船の中の鼠

牧野信一





 都を遠く離れた或る片田舎の森蔭で、その頃私は三人の友達と共にジヤガイモや唐もろこしを盗んで、憐れな命をつないで居りました。あの村へ行けば、小生の所有になる古いけれどいとも大きな水車小屋があつて、明けても暮れても水車がどんどんと回つてお米を搗いて呉れるから、俺達の三人や五人は腕組をしてゐても安心だ、蜜柑畑もあるし麦畑もあり、海のやうに拡い稲の田もある、蜜柑を売り、麦は水車に搗かせてさへゐれば、お金は毎日毎日じやら/\といふ音をたてゝ蝗のやうに飛び込んで来る、それだからね、俺達は暮しの心配なんぞは無用で、「永遠の理想」のためと「尽きざる夢」のためにのみ根限りの頭をつかつて、互ひに一番、おもしろい小説を創り、精一杯の勉強をして来ようではないか――斯う云つて私は友達を誘ひ出したのでした。
 ところが、私達が谷を渡り山を越えて漸く水車小屋のある村にたどりついて、やれ嬉しやと胸を撫で降しながら小屋の扉を開けると、小屋の中には私の見も知らぬ荒くれ男が七人も十人も囲炉裡のまはりに大胡坐を掻き、てんでんに片方には米俵を肘突きにし、片方には白粉をつけた女共を引き寄せて、飲めや歌へ、踊れや踊れといふ大乱痴気の酒盛の最中でした。
「怪しからんぢやないか、ことはりもなしに他人の小屋に這入り込んで吾もの顔で威張り散らすとは何たる事だ。さつさつと出て行つて呉れ。」
 私はステツキをあげて扉口を指差しながら、憤然たる啖呵を切りました。
 すると正面の大黒柱の前で大盃を傾けてゐる五十格好の鬚男が、にやりと薄気味の悪い嗤ひを浮べて、
「手前達は何処からやつて来た風来坊か知らないが、この小屋諸共あたりの田地田畑は去年の秋かられつきと吾輩のものとなつてゐるといふことを知らんのだな。裁判所へ行つて訊いて来るが好いや。」
 と唸りました。
「盗人、黙れ――白か黒かの裁判などは試みぬ方が、寧ろお主の恥が秘せるといふものだらうぜ。済むだことは兎や角云はぬから、有無を云はずと引きあげた方がきれいだらうよ。」
 私は負けじと鳴り返しました。
 その時の有様などを詳さに述べたところで、結局私達が奴等に手とり脚どりされて、ぐるぐる回る水車の川下に放り込まれてしまつたゞけのことで、そんな自分の姿を偉がりやの私としては思ふだに自尊心に関はりますので止めますが、私達は命からがら向方岸へ泳ぎついたのでした。腕組をして「永遠の理想」を夢見るなんておろか、私達は岸辺に這ひあがつて再び地を踏むと同時に、住むべき小屋もなく食ふべき麦もないロビンソン・クルウソウと早変りしてしまつたのです。いや、無人島ではありませんから喰ふためには盗みを働くより他に生きよう道とてもない溝鼠と化して了つたわけでした。
 あの鬚男は私を目して風来坊だなどゝ空呆けましたが、私にしろあの男にしろずつと昔から互ひの名前も姿も好く知り合つてゐる者なのですが、向方が左う出るからには私としたつて奴の過去の名前などは問ふべき要もないのであります。
 それは兎も角、彼はその辺一帯を占領して以来は恰で生れ変つた如き横風な人間と化して、多くの手下を引具して議員に候補したり、妾を蓄へたり、花合戦に一夜千両を賭けたりして、凄まじい大尽風を吹かすばかりか、果はあられもなく貴人を気どつて吾々などは頭から眼中にないといふ羽振りを示しました。
 私達は川下の西瓜畑の一遇に掘立小屋を営んで、彼等を軽蔑しました。あんな、えげつない人物達のことはさらりと打ち忘れて、俺達は俺達の仕事に没頭しようと誓ひ合ひました。
「平気だ!」
 と私の二人の友達は申しました。「夢は何処でゞも描ける筈だ。」
