歌へる日まで

牧野信一





 蝉――テテツクス――ミユーズの下僕――アポロの使者――白昼の夢想家――地上に於ける諸々の人間の行状をオリムパスのアポロに報告するためにこの世につかはされた観光客――客の名前をテテツクスといふ――蝉。
「その愚かな伝説は――」
 さあ歌へ/\、今度はお前の番だ! と攻められるのであつたが、何故か私には歌へぬのだ――だが、私は凝ツとしてゐられないのだ――酒樽の上に立ちあがつて喋舌り出したのである。
「えゝ、もう沢山だわい。演説を聴くために俺達は酒を飲んでゐるんぢやない。」
「仕方がないや、例に依つて合唱の一節だけを、アウエルバツハの古めかしいワン・スタンザを借用して、諸君順番に勝手気儘に歌ふと仕様ぢやないか。」
「賛成/\、そこで水車小屋の太将、お前から始めてくれい!」
 私達が住んでゐる村の酒場であるが、常連の森に住む炭焼家、村役場にゐる執達吏、村長のノラ息子、牧場の牛飼ひ、麦畑作りの小作人、舟を持たない漁業家、小説家である私、私と同じ家に起居して、同じく文学研究に没頭してゐるHとRといふ二人の大学生、隣り村の元村長達の毎夜/\の大騒ぎは恰もアウエルバツハの不良青年の面影に似てゐる! といふところから私達は、いつの間にかゝら此の居酒屋を、その名で称び、何か勝手気儘な歌をうたつては、合間/\に一同が声をそろへて、あの合唱である「恋に焦れて悶ふるやうに――」と高唱するのが慣ひになつてゐた。
「よしツ!」
 と水車小屋の大将は、フラ/\と立ちあがると足拍子をとりながら、斯んなやうな意味の歌をうたつた。――俺にだつて云ふに云はれぬ悲しみも苦しみもあるのだ、それを知りもしないで昨夜も昨夜、一杯機嫌で此処から帰つて行くと、吾家うちの婆アは大不機嫌で閉め出しを喰はせた、癪に触つたから門口の扉を滅茶苦茶に叩きのめした、ところが昨日のあの雨で水嵩の増した水車の勢ひが目の廻るやうな凄じさだ、俺の騒ぎなんて聞へればこそだ、俺は気狂ひのやうに暴れた、水車のしぶきが雨のやうに頭から降りかゝつて俺は何だか勇ましい芝居でもしてゐるやうな好い心地になつて、戦つた、格闘した、角力をとつた、月の光りを浴びながら、クルクル回る水車の影を相手に――、そして、目が廻つて、げんげの花盛りの田の中に、悶絶した……それ合唱だ!
「恋に焦れて悶ふるやうに、恋に焦れて悶ふるやうに――」
 常連は手拍子、足拍子をそろへて喉も張り裂けよとばかりに高唱した。
「あの娘が呉れた紅苺を――」
 今度は村長が身振りよろしく歌ひ出した。
「うつかり喰べたら毒だつた……苦しい/\堪らない、手あたり次第に掻き※(「てへん+毟」、第4水準2-78-12)り、噛み齧つては七転八倒、悶え悶えて跳ね狂ひ、甲斐なく萎れて倒れしは――」
 合唱「恋に焦れて悶ふるやうに……」
 その村長は、つい此間まで街の歌妓に現を抜かして通ひ詰めてゐたのであるが、いつの間にか財産を倒尽し、名誉職から失墜して、おまけに歌妓には逃げられ――悶々の情遣方なく此の酒場で毎夜憂さを晴してゐる気の毒な身であつた。あまり真に迫つた歌をうたつたので一同はやゝ暫らく同情の眼蓋を伏せた。
「俺は世の中の人間といふ人間は大概まあ破れかぶれの気持で生きてゐるんぢやないかと思ふんだが、何うだらう。」
 執達吏が変に沁々とした調子で斯んなことを呟いたりした。「たゞ、その破れかぶれなりのかたちが千差万別といふわけぢやないんだらうか。」
 そして彼は、酒注台に凭りかゝつて凝つと何か物思ひに耽つてゐる私の方を振り向いて同意を求めるやうな眼つきをしたので私は、即坐に、
「冗談ぢやない――」と否定した。彼は、この一年位ひの間凡そ二三十回も私の住家に通ひ詰めたであらう。そして、気の毒だ/\と呟きながら、其家のあらゆるものに「差押へ」の赤札を貼つたのである。彼と私は、その度に赤い顔を見合せ苦笑を浮べる毎に、親密さを増して来たのであつた。彼は、村長とも私と同じやうな動機で友達となり、そして、その役目の帰途夕暮時になり、私や村長の案内で此の酒場の常連になつたのである。
 私が、その家を出て、この村に移つた時には、二つとも私の書斎に永い間壁飾りとなつて懸つてゐたアメリカ・インヂアンのガウンと一対の錆びたフエンシング・スオウルドだけが私の所持品だつたのである。競売の日にこれらの品物だけは買手がなくて、自然私に残されたのであつた。私は他に着るものがなかつたので寄ン所なくこればかりを羽おつてゐたのだ――そして私は、水車小屋の主が何時でも私に借して呉れるドリアンといふ牝馬に、「ロシナンテ」とか「ブセハラス」とかいふ異名をつけて、或時は、ラマンチアの紳士気取りでロシナンテを駆り出し、森の奥へ走つて闘剣の練習をしたり、また或時は街にある叔父さんの家を襲つて物凄い掠奪をほしいまゝにし、村に引きあげる時には、アルベラの戦ひから凱旋する大王アレキサンドルの心を心としてブセハラスの背中で、新たに建てるべき己れの王国について考慮を廻らせたりしてゐた。――町にゐる私の憐れな年寄つた母親は、老眼に涙を湛へて、私のたつたひとりの倅は倒々気狂ひになつてしまつた、案ぜられる――と日夕悲しみの祈りをあげてゐるといふ話であつた。そんなこんな、様々な事情を知つてゐるので執達吏は、「あの合唱の場合に君の歌ふ姿は就中息苦し気だ。」とか、「やぶれかぶれで、そんな身装みなりをして――平気さうな顔をしてゐるんだらう?」などと余計な質問をするのであつた。
