする者あれどお倉はる人と噂を立られたる事も無ければ少したりとも所天おっとに嫉妬を起させる如き身持をしたる事なし、妻として充分安心の出来る女なり、など云うだけなり。
 是だけ集め得て目科はいとも満足のていにて「うだ君、こうして集めたのが本統の事実だぜし探偵と分る様な風をして来て見たまえ、少し藻西をにくむ者は実際より倍も二倍も悪く言い又にくみも好みもせぬ者はく何事も云うまいとするから本統の事は到底聞き出す事が出来ぬ、さあこれから愈々いよ/\藻西の家に行き細君に直々じき/\逢うのだ」と云う、藻西の店は余等よらが立てる所より僅か離れしのみにして店先の硝子がらすに書きたる「模造品店、藻西太郎」の金文字も古びてや黒くなれり目科は余を従えず其店の横手に在る露路の所に立ち暫し店の様子を伺う体なる故、余は気短かく「すぐに中へ這ろうじゃ無いか」と云う目「いやに角細君が店へ出て来る様子を見い、それまで先ず辛抱したまえ」とて是よりおよそ二十分間ほど立たれど細君は出来いできたる様子なし目「是だけ待て出て来ねば此上待つにも及ぶまい、来たまえ、さアゆこう」と云い直ちに店の前に進めば十六七なる下女一人、帳場の背後うしろより立来り「何を御覧に入ましょう目「いや買物では無い、外の用事だ、内儀ないぎは内か下女「はいお内です、是へお呼申しましょう」とて、早や奥に入んとするを目科は逸早いちはやく引留めて自ら其店にのぼり、無遠慮に奥の間に進み入る、余も何をか躊躇ためらき目科の後に一歩も遅れず引続きて歩み入れば奥のと云えるは是れ客室きゃくまと居室と寝室ねまとを兼たる者にして彼方の隅には脂染あかじみたる布を以て覆える寝台ねだいあり、室中何と無く薄暗し、中程には是も古びたるきれを掛し太き卓子てえぶるあり、之を囲める椅子の一個は脚折れて白木の板を打附けあるなど是だけにても内所向ないしょむきの豊ならぬは思いらる。
 れど是等これらの道具立てに不似合なる逸物いちもつは其汚れたる卓子てえぶる※(「馮/几」、第4水準2-3-20)り白き手に裁判所の呼出状を持ちしまゝ憂いに沈める一美人なり是ぞこれ噂に聞ける藻西太郎の妻倉子なり、倉子の容貌は真に聞きしより立優たちまさりてうるわしく、其目其鼻其姿、一点の申分無く、容貌室中に輝くかと疑われ、余はかゝる美人が如何でか恐しき罪をもくろみて我が所天おっとに勧めんやと思いたり、殊に其身にまとえるはうれいを表する黒衣にしてく今日の場合に適し又最も倉子の姿に適したり、倉子の美くしきは生れ附の容貌に在りとは云え衣類の為に一入ひとしお引立たる者にして色も其黒きに反映して益々白し余は全く感心ししば見惚みとるゝのみなりしが、感心の薄らぐと共に却て又一種の疑いを生じたり、此女うれいに沈めるには相違なきも真実愁いに沈みし人が衣類に斯くも注意する暇あるや、倉子が撰びに選びて最も似合しきものを着けしは殊更に其憂いを深く見せ掛る心には非ざるか、目科も内心に幾分か余と同じ疑いを起したることまなこの光にて察せらる、倉子は余等が突然に入来るを見、驚きて飛立ちつ、涙に潤む声音にて「貴方がたは何の御用事です」と問う、目科はと厳格に「はい警察署から送られました、わたくしは其筋の探偵です」と答う探偵との返事を聞き倉子は絶望せし人のごとく元の椅子に沈み込み殆ど泣声なみだごえを洩さんとせしも、思直おもいなおしてか又起上たちあがり、今度は充分に怒を帯びたる声鋭く「あゝ私しを捕縛するため来たのですね、さあお縛なさいお連なさい、連て行て所天おっととともに牢の中へ投込んで戴きましょう、罪無き所天を殺すなら私しも一緒に殺して下さい、さあ、さあ」と詰寄する、是が真実此女の誠心まごゝろならば誰か又此女を所天に勧めて其伯父を殺させし者と思わん、唯之だけにて無罪の証拠は充分なり、流石さすがの目科も持余もてあまして見えたるが此時彼方なる寝台の下にていぬこわらしく※(「口+曹」、第3水準1-15-16)うなるを聞く、是なんかねて聞きたる藻西太郎の飼犬かいいぬプラトとやら云えるにして今しも女主人が身をあやうしと見、余等二人に噛附んとするなるし、倉子は一声に「これ、プラト、怒るのじゃ無いよ、此お二人は恐しい方じゃ無いから」と、叱り附る、叱る心をさとりてか犬は再び寝台の下に隠れたれども、お少しでも女主人の危きを見れば余等二人に飛附ん心と見え暗がりにて見張れるまなこあたか二個ふたつの星の如くに光れり、目科は倉子の言葉を機会しおに「ほんに吾々は恐しい人じゃありません、こうして来たのも捕縛など云う恐るき目的では無いのです」是だけ聞きて倉子は少し安心の色を現すかと思いしに少しもること無く、目科の言葉を聞ざりし如くに、我手にもてる呼出状を一寸ちょっと眺めて「今朝裁判所から此通り私しを午後の三時に出頭しろと云て来ましたが、裁判官は虫も殺さぬ私しの所天へ人殺の罪をせ、それ飽足あきたらず、私しをまでうか仕ようと云うのでしょう」目科は今までに余が見し事なきほど厳そかなる調子にて「裁判所は決して貴女の敵では有ません唯問糺といたゞだけの事です、貴女に問えば若しも藻西太郎の罪の無い証拠が上ろうかと思う為です、私しの来たのも矢張やはりそれだけの目的で、色々貴女に問うのです、貴女の答え一つに依り嫌疑が益々重くもなり、又全く無罪にも成りますから腹臓ふくぞうなく返事するのが肝腎です、さうか腹臓なく」といわれて倉子は凡そ一分間が程も其青きまなこげ目科の顔を見詰るのみなりしが、ようやくにして「さアお問なさい」と云う、あゝ目科は如何なる問を設けて倉子をわなに落さんとするや、定めし昨夜藻西太郎を問し如く敵の備え無き所を見て巧みに不意の点のみを襲うならんと、余はひそかに堅唾かたずを呑みしに彼れは全く打て変り、正面より問進む目「えー、藻西太郎の伯父梅五郎ばいごろう老人の殺されたのは一昨夜の九時から十二時までの間ですが其間丁度藻西太郎は何所どこに居ました何をして」倉子は煩悶に堪えぬ如く両の手を握りめ「是が本統に、運のつきと、云う者です」と言掛けて涙にむせぶ目「運の尽とはう云う者です、所天おっとが何所に何をして居たか、貴女が知らぬはずは有りますまい倉「はい」と漸くいわんとして泣声にむねふさがり暫し言葉も続かざりしが漸くに心を鎮め「はい所天は一昨夜外へ出まして目「外へ出て何所へ行きました倉「モントローグまで参りました、かねて同所に此店の職人が住で居まして、先日得意先から注文された飾物を其職人にあつらえて置きましたところ、一昨日が其出来あがりの期限ですのに、に入るまで届けて来ませんから、し此上遅れては注文先から断られるかも知れぬと云いそれ所天おっとは心配しまして九時頃から其職人の所へ催促に出掛ましたもっとも私しもリセリウがいの角まで送て行ッたから確かです其所そこから所天がモントローグ行きの馬車に乗る所まで私しは見て帰りました」余は傍より此返事を聞き、是ぞ正しく藻西が無罪の証拠なると安心の息をほっきたり、目科も少し調子を柔げ「そうすると其職人に問えば分りますね、十一時頃までは多分其職人と一緒に居たでしょうから」実に然り、の老人が殺されし家の店番の証言にては藻西太郎が九時頃に老人のへやに来り十二時頃まで老人と話して帰りたりとの事なれば、し藻西が十一時前後頃に其職人と一緒に居たりとの事分らば、老人のもとを問いしは藻西太郎にあらずして藻西に似たる別人なること明かなれば、老人を殺せしも矢張やはり其別人にして藻西の無罪は明白に分り来らん、目科が念をす言葉に倉子はかえって落胆し「さアそれが分らぬから運の尽だと申すのです目「え、え、夫が分らぬとは、又う云う訳で倉「生憎其職人が内に居なくて所天おっとは逢ずに帰ッて参りました」目科も失望せしと見え急しく煙草を嚊ぐ真似して其色を隠し「成るほど夫は不運ですね、でも其家の店番か誰かゞ貴方の所天を認めたでしょう倉「夫が店番の有る様な家では無いのです。自分の留守には戸をしめて置くほどの暮しですから」ああ読者よ、如何にも是は運の尽なり、実際には随分あり勝の事柄なれど、裁判の証拠には成難なりがたし、証拠と為らざるのみならでし裁判官に此事を聞せてはかえって益々疑わしと云い藻西太郎に罪のある証拠に数えん、之を思えば藻西太郎が、すぐに自ら白状したるも之が為に非ざるか、ありまゝを言立たりとて不運に不運の重なりし事なれば信ぜらるゝ筈は無く却ッて人を殺せし上裁判官をまであざむく者と認められて二重の恥をさらなれば、我身に罪は無しとは云え、いずれとも免れぬ場合、いさぎよく伏罪し苦しみを短かくするにくなしと無念をのみ断念あきらめし者ならぬか、余がく考え廻すうちに目科は又問を発して「だが藻西は何時頃に帰て来ました倉「十二時過る頃でした目「何故其様に遅かッたでしょう倉「はい私しも少し遅過ると思いましたから問いましたがある珈琲店かひいてんへ寄り麦酒ばくしゅのんで居たと云いました目「帰ッた時はの様な様子でした倉「少し不機嫌では有ましたが、夫はもっともの次第です目「着物は何の様なのをて居ました倉「昨日捕えられた時と同一ひとつの着物でした目「夫にしても彼の様子か顔附に何か変ッた所は有りませんでしたか倉「少しも有りませんでした」