「さうだ!」
 と私は二人の手をとつて力みました。「羨むことも悲しむこともありはしない。」
 そこで私達は早速窓の下に机を並べて、一生懸命の勉強にとりかゝりました。私は、あたりのことは何も彼も忘れたつもりで、断乎たる架空の大空の下で一篇のお伽噺の創作にとりかゝつたのです。
 そして忽ちのうちに一篇の物語を創りあげましたので、得々としてひとりで読み返して見ましたところ――何とまあ私は、自分を見さげ果てたことには、空想のつもりの物語の中に現れてゐる気分とでも云ふものを見るならば、あゝ、あゝ、それは夢どころか、己れの最も浅猿しい概念ばかりが、単に上面にヴエールをしたまゝ、感情は悉く奴等の上にほとばしつて、復讐の念にのみ燃えあがつてゐるではありませんか。何んなに呑気さうに空想らしく自らまでもごまかしたつもりで白を切らうとしたところで、性根に拘泥がある限り、大空へ向つて悠々たる翼を拡げることなどはかなふものではない――と、愚かな私は今更のやうに打ちのめされてしまひました。
 二人の友達に披瀝するどころか、私はその呪はれた一篇を握り潰して、身でも投げてしまはうと、水車のある川のほとりをうろつきました。そして知らぬ間に、私は女に振り棄てられた未練深い男のやうに水車小屋の窓下にやつて来て、耳を澄まして居りますと、中の様子が何時もと違つてひつそりとしてゐますので、扉の隙間からそつと様子を窺ひました。――見ると、あの横風な大尽が何うしたものか、部屋の隅に縮こまつてげつそりと首垂れ、大黒柱の前には鹿爪らしい別の男が、気の毒さうに彼の姿を見降してゐるのです。
 いつまで経つても二人は物も言はず同じ姿を保つてゐるばかりでしたが、その様子を凝つと垣間見てゐるうちに、どうやら私が、それこそ架空のまゝにお伽噺の中で結末をつけたと同様な仕儀に立至つてゐるらしく思はれました。稀に二人は口を利く模様でしたが、水車の響きで聞えようもありません。――私は左手に握り潰してゐた紙片を、ぼんやりと拡げると、扉から洩れるラムプの光りと折から昇つた月の光りとにすかして、チツチツチツといふ蟋蟀のやうに読んでゐました。せめてもう一度読み返すならば、斯んな物蔭で細々と鳴いて見ようか? とでも云ふ位の心持だつたのかも知れません。


 或る南の国の島から島をめぐつて、それぞれの島の産物を、つぎつぎの島へ運ぶことを仕事としてゐる古い二本マストの小さい帆前船がありました。
 島はみんな小さくて飛石のやうにてんてんとならんでゐて、或る島は小麦やカラス麦を、或る島は砂糖きびや唐もろこしを、また次の島はパイナツプルやバナヽを、といふやうにいづれも別々なものをつくつて居りましたから、その船が順々にそれらの島をまはつて、その島の産物と前の島のとを取り換へつこをしてゆくのでありました。
 その船の中には多勢の鼠が、まるで船を城のやうに思つて大威張りで住んで居りました。船の底には小麦の粒や唐もろこしのかけらが沢山にこぼれてゐるし、それに喰べ飽きるころには船はまた次の島へ着いて珍らしい果物や美味しい食べものを積み込みますからいつも鼠たちはぜいたくな食べものや変つた果物を喰べ放題です。或る島からは山羊の肉が出るし、或る島からはマンゴステインやパパイアなどといふ果物が積まれるし、また或る島からは遠くの国の王様や貴族にすゝめられるお酒とかお魚が運び出されるのでした。
 それらのものゝ、かけらやこぼれを勝手気まゝに呑んだり喰べたりしてゐるうちに、鼠達はすつかり好い気になつてしまつて、
「俺達は世にも尊い貴族である。」
 と、うぬぼれました。そして、昔この船に一番先に乗り込んだといふ、もう鬚の先が白くなつてゐる年寄の鼠が、
