スプリングコート

牧野信一





 丘を隔てた海の上から、汽船の笛が鳴り渡つて来た。もう間もなくおひるだな――彼はさう思つただけで動かなかつた。いつもの通り彼は、まだこの上一時間か二時間はうと/\して過す筈だつた。日が射してまぶしいもので、頭からすつぽりとかひまきを被つたまゝぢつと小便を怺へてゐた。硝子戸も障子も惜し気なく明け放されて、蝉が盛んに鳴いてゐた。
「もう暫く眠つてやれ。」
 彼は、たゞさう思つてゐた。
 丁度彼の首と並行の何の飾りもない床の間には、雑誌ばかりが無茶苦茶に散らばつて、隅の方には脱ぎ棄てた儘の汚いコートが丸まつてゐた。
 汽船の笛が、また鳴つた。子供の頃彼は、この笛の音では随分厭な思ひをした。写真だけでしか見知らない外国に居る父のことを想ひ出すのだつた。――その頃の遣瀬なかつた気持を、彼は現在でもはつきりと回想することが出来た。
 彼は枕に顔を埋めて、つい此間もう少しで殴り合にさへならうとした位ゐ野蛮な口論をした父を思つた。
「ヤンキー爺!」
 彼は、そんなに呟いて思はず苦笑した。肚では斯んなに軽蔑したり、また母や細君の前では一ツ端の度胸あり気な口を利くものゝ、いざ親父と対談の場合になると鼠のやうに縮みあがつてグウの音も出ないのである。
 彼は、偶然ずつと前から自分に混血児の妹があるといふことを知つてゐた。無論、それを知つて以来もう五六年にもなるが妹を見たこともなかつた。――汽船の笛を聞くと、妹の空想が拡がつた。――彼は、夢心地で床の間の隅の古びたコートを眺めてゐた。
 ……「君の、そのコートは古いには古いがとても俺――気に入つてしまつたよ。馬鹿気てだぶついてゐるんだが、そのだぶつきさ加減に奇妙な調和があるよ。肩の具合だつて斯んなだし、袖だつてそんなに長くつて、どうしたつて君の体に合つてやしないんだが、妙にその合はないところが君に調和して……」
 彼の友達で洋服の柄とか仕立とかを気にするのを命にしてゐる慶應義塾の学生が、羨し気に彼の肩を叩いて云つた。
「…………」
 彼は泥だらけの靴の先を瞶めてイヤに含羞はにかんでゐた。
「それは何処で作つたんだい?」
「…………」
「斯う云ふと変に君を煽てるやうだが、尤も君にはさういふ好さは解らないから困るが、俺、此間オブロモフといふ小説を読みかけたんだよ、その小説の初めの方にオブロモフといふ男の着物のことが書いてあるんだ。彼は部屋に居る時、何か薄いガウンのやうなものを着てゐるさうなんだがね、それが非常にだぶついてるんだつてさ、それはまアどうでもいゝがその形容のことばが面白かつたんだよ、――オブロモフの着物は、彼がそれを着てゐるんぢやなくつて着物の方が美しい奴隷の如く従順に彼に服従してゐるんだつて……少し俺が面白がり過ぎて翻訳し過ぎたかも知れないが――、その彼の体が五つも入る位ゐな……若しそれが脱ぎ棄てゝあつたならば、誰だつてそれが彼の着物であるとは思へないそれが一度彼の体を包むと……」
 友達は、さう云ひかけて彼の肩に腕を載せた。たしか冬だつたらう? 友達が喋るに伴れて口から息の煙りが出てゐたから。
 彼は、そんなことを云はれると、まつたくわけは解らなかつたが、一寸嬉しかつた。オブロモフなんてふ小説は読んだこともなかつたが、そんなとてつもない代物に比べられたので、自分が偉くなつた気がしたのだ。そして彼は、それ位ゐ有名な小説を読んでゐなくては軽蔑されさうな気がしたので、
「あゝ、オブロモフか。」といかにも軽やかな知つたか振りを示して空とぼけた。
「実にあれは素晴しい小説だね。近代文学の要素たるアンニユイの凡てを抱括してゐる。そして、全篇一脈の音楽的リズムに依つて渾然と飽和されてるぢやないか。」などゝ友達は図に乗つて書物の広告文見たいな言葉を発した。
 此奴の頭は少々怪しいぞ――彼は自分が何も知らない癖に、もう相手を馬鹿にした。
「うむ、さうだよ。」と彼は答へた。肯定さへしてゐれば自分のボロも出ないで済む……などゝ至つて狡猾な量見を持つてゐた。
「まア、そんなことはどうでも好いんだが。」と友達は慌てゝ言葉を返した。「実は僕、君のこのコートが欲しくつて堪らないんだ。その通りの型にして新しいのを一着拵へるから、それと君交換して呉れないか?」
