再婚

牧野信一




 こんな芝居を観に来るんぢやなかつた――と夫は後悔した。彼は、細君がどんな顔をしてゐるか気になつて、一寸横目をつかつた。――「チヨツ、怪しからんぞ!」
 細君は夫のことなど毛程も意識にいれてゐないらしく息を殺して舞台を眺めてゐた。
 夫は、彼女のことばかしが気に懸つてもう芝居の筋なんて目茶苦茶になつた。が何でもそれは、女房が新しい思想とか何とかに眼醒めて、同時に新しい恋人を得て夫の許を走らうとする、――夫と何か云ひ争ひをしてゐる舞台だつた。
 幕が降りて廊下へ出た時、細君は物思ひに沈んでゐるらしく、夫に見へた。
「ちよつと面白い芝居だね。」
 夫は、わざとさう云つて見た。
「とても妾、気に入つたわ。」
 此奴、俺に厭がらせを云つてゐやアがるな――一寸さう見へぬ様子が夫は不愉快だつたので、無理に斯うひとり決めして、
「僕も一寸面白いと思つたよ。」と朗らかな微笑を洩した。
 次の幕が開いた。夫はもう帰りたかつたのだが、少しでも細君に此方の心を悟られるのが癪だつたので、自ら女を促して場席についた。
 今度の場面は、夫の平和な新生活のところだつた。彼は、新しく美しい細君を得てゐた。そこに先に家出した女房が再び戻つて来て、何か芝居らしいいきさつが生ずるのだつた。
「電車が込むと厭だから、この辺でもう帰りませうか。」と細君は夫の袖を引いた。
 此奴俺より馬鹿だな――夫はさう思ひながら熱心に見物する振りをしてゐた。
「面白いんだよ。」
 斯う云つたつて、こんな女には好い効果を奏するとは思つたが、自分としてそんな科白は出なかつた。
「ねえ、あなたもう帰りませうよ。」
「あゝ、あゝ、まアもう一寸お待ちよ。」
「妾、おなかが空いたから先に出るわよ。」
「勝手にしろ!」
 彼は細君の馬鹿さ加減が厭になつて、ほんとにムツとした。あゝ斯んな女と結婚して不幸だつた――微かにそんな気さへした。
「何だ自分だつてさつきあんなに厭な顔をしてゐたくせに!」
 突然細君も敗けん気を起して一矢報いた。夫の気は一辺にくぢけた。そして顔をあかくした。
「あなたも随分馬鹿だわね。」細君は皮肉らしい苦笑を浮べて夫の顔を覗き込んだ。
「いや、もう帰らう。」
 夫はテレ臭い顔をして立ちあがつた。
 その帰り途、夫は近頃にない幸福な気持を味つた。
(一月二十二日)





底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「随筆 第二巻第二号」随筆発行所
   1924(大正13)年3月1日発行
初出:「随筆 第二巻第二号」随筆発行所
   1924(大正13)年3月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年5月23日作成
2011年4月23日修正
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