 違ふ、私には生来の一つの習癖があるのだ。私は何時の時でも朝な夕な不思議に勇壮な運動を試みずには居られない習癖があるのだつた。私は、どんな立場で何処に住んでも、必ずあしたは竜巻になつて襲ふて来る怖ろしい煙に似た悲しみに取り巻かれ、夕べは得体の知れぬ火に似た情熱に追はれて、何うにも凝つとしてゐられなくなる――私は、この悲しみと奮戦し、この情熱と組み打ちをする思ひで、機械体操を試みる、オートバイで駆け廻る、大酒を喰ふ、夫婦喧嘩をする、美女を追ひ廻す、水泳を行ふ――そして健やかな汗をしぼると、忽ち爽やかな楽天家に立ち戻ることが出来るのだ。村に来て私は寧ろ稀大な生甲斐を覚へてゐる位ひなのだ。自働自転車オートバイの代りには精悍なロシナンテが控へてゐる。機械体操の代りには闘剣が役立つてゐる。あの土人の着物とこの一対の闘剣とが最も私のために役立つことになつた先代の最後の遺物かと思ふと私は異様な昂奮を覚へ、その上私に凡そ嘗て感じたこともない祖先崇拝の念が浮んで来るかのやうな力強さに打たれたりした。
 この村には、綺麗な丘があり、夢のやうに深々とした狩に適した森があり、釣を誘ふさゝやかな小川が流れ、この賑やかな酒場があつて、何の私に不足があるものぞ! であつた。森の獲物も海の獲物もない荒天続きの上句食に窮すれば、私は何んな責も覚ゆることなく忽ち飛鳥の如き掠奪者とこの身を変へることが出来る。そして私は馬を飛ばせて崖道に添ふて村の棲家に引きあげて来る時などは、憧れの中世紀に突如この身を見出したかのやうな夢心地に走り、面白さのあまりに恍惚とする位ひであつた。
「たゞ、この私の、時折諸君の前にも示してしまふ――この憂ひを含んだ表情は……」
 と私が執達吏に弁解しかけると、番が廻つてゐる私が珍らしくも調子に乗つて歌をうたひ出したのか! と早合点して、一勢に腰掛の樽を叩いて拍子をとり、声をそろへて、
「恋に焦れて悶ふるやうな――恋に焦れて悶ふるやうな――」
 と合唱し、
「やあ、聴かう/\、町から村へ流れ込んで来た俺達の親愛なる吟遊詩人ジヤグラアの旅物語を聴かうぢやないか。俺達の腹がルウテル博士のそれのやうに、ぽんぽこぽんにふくれあがるまで歌つて歌つて歌いぬいて呉れい。」
 と八方から所望追求の矢を浴せた。
(親しい者同志の間に於ては、そこに特別な言葉が生じたり特異な習慣が出来たりする現象を吾々は屡々見うけるが、こゝの酒場の常連の間では、何んな会話を取り交す場合にも彼等は、相手の顔を直接眺めることなしに、舞台の上に立つてゐる唱歌者の通りに、いち/\立ちあがつて、ジエスチユアと一処に、会話を歌で交すのが習慣になつてゐた。私だけにはそれが何うしても未だ真似られなかつたのであるが、今が今私は、あの凱旋の光景を思ひ出して有頂天になつてゐたために、「この私の――憂ひを含んだ表情は――」と説明しようとすると、思はず翼でもあるものゝやうにスラスラと爪先立つて酒場の真中に進み出ると、彼等がる通りな格恰で節をつけて発声したのであつたから、彼等が早合点してお世辞のために悦び迎へたのは当然なのである。)


「あのテテツクスの愚かな伝説は――」と私は歌ふが如く語り出した。調子をつけて語りさへすれば、彼等はあたり前の顔をして聴くのである。真面目に普段の会話法で語ると彼等は、恰も日常の吾々が若し、相手が物を言ふのにいろ/\節をつけて歌つたりすれば、歯を浮かせ、ゾツとして耳を塞ぐに違ひないと同様に、反対に気恥しくつて聴いてはゐられない、止めて呉れ! と云つて横を向く習慣に陥つてゐた。
 彼等は風のやうな拍手を浴せ、せきとして私の発声を待つた。――なるほど、慣れたらこれに限るだらう――不図私は、そう思つた。生来私は会話下手で、誰と話すにも第一に相手ばかりを遠慮して思ふことも易々とは云へないたちで憂鬱を覚へるが、これに慣れたら、中空の一方を見詰めて悠々と独白すれば済むわけだから、憚りなしに己れの所存を伝へられ、且つ愉快に違ひなからう――私は堂々と脚をふまへ、ガウンの裾をぴんと肩にはねあげた。
「テテツクスの話は――遠くエヂプト文明の啓蒙期に遡り、Khufu と称ばれる王様の、華麗絢爛の時代にその源を発します。」
 私は重々しい韻律を含めて、ゆるやかに両腕を拡げながら不思議な声色で唸り出した。――「Khufu 王様は五つの遊星を発見し、科学、天文、測量術を完成し、更にまた神秘この上なき星占術を発明したほどの、比類稀なる大天文学者であることは知らるる通りですが、この王様ですらテテツクスの伝説をいやが上にも尊敬して、夕べの礼拝堂の神体を黄金の蝉をもつて象り、星占の塔に昇る前の一刻を、この像の脚下にひれ伏して彼女の御機嫌を窺つたと云はれます。」
 私はそこで、水を呑まずには居られなかつた。私の発声を待ち遠しがつて、並居る聴衆は合唱の声を挙げた。
「ちぎれ/\に雲まよふ、夕べの空に星ひとつ、光りはいまだ浅けれど、想ひ深しや空の海、あゝカルデイアの牧人が、なれを見しより四千年、光りは永久に若くして、世はかくまでに老ひしかな! ――おゝ、この歌の時代の話だな、世界にこれ以上の古さはないといふ大昔のことだな。」
