俺は見た
痛手を負へる一頭の野鹿が
オリオーンの槍に追はれて
薄明 の山頂 を走れるを
――あゝ されど
古人 の嘆きのまゝに
影の猟人なり
影の野獣なり
痛手を負へる一頭の野鹿が
オリオーンの槍に追はれて
――あゝ されど
影の猟人なり
影の野獣なり
日照りつゞきで小川の水嵩が――その夕暮時に、この二三日来の
柳の影を振り返つて見ると、水面と殆んどすれ/\になつてゐる水車が、乾いた喉に泉の雫を享けたやうに、物狂ほしく廻転を貪りはじめてゐた。
私と雪太郎は、汀の葦の中にどつかりと胡坐をして、思はずそろつた動作で鉄の棒を持ちあげるほどの重々しい思ひで徐ろに腕組をすると、黙々として胸を張つた。
柳の木の間から真向きにあたる川上の、恰度流れが悠やかに曲らうとしてゐるところに水門が構へてゐる。――見ると、水門の両端に二人の男が馬乗りになつて、此方を向いて腕を挙げながら切りと何か喚いてゐたが、水車の音にさへぎられて一向に声はとゞかなかつた。その腕の振り動かし具合は、見へざる敵の剣に、今や見事な
「雨が降りさへすれば、忽ち車は回り出すんでございます。どうぞ、それまでお待ち下さい。今、その俵を持つて行かれては、今夜にでも恵みの雨が降り出して、いざ車が回りはぢめたとしても、それこそ私どもの臼は空つぽのまゝで、杵に打たれて割れてしまふより他に道はございません。」
雪太郎が、畳に頭をすりつけて涙ながらに詫言を述べると、私たちのまはりに車がゝりの陣立でぐるりと勢ぞろひをしてゐるむくむくとむくれあがつた雷共の中から、中でも獰猛な地主のアービスが腕まくりをしながらすゝみ出たかとおもふと、いきなり物をも云はず拳骨玉を振りあげて雪太郎の頭をぽかりとなぐつた。そして、役者のしぐさよりも役者らしく真に迫つた怖ろしい憎みの見得を切つて、
「えい、この空つぽの臼頭奴が――」
とほき出した。――「こばから皆な杵に打たれて死んでしまやがれツ。」
それに続いてアービスの従者のアヌビスが、自慢のねぢくれ腕を、ぬつと、今度は、父親の雪五郎の鼻の先に突きつけて、
「金が返せないといふんなら、うちの若旦那の御所望通りに、うぬの娘をお妾奉公に出すが好いや。何も奉公に出したからと云つて、とつて喰はうと云ふんぢやない。斯んなぶつつぶれ小屋で、喰ふや喰はずの暮しをしてゐる貧乏娘が、俺らのうちの若旦那のお情けを蒙るなんて、夢にもない大した出世ぢやねえか、そんな妙佳も知らずに、一体娘は何処にかくしてしまやがつたんだい。やい、やい、やい、さあ、ぬかせ、娘の
と、まことに(立板に水を流すやうに)ぺらぺらとまくし立てるのであつた。私は、立板に水を流すやう――といふ形容詞に不図出遇ふと、何とまあ見る間に、小川の流れがさんさんと水嵩を増して節も長閑に水車が回りはじめた光景が、ありありと眼の先へ浮びあがつて、胸が一杯になつた。思はず私は、眼を閉ぢて有り難い光景にふら/\と迷ひ込まうとした途端に、
「そつちの隅の大先生!」
と呼び醒された。見ると、それは米俵に大股をひろげてふんぞり反つてゐる鼻曲りのガラドウである。奴は泥棒である。昼間は、地味なネクタイなどを結び、胸にはさんらんたる金鎖を輝やかせて町の銀行で接待係などゝいふ紳士的な業務にたづさはつてゐる癖に、夜になると、云はゞ昼間のつけ鬚はかなぐり棄てゝ狐の性に反つて不思議な活躍に躍り出すのだ。現に私の或る彼の性と似通つた叔父貴と共謀して、私の死んだ父親が、愚かであればあるほどいとしい私の行末の生活を案じた上に数百町歩に渡るものゝ見事な蜜柑山を遺しておいたのを、私の老母をたぶらかして「私」の印形を手込めにして「負債証書」を捏造したとかといふ話だ。私は、断じて、そんな「山」などゝいふものゝ所有権に関心は持たぬのであるが、秋口から冬にかけてこの竜巻村の三方をとり囲む蜜柑山の壮麗な色彩りを見渡して野遊びの快を貪る日などに、番小屋の窓から叔父やガラドウが大きな眼を視張つて、蜜柑泥棒の監視をしてゐる姿を見ると、慌てゝ踵を回さずには居られなくなるのであつた。私は彼等の物慾を卑しむわけではなかつたが、その一味に肉親の者が加はつてゐるのを知つてしまつた事に鬱陶しさを覚ゆるのであつた。――ところで、このガラドウは、そんな類ひの所業が寧ろ仕事であつて、今では、山を越えた隣り町に住む私の叔父の屋敷つゞきの桃林の中にバンガロウ式の館を建てゝ、美しい妾を囲つてゐる。それは余談であるから説明を元に返すが、ガラドウといふのは私が与へた仇名であつて、つまり狐頭の化物の意味である。本来の和名は――此処に述べる要もないが桐渡鐐之助を、自ら最近、鐐通と改めてゐる。理由は解らぬのだが、私も考へたこともないが、姓名判断に従つた由である。それと同じく、地主のアービスは牛頭、従者のアヌビスは犬頭――共に私の命じた名前である。
