女優

牧野信一




 文科大学生の戸田の神経衰弱症が日増に亢進してゐる模様だつたので、私は彼を百合子に紹介した。百合子は女子大に通つてゐたのだつたが、彼女の都会生活の風聞に関して、実家の人達が極度の寒心を覚えて反対するところから、通学を断念してゐた。そして、仏語の家庭教師を欲しがつてゐた。
 あの閑静な田舎で、百合子の語学研究の相手でもしながら田園生活に親しんだら、間もなく戸田の病気は回復するであらう――と、私は考へたのである。
 これは、戸田の、或る草稿からの抜萃である。


 どういふわけか僕といふ人物は、誰にでも、凡そ女のことに関しては、大丈夫な男である――と信用されるのが習慣であるが、この家でも矢張り間もなく絶対信頼をされてしまつて、はじめのうちは近所の農家に間借りしてゐたのだつたが、百合子の母親のすゝめで、此方に同居することになつてしまつた。
 母家と池を隔てゝ築山の木陰にある古い西洋館の一室を与へられた。百合子の書斎もこの二階にあつて、食事と眠る時の他は大概此方で暮してゐる。休暇中の男女の学生の友達と百合子の往来ゆききはさかんで、麻雀などがはぢまると徹夜になつたりすることもあつたが、僕が居る間は、何事も安心だ――と彼女の母親などはすつかり落付きはらつてゐた。
「この間までは、少し遅くなると何うも心配で時々のぞきに来ずには居られなかつたのですが、左うすると百合子は不機嫌で、窓から飛び出して夜遊びに出かけるなんてことになつたんですもの……」
 余程母親の眼は煩さかつたものか、今でも彼女達は往々窓を抜けて、夏蜜柑の樹が繁つてゐる裏庭から、更に塀を乗り越えて出入するのを僕は屡々眺めるのであつた。母親の態度も少々極端で、百合子が泳ぎに行きたがるのさへ面白がらぬ程だから、無理もないとは思ふものゝ、決してそんな仲間入りはしない僕から見ると、奴等のカラ騒ぎには反感を覚えるのである。――しかし、未だ海がさかんであつた時分、朝毎に百合子が此処を脱出する光景は仲々観物みものであつた。恰で脱獄者のやうであつた。
 二階の窓から縄梯子をぶらさげて、水着ひとつになつた百合子が、真下の僕の窓先とすれ/\に降りて来るのだ。僕は窓下の机に四角張つてゐるのであるが、彼女のサンダルをつけた脚だけが先に恰度僕の頭の上あたりに現れて、直ぐに梯子を巻きあげて呉れといふ合図のために窓の端をこつ/\と蹴ると額にでもその爪先があたりさうだつた。これでは、さすがに僕の胸も震えた。恰も裸形の、あの美しい百合子の五体が、爪先から順々と降つて僕の顔を撫でゝ行くやうなものだから、――そして彼女は、庭に降り立つと、母屋の方へ向つて会心のウヰンクを投げたかと思ふと(ペロリと赤い舌を出すこともあつた。)雉子のやうに木蔭に姿を没するのであるが、同時に僕は慌てゝ梯子を巻きあげるために二階に走つて、見ると、百合子の赤い帽子が非常な速さで灌木の間を縫つて行くのが窺はれるのだ。白壁の土蔵の横に裏門が見えるが、彼女は反対の塀側に駆け寄つて行くのである。凡そ一丈あまりの板塀であつたから、相当に練達はしてゐるものゝ踏台をもとめなければ飛びつくことは不可能なのである。だから彼女は大概の場合、塀の上に枝を張つてゐる百日紅の幹をねらつて、機械体操もどきに飛びつくと、一気に長い脚を直角に塀の上に伸して蝙蝠となつてぶらさがるのであつた。
 理不尽な厳しさで監視の眼などをそばだてるので一層彼女の態度が反撥的になるのではあらうが、しかし百合子の振舞ひは、その他さま/″\の場合に乱暴であり過ぎるのは事実だ。
 午後僕は附近の沼に浮遊生物プランクトンの採集に出かけるのを日課としてゐたが、その頃の百合子の帰り途を沼の傍らで待ちうけることを彼女から懇願されてしまつた。
 倉田といふK大生や、洋画家の流山などゝいふ友達と伴れ立つて百合子は、夕やけのする時刻に戻つて来るのだつたが、今度は僕が先に裏門からあたりの様子を窺つた後に合図を送るのであつた。そして人の気勢けはひの無いことを見定めると彼女は矢張り百日紅の枝が伸びてゐる塀を越えるのだが表側からだと脚場がないので僕の肩車を借さなければならなかつた。倉田や流山がその役目を務めたがつてゐるといふことだつたが「この二人はね……」と百合子は彼等の眼の前に憎々顔を突き出して嗤ふのであつた。「変態なのよ。脚なんかに触られたら妾ゾツとしてしまふわ。」
 そんなことを云はれても、その二人の学生はたゞにやにやしてゐるだけだつた。――僕が両腕を塀に突つ張つて踏台になると、彼女は僕の背後から砂だらけの脚で僕の肩に飛び乗り、腕を伸して杖にぶら下がるのだが、一気には脚が塀の上にとゞかないで、さかんにもがくために砂がばら/\と滾れ落ちて僕の襟首へ降り込んで来るし、僕は到底眼を開くことも出来なかつた。泳ぎ疲れてぐたぐたしてゐるせゐか、折角の塀の上に懸らうとした脚が突つぱづれて、厭といふほど僕の脳天にあたつたりすることも珍らしくはなかつた。――ところが斯んな苦痛が、実は僕もそんなに不愉快でもないところをみると、百合子の云ふあの二人よりも僕の方がしからん男かも知れないのだ。信頼を幸ひとして仲々油断のならぬ家庭教師だぞ!
「俺は百合ちやんが、今、水着を脱いでシヤワアを浴びてゐることを想像すると、何だか体中が擽つたくなつて、涙が出さうになつて来るんだよ。」
「凄え肉体美だらうな。」
 倉田と流山は、浴室へおくる水あげポンプの把手ハンドルにつかまつて、息を殺してあをつてゐるのであつた。いつも三十分もあをらせられるのであつたが、一度その間に僕は自分の部屋に戻つて砂をふるつてゐると、びしよ濡れの百合子がタオル一つの姿で平気で僕を招んで、彼等が好い気になつてポンプをあをつてゐるのが癪だから、僕に、そつと浴室に来て、滝を浴びて御覧とさゝやくのであつた。そして、好加減の時分に窓から顔を出して「どうも有りが度う!」
 とでも云つて御覧な、その彼等の失望の顔を見てわらつてやりたいのだ――僕の当惑するのも関はず彼女はぐいぐいと僕の腕を引つ張つて、湯殿におし込むので、僕は命ぜられるまゝに烈しい勢ひで降りかゝるシヤワーを浴びて、そして、窓から顔を出してお礼を云つたところが、二人は憤つとして、そのまゝ帰つてしまつたことがある。
「それ位のことをしてやつても関やしないのよ。だつて二人ともあんまりしつこいんですもの。あゝいふ人達妾はとても嫌ひなのよ、来なければ清々と好いわ。」
 ところが二人とも、そのまた晩になると、花束などを持つて、却つておど/\しながら相前後して訪れて来ると僕に向つて、あべこべに先程は失敬したなどと云つた。
 ――倉田も流山も、たしかに常規を脱してゐる! と僕は思つたが、不図自分の立場を振りかへると、名状し難い焦慮と寂莫に打たれた。同時に僕は百合子に対して涯しもなく漠然とした嫉妬を覚えるのであつた。
 百合子の母親は継母であるといふことを、僕はつい此頃になつて知つた。


「流ちやんのことを、先生は何う思つて?」
 或晩百合子は不図僕に左う訊ねた。画家のことを皆なは流ちやんと称んでゐた。「何う思ふツて?……」
 突然のことで僕には意味が解らなかつたが、左う云つた時の百合子の眼差に僕はこれは冗談ぢやないぞ! といふ直覚的の閃きを感じてぎくりと胸を打たれた。
「あの人、嫌ひ?」
「嫌ひも好きもないけれど――突然に変なことを訊ねるんだな!」