「さうだ、そんな大昔から今代に至つてまでも今尚ほ信じられてゐる不思議な伝説です。蝉は、オリンパスのアポロとミユーズが地上の人間の行状を見聞さすべくつかはした吾々の監視者であるといふのです。彼女は吾々の生活を細大洩らさず見物してオリムパスの山へ報告します。吾々が聴く彼女の歌は彼女がアポロに告げる準備の歌ださうです。だから王様をはぢめ、道徳家も、盗人も、無頼漢も、カルデヤの牧人が見出した夕べの星が輝きむる時刻となると一勢に地にひれ伏して、彼女とミユーズの対面の光景、彼女に依つて告げられるところの己れの姿を想像して、戦き、怖れ、感謝して、永遠の幸福を祈りました。……この迷信がギリシヤに渡ると、ホーマーもソクラテスもプラトンも、アナクレオンも、そしてアリストテレイスも、夫々の立場に従つて或ひはこれを詩にうたひ、その神性を講義して合掌し、或ひは実有科学論に依つて証明し――といふ風に様々な人々に依つて歌はれ、研究され、崇拝せられて、終ひには悲劇の素材とされて、運命論者の独白となり、ある喜劇の中では、星占博士と物理博士とがテテツクス論で火花を散らし五十年の間争ひ続けた儘、最後を遂げることになつたり、また幻の如く忽ち来ては忽ち去つて行くテテツクスよ、露より他に吸はぬといふならば、私はお前に何を与へたら好からうか、決して私は拒みはせぬからお前の欲しいものは何でも彼でも私の胸の倉から自由に持つて行つてお呉れよ、この世の上で相見る間は何んなにか短かゝらうとも、お前の歌はフエニキアの海賊が発見した東天の星と同じく決して私の眼の先からは消えはせぬ、そして私はお前がアポロに告げる私の歌が、幸ひに富むことを祈つて止まぬ――ところ/″\に斯んな風な極めて感傷的な合唱章をさしはさんだ百スタンザから成るほどの長い/\俗歌が一度びアテナイの一哀歌詩人エレヂストに依つて歌はれると、見る間に怖ろしい伝波の翼に乗つて、北はテツサリイを越へて大陸へ、またはイオニアの海を渡つてローマ帝国へ、黒海を胯いで東方諸国へ――忽ちのうちに津々浦々までもひろまりました。
 遠く Khufu 王の御代に源を発し、五千年の歳月の空を飛んで或夜私は、テテツクスの夢を見ました。オリムパスの山を目がけて、まつしぐらに飛んでゐる一尾の蝉であります。耳を澄ますと彼女の翅ばたきの音が言葉になつて聞えるのです。
(若しもあの男が自分でつくつた歌を自分で歌ふことが出来たならば、あの男が犯してゐる凡ゆる罪を許してやるのだがな……)
 諸君一体私は何んな罪を犯してゐるのでせう、……」
 この辺まで歌つて来ると私の目の前は、にわかにぐる/\と回転し出して危く昏倒しさうになりました。――「で、私のあの折々の憂ひを含んだ表情は……自ら犯したと云はるゝが知る由もない罪を探つてゐるのではない……間もなく訪れるであらう、テテツクスの季節が案ぜられるのだ……」
 私の声色は激流に乗り出して、次第に当り前の演説口調になりかゝつた。すると連中は涌き出して、「恋に焦れて――」を合唱して私を抹殺した。その時誰かゞ立ちあがつて私を指差し、
「君は、さつきからあのエヂプトの大王の名を、フツフ、フツフ! と称んでゐたがそいつは大きな間違ひだよ。そんな笑ひ声見たいな王様の名前があつて堪るものか。」
「ギゼーのピラミツドのうちで現在一番大きいのはフツフ王のそれだ。フツフ王の彰徳記念碑オベリスクは五千年の風雨に曝されても、今尚厳としてエヂプトの空にそびへてゐるのを知らないか、酒樽奴!」
 と私は向ツ肚を立てゝ奴鳴つた。「Khufu のKはサイレントになるにきまつてゐらア!」
「間抜野郎!」
 と相手も鋭く怒鳴つた。この男は、私がさつきから時々調子をはづして、思はず演説口調に走つてしまふ度に、堪らない/\! と一番鋭く疳癪の舌を鳴してゐた無頼漢であつた。私にしても、さつきからその男の最も露骨な舌打ちに、更に疳癪を感じてゐたところだつたのだ。「Kがサイレントだつて! 笑はせやがらア。中学校の歴史の教科書でも見直して来やがれ、クツフと発音するにきまつてゐるよ。」
「手前の中学時代の教科書に何んなフリ仮名がついてゐたかは知らないが、俺の斯んなにも厚い、大きな――」と私は手真似して「コリンスといふヒストリアン・デイクシヨナリイには、ちやあんとKがサイレントになつてゐるんだア。」とほき出すと一処に物凄い憎々にく/\顔をニユツと相手の鼻先に突き出した。
「何でえ!」
 と相手が殺気立つて拳固を突き出したから私も、
「何でえ!」
 と応酬して拳固を突き出した。


「当分の間僕は酒場通ひは止めることにしたよ。」
「でも、家にゐても何にも遊び道具がなくなつてしまつてお気の毒だわね。あなたの大事なホルン(ラツパ)までもとられてしまつて!」
「大事な――なんてことはないさ。何も要りはしない。何にも無ければ無いで、斯うして俺は何時までゞもお前と話をしてゐる、それだけで万上の満足だ……それからそれへ限りもない夢が綺麗に伸びて行く……その夢を歌にしてお前に聞かせてやることが出来るなら何んなに悦ばしいことだらう――と、不足と云へばそれ位ひのものさ。」
「まア、お上手なお口だこと!」
 妻は娘のやうに顔を赤くして、信頼する者の胸に凭り掛つた。私はあの晩の激昂の疲労で三日の間寝室に閉ぢ籠つた後、初めて土を踏み、裏の蜜柑畑の丘に来て、スロウプの草の上に坐つたのである。そして一枚のガウンを二人の肩に掛け、四方山の話を交しながら長閑な村の景色を眺めてゐるうちに、いつか向方の森の上に星が現れ、村里には点々と灯火が光り出したけれど、未だ立ちあがることも忘れてゐた。――(何うしても私は彼の名前を堂忘れしてしまつて思ひ出せないので、皆なが云つてゐる通りに此処にも彼の代名詞を無頼漢と誌したが――彼は、あの翌朝私が酒場に脱ぎ棄てゝ来たといふガウンを、恭々しく届けて来たりして、
「帰つて字引を験べたところ、貴方の仰言る通り案の条Kはサイレントでしたよ。」
