まぼろし

牧野信一





 和やかな初夏の海辺には微風そよかぜ気合けはひも感ぜられなかつた。呑気な学生が四五人、砂浜に寝転んでとりとめもなく騒々しい雑談に花を咲かせてゐた。
「ゆらのとをわたるふなびとかぢをたへ ゆくへも知らぬこひのみちかな――か、今となると既にもうあの頃がなつかしいな、いや、満里のところの歌留多会がさ。」
「柄にもない眼つきをするない、こいつ!」
「ところが俺には、れつきとした懐し味の思ひ出があるんだから大したもんだらう、まあ聞けよ。」
「しかし……」
 その時、砂日傘サンド・パラソルの下でポータブルの鍵を巻いてゐたひよろ長い男が厭に沁々とした口調で、
「これだけ達者な面々ナイトが、いつも顔をならべてゐて誰一人として、これといふほどのラヴ・アツフエアを起さないなんて、考へて見ると実に慨嘆のいたりぢやないか。寄るとさはるとたゞ騒々しく女の美しさばかりを讚へてゐて、悶々としたり、感傷的センチメンタルになつたりして堂々廻りをしてゐるなんて、一体、諸君!」
 故意わざとらしい演説口調で重さうに腕組をすると、さつき何か云ひ出さうとした見るからに元気者らしい剽軽ひようきんな男は、
「田八は直ぐに真面目さうな顔をするんで厭になるな。小説ぢやあるまいし左う左う恋愛事件などがあつて堪るものか。この空しさの中で次々に抒情味を感じてゐれば、それが青春といふものなんだ。」
 話の腰を折られて、こゝろもち顔を赧らめながら低い声で呟いた。
「一体諸君、君達は自分を憐れと思はないかしら――俺は今日限り決心したぞ、何うしても恋人を探さずには置かない。」
 前の男が関はずそんなことを続けると、
「左う云はれて見ると俺も凝つとしては居られなくなつたな。まつたく何うも一刻さへも惜まれるぞ……」
 大きな口をあけて上向あをむけに寝て、裸の胸や腹を空に曝してゐる就中呑気者らしい一人が、やけに賛同して、突然、
「鯨だあ!」
 などゝ叫んで、そのまゝ煙草の煙りをふうつと吐き出した。煙りが細長くすい/\と延びて傍らの砂日傘の上に達しても消えなかつた。誰が何を饒舌つても、争つても忽ち消えてしまつて一沫のよどみも感ぜられないていにも長閑な春の午近い海辺であつた。
「おつそろしい長え呼吸いきだな、こいつは!」
「ルーテル博士のおなかのやうぢや!」
「こいつの腹を思ひつきり踏み潰したら、さぞかし胸がすくだらうぜ。」
 皆ながげら/\と笑つた。が、演説口調は見向きもしないで、
「皆なは、例へばこの頃の満里百合子さんの場合にしろ、てんでんにあんなに逆上して、夢中になつて召使はれてゐるんだが、彼女が間もなくすつと消えてしまつたら何うだ、いや消えるにきまつてゐら……」
 彼は思はずグツと喉を詰らせた。――「斯んなに騒いでゐる俺達の誰ひとりもが、彼女の脚にさへも触れることなしに……」
「慨嘆も好いが、きはどい感情に走るな――左う聞いたゞけで俺の胸から腹へかけて、突如、稲妻のやうな冷いものが猛烈な勢ひで駆け抜けたわい!」
「だから互ひに決心しようてえんだ……」
「しかし、あんな明朗な美人がだな、万一にもこの仲間の誰かと結婚して、傍観をする思ひと、一層、孔雀のやうに見知らぬ空へ飛び去られて互ひに顔を見合せるのと、どちら? と問はるゝならば、俺は寧ろ後者を選ぶよ。」
「そんな俺達の気の弱さが俺は腹が立つんだよ。何故鎬を削つて張り合はないんだ。馬鹿野郎!」
 それを自分に浴せるやうな胴間声で叫んだ者もあつた。汀のあたりでは鴎の群が低い空で大きな渦を巻いてゐた。
「決して誰にも特別な自惚れを与へぬ程度で、巧みに一団を操る彼女は余程のサイレンだな。」
「操つてゐるわけぢやないさ、魅力に俺達が勝手に操られてゐるだけのことさ。」
「歌留多会の思ひ出に何んな懐しさとやらがあるんだい、さあ聞かう?」
「駄目/\――失恋だ!」
 砂に顔を埋めた、その男は――。
「皆ながいよ/\失恋したら、皆なで、こいつの腹を切つてしまはうぜ。」
