鏡地獄

牧野信一





「この一年半ほどのあひだ……」
 せめても彼は、時をそれほどの間に限りたかつた。別段何の思慮もなく、何となく切ツ端詰つた頭から、ふつとそんな言葉が滑り出たのであるが、そして如何程藤井に追求されたにしろ、何の続ける言葉も見当らなかつたのではあるが、思はずさう云つた時に漠然と――せめても時を、それほどの間に――そんなことを思つたのである。一年半、といふのは、父の死以来といふほどの代りに用ひたいらしかつた、誇張好きの彼にして見ると。
「…………」
 藤井は、困つたといふ風な気色を示した。次の言葉を待つまでもなく藤井には、彼の意図は解り切つてゐたから、
 どうせ、また法螺まぢりの愚痴か! ――斯う思ふと、舌でも打つて顔を反向そむけたかつたが、この時の彼の語調が如何にも科白めいてゐたのに擽られて、思はず藤井は朗らかな苦笑を浮べて、
「相当、苦労したかね、はじめてだらう。」と、噴き出したいのを我慢して訊ね返した。――まつたく藤井は、噴き出したかつた。彼が、そんな言葉を事更らしく、感慨あり気に用ひたのも藤井は、可笑しかつたが、それよりも、厭に物々しく、見るからに愚鈍な顔を歪めて、唸つたりなどした身柄に添はぬ彼の勿体ぶつた様子が、藤井にとつては先づ噴飯に価したのである。
「え?」
「冗談ぢやない。」と彼は、無下に打ち消した。そして彼は、あゝ、と、当人はそのつもりかも知れないが、傍の者にはさつぱり憂鬱らしくも、倦怠らしくも見えない梟のやうな溜息を洩した。
「それやアさうと……」
「その話は、また明日にでもして貰はうか。」
 彼は、さう云つて、気分家らしく軽く眼を閉ぢて、直ぐにまた洞ろに開いた。
「もう間もなく一週間になりさうだぜ。」
「だがね、僕近頃、相当酒を楽しんでゐるんだよ。だから、せめて斯うやつてゐる間だけは僕の……」
 彼は、出鱈目を云つてゐるのに気づいて言葉を呑み込んでしまつた。
「君の気分になんて、つき合つてゐたひにはいつ迄たつたつて埒が明きさうもないぜ。」
 藤井は、人の好い笑ひを浮べた。――「昼間は、殆んど眠つてばかりゐるんだし……」
「君だつて、どうせ帰つたつて用はないんだらう?」
「冗談ぢやない――と、君の言葉を借りるぜ、僕アこの頃相当忙しいんだよ、二年前とは雲泥の差さ、……勘当が許されたひには、これでも一ツ端の長男だからね。」と藤井は、親切に彼の心を鞭韃するやうに云つた。藤井は、彼の同郷ヲダハラ村の一人の彼の友達なのだつた。藤井は、ヲダハラの彼の母から破産に近い彼の財産に就いて、いろいろ彼の意見を正す為に、わざわざ頼まれて出かけて来たのであつた。
「手紙の返事も君は、碌々出さないさうぢやないか?」
「うむ――。だけど僕の手紙嫌ひは何も今に始まつたことぢやないからね。」などと彼は、言葉を濁して、不平さうに口を突らせたりした。
「そんなことは何も責めやアしないがね……」と藤井は、常識に達してゐる大人らしく一笑に附して「ともかく、その銀行の方が――」
「藤井!」と、彼は云つた。「僕ア――今、そんなことに耳を傾けちやア居られないんだ、――僕ア……、僕ア……」
「呑気だね!」
 その時、隅の方でぼんやりしてゐた彼の細君は、
「チエツ!」と舌を鳴らした。彼には、聞えなかつたが、藤井は同感した。
「嫌ひなんだよ、僕アさういふ面白くない話は……」
「誰だつて好きぢやないが――」
「どうなつたつて、関はないと思へば、聞かないだつて済むだらう。」
「ぢや、それア、明日にでも仕様よ、――酒興を妨げては悪いからね。」
「中学の頃の話でも仕様か――」
「う、うん――君、何も東京に住ふ必要はないぢやないか。無駄ぢやないか? マザーもさう云つてゐたぜ。」
「さう云つてゐたか?」と彼は、酷く驚いたといふ風に眼を輝かせた。
「尤もさ――馬鹿だなア!」
「…………」
 別段に彼は、逃げるといふ程の積極性もなかつたが、破産に関する話よりは、興味が動いた。彼は、盗賊の心になつて、母の家の前を、爪立つて通らなければならなかつた。……さつきから、彼は、秘かに――消えかゝりさうになる心が、時々それに触れる毎に、怪し気な光りを放つては消え、放つては消えて来たのであつた。
 盗賊と称ふ形容は、無稽に過ぎるかも知れないが、それは何気なく云ふ藤井ではあつたが、それに依つてヲダハラの母の話に触れて、ヂロリと猜疑の聴耳を立てる彼の心は目的を定めて、姿を窶して日夜目的の家の周囲を探偵してゐる仕事準備中の泥棒のそれに比べるより他に、比較するものはなかつた。――あゝ到々俺は、泥棒になつてしまつたのか……さつきから藤井に、遠回しに取ツちめられて、感傷的な酔ひに走つて来た彼の鈍い頭は、その時、そんなに馬鹿/\しいことをほんとうに感じて、厭な気がした。