第九回(詰らぬ事)


 余は初めより目科の背後うしろに立てる故、気を落着けて充分に倉子の顔色を眺むるを、少しの様子をも見落さじとつとめたるに、倉子が幾度も泣出さんとしほとんど其涙を制し兼る如き悲みの奥底に何処どこと無くかすかに喜びの気を包むに似たる心地せらるゝにぞ、若しもや目科夫人の言いし如く此女に罪あるに非ざるやと疑う念を起しはじめ、幾度か自ら抑えて又幾度か自ら疑い、ついに目科のいましめを打忘れて横合より口をいだせり余「ですが内儀ないぎ、老人の殺された夜、太郎どのが其職人の家へ行かれた留守に貴女あなた何所どこに居たのです」倉子はあたかも余が斯く問うを怪む如く其まなこを余が顔に上げ来りいとやわらかに「私しは此家に留守をして居ました、それには証人も有る事です余「え、証人が倉「はい有ります、御存ごぞんじの通り一昨夜はいつもより蒸暑くてそれにリセリウがい所天おっとに分れうちまで徒歩あるいて帰りましため大層のどが乾きまして、私しは氷をたべようと思いましたが一人では余り淋しい者ですから右隣の靴店くつみせ内儀ないぎと左隣の手袋店てぶくろみせの内儀を招きましたところ、二人とも早速さっそくに参りまして十一時過までもこゝに居ました、夫は直々じき/\両女ふたりにお問成といなされば分ります、う云う事になって見ますと何気なく二人をまねいたのが天の助けでゞも有たのかと思います」あゝ是れ果して何気なく招きたる者なるや、真に何気なかりしとすれば倉子の為に此上も無き好き証拠なれど心なき身が僅か氷ぐらいの為めに両隣の内儀を招くべしとも思われず、其実深き仔細ありて真逆まさかの時の証人にと心にたくみて呼びし者に非ざるか、斯く疑いて余は目科の顔を見るに目科も同じ想いと見えちらりと余と顔を見交せたり、れど今は目配めくばせして倉子が心に疑を起さしむき時に非ず、目科は又真面目になり「いや内儀決して貴女を疑うのでは有ませんがたゞ吾々の心配するには若しや藻西太郎が犯罪の前に何か貴方に話した事は有るいかと思うのです、何か罪でも犯しそうな事柄を倉「うして其様な事が有りましょう、うお問なさるのは吾々夫婦を御存無いのです目「いやお待なさい、噂に聞けば此頃商売も思う様に行かず、随分困難して居たと云いますからもし夫等それらの話から自然の老人の事にでも移り――倉「はい如何いかにも商売の暇なのは真事まことですが、幾等いくら商売が暇だからとて目「いえ藻西太郎も自分一身の事では無し最愛の妻も有て見れば妻に不自由をさせるのが可哀相で、夫やこれからうかして一日も早く楽に成りい財産を手に入れ度いと云う事情はあったに違い有ますまい倉「其様な事情が有たにせよ何で伯父などを殺しましょう、所天おっとに罪の無い事は何所どこまでも私しが受合ます」目科はおもむろに煙草を噛ぐ真似して「藻西太郎に罪が無いとすれば彼れが白状したのはう云う訳でしょう、真実罪を犯さぬ者が易々やす/\と白状する筈は有りますまい」今まで如何なる問に合てもよどみ無く充分の返事を与えたる倉子なるに此問には少し困りし如くたちまち顔に紅を添えことに其まなこまで迷い出せり、之れ罪の有る証跡と見る可きやいなしばらくしてまたも涙の声と為り「余り恐ろしい疑いを受けた為め気が転倒したのかと私しは思いますが目「いや其様な筈は有りませんたとい一時は気が転倒したにもせよ夫は少し経てばおさまります、藻西太郎は一夜眠た今朝になっても矢張り自分が犯したと言張ッて居ますから」此言葉にて察すれば目科は今朝こんちょう余の室を叩く前に既に再び牢屋に行き藻西太郎に逢来りしものと見ゆ、何しろ此言葉には充分の力ありて倉子の心を打砕きし者とも云う可く、れ面色を灰の如くにし「うしたら御坐ございましょう所天おっとは本統に気が違ッて仕舞いました」と絶叫せり、あゝ藻西太郎の白状は果して気の狂いたる為なるか余はそうと思い得ず、思い得ぬのみにあらで余は益々倉子の口と其心とおなじからぬを疑い、れが悲みもれが涙もれが失望の絶叫もすべいとたくみなる狂言には非ざるや、藻西太郎の異様なる振舞も幾何いくらか倉子の為めにれるには非ざるや、倉子自ら真実の罪人を知れるには非ざるやと余は益々疑いて益々まどえり。