 鯨の真似をつゞけてゐる男を指して誰やらがからかつた。
 田上、音田、鯨井、森、青野――だが、誰の言葉が何れといふ区別の要もない、若者達はとりとめもなくまくし立てながら、たゞ、移りゆく時と光りに戯れてゐるかの風情であるだけだつた。
「泳がう。」
 と誰かゞ叫んだ。
「もう寒くはないぞ。」
 彼等は忽ち水着ひとつになるや、ワツといふ鬨の声を挙げながら、宙を飛んで駆け出した。渚のちかくで先頭のひとりが、鮮やかな宙返りを打つて波の底へ飛び込むと、皆ながそろつてもんどりを打つたまゝ波をくゞつて、容易に頭を現さなかつた。
「音ちやんは何故泳がないの?」
 音田がひとりでセレナードを聴いてゐると、うしろから日傘をゆすつて、百合子が、
「二階から見てゐたのよ。そしたら妾も泳ぎたくなつて出かけて来たんだけど、やつぱし寒さうね!」
 と云ひながら白い素足を音田にならべて、砂に腰を降した。そして、脱いで見よう――と脱ぎながら、オレンヂ色のフアコートを脱ぎ棄てると水着ひとつだつた。
「妾、とても肥つたのよ。去年は斯んなぢやなかつたのに、斯んなに窮屈になつてしまつて、うつかりするとほころびさうだわ。」
 百合子は赤いバンドで胴を括つた海老茶の水着の上から胸をさすつたり、肩をすぼめたりして、
「厭な音ちやん、ひとが話しかけてゐるのに返事もしないで、妾の顔ばかり見てゐるわ。」
「さつき此処でね、百合さんはシルビア・シドニイに似てゐるといふことになつたんだが――誰に関はらず似てゐると云はれるのは不服なものだつてね。」
「不服なものか――ふじさんも左う云つてゐたさ、得意だぞ――」
「藤さんて、何処の、誰だ――云へ/\!」
「ハツハツハ……諸君のお仲間ぢやない――とだけ云つて置かうか。……寒かないけれど、入る元気はないな。さかんに呼んでやがら、不良共が――」
 百合子は片手を高くひらひらと伸して、
「サンドヰツチをあげるから、あがつておいで……」
 と叫んだ。
 波の向方で、
「此処から眺めると相当の情景シーンと見うけられるが、仲間ぢや安心だな。」
「それを――仮想して見ようか、彼女が俺達の知らない恋人と共に気分を濃厚に漂はせてゐる場面として……」
「――とても堪らない、俺は想つたゞけで胸が破裂しさうになる。徹底的の嫉妬感を味はひ尽せるぞ。」
「やがて、左うした嫉妬と絶望のどん底へ突き落される前提としてのトレイニングぢや。」
「世の中には幸福な奴もゐるものぢや、彼女に選ばれる男とは一体今頃何処に生きてゐる奴だツ!」
わしが所望ぢや!」
「アツプ/\――救けて呉れ!」
 水をたゝきながら、ブク/\と沈んだり浮いたりして狂ひまはつてゐた連中は、
「それツ、女王様のお召しぢやぞ!」
 と認めるや否や一斉に猛烈なストロークで水雷のやうに陸を目がけた。
「火を焚かう――震えるぞ!」
「火の代りに俺達の人魚マメイドをとりまけ……」
 唇を紫にして震えてゐる連中は砂に転げ回つてもぬくみが利かないので、音田に命じてトラバトウレをじやん/\と鳴らさせながら、百合子を囲んで、激しく滅茶苦茶なカロルを踊りはぢめた。
「冷たいぢやないのよ、馬鹿! ……雨のやうなしぶきを飛ばせて……」
 百合子が悲鳴をあげて逃げまどふのも関はず、連中は風に煽られた回り灯籠のやうに凄まじく、ぐる/\と回つて、やがて目が回つてばたり/\と打ち倒れるまで、かごめかごめの凄まじい堂々回りを続けた。
「この人達は皆な気違ひかしら!」
 百合子は、連中が、天狗にでも投げ飛されたやうな格好で、あちらこちらに悶絶してゐる姿を眺めて稍不気味さうに呟いた。
 ……左うしたら誰を一番先に百合子が救け起すだらうか? といふことで、先程賭を約束して置いた彼等は、それぞれ凝つと息を殺して死んだまゝ、甘い囁きの夢に耽つてゐたのであるが、待つても待つても一向に音沙汰はなく、やがて弁当籠バスケツトの開かれる音を耳にすると、てんでんに、やあ/\! と頭を掻きながらむくむくと生き返つた。