「今までは、俺はだらしがなかつたが、もう凝ツとしては居られない。いよいよ俺は、俺のライフ・オークに取り掛るんだ。三十年間俺は、秘かに準備して来たんだ――もう、そろそろと取りかゝつても好い時機に到達して……その俺は、いよいよ……」
 彼は、ついこの間の晩、真面目さうな顔をして細君に向つて、突然そんな途方もない高言を吐いた。周子は、あまり珍らしい気がしたので一寸夫の顔を眺めて見ると、彼は飽くまでも六ヶ敷気な表情を保つて、
「うむ!」などと、肚に力を込めたり、仰山に拳固で胸を叩いたりしてゐた。――彼が、嘗て何とかといふ文芸同人雑誌の一員であつた頃、五六年も前の事なのだが、今と同じく無感想だつた彼は、一度もその欄に筆を執つたことはなかつたが、その六号感想欄には、毎月それに類する亢奮の言葉が、多くの同人達の筆に依つて花々しく羅列されてゐた。
「大きく……力のこもつた……。どうせ俺は、田舎育ちの野暮な人間である……」
「…………」
 何を云つてゐるのか、と周子は思つた。好く酒飲みの友達などと彼が、好い気になつて喋舌つてゐるところを、この頃狭い家にばかり住んでゐる為に、厭でも見聞させられるのであるが――やれ、彼奴は田舎ツペ、だとか野暮臭い奴だなア! とか、田舎者の癖に生意気だ! とか、誰のことか解らないが、そこに居ない人の噂に違ひない、そんなことを喋舌ツて卑し気な笑ひを浮べたことがあつたが、そして彼女は、一層夫に軽蔑の念を起したことがあつたが、今更、彼の独言にそんなことを聞いても、反つて肚立しい思ひがするばかりであつた。――気の毒な気さへした。
「どうしたの? 務めでもするつもりなの?」
「何をするか、解らない。」と彼は、重々しく呟いだ。――「素晴しく大きな希望に炎えてゐるんだ。俺も一人の人間として生れて来た以上は……、うむ、あまり馬鹿にして貰ひたくないものだ。」
「いつ、あたしが、あなたを馬鹿にしましたよ……ひがみ!」
「それが嫌ひなんだよう。」と彼は、叫んだ。さう云つた彼の声は、従令どんな種類のものであらうと「素晴しく大きな希望に炎えてゐる」人の声ではなかつた。
「見てゐろ!」と彼は、云つた。
「ちつとも怖くはない。」
「手前えんとこの奴等は……」
 見てゐろ! と、彼が云つたのは、たつたそれだけの意味だつた。漠然とした大きな希望に炎ゆるのは快い――折角の夢が直ぐに斯んなところで浅猿しく崩れた。
 今までなら彼女は、自分の家の悪罵に会ふと立所に噛みついて来たのであつたが、次第にマンネリズムに陥つた今では、何と彼が悪態をつかうとも、平気になつてしまつた。――「あなたが、いくら口惜しがつて、暴れ込んだつて、うちのお父さんの方が余ツ程強いからね。賢太郎だつて、あなたよりは力があるから……」
 暴れ込むぞ! などと彼が云つた時には、彼女はそんなに云つた。
「何だ、あんな爺! 俺よりもずツと脊が低いぢやないか!」
「でも強いのよ、――五人力なんですつて。」
 彼女の父は、以前に酒乱の癖があつたさうだ。山梨県の百姓の子で、青年の頃出京して長い間運送店の丁稚を務め、後に無頼漢の群に投じたのである。酒乱の酷い頃は連夜、吾家に帰つて乱暴を働き、その頃小さな運送店を経営してゐたのであるが、店の者などは蒼くなつて逃げ出したさうだ。そして或る夜などは、家人が警察に願つたさうだつた。警官が取り圧へに来たら、その巡査の背中をどやして気絶させたといふことを、彼は聞いた。
 ヲダハラの「清親」との争闘以来彼は、自分の腕力に自信を失ふてゐたので、そんなことを聞くと竦然とした。
「見てゐろ!」などと叫んでも周子の前より他に彼は、云へなかつた。
「そんな実際的な話ぢやないんだよ――もう少し上等な理想を云はうとしてゐるんだ。」
 彼は、さういふより外はなかつた。周子の想像以上に彼は、腕力に憧れを持つてゐた。
「お前などは眼中にないんだよ。――人類の一員として、或る自信を俺はもつてゐる。相当の自信はあるんだア!」などと云ひながら彼は、拳を固めてぬツと前に突き出したりした。
「随分、あなたの腕は細いわね。」
「嘲ける者は、嘲けろ!」
 彼は、眼を瞑つて呟いだ。――野蛮な焦燥を静める――そんな気がした。そして「理想的な希望」とか、「大きな力」とか、何でも思想的に花々しく、勇敢なことを思はうとした。何の目的がなくても、故意にさういふ空想に走ると、変な力を感ぜられるものだ――そんな気がした。五六年前の同人雑誌の連中が、それは彼のやうな口先きのことゝは違つてゐたのだらうが、それに類する大きな亢奮をしてゐたが、そんな気に故意に浸つて見るだけでも奇妙な呑気さが感ぜられる――彼は、自分は漸く今になつて彼等の域に達したのか――などと思つて、一寸空虚な力を感じたりした。
(あゝ、それが、また自惚れだつた……力だ! などと思つたのは……何といふ馬鹿/\しい自分だらう! 吾家に忍び込まうとする泥棒の気焔だつたのか! あゝ!)