「やあ、さうなると何うも返つて私は失礼しちやつたな、ほんとうを云ふと私だつてあの時、あれ程の確信があつたわけぢやなかつたんですが、つい、その言葉の勢ひで……」
「私もその通りでしたよ。こいつは何うも一杯飲み損つたわい。喧嘩を売つて、他人に酒を買はせることをなりはいにしてゐる村一番の無頼漢も、これぢや何うも商買あがつたり……」
「私も歌が自由に歌へるまでは、アウエルバツハには当分行くまいかと思つてゐる。」
 斯んなやうなことを例の特別の声色で、歌ふやうに取り交して別れた。)
「僕は村長に進呈するつもりで置いて来たのだつたが……」
「何うしてそんなつまらぬ真似をしたの、これがなくなつたら貴方は風邪を引くにきまつてゐるぢやないの。」
「欲しいのだが、呉れろ! と云ふのは厭だ、君が若し棄てたら僕が拾はうと思つてゐるんだ――そんなことを村長が時々云ふことを思ひ出したので――」
「妙な村長ね。」
「僕が風邪を引かないためには、この代りにマイワイをやらうといふのさ。」
「マイワイつて何?」
「大漁の時に漁師に配られる――それ、あの裾に色彩りの綺麗な七福神の踊りなどが染め出してある丹前風の上着さ、例のハツピーコートさ。」
「去年のクリスマスにミセス・フロラに贈つた、あれ! 仮装舞踏会で注目の的になつたと喜んで、それを着た写真を寄したあれでせう、あれなら、あたしも欲しいな。あたしは仮装ぢやなくつて実用に使ふわよ。村なら平気だわね。それにどうせ今年だつて春の外套なんて買へないだらうからな。」
 妻と私は、私のガウンのことから斯んな話に移つたこともあつた。
「夕暮時になると、未だ仲々薄ら寒いわね。」
「おゝ、可愛想に――さあ/\、もつと肩をぴつたりと此方に寄せて、すつかりこれにくるまらなければいけないよ。」
「さう/\、フロラで思ひ出したけれど五六年も前のクリスマスにフロラから貰つたハンドオルガンが、引つ越しの時古本の戸棚にあつたのであたしそつと持つて来たのよ。だつて、何んな原始生活だつて、一つ位ひの楽器がなかつたらクサるだらうと心配して……。でね、この間蛇腹にあいてゐる穴を一日掛りでつくろつて見たら、相当弾けないこともないわよ。其処のテントにあるわよ。」
「ぢや俺が持出して来よう。」
 蜜柑畑の近くに私達は一張のテントを掛けて置いて、今度の村の区切りも何もない住家の別間に使つたりしてゐたのである。
「お前弾いて呉れ。」
 妻は近頃Hに依つて覚へた「伊達男」と「誰かゞ私を待つてゐる」などゝいふ甘い甘い哀調を含んだ小唄を交互に繰り返して私の機嫌をとつた。街の市場から帰つて来る空の野菜車や野良帰りの老若達が、街道から此方を見あげて帽子を振つたりした。思はず立止つて稍暫し妙なる音楽に聴き惚れて行く者もあつた。中には、此方が一息衝くと、「恋に焦れて悶ふるやうな……」などゝひやかしながら行き過ぎて行く者もあつた。また誰かゞ私を待つてゐる、早く帰つて誰かと一処に踊るんだ、誰かの名前を知つてゐるか――などゝ思はせ振りなことを歌ひながら鍬をかついでさつさと行き過ぎて行く若者もあつた。――白い道を転げて行く眠たげな轍の音が聞える。ぽか/\と鳴る駄馬の蹄の音が調子好い、水嵩を増してゐる向方の小川で回つてゐる水車の音も聞える。水車のしぶきが薄暗がりの中に、白く鮮やかに蝶々のやうに見へる。そして、それらの動くものゝ姿が刻々と低い霞みに溶け、恰も草原から草原へ移つて行く長いキヤラバンが村を見出して急いでゐるかのやうでその廻り灯籠の人物見たいな様々なシルエツトが手を振つたり鞭をあげたり、歓呼の声をあげたり、しながら灯が点きはぢめた村里をさして歩いて行くのであつた。馬車も行く、牛車も行く、牛乳車も行く、――と、その道を逆に進んで来る一頭の馬の姿を私は辛うじて認めた。――乗手は丘の上の私達の姿を認めると、
「大急ぎで降りて来て呉れ、一大事だ。H君とR君が、しやにむに決闘だと力んで河原へ出かける所だ。その介添は君でなければ務まらない。有無なく君は行かなければならないんだ。」と叫び、更に、もう疎らになつて参々伍々帰路を急いでゐる列に向つて「市場帰りの馬車を一台貸して呉れ!」などと騒いだ。
 HとRは私と共に住んでゐる大学生であるが、常々思想上の差異から反目してゐる仲だつた。反目者が共和生活を保つてゐるといふのは不思議であるが、二人の間に介在する私が何方どちらの思想にも点頭くといふやうなお調子者であつたから、私さへ居れば三角的の平和が辛うじて保たれてゐるのであつた。たゞ稍ともすれば、一方の者から其処に居ない方の者に就いての攻撃論を聴かされるのが幾分私は苦手であつたが(私は、そんな場合に思はず相手の云ふなりになつて、興奮をさせられてしまふのが癖だつた。)私は、種別の如何を問はず「人の情熱」を尊重する質であり、稀に見る一途の情熱に恵まれてゐる彼等を同程度に烈しく敬つてゐたし、また、二人は私の小屋に起居しなければ野宿をしなければならぬ立場にある最も貧しい芸術家であつた。私は、彼等に就いては、その思想と情熱とそしてその顔かたち以外に関しては、何んな経歴も知らなかつた。面倒だから、たゞ大学生と称んでゐたが、実際では何処の大学の卒業生であるか、または在籍者であるかも知らなかつた。そればかりでなくHは鉄砲にRは釣に得意であつたから、今では若し彼等が出奔したならば反つて私の方がたぢろぐかも知れなかつたのである。魚と鳥が私達の主食物であつた。