 窓下の丁字の花がはつきりとにほつて来る薄雲りの晩に、森と青野が、町端れの音田の部屋でトランプ合戦に耽つてゐると、からたちの生垣の向ふで、
「音チ、居るか?」
 と、田上の、それは首を絞められて今にも息を引きとりでも仕さうなたゞならぬ声で、……部屋うちの三人は思はず飛びあがつて、窓から上身を乗り出すと、
「人魚が処女性を失はうとしてゐるぞ、大急ぎで出て来い……」
 云ひも終らず田上の姿は消え去せた。
 松林の間を盗棒どろぼうのやうな素早さで脱けて行く田上の後を追つて、三人がまつしぐらに駆け出して行くと、街角の鍛冶屋と煙草屋の店から、ほんとうに強盗の追跡かと誤解した二三の人が飛び出したかとおもふと、忽ちあちこちから火事か/\! などゝ驚きながら人々が寄り集ふて来た。
「泥棒だつてさ!」
「はて、まあ斯んな宵のうちから……」
「入る方も入られる方も間抜けの骨頂といふべきだね。」
 人々が、月夜に釜をぬく――とか、公達に狐化けたり春の宵――か、などゝ、しやれた笑ひ声をたてゝ、海辺の上にあがつた月を指さしてゐる頃、浜に降りてものゝ一町も駆けぬうちに亢奮の絶項に達した田上が脚の自由を失つて前のめりに倒れたところへ三人の者が追ひついて、
「夢ぢやないのか、田上! マメイドが処女を失ふなんて、信じられるかてえんだ!」
 三人も手もなく逆上してしまつて、戦友を救け起すやうにおろ/\として田上の肩を釣りあげてゐた。田上は致命的な深手を負つた兵士の通りに両腕を森と青野の肩に懸けてひよろ/\と運ばれながら、
「この月を忘れるなよ、来年の今月今夜、来々年さらいねんの今月今夜、月が曇つたら……」
 ふざけるにも事欠いで何を野暮な科白を振り回してゐるんだ――といふ風な顔つきで二人が役者の顔を改めて覗くと、戯談じようだんどころか田上の眼には涙が溜つてゐた。
「百合ちやんが、既に処女性を失つた晩だと、思ひ起して、月を呪ふより他はないんだぞ。」
 田上はあらん限りの声で絶叫した。
 何を思つたか先に立つてゐた音田は、伴れの者も顧慮することなく一散に駆け出して行つた。朧月の水面のやうな砂原を飛んで行く彼の後ろ姿が宙に踊つてゐた。
「音ち! ……マメイドの崖下でホエールが気絶してゐるから、人工呼吸を施せ!」
 田上が震え声で追ひかぶせた。――そして更に田上が胸を掻き※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)りながら、辛うじて何事かを伴れの二人の耳に囁くと、二人はそろひもそろつて古い悲劇役者を髣髴させる極端な思ひ入れのまゝ棒立ちとなつて、それも古い芝居の書割りに似た月を仰いだ。
 松林の裾を弓なりにつたつて、やがて砂地が坂となつて丘に変らうとする石垣の傍らで音田は、石にとり縋つて切りと嗚咽の声を挙げてゐる同志を発見した。
「ホエール! ホエール! 皆な来るぞ!」
 音田が彼の背中におひかぶさると、彼が唇を噛んで、崖の上を指さす腕は激しく震えて、空に徒らな円を描くのみだつた。とても独りでは見てゐられない、ごろ/\と思はず此処に滑り落ちて了つたのだ。さつき田上と二人で百合子を訪れる目的で、いつものやうに此処を登つて庭づたひに入らうとすると、
「それは、もう実に飛んでもない光景に打ちのめされて了つたのだ!」
「藤さんとかいふのは、やはり彼女の恋人だつたんだな。奴が現れたんだね。」
 音田は凡てを察したやうに、呼吸をはづませて崖の上を睨みあげた。
「満里百合子恋愛防止クラブは、今夜限り潰滅ぢやよ。」
 鯨井が、田上と共に、百合子の窓に、最も濃厚な恋愛場面を発見した由を音田に告げてゐるところに、後の「クラブ員」が到着した。彼等は、そんな名称のクラブを仮想して、飽くまでも自分達のダイアナの処女性を守らうと誓ひ合つてゐたのだ。