吾家うちも、他家よそも――そんな区別が……」
「――なるほどね。いつの間にかすつかり一ツ端の酒飲みらしくなつたね……見たところ、いかにも酔、陶然のかたちだよ、一寸羨しいな!」
 藤井は、彼の云ふことが、聞くのも面倒だつたので、さう云つて、風にゆられてゐる如く上体をゆるがせてゐる彼の姿を、凝ツと眺めた。
 その時彼は、突然大きな声を挙げて笑ひ出し、藤井と周子を茫然とさせた。――親が自分の家に入つた泥棒を捕へて見たら、それは自分の子であつた……さういふ諺見たいな話があつたと思ふんだが、さつぱり面白い諺ぢやないが、誰だつたか? 自分の知合の者で、それを実行した奴があつて、いつだつたか、大いに笑つたことがあつたが、えゝと? あれは誰だつたかね? ――彼は、さつきからそんなことを思つてゐたのだが、突然今、気がついたのである。――(何アんだ、この男か、あまり眼の前にゐたので、そして厭に大人振つた口ばかり利いてゐるので、すつかり見失つてゐた、――うん、さうだ/\。)
「藤井、藤井! おい、君!」と彼は、ひとりで可笑さうにクツクツと笑ひながら、
「君は、ハヽヽ、ずつと前、ハヽヽ、自分の家に、ハヽヽ、泥棒に入つたことがあつたつけね、ハヽヽ。」と、大変なことでも発見したやうに笑つた。
 藤井は、赤い顔をしてうつ向いた。藤井は、放蕩の揚句家を追はれてゐた頃、実際にそんなことを行つた経験があつた。――今になつて、そんなことを云はれたつて藤井は、大して恥しくもないし、別段可笑しいこともなかつた。
「そして、ハヽヽ、あの、ハヽヽ、あの時、君は、ハヽヽ、捕へられたのだつたかね、ハヽヽ。」
「おひ、止して呉れよ、そんな話は――」
 藤井は、迷惑さうに顔を顰めた。
「だからさア……」
 彼は、甘ツたるい声を出して、ねちねちと笑つた。すつかり朗らかな酔漢に変つて、家庭などに何の蟠りも持つてゐない不良大学生のやうだつた。――「お止しよう、今更、常識家振つて、六ヶ敷い顔なんてするのは。」
 以前のやうに二人で他合もない話をし合つて、面白く遊ばうぢやないか――彼は、斯う云ひたい位だつた。不図彼は、藤井のそんな失敗談に気づいてから、一倍彼が懐しくなつてゐたのである。
 そんな心境は、もう抜けてゐる――とか、あの頃に比べて、この頃は――とか、そのやうに望ましいあらゆる比較級の言葉は、成長力を知らない彼の心境にとつては、決して通用しない他山の宝石であつた。彼の心は、常に一色の音しか持たない単調な笛に過ぎなかつた。その印には、一年も遇はないで出遇つた友達は、それまではどんなに親しい仲であつても、屹度もう相手の方が何となく進歩してゐて、前のやうに熱心に語り合へなくなつてゐることばかりだつた。だから彼には、旧友などといふものがなかつた。彼の友達は、大抵半歳か一年で変つて行つた。
 二年前だつたら藤井も彼と一処になつて、そんな馬鹿な話でも、彼と同じ程度に笑へたものだつた。
「明日あたり僕は、帰らなければならないんだがな!」
「嘘々!」
 彼は、甘えでもするやうに云つた。
「愚図/\してゐると、また勘当されるかも知れない。」
「勘当されたら、また先のやうに俺の処へ来てゐれば好いぢやないか。」
「御免/\、君には、もうそれ位ひの予猶だつてありやアしないぜ――なるべく家から金を取らないやうにし給へよ。」
「でも、今年一杯位ひなら大丈夫だらう。」と彼は、事の他熱心な眼を挙げて藤井の返事を待つたりした。
「さア……」
 藤井は、にや/\と笑つてゐた。
「ケチ臭い顔をするない! チヨツ、面白くねえ、しみツたれ! 折角ひとが愉快にならうとすれば、直ぐに厭な思ひをさせやアがる、何でエ! それが如何したといふんだ!」
 彼は、そんなことを云つた。自分が、ケチ臭くて、しみツたれで、小心翼々で、面白くなくて堪らなかつたのである。
「おい、憤るなよ――」と、藤井は云つた。
「第一俺は、ヲダハラだなんていふ名前からして気に喰はない! あの村の奴等の面で、落つきのある野郎が一人でもあるか?」
 大分、親爺に似てゐるな、やつぱり親と子は不思議なものだ! などと、彼は思つた。――(吾家の親爺の顔も落着きはなかつたなア! それでも俺よりは、ずつと大面だつたが……)
「おい藤井、君も何となくヲダハラ面になつて来たぞ、――気をつけろ、気をつけろ! ……生温い潮風に吹かれるからか知ら?」
「俺だつて何も……」と藤井は、云ひかけてつまらなさうに笑つてしまつた。――「あまり大きな声をするなよ、往来から見通しぢやないか。」
