西瓜喰ふ人

牧野信一




 滝が仕事を口にしはじめて、余等の交際に少なからぬ変化が現れて以来、思へば最早大分の月日が経つてゐる。それは、未だ余等が毎日海へ通つてゐた頃からではないか! それが、既に蜜柑の盛りどきになつてゐるではないか!
 村人の最も忙しい収穫時とりいれどきである。静かな日には早朝から夕暮れまで、彼方の丘、此方の畑で立働いてゐる人々の唄声に交つて鋏の音が此処に居てもはつきり聞える。数百の植木師が野に放たれて、野の樹の手入れをしてゐる見たいだ。その悠長な唄声、忠実な鋏の音を耳にしながら、風のない青空の下の綺麗な蜜柑畑を、収穫の光景を、斯うして眺めてゐると、余にでさへ多少の詩情が涌かぬこともない。この風景を丹念に描写したゞけでも一章の抒情文が物し得ない筈はあるまい、常々野の光りに憧れ、影の幻に哀愁を覚えるとか、余には口真似も出来ないが、光りと影については繊細な感じを持つてゐるといふ滝が夢に誘はれないのは不思議だ。木の実の黄色、葉の暗緑、光りの斑点などを此処から遥かに見晴すと丘のあたりは恰度派手な絨氈だ。
 畑通ひの人に途上で遇ふ人は、一ト言彼等の労をねぎらふ言葉以外の挨拶は控へてゐる。余などは、外出する毎にこの雰囲気から圧迫を感じるので好きな散歩も遠慮して、眺めだけに代へてゐるのだ。滝は臆面がない。誰とでも洒々と忙しさの挨拶を取り交してゐる、自身も忙中の人であるかのやうに!
 相手が怪訝な眼付をするのも無理はない。彼は、この節季に昨日などは、一寸と見あげれば村中の人の眼にもつく、あの丘の頂きの芝生で半日あまり熱心に凧を上げてゐた。他人事ながら余は、秘かに顔をあからめずには居られなかつた。創作の構想に余念がないのだらうと思つて、注意は一切遠慮してゐるのだが、それにしてはあの挙動は余りに落着を失つてゐる。決して暢気さうに凧上げをしてゐるのではない。折角あがりについたかと思ふと、慌てゝ引き降す、かと思ふと又直ぐに、糸を伸して駈け出す。頂きから下の畑際まで駈け降りても二度や三度ではあがりつかない。夢中だ。あの凧を拵へるには彼は、長い間素晴しい夜業を続けた。余は、彼が小説の仕事に没頭してゐるのかとばかり思つてゐたのだ。あれ程、始終口にして忙しがつてゐる創作に! 最後に釣りの懸け具合を乞ひに来たのでは余は、始めてそれと解つたのである。余は、内心唖然としたのであるが、眼付までも殺気立つてゐる気合ひに蹴落されて諾々としてしまつたのである。
 兎も角滝に、斯んな辛抱性があるかと思ふと全く意外な気に打たれる。然し余だけは半ば無意識的であるが、努力! に対しては余程の好意を持つてゐる者に相違ない、でなかつたら如何程退屈に身を持て余してゐる者にしろ、近頃の滝と斯んな交際を続けてゐられるわけがない。
(註。この文の筆者であるBは滝と同年で三十一二歳の理学士である。そんな称号は持つてゐたが今では彼は、別段専攻の科目は持つてゐない、彼は、これから自分の一生の仕事を新しく定めようと迷つてゐる男だつた。)
 滝以外は余には一人の友達もないのは余は、他人に対して稀に見る気短かと癇癪持であるが為なのだ。他人の目から見たら、そんなのではない、もつと悪い性質があるのかも知れないが、自分では解らない。――たゞ滝との間だけは古い。時には滝が、何か余に関する観察を述べないかなどゝ思ふこともあるが、面と向つて互ひに余りそんなことを述べ合はないのが無事なのかも知れない。この頃だ、余だけが滝に向つてあれこれと口出しをするやうになつたのは! それにしてもこの頃の滝に余が癇癪を起さないのは吾ながら不思議としてゐる。こんなに接近した交渉も初めてだが、こんな滝にも余は、初めて出遇つた! 彼の家の者は大して異ともしてゐないところを見ると、内では屡々斯んな病ひを繰り返してゐるものとも思はれる。二度は閉口だ。彼の仕事が終るまで我慢ついでに辛抱するが、年内にはA町へ移りたい。余は、別段近頃の滝に特別な興味を懐いてゐるわけでもなく、況んや彼の行動に冷い観察の眼を放つて何んな享楽に耽つてゐるのでもない。昔ながらのたゞの友達であるだけだ。作家としても何も無い。余にとつての滝は飽くまでもたゞ滝であるだけだ。