 目科は如何に思えるや知ざれど彼れ嚊煙草のお蔭にて何の色をも現さず、徐々しず/\と倉子を慰めし末「いえ此事件は余り何も彼も分ら無さ過るからつまり方々へ疑いが掛るのです、事が分れば分るだけ疑われる人も減る訳ですから此上申兼もうしかねたお願ながらうか私しに此家の家捜をさせて下されますまいか」と大胆な事を言出せり、余は目科が何の目的にて屋捜せんと欲するにや更に合点行かざれど無言のまゝ控ゆるに倉子は快よく承諾し「はいそうして疑いを晴せて戴く方が私しも何れほど有難いか知れません」といういなや其衣嚢かくし掻探かいさぐりて戸毎とごとの鍵を差出すさま、心に暗き所ある人の振舞とは思われず、目科は其鍵を受取りて戸棚押入は申すに及ばず店より台所の隅までも事細かに調べしかど怪むき所更に無く「此上捜すのは唯穴倉一つです」と云い又も倉子の顔を見るに倉子は安心の色をこそ示せ、気遣う様子更に無し、れど目科は落胆せず、倉子にしょくらせて前に立たせ余をうしろに従えて、穴倉の底まで下り行くに、底の片隅に麦酒びいるの瓶あり少し離れて是よりも上等と思わるゝ酒類の瓶を置き、四辺あたりには様々の空瓶をうずたかきほど重ねあり、目科は外の品よりも是等これらの瓶にもっとも其眼を注ぎ殊に其瓶の口を仔細にあらたむる様子なれば余は初て合点行けり、彼れは此家の瓶のうちに若し曲者くせものが老人の室に投捨て去りし如き青き封蝋の附きたるコロップあるやいな探究さぐりきわめんと思えるなり、およそ二十分間ほども探りて全く似寄りたるコロップの無きことを確め得たれば、彼れ余に向い「何も無い、探すだけは探したからう出よう」と云う、今度は余が最先に立ち梯子はしごを上り、やがて元のに達すれば、くだんのプラトが又寝台の下より出来り歯をむき出して余を目掛け飛掛らんとす、余は其剣幕に驚きて一足背後うしろ退下ひきさがらんとする程なりしが、かくと見て倉子はあわたゞしく「プラトやこれ」と制するに犬はたちまち鎮りて寝台のしたに退けり、余はようやく安心して進みながら「随分険呑けんのんな犬ですね」と云う「なにそうではありません心はごく優いですが番犬ばんいぬの事ですから私し共夫婦の外は誰を見ても油断せぬ様に仕附しつけて有ります、商売が商売で雇人にも気の許されぬ様な店ですから」余は成る程と思いつゝも声を柔げて「来い/\プラト」と手招するに彼れ応ずる景色けしきなし「駄目ですよ、今申す通りわたくしか所天おっとの外は誰の言う事も聞きませんから」
 読者よ是等の言葉は当前の事にして少しも怪むにも足らず又心に留むるにも足らざれども、余は此言葉に依りあたかも稲妻の光るが如く我が脳髄に新しき思案の差込み来るを覚えたり、一分の猶予も無く熱心に倉子に向い「では内儀ないぎ犯罪の夜に此犬は何所どこに居ましたか」と打問えり。
 不意に推掛おしかけたる此問に倉子の驚きたる様は実にたとうるに物も無し、余は疑いも無くれの備えの最も弱き所をきたり、灸所きゅうしょとはかゝるをや云うならん、倉子は今も猶お手に持てる燭台を取落さぬばかりにて「はい此犬は、此犬は、そうです何所に居ましたか、存じませんいや思い出しませんが」と綴る言葉も覚束おぼつかなし余「それとも太郎殿について行きでもしましたか」此そえ言葉に力を得倉「あゝ思い出しました、爾々そう/\全く所天に随て行たのです余「では馬車に乗ても矢張其後に随て行く様に仕込で有ますか、何でも太郎殿はリセリウまちから馬車に乗たと仰有おっしゃッた様でしたが」倉子は一言の返事無し、余は益々切込みて充分に問詰んとするに、何故か目科は此時邪魔を入れ「詰らぬ事を問い給うな、内儀もひどく心を痛められる際と云い三時からは又裁判所の呼出しにも応ぜねば成らぬ事だからう少しは休息なさらねばく有るい、家捜やさがしまでして何も見出さぬから最う吾々の役目はすんだじゃ無いか、好い加減においとま仕様しよう、さア君、さア」余は実に合点行かず、折角敵の灸所を見出し今たゞの一言にて底の底まで問詰る所なるに、目科は夫を詰らぬ事と言い無理に余をさえぎらんとす、余はむッとばかりにいきどおりしかども目科は眼にて余を叱り、二言と返させずして匆々そこ/\倉子に分れを告げ、余を引摺ひきずらぬばかりにして此家を起立たちいでたり。
「君は心を失ッたか」とは此家を出て第一に目科が余に向い発したる言葉なりしが、余は彼をきっと見詰て「夫は僕の方で云うことだ、君こそ心を失ッたのだろう、僕が発見した敵の灸所は今まで詮策したうちで第一等の手掛じゃ無いか、返事に窮して倉子のドギマギした様が君の目に見えなんだか、今一思いと云う所で何故無理に僕を制した、君はあの女に加担する気か、え君、夫とも犬が非常の手掛りだと云う事がだ君には分らぬか」鋭き言葉に目科は別に怒りもせず「夫だから前以ていましめて置たのだ、成るほど犬に目を附けたは実に感心だ、多年此道で苦労した僕も及ばぬ程の手柄だ、吾々のる所は是からたゞあの犬ばかり、夫にしても君の様に短兵急に問詰ては敵が直様すぐさま疑うから事が破れる、今夜にも倉子があの犬を殺して仕舞うか夫とも何所かへ隠して仕舞えば何うするか」成る程と感心して余は猶お我腕前のはるかに目科より下なるを会得したり。