「あゝ――」と彼は、また傍の者には決して憂鬱らしくは見えない溜息のやうな嘆声を、わけもなく吐いて、暮れかゝつて行く外の景色を眺めた。木立の多い東京郊外の夏であつた。夕陽に映えてゐた木々が、見る間に黒く棄てられて行つた。彼のこの家は、森蔭に立ち並んでゐる一筋の長尾の角で、何の目かくしもなければ、門や塀は無論のこと、椽側に簾ひとつ掛つてゐなかつた。露路みたいなもので、あまり人通りはないが、それでも椽側の二間前は往来道に違ひなかつた。滅多に訪れる者などはなかつたが、稀に東京(この辺では、市内へ行くことを東京へ行く、といふところであつた。)あたりから遊びに来た者は、それとなくその辺をジロジロと見廻して、彼が夕餉の膳に誘ふと、赧くなつて慌てて逃げ帰る者もあつた。そして、二度とは来なかつた。――無理もなかつた。路傍の、往来から見通しの家などで、加けに大変行儀の悪い男を相手に酒などを飲むのは、誰だつて閉口だ、彼だつて、こんな男(自分のこと)と、出来得るならば対坐したくはない――時には彼は、そんなことを思つた。彼は、まつたく行儀が悪かつた。痩せてゐる癖に、非常な暑がりやで、堪へ性がなく、始終どたどたと脚を投げ出したり、裾をまくつたり、水泳するやうな格構で転がつたり、腕をまくつたり、肌抜ぎになつたり、酒興中と雖も少し暑さが厳しいと、終ひには胡坐なのだか、立膝なのだか、しやがんでゐるのだか判別し憎い格構になつたり、時には和製の食膳であるにも関はらず椅子の上から手を延すことなども珍らしくはなかつた。――生家にゐる時分、彼の父はそんなことには一切頓着ない人だつたが、それでも彼が海から帰つて来て、褌ひとつで食膳に向つたりすると、時には困惑の情を露にして、おい、出掛けよう! などとお蝶の家へ誘つたりした、着物を着ろと命ずることの代りに――。
 往来から見ゆる、といふことに彼は、決して坦々としてゐられるのではなかつたが、長い間の習慣で何としても行儀は改められなかつた。
「東京にでも行つて住ふことになつたら、どうするんだらう。」
 母は、好くさう云つた。――ケチな家には住まないから……などと彼は、うそぶいた。
 周子から、肌抜ぎになつてゐるところを巡査に見つかると罰金をとられる、といふ話を聞いて以来、こゝで彼は、肌抜ぎだけは辛棒したが、暑くなるに伴れ、檻にでも入れられたやうな苦しみだつた。――彼は、海辺が恋しかつた。
「××の家も、もう人手に渡つてしまつたんだつてさ。」
 裸のまゝで海へ出かけ、その儘帰れて、近所といへば二三軒の、それこそ年中裸で仕事してゐる彼と親しかつた漁夫の家だけで――そんな海辺の家を彼は、思ひ出して悲し気に憧れの眼を輝かせた。
「あれなどは、君さへもう少し確りしてゐれば、たしかに残せた筈なんだがな。」
 藤井は、さう云つて、何とかといふ村会議員のことを悪党だと云つた。
「酷い奴だなア!」と、彼も云つた。
「こんな処で、愚図/\云つてゐたつて仕様がないよ、だから君、思ひ切つて……」
「でも帰つたところで、反つて……」
「第一マザーひとりで気の毒じやないか。」
「…………」
 俺が帰れば一層気の毒だ――彼は、もう少しでさういふところだつた。……大体自分は、積極的な自己紹介を求められる場合に、何とか答へる己れの言葉に真実性や力を感じた験しはないんだが、そして何か話してゐる間は、何だか嘘ばかり口走つてゐるやうな寂莫を覚ゆるのが常なのだが、せめて、嘘だ! と自ら云ふ心の反面に、何らかの皮肉が潜んでゐたり、意外な自信がかくれてゐたり、案外真正直な性質が眼をむいてゐたり、でもすれば多少は救はれるんだが、自分のは、その種の人々の外形を模倣したゞけで、心の反省があり振つたり、嘘つきがつたり、細心振つたりするだけのことで、大切な反面の凡てが無である、都の花やかさに憧れて遥々と出かけて来た気の利かない田舎の青年が、本性を忘れて一ツ端の歳人気取りになつてツベコベする類ひのものである、その種の変な青年達が稍ともすれば、自ら得々として「自己嫌悪に陥つた。」などと云ふことを吹聴する気風が嘗て一部に流行したが、忽ち自分もそれに感染して、臆面もなく己れの痴愚を吹聴するのであつた、ほんとうの自分の胸には、常に消えかゝつた一抹の白い煙が、どんよりと漂ふてゐるばかりである、人は夫々生れながらに一個の鏡を持つて来てゐる筈だ、自分の持つて来た鏡は、正当な使用に堪へぬ剥げた鏡であつた、僻地の理髪店にあるやうな凸凹な鏡であつた、自分では、写したつもりでゐても、写つた物象は悉く歪んでゐるのだ、自分の姿さへ満足には写らない、更に云ふ、凸凹な鏡である、泣いた顔が笑つたやうに写る、頭の形が、尖つたり、潰れたりする、眼がびつこになつて動く毎に、釣りあがつたり、丸くなつたりする、鷲のやうな鼻になつたかと思ふと、忽ちピエロのそれのやうになる、狼の口のやうに耳まで裂けたかと見ると、オカメの口のやうに小さくなる……実際そんな鏡に、暫くの間姿を写してゐると、何方どつちがほんとの自分であるか解らなくなつてしまふ時がある……。
 以上のやうなことを彼は、もつと/\長たらしく呟き初めた。自分の責任に依る話であるにも関らず、「家」のことになると直ぐに話頭を転じてしまふ彼の心が、藤井には一寸了解し憎くかつた。小胆なのだな! と思はずには居られなかつた。
「もう少し、はつきり云へよ。比喩は御免だぜ!」
「いや、ヲダハラの△△床の鏡は……」
「厭にヲダハラばかり軽蔑するね。」
「……銀行の奴等にさう云つてくれ。利息ぐらひ何でえ!」と、彼は云つた。語尾が「でえ」といふやうになると彼は、もう駄目だつた。誇大妄想に等しい酔漢に変つてゐるのである。――此奴、社会主義の仲間にでもなつたのかしら、いつの間にか! あれの下ツ端は、皆な気の小さい貧乏人ばかりださうだが――ふと藤井は、そんな気がした。