「厭だなア!」と彼は、さもさも残り惜しさうに答へた。今が今迄彼は厭々ながらそのコートを着てゐた。他に外套がなかつたので内心恥しい思ひを忍んで斯んなものを着てゐるのだつた。だがこの男にそんなことを云はれると、持前の卑しい虚栄心が出て、――俺はワザと斯んなに乱雑な服装をしてゐるんだ、ボンクラな奴には解るまいが肚では相当身なりについてもたくらんでゐるんだぞ――といふ、まつたく咄嗟の考へに気づいたのだつた。オーバコートを拵へる為に母から貰つた金を蕩尽して了つたので、よんどころなく冬の真中だといふのに、そんなクレバネット製の裏もない古コートを着用してゐたのだ。実家へ帰つた時、父の古外套でも持ち出すつもりで、そつと物置へ忍び込んでトランクを掻き廻した時、底から探し出したものだつた。
「僕だつて君、多少気に入つてるからこそ斯うして着用に及んでるのさ。でなくて誰が酔狂にこの寒さに斯んなものを……」と彼は恬然としてうそぶいた。
「やつぱりさうだつたのかなア! あゝ、悲観した。」
 友達は、仰山な地団太を踏んだ。――友達に別れると彼は、眉を顰めて舌を鳴した。「斯んな物、貰ひ手があれば喜んで進呈したら好かつたのに――」
 ………………
 彼は、寝床の中でそんな回想に耽つた。半ばは夢らしかつた。五、六年も前の追憶だ。――そんなに古い話で、全く忘れてゐたのを、細君の余計なお世話から、突然この古コートが彼の身辺に現れたのだ。――彼は、此頃午後になると大概海で暮した。往来を通らず、短い松原を脱けると直ぐに海なので、いつでも彼は素ツ裸で出掛けた。それを細君が嫌つて、一週間も前に彼の用事で彼の実家へ遣らせられた時に、
「家ぢや土用干だつたので、長持の底から斯んなものが出て来たの。多分あなたが学生時分に使つたんでせう? 随分ボロね。でもこれなら面倒がなくて好いでせう。海へ行く時に着て行きなさいよ。」と云つて持つて来た。
「うむ、それは俺のだ。」
 彼は、苦笑を怺へて、きつぱりと答へた。以来彼は、細君の言葉に従つて、海へ行く時には必らず裸の上にはおつて行つた。
「とう/\このコートが、実は女物なんだつて事は誰にも気が附かれずに済んで了つた。」
 さう思つて彼は、一寸皮肉な微笑を洩したかつた。これは混血児の妹のレインコートなのだ。彼が、トランクの底からこれを見つけ出した時、娘から父に与へた手紙がポケットの隅にあつた。手紙の内容は、大したものではなくたしかピクニックへ誘つたものだつた。そんなものなので父もうつかりして棄て損つたのだらう。――父の写真帳に、このコートを着た妹と父のがあつた。友人の娘だ――などゝ父が母に説明したことを、彼は覚えてゐた。……彼が着て見ると、和服の丈と殆ど同じだつた。……秘密、秘密……さう思つて彼は怖ろしかつたが、苦し紛れにそつと東京に持ち帰つた。その晩は独りの部屋で、それを来て鏡に写したり、にやにや笑つたり、通俗小説みたいな想ひに耽つたり、心から涙ぐましい気持になつたりした。――それから膝骨の下あたりに見当をつけ、裾を五六寸鉄でヂョキヂョキと切り落した。翌日服屋へ抱へ込んで、ミシンを懸けさせ、帰りにはもうちやんと着込んで、如何にも自分のものらしい顔付きで、たしかそのまゝ友達を訪問した。三月の末頃だつたか? 何処も冬仕度でその友達とはストーブを囲んで話したが、何んでも相手が眼を円くして、
「いよう! 馬鹿に気が早いね、スプリングコートはしやれてるね。」と云つたから、多分早春の宵だつたんだらう。――まだ世間一般にさういふレインコートが流行しない頃だつたし、加けに色合がそれらしくないので誰もこれが雨外套とは気づかなかつた。


 食膳を縁側へ持ち出させて、彼は晩酌をやつてゐた。晩酌なんていふ柄ではなかつたが、此方へ移つてからは毎晩細君ばかしを相手にして、ひどい時には夜中の二時三時頃まで出たらめを喋舌つた。喋舌り疲れて、泥酔しないうちは寝なかつた。
「女中だつてあなたの云ふことなんてきはしない。」
 伴れて来た女中を自分が帰してしまつた癖に、少しでも自分の動く度数の多さを感ずる毎に、彼女は不平を滾した。若い女中で、往々彼が必要以外に親切な言葉を掛けるのを悟つて、別な口実で細君が追ひ帰してしまつた。
「妾、あのことを考へると口惜しくつて堪らない!」
 細君は、ひとりでビールを飲み始めてゐた。あのことゝ云ふのは彼の親父のことだ。此間彼女が帰つた時、酔ひもしないのに口を極めて父が彼の悪口をさん/″\喋舌つたといふのだ。