「俺は王様である。もうこれからは決して俺のことを親爺とか、親方とかなどゝ呼んではならんぞ。」
 と一同の者を呼び集めて命令しました。
 しかし今迄親方とか親爺とかと呼び慣れてゐた面々は、つい、王様といふのはあまり可笑しかつたり、忘れたりしてしまつて、
「さつきわつしらがマストにのぼつてながめてゐると、あの美味さうなリンゴ酒の樽が、わんさと積み込まれましたぜ、親方!」
 とか、
「親爺はやく晩になつて一杯やりてえもんですなあ!」
 などゝ、うつかり卑しい口調で云つてしまふのでした。すると親方――ではない王様は白い鬚の先をピンとたてゝ、
「黙れ、無礼者奴が……」
 と怒鳴るのでした。「王様に向つて何たる口の利き方をする奴ぢや。こゝにおいでになるのは女王様、そして三人のわしの息子たちが王子様であるのを忘れたか。」
 王様は大変な剣幕で、そんな口の利き方をした者には晩になつてもお酒をやらず、また位も与へませんでした。
「おゝ、これは/\畏れながら王様をはじめ女王様と王子様へ申しあげます。それがしが先程上甲板の隅から、小麦の俵が運び込まれますのを監査いたして居りますと、おそらくこの港ちかくの溝にでも住んで居るらしい一隊の溝鼠共が俵からこぼれる麦の粒を拾ふために先を争つてこの船へ乗り込まうとしてゐるではありませんか。それがしは、この浅ましい光景を発見するやいなや大声を張りあげて――われらが王の御乗船に土足をもつて踏み込まうとするとは不届き至極な木ツ葉海賊奴、御乗船の旗印がわからぬか、目にもの見せて呉れようか――と呼ばゝりますと、奴等は吃驚り仰天して縄梯子から転げ落ちたり唐もろこしに躓いたりしながら這々の態で、雲を霞みと逃げ去りました。今更ながらそれがしは王様の御威光の素晴しさに打たれた次第であります。」
 斯ういふやうなことを報告する者がありますと王様は、さもありなんとばかりに相好をくずしてお悦びになり、即座にその者には公爵の位と海軍大将の称号を与へ、侍従武官としておとりあげになります。
 間もなく船の中の鼠は、皆々ほんたうの貴族になつたつもりで、次々の港から運び込まれる御馳走をならべて大夜会を開いたり、また一方では、大将から下士卒に至るまでの等級を定めて、軍隊を組織し、真夜中の甲板で調練を行つたり、船底を駆け回つて戦争の演習を怠りませんでした。
 そして彼等は、こんなに豊富な糧食があり、こんなに広い城を持つてゐるからには何んなに逞しい海賊が現れたところで、一歩たりとも内へ入れるものではないと安心して、うまいものは喰べ放題、お酒は呑み放題と浮れて、港にゐる他の鼠達をことごとく卑しいものゝやうに見降しました。
 お話はかはつて、一方この船のほんたうの持主である老船長のスコツトランド人は、何うかして鼠共を追払はうと苦心してゐましたが、軍隊組織にまで成つてゐる彼等の横暴は日増に募るばかりで手の降しようもなく、すつかり愛想が尽きてしまひましたので、いつそ船もろともに売つて了はうと決心したのであります。これらの島々を回る運送船といへば、この船が一艘あるだけで、かねがね或るユダヤ人の商人が欲しさうなことを申してゐたのを船長は知つて居りました。
「どうかして一番高い値段で売りたいものだな。」
 とスコツトランド人の船長は考へました。ユダヤ人のある商人は、いざ買はうとなると屹度ケチをつけて安くさせようとするに決つてゐるが、何とか甘く切り抜けて、この夥しい鼠の軍勢が住んでゐる船を手離してしまひたいものだと船長は思案に暮れました。