「幾らだア! 幾らだア!」
「……おい、止せよ、外を通る人が変な顔をしてゐるぜ。」
「俺ア、泥棒だアぞう!」
 さつき彼は、変に心細い気持に陥つて、如何に自分が情けない存在であるかといふことを知らせる為に、鏡の比喩などを、当つぽうに用ひたのであるが、折角の言葉に藤井がさつぱり耳を傾けなかつたのが気に入らなかつた。彼は、そんな原始的な比喩に得意を感じたのである。……「何だつて、はじめての苦労だらう、だつて! ヘツ、止して貰ひたいね。苦労たア、どんな塊りだア! いくつでも持つて来やアがれ、皆な喰つてしまふぞう……親爺が死んで、長男即ち吾輩が、だね、あまり無能だからか、そりや無能は困るだらう、困るには困るが、無能だつて余外なお世話だ、今更無能を悟つて、誰が驚く! 苦労たア、何だ!」
 彼は、そんな似而非ヒロイズムを呟きながら、がくんがくんと玩具のやうに首を動かせた。何だか眼瞼が熱くなつて来る気がした。
「困ツたなア!」
 藤井は、さう云ひながら彼の細君の方を顧みて「やつぱり僕ぢやいけなかつたですね……石原さんに来て貰つた方が好かつたんだがな――」と云つた。
「誰だつて同じよ。」
 周子は、煩さゝうに突ツ放した。
「毎晩、こんなに飲むんですか?」
「毎――晩!」と周子は、力を込めて、うつ向いた。バンが曇りを帯びてゐた。
「心馬悪道に馳せ、放逸にして禁制し難し……どうだ藤井! 景気の好いお経だらう……心猿跳るを罷めず、意馬馳するを休まず――五欲の樹に遊び、暫くも住せず……あゝ。」
「…………」
「俺ア……」
 藤井は、また彼が調子づいてどんな野蛮なことでも云ひ出すか解らない、それにしてもさつきからの雑言は如何だ! 一本皮肉を云つて圧えてやらう、と思つて、
「簾をかゝげて、何とか――なんて、君はいつかハガキの終ひに書いて寄したが、簾なんて何処にも掛つてはゐないね。」と、笑ひながら側を向いた。
「……ありア、だつて君――詩だもの。」と彼は、不平顔でテレ臭さうに弁解した。
 藤井は、更ににや/\と笑ひながら、
「斯うやつて、毎晩、酒を飲みながら君は、詩を考へてゐるの?」と訊ねた。
「……うむ。」と、彼はおごそかに点頭いた。


 芝・高輪から彼が、此処に移つて来たのは晩春の頃だつた。――東京に来てから二度目の家であつた下谷の寓居を、突然引き払つて芝に移つたのは、前の年の暮だつた。
「随分、引ツ越し好きだね――折角、東京に来たといふのに、さつぱり落着かないぢやないか。」などと知合の者に問はれると、
「どうも、せめて居場所でも変らないと……その、気分が――ね。」
 そんな風に彼は、余裕あり気に答へた。彼は、気分も何もなかつた。引ツ越しは、嫌ひなのである。
 暮の、三十日だつた。午頃、いつものやうに彼は、二階の寝床の中で天井を眺めてゐると、階下に何かドタドタと聞き慣れない物音がした。
(おや――今時分になつて、煤掃きでも始めたのかな!)
 普通の家らしいことをするのが、出京以来特に、妙に気が引けてゐた彼は、そんなに思つて苦笑した。――(たしか賢太郎が泊つてゐたな? 姉の夫は、さつぱり兄らしいことを振舞つたことはなし、そればかりでなく周子にも、一日だつて主人らしい行ひをしたことはなし……)
 何と彼等は頼りない感じだらう――そんなことを思つてゐると彼は、わけもなく可笑しくなつたりした。
「どうしたんだ?」
「賢太郎は、そりやアもう好く働くわよ、これ、あらかたひとりで……」
 周子は、さう云つて、だらしなくからげて転がつてゐる夜具の包みなどを指差した。賢太郎は、シヤツ一枚になつてセツセツと、もう一つの包みを拵へてゐた。
「どうするんだ、質屋にでも持つて行くのか?」と、彼は訊ねた。
「何を空とぼけてゐるのさア! あなたも少しはお手伝ひなさいよう、日が暮れてしまふと大変だから――」
 うきうきとして周子は、さう云つた。引ツ越しなのである。芝・高輪の周子の両親、兄弟達の住んでゐる家へ同居する為に、相当彼が好んで住んでゐるこの家を今、彼女等は、畳まうとしてゐるのだ。
「厭だなア」と、彼は嘆じた。包みの上に腰を降して、煙草を喫した。いつも光りが軒先きにさへぎられて、この部屋は昼日中でも幻灯ほどの明るさだつた。こゝで蠢いてゐる自分達の姿を彼は、水族館の魚類に例へたり、軒先に限られて、狭く青ずんでゐる空を覗いて、水の表面を見あげた魚のつもりになつたり……いろいろ彼は、そんな風に甘く、寂しく、楽しい夢を貪つては、この頃は、そつと生きて来たつもりであつた。――もう、あの夢もお終ひか! 彼は、そんな気がした。
「だから、昨夜あれほど念をおしたぢやアないの? ……さツさツとして下さいよ。」
「さうだつたかね……」
 彼は、酷く退儀に、心細く呟いだ。さう聞いて見れば前の晩、彼女達を相手に、そんな話をしたやうな気もした。
「姉さん!」
