心象風景(続篇)

牧野信一




 岡といふ彫刻家のモデルを務めて私がそのアトリヱへ通ひ、日が延びる程の遅々たるおもむきで、その等身胸像の原型が造られてゆくありさまを緯となし、その間に巻き起る多様なる人事を経として、そしてその胸像が完成される日までを同時に本篇の完結と目指して、これには凡そ四五十枚の前篇がありますが、それはそれとして、新たに稿をすゝめます。

 大二郎と閑吉が、在らぬ話を何かと意味あり気に私とりら子に就いて、飛んだ目配せのやりとりを交はしたりするので、私はついあかくなり、と云つて、もうりら子と約束をしてしまつた以上、その来訪を待たなければならず、困り果てゝ、ふらふらしてゐると、泉水の鯉を眺めてゐた細君は、いきなりくるりと振り向くや物をも言はずぴしやりと私の頬を力一杯打つた。そして、また凝つと、白い雲が映つてゐる小さな水の上を見詰めてゐた。私は、むしろ小気味の好い痛痒を感じたが、実際の痛さよりも誇張した苦痛の表情を浮べて、
「痛いなあ!」
 と叫んだ。
 すると同時に彼女がもう一辺振り返つたので、私は仰天して跳びのき、そのまゝ裏木戸から逃げ出した。嗤ひに似た大二郎と閑吉の声をうしろに聞いた。私は、今りら子に告げた道筋を逆に駈けて行くと、街角の煙草屋の前で、灰色のボレロを着た無帽の彼女に出会つた。
「来て下すつたの、迎へに?」
「いゝえ……」
 私は慌てゝかぶりを振つたが、未だ別段に左程も親しくもない相手に、然もその人を副主人公として起されたそんな突飛な騒ぎをまさか在りのまゝに吹聴するわけにもゆかず途方に暮れてゐると、何故か彼女は突然噴き出して、
「馬と猫にからかはれたんでせう、解つたわよ、関はないから行きませうよ。」
 左う云つて私の肩に腕を載せた。私は徹底的に落着きを失つてぎよつとしてゐたが、梟といふ仇名に気づいて、胸を熱く炎し、慌てゝ、これから岡のアトリヱへ赴かなければならなかつたことを思ひ出したからといふやうな意味を告げながら反対の方角へ彼女を促した。何時もあれこれと身を持てあまして心の遣場の求められぬかのやうな切端詰つた時に、岡のモデル椅子にうづくまつてぎよろりとしてゐる自分に、凡ゆる胸のうちのエピロオグを仮托して息詰つてゐるが、今はもう一刻も速やかにあの椅子にたどり着いて往生してしまひたかつた。
「それでは妾もアトリヱへ行きますわ、見物に――」
「寒いですよ、とても。――とう/\この冬も壁が塗れずに終ひさうです。」
 私は街中を通るのをいろ/\な理由から困つてゐたので、露路づたひに、町裏を流れてゐる小川のほとりに出た。川のふちを、弓なりに迂回しながら冬枯れの裏山を指して脚速く遡つてゐた。風のない麗らかな日和だつたが、水のふちには氷が光つて、道には霜柱が深かつた。一面に狐色の枯草が蓬々と蔓つてゐるばかりの田甫に出ると見渡す限り一点の動くものゝ影だに認められなかつたが、やがて行手の眼界を水平に横切つて宙を飛ぶやうな郊外電車が現れると、あちこちから無数の鴉の群が竜巻の木の葉のやうに舞ひあがつた。あんなにたくさんの鴉が降りてゐるからにはこの跫音にも驚いて飛び立つであらうがなどと私は、田甫道を行き尽して突きあたりの馬頭観音の傍らから坂道に差しかゝるまでそれとなく注意してゐたが、一羽の雀の姿さへも見あたらなかつた。
「それで、もう何れ位ゐ出来あがりましたの、原型は――?」
 私は坂道を気遣つてりら子の腕を執つてゐたが、大二郎の眼にでも触れたらまた飛んだ噂を吹聴するだらうと気にはしたものゝ物静かに広々とした風景の中を越えて来た影響であらうか、いつか胸先からはきれぎれな不安の影は悉く鳥のやうに姿を掻き消して、歩いても/\いさゝかな戦きの羽ばたきも浮ばなかつた。
「たしか……?」
 未だ壜のやうな型ちに盛りあがつてゐるだけの「私」を私は考へながら、
「頭の格構が幾分か解る程度だつたと思ひますが、大分休んでしまつたので、また氷つてゞもしまひはしないかと心配してゐるんですが。」
 私は、あの壜型の頭に触れるやうな心地で、いつかの失敗を回想しながら片々の掌でそつと自分の後頭部を撫で降してゐた。
「まあ、未だ頭の格構だけなんですつて、随分呑気な人達ね。一体何時になつたら出来あがるんでせう!」
「わたしが悪かつたんですよ。」
「この前の時にあなたの行方が解らなくなつて、皆なが大騒ぎをしたことを御存じなの?」
「薄々は知つてゐますな。」
「冗談ぢやなかつたのよ、あの時は――。何しろ寒中のことで、一方では粘土が濡らしても/\も氷つてしまひさうだし、そちらはそちらでモデル君が何処へ雲がくれをしてしまつたのか皆目見当がつかないし、それこそ八方に手わけをして、まるで拐帯犯人を探すやうな騒ぎでしたわよ。」
「で、犯人は何処で捕縛されたんでしたかしら?」
「空呆けたりして、馬鹿々々しい!」
 私は決して呆けたわけではなく、仮に形容した彼女の言葉が、そのまゝ適中してゐたので両脚が竦んだのである。私は、その頃「月光のなかの吊籠」と題するフアンタヂツクな創作にとりかゝつてゐたのであるが、不図身のまはりに気づくと衣服は襤褸のジヤケツ一つとなり、糧食の欠乏に駆られてゐた。私は或る闇の晩に、或る縁家先の塀を乗り越えた。或る理由で、夜盗が私であるといふことが解つてゐる限りは、現行を差押へて腕力沙汰に訴へぬ限り、その縁家先では所置を施す術がなかつたので、私はその所行は私であるといふ一札を残して、首尾好く或る仕事を遂行した。
 そして今も尚ほ私のその創作の仕事は半ばにも達してゐなかつた。何もその仕事のためばかりに骨身を削つて時を費してゐるといふのではなく、糧食の輸入にいとも困難な活躍を演じなければならなかつたので、何も彼も思ふやうには捗らなかつたのだ。
「そんなことは何うでも好いぢやありませんか、済んだことですもの。あの時は、毎日毎日モデル椅子にばかり凭りかゝつて、こつこつと出来あがつてゆく自分の姿を見てゐるうちに、厭世的になつてしまつて、つい脱線したまでのことだつたんですよ。」
 何気なささうに私は言葉を反らせたが、それはそれで済んだところが、やがてはまたあの浅間しい所行を今度は何んな方法で行ふべきか、それが最早再び目睫に追つてゐるらしいのに気づいて竦然として激しく頭を振つた。そんなことゝは知らずにりら子は今更のやうに今度は私の頭をはつきりと注意して、
「いつも、やはり頭が先へ出来あがつてゆくんですかしら?」
 と何となく感心した様子で、長閑に眼を視張つてゐた。
「いえ/\、そんなことはありませんとも。」
 私はあわたゞしくもう一辺厳し気に頭を振つて、はずむ呼吸を圧へながら、
「全体が、それはもう同じ程度に少しづつの均整をとりながらすすむんですから、何も何処が先にはつきりとするわけではありませんけれど……」
 などと頗るとり済した口調で、恰でその道の専門家でゝもあるかのやうな面持で、無意に打ち消した。――だから何も頭ばかりが先に格構がつくといふわけではないので――と続けようとしたのだつたが、頭と云へば近頃また今は再び正しくも専門の夜盗としてのみの働きにだけしか動いてゐないそんな頭に思ひ及べば、たゞ斯うして「頭」といふ言葉を口にするのさへ辟易したのである。そして遇然にも斯んなことを話題にしたからには、これから今日も仕事にとりかゝつたならば、先づ彼女は原型のそれと、モデルのこれとを特に比較して見物するかも知れない? 私は自分勝手にそんなことを手酷く憂へて、それにしても困つた傍観者が現れたものだ! と恰で頭の働きを見透されて邪魔されるかのやうに弱つた。まつたく私は、モデル椅子に凭つて凝つとしてゐる間が何時でも最も禍ひ少なく冷徹に、あの頭の働きを回らし得る時間だつた。この四五日来あれこれと計画した夜盗の手段に関して、此度のモデルの仕事中に決断をつけようとさへ考へてゐたのである。
「だんだんに出来かゝつて行く自分の姿を、自分で眺めてゐるのは経験者でなければ解らない気分があるでせうね。」
「断じて抒情味のまじらない石のやうな陰気に閉されます。」
「あれはブロンズになるんですか?」
「岡君は自分の仕事に誇りを持つてゐるので、作品は凡てブロンズにします。」
「あなたに贈るんですつてね。」
「えゝ、わたしは石膏の方でも貰つて置き度かつたんですが、石膏ではとても不安で他人の手になんて任せてはおけぬさうです。それは尤もでせう。ブロンズを執つてしまへば石膏は何うならうと平気ださうです。」
 話してゐるうちに私は、自分がブロンズになつてしまふことがとても堪らぬやうな迷信に病はされてゐた。うつかり前後の考へも弁へずにモデルになつたりしてしまつたことが悔いられた。それと同時に、未だブロンズにならないうちの原型石膏が何かのはずみにでも壊れてしまへば好いがなどといふことをこの頃になつて急に希ひ出した自分を、モデルになど選んだ作家を気の毒に感じた。
「決して滅びない記念像が出来あがるわけですね。東京へ移る時には、持つて行かれるわけなんでせう。」
「岡君の芸術には深い敬意を払つてゐるんですが……」
「えツ?」