「あんな女に引ツ懸けられて、お父さんはもう気が少しどうかなつて了つたのよ。前とすつかり変つてしまつたぢやありませんか。前には決して道楽なんてしなかつたんですつてね。……」
「うん、さうだよ。」
 彼は、さうは思はなかつたが、好いお父さんが女の為に悪くなつたといふことで、細君を残念がらしてやりたかつた。
「外国に十何年も居る間だつて、それはそれは潔癖だつたんですつてね。始終あなたとお母さんを思ふ手紙ばかし寄越してゐたといふぢやありませんか。」
「まアそんなわけかね……」
 彼は皮肉な気がしたが一体それは誰に向けるべき皮肉か、ちよつと考へに迷つた。後に小憎らしい父親の顔が髣髴としてきた。
「あなたが『熱海へ』とかといふ小説みたいなものを書いたでせう?」
「お前読んだのか?」彼は、ギクリとして問ひ返した。
「妾は、とつくに読んだわ。妾が読んだのは好いとして、それをお父さんが読んだんですつて!」
「ヤツ!」と彼は、思はず叫んだ。そしてテレ臭さの余り誰に云ふともなく、
「馬鹿だなア!」と呟いた。
「それもね、たゞ読んだのぢやなくつて、杉村さんがその雑誌を持つて来てお父さんの前でペラペラと読みあげたんですツて……」
『熱海へ』といふのは彼の最も新しい創作だつた。事柄は実際の彼の家庭の空気をスケッチ風に書いたのだ。尤も彼は、その小説の主人公である自分だけは「私」としてはきまりが悪いもので「彼は――」「彼は――」といふ風に出来るだけ客観的に書いたが、彼の父や母や細君になると、さうはしなかつた。五十二歳にもなつた父親が遊蕩を始め、妾のあることを母に発見されて悶着が起つたり、そして彼等の長男である即ち「彼が――」その間で自分の両親を軽蔑しきつてゐる話を書いたのだつた。彼自身、そんなものが家の者の眼に触れようなどとは夢にも思つてゐなかつたのだ。
「あれぢや怒るのも無理はない。」と細君は、呟いたが自分も腹ではあまり好かない彼の父や母のことを、普段はオクビにも出さない彼が、小説の場合になるとさん/″\にやツつけてゐるので、一寸好い気持になつたらしく、自分のやられてゐることも忘れて、苦笑した。
 彼はどうすることも出来ず怖ろしく六ヶ敷い顔をして切りに盃を重ねてゐたが、やがて斯んなことを喋舌り出した。
「創作と実生活とを混同するやうな手合は、素晴しい芸術品であるべき裸体の彫刻を見て淫らな聯想をするのと同じだ。言語道断な連中だ。さういふ奴等が近親に在ることは不幸の至りだ。第一お前が俺の小説を読むなんて失敬だ。うす汚い感じがする……」
 無論彼の言葉は、横腹に穴があいてゐて何の力もなかつた。云ふまでもないことだが、彼自らが今自分で細君を非難した文句に当るべき程の男なのだ。これも余計だが、実際彼は裸体の彫刻を見ると、先づ恥づべき個所に注目するのだつた。
「そんな手前勝手は通りませんよ。自分が云ひ度い放題なことを云つてゐて、創作もないもんだ。それにあゝいふことを書くなんて、まつたく外聞が悪いわ。親の恥を天下に……」
「黙れツ!」と彼は叱つた。
「何さ、その顔は! 小説なら小説らしくちやんとしたものを書きなさい。あんなものを書いてゐるうちは何時までたつたつて有名になんてなりツこない。それが証拠にはあなたのものは一遍だつて誉められたことなんてありやしないぢやありませんか。」
「よくそんなことが解るね。」
 努めて白々しく呟いたが彼は一寸気が挫けた。小説家志望なんて一日も早く断念した方が好ささうな気がした。それさへ止めれば斯うまで親達に馬鹿にされもせずに、何とか済むだらう……などとも思つた。
「いくら妾だつて新聞の批評位ゐ、読みますわよ。」
「新聞の批評なんて駄目だ。」
「だつてあれを書く人は、皆なあなたよりは偉い人ばかしでせう。――それにしても妾一遍もあなたの小説が誉められてゐるのを見たことありませんよ。」
「中戸川吉二と柏村次郎には相当誉められてるよ。」
「お友達ぢや駄目だわ。」
「俺は友達の批評が一番好きなんだ。」
「それは負け惜み――」
「もう小説の話は止さう。」と彼は、静かに呟いた。その彼の様子が如何にもしをらしかつたので、細君の心はいきなり父の方へ向つた。
「ほんとうに此間は妾、口惜しかつたのよ。」
「もう幾度も聞かされて、よく解つたよ。俺だつて口惜しいと思つてるさ。親父があんな馬鹿な真似さへしてゐなけりや、俺だつて斯んな処になんて住ひ度くはないんだ。」