 忙しく立ち働きながら賢太郎は、女のやうにやさしい声で、周子を呼びかけたりした。――「うちの二階は、そりやア素的よ。日あたりが好くつて、加けに新しいでせう!」
「さうね、この頃はうちも随分綺麗になつたでせう。」
「そりやア、もう! 僕、カーテンをつくつたよ、自分で刺繍して……それをね、窓にかけると、とても好いぜ、天気の好い日なんて部屋中がバラ色になつて――」
「ほう! でも折角のところを兄さんに占領されちやツては、あんたに気の毒だわね?」
「僕は、また階下したの六畳を素的に拵へるから好いさ……」
「賢ちやん見たいな人がゐると、随分好いわねえ!」
「さア、こん度は二階だ/\。」
 賢太郎は、勇ましい声を挙げながら梯子投を駆けあがつた。
「そんなに突然行つても差支へないのか?」
 彼は、未だふくれツ面をしてゐた。彼女の家では、未だ何も知らないのである。たゞ彼等の英一が二三日前から預けられてゐたゞけだつた。
「そんなこと関やしないわよ。」
 彼は、観念して、帽子もかぶらずに外へ出かけた。こゝに来てから、家のことでいろいろ厄介になつた二三町先きの友達の家へ、息を切つて駆け込んだ。
 いろいろ家族の人達に礼を云ふつもりだつたが、彼は、友達の顔を見ると同時に、たゞ「引ツ越し……」と、だけしか云へなかつた。
「君が!」
「弱つちやツた。何でも僕が、昨夜、酔ツ払つて、賛成したらしいんだね。今、起きて見たらもうあらかた片附いてゐるのさ、あゝ、困ツた/\――芝・高輪の女房の家なんだがね、その行先きといふのは――。行かないうちから解つてゐるんだ、チヨツ! チヨツ! あゝ、――」
「…………」
「そもそも、その女房の家の……。……アツと、失敬、そんなことを云ひに来たわけぢやないんだよ、チヨツ、逆上のぼせてゐやアがる、兎に角、斯う急ぢや、どうすることも出来ないんだ、あゝ、何といふ落つきのないことだらう、僕の村のローカル・カラー? いや、失敬、ぢや、さよならア!」
 彼が、また慌てゝ引き返して来ると(友達の処へ行つてから急に彼は、当り前の引ツ越しする者らしい働き手の心になつてゐた。)、もう荷物は全部、一台の貨物自動車に楽々と積み込まれてゐた。
「さア働くぞ、さア、さア。」
 彼は、さう云つて羽織を脱いだりした。
「狡いわね、お終ひになつたところに帰つて来て……」
 賢太郎は、人の好い笑ひを浮べて、女のやうに彼を睨めた。
 彼は、慌てゝ二階へ駆け上つたり、何にも残つてゐない押入を開けたり閉めたりした。……「自分で片附けなければ、困るんだよ、いろいろ。」
 そして彼は、舌を鳴らしながら、夢のやうにガランとしてしまつた部屋の中を歩き廻つて、清々とした。――ひとりで、この儘此処に残らうかな! そんなことを思つた。
「小さいトランクがあつたらう、そして風呂敷に包んだラツパがあつたらう、鍵の掛つてゐる箱があつたらうそれから……」
 彼は、自動車に飛びついて、風呂敷包みや、古ぼけたトランクを取り降したりした。
「これは俺が、持つて行くんだ、自分で持つて行くんだ。」
「ふざけるのは止して下さいよ、折角積んだものを――。何さ。そんなガラクタ!」
 彼は、むきになつて、歯ぎしりして女の頬つぺたを抓つたりした。
「べら棒奴!」などと、彼は不平さうに云つた。――「玩具になんぞされて堪るものか。」
 賢太郎は、困つた顔をして階下に降りて行つた。一体周子の、弟や妹たちは十代の子供ではあるが、他人の物も自分の物も見境ひのない性質だつた。彼が留守だと、その机の抽出をあけて書簡箋にいたづら書きをしたり、悪意ではないんだが、他人から借りた物は返し忘れて紛失させたりして平気だつた。
「冗談ぢやない!」と周子は云つた。そして、彼の言葉に卑屈な針が潜んでゐるやうに感じた彼女は、
「ケチ!」と、附け加へた。
 彼は、故意に、なかのものがこわれやアしないか、といふやうに疑り深い眼を輝かせて、蔭にかくれて秘かに蓋をあけて見たりした。――実は彼自身、今まで押入れの隅に放り込んだまゝ、すつかり忘れてゐたのだつたが、斯んな場合に強ひてゞも、そんな真似がして見たかつたのである。自分にだつて「秘蔵の物」「他人の手に触れられたくないもの」「いくら斯んなに蕪雑な生活をしてゐたつて、これ程の予猶もあるんだ。」――見得で、そのやうな意気を示し、これが意地悪るのつもりで、さつき起きてから彼女等に出し抜かれて応へやうもない鬱憤の代りに過ぎなかつたのである。
「何んなものであらうと自分のものには、夫々自分の息が通つてゐるんだからね、困るんだ、矢鱈にされては――。物品を、ぞんざいに取り扱ふ奴は、皆な碌でなしだ。」
 彼は、さう云つて周子の胸を衝いた。周子は、答へずに、
「遅くなるツてエば!」と、焦れた。
「先へ行つたら好いぢやないか。俺は、未だいろいろ用もあるんだ。」
 彼はそんなことを云ひながら、悠々と風呂敷をはらつて、学生時分に独りで、海辺の家で日毎吹奏したことのあるコルネツトを、久し振りに口にあてゝ、音は発せずに、仔細に具合を験べるやうな手つきをした。
「触つたらう? こゝのところが、どうも湿つてゐる。」
「触れと云つたつて、触りませんよ。そんなもの、馬鹿/\しい!」