 田上と鯨井が、ダンスの約束をしたので浜辺づたひに百合子の家へあがつて行くと、海が見えるやうな造りで芝生の庭に突き出てゐる三方が硝子戸の浴室が煌々としてゐて、曇り硝子に百合子の影が映つてゐた。で、二人は時間が早過ぎたのに気づいて、遠慮深く眼を覆つて庭隅の四阿あづまやで莨を喫してゐると、百合子は切りと歌をうたつてゐた。
「あがつたらしいぞ!」
 二人が振り向くと、パヂヤマを羽織つた百合子が素早く廊下を駆け抜けて、その四阿と真向きにあたる彼女の部屋にぱつと光りが点いた。家族は東京に居る由で、広い家にひとりの主人となつてゐた百合子だつたから、いつも庭からの訪問者は灯りの点いてゐる部屋に彼女を見出せた。――それなのに、やがて二階にも灯りがついたので、二人が見あげると、廊下の籐椅子に凭つて悠々と煙草を喫してゐる男の影が眼についた。顔かたちは解らないが、見るからに長身の立派やかな男で、百合子の現れるのを待遠しがつてゐる風らしく、立ちあがつて廊下をぶら/\と行きつもどりつしたりしてゐた。階下では百合子が鏡の前で切りと身装みじまひに余念のない姿が、はつきりとカーテンに映り、その隙間からは彼女が靴下を穿く様子などがちら/\と見うけられるのであつた。
 間もなく身装ひを終へた百合子が純白のドレスのスカートをひらひらさせて、二階にあがつて行くと、男はいきなり両腕を拡げて恋人を抱きあげた。
「何うだ諸君、疑ふ余地はなからう。」
「男の膝の上で、彼女は、はぢめ鳥のやうに騒いでゐたが、やがて、ぐつたりとして!」
 鯨井と田上が精一杯の溜息を衝くと、
「それから?」
 と三人の者がいちどきに眼をそばだてた。
「諸君のあらゆる想像に任せる!」
「凡そ一時間にわたる息苦しい場面の後に……尤も彼女はその間、可成りの抵抗をもつて争ひ――」
「幾度か吾々は、救助のために飛び込まうと身構えたが……」
 先の二人が交互に言葉を放つと他の三人も続けて、
「彼女は悲鳴を挙げなかつたか?」とか「何故、有無なくをどり込まないんだ!」と、今更身構えたり「得て大事件といふものは、朧ろ月の晩に勃発しがちなものだ。そして若し、それが彼女の最後と決つたら……」と、われが喉笛を突きさしたりして。円陣が乱れかゝると、
「男は力も尽き果てたかの女を抱いて、立ちあがると――」といふ鯨井の声で再びしんとした。「田上、続けて呉れ、俺は苦しい。」
「諸君は彼女の寝室を知つてゐるか?」
「書斎の二階で、海に平行した窓の下にベツトが横たはつてゐる。彼女は屡々窓を開け放つて、ベツドの中で読書してゐたものだ。サナトリウムに用ひてゐたんだもの……」
「左うとも/\、最も健康な日光室で、寝室と称ぶべくもない、俺達にしろ一切そんな概念すら抱かなかつたあの明るい二階の……それへ、男に運ばれた彼女が伴れ込まれて行くんぢやないか。」
「男は静かに彼女を寝台に置くと、緑色のカーテンを引きまはしたのだ。飛び込むわけにも行かないぢやないか、だつて、彼女はもう反抗の気勢を挙げてゐないんだもの!」
「娘をひとり、あんな家に寄して置く家族も乱暴だな、一体彼女の親父は何なのだ!」
 遂に一人が義憤を洩すと、
「自然主義のブルヂヨアだらう!」とか「法律上の両親なんだらう!」「メリケン・ジヤツプに違ひない。」
 などゝいふ騒ぎになつて、遂には百合子に向つて呪ひを浴せはじめた。
「すつかり俺達を出しぬいて――ひよつとするとダンスに誘つたりしたのは、見せつける魂胆だつたのかも知れないぜ。」
 何う考へてもこの胸の蟠りは晴れさうもないから、これから皆なで庭先へ忍び込んで歌でも歌つてやらうぢやないか――。
「いや、俺達は徹底的に惨めなのだ、敗北なのだ。いつそ、思ひきりデカダンな夢に浸つて、このまゝこゝで彼女のための送葬曲を奏でよう。」と主張する者と、飽くまでも男の正体を突き止め、更に百合子の動静を窺つた後に、
「救へるものなら救はなければならない。」と云ひ張る者との二派に別れて争つてゐる間に、念のために斥候に出かけた音田が引き返して、
「恰で家全体が棺のやうに――月夜の底におし黙つてゐるだけだ。」