 彼女は私が頓興なことを突然口にしたものだ! と驚いたらしく聞き返した。熊笹が両側から雪崩のやうに生ひ繁つてゐる坂道を近道に選んで登り、更に降つて町端れのガードを私達は潜るところだつた。私は、敬意に値する岡の作品が、不幸にも「私の像」であるがために、ゆくゆく何んなに私の為に酷い扱ひを蒙り、稍ともすれば狂ひのやうになつて擲つたり蹴つたりするであらう、そして何んなに邪魔物扱ひにすることであらう! 私は近頃左う云ふ類ひの夢に悸やかされてゐた。けふの明け方などは、真実に斯んな夢を見た。この胸像が手もあり脚もある等身の立像になつて、私と格闘を演じた。闇の中を、私は一散に逃げてゐた。「彼」は待て/\! と叫んで追ひかけて来た。私は逃げるのも業腹だと気づいて、立ち直るや満身の力を込めた右腕で唸りをはらんだ半円を切ると奴の横面に稲妻のやうなパンチを喰はせた。するとまあ私の腕は肩の付け根からポキリと折れた。ところがさつぱり痛くもないので今度は左腕で素早く敵の頤を目がけて牛殺しのアツパーカツトを喰はすと、その腕も亦同じやうに肩から脱けて見当らぬところへ飛んでしまつた。私は慌てゝ奴の腹を蹴ると、それもバツタの脚のやうに他合もなく脱落した。私は、こいつはしくじつた、とうとう傘の化物になつてしまつた! と呟きながら一本脚で逃げ出さうとすると、奴は両腕で私の脚を攫むや有無なくぽきりと折つてしまつた。そして今度は奴が私の頭を石のやうな拳でぐわんと擲つたかと思ふと同時に、彼がキヤツ! といふ悲鳴を挙げたのである。見ると、いつの間にか擲つた奴が当の生きた私で、その瞬間まで私自身であつた私は、青銅の胸像に変つて、私の脚もとにごろりと転げてゐた。思はずブロンズの頭を力一杯擲つてしまつて、私は痛さのために拳骨をふるはせたのである。あまりに荒唐無稽な馬鹿々々しい夢で私は、目が醒めた時に口をあけてゐたが、全身は酷い汗だつた。
「いゝえ、その、自分で自分の像を眺めたら、つまりその作品価値とは全然別個の……」
 私が吃りながらあやふやな返事をしてゐる時、折好くも降りの列車が轟然と通過して、私達は思はずそれぞれの両掌で耳をおさへた。ガーツといふ圧倒的な轍の響きを真似て、私もいたづらさうにガーガーと大きな口をあけて喉を鳴すと、それが天狗の溜息のやうに可笑しく私の胸に反響した。
「え? 何ですの? とても聞えやしませんわ、何を仰言つてゐるんだか……」
「何も意味のあることなんて喋舌つてゐるんぢやありませんよ。」
 と私は云つたが、それも彼女には聞えず、何か私が芸術上の意見でも述べはじめたのかといふ風に彼女は熱心に追求した。
 私は話題の転換に折の好い瞬間だつたと秘かによろこんで、その響きが消えた時には、ひたすらその列車の行手である真鶴や米神などといふ村の入江と岬が幾つも幾つも櫛型に入り組んださまを愛好措くあたはざるといふ風な調子で述べたてゝゐた。
「そのコメカミといふ漁場にわたしの友達が居るんです。去年の春から夏へかけて、ずつとその漁場の魚見櫓といふ展望室に住んで、絵を三枚も描きましたよ。」
 私は、いかにも麗らかさうに話頭を転じたが、話してるうちにまたも背中の方からゾーツとするうそ寒い陰気に吹き寄せられて敵はなくなつて来た。何を執りあげ、何を観ても悉くに因果な連想が絡んで来る自分の「故郷での生活」といふものが、外形的にも精神的にも既に全く動きのとれぬ状態に立ち至つたことは久しい前から痛感してゐるにも関はらず、土鼠のやうに止惑ふてゐる私であつた。
「岡さんのアトリヱにある、あれ?」
 彼女は私の画に気づいて微笑んだ。漁場の裏口から網の干してある渚を見た十号で、網が昆布のやうで修正の仕様もないと岡や閑吉達に嗤はれてゐるものだつた。業の稚拙は別にして、私はそんな画よりも、何よりも、あの失踪の間、その漁場に隠れて「月光のなかの吊籠」と机上の睨み合ひを保つてゐた自分の姿が、そして間もなく再び其処に現れて空想的な腕組をするであらう自分の姿が、それこそ重苦しい青銅ブロンズの胸像のやうに浮びあがるのであつた。旅人の心で、風景を選び、感情を盛りたてることが出来ずに、あらゆる場面、あらゆる言葉に過去の亡霊を背負つたまゝ、観察し、創作する心象上の古い隧道トンネルを埋めるためには故郷との完全なる別離に頼る他はなかつた。私には旅の経験すらなかつた。だから私は、何処で生れたのか、また何処が故郷であるのか自分でさへも知らない、行きあたりばつたりに何処へでも歩いて行つて出遇つた人間に少しづつの因念をつけて寄食生活をつゞけてゐるのだといふ閑吉の姿にも、わずかに井戸の中から仰ぐ見知らぬ風景の香りに接するかのやうな新鮮味を知覚した。憧れの夢の新しい風を感じた。
「で、あとの二枚といふのは米神とかいふところに残してあるんですの? やはり風景なんですか?」
「さうです。一つは窪地になつた野菜畑の底にある草葺屋根を見降したものと、もう一枚は、その家の庭から梢をすかして、魚見櫓を見あげた景色です。」
 左う左う、その絵を描いてゐる時のこと――私は七郎丸と称ふ漁家の家号がくゞり戸の障子に筆太に誌してあるその友達の家が撥釣瓶はねつるべのある竹籔の傍らをまはつて突当りの凹地の日溜りに、鳥の巣のやうに隠れたかの位置が後ろ暗い自分の心持に応はしく思はれて、崖に向つた北向きの離室を借りてゐた。その離室は崖から滾れ落ちる筧のわずかな水音がさらさらと耳を打つのみで、そこに籠つてさへ居れば母家への訪問者に姿を見られる気遣ひもなく、窓に映ずる朝夕の三角形の陽ざしで時を知つた。夜になると竹の筒洋灯を用ひ、眠る時にはあちこちと塗りの剥げた角型の行灯が灯された。離室と同様に何十年来使用したこともない行灯だと云つて、私が此処に到着した晩に七郎丸の老父が納屋の天井裏から持ち出して箱から取り出して煤を払つた。四方の張紙は狐色に古びてはゐたが別段に破損の痕もなく、草書体の文字で、いへばえにいはねば胸にさはがれて心ひとつになげくころかな――と読まれる歌がつれ/″\らしく誌されてあつた。――どこの家も庭先から家ぢうが見通される態の至つて開放的な建築で斯んな離室を持つた家は七郎丸一軒であつた。もとより五十あまりの戸数の漁村で、全体が崎嶇たる地形の内ポケツトに深々と抱かれてゐたから街道を往来する人々の眼にさへも、脚下に左様な部落が蹲つてゐるとは気づかれぬおもむきであつた。無論、停車場とてもなかつた。汽車が敷ける以前の軽便鉄道、またその以前の単に五六名の壮丁の人力を持つてレールの上をおし転がす人車鉄道の時代には、麦畑の中に棒杭の立つた停留場があつて人々は畑中に降り、崖を下つて部落に着いた。七郎丸の長男は人車鉄道の運転手を務めてゐたが、真鶴から吉浜村へ向ふ急勾配で脱線の惨事が起つた時に重傷を負ふて、今でも松葉杖を突く身である。で彼は、漁家の継名である七郎丸を私の友達の次男に譲つて、自らは太作と名乗る幼名のまゝで、賭博の常習犯であり無頼の酒徒である。彼は善良な老父や弟に隠れて屡々この部屋を賭場に用ひ度がつてゐたところ、家人に一蹴されて不満を抱いてゐたが、何うかすると真夜中に徒党を具して秘かに窓から忍び込んで、私には勉強をしてゐる風を装つて呉れと懇願した。右脚の関節が曲らぬので彼は三人の助力を乞ふて、窓から木像のやうに運び込まれなければならなかつた。これに関する挿話は後とするが――私が生れた頃はその人車鉄道すらなく、三里あまり離れた私の故郷の町の人々すらこの村の名前を知る者は少なかつたさうである。そして人々は草鞋がけで、また足弱の婦人子供はしやんしやんと鳴る鈴をつけた馬の背で、或ひは藤蔓で編まれた山駕籠で櫛型の丘を登り降りしてゐた頃に、私は、何故か、この村で産声を挙げさせられたといふ話は元から知つてゐた。が別段、何故か? とも考へずに忘れ果てゝゐたところが、或日庭先から梢をすかして魚見櫓の姿を描いてゐた時、傍らの日向で投網の繕ひに耽りながら、幼児の私が非常な泣きむしであつたことをわらひ話に語つてゐた七郎丸の老父が、私の生れたのは今私が籠居してゐるあのまゝの離室はなれであり、あの撥釣瓶でその産湯が汲まれたのであるといふやうなことを呑気に告げたのである。この前に私が段々畑の上からこの家を見降して写生してゐたのは、私の懐古の情からであらうかと内々の者で噂をしてゐたといふ意味を更に彼が続けた時私は、
「そんなことを知つてゐたら、決してあんな画は描かなかつたのに!」
 と憤つたやうに唸つた。
 何故母は、斯んな村に隠れて、私を生まなければならなかつたのだらう? 私は、余つ程、あけつぱなしの進化論者のやうに洒々として、その理由を訊ねて見ようかとも思つたが、忽ち嶮しくなりさうな自分の表情を怕れて、思はず罪深い夢を内攻させてしまつた。その翌日私は、画に描いてゐた漁場の、憧れの三階に移つて見たが、三方が硝子張りの、巨大な行灯に似た明る過ぎる展望室には到底居たゝまれなかつた。水槽の魚のやうに隈なく人々の眼から眺められる自分の姿に戦いて、夜も待たずに薄暗い離室に引きさがるより他に身の置場所を選べなかつた。
 私は行灯を点した。歌の文字が母の筆蹟であることを確かめた。私は小机の上に展げてある「月光のなかの吊籠つるべ」の上に突つ伏して深い吐息を衝いた。
 籔蔭の撥釣瓶に夕陽の射すところが印象的なので、やがては画に描きたいと念じてゐたが老父にそんな話を聞かされてからは、すつかり感興が潰滅してしまつて、振り向くだに因果な悪気に誘はれた。私は酔醒めの水を求める時だけ、拠んどころなくその井戸の傍らへふらふらと近づき、石器時代のスリングに似た撥釣瓶を薄気味悪く深い水底に落し、
「なんてまあ厄介な水汲みなんだらう!」
 などと滾しながら、曳々と汲みあげた。水は苔の香りが濃厚だつた。
「アトリヱにあるのと、それと、どちらが自信があるんですの?」
 りら子は未だ私の画を持つて回してゐた。
「……さあ、それは……」
 私は悲しさうに首をかしげたゞけだつた。何ごころなく晴れやかについ絵の話などを自分から先に持ち出したにも関はらず、忽ち暗い連想に追ひ被されてしまふ境涯が呪はしかつた。
「人物はお描きにならないの?」
「えゝ――」