第十回(判然)


 かくも犬と云う一個ひとつの捕え所を見出したれば之をもとにして此後の相談を固めんものと余等二人は近辺の料理屋に入たるが二人とも朝からの奔走に随分腹もきし事なれば肉刺、小刀ないふわれおとらじと働かせながらも様々の意見を持出し彼是かれこれと闘わすに、余も目科も藻西太郎を真実の罪人に非ずと云うだけ初より一致して今も猶お同じ事なり、罪人にあらざる者が何故に白状したるや是れ二人とも合点の行かぬ所なれどは目下の所にて後廻しとする外無ければ先ず倉子の事より考うるに、倉子もの夜両隣の細君と共に我家に留りし事なれば実際此罪に手を下せし者にあらぬは必定ひつじょうなり、去ればとて犬の返事に詰りたる所と云い猶お其外の細かき様子など考合かんがえあわせば余も目科もおおいに疑いあり、手は自ら下さぬにせよ、目科の細君が言し如く此犯罪の発起人なるやも知れず、し発起人と迄に至らずともまことの罪人を知れるやも知れず、いな多分は知れるならん。
 すれば罪人は誰なるや此罪人がプラトを連居つれいたる事は店番のしょうこゝにて明白なれば何しろプラトが我主人の如く就従つきしたがう人なるには相違なしプラトは余等にむかいても幾度か歯を露出むきいだせし程なる故、容易の人には従うしとも思われず、しからば家内同様に此家に入込てプラトを手懐得てなずけうる人のうちと認るの外なく、凡そかゝる人なれば益々以て倉子が知れる筈なるに露ほども其様子を見せぬのみかはつとめて其の人を押隠さんとする所を見れば倉子のためには我が所天おっとより猶お大切の人としか思われず、あゝ我が所天よりも猶お大切のひとあるや、有らば是れ何者なるぞ。
 茲まで考え来るときは倉子に密夫みっぷあるぞとは何人なんびとにもしらるゝならん、密夫にあらで誰が又倉子が身に我所天おっとよりも大切ならんや、だ近辺の噂にては倉子のみさお正しきは何人も疑わぬ如くなれど此辺の人情は上等社会の人情と同じからず上等の社会にては一般に道徳と堅固にして少しのかどあるもたゞちに噂の種とり厳しく世間より咎めらるれど此辺にては人の妻たる者が若き男に情談口を開く位は当前の事にして見る人も之をあやしと思わねば操が操に通らぬなり、殊に又美人の操ほどあてに成らぬ者は無く厳重なる貴族社会に於てすらも幾百人の目をぬすみて不義の快楽にふけりながら生涯人にしられずして操堅固とほめらるゝ貴婦人も少なからず、物を隠すには男子も遙に及ばぬほど巧なるが凡て女の常なれば倉子も人知れず如何なる情夫をたくわうるや図られず、若し情夫ありとせば其情夫誰なるや、如何にして見破るべきや。
 是れ実に難中の至難なり、余は及ぶだけ工夫せし末「何うだ目科君、倉子へ見え隠れに探偵一人を附けて置ては、え君、必ず此犯罪の前に情夫と打合せて有るのだから当分其情夫が此辺へ尋ねて来る事は有るまいけれど、女と云う者は心も細く所天が牢に入られ、其筋からも時々しば/\異様な人が来て尋問するなどの事が有てはひとりで辛抱が出来なく成り必ず忍で其情夫に逢に行くだろうと思うが」目科は余が言葉に返事もせず只管ひたすらに考うるのみなりしが忽然こつぜんとして顔を上げ「いやいけぬ、了ぬ、俚諺ことわざにも鉄のさめぬうちに打てと云う事が有る、余温ほとぼりを冷ましては何も彼も後の祭だ余「では余温の冷めぬうちにうまく見破る工夫が有るのか目「随分険呑な工夫だけれど一か八かあたって砕けるのさ余「夫にしても何う云う工夫だ目「工夫は唯だあの犬ばかりだ、犬を利用する外無いからうまく行けば詰る所君の手際だ、犬に目を附け初めたのは君だから、夫にしてもやって見るまでだまって居たまえ、今に直ぐ分る事だ余「今に直なら夫まで無言で問ずにも居ようが真に今直遣るのかえ目「左様さよう、裁判所から倉子に出頭を命じたのが午後三時だから倉子は二時半に家を出るだろう、家を出れば其留守はあの下女が一人だから吾々の試験す可きは其間だ余「と云て今既に二時を打たぜ目「爾だ、さア直に行う」と云い早や勘定を済せて立上れり、目科が当ッて砕けろとは如何なる工夫なるや知ざれど、余は又も無言の儘従い行く、行きて藻西の家より遠からざる所に達し、再びある露路に潜みて店の様子を伺い居るに、幾分間か経ちし頃、倉子は店口より立出たり、先ほどの黒き衣服に猶お黒き覆面を施