 と報じて、両腕で頭を抱へた。そして一同が名状し難い深刻な表情を保つて、一かたまりになつて吐息を衝いてゐた時、
「あら、皆な来てゐるのね!」
 と、「クラブ員」の頭上から、百合子が忍びやかな声をたてた。そして寝間着パジヤマ姿の彼女は、一層声を低めて、
「怖かつたわ、やつと逃げ出して来たのよ。」
 左う云つて、此処では危いから向方の舟の蔭にかくれようと慌てゝ、駆け出した。


「……だつてね、突然パパが来たのよ。皆なを招んで遊ぶんだと妾が云ふと、斯んな眼をして――」
 百合子は丸くした指を両眼にあてゝ、
「断然いけないぞ! と斯うなのよ。その連中は皆な不良なんだ、飛んでもないツ! て、とても大きな声で……」
 網の山を積んだ舟の胴の間で、海賊の首領キヤプテンのやうに百合子は男達に囲まれてゐた。
「云はれて見れば不良でないこともないな。」
「厭だ/\と妾は、パパの膝の上でさんざん暴れたんだけれど、決して離さないぢやないの!」
「レデイがパパの膝で暴れるなんて、甘過ぎるぜ。」
「えゝ、とても妾を可愛がつてるんだもの、左うやつて暴れさへすれば大概のことは云ふことを聞いて了ふのよ。子供とばかり思つてんのね。」
 二十幾つか? それにしても自分達と同程度の年輩にあたるレデイが、パパであらうが何であらうが人の膝の上に乗つかつて甘つたれたりする光景を、聴手は奇怪に想像して手に汗を握つた。
「それなのに今日だけは何うしても許して呉れないのよ。とう/\妾を抱へたまゝ寝室へ運んで、そんな着物を脱げ、そして寝てしまへ! だつて。」
 わけを聞いてしまふと聴手は思はず顔を見合せてたが、自分達の飛んでもない騒ぎを白状するだけの決心を持つた者は現れなかつた。一同の者は、互ひの顔が、あられもない空想のために、恥て、凝固してゐるのを認めた。
「俺達は余つ程どうかしてゐるぜ!」
 音田が今更らしく、白々しく、呟くと、
「陽気のせゐかしら?」――「溌溂過ぎる過ちかね!」――「帰つて寝て了はう。」
 などゝ口々に、堪らなくてれ臭さうに呟いてゐるだけだつた。
「音ちやん、その板を挙げて御覧な。」
 百合子に云はれた彼は床板をあげて舟底を覗き込むと、
「やあ、ビール壜が並んでやがる!」
 とさつぱり驚いた気色もなく、何故かつまらなさうに呟いた。――家で遊び飽きたら皆な海辺に出るだらう、その時此処に集つて乾盃する目的で百合子は夕暮時にそれらのものを舟底に秘して置いたのだ! などゝ説明してゐるのに、一同はいつまでもぼんやりとして手をくだす者もなかつた。
「皆な、何うしたのよ。折角ひとが逃げ出して来て、吻つとしてゐるのに何を愚図々々してゐるのさ。」
 するとホエールが昂然、
「あゝツ、吾々もほんとうに吻つとした、気が抜けてしまつたところなんだよ。」
 あゝツ! あゝツ! ――彼は網の上に立ちあがつて、とても仰山な深呼吸をいつまでも繰り返した。それに伴れて他の「クラブ員」も一斉に胸をそろへて月を仰ぐと、ほんとうの鯨の真似をして凄まじい息を濠々と吐き出してゐた。――するとまた今度は今迄に引き代へて党員達の性格が急変したかのやうにはしやぎ出して、吾先にとコツプを執りあげるや、実にも花々しい乾盃であつた。
 一同は忽ち泥酔の鬼と化したものゝやうに、
「踊らう/\!」
 などゝ叫びながら、ぴよん/\と砂の上に飛び降りた。百合子も仲間にならうとしたのであるが、見ると、彼等の踊りは、間もなく滅茶苦茶の大格闘と変つて、ワイワイと※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)り合つてゐるだけだつた。得体の知れぬ喚きをあげながら、打つ蹴る擲るといふ大騒ぎで、手の降しやうもないので百合子は網の傍らに突つ立つたまゝ見物してゐた。――上衣を脱いでうすものひとつになつてゐる百合子の真正面から月の光りと共に微風が吹きあたると、白いきものは煙のやうにひらひらとはためき、肉体の輪郭だけが鮮やかに浮びあがつて、そのまゝ彼女の姿は裸体像に等しかつた。