 またガードの下で、列車でも通過すれば好いが……などゝ思つて私は空へ眼を挙げた。切り割りの道を横切つて、坂を登り詰めると私達は背後に海が遥かに見降せる丘の上に出てゐた。行手の霜枯れた畑の彼方には斑らな雪を戴いた山々が、碧く澄み透つた空の裾に圧し潰されたやうに低くなだらかにえんえんと連なつてゐた。午をわずかに過ぎた陽りがさんらんたる渦を描いて大気に戯れながら地型の凡ゆる蔭を吸ひとつてゐた。山々はたゞその逆光線の中に、ぼんやりとして、私達の歩いて行く畦道が一筋、澪のやうに陽りの中に消えてゐた。私は、夢のやうに痴呆的な想ひのなかで、行手の陽りの煙りの彼方に連なつてゐる山の姿を、世にも巨大な鳥が翼を拡げたまゝ凝つと眠つてゐるかのやうに空想した。やがては径も樹木も田畑も家々も何も彼も渦巻く陽りの中に混沌として姿を没し、たゞ私は濛々たる明るさの中をうつゝのまゝで泳いでゐる小魚の想ひと化してゐた。りら子が、人物と云つたので私は辛うじて吾に返つた如く漠然として「人物!」と、誰を思ひ出すといふわけでもなく、不意と言葉が口を突いたけれど、自分が今この風景の中の点景人物であるといふことさへ忘れ果てたかのやうな靉靆たる鬼方の保護区リザーブで酔ひ痴れてゐた。あれやこれやと自分ばかりを取巻いて因果な観念に襲はれてゐたのが、寧ろ故意とらしくて、斯んな渺たる生命に関して云々することの空しさが思はれた。過去も連想もあつたものではない――それにしても何時もは殆んど夢中で半里にあまる岡のアトリヱまでの道程を急ぐばかりであるのに、思はぬ道伴れを見出したゝめか、その道程の遠さが返つて胸の上に犇々とした変化の翼を投げて、尽きてしまふのが惜しまれるやうだつた。
「特に風景にだけ感情を惹かれるんですか?」
「いゝえ――人物を描くほどの力量がないからです。あんな画なんて、云はゞ二日酔の朝の厭世気分を払ふ程度のいたづらで……」
「……さう、ぢや近いうちに屹度妾が、あなたのモデルになつてあげますわ。何処が好いでせうかしら?」
「…………」
 おや/\、りら子を画にするなんてことを何時の間に俺は話したんだらう、絶対に人物は描けない単なる風景画家の筈なのに――と私は驚いたが、彼女の声が嚶々として嫋娜かに響くだけで私はまどろむでゐるかのやうであつた。
「その漁場へ行つて見ませう、来月にでもなればもう暖かでせうから、海のふちでゞも描いて貰ひますわ。」
 畦道を行き尽して仄暗い神社の森の傍らから降りへ切れると、丘に囲まれた小さな盆地の梅林の中に岡のアトリヱの屋根が窺はれた。神社からは太鼓の音が響いてゐた。りら子の人物といふ言葉で私は、再び自分に戻つて、アトリヱの中の自分を思ひ出してゐた。夜と昼とが久しく転換した生活で、いつも日脚の短いこの頃では折角アトリヱに行き着いても仕事の時間もなく屡々水泡に帰してしまふことが珍らしくもなく、それをまた私は別段に後悔もせずに、大二郎や閑吉と烈しい酒の飲み合ひを演じた。そして惨澹たる失策を繰り返したものだ。あんな胸像などの出態は一日でも遅れる方が望ましく、そのうちには沙汰止みとなつてしまふかも知れないなどとさへ望んだのである。ところが今日は、吾ながら不思議な想ひであつた――なにしろ自分の顔かたちが、斯んなぼんくらな己れの霊魂と遊離して、空間のうちに新しい座を占めてゆくといふ想ひに最も微妙な張合ひを覚えるかの如きであつた。
 今日はあんなわけで稀らしくも時間を早く出かけたし、大二郎達も留守であるから、この分ならば仕事も余程に捗るだらうと思つて、私は急にいそ/\として、りら子の腕を執つたまゝ、梅の花が雪のやうに盛りのアトリヱへの降り坂を急いだ。私はその腕から、微かな震へが伝はつて来るのをはつきりと意識した。霜解けの土の上を踏む彼女の、私の歩調にそろつた赤い靴の先きが、ちかちかと私の眼に映つた。

 アトリヱの床隅の座蒲団に胡坐をかいて、岡は木兎の図取りにとりかゝつてゐた。木兎は岡の真向きの籠の中でまん丸い眼玉を空しく光らせてゐた。岡は、制作の合間には、注文品の木彫にたづさはるのが慣ひだつたが、何うも木彫には情熱が伴はず、職業だと観念して鑿は執るものゝ、署名を容れるのさへ気がさしてならないと兼々滾してゐた。何うして木彫の動物にばかり普遍性があつて、人々は岡のブロンズを欲しがらないのかと云ふものもあつたが、真面目な制作となると彼は、いつも周囲の男の顔ばかりを選んで、前年は「男の首」と題して閑吉を、前々年は「男の顔」と題して大二郎のブロンズ・マスクを、その前年は、「或る男の像」と題して、米神の太作の胸像をといふ具合であつたから、造れば造るだけブロンズ商への負債が嵩むばかりで、作品は、誰かゞ「まるで生蕃人の小屋のやうだ!」と云つた通りアトリヱの隅に累々としてゐた。
 しかし岡は凡そそんなことに辟易するやうな人物ではなくて、今にしろ私の姿を認めるがいなや、
「好く来て呉れたね!」
 と木兎の籠を片寄せて、輝やかしさうに立ちあがつた。いろいろな事情から一日も早く木彫の方を仕あげなければならない状態だつたので、私は少しばかり遠慮して、いつそ木兎の図とりをすすめた方が好からう、此方は無駄あしをすることは関はぬのだからとも云ふのであつたが、岡は、
「とても厭だ、斯んな仕事をやらうとすると一層別の制作慾がさかんになつて――」
 と云つて、もう粘土瓶の蓋をとつて、そしてもう私の顔を制作慾にもえた眼つきでぢろぢろと眺めて、バケツの水をふりかけながら粘土を餠のやうに練りはじめた。もう十四五年も前から油土といふものを欲しいと思つてゐるんだが、何うしてもそれが未だに手に入らない――。
「金高にすれば幾らでもないんだがね。それならば、こんなに土を練り回す必要もなく、拵えかけの作品が氷つてしまふなんていふ心配もないんだが――はつはつはツ……」
 彼は笑ひ声を挙げたりしながら、せつせつと土を練つた。――いつもは黙つて入つて来て、黙つて腰を降し私も岡も、大二郎達でも現れぬ限り口も利かなかつたのに、またいつものやうに私が土練りの手伝ひもせずに、妙に浮々としてゐるのを岡は認めて、
「仕事にとりかゝつてからでも、いくら喋舌つたつて関やしないよ、此方は此方だけなんだからね。」
 と私とりら子に呼びかけた。
「これは馬の大二郎?」
 りら子はアトリヱの隅のブロンズを次々に見物しながら岡に質問してゐた。
「左うです、をとゝしのたつた一つの制作――をとゝしは、それつきりであと木彫で兎を一つ造つたゞけだが、思へば暮しの方は何うしたものぢやつたのやら……」
 岡は義太夫の口調で唸つてゐた。
「この鷲鼻の烏天狗見たいなのは一体誰なの?」
「さて、それは、あいつの名前は何と云つたかな、あんまり古いので堂忘れしてしまつたぞ、無銭飲食でいつかつかまつた男で……」
 りら子はその隣りの首に眼を移すと、
「ハツハツハ……この人はまあ、ハツハツハ……これがあたり前の顔なの、鬼が笑つた通りの顔ぢやないの。」
 とげら/\と笑ひ出したので私が見ると、それは太作の像だつた。
「鬼の首とは正しくそれか!」
 岡は一向気にもしないで、土を練りあげると襤褸布で幾重にも包んである制作台の壜型を解きはじめた。
「馬だの、烏天狗だの、鬼だの……」
「それが人間でなくつて、ほんとの馬であり、烏天狗であり、鬼であつたら、大儲けなんだが、どつこいさうは問屋でおろさない……か。」
 岡は冗談を云つてゐたが、不図気づいて「さうさう鬼塚村の八幡様から天狗の面を頼まれてゐたぞ――太作のマスクをとつて鼻を伸してやつたら一挙両得かね。」
 などと呟いだ。私がこの前の失策を思つて、休んでゐる間も氷結のことが心配だつたことなどを云ふと、岡は、
「斯うしてあれば三年も休んでも大丈夫なものさ。」
 毎日一度宛この包みを解いて、湿布をとり換へ、またあまり寒い晩には台の下に火鉢を入れて置いた由などを説明した。――ここの連中は稍ともすれば動物の名を人の仇名として、平気で称び合ふのが慣ひで、私にも、いつも眼ばかりぎよろ/\させてぼんやりとしてゐて夜になると活気づくといふところから梟といふ仇名がつけられてゐたが、やがて木彫の木兎でも出来あがつたら、私の肖像と比べてわらひ噺の材になるだらう……そんなつまらぬことを私は思ひながら、箱の中の木兎にからかつたり、木兎の餌を拾ひに開け放しの扉から出入りする※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)共の戦々兢々たる脚どりをわらつたり、アトリヱの中に放し飼ひにしてある野兎の耳をぶらさげて、
「食つてしまふぞ!」
 と悸したりしてゐた。
「そいつは、ほんとうに食つてしまつても好いんだ!」
 岡は真面目な眼つきで呟いた。
 壜型の首のあたりを結んだ紐を解き、毛布をとり除くと、泥まみれの大風呂敷やら千切れた単衣やらと、とりどりの襤褸布が四、五、六、七重八重に剥ぎとられて、湿布が剥がされると漸く、頭のかたちから鼻筋へかけて稍々私のらしい線が現れかゝつてゐる粘土の原型が出たので、冗談を止めて私はモデル椅子に腰を降した。
「ほんとうに関はず話してゐて下さいよ、りら子さんも――。普通の訪問者のつもりで一向に差支へありませんからね。」
 しかしもう岡の眼は凝つと据つて、原型の頭から頬へかけて掌で湿り具合を験べるやうにひた/\と叩きながら、私の方を、私の頭や頬の具合を見比べてゐた。私は岡の掌が、そつちの頬を撫でたり叩いたりするのを見てさつき女房に打たれた時の痛痒を思ひ出したりしてゐた。
「さうさう寒いだらうね。ストーヴの石油が切れてしまつたのさ。まあ、これで我慢して呉れ給へ。足りなかつたらその毛布ででも……」
 岡は制作台の下から火鉢を引き出して、火を掻きたてた。
「一向、寒くはないね、りら子さんは?」
「妾もよ。原型の方が寒がりでせう。」
 壁も塗つてない部屋だつたから寒いとなれば、石油ストーヴ位ゐ焚いたつて始末がつかなかつたので私は屡々外套を着たり、何うかすると原型を包んだ毛布にくるまつたりすることもあつたが、この日は陽気や時間のせゐばかりでなく私の全身は適度の熱気にほてつてゐた。
「陽気も幾分春めいて来ましたね。」