滝の書いた小説は幾つか読んだことはある。それは余の知つてゐる滝そのまゝのものであつたから、元々芸術のことに関しては趣味も理解もない余であるが、解つた。そして、創作とは称するものの余の日録と大差無いものばかりであつた。主に身辺の出来事とか果敢ない思ひ出の類ひとかを、無雑作に、彼の口調に似たたど/\した文章で書き綴つたといふ風なものだつた。たゞ彼は、昔から余とは何時も裏腹な変に歪んだ生活をしてゐる。それを、その儘投げ出してゐるだけで、知つてゐる余等にとつては至極自然なものだつた。創作上の悩みが奈辺に在るかは計り知らないが、滝の場合だけは余には、斯う云へるのだ。「どうしてそんなに苦心するのか、何を? 今年の春から夏へかけても君は相当に目立つた経験をしてゐるのぢやないか、君が僕に語つたいくつかの話は、夫々君らしい短篇に纏つてゐたぢやあないか?」
「…………」
 滝は、黙つて俯向くに決つてゐる。
「仕事を口にしだしてからの生活には無いだらうがね。仕事の為に仕事をやり損つてゐるといふ感じだな、僕の眼にさへ――」
おどすやうな口調で云はないで呉れよ。」と滝は、怯えたらしい眼眸まなざしでチラリと余の顔色を窺つて、静かにわけもなく、妥協するやうに呟いた。「それもさうだね、仕事に没頭すると……」
「妄想に走つてゐるんだらう、好きな?」
「そんな余裕はないよ。」
「不自然な苦心を弄んでゐるのかしら、ぢや! 僕が聞いたゞけでも、ちやんと纏つた短篇が五つもあつたぢやないか?」
「この頃はないんだ。」
「だつて僕が、そんな話を聞いたのはつい此間の夏の頃だつたんだぜ!」
「あれはあれでもう済んでしまつた気がするんだ。」
「僕に話したといふ事だけで!」
「うむ……まあ――」と滝は、心持顔を赤らめながら勝手に点頭うなづいてゐる。
「僕には解らない。」と余は、稍々軽蔑的な苦笑を洩すのであつた、
「仕事に没頭すれば、全生活が仕事になつてしまふ……」
「結構ぢやないか。」
「今日この頃のやうな生活からは何か生れないかしら?」と滝は、質問するのだ。
「それは――」と余は、もう明らさまなセヽラ笑ひを浮べるより他はない。「生れないこともあるまいが、君が仕事を口にしだしてからの生活では、何しろあれだけのことなんだからね、相手は僕一人だらう。夜の時間を除いて、あとは皆な僕は知つてゐるわけだ、蜜柑畑にゐる間のことだつて!」
「さうだ、此処からでは畑が隅々まで見えるね……」彼は天井を仰いで口を開けて云つた。「仕事の期間が長過ぎるんだ。」
「さうさ。」と余は、わざと大きな声で点頭いた。余は、彼が家族と別居してゐることを暗に非難もしてゐるのだ。家庭との交渉が絶えてゐるとすると斯んな風になるのが当然のことなのかも知れない。その揚句何らかの芸術的妄想に攪乱されてゐるのだ。不自然なのだ自己の小経験をあのやうな小説体に綴る業が、それ程困難なものとは思はれない。余は、皮肉な嗤ひを露はにして訊ねた、「この前にも矢ツ張りそんな風に骨が折れたのか?」
「この前の時のことは忘れてしまつた」と滝は、酷く尤らしい眼付をして凝つと首をかしげた。その愚かしさを余は、もう嗤ふのも退屈になつて欠伸と一緒に呟いた。「忘れたら忘れたで好いよ。そんなに考へることもあるまいし……」
「一寸とした気分の上のね、影と光りといふ程の意味で――」と彼は、厭に含羞むだらしのない口調で「影と日向の、を省いて題名にしたんだ。後になつて、それが wickedness の俗語だつたことに気づいてね、あゝ、思ひ出すと今だに取り返しのつかない後悔に打たれる。」などゝ云つた。
「チヱツ!」と余は、思はず癇癪の舌を鳴らした。「早く帰つて、今夜こそは仕事に取りかゝれよ。」