 船長がそんな考へを持ちはじめたなどゝいふことについては、鼠達は頓着ありません。毎晩毎晩花々しい夜会をつづけて居ります。鼠軍の横暴は日増に激しくなつて、この頃では明るいうちでも洒々と甲板や船室に斥候兵を放つて、水夫が居眠りでもしてゐようものなら、
「それツ!」といふ合図で物蔭に伏してゐる一小隊が散兵の陣を敷いて、食卓の上に突撃します。何故なら鼠達はこの頃では生のものは喰べ飽きてゐるので、人々が喰べるために料理しておくビーフステキとかハムエツグとかチキンロースとかを目ざすのであります。
 料理場の天井裏から飯時ちかくなると眼を光らせて見守つてゐる歩兵の一隊があります。小隊長は、フライパンを振つてゐる水夫の様子を凝つと見守つてゐて、いよいよ肉が焼けた頃合を見はからつて、
「突撃!」と号令します。すると歩兵達は一斉に床の上に飛び降りて、壜をひつくり返したり、皿を落したりして、無闇と暴れまはるのです。料理番の水夫が、この物音に驚いて、歩兵共を追ひ払はうとします。その間に棚の上にかくれてゐた工兵隊が、フライパンの上に飛び降りて、煙りのたつてゐる焼肉をさつさつと占領して行つてしまふのです。
 何事も斯んな工合に手順よく運ばれてゆくので、水夫達もただ口惜しさうに歯がみをするばかりでした。そして、早く斯んな船は売れてしまへば好いが――と呟いて、つくづく鼠軍の襲来に手をやきました。その日その日の手柄に依つて王様は、ぬかりなくそれらの殊勲者へは褒美をとらせ、爵位を授けましたから、今では下士卒の中にさへも多くの貴族が現れて羽振りをきかせました。港へ着くと噂をきいたあちこちの鼠が集つて来て、王様のために働きたいと申し込んで来るので、兵士の数は見る見るうちに増えるばかりです。左うなると鼠軍の気勢は益々あがつて、昼間のうちから上甲板に勢ぞろひをして教練を試みたり、帆柱や帆綱に昇つて面白さうな運動を始めたりして、何も怖るゝものはないといふやうな始末となりました。
 或時など水夫達もすつかり困つた揚句、猫を飼つて見ましたが、忽ち猫が群がる鼠軍のために包囲攻撃をされたり、一方を追ひかければ背後の軍が突撃をしたり、返つてさんざんにもてあそばされて目がくらみ、とうとう海の中へ突き落されてしまひました。
「天下に敵なし!」
「貴族の腕前を知つたか!」
「飲め/\、踊れ!」
 その晩などはそんなあんばいで夜つぴて戦勝の祝賀会がつゞいて、船長も水夫もまんぢりとも出来ませんでした。
 丁度その宴会の真最中でした。船底の酒倉の方から、
「怪しい者をつかまへた、密偵を捕縛した。」
 といふ声がしました。間もなく二匹の見知らぬ鼠が高手小手に縛られて王様の面前に引き出されました。
「王様、この者共は酒樽の蔭にかくれて宴会の様子をうかゞつては、伴れの者に耳うちいたすと従者は天井穴から甲板に走つて切りと陸へ向つて何やら信号を送つてゐたのであります。」
 番兵が注進しますと王様は顔をしかめて、
「斯様な溝鼠を余等が面前へ引き出すとは何事だ。並居る者は悉く貴族であるぞ。汚らはしい溝鼠などにかける言葉は誰も持合せんのぢや。汝ら好きに計ふが好からう。」
 と目も呉れませんでした。で番兵も安心して酒倉に引き返すと、
「余等も貴族だ、溝鼠などは汚らはしい。」
 と王様の口真似をして、そのまゝ縛つた鼠は隅の方へ投げ棄てゝ酒を呑みはじめました。「何しろ王様の船が港に近づくと、空には腹の減つた鳥共が群がり、陸には憐れな土鼠までが這ひ出して一粒の小麦でもを争はうといふのだからお気の毒なものさ。」
「大方、、[#「、、」はママ]こいつらも空腹を抱いた土鼠の手下で、酒の香ひでも嗅ぎに来たのだらうよ。」