 私は、岡に関はずりら子に話しかけた。りら子は私の椅子の傍らにしやがんで、岡の眼と篦に伴れて私の様子を見比べてゐた。岡の眼の方は慣れてゐたが、私はりら子が制作者のやうに真面目な顔をして、しげしげと済して此方の顔を眺めるのに弱つて、何かと話題を探さうとするのだつたが、りら子は口などを利いては悪いのだらうと遠慮でもしてゐるらしく碌々返事もしなかつた。
「桃かと思つたら紅梅なのか、緑山寺のあれは! 和尚が鳥籠をかけてねらつてゐるぜ、目白だな!」
 私が窓の外を眼でさしても、りら子は見向きもしなかつた。――岡は、モデルの顔の先に近視眼者でもがするやうにじつと眼を寄せつけて、指先きをもつて毛髪に覆はれたモデルの頭骨の具合を験べたり、窓の方向に見える和尚が鳥籠の下にしやがんで、梢を見あげたまゝ息を殺してゐるのと同じやうな中腰で、私の頤の下から鼻筋のあんばいを見透したり、さうかと思ふと箆を十手のやうに構へて、鼻の下の寸法を計つたりした。また岡は、思はず四五尺も離れると、箆を持つた腕を突き出して、恰も水の深さを計る芝居の謀反人のやうに身構へて、前後左右から私の姿を実験するのであつた。それに伴れて、りら子がまた、その腕の下から研究心に充ちたかのやうな鋭い視線を輝かせてゐるのであつた。
「妾、人間の顔といふものを斯んなにしげしげと注意したのは初めてなんだけれど、岡さんが制作に選ぶ気持が薄々解るやうな気がしましたね。」
 一休みして、りら子がそんな感嘆めいたことを呟いた時私は、異様な疲労に襲はれてゐた。骨格の円味に随つて追ひ/\と運んで行くと、眼とか鼻とか口などのあんばいは、自然と位置が決つて来るもので、殊更には、さう云ふ部分上の個所に特別の留意を施す要はないのであるが、その前提の骨格を見透すと云はうか、制作上の概念と実在物とを結びつけるヒントと云はうか、そこは何うも云ひ憎いのであるが、云はゞ芸術的創作のヤマに到達する迄の手段として、斯うして鼻の寸法を計つたり、頤のかたちを撫でたりするのであつて、これは夢もなく写実を事としてゐるわけではない、そのヤマにさへ到達すればあとはもう口笛を吹きながら進めるのであるが……そして、単なる肉づきなんての問題は、痩せたり肥つたりして定めもないのだし、斯ういふ制作の場合は此方こそ気が永いのだから、二の次であるが……といふやうな意味のことを岡はりら子にぽつ/\と答へながら、尚も凝つと私の頭や鼻のかたちに留意の眼を注ぎつゞけてゐた。――さう云へば岡は私の小説の仕事の場合でも、「そして、それはもうヤマが見えたのかね?」と訊ねるが、私は今の自分の仕事も、もう三ヶ月も前からもや/\としてゐるのに決してヤマらしいものに至らないのが不安であつた。私は、あれを「諸々の力が上昇し、下降して黄金の吊籠つるべを渡し合ふ」といふゲーテの言葉を暗示として、あの表題を定めたのであるが、例へば未だ、何処を何う目標として箆を構えるべきかのさしたる手掛りもなく、きれぎれな痴夢と、その日その日の愚かしい営みの回想が綾となつて濛つとしてゐるばかりであつた。まつたくヤマが窺はれなければ筆を執る術のあらう筈もなかつた。そのうちにはかんじんな作者たる己れの魂までが、滑稽な幽霊のやうにふわ/\としてしまひさうな不安に駆られて私は岡の制作台に出来かゝつてゆく壜型の私に、溺るゝ者がつかまうとする藁のやうな思ひで、とり縋つて、辛うじて息を吹き返すかの如きでもあつた。木兎ならば木兎、人間ならば人間と斯うはつきりとした対照を眼の前に据えて、視詰めては土に盛り線に彫みして着々として吾ながらの感興や情熱を表現してをられる岡などの落着き払つた仕事の、がつちりとした張合ひが羨望された。
 りら子は岡の仕事振りを眺めてゐるうちに、空想の虹に想ひを馳せて無言のリズムに酔つた如くに陶然としてうつとりと首を傾げてゐた。その眼差しは、遥かの音楽に聴き惚れてゐる者の通りな吾を忘れた風情であつた。――この小説の前篇の中頃あたりから登場し続けてゐるりら子に就いて、私はうつかりとして非常に述べ遅れた次第であるが、彼女は提琴家なのであつた。そして彼女は、いつも見るからに音楽家らしく、その物腰態度には不断に彼女が音楽の想ひに溢れてゐる様が、はつきりと窺はれる繊細な律動が漂ふてゐたが、この時程明瞭に私は彼女が性格的な音楽家であるといふおもむきを享けとつた事も珍らしかつた。岡のモデルを幾度も務めあげた野兎や※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)があちらこちらと駆け回り、男の首がごろごろとしてゐるアトリヱの壁を透す斑らな光りの中で音楽家も彫刻家も小説家も恰も虚空の広場に輪となつてカロルの祈りをあげてゐる如く黙々としてゐた。籠の木兎の眼が真向きに陽を享けて爛々としてゐた。
 その時私達は、
「岡さん、木兎は何うなつたんですか?」
 と唸つた苦々し気な声で一勢に夢から醒めて振り向くと、その音声と同じやうに苦り切つた表情の三人の商人が、窓にブロンズの胸像のやうに武張つた顔を並べてゐるのを発見した。
「やあ、今日は晦日だつたか!」
 岡と私が同時に、さも/\当惑したらしく深い息を吸ひ込んだ。そして、二人はまた同時に真赤になつて、
「御免よ。」
 とあやまつた。「もう一ヶ月待つて呉れないか、諸君?」
 すると一人の米殻商と二人の酒商は――真実その時私の眼に、彼等の表情が岡の制作品である烏天狗や太作の鬼の面などゝ対を作して見えた――憤つとふくれて、
「あなた方のもう一ヶ月は、聞き倦きましたね。厭になつてしまふなあ!」
 と一人が閻魔が嘆くやうな極度に誇張した渋面をつくりながら、岡が撫でゝゐる壜型の私を指差して、
「折角、木兎にとりかゝつたので好いあんばいだと思つてゐるとまたそれか!」
 と吐き出した。すると次の禿鷹のやうに鋭い眼差しの酒商が、ほんものゝ私に侮蔑の視線を投げて、
「あなたもさうぢやありませんか、つい此間もう二三日で何とかゞ書きあがれば、えゝと何と仰言いましたかね、それは?」
「月光のなかの吊籠つるべといふんだよ。諸々の力が昇り降りして黄金の吊籠を……」
「あゝ、さうでしたか! ……金貨の包みをそつくり渡すから二三日待つて呉れと仰言るんで、今日あたりは大丈夫渡して戴けると思つてゐたのに、また此処に来て木兎の真似をなさつたりして、そんな閑があるんなら机に向つたら好いぢやありませんかね。陽気だつて、もう今日あたりは春のやうぢやありませんか、ぽかぽかとして……」
「悪るかつたなあ!」
 私は心底から恐縮して相手の顔も見られず、あべこべの窓の方へ眼を向けた。緑山寺の和尚は未だはちすの生垣の蔭に息を殺して、紅梅の枝に吊したおとり籠を睨んでゐた。いつか彼は寒卵で儲け損つたから、今度は目白でせしめてやらう、そしたら皆なで遊廓へ繰り込まうではないか! などと非常に酔つて気焔を挙げてゐたが、戯談でもなかつたのか知ら? と私は思つた。――岡も私も斯んな暮しを続けてゐるものの、商人達に対しては極めて気分が弱かつたから、稍ともすれば言ひわけの言葉さへ震えを帯びた。
「あゝ、また石倉屋があれをはぢめた!」
 岡が可細く呟いで、背伸びをしたので私も亦振り返つて商人達の居る窓から、岡の指す母家の方を眺めた。二人の酒商は振り向きもしないで私達の様子を視詰めてゐるので、私も立ちあがつて彼等の頭の上から、蕗畑の下にあたる母家の方ばかりへ気をつけて、そして成るべく彼等の注意も其方へ惹かしめてしまひ度いと念じながら、
「米屋は本当に怒つてしまつたのかしら、言ひ訳けに行かうか?」
 と驚きの見得を示しておろ/\とした。酒商達も振り返つた。そして、
「あたし達にはまさかあの真似も出来ませんからね。」とか「斯うなると酒屋は辛いね。」などゝ呟きながら、それにしても米商の遣り方は勿体過ぎる、自分達はそれに比べれば応揚な商人であるといふやうなことを囁き合つた。私は、この機に乗じて――といふやうに、
「ほんとうに、彼は一克すぎるぞ!」
 と云つた。
「あれは出来ない仕打ちだ!」
 酒商も同意した。
「話は、解つてゐるんだのに――」
 私も続けた。
「それあ左うですな……」
 酒商は、思はず米屋の態度をわらつたので私は、
「君達だつて斯うさつぱりと待つて呉れてゐるのにね。」
 と米屋への不平めかしい言葉を仄めかすと二人の酒商は、やあやあ! と頭を掻きながら窓のそばを離れて、蕗の薹を探し始めた。
 梅の枝をすかせて母家の勝手口が見え、半分開いた扉の間から石の竈が隠見された。米袋を担いだ石倉屋は竈の脇へ隠れて、また袋を降さず扉の外へよろめき出ると、しばらく梢を仰いで空想に耽り、思ひ返しては裏口へ入らうとする、さう云ふ見るからに思案にあまつた息苦し気な、とつおいつの動作を繰り返してゐた。岡の夫人は子息を背中におぶつたまゝ、井戸の傍らでその光景をぼんやり見物してゐた。石倉屋が扉から現れて空想に耽る毎に、何か二三言会話を交へるらしく、そして米屋は内に消えるが、間もなく彼は袋を担いだまゝ再び現れてしまふのであつた。
「あの石倉屋は何時も、あゝいふ示威運動をするんだよ。」
 岡は慌たゞしい眼ばたきと一処に呟いだ。
「おや/\今度は引き返さぬ勢ひで、門の方へ向つてぐん/\と歩き出すぜ。」
 私は走り出さうと身構えた。そして思はず、おうい! と叫んでしまつた。
「もう少し見てゐたまへよ。引き返すには違ひないんだ。しかし念の入つた歩き振りぢやないか、辛いぞ!」
 なる程彼が、裏口を回つて五六間の距離のある草葺の冠木門までの梅の木の下を、五六歩進むかと思ふと、後ろ髪を曳かれるやうに二三歩後退りによろ/\としたり、覚悟を決めた点頭きをしてまた前にのめつたり、不精無精に首垂れて後ろに靡いたりしてゐる態たらくは、花道で止惑ふてゐる性格俳優の見得の通りであつた。加けに梅の花びらが長閑な日和のなかで、はらはらと散り滾れたりしてゐるので、その光景がひどく芝居風に悲しく綺麗に私の眼に映つた。