 私は片方に妻を抱き、野菜馬車の手綱をとつた。報告者は、ドリアンに乗つた水車小屋の大将であつた。
「それツ、速く/\!」
 と、せきたてる大将に引かれた私は吾を忘れて、馬の頭上にヒユウ/\と鞭を鳴した。馬車は鉄輪かなわであつたから凄まぢい地響きを挙げてまつしぐらに狂奔した。
「しつかりとつかまつておいでよ、振り飛ばされないやうに……」
 おそらく、阿修羅の形想であつたに違ひない私は死物狂ひで叫んだ――「あの平和とこの混乱! だが妻よ、円舞曲の幻の後に続く狂騒章だ――と想像して、楽の音の嵐だけを聴いておいでよ。決して恐れのために身を震はせてはいけないよ。」
 と私は震へ声を振りしぼり、戦車のやうなスピードを出した。もう街道には一人の人の姿もなく、行手は白く、月の光りで明るかつた。

          *

 その決闘の原因を叙述する代りに次の一文を挿入する。

          *

     (アウエルバツハの歌)

 私は日頃小説の創作に専念この身を委ねて居る者でございますが、歌をつくつた経験はありません。経験はありませんが、歌をつくりたいといふ念願は、いや念願といふよりも、時に応じて影のやうに私の脳裏をかすめる悲しみや悦び、または自分がこの世で出遇つたところの悲しい事件や滑稽な苦悶やその他一切のことごとを叙するにあたつて、歌で云ひ開くことが出来たならば何んなにか悔なく、またその日/\を面白く暮せることだらう――と思ふ心の切なる煙りが胸の底に蟠つてゐるのでございます。で私は酒に酔ふと稍ともすれば声を挙げて、大昔の酒神みき頌歌者や哀歌詩人に依つて詠まれた愉快な歌を口にして、余も亦彼等の如く一切の生命を酒と竪琴楽に托して、夢も現もなべて明るく歌ひ暮したいものであるが――などゝいふ嘆息を洩らすのであります。そして私は村の居酒屋の卓子テーブルに凭つて毎夜/\、哲学者と間違へられたことがあつたのも当然な重くすわつた眼つきをして、一方を見れば一方ばかりを何時までも凝つと眺めてゐるといふ、あの蛙のやうな習慣さへついてしまつたのでありました。
「そんなにそのランプが気に入つたのならさし上げますわ、お帰りにあたしがお供して――」と酒場の娘が心配したこともあります。お帰りの時は何時も操り人形のやうな格構になつてしまふから到底壊れやすいランプなどをブラさげて歩くわけにはゆかないからです。――「持つて行きますわ、どうせ提灯をつけてお送りするんですもの。」
 私は勿論ランプが気に入つて眺めてゐたわけではないのですが、断はるのも失礼だらうと気づいて、にわかに気分を変へ、
「僕の大好きなルルさん――」
 と云つて娘の手を執り、
「有りがたう。このランプが僕の部屋にともつたら何んなにか嬉しいことだらう。」と答へてしまひました。で娘も悦んで早速そのランプを私の部屋の天井に吊して呉れ、
「このランプが点いてゐる時は、あなたがあなたのお部屋で、あたしのことを考へてゐて下さる時――といふことのしるしとして、此処から、あなたに戴いた眼鏡で眺め――あたしは、あなたのためにお祈りすることにしますわ。」
 と云ひました。すると、その時私は、斯んな素晴らしい綺麗な言葉を私のために決して婦人から聞いたためしのない私は、日頃物語のみで読み魂をあげて切望してゐるお姫様の前に心臓をさゝげる幸福な騎士になつてしまつた私は、嬉しさのあまりにわかに胸がふくらみ唇を激しく震はせながら、
「おゝ、このランプは、この先、凡ての夜を、凡ての夜を徹して、この幸福な部屋に点り続けることであらう。」と苦しさうに唸りました。
 が、次の晩になると私は、私自身を居酒屋の卓子テーブルに妻と一処に見出し、そして丘の中腹にある私の部屋を振り返ると、何んなに木蔭をすかして見ても、そこは真ツ暗で――私は妻が、蓄音機の音楽に合せて水車小屋の若者と手に手をとつて踊り回つてゐる光景を、ぼんやり眺め続けてゐます。
 次の晩は、二人の大学生が、ギリシヤの喜劇役者の語源に就いて火花を散らしてゐるのを聞いてゐます。Aは KOMOIDOS なる喜劇役者といふ言葉は KATA-KOMAS なる即ち「村から村へ流れ渡る」の意から転じて KOMOIDOS といふ言葉が出来たのだ――と主張し、Bは「飲んでは騒ぎ、騒いでは飲む」の意の KOMAZEIN が転化して、あの言葉が生じたのだ――と論及し互ひに一歩も譲り合ひません。あはや、つかみ合ひが生じさうになりさうな勢ひです。――私は、二人の激論家の表情を彫刻家がモデルを眺めてゞもゐるかのやうに見てゐます。
「海辺へ出て決闘をしよう。」
「その気の毒な言葉が云ひ出されるのを俺は待つてゐた。よしツ――。ルルさん、水を一杯持つて来て呉れ――」
 二人の大学生は同時に立ちあがつて、鼻と鼻とを突き合せ眼眦まなじりを裂きました。そして二人は同時に私を指差し、「あなたの書斎の壁に懸つてゐる二つのフエンシング・スオウルドが僕等の主張に黒白をつけて呉れるでせう。命をかけて、僕達はこれを云ひ張る――さあ、あなたも一処に行つて……」
 と命令しました。
 この始終を傍見してゐた村長は、いよ/\見るに見兼ねて私に云ふのでした。
「マキノ君、この審きは君自身がつけるべきが当然ぢやなからうかね。あの二人は君の友達であるばかりでなく、そも/\彼等に酒を強ひ、ギリシヤの悲劇、喜劇の出生論(怪し気な――)を説いて、彼等の思想を迷はしたのは君ぢやないか。それを君、この場合に当つて、決して君が君の意見を吐かないことは怖ろしい悪徳だよ。今更君がプラトンを主張するんなら何故君は始めから悲劇、喜劇の差別を否定した後に――詩人顔をしなかつたのだ?」