「こつちは王様の船なんだ。よしや密偵が忍び込んで何んなたくらみごとを回らさうと、あしたはバナヽの島へ旅立つ船だ。盗みたければ泳いで来るが好い。」
 番兵達は、先程こんなものを捕へて大騒ぎしたことを馬鹿らしく思ひ直して、やがて居眠りをはじめました。
 その間に樽の傍らに棄てられた二匹の溝鼠は、互ひに縛められた綱を噛み切ると、跫音を忍ばせて甲板に抜け出しました。彼等は帆柱の上にするすると駈け昇つて、陸の方を見降しました。船は今港に碇を降して、夜を迎へてゐるのです。積荷のための橋が三つもならんで船から陸へ渡されてゐました。
 丁度沖の彼方へ月が昇つて、海も陸も蒼白く光りました。月の光りにすかして見ると、船から渡された桟橋の下には何百匹とも数知れぬ陸の鼠の軍勢が息を殺して、マストからの信号を見守つてゐました。
 彼等は、このあたりに住んでゐる正しく憐れな溝鼠には違ひありませんでしたが、いつもいつも船の鼠共が高慢ちきな鼻をうごめかせて、同じ鼠でありながら自分達ばかりが偉さうに振舞ひ、陸のもの共を鼠ともおもはぬが如く寄せつけもしないばかりか、汚らはしいの、卑しいのと罵るので到頭我慢がしきれなくなつて、いよ/\戦争を挑むため大挙して押し寄せたのであります。


 船の中の鼠共を追ひ払つて、こんどは自分達があの城を占領しようといきまいた溝鼠の軍勢は、先に放つた二匹の斥候兵から、今や敵は酒盛りの最中であるから、この虚に乗じて一挙に襲撃すべきであるといふ信号をうけましたので、時を移さず三手にわかれた先頭部隊があしおとを忍ばせて三方の口から攻め込みました。残る部隊は要所要所に屯ろして、逃げまどふて来るであらう敵を一匹もあまさず引つとらへて了はうと片唾をのんで居りました。
 やがて船の中には物凄い大合戦が起つたのであります。花やかな夜会の席は忽ち稲妻が飛び嵐が巻き起つた暴風雨のさまと化して、打つ蹴る引つ掻く、それはもう何とも云ひやうもない惨憺たる血戦です。
 しかし一方は船を城として長い間訓練を重ねてゐる立派な貴族の軍隊でしたから、たとへ酒宴の中の不意を襲はれたとはいへ、いざ戦ひとなれば用意周到であります。大将をはじめとして並居る指揮官、歩兵、工兵、砲兵と列をつくつて陣どり、勝手の知れた城中の要所にかくれて、どつとばかりに襲撃する、逃げまどふ敵を挟みうちに追ひつめる、それツ! 突喊だ! とばかりに雄叫びをあげて暴れ込むといふ勢ひで、到底痩せ細つた溝鼠の野武士軍の敵ではありません。見る見るうちに野武士勢の旗いろは青く白くと怪しくなり、このまゝ弥が上にも戦ひをつゞけたならば全滅のおそれさへうかゞはれるほどのけしきとなりました。
 大勢の兵隊に取りまかれて奮戦をつゞけてゐた野武士軍の司令官は、マストのきわまで追ひつめられて止むなくそれへ逃げあがりました。追ひ登つて来る者共を払ひ落し、蹴落しながら、さすがに溝鼠とはいへ司令官だけあつて悠々として甲板上の合戦を見渡したのでありますが、見ると味方はまさしく敗北の有様なので、口惜し涙をハラハラとこぼしながら、
「退却、退却!」
 と叫びました。