「斯んな呑気めいたことを云つては済まないんだが、毎月二度も三度も彼はあれをるせゐか其度毎にしぐさが細かくなつて、然もめき/\と上達するやうだよ。」
「僕のところでも演つてゐるだらうし……」
 私は胸の痛さを圧へながら、思はず演技の妙に見惚れてしまつた。――そのうちに私の頭のなかには、その米屋のやうに重い葛籠を担いだ私が縁家先の裏門から忍び出ると、稍しばらくそれもあの石倉屋のやうに良心の苛責にはゞまれて後ろ髪を曳かれたり前にのめつたりしてゐたが、やがてのことに覚悟を決めると一散に闇の中へ吸ひ込まれてゆく有様があり/\と展開されて来た。葛籠の中では、黄金の飾りのついた兜や剣や古判などがかたことと触れ合つて実にも頼もしい響きを囁やいてゐた。

 岡は、アトリヱにランプをともして、否応なく「木兎」の方は二晩で仕あげた。さて、これからは当分こゝろおきなく「私」の方に専念することが出来るとよろこんで、相変らず「夜盗の夢」にばかり耽つてゐるあはれなモデルを相手に仕事をつゞけた。
 未だ脇目には、壜型の凹凸にやゝ線の細い陰影がうかゞはれる程度の未成品で誰の肖像であるか判別もつかなかつた。なれど既にこゝまで仕事が進捗すれば、これから先の径では製作者があせりさへしなければ、行手は至極坦々たるものである――岡はいつでも木兎のやうな沈黙家で、どんな場合にでも自分から先に口を利くためしはなかつたが吃音で呟く彼の言葉の片鱗を総合すると斯んな意味になつた。――つまりこれから先の行手では、まことに春日遅々たるの想ひで豆粒ほどの土に藹々たる無辺の念を凝らしながら、阿吽の呼吸をはかつて、やがては個性を吹き込み、風格を注ぎ込まうといふ妙境なのである……。
「その代り少しでもあせつたらお終ひだ。想ひが脇道へ反れたら台なしだ。」
 彼はやゝともすれば左う呟いで、箆を置いて想ひを凝らしてゐた。私は斯んな心的状態にある自分の風格や個性が、彼の箆先に依つて髣髴されることを思つてやゝともすると冷汗を覚えた。
「こつちも、あせつてはならないぞ。」
 私は、秘かな溜息といつしよに呟いだ。
 肚を据ゑて想ひを凝らすといふやうなことを呟いで能ふ限り悠悠たる妙境に耽らうとしてゐる岡の眼ざしは、なるほどひところのやうな炎えるが如き鋭さを消して、微妙な和やかさに沾んでゐた。彼は、箆をうごかせながらも努めて左ういふ気分に遊ばうとしてゐるらしく、いつも見るからに長閑さうに、いつかの「和尚さんと狸の唄」や、おゝ ほろろんほろろん ほろほろん 春はほうけて草葺の――などといふ風な唄ばかりを口吟んでゐた。そして辛棒強く私達の睨みくらべがつゞいてゐるうちに、やがてあたりはもうその唄にふさはしい春であつた。制作台の下からは火鉢がとりのけられ、未成品を包む襤褸布の数も半分に減らされて、鼻のかたちなどはもう誰が見ても私のらしいすがたとすゝんでゐた。一日の仕事を終へて、制作台の上に包まれてゐる達磨型のものを見ても私はそれに、はつきりと「私」を感じた。自分の仕事といふものは一向に捗らず、憂鬱な痴想に耽るのみで冬をおくり春を迎へてゐる自分は、寧ろその襤褸布に包まれたまゝの姿にふさはしい――などゝ勿体さうに考へたりした。
 鶴井が二度も塞いだ緑山寺との境ひのハチスの生垣には、前にも増した大きなトンネルがあけ放しになつて、寺内には桃の花が盛りであつた。和尚はハチスの下をくゞつて、時々現れるのであるがいつも私達がむつつりとして仕事にばかり没頭して、決して酒盛りの相手にならうとしないのに憤慨して、アトリヱの扉に筆太の文字を落書きして行つたりした。
  九年面壁非遇然 天下文人飯袋子

 私がハチスのトンネルをすかして桃の花を眺めてゐると鳥籠を携へて現れて来た和尚が、こつちを認めて、直ぐに、飲まうぢやないかといふ意味を通じながら、盃を傾ける手真似を示した。私は、微かにかぶりを振つた。和尚は口を突らせて後ろを向いてしまつた。そして白い蕾が点々としてゐる巴旦杏の梢を眺めてゐた、梅のときにしろ、桃にしろ、そんな白い蕾にしろ、私は花を見て始めてそんなところにそんな樹があつたのかと気づく自分の迂闊さをわらひたかつた。
 もう用もない生餌の木兎を飼ふのは煩はしいと岡が云ふので私はそれを箱のまゝ貰ひ受けた。そして机の傍らの脇床に置いた。私のことを梟と仇名してゐる者達が、何故かそれからはその仇名を口にしなくなつたのが私は奇妙であつた。――それからは私は急に早起きになつて(朝寝坊であるからといふわけで私にそんな仇名がつけられてゐるのではなかつた。いつまでもぼんやりとしてゐる私の面白味の無さと、間抜けな失敗ばかりを繰り返してゐる私の愚かな行動と、そして止め度もなくむつつりとして白日の夢にばかり耽つてゐる私の姿とを嘲笑されてゐたのである。)――毎朝のやうに町境ひの河原まで自動車を飛ばせて、エビを掬つて来た。それを私は鳥箱の傍らに並べた硝子の金魚鉢に放つて、時々四五尾宛ピンセツトでつまんだ。
 木兎はいつ見てもきちんと止り木につかまつて正面を向いてゐるだけだつた。愛禽類に属さぬ所以であらう。餌を突き出すと、驚いて止り木から滑り落ちた。やつと、それと悟つて喙に享けとると、ぎよろりと眼玉を反転させて鵜のみにするだけだつた。それも享け損ふことが多くて大方はとり落してしまつたが、決して自分から拾はうとはしなかつた。驚いて止り木から滑り落ちる格構や、鵜のみにするときのかほつきを嗤ふ傍観者達が時々私の部屋に這入つて来たが私はやがてその姿を人に見せるのが厭はしくなつて来て、気合ひがすると慌てゝ箱の上に風呂敷を掛けて押入れに秘した。
 逃してしまつた――と私は云つたが、夜になると机の傍らに持ち出して、彫刻家のやうにいつまでも眺めてゐた。……浅間しい「夜盗の夢」が少しづゝ薄らいで来たかと思ふと、私はいつの間にかゝらりら子のまぼろしを切りと追ひつゞけてゐる自分に驚いた。夜など、不図眼を醒すと、りら子の声がはつきりと耳もとに響いてゐて、夢とうつゝの差別がつかなかつた。木兎の眼が傍らにひかつてゐるのを闇の中に発見して、醒めたことを知り、また夢を見たのかとおもつた。
 いつかりら子からの電話だけのことで、あんなにおこつた妻君のことを考へると私は、夢でさへもひや/\としてゐたが、何故か彼女は、あれきりさつぱりとしてしまつて、どうかすると、
「りら子さんは何故遊びに来ないんだらう、まさかあたしが女房だといふことが解つたので、てれてしまつたわけでもないのだらうに――それとも、お前があまり野蛮なので憂鬱になつてしまつたのかしら?」
 などゝ案じた。
 だから私は、おそらくあの時は、私が狼狽をした姿を見て鶴井と倉が嗤ひの目配せを浮べたことに、たゞそれだけの感じに不快を覚えた妻君は、余憤を私にのみ向けたのであらうと私は推察した。それとも私の態度だけが単に滑稽であつて、侮蔑を覚えたのかも知れなかつた。おそらく彼女は、暗く神経質な邪推を回らす質ではなかつたから。
「大二郎や閑吉に飲まれてしまふのは厭だから、りら子さんを招んでフジヤへでも行つて見ない?」
 飛んだ「盗人の夢」などを私に抱かせた相手の親戚の方からなにがしかの分配の金がとゞいて、私達は石倉屋の演技も見ずに済み、いろいろな不義理も果されて、未だ予猶があるといふので妻君は左う云つた。箱根山にあるホテルの晩飯に赴かうといふのであつた。私達の父親が存命の時分にアメリカ人の友達が土曜日のたびに訪れると何時も私達もいつしよにそこまで出かけてテニスや踊りの相手をさせられたが、もう四五年来妻君はドレスさへ身につけた験しもないから稀には踵の高い靴でも穿きたいといふのであつた。
「……行かう。」
 私は、妻君の調子に圧倒されて、思はず鈍重な眼蓋を挙げた。調子といつたところで妻君の方はそれが普段のまゝなのだが、その言葉にそんなに晴々とりら子の名前が登場するのに私は度胆を抜かれたのであつた。私の胸は、妻君に対する苛責の稲妻と、りら子に会へるといふ悦びの吹雪で嵐であつた。
「ぢや、あたしは靴を買ひに行つて来るからお前はそのうちにりら子さんを迎へに行つておいでよ。お前には一円五十銭のライタアを買つて来てあげるよ。」
 妻君はそんなことを云ひながら、息苦しくなつて弱つた私が木兎に餌を与へるために自分の部屋へ立つて行くのと同時に、駈け出して行つた。
 うつかり妻君の言葉に賛成してしまつたものゝ、たとへそれが私ひとりの秘かな片おもひであらうとも一端こんな風にりら子に心を動かせてゐるからは、そんな間に割り込んで素知らぬ顔を保つてゐるなどゝいふそんな気の利いた仮面をかむることなんて出来よう筈がない――私は漸く左う気づいて、これはやはり妻君とふたりだけの同行にしなければならないと考へた。左う云へばいつかアトリヱの帰りにりら子と、停車場の前のレゾートで晩飯を共にした時だつて、私はもぬけのからのやうにぼんやりしてしまつて小さな失敗ばかりを繰り返した。酒を飲まない時の私は普段でも吾ながら得体の知れない木像のやうにぎごちなかつたが、おまけにそんな想ひを胸のうちに萌してゐるせゐか、折角機嫌の健やかなレディと相対してゐるにも関はらず、私の背中には冷い恥に似た風が始終に吹きとほしてゐて、私は飛んでもない返事を発したり、相手のパンを間違へて喰つてしまつたりするやうなやり損ひばかりを演じた。
「今日ほど妾は、はつきりとした芸術的陶酔を感じたことはありませんわ――ほんとうに芸術に生きるといふことのためには何んな生活上の悩みにも打ち勝てるといふ自信を得ましたわ……」
 そんなことを切りとりら子は述べてゐたが私は、たゞ、はあはあ! とうなづくだけだつた。私は心底から有りがたくなつて、凝つと眼を据ゑてゐた。
「然し生活と芸術といふことに就いて、あなたは何ういふお考へをお持ちですか?」