「ねえ、先生。」
桐渡ガラドウは、さう繰り返しながら、自分の眼の方が米俵に腰掛けてゐるのだから、雪五郎の隣りに坐つてゐる私のよりは、はつきりと上段に据つてゐるのに、その視線をぐねりと波型にしやくりあげて、逆に、下から上へ私の頤をおしあげるやうに見あげるのであつた。私が彼に、鼻曲りといふ形容詞を冠したのは、彼の野蛮な皮肉味を抽象的に指さしたのであつて、実物の彼の鼻は、いつも私に昔噺の中にある業慾者の鼻にぶらさがつたといふソーセージを想像させる態の、赤味の滲んだ肉附き豊かな、何とも憎たらしいごろん棒であつて、決して曲つてゐるといふわけ合ひではない。大先生とか、先生とか、何うかすると博士さん――などゝ彼は私を呼ぶので、もうせんには私は、真実彼が私を尊敬して斯く称ぶのかと思ひ、うつら/\として一処に茶屋酒を飲んだり、色紙を書いて贈呈したり、また、印判を証書見たいなものに捺したり、したこともあつたが、それは未だ私が彼にガラドウなどゝいふ仇名を付けぬ時分で、彼が屡々口にする通りに私の親友だと思つてゐたのだが、或時彼が、
「この判さへ捺させてしまへば此方のものだ。――薄のろ野郎奴が、好い気になつて斯んなものを書きやあがつて……」
さう嘲笑して、私の蔭で折角不得意の筆を執つて私が揮毫したところの、愛唱歌であるから何時でも私は空で覚えてゐるのだが、ちぎれちぎれに雲まよふ、夕べの空に星一つ、光りはいまだ浅けれど、想ひ深しや空の海、あゝカルデヤの牧人が、
「大馬鹿先生」――「自惚博士さん」――「貧棒の大先生」といふ意味なのだ――。
「それを知らないで、好い気になつて小鼻をふくらませてゐる格構と云つたら……」
そんなことを云つて、ひとりで腹を抱へてゲラゲラと笑ひころげた――。
「先生、あたしは、ふんとに口惜しかつたわ、先生とあたしと仲が好いことを、あいつと来たら飛んでもない風に思ひ違へて、あんな博士とは喧嘩をしてしまへ、そして、俺と好い仲にならうではないか――だつて!」
河原で摘んだ花束を携へて私を訪れたマメイドが、悲しみに首垂れながらそのやうなことを伝へたことがある。それに違ひない、好意を持つてゐると云つても私がマメイドに寄せてゐるそれは恋情沙汰ではない。この家の雪太郎は私と同年輩の三十余歳であるが、親想ひ、兄弟想ひの律義者で、営々としてこの水車小屋の経営に没頭し通しで、未だに妻も持たなかつた。私は、もう少し、この
吹雪川――この水車をくる/\と回して、私達の露命をこゝまでつないできたところの吹雪川の流れを、森をくゞり、谷を渡り、野を越へて、あるときは流れのさまの岩に砕ける水煙りを浴び、またあるときは蔓橋のゆら/\とするおもむきに恰も空中飛行の面白さに酔つて、はるか脚下に咽ぶが如き水音の楽を聴き、迂余曲折、数々の滝の眺めに吾を忘れながら、ゑんゑんと
あの日、私の妻は、アメリカン・ビユウテイのスキー・ジヤケツに身を固め、頭には雪のやうに真白なターバン帽子をいたゞき、ほのぼのとして「春風」に打ち乗つた。お雪は、新しい紺がすりの袷着に赤い帯をしめて、脚絆草鞋にそよそよと、いでたちをとゝのへ、「白雲」に打ち乗つた。「春風」も「白雲」も共に私達の水車小屋の労働馬であるが、その日は特に七福神の舞姿を染め出した真新しい腹掛けを吊つて、朝霧のなかにしやんしやんと鈴を鳴した。そして「春風」の轡は雪太郎が、「白雲」のそれは雪二郎が共々に逞ましい腕によりをかけて執りあげてゐた。
おゝ私は、あの日の妻の姿が、ありありとあら目に浮んでゐる――。
「車が回りはぢめさへすれば、
私が妻の手を執つて、ねんごろな励ましの言葉をおくると妻は、しつかりと私の手を握つて、
「私のことは決して心配なさらずに、あなたは勉強をつゞけて下さいね。」
と朗らかな微笑を浮べて出発した。私は凝ツと妻の顔を見あげて、深く点頭きながら胸板をどんと強く叩いた。
「なあよ、お雪坊や、唐松へ行けば、また珍らしい草つぱもあることだらうから奥さんのお手伝ひをしなよ。」
雪五郎は、私の妻の鞍にぶらさがつてゐる植物採集の胴乱を見て、そんなことを娘に告げた後に、更に道中のこまごまの注意を繰り返した。私の、さつぱりと捗らない創作の仕事にやがて引用される筈の、このあたりの野生植物の蒐集に関して妻は久しい前から標本をつくつてゐた。私は先程マメイドが河原で摘んだ花束を携へてきたことを誌したが、それも同じく常々からの標本作成のための手助けなのである。