 勝手のわからぬ船の中では戦へば戦ふほど味方の不利は当然だ――と彼は考へたのであります。ひとまづ船の外へ逃げ出して敵を陸上遠くに誘ひ出して置いて、味方が地理に詳しいところの街の中の路地裏や空家の中でさんざんに市街戦をつゞけた上に、敵の疲労のけしきを見たならば、一気に溝の中へ追ひ込んでしまはう、その隙をねらつて自分達は今や出帆するであらう間端になつて、この船へ駆け込むのである、船はいつも夜あけの明星が影を沈める時刻に碇を巻くのがならひである、奴等より先へ乗り込んでしまへばもう此方のものだ、帆をあげてゆるゆると走り出した船の上から、今度はこちらこそ王様や貴族の顔つきで、地団駄を踏んで口惜しがるであらう奴等の姿をカラカラとわらつてやらう、――と、斯んなふうに彼は考へたのです。そして、身を躍らせてマストの上から海の中へ飛び込ました。ふだん街中や家や倉を襲つては、人に追はれてばかりゐる野武士軍の面々は退却は十分に心得て居りましたから、司令官のいとも勇ましい飛び込みで呆気にとられた貴族軍の隙を見て、バラバラとひとりのこらず海の中へ飛び込んで向方の桟橋へ這ひあがりました。そして、
「こゝまでお出で/\!」
 と、馬鹿にするやうな声をそろへて船の上の貴族軍をからかひました。
「王様いかゞでせう。一気に追ひ詰めて卑怯な奴等をみなごろしにいたしてしまひませうか?」
 貴族軍の大将は軍刀を握つた腕を揮ひながら王様に訊ねました。
「あのやうな賤しい溝鼠共を敵にするのも汚らはしいが、ひろく一般の鼠族の名誉のためにこの際を期して、退治して置いた方が後世のためにもなるか知れぬな。」
 王様は一同の者を見返りながら、鬚をひねつて唸りました。すると血気にはやつた軍勢は、一せいに剣を高くあげて、
「賛成、賛成――私達の腕は、たつたこればかりの戦ひでは物足りなくて仕方がありません。」
「われらの王様の威光を輝かすために――」
 と叫びました。
「それにしても、時刻は今、どれぐらゐの時であらうか?」
 王様にしたつて、ぬかりはありません。勝に乗じて攻め寄せるのはおもしろいが、その間に船が出帆でもしたら一大事だと用心したのであります。で、早速二人の信号兵に時刻を計ることを命じました。
 命令を受けた信号兵はキヤビンの天井裏から甲板に走つて、それぞれ素早く二本のマストの天ぺんへ駈け登つて空を仰ぎました。彼等の時計は、空の星の位置で時刻を決めるのでありました。
「丁度、宵の明星があがつたばかりのところであります。」
 二人の信号兵は同じ返事を持ちかへりました。
「奴等を退治して、明けの明星が沈まうとする暁どきに戦勝の船出をいたすのはさぞかし心地好いことであらうな。」
 陸の方から、さかんに挑戦の矢を飛ばせてゐる野武士軍の騒ぎを耳にしながら、王様は会心の微笑を洩しました。


 貴族軍の溝鼠征伐の議は一決して、宵の明星があがつたばかりの薄あかりの甲板に勢ぞろひしました。
 王様だけは、むしろ船の中にのこつて味方の眼醒しい働き振りを遥かに見物された方が好からうといふ説もありましたが、船の中に待つてゐるのも退屈であるから全軍を率ゐて自ら出馬いたさう、といふことになつて、王様も女王様も凡て陣頭にすゝみ出ることになりました。
 この様子を陸の方から眺めた野武士軍は、おもふ壺にあたつたと、手をうつて悦び、ますます激しい挑戦の矢を飛しました。
「いよいよ、やつて来るぞ。」
「陸の戦ひとなれば、こつちのものだ。」
「ともかく、明け方ちかくなるまで吾々は敵軍をあちこちと引きまはして、疲れさせてしまはなければならないのだ。」
「逃げると見せて、追はせるのだぞ。」
「最後は溝の中だ――」
「出帆の鐘が鳴る一刻前に吾々は船へ駆け込み、奴等の城を占領するのだ。」
 溝鼠軍は、すつかり手配を定めて貴族軍の到来を待ち構へました。
 一方貴族軍は、敵方が桟橋の上で船を目がけて戦ひを挑んでゐるところも、背面から秘かに攻め寄せて、まつたくの袋の鼠となし、一匹もあまさず捕虜として、こらしめてやらうといふことになりました。で、全員の点呼が終りますと、敵に様子を悟られぬやうに一度は悉くの者が物蔭に身を潜めて、反対側の梯子から間をおいて一個小隊づゝの軍勢が散兵の陣型をつくりながら、桟橋へ降りて行きました。溝鼠軍の屯ろしてゐる桟橋は、この船のついてゐる向方側でしたから、こちらの様子は悟られる筈はないとして貴族軍は船の蔭をつたつて、敵方の桟橋の入口へ詰め寄らうとするのでありました。