「妾、あの人があんまり熱心に云ふのでモデルになることを承知しようかと思つてゐるんだけれど……」
 自分の絵が展覧会に出れば、それを口実にして東京へ行かれるから――などゝ百合子は云つた。
 僕は無闇と反対を称へたくなつたが、それもあまり估券にかゝはるような気がして凝つとこらへた。村端れの岬にあるホテルで週末のダンスが開かれる毎に百合子は僕を誘つて、出かけるのであつた。僕は、踊りなんていふものは苦手であるのだが、百合子が単独の外出を許されぬので往復の道伴れとならなければならぬのであつた。――いつの間にそんな約束が出来てゐたのか僕は気づきもしなかつたが、途中で百合子は画家のアトリエに寄つて、散歩服をドレスに着換へるのであつた。いつ運ばれたものか、百合子の衣裳トランクは三つも持ち込まれて、壁にはとりどりのドレスがずらりと並んでゐた。画家なんてものは女に好かれるのは当然だと僕は沁々と感心したものだが、今夜はこの着物が好からうとか、花はこれを胸につけてとか――その流山の熱心な配慮と云つたら到底あたり前の男には真似の出来ない興味の持ち方で、加けに彼は、巧みな手つきで髪のウエーヴも試みるし、化粧も手伝ふし、恭々しい素振で靴までも履せることを厭はなかつた。僕は腕を組んで呆然と見物するだけだつた。ダンス場の外人客の間でも百合子が素晴しい人気を博してゐるが、まつたくこの画家の細心の配慮で仕上げられる彼女の姿は、僕でさへも見違へるほど立派なレデイ振りであつた。
 それにしても、つい此間まで、あんな風に軽蔑してゐるかのやうであつた画家に対して、此頃の百合子の態度が従順であり過ぎるのを不思議と思つてゐると、
「若しか先生が誤解をして、母さんの口にでも乗せられたら大変だと思つてゐたので、妾達は要慎えうじんしてゐたんだけれど、いよ/\それも大丈夫と解つたから、もう何も彼も云つてしまふけれど、妾が東京へ行くためにはどうしても流ちやんの力を借りなければならないわけがあるのよ。」斯う云つて百合子は、凝つと山の方へ眼を挙げたことがあつた。
「そんな苦心をしてまで東京へ行かなければならないの?」
「云ひ憎いわけがあるの。何時帰るか解らないけれど妾が手紙をよこすまでは、何とかうまいことを云つて家に居て下さいね。」
「三日月藻、つりがね虫、みぢん粉、そして枝角類はいろ/\と実験出来るんだが、アミーバには未だ一度も出遇はないよ。」
 承諾の言葉の代りに僕は、そんなことを答へた。
「さう/\、あの顕微鏡は紀念に贈呈するわ――それはさうと妾はすつかり流ちやんを瞞してゐるのよ。」
「瞞した!」
「いろんなものを運び出して――流ちやんに手伝つて貰つて、だつて、家を逃げ出さなければならないんですもの。」
 ホテルの帰りにアトリエの前で画家と別れると、いつものやうに着換へに立寄るのを止めて、僕と百合子は馭者台に並んで馬車を駆つてゐた。一頭だての、古い馬車を使つてゐた。三日月が山の端に傾いてゐた。道端の草むらでは、もう秋の虫がさかんに鳴いてゐた。
「妾、流ちやんに接吻されたわ。――仕方がないや。」
 馬が蹄の音をたてゝ駆け出した時百合子は、とても大きな声でそんなことを叫んだかと思ふと突然にぎやかな笑ひ声を挙げて僕の肩にぐつたり凭れかゝつた。


(戸田の手紙)