さて、桐渡ガラドウが、今更そんな風に私の方を向いて、先生――などゝ呼びかけても、もう私は金輪際、返事などをするものか。ツンとして私は、野郎の鼻を睨めてゐた。馬耳東風とは正しくこの態であらう。
「ねえ、先生、実は大変耳よりな儲けばなしを持つてやつて来たんですがね、といふのもあなたとあつしとの長年のお友達の誼みで、先生が大変お困りと訊いたので、何とかお力添えをしたいと存じましてな……」
ガラドウの云ふところによると、私がつい此頃食ふに事欠いて、いよいよ最後の持物となつてゐた祖先の鎧櫃を町の酒屋へ持ち込んでわづかばかりの抵当としたといふことだが、いつかその噂がそれからそれへ伝つて実に私たる者が嘲笑の的になつてゐたところ、幸ひにも「さる一人の義侠的人物が出現して」ひとまづ、それをとり戻し、私の返金の出来る日まで――と云ひかけて彼は、
「孫子の代までも待ちませう――」
と見得を切つて、ふゝとわらつた。私に望み次第の金子を融通仕様といふのである。
「甘い話ぢやありませんか、持ちぐされのボロ宝が生き返つたとは、何と目出度いことぢやありませんか。――そこで、だツ!」
と彼は、にわかに生真面目な顔に戻ると、胸を引いて、音も見事にポンと手を鳴した。「先生のお望みの金額を、まあ、ものは験しに仰言つて見ては下さいませんか。」
別人の提言ならば私は有無なく賛成したに違ひなかつたが、一度瞞されたが最後、奴の申出など、何で諾くものか。加けに、奴はアヌビス共を煽動して、この水車小屋の差押へを駆り立てゝゐる張本人の由である。敵だ!
「ねえ、先生、まあ、とつくりと考へて御覧なさいよ。」
「…………」
木像に向つて演説をしてゐる――と私は思つた。それにしても、若しもこれが別人からの提言であるならば! と私は思はずには居られなかつた。若し左様ならば、先づ水車の負債を片づけて、明日にも妻やお雪を迎へに行くことが出来るではないか、一体、自分の望みの金は何程か、千か、万か――。と、ガラドウは、パツと片手の平を私の眼の先に拡げて、
「こうと出ますか?」
と叫んだ。
「…………」
私には一向意味が解らなかつた。すると彼は深い決心に似た思ひ入れと共に、
「では斯うとゆくか?」
と今度は、拡げた手の平に、別の指を二本載せて、凝つと私の顔を視守つた。
「…………」
私の想ひは、はるか遠く雲となつて唐松の空に漂ひ、ひたすら妻女の上を揺曳してゐた。千鳥川の岸辺でお雪と共々に珍らしい草花を発見した彼女が、この私を、びつくりさせてやらうなどゝ打ち興じてゐる光景が脳裡のスクリンに鮮やかに浮んでゐた。思へば妻に、春の終りの頃に別れたまゝ、世は既に晩秋の蜜柑のさかり時とは化してゐるではないか! おゝ、恋しや、妻よ――と私は沁々として、思はず胸のうちで、鹿の鳴く声きけば吾妹子の夢忍ばるゝ――云々といふ唄のメロデイを切々と伝ふてゐた。
「これでも、未だ――と仰言るんですか、一体御所望のほどはどれくらひ? びつくりさせちや厭ですぜ。」
ガラドウは、わざとらしく怖る/\と、私の胸の底を見透すが如き甘気なにやりわらひを浮べて、にゆうつと頤を伸した。
私は、その時、胸の中で吟じてゐる秋の歌の条々たる韻律に自ら惚れ惚れと、夢見るやうに眼眦をかすめて微かに首を揺りうごかせながら、あはや妙境にさ迷ひ込まうとしてゐた己れに、吾ながら気づかなかつたのであるが、その私の様子を眺めたガラドウは、こいつはてつきり私が、思はぬ儲けばなしに有頂天となり、今やふら/\と金算段にうつゝを抜かせてゐるに違ひない、こつちの思ふ壺に入つたぞ――と感違ひをして、
「うふゝゝゝ、どうです、先生、お心持は悪くはござんすまい。ですが、あつしは近頃、とんと気が小さくなりましてな、恐怖性神経衰弱とでも申しませうか、ちよつとしたことに出遇つても直ぐに斯う、ドキツとして気絶してしまふんですよ。その辺のところを、どうぞお察し下さいましてな、あんまりあつしを吃驚りさせない格構のところで、ねえ、先生、お望みのところを仰言つて見ては下さいませんかね……」
などと、厭にいんぎんなことを唸りながら、おもむろに私の傍らに、にぢり寄つて来たかと思ふと、
「メイちやんが、よろしくですつてさ。こゝで一番たんまりと儲け込んで、鬼のゐない留守に、あの
と続けながら、やをらその手を私の肩に載せようとした途端――私は、ゾツとして夢から醒めた。……間一髪、私は、五臓六腑がものゝ見事に吹き飛んだ轟きに打たれて、全くの無意識状態の絶頂に飛びあがつた瞬間、物凄まじい勢ひで、突如、
「ワーツ……!」
といふ叫び声を挙げた。同時に、また、
「ワーツ!」
