くもり日つゞき

牧野信一




歌合せ


 外に出るのは誰も具合が悪かつた。
 それで、飽きもせず彼等は私の部屋に碌々とし続けた。(――と私は今、村での日日を思ひ出すのである。つい此間までの村の私の勉強室である。私は余儀なく村を立ち去つて、今は都に迷ひ出たばかりの時である。)
 向ひ側の人の顔だちが定めもつかぬ程濛々と煙草の煙りが部屋一杯に立こめてゐた、冬の、くもり日続きの、村の私の部屋なのだつた。誰も彼も、もう駄弁の種もすつかり尽き果てゝ稍ともすれば沈黙勝ちな、夜もなく、昼もなき怠惰な村の愛日抄を書かう。
 寝転んでゐる者がある、炬燵にあたつてゐる者がある。部屋の隅にある小机に凭つて手紙か何かを書いてゐる者がある。安らかに無何有の境に達して大鼾きをあげてゐる者がある――おそらく夢だけで消えてしまふであらう「ソクラテス学校」――そんな題名の小説を想つてゐる私が、何んな顔つきで日々彼等の仲間になり続けてゐたか私は知らない。
 口をあけて天井を眺めて居るAが居た。全く出鱈目な調合法で切りにカクテルをつくつて飲み続けて居るBが居た。Bは恋をして居る。もう少し酔つて来ると、やがて顔を歪めて私に取り縋るに違ひないのだ。
 そして、人が何かの歌を口吟むと、皆眠た気な声を挙げて一人宛順々に歌つて行くのが癖になつてゐた。歌へぬのは私一人だけである。誰が思ひ出して歌ひ出す歌でも、皆が皆、既に好く知り尽してゐる歌ばかりであるらしい。私は何時も彼等の朗かな合唱の聞き手であるだけだ。
「何かもつと別なのはないか?」などと云ひ合ひながら切りに考へるのだつたが、それも、もういよいよ種が尽きると彼等は、いつも彼等が一様に暗誦してしまつてゐる古今の名文章を口吟むのが常だつた。手持ちぶさたがさせる白々しい、悲し気な戯れだ。
 彼等が暗誦する文章は十指に余りある。いつか私も憶えてしまつた。
 いきなり一つ引用して見よう。……そこで、炬燵にあたつて顔を突つ伏てゐるAが、経を読むが如く、
「おのづから外るゝ水には、何もたまらず流れたり。」などと唸り出すと、洋盃をつまんで眼を据てゐるBが、それでもAの読経が耳に入つたのか、生真面目な顔で空々しい声をあげて続けるのであつた。
「爰に伊賀伊勢両国の官兵等、馬筏押し破られて、六百余騎こそ流れたり。」
 そしてBは眼を瞑つてゐる。Aは顔を突つ伏して眠つてしまつたらしい。――Cが、素晴しく洞ろな大欠伸と一処に、吾知らず次の章を唸り続けるといふ具合なのだ。
「萌黄、緋威、赤威、色々の鎧の浮きぬ沈みぬゆられけるは、カンナビ山のもみぢ葉の、巓の嵐にさそはれて――」
「竜田川の秋の暮――」と続けたのは大の字なりにふんぞり反つて天井に煙りを吹きあげてゐる吐月峰のDだつた。「竜田川の秋の暮、井関にかゝりて流れもあへぬに異ならず。」ひとり庭に出て海を眺めてゐたEが遠くから声を挙げた。さうだEは庭で海を見降ろす風景を油絵でスケツチしてゐるのだ。彼は切りに筆を動かせながら、
「その中に、緋威の鎧着たる武者三人、網代に流れかゝりて浮きぬ沈みぬゆられけるを、伊豆の守見給ひて、かくぞ詠じ給ひける。」などと続けるのであつた。
 すると今迄机に凭つて耳も借さずに手紙か何かを書いてゐたカレツヂ・ネキタイのFが得意の歌留多声を忍ばせて、聴く者の涙を誘ふかのやうに悠長な、センセイシヨナルな気取つた喉で和歌の朗詠だ。
「伊勢武士は、皆緋おどしの鎧きて、宇治の網代にかゝりぬるかな。」
 そして、一区劃ついて、寂とすると誰が何といふこともなしに笑ひ出すのである。