 さう云ふと同時に彼は、気恥しくなつて、海の方へ眼を反らした。……友達などには、長篇小説を書く為に来てゐるんだとか、東京に飽きて小田原に引ツ込んだが、其処も嫌になつたから、思ひ切つて斯んな遠くに移つて見たとか……などと如何にも体裁よく意味ありげな吹聴をしてゐるが、内実と来たら、良人が無能の為に細君が姑に苦しい思ひをしたり、父の不行蹟の為に家庭が収まらず、親の争ひを倅が見るに忍びなかつたり、「あれが家に居る間は、断じて帰らない。顔を見るのも嫌だ。」などと父が彼を罵つたといふことを聞いたり……そんなわけで這々はう/\の態で彼は、春以来熱海へ逃げ延びたのだ。彼だけは、一度も小田原へ帰らなかつた。だがいろ/\な風聞が伝はつた。彼が居なくなつてからは割合に多く父が帰宅するとか、帰れば必ず一度は激しい夫婦争ひをするとか――。
「どつちもどつちで、滑稽な憐むべき人物だ。」
 彼は、両親をそんな風に断定して、愚かな観察を享楽するのだつた。本を読むでもなし、また小説なんて書く気持は毛頭起らなかつた。それにしても此方へ来て以来の退屈さ加減は夥しかつた。温泉に浸つたつて逆上のぼせるばかしだし、風景を見て慰められる質でもなし、散歩は嫌ひだし、また独り芸術的な思索に耽るなんていふ落つきは生れつき持ち合はせなかつたし、まつたく彼は、日々その身を持てあますばかしだ。実家に居てあの苦しみに忍ぶことゝ、此方でこの退屈と戦ふことゝ、どつちが苦しいか比べて見れば、あつちの方は相手が人間であるだけ兎も角賑やかで面白かつた位にさへ、思はれるのだつた。
「でも妾は、お母さんと一処に暮すことも御免だわ。」
「そりやア、さうだらう。」と彼は、易々と点頭うなづいた。彼は、細君の場合とは別な意味からでも、いろ/\母の嫌な性質を、それはもう幼少の頃から秘かに認めてゐた。時々彼は、父が外国へなど行つた原因は母にあるんぢやないか知ら? と思つたり、また変に武士の娘を気取つて堪らない切り口上で亭主を説伏させやうとしたりする様などを眺めると、彼はゾツゾツと寒けを覚えて「これぢや親父の奴もさぞやりきれねエだらう。」と父に同情する場合もあつた。
「お父さんがよくお母さんのことを、学校先生なんてしたから変になつちやつたんだとか、先生根生で意固地だとかつて云ふけれど、まつたく変に優しいところと、妙に意地悪のところと別々なのね。」
「うむ、さうだ。」
 彼が余り易々と受け容れたので、細君は一寸バツが悪くなつて、
「けど、十何年も留守居をさせられては誰だつて変にもなるわね。小学校なんかに務めて気を紛らせてゐたのね。」などと呟いた。
「どうだか俺は知らんよ。――だが、つまり生れつきあゝいふ性質なんだらうさ。」と彼は、相当の思想を持つてゐる者のやうな尤もらしい表情をした。
「あなた、妾をどう思ふ。」
 突然細君が、さう訊ねた。彼は、一寸返答に迷つたが、強ひて考へて見ると煩さゝの方が余計だつたので、
「近頃、やりきれなくなつた。」と明らさまに答へた。
「ぢや、どうするの。お金さへあればお父さんのやうなことを始める?」
 彼は、にや/\して返答しなかつた。一寸親父が羨しい気もした。若し金があつても、彼にはそんな運には出会へさうもない気がした。
「そりやア妾への厭がらせでせう、ちやんと解つてる。」
「今、俺は少しもふざけてはゐないよ。」と彼は、きつぱり断つた。
「それは別として、これから家のことを小説に書くだけは止めなさいね。お父さんの怒り方はそれはそれは素晴しいわよ。今度若しあなたが出会へば、屹度一つ位ゐ……」と彼女は拳固を示して「やられるわよ。」と云つた。
 細君にそんなことを、くどく聞かされてゐるうちに彼の心はだん/\変つてきた。まさかと高を括つてゐた小説を読まれて、何より辟易してゐた気持が、皮肉なかたちでほぐれ始めた。彼は、父の憤怒の姿を想像して、快感を覚えた。……余りこの俺を馬鹿にしたり、年甲斐もなく女などの事件で家庭に風波を起させたり……親爺よ、みんなお主が不量見なんだ、俺の小説を読んで、どうだい、驚いたらう、斯ういふ因果な倅を持つて、さぞ/\白昼往来を歩くのがきまりが悪いだらうよ、ざまア見やがれ――彼は、さう云つてやりたかつた。――それにしても小説なんていふ手温く下等な手段でなくて、もつと皮肉で痛快な厭がらせをやつてやりたいものだ――と彼は思つた。
 いつの間にか細君は、独りでビールを一本平げてしまつて、顔をほてらせてゐた。こんなことは珍らしかつた。彼は、自分で勝手もとから一升壜を持ち出して来て、頻りに酒を飲み続けた。