といふ気たゝましい叫喚の渦が、小屋全体をはね飛すやうに巻き起つたかと、見ると、当の桐渡ガラドウをはじめ、今迄私達の周りに太々しい面構えを曝して、動かばこその姿勢を示してゐた地主アービスも従者のアヌビスも、執達吏のドライアス、代言人のクセホス、周旋業の何某、
「ギヤツ!」
と叫ぶと同時に、夫々その瞬間まで保つてゐた大業な姿制のまゝで、ぴよんと飛びあがつた。それと一処に一瞬の時も移さず宙を飛んで奴等はパツと飛び散つた、かと思ふと、てんでんに吾先きにと、或者は障子を突き抜き、或者は上りがまちからもんどり打つて転げ落ち、扉を蹴破り、一陣の突風を巻き起しながら風を喰つて一目散に逃走した。
気づくと私は、炎々と囲炉裡に炎えさかつてゐた三尺あまりの瘤々逞しい赤松の薪太棒を振りかぶつて、まんまるな月の光りを浴びつゝ、芋畑のふちで鬼と化してゐた。云ふまでもなく私は黒雲共を追つ払つて、夢中で此処まで飛び出したものと見へる。そのまゝ私は、逃げてゆく彼等の後影をぼんやりと視詰めてゐた。隈なき月の光りで青海原のやうに畳々とした畑の中を奴等はスイスイと、恰で氷滑りでもしてゐる見たいに速やかに走つてゐた。あらゆる物音は澄明な月の光りに吸ひとられてしまつたやうに絶へ入つて、見渡す限りはるばるとした平原の彼方に三つ四つ点々と瞬いてゐる村里の
それからといふもの私は彼等の復讐戦を期待して、不断の身構へを忘れなかつたが、
「いゝえ、さうなればさうなるで、寧ろ此方は平気でありますわ。」
と雪五郎達は云つた。雪五郎は齢こそとつてはゐるが、その腕力は近郷の音に聞えた豪のものであるから、いざとなれば、ガラドウやアヌビス位ひ八人であらうが十人であらうが、ぽんぽんと手玉にとつて水雑炊を喰はせてやる――。
「此処に斯うして坐つたまゝで、ぽうんと窓から河の中へ飛び込ませてやりますよ、ほんの朝飯前に――」
と事もなげに呟いた。凡そ雪五郎は謙虚な心の持主で、かつて自慢気なことを口にした験しはなかつたが、この時ばかりは稍荒々しい息づかひで、太い腕を私に示した。奴等があのやうに慌てふためいて遁走したのは私の背後に立ちあがつた低気圧をはらんだ三人の阿修羅を見てのことであつたのだらう。あの重い水門を、あのやうに難なく上げ降しすることの出来る人物は雪五郎父子をおいて何処の村にも続く者はない由である。第一流の水門番として鳴り響いてゐる。永年の間あの水門の把手を担ぎ慣れてゐる彼等の肩には、恰度握り
「これは切られても痛くはないんです。」
さう云ひながら三人が交々片肌抜ぎになつて、覚悟を決めて、奴等の幻を追ふように力んだので――先づ私は、雪二郎の力瘤をつかんでみると、それは恰も皮下に一個の林檎を蔵してゐるが如くグリグリと蠢く
「抓りあげて御覧なさい。」
雪二郎にすゝめられた私は、歯ぎしりをして拗らうとかゝつたが、忽ち指先が痺れてポロリとしてしまつた。
次に雪太郎の番になると、これはまた何と驚いたことには正銘の堅ボールで、抓らうにも指も立たぬので、私は両掌で鷲掴みにして、躍気となつて、えいえいと

それから最後に私は、大きな身構えを執り先づ自分の腕を、いざ仕事にとりかゝらうとする力技者のやうに鳴らした後に、やをらと振りかぶつて雪五郎の力瘤に飛びかゝつて見ると、実にもこれは真実の石であつたから、慌てゝ腕を引つ込ませてしまつた。
「そんなら、いつそ私のに喰ひついて御覧なされ……」
たぢろいだまゝ木兎の眼つきをしてぎよろりとしてゐる私を見て、物足りなさの不興に駆られてゐるのかと察した雪二郎が、もう一遍左様云つて林檎の肩先を突き出したが、それはさすがに薄気味悪かつたので私は、もう解つた! と平に辞退して、肩をいれさせた。
これらの稀有なる腕力、強肩に比例して彼等三人は見るも壮んな均整の麗はしいスパルタ型の体格を備えた見あぐるばかりの大男ぞろひであつた。云ふならば雪五郎は五尺九寸、雪太郎と雪二郎は共にそろひもそろつた五尺八寸の身の丈の持主であつた。そこで年々歳々村祭りの日ともなれば、雪五郎は神輿の先に立つて、神様のお通りの道を展くがための悪気の露払ひたる天狗の役に、あちこちの村から引つ張り凧であつた。彼は、この役目を既にもう六十年来この方務めつゞけてゐるせいか、普段の場合でもその脚の運び方は一種独特の、云はゞ人間離れをした悠々として迫らざる風情で、地を踏めども雲の上を往くが如く、眼は爛々として広袤千里の雲煙を衝きながら一路永遠の真理を眼指して止まざるものゝやうな摩呵なる輝きに充ちて、祭りの時の天狗としての歩き振りそのまゝなのである。