 彼女は光りと風を浴びた自分の姿に吾から恍惚としてゐるかの夢見顔で、脚下あしもとの奇天烈な大騒動を視守つてゐた。――怪し気な泥酔者達は、スクラムを組んで掴み合つたまゝダイアナの立像に素早い視線を投げながら、次第に風車のやうな凄まじい渦巻状を呈して砂の上を回転した。


 その時、誰かの拳骨に鼻柱を衝かれて脳貧血を起した音田は、三四日といふもの枕のあがらぬ病体だつた。それきり誰も現はれぬところを見ると連中も悉く負傷したのだらうが、音田にしても今になつて見れば、あんな発狂状態を演じてしまつたことが無性に気拙く、当分の間は同志の顔を見るのも気が引ける思ひだつた。――それにしてもあの分で進んだならば党員共は百合子の幻像に怯かされて、やがてのことには何んな痴態をも演じかねぬと想像すると音田は、やがて彼女の結婚でもが発表される時の連中の姿を考へて見るのさへ薄気味悪かつた。
 あの晩父親が訪れたのは彼女の結婚に関する相談もあつてのことだつたさうだが、百合子はそんな話は退ける口調で、
「でも妾は、やはり結婚は恋愛からでなければ意味ないと思ふのよ。」と云つてゐた。
 その時であつた――では彼女の意中の相手は結局吾々のうちに居るんだな! と彼等が思つたのは!
「クラブ員のうちから選ぶのだつたら、他の面々に顧慮なく断然と、ひとりを指摘して貰ひ度いものだぜ。その場合には他の面々は、一朝にして紳士と豹変しようといふ厳則さへ成り立つてゐるんだから、無益なはにかみは禁物だよ。」
 思ひ切つて各自の胸のうちを代表したのは、あの晩たしか田上だつたな!
 すると彼女は、朗らかに肩をゆすつて、
「それは妾も考へてゐることなのよ……」
 と点頭いたではないか!
「ぢや、やはり百合さんの好きな男は吾々のうちに存在するんだね?」
 彼は夢中で左う訊ね返したではないか!
「おそらくそれに違ひないわ。近いうちに発表するわ。」
 彼女は、真面目な思ひを云ひ現はすために故意に冗談めかしく呟くといふ風に、おどけた武張つた調子でそんなことを云つた。そして豊かな微笑を漂はせてゐる彼女を眺めてゐるうちに、あの騒動となつた!
 音田は、あれこれと思ひ出して、突然寝台の上に跳ねあがつて歓喜に満ちた瞳を輝かせたかと思ふと、再び絶望の底で唸り声を挙げたりする奇体な病状のまゝ日を送り夜を迎へてゐた。
「パパはね、それではもう家では干渉はしないから恋人があるのならあるとはつきり云つて呉れ、結婚は急がなければならない事情なんだから――だつて!」
 音田は、いら/\として、あの晩の百合子の口真似を繰り返したりした。
「意味あり気な口吻ばかりを洩して、何時まで彼女は吾々を苦しませようと云ふんだらう。」
「天国と地獄」の夢にさ迷ひながら悶々と時を費してゐた音田の手許に桃色の封筒がとゞいたのは、それから間もない或日の夕暮時だつた。
はちすの花が咲いたわ、暫く皆なに会はないうちに――妾もずつとひとりだつたのよ、ひとりで、いろんなことを考へたの、そしてやはりひとりはつまらないと思つたわ。」
 そんなとりとめもないことが微笑の筆致で二三枚も続いた後に、
「音ちやんは病気なの?」
 音田は思はず唇を震はせた。――「はちすの花をもつてお見舞に行かうとしたのよ。花束を拵へたわ。……だけど、その花束を、妾の部屋で音ちやんへ上げようと思ふの、屹度音ちやんは来られるだらうと思ふわ――」
 音田は飛び起きて、夢中で読みつゞけた。
「パパがゐたら駄目なんだけれど、日が暮れた時分に浜から裏木戸を入つて、灯りの様子を探つて御覧な。二階に灯りが点いてゐなかつたらパパは居ないことよ、多分――。そして妾の窓が明るかつたら、合図に、藤棚の蔭から口笛を吹いて頂戴、散歩の人のやうに何気なく、そつと吹くのよ、ローレライが好いわ、村のロメオとジユリエツトにふさはしい古風な景色ですもの。若しも、その窓が未だ暗かつたら、妾はお湯に入つてゐるものと安心して、明るくなるまで藤棚の下の灯籠の蔭で誰にも見つからぬやうに待つてお呉れ、そして灯りが点いたら、静かに口笛を吹くのよ、左うすると音ちやんのために窓が展かれてよ。はちすの花の咲いてゐた窓辺のことが、一生の思ひ出となるやうなおはなしをしたいと思ふのよ。では待つてるわよ。」