「妾、ちつとも酔はないわ、何だかもつと飲んで見たいからそれを飲ませて頂戴な。」
 彼女は、酔つてゐるかどうかを考へてゐるらしく眼を瞑つて、ちよきんと脊骨を延して坐つた。若し普段なら一撃の許に彼は退けてしまつたが、彼も妙に気持が浮の空になつて、その上陰気でならなかつた為か、少しも細君に逆はなかつた。
 一時間の後、彼はぐでん/\に酔つぱらつてしまつた。尤も細君の方は、酒の酔なんて経験したこともなかつたから、表面はイヤに固くしやちこ張つてゐた。
「どうだい、何か素晴しく面白いことはないかね。」
 彼は、酔つて来るといつでも斯んなことを云つたが、自分も酔つてゐるので細君もそんな気になつて、初めて、
「さうね。」と徒らな思案をめぐらせた。
「海岸にカフェーが出来たね。あそこに東京者らしいハイカラな女が居るぜ。行つて見やうか。」
「行きませうか。」
「いや、田舎ツペの青年が来て居るだらうから不愉快だな。」
「ぢや、たゞ海へ降りて見ませうか。」
「そんなこと真平だ。飲む事か、喰ふ事か……何しろ賑やかなことでなければ御免だ。」
「妾、折角夏服を拵へたんだから一遍着て見たいわ、斯んな晩でなければとても実行出来ないからね。」
「あゝ、それは好い。」と彼は気附いたやうに云つた。そんなものを拵へたのが彼に知れゝば、酷く彼が怒るのは解り切つてゐたので今日まで細君は秘してゐたのだ。彼女は斯ういふ機会に、斯う高飛車に云へばその儘、通つてしまふ彼の欠点を知つてゐた。だが、それにしても今日は良人がイヤに機嫌が好いので一寸薄気味悪くもあつた。
「そしてこれから自働車を呼んで、ホテルへ行かう。」と彼は云つた。森を三つばかり越えた嶮崖の一端に西洋風のホテルがあつた。斯んな所には珍らしく明るい家だつた。
「でも今月このお金を費つてしまへば、もう貰へないわよ。」
「関ふもんか、今日はひとつウンと贅沢をして、あそこへ泊つてしまはう。金なんて心配するねエ……おふくろがケチケチ云へば友達に借りるよ。」と彼は、大変な威勢を示した。
 彼は、腕組をして細君の仕度を眺めてゐた。彼女は、怪し気な足取りで、だが、きつと彼の留守の時に幾度も着てでもみたんだらう、割合に手ツ取り早く着こなした。
「ふゝん、仲々好く似合ふね。洋装の日本婦人は大概顔の拙い奴が多いが、そしてお前もその仲間だが、体の格好は仲々見あげたよ。」
 彼は、白々しくそんなお世辞を振りまいた。――そして、いざ出かける時になつて、
「それぢや寒くはないかね。俺のこのコートを貸してやらうか。」と云つた。
「馬鹿々々しい、そんな汚い、男のコートなんて。」と細君は耳も借さなかつた。……彼はゾツと身ぶるひした。冷汗が流れた。「此奴は余ツ程どうかしてゐやアがる。まるで芝居でもしてゐる気だ。馬鹿が/\。」と自分を顧みて、彼はもう一歩も外へ出るのは嫌になつた。
 彼は、酔ひ潰れて畳に転がつてゐた。……いくらか眠つて、どうも夢を見たらしい……と彼は口のうちで呟きながら、死んだやうな熟睡に堕ちた。――それぎり細君から洋服の話を聞かないから、或は彼の想像通り夢だつたのかも知れない。


 彼が中学の頃の友達だつた宮田が、五六日前から滞在してゐた。宮田は泳ぎ好きで、近頃ではもう彼は海へ行くのも飽きてゐたのだが、宮田と一緒に毎日出掛けた。日盛りになると彼のけた背中は、塩煎餠のやうにビリビリと干からびて水に浸さずには居られなくもあつた。
 初島へ三里、大島へ十八里と誌した棒杭が立つてゐるが、素晴しく朗らかな天気で、三里の初島も十八里の大島も何の差別もなく、青白い肌を無頓着に太陽に曝してゐた。赤い蜻蛉が無数に砂の上に群り舞つてゐた。微風もなく、暑さがぢつと停滞してゐるばかしなので、蜻蛉の影が砂地にはつきり写つた。――宮田は沖を悠々と泳いでゐた。彼は、そんなに泳げないので、浮標の近所で、腕を結んで逆さまに浮んだ。水が耳を覆つて何の音も聞えない。空は青く、だがあまり碧く澄み渡つてゐるので、彼は眩暈めまひを感じた。彼は、慌てて犬泳ぎで陸へ這ひあがり、要心深く砂地に腹を温めた。宮田は、鮮やかな抜手を切つて頻りに泳いでゐた。あの位ゐ泳げたらさぞ愉快だらうが――などと彼は思つた。
「もう船が出る時分だね。」
 さう云ひながら、あがつて来ると宮田は、彼の傍に寝転んだ。
「着いてから行つて丁度好いよ。」