 すると彼は、突然赤くなつて熱のある声で「仕事には取りかゝつてゐるんだよ。」とムツとして叫ぶと同時に物をも云はずに駈け出して行つた。わけが解らない。――彼のぼんやりしてゐる顔だけが余の頭に、幻のやうに残つてゐる。眼の前にゐた時は、あれ程の心で眺めてゐたのだつたにも関らず、一瞬後になると、無言の彼の顔がシーンとして余の顔をぼんやり眺めてゐる。眼ばたきはする、時々言葉を吐く見たいに口も開ける、何んにも見えない真昼の白々しい澱んだ静けさの中で余は、そんな彼の顔に見入られてゐる思ひで、不気味さとも寂しさとも云へない、たゞフラフラツと、煙りに巻かれるやうな妙な陶酔を誘はれて、幻でない滝に会つてゐる方が救かる見たいな気がして来るのだ。彼の来るのが待遠しくなる。昼ならば、鵜の目をして蜜柑畑を探し出す、直ぐに見つかる。鋏を持つた彼が、熱心に収穫とりいれの手伝ひをしてゐることもあつた。丘の上で大騒ぎの凧上げをしてゐることもあつた。車の後おしをしてゐることもあつた。野良師のお茶の仲間に加はつてゐることもあつた。余がこの窓から顔を出してゐるのを知つてゐる筈なのに、見向きもしない。余は、たゞ画中の人物を見る思ひで彼の激しい動作を飽くことなしに見詰めてゐた。どう見ても考へてゐる人の働き方ではない。――どうも、ぼんやりとして何かの思ひに耽つてゐる時は余の面前以外では無いらしい。独りでは凝つとして居られない男なのだらう。夜だつて、小説でない何かを拵へてゐるのに違ひないのだ。
 ――辛抱性は好いが余は、日増しに滝の能力に不安を覚えるやうになつた。彼にむかふと何か彼の材料になりさうなことを、斯んな生活に入らなかつた頃の経験から見つけ出して水を向けたりした。「この頃は細君と喧嘩する間もなからう。別居では。夏時分は好くやつたね、君達の夫婦喧嘩は一種特別だ。何ういふ原因で始めて、何故其処で止めたか、見てゐる者には何うしても解らない。何の一場面でも好いからその儘思ひ出して見給へ。あれらの小争ひを幾つか並べて御覧な、――自づと何かに通ずるものが現れるのぢやないかしらと思ふがね、案外晴れやかな何かに出遇ふのぢやないかね。」とか「あそこの山の仏閣にお参りに行つた時はどうだつた? フアザーの三年忌が明けたといふので、今年からは君の名前で家内安全の祈祷を乞ひにやらされたんぢやないか。マアザーが、書いたお供物の上書きを見ると、君はまた何うして自分の名前までを代筆なんてして貰ふんだい! それを見ると、どうだつた! 君の家の例では、家内安全と書くのが常なのに、君が気づかずにゐて向うで開いた時に不図見ると、心願成就、滝何々としるしてあつたさうぢやないか、そのことを僕に話した時の君の顔付! と云つたらなかつたぜ、僕には名状し難いが! 御祈祷の種類は他に何種あるか君は覚えて来たと云つてゐたね? うつかり記さないで行くと係りの人から種類を問はれるんださうぢやないか。若し自分がそれを訊かれたら相当迷つたことだらうなどゝ君は云つてゐたね。」
 こんなことも云つた。「Y温泉にゐた時に君の家内中が島廻りを企てた時はどうだつた、小さい発動機船でさ。君の嫌ひな何とかいふ叔父さん見たいな人も一緒だつたね。君は、どうしてあの人とあんなに仲が悪いの? マアザーは君達が後からYに来たんで却つて迷惑がつたさうぢやないか。君が酷く舟に酔つたといふ話だつたね。舟に酔つたのではなくて、或る気分の重苦しさに参つたと君は云つたことがあるが、どんな重苦しさなの?」
「僕が舟になど酔ふ筈はないのだがな。ほんとに舟に酔つたのはあの時が初めてだ。」
「初めての舟酔ひ――だね。そんなに苦しかつたか?」
 さう云つて余は、故意に仰山に眼を視張みはつたが、それ以上滝は何とも云はなかつた。巻煙草の後先きから立ち昇る色の違つた二条の煙りを彼は、いつまでも瞶めてゐた。
「初めての舟酔ひ――か。」と余は、更に重く呟いだ。
 嘗て滝からあまり事細かに聞き過ぎたので、その場合の彼の感想の言葉や、入り組んだ心持の上のいきさつなどは大抵忘れてしまつたが、舟の中での滝だけのことは覚えてゐる。珍らしく酷い舟酔ひをした滝が、苦悶のあまり、うつかり、ゆくがまゝにのた打ち廻りでもすると舟が小さ過ぎるので危く水が入りさうになるのであつた。彼は二重の苦しみを味はなければならなかつた。辛うじて胴の間に横たはつてゐるのだが、のべつに胸が込み上げて来るのだ。だが、慌てゝ舟舷ふなべりに走るわけには行かない。乗り手の一同が気勢を合せて、舟舷に逼ひ寄らうとする彼に伴れて、徐徐と舟の中心をとらなければならなかつた。彼は、胸先きに込みあげて来るものをおさへながら、やつと舟舷にたどり着くと喉を鳴して凄まじい吐瀉をした。