「俺は、子供の時分から、何か知ら座右に独りだけで愛惜する物品がないと、寂しかつたんだ――、今でも、勿論さうなんだが――」
「この頃、何だか、酔はない時でも酔つ払ひ見たいだ!」
「対照の物は、常に変つてゐた、或る時は何、或る時は何といふやうに、だが、その心持は常に……」
 彼は、ぶつぶつ云ひながらラツパをまたもとの通りに丁寧に包んだり、トランクを引き寄せて、塵を吹いたりした。――みんな、彼が何時かヲダハラから、今の通りに芝居沁みた考へで、持つて来たゞけで、つい今まで手も触れずにゐた、現在の彼にとつては毛程の興味もない過去のセンチメンタルな「秘蔵品」なのである。――周子の前では開かなかつたが、その中には、ミス・Fから貰つたオペラ・グラスとか、同人雑誌に「凸面鏡」などといふ題名の失恋小説を書いた頃、参考の為に集めた十二三枚の小さな凸面鏡と凹面鏡や、やはりその頃、生家の物置に忍んで昔のツヾラの中から探し出した価打のない古鏡とか、玩具の顕微鏡とか、昔の望遠鏡とか、父が昔アメリカから持ち帰つたおそろしく旧式なピストルで、今ではもうすつかり錆びついてゐて決して使用には堪へぬものとか、同じく父の二三個のマドロス・パイプとか、子供の時母の箪笥から拾ひ出したのが、小箱に入つてその儘残つてゐた数個の玉虫とか、蓋の裏側にミス・Fの写真が貼りつけてあるゼンマイの切れた懐中時計とか、二十年も前に父のアメリカの友達から貰つたのだが、今でもネジを巻くと微かに鳴るオルゴール・ボツクスとか、父が蹴球仕合で獲得した、あまり名の知られてゐないアメリカ何とか大学の銅製カツプとか――、以上十二種の他、未だ之れに類する五六種の愚劣な廃物が蔵つてあつた。古くからそのトランクには、そんなものが詰まつてゐたのだ。大火の時誰が、これをさげ出したのだらう? ――彼は、そんなことを思ひながらこの頃一切コレクシヨン嫌ひに陥つてゐる心を、目醒してやらう。といふ程のたはれ気で、重たい思ひを忍んで持ち出して来たのであつたが、汽車を降りる時には、もう少しで置き忘れて来るところであつた。
「ほんとうに、自分で持つて行くの?」
「さうも行かないかなア?」
 思はず彼は、さう云つて笑ひ出してしまつた。彼は、冷汗を覚えてゐた。――「屑屋にでも売つてしまへよ。」
「暇がありませんよ。」と、なだめるやうに周子は云つた。


「七草過ぎなければ、とても出来ないんですツて! あたし今も建具屋を二三軒きいて来たんですけれど、皆な同じなのよ、困つたわね、辛棒出来る?」
 周子は、気の毒さうに云つた。建具が一つも入つてゐない部屋なのである。この六畳一間だけの二階だつた、彼の今度の芝・高輪の書斎は――。加けに一方が椽側で、他の二方には夫々一間宛の窓があいてゐた。椽側の敷居には、雨戸代りの硝子戸が入つてゐたが建てかけて三年も放つて置いた家で、その間には地震があつたし、隙間だらけだつた。硝子戸と天井との間には、小さな板戸が入るやうになつてゐるのだが、板戸は入つてゐないので、幕が張つてあつた。西の窓にも北側の窓にも幕がピンで止めてあつた。その幕には、賢太郎の手で、得体の知れない模様が描きかけてあつたり、縫取りが仕かけてあつたりした。――風があたる度に、三方の幕が帆のやうに脹れたり凹んだりした。これでも賢太郎が懸命になつて、壁に雑誌から切り取つた名画を貼つたり、徳利のやうな花瓶に水仙を活けて、床の間に飾つたりしたのである。
「困るはね!」と、あたりを見回して、更に周子は云つた。
「いゝよ、いゝよ、関はないよ。」
 彼は、さう云つて行火の上に頬を載せた。行火といふものにあたつたのは、この冬が彼は初めてだつた。こゝに来て以来彼は、午後の二時頃寝床を逼ひ出て、それから夜おそくまで斯うして、この部屋に丸くなつてゐた、ドテラを二枚も重ね着して。――また、バカに寒い日ばかりが続く正月であつた。
 天気が好いと彼は、三方の幕をはらつて、丸くなつた儘外の景色を眺めた。――南側は、西国回りの旅人が初めに詣でる大きな仏閣の、厨房に面してゐた。北側の窓は、腰高だつたから、坐つてゐると青空と、眼近かの火見櫓が見ゆるだけだつた。そこには、いつでも黒い外套を着た見張り番が、案山子のやうに立つてゐた。彼は、時々筒形の遠眼鏡とうめがねをトランクから取り出して、射撃をする時のやうに一方の眼を閉ぢて、見張番の姿を眺めた。ものゝ好くない、加けに昔の眼鏡だつたから、肉眼で見るよりも反つてボツとした。いくらか対照物が大きくは見へたが、線が悉く青地に滲んでゐた。如何程視度を調節しても無駄だつた、それでも彼は熱心にそんなものを弄んだ。はつきり見へるよりも反つて興味があるんだ、などゝ呟いだ。西側の窓は、キリスト教会堂の裏に接してゐて、朝からオルガンの練習の音が聞えた。それが時々俗曲を奏でた。仏閣からは、御詠歌の合唱が聞えた。
 少しでも風が出たり、曇つたりして来ると直ぐに彼は、立ち上つて三方の幕を降してしまつた。
「これぢや勉強が出来ないでせう。」
「いや、そんなことは心配しないでもいゝさ。」