 二三日うちに全国庭球大会といふ競技があるさうだつた。宮田の兄は小田原クラブの選手で、三時の船で来るさうだつた。
 庭球大会の日には、彼も見物に行く約束をしたが、寝坊して行き損つた。午後から行かうとも思つたが、うつかり昼寝をしてしまつて、帰つて来た二人の宮田に起された。宮田の兄は、ぐつたりと疲労してユニフォームの儘大の字なりに座敷に寝転んだ。小田原組が優勝してカップを獲た、と自慢した。
 いつもの通り彼は、壜詰の酒や缶詰の料理などで酒盛りを始めた。弟の宮田は、酒好きの癖に、兄貴の前では一滴も飲まなかつた。馬鹿な放蕩をして、一年ばかし勘当されて漸く帰参が叶つたばかりだといふ話だつた。道理で弟の宮田の奴イヤにおとなしく兄貴の云ふことをヘイヘイといてゐやアがる――と彼は思つた。
 彼は、それが一寸気の毒にもなり、白々しくもあつたので、
「ほんとに飲まないのか。」と弟の宮田を見あげて苦笑した。
 宮田は、笑つて点頭うなづいた。兄貴が、それ以上気まり悪さうに、白けた。弟は此方に来る前手紙で、今小田原のK病院に入院してゐるが、未だに実家への帰参が許されないで閉口してゐる、親父や阿母は何でもないんだが、兄貴の奴がとても頑張つてゐて始末に終へない、親父は君も承知の通りあゝいふ優しい人で、在れども無きが如き存在だが、いんごうなのは兄貴だ。聞くところに依ると近頃では阿母が兄貴の前で涙を滾して、僕の帰参を懇願してゐるさうだ、容易に兄貴がウンと云はないさうだ。僕だつて兄貴を恨みはしない、再三の失策をしてゐるんだから――そんな意味のことを彼に伝へてゐた。だから彼は、その兄貴の前で慎ましくしてゐる弟を見て可笑しくなつた。
 だが彼は、宮田の家庭が羨しかつた。宮田と彼の家庭と比べれば、その長男の存在が、実に雲泥の差である。彼の家庭では、寧ろ彼の小さい弟の方が権力を認められてゐた。兄の宮田に比べて自分の方がより愚物であるとは思へない――彼は、そんな馬鹿気たことまで考へた。
「信ちやんの酒の飲み方は、何時までたつても書生の失恋式だね。」
 兄の宮田は、快活な調子で彼にそんな批評を浴せた。彼は、兄の宮田には古くから好意を持つてゐた。宮田の言葉は、凡て技巧的で野卑を衒つたが、それが如何にも朗らかで、クラリオネットで吹き鳴らす唱歌を聞く感がした。そしてその容貌や体格が彼の気に入つてゐた。繊細で、快活で、そして鹿の如く明るい涙を胸の底に蔵してゐた。弟の宮田が、彼に甘えて兄貴の悪口などを云ふと、彼は極力皮肉まじりの反対を唱へた。お前の方が余ツ程馬鹿だよ、と云はんばかりに――。
 斯ういふ風だから家庭に於てもあれ程の権力があるのか知ら――彼は、そんなに思つて一寸陰鬱になつた。「宮田に比べて、何と俺は愚図だらう、そして胸の底に憎い心を持つてゐる、澄んでゐない。」
 夜釣りの舟が遠い街のやうに庭から見降ろせた。
「良三、あそこにビール箱があつたね、あれを二つばかし持つて来ないか。」と兄の宮田は弟に命じた。
「あゝ。」と素直に弟は、ビール箱を運んだ。それを二つ庭の突鼻に据ゑて涼み台にした。
「こゝで酒を飲まうや。」
「だが。」と彼は逡巡して「こゝでは往来を見降ろして悪い気がするから、もう少し後ろにさげようや。」と云つた。弟の宮田は、軒先に電灯を釣るし、それにスタンドをつないで庭を明るくした。
「おいビール位ゐは飲めよ、ねえ兄貴それ位ゐ許してやれよ。」
 彼は、もう酔が廻つてそんなに云つた。それでも一寸兄は迷惑さうな顔をしたが、仕方がなささうに点頭いた。弟は、待ち構へてゐたらしく勝手へ走つてビール壜をさげて来た。彼は、誰にでもいゝから一寸これに類する威厳を示して見たいものだなどと思つた。
「おいおい、コップ位ゐ買つたらどうだい。」
 兄の宮田は、直ぐに気持を取り直して彼をからかつた。コップが一つもないので、コーヒー茶碗を弟が持つて来たのだ。
「何によらず僕は買物といふことが嫌ひでね。どういふわけか僕は物を買ふといふことが変に気恥しくつて――」
 彼は、気分家を衒ふやうに云つた。
「道理で細君が、うちの人はケチでやりきれないと云つて滾してゐたつけ。」
「僕があした海の帰りに買つて来てやらう。」と弟の宮田が云つた。兄貴は横を向いてゐたが突然、
「壜詰はうまくないから、ひとつ俺が酒屋へ行つてどんな酒があるか見て来る。」と云つて出かけた。間もなく、白タカの好いのがあるさうだから頼んで来たと云つて帰つて来た。