其処に凭りかゝつてゐれば好いんだが、深々と澄み渡つた大海の静かな水を瞑つてゐる眼の先に感ずるだけで、ふらりと吸ひ込まれさうな悸気おぢけを震つた。眩惑に堪へられなかつた。で彼は、吐気が稍静まる毎に再び胴のに戻らずには居られなかつた。その度毎に舟中の者が彼方彼方に坐り直して、慎重に舟の中心を取り直すのであつた。皆なの顔が蒼ざめてしまつた。苦悶のあまり何時滝が、中心を踏み外すやうな急激な動作をしないとも限らない。滝自身も、それが怖ろしかつた。滝の五体は、棒のやうに堅くなつて、体全体で歯ぎしりをするより他はなかつた。五分も経つと、また胸が込みあげて滝は起き上らずには居られなかつた。夫々注意の合図を交して、周囲の者は一投足に気づかひながら、また坐り直すのであつた。それら一同の者の動作は、急速度の撮影機でとつた映画の人のやうに、緩く、極度に緊張して夫々の位置から位置へ移動することを繰り返した。終ひには、滝のうめき声以外には一つの声を発する者もなくなつて、恐怖の極北で黙々として巧みに位置を保つことに専念だつた。怖ろしい注意力に怯えながら、吐き、逼ひ、蠢き、転げなければならなかつた。全ての神経を一本の槍に化して、吾が手で吾が胸にとゞめを射さなければならなかつた。終ひには何を吐いてゐるのか自分にも解らなかつた。
 この不気味に静かな騒ぎを載せた小舟は、朗らかな爆音をたてゝ鏡のやうな水の上を滑つてゐた。……島に着くと一同の者は、異様に根の尽きた仕事を終へて、黙つて顔を見合せた儘暫くの間はたゞみぎはにぼんやりと突ツ立つてゐた。折角快晴をたしかめて一家打ちそろつて愉快な舟遊びを試みたのが、滝の同乗で台なしにされた。帰路では滝だけが一人別の舟に乗つた。用心して上向けに寝てゐたが、晴れた空だけを眺めてゐると案外に快くて、うつら/\しながら浜辺に戻つてしまつた。一人でなら、もつと乗つてゐたいやうな気がした。その後舟に乗つて見ないから解らないが、周囲の者があんなに怯えて、そして自分が亦自分の苦しみであんな風に舟をグラ/\させたので、その騒ぎに参つたのだ、自分は当り前なら舟などに酔ふ筈はない――と彼は、思つてゐた。
「もう一辺乗つて見るのも興味があるね、君にとつて――」
「仕事でも済んだら……」
「止したら如何だ、今度は――君は、仕事の為で病気になつてゐる。」
「いや、僕は創作慾には燃えてゐるんだ。」
「それが形ちがなくては無理だらう。」と余は、逆に勢ひづけるつもりだつた。「無を瞶めてゐたつて、徒らに神経を衰弱させるだけのことぢやないか。」
「無といふわけでもない……いや、何とかなる。でなかつたら、寂しさに堪へられない。」
「ぢや君のこの頃の行動――行動だけが仕事で、あれは寂しさを遁れる方便なんだね。」
「…………」
「寧ろ僕は、君の仕事が羨ましい。」と余は、苛々してほき出した。さつきから厭に首を傾げて沈思してゐた滝は、急にがつくりと項垂れてしまつた。
 居眠りでもしてゐるのかしらと思ひながら余が暫くたつて、
「僕は、こゝのところ暫く日誌をつけ損つてゐる、何年にも無いことだ。日誌なんてものは、その日/\につけて置かないと忘れてしまふ。」と迷惑さうに独語すると、滝は自分のことでも云はれてゐるかのやうに尤もらしく深く点頭いた。
「この頃はまた僕が昼と夜との差別を失くしてゐるんで、君までも――」
「僕は君の生活を眺めてゐるのが仕事見たいになつてしまつたね。日誌のつけようもないんだ。だが、とばすわけにも行かないから一纏めにして記してゐるんだが――」
 そのつもりで余は、この文章を時々少しづゝ斯うして書いてゐるのだが、何処に如何、月日の区切りを付けることも出来ないのだ。滝との会話を斯んな風に挿入はしてゐるが、悉くがボーツとしてゐて後先きが解らない。夢も交つてゐるかも知れない。夢の相手までが滝だ。
 もう蜜柑の収穫とりいれも済んで、丘も畑もひつそりとしてゐる。稀に、畑に人影を見かけると滝だ。余は、冬の持病である散歩の出来ない病気が出始めて、起きてゐる間はこゝの窓に凭つてゐるより他はない。