どうせ、あの真赤な大天狗の面をつけるのであるから、中の顔は何うでも関はぬわけ合ひだが、矢張り斯の如き風貌の持主であればこそ、心ともなる天狗の趣きを発揮することが出来るのであらう――と常々私は感心してゐるのであつた。さう云へば、その音声までも、太く澄み渡つてゐて言葉少なく、吐けば朗々として恰も混沌の無何有から山を越えて鳴り響く不死なるものゝ風韻が籠つてゐるかのやうであつた。それに伴れて心もまことに恬淡、種別の何たるを問ふことなく何んな足労も心労も厭ふことのないいつも釈然たる心の持主であつた。――この頃では、そんな持物もすつかり種切れになつて真に私は、寝ても起きても着たきりのインヂアン・ジヤケツトの着通しであつたが、先の頃私は夕暮時になると酒を欲して止み難く、飲代を得るために何かと身まはりのものなどを携へて町の質店へ赴かうとするのを発見すると、雪五郎は慌てゝ私の荷物を奪ひとつて自らその使ひ番を所望するのであつた。その雪五郎が、やうやく黄昏の霧が垂れこめて未だ村里には灯も瞬かぬ野中の一本道の、天も地も濛々として見定め難い薄霞みの棚引きのなかを、軽々と片手に風呂敷包みをぶらさげて脚どり豊かに出かけて行く後ろ姿を眺めると、私は彼の姿が霞みの彼方にしづしづと消えてしまふまで、窓に凭りかゝつて思はずいつも次のやうな歌を余韻も長くうたふのであつた。――(その一節……)
……蹇としてひとり立ちて西また東す
あゝ遇ふべくして従ふべからず
たちまち飄然として長く往き
冷々たる軽風にのる――
――と、などと。あゝ遇ふべくして従ふべからず
たちまち飄然として長く往き
冷々たる軽風にのる――
ゆらゆらとする微風に目も綾なる金襴の素袍(?)の袖を翻へし、うらうらとする陽を突いて燦々と輝く大長刀を、杖に構へてがらんがらんと曳きながら一本歯の大高下駄を履き込んで、一歩は高く雲の峰を踏み越え、一歩は深く地なる悪魔を踏みにぢる概をもつて、のつしのつしと歩みを運ぶ大天狗が、神輿の行列の先頭に立つて、練り出すといふのが竜巻村の祭礼の風習である。続いて、根を払つた榊の立木を白木格子の箱のやうなものゝ中に突つ立てゝ、横に二本の太棒を通し四人の使丁が担いで来るのである。次に、面の差し渡しが凡そ五尺にも程近い大太鼓を、最も太い孟宗竹の棒に吊して、これを二人の壮丁が前後して担ぐのである。この太鼓は非常な重量を持ち、嵩がまた斯の如く厖大なものであつたから余程優れた強肩と稀なる身丈を有してそろつた若者でない限り、稍ともすれば太鼓の胴が地にすれたりする上に忽ち肩を害ねてしまふ程の難物なので、この大役を易々と仕終せる者といふては近頃雪太郎と雪二郎の兄弟より他は並ぶ者とてはなかつた。更に、この太鼓の側らに侍して、巨大な撥棒を構へた一人の鎧武者が現れて、天狗の一歩一歩の脚並みの呼吸を見はからつて、満身の力をこめて、いざ天狗の高下駄が地を離れて雲を蹴らんずる瞬間に、どうん! と、一つ山々に反響させて力一杯太鼓を打ち、続いて、天狗の脚が弾道を描いて地に降りやうとする刹那に、再び、どうん! と、神々しく打ち鳴すのである。と、武者の反対の側に控へてゐる、これは白面の一人の使丁が、携へてゐる一本の撥を擬して、二つ目の太鼓の音が消えると同時に、太鼓の胴を、つまり木材の部分を
「どうん、どうん――カツ、カツ、カツ……どうん、どうん……」
目醒しい物音は、森を飛び、丘を越えて、八方に、神輿の渡御を知らしむると、待ち構へてゐる村人達は、
「それ、天狗様のお通りぢや/\!」
と口々に叫びながら行列を目指しておし寄せるのである。そして、この太鼓隊の踵をついて、四人の者に担がれた凡そ一坪位ひの容量の巨大な賽銭箱が控えてゐるのを目がけて、有りがたい/\と伏し拝みながら、四方八方から賽銭のつぶてを雨と降らすのである。この一隊が通り過ぎてしまつてから、凡そ半時も経たないと神輿は現はれなかつた。何故なら、御本体は彼方此方の家々の前に御輿を据えて、
私は、密かに祭りの到来を指折り数へて待ち構へてゐた。祭りともなれば、迎へに行かずとも妻やお雪は唐松村の野外劇団の幌馬車隊に加はつて戻つて来るであらう。私達は賽銭袋を首にぶらさげて、手に手をとつて太鼓の音のする方へ駆け出すであらう。
「あれあれ、お父さんの冠りの先きが……」
六尺もある大男が一尺歯の高下駄を穿いてゐるのだから、天狗の顔は稲むらの上にひとり浮び上つて、遠方からでも直ぐと解るのである。お雪は、声を張りあげて、
「お父さん、お父さん――」
などゝ呼ばはると、天狗が高い鼻を此方に向けて、嬉しさうな点頭きを示すではないか。兄弟に荷はれた大太鼓が、鎧武者の撥に打たれながら、厳かな余韻の煙りを曳いて進んで行く光景を想ふと、私は全身の血潮を涌きたてさせられる止め度もない情熱の竜巻きにまくしたてられるのだ。黒い