「こゝに涼み台を据ゑたのは理由があるんだよ。今晩のうちに選手達は小田原へ自働車で帰るんだつてさ。こゝで見張りをしてゐて、応援してやらうと思つてるんだよ。」
「君は何故帰らないんだ。」と彼は訊ねた。
「いや僕はあした汽船で帰るんだよ。あんな酷い崖道を通るんぢやとても怖しくてかなはない。ケイベンにしろ自働車にしろ、あれぢや間違ひのない方が不思議だ。」
「兄さんは泳ぎが達者だから船なら平気だらう。」と弟は媚を呈した。
「此間君の親父に往来で出遇つたよ。」
「……」彼は、ゾツとして、だがまさか宮田なんて何も知らないだらうと高を括つて、
「ふゝん。」と白々しく点頭いた。
「君のことを云つてゐたよ。」
「何と!」
 彼は、眼を円くした。
「いや……」と兄の宮田は、わざと意味あり気に笑つて「君も、何か失敗したのかね。」
 君も――と云つたので弟の方は一寸厭な顔をした。
「いや別に……」
「内容は知らないが、何だか馬鹿に憤慨してゐたよ。信の奴、信の奴、と何遍も云つてゐたぜ。」
「はゝアん!」と彼は、みんな知つてるからもう止して呉れといふ色を示した。
「が、脛囓りぢや何と云はれたつて頭はあがるめえ――」
 それはいくらか弟への厭味でもあるらしかつた。斯んな機会に日頃の鬱憤を、大いに洩してやらうか――さうも彼は思つたが、言葉が見つからなかつた。
「だが、君の親父近頃大分若返り振りを示してゐるさうぢやないか。」と兄の宮田は無造作に笑つた。彼は、息が詰つた。
 そんな話をしながらも、兄の宮田は、自働車の音がする毎に立ちあがつて、
「小田原! 小田原!」と叫んで見た。三四回無駄な骨折りをしてゐた。
 選手の自働車は、騒然たるエールを乗せて崖下の道にさしかゝつた。兄の宮田は躍りあがつて、
「小田原! 万歳! 万歳!」と叫んだ。それに伴れて弟の宮田も同じく声をそろへた。向方は走る一塊の騒音ばかしで、何の返答もなく直ぐ森の蔭に消えてしまつた。弟の宮田は実はそんな大声を発したくないのだが、兄貴があまり一生懸命なので傍観してゐるのは悪くでも思つて試みたらしく、その声は半分彼の方を意識にいれてテレてゐる見たいだつた。
 街から帰つて来た細君が、石段をあがつて来て生垣越しに彼の後姿を眺めて、
「薄暗いところに、そんな風に立つてゐると姿が何んにも見えない、背中があんまりくろいもので――何にも無い見たい!」と云つた。
 彼は、肌脱ぎで宮田達の後ろにぼんやり立つてゐたのだ。あまり手持ぶさたなので、無数の星が閃いてゐる空を見あげてゐたのだ。


 兄が帰ると、弟の宮田はホツとして、夕方になると嬉し気に酒を飲んだ。此間のビール箱が、あの儘庭に残つてゐるので、陽が照らないと昼間でもそれに腰かけて、よく彼はトランプに熱心な宮田の相手をした。
「今晩の御馳走は何です。」
 宮田は庭から、座敷で編物をしてゐる彼の細君に声をかけた。
「また牛肉ぢや厭?」
「牛肉だつて好いから、もう少し料理を施して呉れなけりや……」
「良ちやん、自分で料理したらいゝのに。」
 彼は、黙つて手にしたトランプの札を瞶めて居た。スペートのキングの顔を眺めてゐると、妙に父の顔が浮んだ。尤も彼の父は、鬚もないし、顔だちだつてあんなではなかつたが――彼がうつかりしてゐるうちに、宮田がスペートのジャックを棄てたので、彼はキングを降ろしマイナス十五点をしよはされた。
「親爺ぢや参つたらう。」と宮田は鼻を蠢めかせて笑つた。スペートのキングを彼等はいつでも親爺と称してゐた。
「手紙!」と細君が、不興な顔つきで云つた。直ぐに彼は、母からだと悟つた。――凡そ彼は、近親の手紙を喜ばなかつた。殊に母のは閉口した。その内容の如何に関はらず、いつの時でも変な恐怖と救はれ難い憂鬱とを交々感ずるのが常だつた。東京の生活を切りあげてから暫く両親のそばに住んでゐたので、この厭な気持に久しく出遇はなかつたが、四月以来また離れて暮すやうになつてからは、少くとも一ト月に一回は母からの音信に接しなければならなかつた。
 彼は、いつもの通り云ひ難い冷汗を忍んで慌てゝ読み下した。(その日のは彼がスペシァルな要求をしたのに対する、スペシァルな返事だつた。)
「拝啓 先日の敬さんからのお言伝は聞き及び候 皆々至極壮健の由安堵いたし候 猶この上とも十分に注意せられ度候 さて御申越の金子は本日は最早時間なければ明朝出させ申すべく或は石川に持たせつかはすべく候