 どうも実際では滝は余の前では、殆ど言葉を発してゐないらしい。さうして見ると余は、余程屡々滝の夢を見てゐるのだらう。斯うして書く程のことだから夢の気もしてゐないのだが、どうも、彼の顔だけは始終目の先にあるのだが、はつきりとした彼の言葉は、斯う考へて来ると、無い。若し、さうだつたとすると滝は、この頃は何んな人間とも言葉を交へてゐないことになる。――風の吹き荒んでゐる木枯の丘で、相変らず熱心な凧上げをしてゐることが多い。
 滝との会話を書き記してゐると、たしかに彼が云つたのには相違ない筈の言葉でも、悉く遠い囁きを余が勝手に近づけしめてゐるかのようになつて、彼に対する余の無理解を余自身が勝手に掘り下げて行くやうな気がすることもある。言葉を要さない何か別なものが余等をつないでゐるのだらう。さうだ、矢張り余は、夢のうちで彼と語つてゐたのではないのだ。云つた言葉が次の瞬間に夢のやうな気がするだけなのだ。日誌を怠り過ぎたまでなのだ。
「一纏めに書くとなると相当骨が折れるだらう。」と滝は、まるで余を作家として扱ふかのやうな同情を寄せたこともあつた。
「僕の生活は、君のそれを眺めてゐるだけのことで、そしてその君の生活がまた……」と余は、何となく息詰る思ひに打たれた。
「強ひて不自然な生活をしてゐるわけではないんだからね。」
 そんなことを聞くと余は、何といふわけもなく声をたてゝ空々し気に嗤はずには居られなかつた。余は、ひとりでにテレてしまつたのである。
 その後間もなく彼は、書斎の窓を開きの硝子戸に換へた。屡々光と影のことに就いて余に謀つてゐたが、取りあへず窓だけを改めたのだらう。彼の理想の居室は、一言で云へば写真家のアトリエ風のもので構造に就いては一昼夜詳細に語り明されたことがある。あの窓は急拵へに改めたので、勿論彼の云ふ光線の屈折などには何の注意も施されてゐない、もとの窓枠を取り払つて、三方ともを唐紙大の硝子戸に換へたまでゝある。彼が云つてゐた、内に居て、野に坐つてゐる気分? それ位ゐは味へるだらう。こゝから見ると水族館の水槽を眺めるやうに、彼の一挙手の動作までが手に執るやうに見えるのだ。たゞでは見えないが余は、自分で組立てた筒型の望遠鏡で、毎晩飽かずに其処を見てゐるのである。彼は、余が斯うした展望を行つてゐることは知らないらしい。彼は、相当の秘密家で蔵書を他人に見られるのさへ嫌ひな位ゐで、今迄は余だつて滅多に彼の書斎へ入つたこともないのだ。然し、余の窓がこれ程の距離だから、此処からは見えぬ気であるのだらうが、彼のお蔭で徹夜の習慣をつけさせられてゐるこの頃、これ程のことは許されるだらう。許されなくても、斯うでもしてゐなければ夜の過しやうが無いのである。
 この頃こそ余は、滝の生活全部の傍観者である。
(註。どちらも蜜柑の段々畑にある家なのだが、Bの方は丘に近く、滝の方は、その真下で海に近かつた。)
 云へば、即座に改めるだらうし、そして折角の創作気分を台なしにさせては気の毒な気がして余は、彼も亦そのことを口にしないのを幸ひ苦しさを堪へて秘密にしてゐるのだ。彼の仕事が終つてから、それとなく注意するつもりでゐる――あゝなつてゐる以上は余は、何うしても彼の部屋を覗かずには居られないのだ。因果な気がする。
 風のない静かな夜だ。外は余程寒いだらう。滝の窓は明るい。滝は、宵のうちから寝て、二度ばかり眼を醒したが、煙草を喫したゞけで直ぐに寝入り、昏々と眠つてゐる、満々と明るい電灯の下で――。もう間もなく夜明けになるだらう。余も、そろ/\眠くなつたが、眠りに就いたところを起されるのは堪らないから、もう暫く執筆を続けよう。
(註。書斎を寝室に兼ねてゐる滝は、窓をあけて以来、仕事を終へるとBの部屋に来て寝る習慣になつてゐた。彼等は枕を並べて明方から午少し過ぎまで其処で眠るのであつた。カーテンを取りつけるまで、君の寝室に寝せて呉れと滝がBに頼んだのである。滝の部屋は、終日陽が射してゐるからだ。Bは遠慮勝ちに時々カーテンのことを滝になじつたが、彼は何となく言葉を反らして気分家らしい眼付をしてゐるばかりだつた。)
「仕事は少しは捗つたかね。」
 余の部屋に入つて来る滝の顔を見ると第一に余は、斯う訊ねるのが常だつた。初めのうちは、滝の返事のあまりな空々しさに滑稽を感ずることがあつたが――例へば、余が斯う訊ねると彼は、真面目な態度で、