団百合子さんが、沼辺テル子といふ名前で或る左傾劇団の女優になつたといふことが知れました。そのために家庭は毎日大騒ぎです。放擲せよといふ側と、その反対派との二手にわかれて論議はいつになつても解決されさうもありません。画家は、彼女の家出の単なるダシに使はれたことを悟ると極度の厭世観に囚はれた揚句八丈島へ旅立つたといふことです。あのアトリヱにいろ/\持物を運んだのは、それを売却して当分の生活費にあてようといふ彼女の計画だつたのです。画家の胸中も察するにあまりありますが、彼女の最後の美しい姿を画布に描き、接吻さへも許されたことを思へば、満足としなければなりますまい。実際、そのことを彼女から聞された時には小生などは羨望のあまり思はず昏倒しさうになつた程でした。純白のドレスを纏ひ、銀色の靴を履いて薄月夜に照らされてゐたあの晩の彼女のあでやかさを小生は生涯忘れることは出来ぬでありませう。今に思へば、家庭教師としての小生の立場は、彼女の計画を進めるために誰よりも役立つた奴隷であつたに違ひありません。未だに此処に残つて小生は、彼女のためにあらゆる弁護につとめてゐるのですから、――例の如き小生の「信頼される風格」がなかつたら、おそらく小生にしろ彼女から感謝の接吻をさゝげられたことでありませう。それと云へば、画家ばかりではなく、倉田なども、彼女からは随分と甘い囁きを与へられたと、この倉田は仲々露骨な男で寧ろ得意顔で吹聴します。
「俺には何も彼も解つてゐたんだが、何も知らないつもりで、窓から持出す荷物運びなどを手伝つてゐたんだが、彼女は仲々上手うはての役者で、ほんとうに俺に恋してゐるやうなことを云つたものだ。内実は何うであらうと、あれ程のシヤンと、甘いことを囁きながら腕などを組んで沼のふちを歩いたり出来ればそれだけで大した気分ぢやないか。」
 彼は何の未練気もなく斯んなことを喋舌つて、「それにしても君は俺達も、左う思つてゐるんだが、珍らしく淡白な男で、却つて、何をして貰ふにも一番気骨が折れるなんて彼女は面倒がつてゐたよ。」
 まさか、胸中はこれ/\だなどゝも今更云ふことも出来ないので小生が白い顔を保つてゐると、倉田などは不思議さうに小生の表情を眺める程であります。
 囲みを破るためには随分と彼女は永い間、用意を怠らなかつたと云ふべきでありませう。おそらく家庭教師の紹介を貴兄に乞ふ頃から、その教師の利用法を考へたものなのでありませう。
 島へ立ち去つた画家の胸中が小生には最もぴつたりと映るのであります。小生こそ、この思ひをゐやすためには八丈島よりも遠い処へ行つてしまひたいとさへ思ひますが、考へるまでもなくあまりに荒唐無稽な内容で、たゞ息苦しい滑稽感に誘はれるのみで、云はばこの空しい「牢獄」で、心細い夢に耽るばかりであります。彼女が縄梯子をつたつて窓を抜け出して、ひら/\と身をかはして忍び出て行つた光景が、はつきりと眼に残つてゐる次第であります。あんな身軽さで、物々しい障碍物を飛び越えて行く術が、あんなに巧みであつたことなど思ふと、この比喩アレゴリイは少々幼稚に堕して滑稽ですが、何んな追手がさし向けられたところで到底つかまるものではなからうし、よしや一度は引き戻されたとしても、忽ち自由の舞台へ逃れ出してしまふに違ひないなどゝ考へられるのであります。小生は彼女の憧れの世界を想像すると、いつかの晩、あの舞踏会の帰途を馬車を駆つて月夜の街道をたどつて来た時の彼女の姿が、彼女の憧れのすがたを、そのまゝ地上に描き出したと思はれて息塞いきづまる程の恍惚に打たれるのです。思ひ出せば思ひ出す程美しい晩でした。森の上にあがつた円い月が、畳々たる田畑の青海原に隈なき光りの翼を伸べひろげて濛々と涯しなく霞んでゐました。その霞を衝いて、夢うつゝのなかにれきろくたる轍の音を耳にしながら微かな彼女の重味を片脇に感じて手綱を執つてゐる小生の魂は、車もろともふわ/\と天上して、一切の地上にある概念を忘れ果てました。われわれの姿は月の光りの中に水のやうに溶けてしまつて、何処に何う踏み迷つてゐるのか皆目あやめもつかぬ素晴しく豪華な烏頂天の極みでありました。そして、その思ひが、そのまゝ今も尚そうろうとして小生の魂を包みきつてゐるのみであります。あゝ、彼女は、あの月の美しい夜、煙りとなつて何処かの空へ消えてしまつたのだ。