せしは死せし所天おっとの喪に服せる未亡夫人かと疑わる、目科は口の中にて「仲々食えぬ女だわえ、悲げな風をして判事にあわれみを起させようと思ッて居る」と呟きたり、暫くするうち倉子は足早に裁判所のかたへと歩み行き其姿も見えずなりしが是より猶も五分間ほど過せし後、目科は「さア時が来た」と云い余を引きて此隠場を出で一直線に藻西の店先に到るに果せるかな先刻見たる下女唯一人帳場にすわりて留守番せり、目科の姿を見て立来るを、目科は無雑作なる言葉にて「これ/\、内儀ないぎ一寸ちょっと呼で呉れ下「内儀おかみさんはう出て仕舞いましたよ」目科は驚きたる風を示し「其様な筈は無いよお前先程来た己の顔を忘れたな下「いえ爾では有ませんが、全く内儀おかみさんは出て仕舞たのです、うそと思えば奥の間へ行て御覧なさい、最う誰も居ませんから目「やれ/\、あゝ夫は困ッたなア実にこまった、己よりもア内儀がさぞかし失望する事だろう、困たなア」と頭を掻く其様如何にもまことしやかなり、下女は何事かと怪しむ如く、開きたる眼に目科の顔を打眺む、目科は猶も失望せし体にて「実は己が余り粗匆そゝっかしく聞て行たから悪かッたよ、折角内儀の言伝ことづけうけて、先の番地を忘れるとは、爾々そう/\お前若しあの人の番地を覚えて居やア仕無いか、何でもお前も傍で聞て居たかと思たが女「いえ私しは初めから店へ出て居たからきゝませんでしたが、でも何方どなたの番地ですか目「何方ッてそれの人よ」と言掛て目科はたちまち詰り「えゝ己の様な疎匆そゝっかしい男が有うか、肝腎の名前まで忘れて仕舞ッた、えゝ何とかさんと言たッけよあの、それ何とかさんよあの、えゝ自裂じれったい口の先に転々ころ/\して居て出て来ない、えゝ何とかさん、何とかさん、おうそれ/\彼のプラトが大変に能くなじんで居る人よプラトが己に噛附かみつこうとした時内儀がそう云た、他人で此犬の従うのは唯何とかさんばかりですッて」下女は合点の行きし如く「あゝ分りました夫なら生田いくたさんでしょう、生田さんなら久しく此家の旦那と共に職人を仕て居ましたからプラトを自由に扱います」目科は真実に喜びの色をうかめ「あゝ生田さん生田さん、其生田さんを忘れてさ、今度は能く覚えて行う、其生田さんの居る所は何所どことかいったッけなア」下女は唯此返事一つが己れの女主人には命より大切なる秘密と知らず易々やす/\と口にいだし「生田さんならロイドレ街二十三番館に居るのです目「爾々、爾云たよロイドレ街二十三番館だと、夫をすっかり忘れて居た、難有ありがたい/\、お前のお影で助かッた内儀が帰ッて来れば必ずお前をほめるだろう」と反対の言葉を残して戸表おもてへと走り出たり。
 あゝ、ロイドレ街二十三番館に住む生田と云える男こそ吾々のとうかたきなり、此上は一刻も早く其館に推行おしゆきて生田を捕縛する外なしと余は思えど目科は「是から裁判所へ行て逮捕状を得て来ねば何事もする訳に行かぬ」と云う余「ダッて君、裁判所へ行けば倉子が既に行て居るから吾々が逮捕状を得るのを見て、生田を逃す様な工夫をめぐらせるかも知れぬぜ、夫に又ぐず/\する間に倉子が内へ帰り下女の言葉を聞くとしても吾々の目的は破れて仕舞う目「何が何でも逮捕状が無い事には此上一歩も運動が出来ぬから」と云い、早くも通り合す馬車を呼留め、之に乗りて僅か三十分と経ぬうちに裁判所に達すれば先ず其小使を呼びて問うに判事は今正に倉子を尋問しつゝありとの事なり、目科は更に手帳の紙を破り之に数行の文字をしたゝめ是非とも別室にて面会したしとの意を云い入るゝに、暫くして判事は別室に入来り目科が撥摘かいつまみて云う報告を聞き「成る程夫は面白いがう藻西太郎が白状して仕舞たよ、すっかり白状したから外に何の様な疑いが有ても自然に消滅する訳だ」と云い取上る景色も無きを猶も目科が喋々くしゃ/\説立ときたてて漸くの事に「しからば」との変事へんじを得、生田なる者に対する逮捕状をしたゝめて差出すや目科は受取るより早く、余と共に狂気の如く裁判所を走り出、またせある馬車に乗り、ロイドレ街を指して馬の足の続く限りはしらせたり、やがてロイドレ街にたっすれば町の入口に馬車を待せ、幾度か彼の嚊煙草にてしいて顔色を落着けつゝ、二十三番と記したる館を尋ねて、先ず其店番に向い「生田さんは居るか」と問う店「はいおうちです、四階へ上ればすぐに分ります」と答う、目科は階段はしごだんに片足掛けしがたちまち何事をか思い出せし如く又も店番のもとに引返し「今日は生田に一杯振舞う積りで来たが生田はいつも何の様な酒を呑む店「何の様な酒