「…………」
 さあ困つた! と私は白黒したが、そんな位ゐの返答も出来なかつたら軽蔑されるだらうと慌てるだけで、一向言葉は浮ばなかつた。
「妾は、結局――」
 りら子は食べるのを止めて、やゝ気色ばんだりりしい声をあげた。「生活が芸術の反映だと思ふわ、殊に自然派でない限りは凡ゆる現象といふものが主観の統率のもとにクリエートされなければならないんだから……」
「さうだ。たしかにそれに違ひない。」
「ハツハツハ……何に酔つてゐらつしやるのよ?」
 りら子の笑ひ声で吾に返ると、私はもう少しでフインガア・ボールの水を呑まうとしてゐるところだつた。
 この上妻君との間にはさまれたら、私は慌てたりあせつたりするばかりで、折角出来かゝつた塑像が台なしになつてしまふやうに、私の夢も姿も紙屑となつてしまふであらうと怕れはぢめた。
 庭先から私を呼ぶ声がするので、急いで木兎の箱に風呂敷をかぶせ、押入れの戸を閉めて縁側に出て見ると、岡が桜のステツキを突いてぬつと立つてゐた。岡は余程亢奮してゐるらしく丸く肥つた顔が汗にひかり、肩で呼吸をはずませてゐた。
 岡と私は顔を見合せると同時に、
「鶴井と倉は来なかつたかね?」
「りら子さんの借りてゐる寺は何処だつたかね?」
 と互ひの質問を衝突させてしまつた。
「大二郎と閑吉が雲がくれをして……」
「りら子さんは居るかしら、今ごろ?」
 相手の言葉が享けいれられずに二人は更にそんなことを繰り返してゐたが、私は傍らの湧水に口をつけて、ごく/\と呑んでから漸く、
「二三日見えないようだが、鬼塚村へ行つたんださうぢやないか君の使ひで――」
 といぶかしく呟いだ。岡も私のやうに上身を曲げて水を呑みはじめた。私は、肥り過ぎて息苦しさうな岡の背中が樽のやうにコクコクと鳴つてゐるのを眺めながら、
「きのふの朝だつたかしら、エビ掬ひに行く途中で緑山寺に遇つたら、ついさつきあの二人が停車場から出て来るところを見たと云つてゐたが――」
 とつゞけて首をかしげた。
「……一度帰つて来て相談すれば好いのに、それからそれへ持ちまはつて、飛んだ無銭遊興をつゞけてゐるらしいんだよ。」
 鬼塚村へ持つて行つた木彫の「木兎」を鶴井と倉は注文先には届けないで、あちこちと持ち歩いては大きな法螺を吹いて、飲みまはつてゐるといふことだつた。私は、石倉屋などのことで岡が金を急いでゐるのだらうと思つたから、それならば今は妻君が充分に持つてゐるところだから心配しないでも好からうと云ふと、そんな類ひの他人の心遣ひには事更に潔癖な岡は、あかくなつて手を振つた。
「いや、もう鬼塚の方からはこの間前借りをして、不義理は大概片づいてゐるんだよ。」
「大二郎だつて、それは承知だつたの?」
「勿論――。それで使ひを自分達の方から買つて出たんだが、はぢめから鬼塚へは行かないで新しい売口を探し歩いてゐるといふのだ。他に売られては困ると云つて鬼塚から抗議が来た始末で、それぢやまつたく僕の面目が潰れてしまふわけだからな。」
「何うしても捕へなければならないね、ともかく――」
「何処へ持つて行つたつてあれが他で売れる気遣ひはないんだが、それからそれへあんなものを口実にして飲まれたんぢや、この先僕は幾つ木兎を彫つたつて追ひつきはしないからね!」
「緑山寺へ行つて彼等が、どつちの方面へ行つたものか詳しく訊いて来よう。」
 私が自転車を引き出さうとすると、岡は非常にいらいらとした面もちで、
「二日酔で――今、和尚はアトリヱに来て大鼾きだよ。」
 とさへぎつた。「和尚はゆうべ、停車場裏のおでんやで彼等に遇つて、大議論の末につかみ合ひの大立廻りになつたんだつて! もともと大二郎と和尚とは犬猿なんだが――」
「閑吉は弱いだらうが、大二郎は馬だから豪勢だらう。和尚も口では負けないだらうが、酷い目に合されたことだらうな。」
 私は大二郎の肩ほどしかない小兵の和尚を気の毒さうに思ひ浮べた。和尚は大二郎よりも二つ三つ若かつたが、いつでも睡眠不足なやうな青んぶくれで脆弱さうだつた。
 ところが岡の話に寄ると彼は、稀代の喧嘩巧者で酔へば酔ふほど隼のやうな身軽さになり変るといふのであつた。私には信じられなかつたが、おそらく大二郎とても和尚のそんな凄腕は夢にも想像しなかつたのであらう。
 岡が今、途中でおでんやの主人から聞いたといふ有様に依ると、まつたく和尚の物凄さは隼であり、私も内心、これからは彼の気嫌を損じないように努めようなどゝ思はずには居られなかつた。
 何んな緒口から争ひとなつたのか解らなかつたのださうであるが、
「やる気か!」
 と唸つて和尚が衣の肌を脱いだ時には、大二郎と閑吉は嘲笑ひを浮べたゞけで、鼻であしらつてゐたさうだ。しかし和尚がいつかな諾きいれず腕くらべをいどみかゝるところから、大二郎は恰で素人に喧嘩を売られた関取りのやうに落つきはらつて、
「そんなに眠らせて貰ひたいといふのなら、まあその肌でもいれて……」
 などゝにや/\しながら、襟首をもつて戸外につまみ出さうと立ちあがつた。
「生臭坊主、手前のお経を手前えにあげろ。」
 閑吉が大二郎の脇の下から、憎々顔を突き出したかとおもふとまつたく眼にも止まらぬ早業で、アツ! と閑吉は鼻柱を衝かれて尻餠をつき、同時に和尚の体は大二郎の胸の下に飛び込んだ間一髪、見るもあざやかなハネ腰が掛つて、大二郎は丸太のやうな二本の脚で天井を蹴つて、背骨を床に打ちつけ、ウンと虚空をつかんでしまつた。
 二人は這々の態で店先へ這ひ出たが、徳利の包みのやうなものを忘れたことに気づいて、とつて返すと――和尚奴、今宵は酩酊のあまり、思はぬ不覚をとつたが、屹度この仕返しはしてやるぞ!
「覚えてゐろ!」
 と大二郎は、馬のやうな歯をむき出してほざいた。しかし衣の肩をいれながら手を払つてゐた和尚が、
「何だつて、もう一辺云つて見ろ!」
 と吠えて、立ちあがりさうにすると、二人は、かんばんの腰高障子を蹴破つて遁走してしまつた。
「で、それはどつちの方角へ!」
 と私は、思はず肩を乗り出した。岡は喉の渇きを苦しさうにして、無言のまゝコメカミの方を指さした。今更そんなことを訊ねたつてあたりのつく筈もないのに大変感の鈍い私は自信深さうに、
「そんなら心あたりがついたよ。そして、徳利の包みのやうなものは大丈夫らしかつたかね?」
 などゝ「木兎」の破損を気づかつたりした。岡も余程気分が転倒してゐたと見えて、時間の感念に気づかず、自分は脚がのろくて到底追跡の役には立たないから私に一切を頼む――。
「大分彼等は大風呂敷をひろげたと見えて、おでんやの親爺は未だに彼等を信じてゐて、さつきも建具屋などが這入つてゐたが、これしきの損害なんてお易い御用だ、なにしろあのミヽヅクはロダンの高弟のオーギユスト先生の作で、時価三千円だといふはなしぢやありませんか――だなんて云つて眼をまるくしてゐるんだからね。」
 となさけなさゝうに口真似しながら日向の縁側にごろりと寝ころんでしまつた。丈が低くて二十貫もあるほどの横肥りにまるまるとしてゐる岡のことを大二郎が、石地蔵と仇名したのは幾分うなづかれもするが、オーギユストとは乱暴すぎる――。
「むしろ悪党だ!」
 と呟き、それにしても弁舌達者の「悪党」達が和尚の手玉にとられた光景を小気味好く想像しながら私は洋服に着換へはじめた。私は、彼等二人が米神の太十のところへ赴いたのに相違ないと考へたのだ。
 間もなく両腕に買物の包みを満載した妻君が口笛を吹きながら戻つて来たので、財布を私が借りようとすると、米神なら一処に行かうと云ひ出した。彼女は、稀な買物のために浮々として碌々私の云ふところも聞かなかつた。
「ともかく、りら子さんを招んでおいでよ。三時にレゾートで待合さう。お化粧なんていふことを忘れてしまつたので、仕度が少々手間どれさうだから……」
 りら子のところへ赴く途中、町のうちの心あたりを二三たづねて見よう――と私は気づいた。岡は、縁側に座蒲団をならべて、いつの間にかぐつすりと眠つてゐた。
「買つて来てあげたよ。」
 私が靴を穿いて裏木戸の方へ回らうとしたとき妻君が、きらりと光るものを縁側から投げて寄したので享けとつて見ると銀メツキ製のライタアだつた。――もうひとつ! と云つて、やはり銀色の軽々しいシガレツト・ケースを投げた。いつか、りら子の友達であるといふ小説家の奥田林四郎(第一篇の登場人物)が、東京から訪れてゐた時、彼がとても巧者な手つきで銀の容れものから煙草をつまみ出して、見るからに伊達な様子でライタアを使ふ姿を、妻君も私も見惚れたことがあつたが、妻君は屹度あれを覚えてゐて自分の夫にも左ういふ粋な真似をさせたかつたのであらう。りら子が煙草をくわへる毎に林四郎は抜目なくライタアを点して差し出してゐたが、俺も今日からあの真似が出来るかと私はよろこんだ。
 私は、ともかく停車場裏居酒屋へ寄つて見た。
「えゝ、わかりましたよ。」
 亭主は私の顔を見るなり云つた。「新地(遊廓)へ繰り込んだのです。」
 亭主が告げた青楼は私の中学生時代の友達の家だつたので、出向いて行くのは気がひけたから電話で問ひ合せて見ると、遇然にもその友達――といふほどの仲でもなかつたが――が出て来て、
「あ、鶴井さんですか――」
 と、斯んな丁重な言葉つきだつた。「あなたのいらつしやるのをお待ちになつてゐるさうですよ、今朝から……」
「ミヽヅクの彫刻を持つてゐるか?」
「大丈夫なんでせうか、あれは――そんな値打ちのあるものなんでせうか。」
「そつちの責任は僕が負ふから、彫刻は鶴井君に持たせて、直ぐこつちへ来るように云つて呉れませんか。」
 私は憤つとした口調でそんなことを云ひながら電話を切り、直ぐに、妻君へつないで、青楼から行くであらう使ひへのことをはなした。――妻君は、何故か非常に笑つて、
「大ちやんの顔が見たいわ。」