 やがて貴族軍の総勢は凡て敵方の桟橋の入口に集りましたので、さて、一気に突喊しようと、指揮官が剣を抜いて、
「進め――総攻撃!」
 と号令しました。虚を突かれて、定めし敵軍は狼狽するだらうとおもつてゐたところが、総攻撃で突喊して行つて見ると、いつの間にかそこには敵軍の影もかたちもなく、月の光りが皎々としてゐるばかりなのです。
「さては、こちらの大軍に怖れて、またもや海の中へ飛び込んだかな?」
 貴族軍は少しばかり毒気を抜かれた態で、月あかりの海の上を探つてゐると、あべこべに突然桟橋の入口にあたつて、
「こつちへお出で/\!」
 と叫ぶ敵軍の騒ぎが起りました。溝鼠軍の方では、船の鼠が出払ふころを見はからつてから水をわたつて其方へ回つてゐたのであります。
「小癪なツ!」
 貴族軍は矢庭に向きを変へて、ワツとばかりに溝鼠軍へ飛びかゝりました。
「敵はない/\、逃げろ/\!」
 溝鼠軍は、少しも戦はうとする見得さへ示さず、忽ち埠頭場を逃げ出しました。
「何といふ手答へのない敵だらう。」
「これでは恰で戦争ではなくて、こそこそ盗棒を追ひかけるやうなものぢやないか。」
「もともと相手は賤しい溝鼠なのだから無理もないが、ことのついでに飽くまでも追ひかけてグウの音をあげさせてやるより他はないぞ。――それ、進め/\!」
 と貴族軍は、すつかり呑気になつてしまつて、わらひ声などをあげながら追ひかけて行きました。
 溝鼠の方では、計画どほりに事が運んで来さうなので、こちらもおもしろくて愉快になり、わざと驚いたやうに飛びあがつたり、振り返つては憎々顔を示したり、思はずほくそ笑んだりしながら、どんどんと逃げ出すのでありました。
 これではもう戦争ではありません。まるで鬼ごつこのやうなものでありますが、貴族軍は業腹がをさまりませんから、マラソン競争の選手がスタートをきつたかのやうにバラバラと駆け出して行くのです。いくつもの路地を駆け抜け、空家へ駆け込み、公園の池のほとりへ達しましたが、逃げるものも疲れず、追ふものもへこたれず、ますますスピードを増して、追ひつ追はれつ、このまことに滑稽な競争のやうな戦争は何時に果てるとも見極めがつきませんでした。
 そして追ふ者も逃げる者も、時々空を仰いで、星と月の在所を見定めて、
「未だ明方までは十分の時間があり過ぎるな。」
 とさゝやくのでした。


 こちらは船長のスコツトランド人と商人のユダヤ人であります。船長は成るべく高い値投で、この船を売つてしまはうとあせるのでしたが、
「なにしろこの船は有名な鼠の棲家なのですからね。あなたの仰言る半分の値投でなら買ひませう。」
 商人は斯う云ふばかりで仲々後へは退かうとはしないのです。鼠と云はれると船長も、ギクリとしたのですが、自分も鼠があまり沢山ゐるので船を手離したくなつたのだなどゝいふことは顔いろにも示さず、
「然し鼠などは猫でも飼へば直ぐに逃げてしまひますよ。鼠がゐるから船の値段を負けろなどゝは、乱暴過ぎるはなしぢやありませんかね。」と素知らぬ風に算盤を弾きます。
「ところが、この船の鼠と来たら猫でも怖れぬといふことぢやありませんか。私もたしかにこの船は欲しいには違ひないのですが、やはり鼠の害のことを勘定した上でないと取引きは出来ないんですよ。」
 左う云はれると船長もたぢろいて、