「調子が出て来た。昨夜などは、宵から今までペンを持ち続けて二十枚近く書いた。」などゝ云ふ、宵から今まで寝台にもぐつてゐたにも関はらず――いつの間にか余も滝と同じやうに何らの空々しさも感じなくなつてゐる。瞞されてゐるといふ気もしない。余のこの気持は、何ういふわけか余自身にも解らないのであるが、余も亦、至極生真面目な調子で、
「合計すると、もう六十五枚になつてゐるわけだね。」と、真実指を折つて数へた。
「さうだ。案外早く運ぶので……」
「窓をあけたのが好かつたのかしら?」
「そんなこともあるまい……僕は、未だ昂奮の余勢が残つてもう少しの間は眠れさうもないから君は先に寝給へよ。」
「ぢや、失敬。」
「失敬。」
 どちらも何の不自然な様子もなく斯んなことを云ひ合ひながら安らかな眠りに就くのであつた。先に寝ろと云つてゐながら彼の鼾声を余が先に耳にすることの方が多い。
 滝の部屋には予想外にいろ/\な人が出入りしてゐる。余は、硝子戸に変るまでは夜中は絶対に滝は孤独だとばかり思つてゐたのだ。あれでは、時間的に見て彼がペンを執る間は絶対に無いと云つて差支へない。誰か知ら他人を相手にしてゐない時は、一切寝台の上で、眠つてゐるか、さも/\暢気さうに煙草を喫してゐるばかりなのだ。そして、明方近くになると、起きあがつて余の処に来るのである、小径をトボ/\とたどつて来る彼の姿が、蜜柑の木蔭に隠れる時の他は、悉く彼の動作は余の視野中に在るのだ。
「調子が出て来たのは何よりだね。僕は、君の新作を読むのを楽しみにしてゐるよ。」とも余は、云つた。
「有りがたう。是非読んで欲しいね。」と彼は慎ましやかに云つてゐる。
「あと何日位ゐで脱稿?」
「四五日のつもりだが、はつきり解らない。」
 書き始めたら一気呵成にやり出すに違ひないのだ、余はさうも思つてゐるのだが一向滝は机に向はうとはしない。
 このやうな夜ばかりが続いてゐる。
 夜の時間が大切だといふことを嘗ては口癖にしてゐたにも関はらず、余以外の他人に彼の部屋で接してゐる間は、無理に引き止めては、然もわざとらし気に愛嬌などを振りまいてゐるのだ。一体彼は、他人に対しては或る程度までは万遍のない男なのだが、この頃のは極端だ、第一、誰が来ても必ずあの書斎に引き入れるのからして常とは違ふ。
 余などは顔も知らなかつた見るからに芸術家らしい若い男と、睦まじ気に語り合つてゐることもあつた。何を語り合つてゐるのか知らないが、おそらく芸術談に花を咲かせてゐるのだらう。朗らかな態度で、滝の方が余外に口を動かしてゐる。著者は、時々紙片を手にして、何かを朗読した。滝は神妙に首をかしげてゐた。到頭彼等は、珈琲をすすりながら、殆ど口を休めることなく語らつて夜を明した。
 街の活動写真館の楽手を師匠にしてラツパの練習に余念のない晩もあつた。ラツパの音は、此処まで聞えて来る。それでも彼は、朝になつて余には相変らずのことしか云はない。余も、平気で彼の云ふ創作の枚数を指折つてゐる。
 母親と彼とが、二人限りで行儀よく向ひ合つてゐた晩もあつた。何か彼が意見をされてゐるらしい様子だつた。彼は折々横を向いて硝子戸に顔を映した。セヽラ嗤ふやうな表情もした。今にも泣き出しさうに口を歪めもした。母の方に向き直ると、屹つとして背骨を伸した。母の姿が消えると同時に、彼が卒倒したのかと思はれるばかりに寝台に打ち倒れる――たしかに、あれは泣きくづれた動作だつた。その儘、此処に出かけるまでは起きあがらなかつた。
 さうかと思ふと彼が細君にダンスの指導をしてゐることもあつた。細君は、初めて習ふのらしい。滝は異人に附き合ひがあつて、それは、家族の他では余だけしか知らないのだが、中学の時分にあんなことを覚えさせられた筈だ。その頃、偶然のことで余に見つかると彼は、火のやうに赤くなつて、踊りの最中、相手を振りもぎるがいなや湯殿の中にかくれて、どうしても顔を現はさなかつたことがあつた。それ以来彼は、何処で遇つても余の眼を避けるやうな態度を続けてゐた、余も、決して口には出さなかつたが、直ぐに忘れてしまつた。