 などゝ云つた。
「コメカミには行かないでも済んだよ。でもやはりフジヤへは行くかね。」
「行くわ。大公につかまらぬうちに、早くりら子さんを呼んで来て――」
 大二郎がミヽヅクを持つて来たら、断然とりあげて預つて置いて呉れといふことを私は亭主に頼んで、大いそぎでりら子のところへ向はうとした。そこで、停車場の前にまはつてタクシーに乗らうとしてゐると、広場を横切らうとした一台の車の中から、
「ミヽヅクがゐる、ミヽヅクの先生!」
 などゝ切りに私の方に向つて声を張りあげてる者があるので、車窓をすかして見ると、この麗らかな真つ昼間から、ぐでん/\に酔つ私つてゐる大二郎と閑吉であつた。
「ミヽヅクは持つて来たゞらうね?」
 二人は私の腕を両方からとらへて、そのことばかりを繰り返して訊ねてゐる私の言葉には耳もかさずに、傍らの休み茶屋へ引つ張り込んだ。
「ほんとうにミヽヅクの包みは何うしたんだよ。困るぢやないか、君たちは実に仕様のない酔つ私ひだね!」
「あんなものは女郎屋におつぽり放しにして来てしまつたさ。このミヽヅクさへつかまへれば、あんなものを持ち回ることはないんだからね。売れるかてえんだ、あんなミヽヅクの置物なんて……」
 まるで埒のない無頼漢だ! と私は渋面をつくりながら、
「売れるとか、売れないとかの、そんな場合ぢやないんだよ。君達だつて、その間のことは好く解つてゐる筈ぢやないか、何を馬鹿なことを云つてゐるんだ。」
 私は、大二郎が突きさす洋盃ウヰスキーを退けながら、その否を鳴らさうとせき込むのであつたが、あはてればあはてるほど言葉が支へてどぎまぎしてゐるうちに、ついグラスに口をつけてしまつた。
「ともかく、それは持つて来なければならないぞ!」
 私が立ちあがらうとすると、二人は左右からおしとゞめて、それならばわざ/\赴かなくても取り寄せてやらうと閑吉が早速電話に立つて行つた。
「何も君達が今更売口を探しまはることはないんぢやないか。」
「ところが、鬼塚の方では、あのミヽヅクでは御免だと云つてうけとらないんだもの。」
「そんな、はなしぢやなかつたがな?」
「何しろ岡の仕事と来たら千辺一律で、何を拵へても、――斯うだ!」
 大二郎は、私の鼻の先に、真正面の呆け顔を突き出して頤を伸し、
「これより他に出来ねえんだから厭になつてしまふぢやないか。ミヽヅクを拵へるにしたつて、ちつとは動きを工夫したらどうかと思ふのさ。人間をつくるにしたつて、ニハツトリを彫るにしたつて、どれもこれも前向きのでくの棒ばつかりで……」
「何云つてやがんだい。煩いぞ……」
「お前えの胸像だつて、あれあ何だい、出来損ひの曝し首見てえなもので、碌々似てもゐやしねえぢやねえか。好い面の皮だぞ。」
「君には岡の仕事は解らないんだよ。」
 いつか大二郎は、私の創作に対してもそれと似通つた罵倒を浴せて、それには私もうなづいて一言もなかつたが、岡のはなしとなると大二郎の言葉に反感を覚えた。
「解るも解らないもあるかと云ふんだ。」
 半ば戯れかと思つてゐたところが大二郎は、私に突つ離されると、急に剣を呑んだ表情に変つてドンと卓を拳骨で叩いた。――。
「今までだつて皆な俺の働きでやつと売れたゞけなんぢやないか。それをあの石地蔵の自惚野郎と来たら感違ひをして、俺をたゞの厄介者の居候だなんて……」
 云ひかけると大二郎は、突然体に似合はなく細い笛のやうな声を震はせてどかりと卓子に突つ伏してしまつた。私は、笑ひ声かと思つてゐると、やがて彼は、
「口惜しい/\!」
 と震へながら、その笑ひ声のやうな啜り泣きを次第に激しく昂ぶらせた。――私は驚いて大二郎の背中を見守るだけだつた。
 ……遊廓から持ち戻されたミヽヅクの像が、卓子の上に包みを解かれて、概ね同じ高さの洋酒の壜と肩をならべて大二郎の耳の傍らに立つてゐた。そして、大二郎の震へにしたがつて、壜といつしよにことことと揺れ、やゝともすると転倒しさうになるので、私は腕を伸して翼の肩をおさへながら、
「不思議だな、それは!」
 と、今迄の不満気な色を止むなく掻き消して当惑さうに首を傾けた。「鶴井と岡の間に感情の上の間違ひが起つてゐるのかね!」
「左うとも/\……僕は飽くまでも鶴井の立場に同情してゐるんだが。」
 閑吉が仰山な身振りでグラスを傾けながら、勿体さうに唸つた。
「俺にはさつぱり解らない。岡からは何も聞いてゐない。」
 閑吉が肩を乗り出して続けようとしたが、私は人事のいきさつに関する閑吉の言葉には信を置くことは出来なかつたし、また決して訊ねたくはなかつたので、ミヽヅクの肩をおさへたまゝぼんやりと大二郎の愁嘆の有様を眺めるだけだつた。閑吉が煽情的な感傷調で伴奏を入れたりするせゐか、大二郎の啜り泣きは益々火の手をあげて駈け回り、上体を激しく身悶えるので、壜までも危くなつたから私は両腕を伸してしつかりと二つのものを握る他はなかつた。男が声をあげて泣く態といふものは、そのいはれに頓着なく、実に奇怪な悲壮味に富むものだ! などゝ私は思つた。
 それにしても、もうをさまるかをさまるかとおもつてゐるのに大二郎の啜り泣きは、
「考へるだけ癪に触るのはあたり前なんだ。」――「君の心持は俺より他には誰も知らないんだ。」とか「俺も泣けさうになつて来るぞ。」などゝいふ閑吉の空々しい言葉に煽られて、やがて完全な泣き喚きに変らうとするので、私は息苦しくなり、思はずグラスを重ねながら呟いた。
「単に疲労のための亢奮で、それは一時的の神経衰弱なんだよ。僕も徹夜をつゞけて仕事をした時なんか、何んでもないことに涙が滾れておかしくなることが時々あるんだが、君達はミヽヅクなんかを持つてあちこちと駈けまはつた挙句酒浸しになつて乱暴な遊蕩に耽つたりした疲労のために錯覚を起してゐるんだ。」
 おや俺も酔つて来たかな! と私は思つた。「ふん、くだらぬ理窟をつけるない。」
「さう云はれゝば一言もないが……」
 閑吉は厭に神妙にがつくりとして、胸を叩いてゐたが、やがてこれも「クツクツクツ……」とせき込んで来たので、いつものやうに人を馬鹿にしてゐるのか、私は頭を擲つてやらうかと、あはやミヽヅクをおさへてゐる方の腕を離さうとした時、彼は更にクククと咽んで、大二郎と同じやうに卓子に突つ伏してしまつた。――こいつも泣き出したのかと気づくと、生臭いやうな不気味な風に吹かれて、私は何うすることも出来ない居たゝまれなさに襲はれた。
 広場に溢れてゐる白い明るい光が私達の脚もとのあたりまで、深々と射し込んで、三体の人物はさながら、見るも味気ない舞台の上の仕出しのやうであつた。原因も解らぬ涙に掻き暮れてさめざめとしてゐる二人の人物の間にはさまれた一人の男は、ミヽヅクの置物をつかんだまゝきよとんとしてゐる――何といふ得体の知れぬ場面であらうなどゝ私は思つてゐた。おもてを通る往来の人達が、不思議さうな顔をして次々と覗いたが、私が眼ばたきもしないで返つてそれらの見物人の顔を見守るので、皆は妙に慌てゝその上その場面はそれ以上に決して発展しないので、つまらなさうに行き過ぎた。私は、筋も知らない芝居を途中から見物しはぢめたやうな気分で、自分が登場者となつてゐる舞台をたゞ漫然と考へてゐたゞけなのである。そんなに思ふと、この白つぽいレストランの上手の壜棚や電話口の傍らに立つてゐるボーイの風情から、また硝子窓の外を行き交ふ往来の人の上半身の働き、停車場を乗降する遊山客の出入まで、悉くが何かの芝居の舞台面である通りに映つてならなかつた。だから間もなくボーイが私を電話に呼んだ時など私は、明らかに役者の心持になつてしまつて、まるでそんなト書でもあつたかのやうにミヽヅクの置物をつかんだままゝ何も考へる内容などは無かつたくせに、ハツと驚いて、軽く不安の首をかしげるやうな思ひ入れと一処に立ちあがつた。
「はあ、はあ! だなんて何を云つてんのよ、まさか酔つてゐるんぢやなからうね?」
 妻君からであつた。
「はあ――いゝえ……あゝ、さうかね。もつと、はつきり云つて呉れ。ミヽヅクはとりかへしたさ、大丈夫、こゝにちやんと持つてゐるよ。」
「いゝえ! そつちのミヽヅクぢやないんだよ。うちの木兎が死んだといふのよ。」
「えツ! 俺の木兎が死んだつて!」
 私は愕然として飛びあがつたが、何故か斯ういふ驚きを役者として表現するには何んなジエスチユアを執つたら適当であらうか? などゝいふ馬鹿気た考へに囚はれてゐた。そのくせ私は、悲しみと驚きのために夢中であつたのに、それをそのまゝ現はしたら芝居がぶちこはれて了ふかのやうな懸念に襲はれたりして、故意と易々さうにつゞけた。
「さうかね――ぢや剥製にするからそれはそのまゝそつとしといてお呉れよ。あゝ、自分で拵へるさ。硝子の眼玉がいろ/\と僕の卓子の抽出に這入つてゐる答だが、木兎のは特別だから東京へ注文しなければならない。」
「そんなことを今あたしに云つたつてはじまらないよ。」
「死んだら死んだで好いさ、まさか殺すわけにも行かないのであゝやつておいたのだが、僕は一層ずつと前から剥製にしたいと……」
 私はぺらぺらと喋舌つてゐたが、不図喉のあたりがグウツといふ音をたてゝ塞がつて来たので、受話機を握つたまゝ横を向くと真向きの壁に懸つてゐるビールの広告鏡に全身が映つてゐるのに気づいた。で、思はず自分の顔を眺めると、凡そ、そんな洒々としたセリフを吐いてゐる人物の表情とは似ても似つかない真赤な鬼の面で、極度の額面神経の緊張のために片方の眼はまんまるくぎよろりとしてゐるのに片々の方は般若のそれのやうに口の端といつしよに引き吊られて、おまけに籔睨みらしく黒眼が眼眦に隠れかゝつてゐるのであつた。そして、見る間に丸い方の眼玉から大粒の涙がぽろ/\と滾れ落ちた。
「それよりもね、りら子さんが折好くいらしつたのよ。あなたと行き違ひになつたのぢやなかつたかしら?」