「村長、待つて下さい、僕は、その……」
 と私は弁明しようとするのですが、ガタガタと鳴るあごばたきが起つて、どうしても言葉が出ないのです。尤も頤ばたきが起らなくても、弁明の言葉など見つかる筈はなかつたのですが……。が、私も男だ、こんなこと位ひで震へてしまつて何うなることだ、この恥は忍び得ぬ――と力を込めて、神を念じ、二つの主張の一方に明白な裁断をくださうと、眼をつむりましたが、以何にしても「村から村へ」が事実か? 「飲んで騒いで」が正統なのか? 決して判断がつかないのであります。――そして私は、せめて、この醜い頤ばたきをごまかしたいと思ひながら、日頃、生真面目なことを云はなければならないときとなると稍ともすれば口に吃音の生じる癖のあることは皆に知られてゐるから――さうだ! といふ程の逃げ腰で、
「僕にも水を一杯呉れ、ルルさん!」
 と云はうとすると、それが、真の吃音になつて、容易に、それすら云ひ終ることが出来ません。
「水? 水! 水――」
「知りませんよ。あなたのやうな大嘘つきの意久地なしなんて――に、水一杯の御用でも御免蒙るわ。」
「妻はゐないか? 妻、妻、水を……」
「あなたは、昨べ、あたしとランプの話をした時のことを寝言に喋舌つて、それを奥さんが聞いて、大変おこつてゐたわよ、お気の毒だわね。今夜帰つたら何んな酷い目に遇せてやらう――とさつき奥さんは、拳固を固めて、そして水車小屋へ遊びに行つてしまつたわよ。」
 その傍から、また村長が、決闘の仲裁を私に詰ります。――私は何も彼も解らなくなつてしまひ、
「それぢや一体俺は誰と決闘したら好いんだい、ワーツ!」と叫んで、酒注台に薔薇のさゝつてゐたジヨツキをとりあげ、花を投げ棄てゝ、その水をあふりました。

          *

 斯のやうに私は、その生活を歌のために踏みにぢられ、悲惨な目に遇ひながらも飽かずに往古の哀歌詩人エレヂストの上を想ひ、羨んでゐたところが、近く私は、村長の頼みに依つて、登場歌パロドス――合唱歌スタシモン――哀悼歌コモス――の三部より成る酒神頌歌を創ることになつたのであります。
 で私は、その構想に寧日なき有様です。この歌が出来たあかつきには、この居酒屋の常連は毎夜これを歌ひ、大方の論争も悲劇も喜劇もなくなるであらう――といふ村長の心遣ひから出たのです。私は、私の歌があの酒場で皆々に歌はれる時が来たら何んなに悦しいことだらう――と思ふと総身に不思議な胴震ひを覚へ、愉しさのあまり烈しい頤ばたきさへ起るのであります。
 それで、この頃では何んなに私が、ぼんやりと、ランプを眺めようとも、論争に口出しをしなからうと、昨日の約束を忘れて白い顔をしてゐようとも、どんな寝言を吐かうとも、誰も抗議を出す者もなく、皆々はそつと私の思案顔をそのまゝにして、歌の出来る日を待つてゐる――といふことになつてゐるのです。
 私は、今此処に誌した程度の話を――三脚韻律をもつた十五行の登場歌に縮めて、歌ひ現さうと努めてゐます。
「アウエルバツハの歌」と題する私の処女作歌を発表することが出来れば幸福です。
以上。
     私達が勝手に名づけた村の居酒屋アウエルバツハの酒樽に凭つて誌す
一九三〇年四月九日
 が、未だ一聯の歌も私の頭に浮んで来なかつたのである。そのうちに様々な生活上の事態は水車の勢ひをもつて悪化に向つて回転し、就中 KOMOIDOS 論の二人の学生は激情に激情を加へた上句、遂に斯んな騒ぎを巻き起して、平和な村の、黄昏時の夢を破るに至つたのである。


 やア/\、俺は何れの説に対しても断然たる否定の楯を振り翳して立ち現れたテテツクスの近衛兵だ、馬鹿、その眼を向けて俺のコモイダスの楯に注げ! Rの剣が折れるか、Hの KOMAZEIN が俺の剣に巻き落しを喰らはせて空中高くはね飛せるものか――。
「さあ来い/\、二人の気の毒な闘剣者グラジエーターよ、相手は此方だ。俺のコモイダスの剣の先が、何とまあヒラ/\と、月の光りを飛び散らして、河面かはせに踊る初夏の鮎のやうに、または森蔭に飛び交ふ狐火のやうに、間抜けな/\、お前達をモツケ(闘剣術に使はるゝ、「嘲り」の型也)してゐるのが解らないか。」
 と、私は、決闘場に馬車が到着するやいなや、二人の闘剣者を左右に割つて、大声を挙げて叱咤した。
 すると私は、四囲の参観者が急にゲラゲラと腹を抱へて笑ひ出したのに気附いた。(これは後になつて説明されて解つたのであるが、私はそれだけの文句を口走るのに、恰も物覚えの悪い役者が、夢中になつて己れの科白を思ひ出さうと努めながら、うろたへてゞもゐるかのやうに、口ごもり/\、眼ばかり白黒させてゐる姿が、まことに悲惨であり、また漸く口にのぼせた文句だけはあのやうにぱし偉さうな美辞麗句に富んでゐる見たいであるが、それを吐き出す様子の切な気に見ゆると云つたらない! 躓いたり、途切れたり、次の文句を考へるために中途で何時までも凝ツと眼を瞑つて首をひねつたり、漸く言葉をつかまへて発音にとりかゝると、はたし合ひの場合に於ける騎士の声が臆病者の悲鳴のやうにうわずつた震へ声が出て、思はず自分で吃驚びつくりして、改めて重々しく唸り直したりする程のしどろもどろの態たらくに接して、見物人は、ハツハツハ! まるで、仁王門の甚太郎さんのやうだ! と囁き合つて、噴き出したといふことであつた。