春の時には、あの地主のアービスが太鼓叩きの番となつて参道に現はれたのであつたが、いざ此処に至つたとなれば誰も常々の奴の悪徳などを云々する者もなく、朗らかな歓呼の声を挙げて、彼の打ち鳴す太鼓の音に魂を奪はれた。
「まるで、世界が昔に返つたやうだ。勇ましいことぢやありませんか、ならうことなら若武者の撥に打たれて昏倒してもみたいものよ。」
このやうなことを叫んで打騒ぐ娘達の中にまぢつて、私の妻も惚々として口をあけながらその勇姿に見惚れてゐた。
凡そ、彼の勇士の振舞ひは、あらゆる人間の情熱と根気と忍耐と覇気の徳を兼ね備えた遠い昔、遠い国のガスコン族の再来かと見紛ふばかりであつた。あの、精悍無比にして、義に富み、信に深く、崇神の念に厚く、婦女を敬ひ、智謀に長けた永遠の血脈をありのまゝに中世紀時代の数々の騎士達の胸に伝へて、大陸の歴史を花と色彩つたところのガスコン民族やゴツス人の精気が、凝つて一団となり此処にも生れたか――と思はずには居られない程に、この奔放無礙なる大振舞ひに一途の精神を打ち込めた太鼓たゝきの荒武者の打ち鳴らす太鼓の音は、聴く者、視る者の魂を力強く極楽の空に拉した。
私は、酒の気もなくて眠れぬ夜々のうそ寒さを、小屋の二階の寝台で夜もすがら、転々としながら、あの祭りの太鼓の音に想ひを及ぼすと、幻ともなく
……かくの如き人波の中
楊柳を折り芙蓉を採る
瑶環と瓊珮とを振ひ
鏘々として鳴つて玲瓏たり
衣は翩々として驚鴻の如く
身は矯々として游竜の如し
……と、などゝ、いつまでも歌ひつゞけて。楊柳を折り芙蓉を採る
瑶環と瓊珮とを振ひ
鏘々として鳴つて玲瓏たり
衣は翩々として驚鴻の如く
身は矯々として游竜の如し
この頃私は、「悲劇」「喜劇」の出生と、その岐れ道の起因に関して深く感ずるところから、劇なるものゝ歴史について遠くその源を原始の仮面時代の空にさ迷つてゐたところ、計らずもガスコンの原始民族が、酒神サチユーロスを祭る大祭日に、恰もこの竜巻村の神輿行列にも等しい仮装行列の一隊を組織して、バラルダと称する大太鼓を先頭に曳いて、山上の酒神の宮へ繰り込むといふ有様を詳さに伝へた文献に出遇つて、目を丸くした。パン、ユターピ、カライアーピ、バツカス、エラトー、ユレーニア等々と、山羊脚を真似、葡萄の房をかむり、
どうん、どうん、カツ、カツ、カツ!
空一杯、胸一杯に太鼓の音が鳴り響いて、天狗が、
私は、声を張り挙げて歌ひつゞける……、
「鏘々として鳴つて玲瓏たり……」
――「おゝ、もうお目醒めになりましたか。雪二郎が朝餉の仕度をして居りますから、どうぞ囲炉裡にお降り下さい。」
窓下からの声で私は、夢から醒めると、朝餉の前の一働きに水門開きに出かける雪五郎と雪太郎であつた。
いつか、もう夜は、ほのぼのと明けて、山は藍色に、野は広袤として薄霧の中に稲むらの姿を点々と浮べてゐるのみであつた。行列は、もうあとかたもなく山上の森に吸ひ込まれて、車の軋りの音も消えてゐる。
「今朝方は、また二寸からの減水で、いよいよ車は水が呑めなくなりましたが、お心はたしかであつて下さいよ。」
と雪太郎が呼びあげた。「夜露の情けは、もう、待たずとも――」
「この腕の続くかぎり――」
雪五郎が、そろつて、朝靄の底から窓を目がけて赤松のやうな腕を突き伸した。そして、
「祭りは上天気ですぞ。」
と目醒し気に唸りながら、川べりをのしのしと柳の影へ消えた。流れは、流れのさまをたゞよはすことのない静けさで、はつきりと白く川下へ見霞む果までうねつてゐた。浮ぶものゝ影があるならば花の一輪であらうとも、眼にとまる澄明さであるが、私の眼をさへぎる
はつきりと、もう明け放れて
「いつそ、流れに托して、花の目印でもつけた壜なりと流した方が、早急の言伝は、いちはやく着くかも知れないぜ。」
「ほんとうに――若しや、あなたの知らぬ名前の草花が流れて来たら、標本のあまりをあたし達が流したものと思つてよ。手紙をつけて流すかも知れないよ。金送れ――とでも書いて――」
そんな言葉をとり交したこともあつた。験しに雪五郎に、その時私達が、一体千鳥川で流したものが幾時間位ひ経つたら、吹雪に達するだらうか? などゝいふことを質問して見ると、彼は入念に首を傾けた後に、
「雨のない今日此頃の水勢ならば、丁度黄昏時に出発した花舟は、明方になつて此処に着くであらう。」
と云ひ、彼の壮年時代には、真実この流れを唐松村の人々は郵便網として使用してゐたが、そして水門の傍らに四つ手網型の郵便受を備へて置いたものであるが、――などゝいふことを附け加へた。