「Fちやんを読手にして、歌留多を一番戦はうか?」
「Fちやんの声ぢや好過ぎていけないよ。」と呟いたのは、頭からすつぽりと毛布を引き被つて安らかに無何有の境に達して鼾きをあげてゐる筈のGだつた。
「Fちやん!」と洋盃のBが、もう知らん顔で机に向つてゐるFに呼びかけた。Bは、もうドロンとしてしまつて大時計の振子のやうにうつら/\と上半身を揺られながら、夢うつゝであるかのやうにウヰスキイばかりを飲んでゐた。「Fちやん、もう一つ何かやつて呉れ。」
「あゝ何をやらう? ――白鳥は――をやらうか? それとも幾山河いくやまかは……にしようか?」
「センチメンタル・ペンドラム!」と誰かが隅の方で呟いた。Bの事は「ペンドラム」だとか「天気鶏ハーフ・チツク」だとか「ハツピー何とか」と彼等は蔭で称び慣れてゐた。何故、蔭で――と云ふと、Bは仇名などで云はれると直ぐに不機嫌になるからだつた。不機嫌になられたつて直ぐに治つてしまふから怖くはないが、そのわざとらしい眉間の立皺を見るのが滑稽過ぎて困るからだつた。
「大観が――といふのをやつて御覧な。」
 とBは勿体なさうに唸つた。
「大観が――だつて! 大観が何うしたのさ?」
「知らないの――」
「知らないな!」
 知らないといふので皆なが珍らしさうに息を殺した。
「吉井勇の歌だよ。」
「知らないよ。大観――だなんて!」
 するとBは酒飲みらしくもなく妙に赤くなつて(それは彼が稀代の悪声家だからである。)咽喉にからまるやうなカスレ声で性急に口吟んだ。
「大観が酔ひて描きたる画に似たり(だつたかな、違つたら御免だ。)大観が酔ひて描きたる画に似たる、花月の塀の春の泥かな――といふんだよ。」
 Bが斯く披露し終ると一処に、皆なは突然起きあがつて、Bをキヨトンとさせたことには、余りに鳴りも止まぬ拍手と何故か晴れやかな大笑ひだつた。
「ハツハツハ――そいつは好い。そいつは明かるくつて面白い。」
「俺はBが何か意味あり気な歌でも歌ひはしないかとハラ/\してゐたところだつたんだよ。」
「B――遠慮することはないぜ、君は仲々好い声だよ。うまい/\俺ア感心した。」と庭で絵を描いてゐるEが野良で立働いてゐる者の会話のやうな大きな声で賞めてゐた。
 BにすゝめられてもFは朗詠しなかつた。今度カルタの読み手になる時には、最初のカラ一枚で是非ともそれを詠まう、そいつを俺の得意にする――と呟いて、繰返してBにうたはせてゐた。

亡霊の案内


 幽霊の顔にも次第に慣れて来て暫くすると一向に怖いことはなくなつた――。
 これは吾々の旅行者ガリバアが科学の王国「飛行島」へ漂流した時に述べてゐる言葉だが、Bが不図そんなことを口にしたのだ。
 そしてBが沈んだ顔を挙げて、「諸君!」と云つたのである。「若しも吾々が例の飛行島へ漂流して総督の饗応を享けることになつたら諸君は誰の出現を望むだらう? こいつをひとつ考へて順々に望むところの英雄の名を呼ぼうぢやないか……」
 歌は勿論、暗誦する名文章の材も尽きて皆な夫々沈黙のまゝ眠り、描き、飲み、喫してゐるところだつたので皆なは悦んで賛成した。――私が村を引きあげる前後の頃は斯んな風に碌々としてゐるには、まことに適はしい和やかな雲り日続きであつた。
 あの飛行島では、最も進歩した科学の力で島人は、既にこの世を去つた役立たずの亡霊を再生せしめて、これを召使として利用してゐるのであることは誰も知つてゐるところだが、全く召使としてはこれ程理想的なものはなかろう。この召使の案内でガリバアが島の総督に面会すると、総督は、この遠来の珍客をもてなすために、歴史創始以来の人物のうちから、客の好みにまかせて、即座に客の目の前に彼等を現出せしめて見せよう、そして客は、その人物に自由な質問を提出して応答を乞ふが好い――といふのである。