ですか、常に此筋向うの酒屋へは能く行きますが目「好し、彼所あすこで問うたら分るだろう」と云い大足に向うの酒店さかみせせて入る、余は薄々と其目的を察したれば同じく酒店に馳て入るに目科は給仕に向い「あの青い口を仕て有る銘酒を持て来い」と云う、給仕が心得て持来るを目科は受取るがいなたゞちに其口なるコロップを抜き其封蝋の青き所を余に示してにッこと笑み、瓶は酒の入たる儘にて幾法いくふらんの銀貨と共に卓子ていぶるの上に残し置き、コロップを衣嚢かくしに入れて再び二十三番館に帰り、今度は案内を請わずして四階の上に飛上る、成るほど生田の室は「飾職かざりしょく生田」としるしたる表札にて明かなれば、直ちに入口の戸を叩くに内より「さアお這入はいさい」との声聞ゆ、鍵は錠の穴に差込みしまゝなれば二人は遠慮なく戸を開きて内にる、内には窓の下なる卓子ていぶるに打向い、今現に金の指環に真珠をむる細工に掛れる、年三十二三のさ男、成るほど女にも好かれそうなる顔恰好は是れが則ち曲者生田なるべし、生田は二人の入来るを見て別に驚く様子も無く立来りて丁寧に「何の御用でお出に成りました」と問う、目科はかゝる事に慣れしけ、突然進みて生田の腕を捕え大喝だいかつ一声に「法律の名に於て其方そのほうを捕縛する」と叱り附る、生田は初て驚きたるも猶お度胸を失わず「御笑談ごじょうだんさるな私しが何をしました」目科は肩をそびやかして「これ/\今と成て仮忘とぼけてもいけないよ、其方が一昨夜梅五郎老人を殺し其家を出て行く所を確かに認めた者も有り、殊に其方が短剣の刃の欠けぬ様、其剣先に差して行て帰る時に忘れて来たコロップも持て居る、其証拠を見せてやろうか」鋭き言葉に敵し得ず全く逃るゝ道なきに失望せし如く、蹌踉よろめきて卓子ていぶるたおれ掛り、唯口の中にて「私しでは有りません、私しでは有りません」と呟くのみ。
 目「其様な事は判事の前へ出た上で云うが好い、云た所でとても採用はせられい、既に其方の共謀者藻西倉子が何も彼も白状して仕舞たから」此言葉に生田は電気にでも打れし如くはね返り「え、え、あの女が、其様な事は有りません、少しもあの女の知ッた事で無いのですから」驚きの余りすべらせたる此言葉は充分の白状に同じければ目「して見ると其方が一人でたくんで一人で行ッたと云うのだな、夫だけ聞けば沢山だ」と云い目科は更に余に向いて「君、あの卓子ていぶるうちなどをあらためたまえ必ず藻西倉子の写真や艶書ふみなどがいって居るから」と云う、余はそのめいに従わんとするに生田は痛くいきどおこぶしを握りて目科に打て掛らんとせしかども、二人に一人の到底及ばぬを見て取りし如くだ悔しげなる溜息を洩すのみ、果して卓子ていぶる其他の抽斗ひきだしよりは目科の推量せし通り倉子よりの艶書ふみも出でかつ其写真も出たる上、猶お争われぬだいの証拠と云う可きは血膏ちあぶらの痕を留めしいと鋭き両刃もろはの短剣なり、殊に其形はコロップの裏の創にシックリ合えり、生田の罪は最早もは秋毫しゅうごうの疑い無し。
 是より半時間と経ぬうちに生田は目科と余の間にはさまりて馬車に乗せられ警察本署へと引立られしが余は其道々も余り捕縛の容易なりしにあきれ「あゝ案じるより産むが易い」と呟けば目科は「ア探偵に成て見たまえ斯う易々と捕縛されるのは余り無いから」と答えたり。
 かくて生田はたゞちに牢屋へ入られしが、牢の空気は全く彼れの強情をくじきし者と見え彼れ何も彼も白状したり其大要を掻摘かいつまめば彼れは久しく藻西太郎と共々に飾物の職人を勤めしだけ太郎の伯父なる梅五郎老人とも何時いつ頃よりか懇意に成りたり、此度老人を殺したる目的は全く藻西太郎を憎むの念より出しものにて彼れに人殺しの疑いをせ其筋の手を借りて亡き者とし其後にて倉子と添遂そいとげると云う黙算なれば、職人の衣類を捨て故々わざ/\藻西の如き商人の風に打扮いでたちプラトを連れて老人の許へ問行といゆきしなり、是だけにて充分藻西に疑いの掛るならんと思いたれど猶お念の上にも念を入れ、老人の死骸の手を取り、傷より出る血に染めて、あたかも老人自らが書きし如く床に血の文字を書附て立去りしとなり、是だけ語りて生田はいと誇顔ほこりがおに「仲々うまたくんだと思いましたが老人を殺せば倉子の亭主は疑いを受けて亡き者に成り其上老人の財産は倉子にころがこんで倉子は私しの妻に成ると云う趣向ですから石一個ひとつで鳥二羽を殺す様な者でした、夫が全く外れて仕舞い此通り成たとは悪い事は出来ぬ者です」目科は是だけ聞き「成るほど趣向はうまいけれど仕舞際しまいぎわに成て