「やあ、それは都合が好かつたね。さつきからこつちは待ちくたびれてゐるのさ。ハツハツハ……」
 と私は、意味もない笑ひ声などをつけ加へたが、それが啜り泣きの声の代りになつてゐるので、気勢をあげて、剥製だとか、りら子さんだとかとのべつに喋舌りつゞけながらひんぱんにワラヒ声をさしはさんだ。それにしても私は、自分の顔つきが、そんなに変ることに驚いて、鏡を眺めてゐると、うしろの今迄卓子に突つ伏してゐた閑吉が不意と顔をあげて、大二郎の肩を叩くと、二人は顔を見合せて、たしかに笑つたのである。しかし私は、そんな場合に瞥見する人の表情を、笑ひに見えても笑ひと断定する勇気に欠けてゐた。大二郎がさつき泣き出した時だつて、私ははぢめ笑つたのかと誤解したから――。
 だが私は、その時閑吉が長い舌をべろりと出したのを見たのだが、彼等は斜めうしろの鏡に自分達の姿が映つてゐることは気づかぬらしく、また私がはなしを終へて卓子に戻るとミヽヅクを抱へたまゝ「ハツハツハ……」とせき込んだまゝ泣き伏した時には、前と同じやうに突ツ伏して背中を震はせてゐたので、後になつて考へても彼等の意中は私には解らなかつた。
 私は、酔が手つだつてゐることを知りながら、尚も切りにハツハツハ……といふ私としては全く新奇な声をあげて泣いた。しかし私はやはり舞台の夢に囚はれてゐることを忘れなかつた。それで返つて楽々と泣ける気がするのであつた。何が悲しいのか、好くは解らなかつた。大二郎や閑吉の意中の想像もつかないのが、嘆かはしくもあつたが、たゞ、いつそこつちも泣いたからには見得好く振舞つて、舞台の効果を努めようといふ風な芝居気にも手つだはれてゐたと、強ひても思ひたかつたのである。
 そのうちに私は、うとうととしていくらか眠つたのかも知れなかつた。舞台には、晴着をまとふた二人の婦人が登場して、爽やかな科白をとり交してゐるのを私は夢心地の薄眼で、卓子に伏したまゝ腕の間から見た。
「あんた達が居るんなら来るんぢやなかつたのに――しまつたわねえ、りら子さん。」
「閑スケなんて早く何処へでも行つてしまへば好いんだよ。くだらないことばかり云ひふらして、皆なの気持を悪くさせて、左うしては自分はあつちこつち飛びまはつてお酒を飲むことばかり考へてゐるやうな奴!」
 そんな酷いことをりら子につけつけと云はれても、閑吉はにやりとしてゐるだけで、まるで手応へがなかつた。
「大ちやんだつて、閑スケの云ふことなんてほんとうにしたら、つまらないわよ――いらないわよ。」
 りら子は閑吉が差し出したマツチをフツと吹き消した。「自惚れも好い加減にするが好いわ。あたし、あんたのことなんて、嫌ひと思ふほども考へたことはないのよ。」
「泣け泣け、閑スケ!」
 大二郎が重苦しい調子で半畳を入れた。
「どうもバツが悪いぞ、泣くより他に手はないかな。」
 閑吉はぬけ/\とそんなことを云つてゐるのであつた。「大ちやん――さつきのでんでお前から先に演つて呉れよ。」
「うちの人は、ほんとうに眠つてしまつたのか知ら?」
「えゝ、さつきからぐつすりです。」
 大二郎が妻君に答へてゐた。「今日は、はじめから妙に亢奮してゐるらしかつたですな、徹夜で仕事をした後などは、何でもないことにひとりでに涙が出て来るやうな一時的の神経衰弱に襲はれるものだなんて云つてゐたが、左う云ひながらも、その時眼が沾んでゐるぢやありませんか、僕も酔つてゐたせゐかついそれに誘はれて泣き上戸を演じてしまつたんだが――そんなことは度々あるんですかね。」
「そんなことありはしないわよ。」
「馬ちやんも閑スケがうつツて、大した法螺吹きになつたのね。自分達がミヽヅクを持ち逃げして、皆なに迷惑をかけてバツが悪いもので、酔つた振りでもしたんでせう。」
 私は、りら子の言葉の調子が、まるでいつもと違ふのに止惑つた。大二郎や閑吉とは、私よりも先にりら子は知り合ひだつたので、そんな風に無遠慮なのかしら、そして若しそれがりら子にとつては自然であるのならば、自分にも、あんな風に生真面目に芸術論を吹きかけるやうな堅苦しさは止めて、こんな態度になつて呉れた方が望ましいが――などゝ思つた。
 頬を腕に載せて首を横にしたまゝ薄目を閉ぢたり開いたりしてゐる私の眼に妻君とりら子の姿がちらちらと映つてゐた。私は、いつにもそんな晴れやかな装ひを凝した妻君の姿を眺めた験しもなかつたせゐか、断髪をあきらめて肩の上まで延しかけてゐた髪にパーマネント・ウエイヴを懸けたり、眼のまはりには大胆なシヤドウやアイ・ブロウを施し、親譲りの pax から鋳造して真珠をつけた金色の馬蹄型を吊つた首飾りをかけて、細巻の煙草などを喫してゐる様子を眺めると、まるで別人を見る感であつた。傍らのボストン・バツクの上に脱いであるクリーム色のフアコートは見覚えがあつたが、帽子もドレスも靴も全く私には目新しいものらしかつた。自分のものばかりをそろへては悪いと気づいたのでうちの人にはとても高価な莨入を買つたのよ――などゝ自慢しながら「それで漸く支度がそろつていよ/\東京へ行くことに決めたのよ。」と妻君は云つた。
「大した支度だな! それで僕達もいつしよに伴れてつて呉れないかな。」
「遊びぢやないのよ――前々からの計画をやつと実行出来ることになつたのよ。居るところが定つたら……」
「呼んでやらないつてさ。」
 と、りら子がわらつた。
「うちの人にね。これから東京の間阿さんと鱒井さんに手紙を書いて貰つて、あした行くんだけれど、もう家には戻らなくつても好いことにして来たのよ。」
「…………」
 いよ/\東京へ行けるのか――と私は思つた。もう二年ちかく斯んな近くに居ながら一度も行つたことがない東京の光景を、私は新しい作家である鱒井達の文章から想像して見知らぬ空のやうにおもつた。
 卓子のまはりでは間阿と鱒井のことが爽やかな話題となつてゐるらしかつたが、私は不慮の酔と木兎の悲しみと、そして東京の夢とでうつら/\と顔を伏せてゐた。どうやら東京行に関しては妻君とりら子の間では前々からの約束があつたらしく、去年の秋頃私のところに遊びに来た時にこゝの店で見たといふ間阿と、そして作品から想像する鱒井とに会へるといふことにりら子は切りと胸を踊らせて、
「屹度鱒井つて人は、林四郎見たいな不真面目な人ではなくつてひとの心持を綺麗に大事に聞いて呉れる人のやうな気がするわ。」
 などゝ微笑んだ。「そして、あの間阿さんは――」
 私にはりら子の表情は見えなかつたが、彼女が左う云ひかけると、大二郎と閑吉が、
「てえ/\!」とか、
「小説家になりてえや!」
 などゝ邪魔を入れた。いつか山径を二人で歩いた時に、りら子は私の肩に腕を載せて、世の中で一番親愛と好意を持つ人物は私であるといふやうなことを云ひ、それ以来私はあんなにぼつとしてしまつたのであつたが、今聞く彼女の言葉に依ると、彼女の最上の好意と親愛はどうやらその二人の上にはつきりと配けられてゐるらしかつた。左う気づくと私は、大二郎と閑吉のそんなふざけた言葉にも同意して、せめて顔をあげて自分を嘲ける笑ひでも浮べたかつたが、何うしても持ちあげるほどの軽い頭にはなれなくてそのまゝ、見る間に表情がさつきの鏡に写つた時と同様に凝固して来るのを覚えた。
 妻君が大二郎に何か囁くと、
「その方のことならひきうけた!」
「ではあしたの午までにまた此処で待ち合せませうよ。」
 と閑吉と共々に立ちあがつて、景気好く立去つて行つた。
「木兎はあれつぱなしにして来たけれど?」
 妻君が私の肩を叩いて云つた。
「ほんとうにあした東京へ行くの?」
 私は顔をあげると、すつかり舞台の自信を失つてしまつたかのやうにどきまぎして、
「岡が知つてゐるのなら安心だ。どうせあの眼球はあつちへ行かなければ買へないんだから、小包みでゞも送つて貰はう――それに未だどうせモデルには時々帰つて来なければならないし――」
 などゝ喋舌り出したが、妻君とりら子の姿が見境へもつかぬやうに眼の先がちらちらとして心もとなく、これはいけない、落つかなければならないと懸念して、
「車の用意が出来たようですぜ。どれ、出かけようぢやないか。夕暮時の山径は風が寒いだらうよ。」
 など悠やかに胸を張つて、まあ一つおつけなさいとばかりに二人の前に差し出した莨入の蓋をぱちんと開き、いつの間にか黄暮めいた霞が棚引いてゐる山々の彼方を斜めに見あげながら、チヨツキのかくしからつまみ出したライタアに巧みに火をともした。明神ヶ岳の山裾から、ヤグラ岳、金時山の頂きにかけて翼を伸した陽りが、山襞※(「ころもへん+責」、第3水準1-91-87)に添つてぢくざくに光つてゐた。ヤグラ岳の麓の鬼塚村を訪れた時私があの木兎は素手で捕へたのだ。
「何を考へてゐるの、あした東京へ行かれるときまつたら急に元気になつて――」
「それ何なの、何の芝居の真似なの?」
 いつまでも突つ立つてゐる私を、つまらなさうに見て二人が呟いだ時、不図私は山の頂きから莨入の上に眼を落して見ると、それは全くのカラで、幾らのであつたか忘れたが、内側には安い定価のレツテルが貼つてあるまゝであつた。





底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
   2002(平成14)年7月20日初版第1刷
底本の親本:「酒盗人」芝書店
   1936(昭和11)年3月18日
初出:「文藝春秋 第十一巻第三号」文藝春秋社
   1933(昭和8)年3月
   「文藝春秋 第十一巻第六号」文藝春秋社
   1933(昭和8)年6月
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月15日作成
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