Styx ――三途川と振り仮名するのは、稍私の意に添はぬが、今、私の眼下から白々と晴れ渡つて、壮麗な大気の静寂を縫つて無限の面持で流れをも忘れたかのやうな吹雪川は、降れば雲に達するかと見ゆるばかりの、もの静かなる漠々たる明朗さに一切の疑惑と妄迷を呑み込んだ The Lethe(もの忘れ河)となつて、曙の雲の裾に消えてゐた。私は、あの騒ぎの幻の後に展けたこの Stygian River の往く
「先生――先生――」
見ると居酒屋のマメイドである。珍らしい草花でも発見したことを告げに来たのであらう――と私は思つたから、私は一切の痴夢から醒めて、慌てゝ戸外に走り出ると、メイ子は私の腕の中にぐつたりとして打ち倒れた。私は雪二郎を呼んで、メイ子に水と気つけ薬を服せしめた。
「ガラドウが来る、ガラドウが……」
「メイちやん、もう大丈夫だ。ガラドウの奴来て見やがれ、忘れ河の中へ……」
私達の介抱に依つて息を吹き返したメイの話を聞いて見ると(私は、ガラドウがメイを手込めにしようと襲ひかゝつたに相違ないと思つたのであつたが。)ガラドウが今にも私の許へ鎧櫃を瞞しとる目的で、一世一代の智謀をふるつた(と彼が云つた由。)狐となつてやつて来る筈だから決して化されてはならぬといふ注進であつた。
今年の春の祭の時に余興として鎧武者の戦争劇を演じたところ、楽屋から火を発して村中にある二十体の鎧兜を悉く烏有に帰せしめ、今では質屋に遺つた私のそれが唯一のものとなつてゐる。祭りの武者用には古来から此処に伝はる鎧でなければならなかつたので、結局私のそれが登用されることになつたのであるが、昨夜から徹宵の村議の結果、誰人でも真ツ先にそれを私の所有から奪ひとつた者が、この先何年間といふもの春秋併せて太鼓叩きの栄誉を荷ふべし――といふ事に可決された。その事は最早大分以前から村人等の話頭に上つてゐた提案であつて、里を遠く離れた森陰の水車小屋にだけは伝はらなかつたが、彼等の間では既にもう初夏の田植の頃ほひから遠くあの鎧櫃を取り巻いて、暗々裡の物々しい争奪が演ぜられてゐたといふことであつた。さう聞けば、私にもそれと思ひ合せられる筋々が枚挙に遑ない。それまで私に出遇ふと何故か冷酷な軽蔑の後ろ指をさして大手を振つてゐた村会議員の何某達が、にわかに丁寧な天気の挨拶などをして私のために道をひらくが如き有様となつたが、それは鎧櫃欲しさのお世辞わらひであつたのか、私はまた遂に彼等が私の豊かなる学識を認めて心からなる尊敬の念を寄せはぢめたのか、と大いに吾意を得て、自ら打ち進んで思想講演会の壇上に立つたり村議立候補の宣言を発表したりしたのに、嗚呼、またしても思はぬ憂目を見たものよ。あの時私への投票は雪五郎父子の僅かに二票より得られず落選となつたが、それは私が既成政党の何派に依ることなく自ら樹立した「独立共和党」なるものゝ主旨が単に彼等の意に通じなかつたとのみ思つて、晴々としてゐたのに――。
この鎧植騒ぎが起るやいなや桐渡ガラドウは即座に年々歳々の賽銭の高を計上して、
「あの薄鈍先生から五十か百の金でふんだくれば、濡手で粟だ。」
と北叟笑み、既にもう手前が鎧武者になつた気で、アヌビスを賽銭拾ひに、また同志の悪党を悉く使丁に抜摘した太鼓隊を組織して、毎夜毎夜メイの店で手配を回らし、前祝ひの盃を挙げてゐたが、いよいよ期の熟した今朝となつてはあらゆる弁舌を弄して私に迫つた上、若しも私が云ふことを諾かなかつたならば、一思ひに腕力沙汰をもつて捻ぢ伏せてしまはうと決心し、今や二十人からの同勢が勢ぞろひをして手ぐすねひいて繰り出すところである――斯う聞くと私は、娘の手前といふばかりでなく、しつかりと武張つて、そいつは面白いや! とか、日頃の鬱憤を晴して目にもの見せずに置くものか! などゝ唸つたものゝ、何故か総身に不思議と激しい胴震ひが巻き起つて歯の根が合はなくなつた。
水門の堰が切られたと見へて、稍暫らく水車が轟々たる響きを挙げて回り出し、小屋全体も恰も私の胴震ひのやうに目醒しく震動しはぢめてゐた。
「いゝえ、そいつは……先生が……先生が……俺が撥をとつて行列の先へ立つと云へば……鳧のつくことだ……」