「では仕方がありませんから、私の云ふ値段の四分の一だけお負けしませうか。」
 と譲歩しました。
「では私も思ひ切つて、あなたの値段の三分の二まで買ふといたしませうよ。」
 商人は飽くまでも船長の申し出る値段よりも安くしようとするので、とうとう船長も憤つてしまひました。
「勝手にするが好い。こんな立派な帆前船をそんなに安く買はうとするお前はなんといふ慾深なユダヤ人だらう。」
「こんなに鼠の沢山ゐる船を、負けもしないで売らうとするお前は何といふ吝嗇臭いスコツトランド人だらう。」
 商人はブンブンと怒つて、船を出て行つてしまひました。
「ユダヤ人に酒を飲まれて大損をした。これから直ぐに出奔して、あしたの朝、次の港でユダヤ人ではない商人に船を売ることにしよう。それにしても癪にさはる鼠共だな。」
 船長は今、鼠の総軍が戦争へ出払つてゐることなどは知る由もなく、すつかり癇癪を起してしまつて、未だ月があがつて間もない時刻でしたが、一刻も早く次の港へ着いて、一刻も早く船を売り飛ばしてしまひたいと思ひました。そこで船長は、突然にジヤン/\と出帆の合図の鐘を叩いて、水夫達の夢を驚ろかせました。
 しかし水夫より誰よりも一番驚いたのは、公園の池のまはりで奇妙な合戦を演じつゞけてゐた鼠の軍勢でした。
「あツ、あれは出帆の鐘ぢやないか!」
「未だ明け方には近づかうともしてゐないのに、あの鐘の音は!」
 貴族軍も溝鼠軍も突然の鐘の音を耳にすると同時に、思はずハタと、駆け回つてゐた脚を釘づけにしてしまひました。そして、また同時に、
「出帆だぞ。」
「大変だア……」と叫んだのは、貴族軍の王様と溝鼠軍の総司令官でした。さあ、もう逃げるも追ふもあつたものではありません。敵も味方も合戦どころか、大変だ/\、待つて呉れ/\! と喚きながらそれこそ稲妻の勢ひで、桟橋を目差して、死もの狂ひの競争となりました。
 ところが鼠達の群が桟橋に着いた時には、船は美しい月の光りを帆に享けて、鏡のやうな沖合をゆるゆると走つてゐました。どんなに鼠達が無念の歯ぎしりをして、地団駄を踏んで泣き喚いても、とりつく島のありよう筈がありませんでした。恰も彼等の夢だけを乗せて出てしまつた船は、見る/\うちに船あしを速めて小さくなりました。
 翌日からは、今迄船で威張つてゐた貴族軍も、たゞの溝鼠となつて、公園のちかくの溝に棲むことになりました。手下の者が、つい云ひ間違へて、
「王様、今夜の宴会は何処で開きませうか。」などゝ申しあげると、あの年老つた鼠は仏頂面をして、
「王様などゝ云つて呉れるない、おもしろくもない。晩の餌は池のまはりのベンチの下からでも拾つて来やがれ、野郎共!」と唸つて、溝の穴から出たがりませんでした。
 しかしそれからといふものは、みんな溝鼠でありましたから元の敵味方の区別もなくなつて、平和であります。





底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
   2002(平成14)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文學界 第一巻第二号」文化公論社
   1933(昭和8)年11月1日発行
初出:「文學界 第一巻第二号」文化公論社
   1933(昭和8)年11月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月4日作成
青空文庫作成ファイル:
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