 海と陸の区別もつかぬ暗い晩だつた。音田は、有頂天の幽霊のやうな心地で一散に渚をつたつて行つた。もう少し時間が早かつたら途中の田上や森のところを覗いて行かうかと思つたが、とても心にそんな予猶がなかつたので、彼は好くも覚えてゐない昔の唱歌のメロデイを練習しながら物語ローマンスの主人公になつたらしい輝やかしい思ひであつた。
 松林を抜けて、石垣の間の細い坂を登り、はちすの生垣について忍んで行くと、裏木戸は半ば開け放しになつてゐた。彼は生垣の裾を腰をかゞめて通り抜けると、人の気合ひのないのを確めてから、静かに百合子の部屋の真向ひにあたる藤棚の下の灯籠の蔭に身を潜ませた。窓は、未だ暗かつた。二階にも灯りは点いてゐなかつた。首尾好くパパの訪れはなかつたらしい。右手の泉水を隔てた躑躅のうしろにあたる浴室の窓だけが、濛つと明るく煙つてゐるだけだつた。
 湯をあがつた彼女が身装ひを整へるまでの間を此処で待つことを考へると音田は、寧ろその時間が長ければ長い程愉快であつた。彼は石灯籠の裾に蛙のやうにうづくまつて、凝つと浴室のあたりへ眼を凝した。若芽の伸びた藤の房が、もう四五寸で灯籠のかさにとゞきさうなのが、浴室からの明りでぼんやりと認められた。――いつかの晩の田上達の話の通り、ほんとうに庭先から眺めると家の中の様子が隈なく窺はれて、まつたく此処で、あんな人影を見たら、活動写真を見るやうだつたらうなどゝ思ひ出すと音田は、その晩のことが、わけもなく滑稽となり、それに引きかへて今宵の自分の立場の悠々たるおもむきが勿体なかつた。
「お月様は何時頃あがるんだらう?」
 海に向つた浴室の窓を開けて、不図百合子が誰かに話す声を音田は耳にした。
「……まあ、左うなの、ずつと闇なの!」
 音田のところからは斜めなので海に向つた窓に顔を出したらしい百合子の姿は、逆光線を浴びた横顔が微かに見えたゞけだが上気した半身を風にあてゝゐるやうだつた。そして荒い音をたてゝ窓を閉めると、曇り硝子に映る影がもう一度湯気の中へ沈んだ。音田は、自分がもう此処に潜んでゐることを未だ彼女は知らぬのだらう、でなければ、いくら向方側だらうとあんな姿で窓に乗り出したりする筈はあるまい――などと思ひ、あとになつて若しや彼女に訊ねられたら、恰度彼女の窓に灯りが点いたと同時に到着した! とごまかしてやらなければならないといふ気がした。
 泉水でたまに鯉の跳ねる音がするだけで、息詰るやうな静かな夜だつた。口笛を吹いたら、それが何んなに澄み渡つて響くことだらう、余程心して極めて低音に吹き鳴すのが適当だらう――音田は、波の合間合間の底知れぬ静寂さに吸ひ込まれさうな思ひで凝つと息を殺してゐた。……彼は、いつの間にか泉水のふちを伝つて浴室の窓の下へ忍び寄つた自分に気づいた。――シヤワーを浴びる音が聞えた。
「着物が出してあるから、こつちへ持つて来て頂戴な。」
 この間の晩は、タオルを引つかけた裸のまゝ廊下を駆け出したさうだつたが、して見ると、自分がもう来てゐることを或ひは彼女は懸念して要心してゐるのかも知れない――音田は、そんな彼女の姿を眺めたといふ田上達に不意に羨望と嫉妬を覚えた。――浴室の先に続くバルコン風の廊下に、彼女が現れる様子だつたので音田は慌てゝ芝生のふちを崖ぎわの端まで逃げ出して、そつと木蔭から振り返ると、彼女は胸にタオルをあてたゞけで、西洋鏡台の前に腰を降して爪を磨いてゐた。ほんとうにそれは水槽の中の人魚を眺めるやうに、そこの明るさだけが闇の中に華麗なステージとなつて浮き出してゐた。