小屋の胴震ひの音にさまたげられて止絶れ/\にしかうけとれなかつたが、いつの間にか迎へに走つたと見へる雪二郎を先きにして、雪五郎と雪太郎が口々に亢奮の言を叫びながら嵐となつて飛び込んで来た。それと一処にメイも何か叫んで私の胸に飛びつき二つの拳骨で、私の胸板を太鼓と鳴らした。たしかその時雪五郎がすいと腕を伸したかと思ふと私の五体は鞠になつて真黒に煤けた屋根裏へ飛びあがり、ふわり/\と感じたかと思ふと、決して訳の解らぬわあ/\といふ人の車の歓声に吹き飛ばされて、繰り返し/\宙にもんどりを打つてゐるのである。私は、目も見えなかつた。昏倒しさうであつた。ガラドウの同勢が圧し寄せて、合戦がはぢまつたのかしらと思はれた。……で、不図、落ついたので、それにしても酷く坐り具合の好いソフアに居るが、いつの間にか敵軍を追ひ払つて、大将の席についたのかな? そんな心地がして、静かに眼を開いて見ると私は、雪五郎の膝を椅子にしてゐた。――合戦かと早合点した今の騒ぎは、雪五郎達が歓喜のあまり私を胴上げの手玉にとつたのであつた。
水車の響きに逆つて、大声の会話を取り換す習慣には私も慣れてゐる。私は特に落着いた振りで、
「でも僕には、到底あの太い撥を振ふなんていふ力はありはしないよ。」
と、真に自信に欠けた思ひ入れを込めて、皆なの前に露はに腕を突き出して見ると、まことにそれは鉛筆と見紛ふばかりの心細い腕だ。「撥の方が五倍も太いぢやないか。」
「いゝえ。」
と父子三人が口をそろへて首を振つた。――「私達は知つてゐる、いつか貴方が、この赤松の薪太棒を軽気に振りあげてガラドウ共を追ひ払つた時のことを――。太鼓の撥は、これと同じ太さであるし、また、打つ時の身構えは、あの時のまゝに演つて下されば申し分はない。私達は、あの時の貴方の姿を見て以来、此処に一人の屈強な太鼓武者が居ると秘かに期待してゐたところ、計らずも斯んな幸運に出遇つて……」
あの時のあれは全くの夢中の業で、あれと同じ動作を繰り返して行列をすゝめるなんていふことが出来るものか、あの一振りであの時だつて僕の腕は抜けかゝつたではないか――といふ事を私は云つたが、声が落ちて水車の響きに消されて誰の耳にも入らなかつた。
「おゝ、私は貴方の打つ太鼓の音に伴れて天狗の脚を運べるとは……」
雪五郎がそう云つて悦びの胸を張り出さうとすると私が危く膝からこぼれ落ちかゝつたのを、雪太郎が置物でも持ちあげるように軽く自分の膝に享けとつて、
「その天秤の後ろを担ぐ私も――」
と続けて雪二郎が更に私を膝の上に享け渡されて、
「一家そろつて斯んな目出度いことがありませうか。」
と、決して下には置かぬ歓待であつた。
「おゝ、先生、あたしにはもうはつきりと太鼓の音が聞えますわ……」
メイ子は身を震はせて私にとり縋ると、さめざめと嬉し涙を流した。
お天気続きを悦んで水車をも休め、豊年祭りが近づいた、やがてのことには雨も降るだらう、そしたら回つて/\黄金の餠を搗いてお呉れ――雪五郎達は、そんなやうな意味の「水車小屋の唄」を歌ひはぢめた。ガラドウ達の襲来などは全く意にも介してゐない素振りであつた。そして一同は傍らに積んである赤松の薪をとつて炉端を叩きながら歌の調子をとり、私も釣られてタクトを振らうとしたが、決して片手では持ちあがらなかつた。
それにしても水門の水勢がもう弱る頃ほひだから、扉を閉しに行かなければならぬ、だが、大変車が目醒しく廻りつゞけてゐるではないか――と云つて兄弟が窓から外を眺めた途端、
「やあ、雨だ!」
と叫んだ。その表情に私は、恰も「悲劇」と「喜劇」の分岐点に踏み迷ひつゞけて、ひたすらにガスコンのバラルダに追ひつ追はれつしてゐる私自身の心象の現れを見た如き囚へどころのない雲に似たものを感じた。
「雨――あゝ、雨の音だつたのか、それが私には遠くから響く太鼓と聞えてゐたのですわ。」
メイ子も名状し難い面持で両掌で胸を圧えながら、祈るやうな眼をあげた。――「道理でガラドウ達がやつて来ないと思つたら……」
見霞む野面の果から、激しい雨脚の轟きの音が朦々たる雲を巻き起し風を交へやがては雷鳴を加へて疾走して来た。その雨を衝いて水門に駆けつけた雪太郎が、こんな花束が流れて来たと云つて、私に、全く私の知らぬ名前の花束を渡したが、私はそんなものを験める気分もなく、ぼんやりと窓に凭つて、爽烈な吹き降りの野末をひろく見渡してゐた。一頭の裸馬が、私の眼界の果を水煙りの尾を曳いて一散に横切つて行く後を、一個の黒い人物の点が起きつ転びつしながら宙を飛んで追ひかけてゐた。
不図私は背後に笛に似た歔欷の声を聞いた。止絶れ/\に何か呟いでゐる様子であるが、狂気となつて廻転しはじめた水車の音や雷鳴に消されて何の判断もつかなかつたが、どうもそれは炉傍で仁王のやうな腕を組んでゐる雪五郎の喉から洩れでるものらしい――と思ふと私は、突然、(もの忘れ河)のしぶきを浴びた野鹿の化身となつて、一声高く不思議な叫び声を挙げるやいなや、岩ほどの雪五郎の坐像に突きあたつて、その頭部となく背中となく滅多打ちに、ぼかん/\! と打ち叩いた。