 爾来、小生のあはれな不眠症は、花やかな思ひの中に亢進しつゞけるのです。この上の彼女の空部屋に稍ともすると小生は彼女の靴音を想像します。昨夜などちよいと、うとうとしたかと思ふと、天井から砂がばら/″\と降つて来て――と気づくと、それが芝居の雪のやうになつたり、さうかと思ふと小鳥の羽毛のやうな感触で小生の顔となく胸となく、こんこんと降り積つて、見る見るうちに小生の肉体は長閑な吹雪の下に葬られてゆくのです。……こんな小生の突飛なセンチメンタリズムをおわらひ下さい。しかし、夢は更に、しきりとつゞいて、小生は、再び気を取り直して眼を見開いて見ると、壮烈な花吹雪を犯して一散に馬車を駆つてゐます。彼女は、白い羅衣うすぎぬをまとひ白百合の造花を胸につけ雛芥子の花で飾つたボンネツトを被つたあの夜のまゝの彼女は、月の光りに酔ひ痴れたやうな放心状態のまゝ、小生の片腕に人魚のやうに凭りかゝつてゐます。あゝ、それは、夢うつゝではないまさしくあの晩の彼女の姿です。
「私の腕は何うして斯んなに震えるのでせう。」
 と小生は、あの時右手で彼女の肩を覆ひながら云つたのです。「この先に私を待つてゐるものはたゞ止め度もない悲しみばかりでありませう。」
「まあ、先生たら今夜は何うなすつたの、ヨカナアン役者の声色見たいに……」
 彼女は、わらつて小生の胸の中に顔を伏せました。
「手綱に力を容れすぎるから震えるのですわ……離しても大丈夫よ、駆けるだけ気まゝに駆けさせて置きなさいな。そして、両方の腕で、もつとしつかり妾を抱いてゐて下さいよ。妾……何だか、可笑しくつて仕方がないわ、あんまり踊りすぎたせゐか、体中からすつかり力が脱けてしまつて、水に浮いてゐる見たいにたよりないのよ……」
 そして、その時小生は両腕を拡げて、可憐に身悶えする白鳥を抱きかゝえたのであります。それから先のことが何うなつたのか何うしても思ひ出せないのです。水車小屋の主が翌朝早く小生の部屋の扉を叩いて、馬頭観音の祠の傍らで斯んな靴を拾つたと云つて彼女の銀色の片々の舞踏靴を渡すのです。――して見ると小生は昨夜彼女を両腕の中に載せたまゝ部屋に立ち帰つたに相違ないと、安心しながらその靴をふところにして、彼女の部屋へ行つて見ると、寝んだ気色もなく彼女のベツドはきちんと片づいて、窓だけがあいてゐます。落した靴を探しに行つたに違ひない、可愛相に! と気づいたので小生は、とるものもとりあへず窓から飛び出して、朝の野良道に走り出ました。水車小屋の主が起き出る時刻と云へば毎朝々々明の明星が空に輝いてゐる頃ですから、未だ漸く東の空が明るんだばかりの早朝で、見渡す限り露を含んだ青草がきらきらとしてゐるだけで、人の姿も見あたりません。小生は獲物をねらふ虎のやうな様子で、もう一本の靴を探しながら昨夜の道を夢中でたどりました。
 しかし、それが彼女の家出の朝であつたといふことを小生は村端れの駅に来てはじめて知りました。一番の列車で、スーツケースたつた一つだけ携へた彼女が煙草を喫しながら出発して行つたといふことを駅員からきゝました。――で、夢となると、月夜の馬車の中で小生の胸の上に突つ伏してゐる彼女が、不意に白い大きな蝶に変るのです。驚く間もなく蝶はひらひらと小生の腕を離れて舞ひあがるのです。忽ちのうちに森を越え、山を飛んで蝶々は指呼の彼方へ姿を没します。小生は捕虫網を夢中で振廻しながら、蝶々の後を追ひかけてゐるのですが、夢つて、滑稽ぢやありませんか。相変らず、それが夜で、小生の行手にはあのまんまるい月が、白くなつたり赤くなつたりして低い空にきよとんと懸つてゐるのを、小生は不思議とも思はずぴよん/\と駆けてゐるのです。