 滝は、何となくテレ臭さがつてゐるらしい細君をとらへて、無気になつて鞭韃してゐた。彼のテーブルの上では、殆んど見かけたことのない古風なラツパのついた蓄音器が廻つてゐた。――尤も、これはたつた一晩だけの光景だつた、細君も調子を覚えて、終ひには中々愉快さうに、夜更けまで繰り返してゐたので、屹度幾晩も続けるだらうと思つたが。
 いろ/\な人が夜毎に現れては去りしてゐたが、滝だけは何んな場合でも決して其処から立ち去ることはしなかつた。つまり余の眼界から消えることをしなかつた。相手のない時は、居眠りをしてゐるか、全くの無考へらしい表情で、無暗に煙草を喫してゐる。電灯を消したことさへ無い。それも以前から見ると、余程大きなのを用ゐてゐるらしく、煌々たる光りが三方の硝子戸をすかしてあたりの闇をしのけてゐる。雨戸であつた頃には、障子の明るさが、そして此処から見ると其処の格構も行灯に違ひなかつた。日が暮れてからは、余等が通りさへしなければ全く人通りの無い処だから好いが、万一通るものがあれば滝の模様は梟の眼にも隈なく映ずるであらう。
 あれでは、独りの時は、余以上に退屈なのも無理もない。相手を欲しがつてゐるのはその証拠だらう。余の知らなかつた頃の夜の滝が、矢張あゝだつたのかと思ふとそゞろに憐れみの感さへ涌く。凧の製作に熱中でもするより他に思案の尽きたのも道理だ。何故彼は、余技的な気持で文章が書けないのだらうか、凧の製作の場合だつて彼は、いざそれに取りかゝつたとなるとあんな風に全生命を傾けてしまふのだ。彼には、どんな種類の仕事でも厭々ながらに従事するといふことが出来ない質らしい。気紛れや我儘で放擲するのではなくて、激情に逆に圧迫されてしまふのだ。彼は、二度ばかり勤めに出たこともあつたが、失敗の原因は怠慢ではなかつた。結局彼は、気持ばかりが積局的に切端詰つて、傍目には又とないナマケモノの月日を繰り返してゐるのだ。
 寝てゐることも、煙草を喫し続けることも、夫々熱中の揚句堪へられなくなつたと見えて、この頃彼は、独りの時間を様々な仕事に費しはじめた。或る晩は、窓辺に近い椅子に凭つて月を仰ぎながら、マンドリンの弾奏に余念がなかつた。余程指先に力を籠めたと見えて、余の部屋に来た時には手先きが震へてゐた。組み続けた脚も酷く痺れたらしく、杖をついて小径を上つて来た。或る晩は、机の上に実験用の硝子器具を整へて(見ると悉く余の所有の物だ。何時の間に持ち込んだのだらう。油断のならない奴だ! と思つた。それにしても余は彼の行動は細大洩さず観察してゐるわけなのだが、あれらの器具を持ち出したことだけは気づかなかつた。して見ると、余の眼のとゞかない彼の時間の余裕が何処かにあるのかしら?)怖ろしく鹿爪らしい顔付をして頻りに何やらを調合してゐる。あんな道具の用途を知つてゐるのも、そして扱ひ方だけは仲々巧みであることも不思議だ。額にセルロイドの光線避けなどをかむつて、忙し気に手の先きを働かせてはゐるが、つてゐることは、至極単純なことらしかつた。たゞ徒らに物々しく器具や液体を弄んでゐるだけなのだ。真に無内容な悪戯に過ぎないのだ。たゞ、若しあの様子だけを写真に撮れば、正しく研究室に於ける儼かな科学者の姿だ。別の晩には彼は、シヤボン玉を吹いてゐた。若し内容があつたにしても前の晩のことだけは余以外の者には解らない。また、あの晩の続きをるのかと最初は思つたが、シヤボン玉の液はこの晩に新しく拵へたのであつた。
 彼は、様々な大きさのシヤボン玉を無数に吹いた。彼の顔に多少の享楽の色が現れたのはこの時だけだつた。
 又の晩は彼は、椅子の上に胡坐を掻いて酒を飲んでゐた。あんなに彼が酒を飲めるのを余は初めて知つた。次第に酔つて来たかと思ふと彼は、怪しげな足どりで寝台の上に逼ひあがつた。彼は、そこで「最初の舟酔ひ」の話と全く同様な、苦悶を演じた。真実酒に酔つての上で苦悶をしてゐるのかとも思つてゐるうちに、次第に彼の動作はあの話に適合し出した。彼の様々な行動を眺めてゐると、同乗の人々の姿までが余にもはつきりと描かれたのである。小舟はグラグラと動揺した。
 今迄一晩でも同じことを行つたことがなかつたが、もう何の思案も面倒になつたと見えて彼は、あの話の繰り返しを始めたのか?