「灯籠の蔭を動いては駄目よ、誰かに見つかると大変だから――」といふやうなことが手紙の中に記してあつたが、このステージの人魚の一挙手一投足を眺めることの素晴しさは何事にも換へられぬ爽観で、音田は震えを堪えながら、彼女がドレスを着終るまでの動作を悉皆すつかり見極めてしまつた。そして大回りに芝生の隅を回つて、もとの藤棚の下に来て密かに胸を抱き絞めてゐた。
「なじかはしらねど、こゝろわびて……」
 音田は大きく息を吸ひ込んで、口笛の用意に、あの切々たるメロディを空想すると、危うく、歓喜の涙が滾れさうだつた。
 口笛など吹けるか知ら? と案ぜられる程体中が震へて、思はず彼は翼の下に頭を入れて眠つた鳥のやうに丸くなつて、熱い息を胸に吐きかけてゐた。
「うるはしおとめの、いはほにたちて……」
 あゝ、俺は百合子のためなら命もいらない、この想ひは何んなに映えて、切々たる口笛と化するであらう――彼は温泉のやうな流水の上をうつら/\と眠りながら流れる夢に恍惚として息も絶えさうだつた。
 既に、その時、彼の眼の上の薄緑色のカーテンは明るい光りを含んで、窓ぎはの花壺の影がはつきりと浮んでゐた。窓の下には、踏台に使ふためらしい庭椅子が一脚置いてあるのさへ窺はれた。
 ――そこで、音田は、凡ゆる激情を圧へて、大らかに胸を張り、深重に呼吸を吸ひ込み、いざや、川の流るゝ夢に吾を忘れて、巌の上の乙女の幻に酔ひ痴れたまゝ、余韻も長く口笛を吹きはぢめたのだ。
 震へる音律が、思ひのたけをはらんで恋人の窓に伝はつて行くに伴れて彼は夢中になつて次第に高らかに鳴らしはぢめた時、耳のせゐかしら? と彼は不図疑つたのであるが、自分の口笛が止絶えても、未だあたりには嚶々と鳴つて消えもしない旋律が山彦らしく巻き起つてゐるのだ。
 もう一度耳を澄すと、どうも反響こだまではなくて、あちこちの物蔭から、同じ唱歌の口笛が淙々と湧き出して来るではないか! しかし彼は尚も耳を疑つて、更に自分も歌ひ続けはぢめると、やがて窓下の口笛は見事にそろつて、奇妙に賑やかな合唱と化した。
「…………」
 溢れるやうな微笑を湛えた百合子が、カーテンを引き寄せて手まねきを送ると、石灯籠の蔭から、躑躅の根元から、ベランダの欄干てすりの下から、はちすの咲き乱れた生垣の中から、池のふちの祠の裏手から、蛙のやうな、河童のやうな、盗人のやうな五体の人影が、互ひの人影に驚きながらも声を立てることを禁ぜられた滑稽な抜き足でひよろ/\と踊り出したのである。
 云ふまでもなく、五人の同人であつた。
「…………」
「皆なが好きなのよ、御免なさいね。」
 鬼とも般若ともピエロオともつかぬ面持の同人に囲まれた時、百合子は笑ひ声で左う云つたかと思ふと、ワツと声を立てゝ芝生に泣き倒れた。


 間もなく藤の花が咲いた頃、彼等は百合子の結婚を手紙で知らされ、それには遂々恋も知らずに見知らぬ人のところへ……などゝいふことが述べられてあつたが、何故か誰ひとりとして顔色ひとつ動かす者もなかつた。彼等は町端れのうらぶれた漁家に新しい「マメイド」を発見して、互ひに壮烈な鎬を削る仲となつてゐた。
 古い破れた学生帽をかぶり、男のシヤツを着て、長靴を穿いた新しいマメイドのお里ちやんが朝夕の地引網に現れると、彼等はあちこちから集つて、一本の綱に取り縋り、曳哉えいや/\と声をそろへながら網引きの労働に没頭した。
 海は日増に紫の色が濃くなつて、鴎の翼が水の上にはつきりと白かつた。網には鰯や鯵の類ひが主で、渚にこぼれた小魚を拾ふ騒ぎが賑やかであつた。





底本:「牧野信一全集第五巻」筑摩書房
   2002(平成14)年7月20日初版第1刷発行
底本の親本:「文藝春秋 オール讀物 第三巻第四号」文藝春秋社
   1933(昭和8)年4月1日発行
初出:「文藝春秋 オール讀物 第三巻第四号」文藝春秋社
   1933(昭和8)年4月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年10月15日作成
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