 父上は滅多に御帰館なく稀に帰れば暴言の極にて如何とも術なく沁々と閉口仕り候
 今や私もあきれはて候故万事を放擲してこの身の始末致す覚悟に御座候 父上の憤りは主に御身に向けられる憤りの如くに考へられ候
 御身のことを申すと父上は形相を変へ一文たりとも余計なものを与へなば承知せぬぞといきまき居り候
 さて私も兼々の計画通り今回一生の思ひ出に富士登山を試むべく明十二日午前八時当地出発の予定に御座候 伴れは松崎氏 寛一 栄二 滝子 冬子等同行六人に候 私も承知の体故いかゞとは存じ候へども運を天に任せ決行の次第にて、若しもの時は後事よろしくお頼み申し候 尚私所有の遺物は大部分栄二へ御譲り下され度願上候
 父上は当分帰宅なき様子にて決して依頼心を起すことなく御身も自活の道を講ぜられ度願上候若し無事帰宅せば私も御身の滞在中その地へ参り種々心残りのこと伝へ置きたく思ひ居り候
    八月十日夜認む
母より
  信一殿御許へ
 読み終ると彼は、慌てゝ座敷へ駈けあがり手紙は机の抽出に投げ込み、何か用あり気に一寸玄関へ走り、見るからにワザとらしい何気なさを装つて宮田の前に坐つた。
 ずつと勝ち続けてゐた勝負だつたが、それから三番も手合せしても彼は負け続けた。
 いかにもありさうな、そして安ツぽくシンボリカルな小説の結末のやうで、彼は可笑しかつた。――そして身辺の多くの事柄を、稍ともすればそんな風に不遜な考へ方をしようとする自分をかへりみて、身の縮まる思ひをした。


 九月一日には、またと無い大地震が起つた。幸ひ家は潰れなかつたので、家のなかで彼は当分蒼くなつて震へてゐた。
 小田原では母の家だけが辛うじて残り、他は凡て焼けてしまつた。
 貸家とか土地とかで生活してゐた彼の父は、無一物になつて、彼が初めて帰つて見ると、蝉の脱け殻のやうな顔つきでぼんやりしてゐた。
 父は、妾の家族を抱へ込んで途方に暮れ、焼けあとに掘立小屋を拵へる手伝ひをしてゐた。母だけは、自分の所有になつてゐる家が残つたので、父の方などには一文も金を遣らないと云つて、独りで住んでゐた。
 父は、女にやる金がなくて弱つたもので、思案の揚句その掘立小屋で居酒屋を初めさせた。
 或晩、彼がその小屋を訪れると今迄とは打つて変つた態度で父は彼を迎へた。そして久し振りに二人で酒を飲んだ。
「今にこゝに大きなホテルを建てるよ。そしたらお前はその支配人にならないか。」
 そんなことを父は話して、彼を苦笑させた。何とかひとつ皮肉を云つてやり度い気がしたが、遂々出なかつた。
 その後彼は東京に来て、或る新聞社の社会部記者となつて華々しい活動を始めた。間もなく彼は、その非凡な手腕を同僚に認められて、社から大いに重要視された。彼は、生れて初めて感じた得々たる気持で、燕の如く身軽に立ちはたらいた。
 初冬らしい麗らかな日だつた。彼は口笛を吹きながら、ステーションへ急いだ。二タ月振りで小田原へ帰るのだつた。……どんな風に誇張して、得々たる自分の功蹟を説明してやらうか、何と親父の奴が舌を捲いて仰天することだらう! それにしても今迄いろ/\なことで癪に触つてゐるから、どんなかたちで、どんな皮肉を浴せてやらうか? 阿母もひとつ何とか苛めてやらう、この俺を信用もしないで、細君にまで辛く当つたりしたから、此方もひとつ遠廻しの厭がらせを試みてやらう。……彼は、そんな妄想に耽つて胸をワクワクと躍らせた。
 彼は、片手に例の「スプリングコート」を抱へてゐた。いくらか冷々したが、それを看て往来を歩く気にはなれなかつた。
 これは、つい此間熱海から届いた行李の中に入つてゐたのだ。
 帰りがけに、この古コートを父の掘立小屋に何気なく置き忘れて来てやらう――彼は、さういふ量見だつた。
 彼は、鼻頭をあかくしてセツセツとステーションを眼指して歩いて行つた。
(十二年十二月)





底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「父を売る子」新潮社
   1924(大正13)年8月6日発行
初出:「新潮 第四十巻第一号」新潮社
   1924(大正13)年1月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年5月23日作成
2011年4月23日修正
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