――仁王門の甚太郎といふのは、大変に熱心なアマチユアの義太夫フアンであつて、彼が一たびその練習に取りかゝつたとなると、自分自身が友と打ち伴れて田甫道を歩いてゐることも、また野良に出て畑を耕してゐることも何も彼も打ち忘れて、物凄い表情と身振りに酔ひ、日の暮れるのも知らぬといふほどの云はば、最も忠実なるテテツクスの下僕の一員であつた。鎮守の森の入口にある仁王門の傍らに彼の住居があるために、姓の代りに仁王門の――と称び慣らされてゐたが、あまり深く義太夫に凝り過ぎた彼の形相は、普段でも、大きく丸く凝つと眺めてゐるものゝその眼に写る物象は、この世のものではなしに、遠く無何有の花やかな影であり、だから彼は飛んでもない時に突然物凄い怒り顔をしたり、カツと口を四角に開いたりする、そして、そのまゝの顔つきで、ぼんやり畑の中に立ち尽してゐたりする事が屡々だつたので、あれは仁王門の傍らに先祖代々住み慣れたもので仁王の真似がしたくなり、仁王のやうな眼つきになつたのか? お目出たい! といふべきか、お気の毒といふべきか! などゝ、はぢめは村の者達に何となく有難がられるかの如き因果の眼で尊重されてゐたが、漸く、近頃になつてたゞの義太夫フアンであつたといふことが解り、村人の眼は憐れみと軽侮に変つてゐるかのやうであつた。その上、そんなに熱心であるにも係はらず彼の芸の拙さと云つたらおそらく稀大なもので、万一彼が批露会でも開いて招かれでもしたら何うしよう――などゝいふ噂さへあつた。何故なら彼は、豊かではなかつたが同情心に富んでゐて、遊蕩児にも貧困者にも一様に人気があつたが、たゞ一つ困つたことには、自分のこんな芸のことだけに就いては、非常に神経質で、若し招待を辞退でもしたら、おそらく不気嫌の色を露骨に現し、敵意さへ抱き兼ねぬ性質があつたからである。)
 私の声色を聞いて村人達は思はず笑ひ声を挙げたが、次の悲壮な場面に接して、水を打つたやうに寂とした。
 二人の闘剣者は、私の声に気づくとにわかに心持にたるみが生じたかのやうに、そして亢奮の絶頂から脚を踏み滑らせて、転落する滝のやうに激情の花弁を飛び散らせて、諸共にワツと泣き出すと同時に、手にした剣を投げ棄て、私の胸に飛びかゝつた。
「村から村へ駈け廻らう―― KATA-KOMAS の剣を捨てゝ……」
「飲んで騒いで――アウエルバツハで夜を明さう、KOMAZEIN ……」
 この二人のうめき声に接すると私も、にわかに胸が一杯になり、楯を大きな翼にして二人の者をしつかりと抱き寄せて、
「飲んで騒いで、飲み明して――明方を待つ間もなく俺達はこの村を出発してしまはうではないか。おゝ、よし/\、俺が悪いのだ、何も彼も俺が悪いのだ、勘忍してくれ/\!」
 と咽び入つてしまつた。――この楯の表面には「コモイダスの心を知る者あらば共に飲まん、共々に打ち伴れて吾等の旅を続けん。」といふ意味のギリシヤ文字が誌してあつた。この楯は、つい先頃村の酒場で、バツカスの灌奠祭を行ふた時の余興の仮装舞踏会に、私達三人はスパルタの兵士に身をやつして出場したのであつたが、紋章の代りに私が花文字をもつて書き誌したボール紙の楯であつた。
「何でえ、人騒がせをしやがつて、そんなことでお終ひか、戯談じようだんぢやない。」
「あの不良青年共は、あんな騒ぎをして俺達の眼をごまかして、逐電でもしてしまはうといふ魂胆だつたのかも知れないぞ。」
「今夜は何処の家でも、厩の扉には番犬を繋ぎ、其処の河舟には鎖を繋いだ上で、眠ると仕様ぜ。」
「あの楯に誌してある文句は、何でも、俺達と一処に飲まう、飲んで騒いでゐるうちにはやがて歌も歌へるやうになるだらう――とかといふ意味ださうだが、あいつ等は何時まで経つても歌一つ歌へさうもないのにヤケツ腹になつて、倒々同志打ちが始まつてしまつたさうなんだつてさ……」
「同志打ちなら同志打ちで、何とか綺麗な景色を見せて呉れるかと思つて来て見れば……」
 村人は口々に斯んな憎態な棄科白を残して、立ち去つて行くのであつたが私達は、返答の一つの言葉も忘れて一つの楯の下に気を失つたまゝであつた。
 それから暫く経つて私は、居酒屋の娘と妻に両方から腕を執られて立ちあがつた。そして娘と妻の両端には剣を杖に擬した二人の学生が辛うじて支へられてゐた。
 二人の闘剣者は、戦ひに破れて息も絶え/″\になつて故郷に立ち帰つた兵士のやうに二人の可弱い女に助けられながらよたよたと田甫道を引きあげてゐた。
「御覧なさいよ、綺麗ぢやありませんか、麦畑の上にあんなに蛍が飛んでゐるわ!」
「ちよつと振り返つて見ないこと、満月だわ、山の真上に懸つてゐる! もう大分夜も更けてゐることだらうが、何だかさつぱり寂しくはないね。」
「振り返るのも苦しいの? ぢや、この眼の前の五人の並んだ影を見て御覧な、随分長い影だわね、そら/\脚がスイ/\と斯んなに長い、誰かちよいと手を挙げて御覧よ、河向ふまでとゞきさうぢやないの!」
「HさんRさん、ちよつと、その剣を上に挙げて御覧なさいよ、何んなに長く、その影が伸びて行つて何処までとゞくか験して御覧なさいよ。」
 二人の婦人は、それからそれへ慰めの、いとも懇ろな言葉をおくるのであつたが、傷ついた兵士等は深く首垂れたまゝ、たゞ点頭くばかりであつた。
「もう鎮守様の近くよ、彼処まで行くと、居酒屋うちの灯が見へるわよ。彼処まで行つて、若し三人が歩けなくなれば、彼処からならあたしがお父さん! と大きな声で呼びさへすれば、父さんが馬車を持つて迎へに来て呉れるから大丈夫ですわ。」