其方の心が暗み大失策をやらかしたから仕方が無い、其方は自分の右の手で直に老人の手を取たから老人の左の手であの文字を書せた事に成て居る」此評を聞き生田は驚きて飛上り「何と仰有おっしゃる、だッて夫が為に私しへ疑いの掛ッた訳では有ますまい目「夫が為に掛ッたのさ、左の手だから老人が自分で書たので無いのは明白で、既に曲者が書たとすれば藻西太郎が自分で自分の名を書附ける筈は無いから」生田はあたか伯楽はくらくの見おとされたる千里の馬の如く呆れて其顔を長くしつ「是は驚た、あゝ美術心が有ても駄目だ、余り旨く遣過やりすぎても無益の事だ、貴方はだあの老人が左得手ひだりえてで、筆を持つまで左の手だと云う事を御存じないと見えますな」あゝ/\さては彼の老人左きゝにして曲者の落度と見しはかえって其手際なりしか、目科の細君がいと賢き説を立てながらも其説の当らざりしは無理に非ず、後に至りて聞糺きゝたゞせしに老人は全く左きゝなりしに相違なし、すれば余が自ら大発見大手柄と心の中にて誇りたる事柄も実は全くの間違いなり、夫を深くも正さゞりし余と目科の手落も浅しと云う可からず、探偵の事件には往々おう/\かくまでに意外なる事多し此一事は此後余が真実探偵社会の一員と為りてよりもおおいに余をして自らかえりみる所あらしめたり、既にまことの罪人の捕まりし事なれば倉子の所天おっと藻西太郎は此翌朝放免せられたり、判事は放免言渡しのとき、彼れが我身に覚えも無き事を易々やす/\と白状して殆ど裁判を誤らしめんとするに至りし其不心得を痛く叱るに彼れ屡々しば/\こうべを垂れ「私しは自分より女房が可哀相です、自分で一罪を引受け、女房を助ける積でした、はい実は一図にう女房が殺した事と思い詰めましたので、はい畢竟ひっきょう云えば女房が私しに貧しい暮しをさせて置くのが可愛相で夫ゆえ伯父を殺して呉れたと思いまして、はい爾とすれば其志ざしに対しても女房を懲役にやっても済ぬと思いまして、はい夫でも昨夜探偵吏たんていりのお話に曲者が犬を連れて行たと聞き若しや生田では有る舞いかと思い附き忌々いま/\しくて成ませんでしたが能く考えて見ると生田が其様な事をする筈は無く、矢張り女房が犬を連て行たのだと斯う思いまして其儘思い止まりました」此説明には判事も其女房孝行に苦笑いを催しつ、以後をいましめて放免したりとなん。
 藻西太郎は此外に何事をも言立ざりしかど彼が己の女房をかくも罪人と思い詰めたる所を見れば、何か女房に疑う可きかどの有りしには相違なく、多分は倉子が一たび太郎に向い伯父を殺せと説勧ときすゝめたる事ありしならん、如何に女房孝行とは云え真逆まさかに唯一人の伯父を殺すほどの悪心は出し得ざりし故、言葉を托して一月ひとつき二月ふたつきと延し居るうち女房は我所天おっと活智いくじなきを見、ついに情夫の生田に吹込みたる者ならん、生田は藻西太郎と違い老人を縁も由因ゆかりも無き他人と思えばまで躊躇する事も無く、殊に又之を殺せば日頃憎しと思う藻西は死し老人の身代しんだいは我愛する美人倉子の持参金と為りて我が掌底たなそこころがり込む訳なれば承知したるも無理ならず。
 個は余と目科の考えにしていずれとも倉子が此罪の発起人なるに相違なけれど倉子の自由自在に湧出る涙は能く陪審員の心を柔げ倉子は関係無き者と宣告せられ生田は情を酌量し懲役終身に言渡されたり。
 藻西太郎は妻に代りて我身を捨んとまで決心したる男なれば倉子が放免せらるゝやたゞちに引取りて元の通りに妻とせり、梅五郎老人の身代は藻西太郎の手に落たれど倉子の贅沢増長したれば永く続く可しとも思われず、此頃は其金にてトローンの近辺へ不評判なる酒店を開業し倉子は日夜酒に沈溺せる有様なれば一時美しかりし其綺倆きりょうも今はくずれて見る影なし、太郎も倉子が酔たる時は折々機嫌を取損ね打擲ちょうちゃくせらるゝ事もありと云えば二人ににんはそろ/\零落の谷底に堕落し行く途中なりとぞ。
(以上、後の探偵吏カシミル、ゴヲドシルしるす)
(終)
(小説集『綾にしき』明治二十五年八月刊収載)





底本:「日本探偵小説全集1 黒岩涙香 小酒井不木 甲賀三郎集」創元推理文庫、東京創元社
   1984(昭和59)年12月21日初版
   1996(平成8)年8月2日8版
初出:「綾にしき」
   1892(明治25)年8月刊
入力:網迫、土屋隆
校正:川山隆
2006年4月30日作成
2012年9月14日修正
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