 あの旅人はアルベラの戦争から大軍を率ゐて凱旋するアリストートルの高弟(アレキサンダア大王)の勇姿を所望した。羅馬の元老院議員達と当時の議員達が一堂に相会する場面を註文した。その光景の詳細を私は忘れたが、たしかガリバアの目に映つたところに依ると、元老院議員達の風姿、容貌態度が謹厳で、鷹揚で、堂々として、悉く王者、貴人の威光を持つてゐるのに引き換へ、当時の彼等は、見るからに狡猾らしく猜疑深く、意地悪らしく、眼は一様に掏摸の如く才走り、物腰態度は詐欺師の如く滑稽で、容貌は凡て狐、或ひはペテン師、イカサマ、泥棒とより他に見えなかつたと述べてゐたと思ふ。また彼は、ホオマアとアリストートルの出現を望んだ。アリストートルは何んな人かと思つたら、腰がまがつて、眼がシヨボ/\とした禿頭の、至つて風彩のあがらぬ老人だつたさうである。
 それはさておき私達は、夫々総督の申出でに甘えた幸福な旅人になつたつもりで、胸をときめかせながら慾深な希望を模索しはじめてゐたのである。私の望むところは寧ろ現代の人物であつたが、それは許されないとすると私の望みはあまりに広漠としてゐて容易に発言することは出来なかつた。
 そのうちにAが云つた。「閣下よ、どうぞ私に、ソクラテス前派の火論家と水論家がアテナイの最も繁華な街角で不意に出遇つた光景を――」
 この申出を聞いて私は懐ろの中で思はず拳をつくつた。水論家と火論家は、何時何処で出遇つても忽ち威猛高になつて、絶対に相反する各党の主張を怒号し、大喧嘩を始めるといふ噂だつたから――喧嘩程私に怖ろしいものはない。
 その上私は、ついこの間シネラリアといふ優しい名前を持つた村境のパーラーで親しい友達と酒を酌み交し貌麗みめうるはしい酒注女に長閑なる流し目を送り乍ら悠々と Tavern's Pleasure を味あつてゐた所が、にはかに隣の卓子の客が大喧嘩をはぢめたのだ、私は取るものも取不敢仲裁に入つたところが、夢中で振り廻してゐる喧嘩者の拳骨が私の鼻柱に衝つて、気絶してからといふものは喧嘩! といふ声を聞いても身の気がよだつのである。そして私は、その時の私の仲裁振りが大変に意久地がなくて、タバンの美女にネキタイを持つて引もどされたりして飛んだ面目を潰したのである。
 私は、あの凄じいアテナイの二人の異論者が街角などで出遇つたら、何んな怖ろしい火花が散り、噂に依れば剣が閃めくといふ程だつたから、Aの申出でを耳にしては胸は西瓜のやうに冷え青ざめてしまつたのも無理はなかつたのである。
 ところが私達の仮りの総督の合図に依つて忽ち私達のデイライト・スクリンに現はれた光景に依ると何とまあ私の予期を裏切つたことには、若き二人のXとYは次に誌すやうな会話を取り交して別れて行つたのである。(尤もその時そこに現れた二人に就いて後になつて私が訊ねて見たところに依ると、Aが申出での時に名指しを忘れたので、あの人物達は全然自己の本来の主張を持たない、たゞ方便のために、そして彼等の自己弁護的弁解に依ると生活のために、壇上の場合でのみ各党の主義主張を強弁する若き情熱家で、夫々の哲学科に給料を定められて新に雇はれた文筆係りとアナウンサアなのだといふことだつた。この世にあつた頃は飛行国の民主党の一等書記官の役を二十年も務め終せたといふ私の案内役になつた一亡霊がそつと私の耳に囁いたところに依るとあの二人の若者は後世のソフイストの先駆者であるといふことだつた。)