「妙さん、重いでせう。若し、もう苦しかつたら三人を此処に置いといて、走つて行つて、お酒を持つて来て飲ませてやりませうよ。さうすれば三人共直ぐに勢ひがつくわ。」
あたしは平気ですわ、それより奥さんこそ……」
「あたしだつて平気よ。もつと速く歩いたつて大丈夫よ、うちの人だつて、Hさんだつて、とても軽いんですもの……」
「Rさんも軽いわよ、御覧なさい、大方妾におぶさつてゐるぢやありませんか。」
「父さん、大丈夫起きてゐる?」
「だつて、父さんだけが今晩も甚太郎さんの相手なのよ。甚太郎さんの義太夫会がいよ/\眼近かに迫つて、今夜から、妾の家で彼の人は、その練習なんだけれど……」
「まあ!」
「ほんとうなら、さつきだつて、これ位ひのことで村の人だつてあんなに騒いで見物になんて来るわけはないんですけれど、まご/\してゐると甚太郎さんにつかまるので、それで此方の騒ぎを好いことにしてドツとおし寄せて来たんですよ。」
「ぢや早く帰つてやらなければ、父さんにも気の毒だわね。」
「えゝ――だから、妾、仁王門の処まで行きついたら、父さんを呼ぶわよ。――憎らしいわ、妾、あの下手の横好きの――仁王眼玉の甚太郎!」
「仁王門の前で、呼ぶのは愉快だわね、あたしも一処に声を張り挙げるわ。」
「昼間妾が仁王門の前を通つたら、あの甚太郎が自分のおさらひの会の立看板か何かを仰山に担いで来て、門の傍らに立てゝゐましたよ。憎らしいから、破いてやりませうか。」
「えゝ、破いてやりませう。」
「馬鹿な真似をするなよ。」
 と私は漸く呟いだ。「俺は悦んで聴きに行く。今夜も、これから聴かせて貰ふ、酔つ払ひ共の悪騒ぎのない晩に、沁々と甚太郎の喉を聴いて……得難い思ひを囚へてやる。」
「五人の者が斯んなに一列に腕を組んで――」
 また私に奇体な亢奮でもされては困るとでも思つたらしく、娘だか妻だか私には解らなかつたが慌てゝ言葉を改めた。――「斯うして歩いてゐると、道が斯んなに青白く平らで、まるで、腕を組んで氷滑りでもしてゐる見たいぢやありませんか。ホツホツホ……面白い/\! さあ、ラ・マンチア紳士も、ソフオクレスのお弟子さんも、そしてプラトン学校の落第生も、元気をつけて一と思ひに仁王門の前まで、氷滑りをして御覧なさいよ。」
「さうだ/\、皆なで一処に歌でも歌ひながら――氷滑りでいけなかつたら、ナンシー・リーで波の上としませう、それともカルデアの牧人で、雲の上でもかまはないな。――こんなにふわふわとした月の光りが一杯の明るい白い道なら、波でも雲でも自由に想像出来るぢやないの! 雲の上を踏んで、飛んで行かう、飛んで行かう。」
 などゝせき立てたが応じられる男は一人もなかつた。でも、その言葉に伴れられて怪し気な眼を視開いて見ると、行手の月光を浴びた白い道も、波のやうな麦畑も、薄黒い鎮守の森も――ただ漠々たる三態の雲に見へ、私達はペガウサスに打ち胯がり、トアパイロンの虚空を衝いて、一路オリムパスのアポロの許へ突進してゐる夢心地に襲はれた。
「さう/\、雲の上といふギリシヤ語をあなたは此頃覚へたと云つてゐましたね。これで俺は五つのギリシヤ単語を覚へた――と。テテツクス・蝉、コモイダス・喜劇役者、カタ・コマス、村から村へ……か、コマゼイン――飲んで騒ぐ……でしたね、それから雲の上――パアパア……何でしたかしら?」
「五つばかりぢやない、もう三百以上も覚へてゐる。」
「ほう、いつの間にか――偉いわね、その勢ひだつたら、今年一年もかゝつたら原文で本が読めるようになり、ギリシヤ語で詩が書けるようにもなれるでせうよ、偉いなあ!」
「この分で行くと僕の言葉は、そのうちに日常会話までが古代のギリシヤ語になつてしまふかも知れない……」
「どうして、それが悲しいの?」
「そんな死文字の数が増してゐる間は……それに反比例して僕の……」
「迷信だわ、そんなこと――。憶へて、それが悪いといふ筈がないわ。それで博士にでもなれゝば、こんな嬉しいことはないわ、あたし……。それはさうと、雲の上――といふのは何でしたかね?」
「…………」
「教へて下さいよ。――仁王門が見へる、甚太郎の立看板も、あんなに白く、はつきりと見へるでせう――」
「どれ/\、僕にはさつぱり解らない?」
「真ツ直ぐ――向ふ……に……」
「あれがオリムパスのお宮の門かね?」
「さうよ。雲の上を踏んで、間もなく到着するところだわ。彼処まで行くと、あなた方を蘇らすに充分なネクタア(御神酒)がある……か、ハツハツハ! さあ/\、元気を出して、急げ/\――だ。ね、何うしても思ひ出せない、パアパア――何でしたかね? 雲の上――?」
「煩せえな――。パアパアネフエラスだよ。」
 私は慌てゝテレ臭くはき出すと、幾分元気を盛り返して、凝つと仁王門の前の白い看板を目あてに索めて、ふわ/\とした脚どりを速めた。





底本:「牧野信一全集第四巻」筑摩書房
   2002(平成14)年6月20日初版第1刷発行
底本の親本:「西部劇通信」春陽堂
   1930(昭和5)年11月22日発行
初出:「文藝春秋 第八巻第七号」文藝春秋社
   1930(昭和5)年7月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年1月17日作成
2016年5月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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