 残りの靴はその時停車場の帰りに、河堤つつみの蛇籠の上で拾ひました。何うして、そんなところに靴を落したのか、さつぱり見当もつきませんが、おそらく小生の腕の力が強すぎて、彼女が苦しまぎれに脚をばた/\と蹴つたはづみに取り落したのでせう。――流山がこれを小生のトランクから見つけ出して、是非欲しいと煩く云ふのですが、貴方の御手許まで小包で送ります。おついでの時に彼女へお渡し下さい。
 朝夕の沼には、もはや冬らしい霧が降りて、カケスの声がさかんであります。小生は、このまゝ当地で冬を迎へる決心です。――有吻類や鞘翅類を採集して来て、藻と共に水槽に飼育しましたところ、水に青みどろが生じましたので、不図気づいて、その一滴をデツキ・グラスに載せて覗いて見ましたところが、計らずも鮮かな放射線状の虚足を持つたアミーバを発見しました。夏の頃小生は、これを見つけたいと思つて躍気になつてゐましたが、考へて見ると余程頭が何うかしてゐたと見えて、まるで実験法をとり違へてゐたことに気づきました。沼から掬ひあげたばかりの青みどろを如何ほど大騒ぎをして実験したからといつて、アミーバが見つかる筈がありません。笑止千万な間抜けな業でありました。百合子さんが、若し貴宅を訪れましたらこのことゝ、そして、実家の思惑について依頼された守りに関しては、飽くまでも信用のある家庭教師が頑張るであらうから――とお伝へ下さい。冬の訪れは小生の夢を和やかになぢませて、ひたすらプランクトンの採集に没頭出来るやうになりました。彼女に関する思ひ出は、何んな一片をとりあげて見ても、それが悉く彼女の「演技」であつたのかと今にして思へば、あれこれと点頭かれて、胸中釈然、小生は女優としての彼女の将来に朗らかな期待を持つのであります。生徒の留守の間に滞在する家庭教師が、彼女の為にどんな類ひの活躍を続けるかといふことに関しては、折を見て報告いたします。ともかく小生は目下、貴作の「カルデアの牧人の歌」などを愛誦して、沼辺通ひに専念しながら、間もなく沼辺テル子が、単に「文学研究」のためにといふ名目のもとに、この家から東京通ひの出来るようになるためにと事をすゝめつゝあります。靴と一処に御手許に届く小包は、この夏から秋にかけての、かくの如き花やかな夢と息苦しき心境の許に小生が採集しました昆虫類標本の全部であります。いちいちの標本に関して、その採集月日、場所、種目と、それぞれの小生の心象の一端を御想像下されば、こんな手紙に幾倍も勝る小生、胸中のおもむきを御聯想なされて、長き今日此頃の一夜に、貴下の御笑草になりとも役立てば、などゝ愚考いたした次第でございます。不備。





底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
   2002(平成14)年7月20日初版第1刷
底本の親本:「モダン日本 第四巻第七号」文藝春秋社
   1933(昭和8)年7月1日発行
初出:「モダン日本 第四巻第七号」文藝春秋社
   1933(昭和8)年7月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月18日作成
青空文庫作成ファイル:
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