 X「やあ、Y君! 何とまあ今朝は好い天気なのだらうね。斯んな上天気に出遇ふと僕は何も彼も投げ出してあのと一処に舟遊びにでも出かけたくなつて弱つたよ。」
 Y「それあお互ひのことだがね、君はまさか、今日の午後からデルフオイの広場で長老会の馬験べがあるのを忘れやしまいね。」
 X「忘れられる位ならば苦労はないさ! 斯うしてゐる間も、もどかしいわけさ、僕はこれから吾家へ走つて大急ぎで馬の手入れをしなければならないところなのさ。」
(註――斯の国家の頃には、年々季を改めて王党の元老会が、騎士級の人々の持馬を検査する厳かな合評会があつた。而して騎士にして己が持馬を好く飼育し得ざる者は、不合格者として、そしてアポロの不実なる下僕と見なされて国外に追放せしむる掟があつた。被追放者は次の審査会までに馬をあらため、アポロの神前に自らの手で醸したる五百樽の酒をさゝげた上で再選を待たなければならなかつた。)
 Y「これから手入れだつて! そいつはまた馬鹿に手廻しが悪かつたものだな。」
 X「――といふのは斯んなわけさ。例の、そら、ピヽアス横町の花屋の、あの娘と、すつかり何うも涙つぽくなつてしまつてね。……馬も議論も主義も何も滅茶苦茶さ。」
 Y「他人事とは思はれない、僕は――万一君が不合格と決つたら、僕の友達がコルシカの山奥に百万町歩の麦畑を持つてゐるから、彼奴を君に紹介するよ。彼処に引き籠れば、酒の五百や千は苦労はないさ。寂しかつたら君、ピピアスも伴れて行つたら好からう。」
 X「神様、この私の友達に幸ひを与へ、そして私にアハブの剣をお借し下さい――君、ぢや、さよなら――」
 Y「何れデルフオイの広場で顔を合せるだらうが、その時はもう互に話は出来ないから……さあX――往来の人々の眼を盗んで、しつかり握手して別れよう。」
 私はこの光景を息を詰て眺めてゐたが、この時出題者のAが、「もう沢山だ、もう充分だ!」と切なさうに唸つたので、忽ちこの街角の場面は煙りもたてずに消え去つたのである。
 B、C、D、E……そして私などが、それから何んな申出をし、何んな感慨に陥つたかは今日は省くことに仕様よ。
「飲んだね、この五六日の間に一体俺達は何れ位の酒を飲んだらう。」
「御覧よ、先に立つて歩いて行くBの脚つきを! 彼奴まだ酔つてゐるのかしら?」
「何う見てもセンチメンタル・ペンドラムだな――おーい、B待てよ。危ねえぞ!」
「春になつたやうに好い天気だな今日は――。吾家のフレームぢや屹度桃が咲いたに違ひない。」
「マキノは何うした、何を黙つてゐるんだ、貴様も少々Bにかぶれたのか。」
「いや、久振りの上天気で、陽がまぶしいんだよ。」と私は云つた。
――皆は勝手なることを喋り合ひながら、ペンを一本持つただけの私を停車場へ送つて来るのであつた。
(改稿)





底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「作品 第一巻第三号」作品社
   1930(昭和5)年7月1日発行
初出:「時事新報 第一六三九七号〜第一六四〇一号」時事新報社
   1929(昭和4)年2月10日〜14日
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年7月18日作成
2011年5月3日修正
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