 彼は、静かに舟舷に逼ひ寄ると胸を掻き※(「てへん+劣」、第3水準1-84-77)つて真に迫つた真似で、嘔吐した。そして一層細かな動作で、周囲の人々の姿を、見える彼と同じくまざ/\と余の眼前に髣髴させた。そのうちに話とは違つて、アワヤと云ふ間に舟は転覆した。彼は、酔ひも消え失せたかの如く直ぐ様女達を舟に救ひあげた。最後に彼は、叔父さんていの幻と海中で大格闘を演じた。彼の方が泳ぎが達者だつた。あの男を余ツ程滝は、憎んでゐるらしい。何ういふけりをつけるかと思つて余は、胸を躍らせて眺めてゐたのであるが、結局、弱つてしまつた相手を舟へ引きあげさうにしたところまで演りかけてゐる途中で彼は、ほんたうに苦しくなつて窓から首を出してゲロを吐いた。彼が殊の他丹念に部屋の後片づけをしてゐるうちに東の空が白んで来た。そして此処に来たのであつた。
「昨夜は何枚位ゐ進んだ?」
「二枚しかはかどらなかつたよ。」
「それは近頃珍らしい不成績だね。だが、もう百枚近くなつたぢやないか、クライマツクスはもう過ぎたのか?」
「僕の小説にはそんなものはないよ。」
「でも、もう結末に近いのか?」
 余等は相変らず、顔を合せればまことしやかに斯んな会話を取り交してゐる。一時は希つたが、今では余は、彼の仕事が終つた後のことを思ふと、却つて寂しさが来るだらうといふ懸念が涌いてゐる。滝自身も何時か余に向つて、創作の仕事をしないと寂しいと云ひ、余はその空々しさに肚立ちを覚えたことを記したが、今では何となく彼の言葉に対して、云ひ様のない共鳴を感じてゐる。
(註。二人が枕を並べて寝に就き、鼾が挙ると間もなく、滝は独り眼を醒すのであつた。彼は真実一度眠りに陥ちるのであるが、必ず直ぐに神経的に醒めるのであつた。彼は起き上るとBの机上にある日録を開いて、その日/\に増えてゐる個所を原稿用紙に移し直してゐるのであつた。彼が、毎朝Bに云ふ枚数はそれのことだつた。彼はこれをBに事更に秘してゐるわけではなかつたが、Bが眼鏡で覗いてゐることを彼に云ひそびれてゐる心持と同様だつた。そして滝は、夜の自分の部屋に居る間は、Bに覗かれてゐるといふことを全く忘れるのであつた。それは彼が一つの仕事のみに熱中する質から見れば当然のことなのである。あの実験用具は、Bの日録の続きが無い時に、わけもなく一つ宛運んでゐたのだ。この頃は続記の無い日には滝は、Bの眼鏡を執つて、朝陽の射し込んでゐる何の人影もないガランとした自分の部屋を凝つと覗いてゐるのが常だつた。再び眠くなつてBの隣りに倒れるまでの間を――)
 つい此間余が見た夢は何か聯想がある気がして考へて見ると、それは余が六七歳の頃初めて見た活動写真の記憶であつた。大写しになつて現れた二人の男が西瓜を喰ふ光景なのだ。半月型の大西瓜を両掌で支へて男達は大口をあけて貪り喰つた。傍を向いてペツ/\と種子を吐いては、熊のやうに首を振りながら一心に西瓜を喰ふのだ。二人とも余りに夢中で、何うかすると自分の手の西瓜と隣りの男のそれとを見損つて噛つたりする……。物を喰ふ表情を端的に誇示する目的で写した写真なのだ。夢のことは一切日録には記さないことを掟にしてゐるのだが、馬鹿に明瞭に頭に残つてゐるのが吾ながら可笑しな気がした。余が日録の筆を執り初めたのは七歳の時からだから、当時の日誌に、このことは誌してあるかも知れない。思へば、当時の写真は悉く筋や意味のない単に写真が動くといふことだけを示した標本的のものばかりであつた。「煙草を喫してゐる人」とか、「笛を吹く人」とか、「駈る馬」とか、「演説をしてゐる人」とか、「黒板に画を描く人」とか――。
(昭和元年十二月)





底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷発行
底本の親本:「新進傑作小説集12 瀧井孝作集 牧野信一集」平凡社
   1929(昭和4)年12月15日
初出:「新潮 第二十四巻第二号」新潮社
   1927(昭和2)年2月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年7月18日作成
2011年5月5日修正
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