 彼は、さういふより他はなかつた。勿論、この寒さに、この吹きツさらしの二階などに籠つてゐることは、どんなに彼が「アブノルマルの興味」を主張すべく努めても、第一寒くてやり切れないのだが、まア仕方が無いとあきらめたのである。
 階下は、割合に広かつた。尤も、この二階と、下の二間は古い母屋にくツつけて、三年も前に建てかけたのであるが、その儘で完成させなかつたのである。母屋の方だつて、地震に遇つた儘何の手入れも施してなかつたから、唐紙は動かず、壁は悉くひゞ割れてゐた。彼が、周子と結婚した当座、半年ばかり二人だけで母屋の方に住んだ。さうだ、三年ぢやない、建増しをしかけたのはその時分のことだつたから。――英一は、もう四歳になつてゐる。
 その頃、この家が彼の「名儀」のものであるといふことを彼は、たしか周子から聞いて、名儀とは何か? と思つたことがあつた。
「抵当なんですツて!」
「へえ、シホらしいね。だが俺の名儀だなんておかしいぢやないか?」
「さうね。」
 彼は、こういふことに就いても相当の思慮があるんだといふ風に云つた。「石原が金を持つて来たのは、ぢや、それだな? 三千円――此方が欲しいや。」
「ほんとにね。」
 間もなく彼女の一家が、大崎からこゝへ移つて来た。彼は、彼女の母と(何でも彼女の母が彼のことを、ケチだ! と云つたり、威張つてゐる! と称したり、彼の母のことを、息子に対して冷淡だ! などと彼を煽てるやうに云つたり、一度位ひ来るのが当り前ぢやないか! と批難したり、彼の父が、一度訪れた時、大変景気の好さゝうな法螺を吹いて、泊りはしなかつたのに「さんざツぱら酒を飲んで」、帰る時に小供に小使ひ一つ与へなかつた、「田舎の人は、やつぱり呑気だねえ、お前エらお父ツちやんは、屹度永生きをするだらうよウ、お前エは幸福しあはせだよウ。」などと云つて、遠回しな厭味を述べたり――)、醜い云ひ争ひをして、ヲダハラへ移つてしまつた。ヲダハラではまた彼は、自分の両親と醜い云ひ争ひをして、間もなく伊豆の方へ逃げ伸び、山蔭の、畑の見張り番でも住みさうな茅屋に一年も住んだ。
 父が死んでから間もなく、彼が東京・牛込に間借りをしてゐた頃、周子の母が来て、
「ほんとうに、親類ほど頼みにならないものはない、うちのお父さんはお人好しだから仕方がない、あゝ、厭だ/\。」などと云つて帰つたので、どうしたんだらう? と、彼は周子に訊ねた。
「憾んでゐるはよう! うちのお母さんが――」
「貴様も好く似てゐるな、下品な云ひ回し方が!」と、彼は怒つた。
「高輪の家が競売になるんですツてさ!」
 周子も憾むやうに云つた。
「フヽン!」
 住ふところが無くなつては、そりやアさぞ困るだらうな! と、彼は思ひもしたが顔色には現さなかつた。
「訴へられたんですツてさ! その訴へ人は、タキノ・シン……」と、彼女は、彼の名前を云ひかけて、笑つた。
「へえ!」――「好い気味だア」と、彼は云つた。何となく彼は、かツとして続けて憎態なことを二三言云つたが、何だか彼はおかしかつた。――可笑しくもあつた。
 彼が、その次にヲダハラに帰つた時母が、
「原田(周子の実家の姓)の代理の川崎といふ人から、お前に宛てゝお金が来てゐる。」と云つて、二百円渡した。――彼と母とが極端に仲の悪い頃だつた。
 さういふ種類の書きつけは、見ても彼にはわけが解らないので手も触れなかつたが、母の説明に依ると、高輪の家が競売になつて、第何番目かの抵当保持者である彼に、返済された金なのださうだつた。
「あそこまで、そんなことになつてゐたのかね!」
「どうだか、僕だつて知らなかつた。」
「だつて名前が……」と、母は、変に静かな調子で変な笑ひを浮べた。
「僕の名前なんて、どうせ普段から滅茶苦茶なんぢやありませんか――好い面の皮だア長男だなんて!」
 彼は、如何にも迷惑さうに不平を洩して、世俗的な常識に長けてゐる者らしく眉を顰めたりした。
「そんなことを云ふものぢやない。」と、母も云つて顔を曇らせた。その色艶のあまり好くない、だが眼立つほどの皺もなく、そして干からびてはゐない容貌を見ると彼は、極めて非常識な反感をそゝられた。――そして彼は、また死んだ父の顔を徒らに想ひ描いたりしながら、何といふわけもなくバカ/\しい気がして――(フツフツフツ……。馬鹿な連中ばかしが、好くも斯うそろつたものだ!)などと思つたりした。
「いくら僕が、仕様のない人間だからと云つたつて、ですね。」
 彼は、胸を拡げて開き直つた。(何か、ひどく尤もらしい文句がないかな? 何か? 何か? ――)――「それほど仕様のないことなんて考へて見れば、別段何もありやアしないや。普通の息子なんだ、自分で自分のことを仕様のない人間だ! と、自分に思はせるやうにしたのは……」
「お黙り!」
「…………」
「一体お前は何のつもりなの? 如何いふ了見なの? ――幾つになるまで親を瞞すつもりなの?」
「瞞す?」
「やれ、学校の研究科へ通つてゐるの、新聞社に務めてゐるの……大うそつき奴!」
「……」――何アんだ、そんなことか! と彼は思つた。「えゝ、えゝ、どうせ大うそつきですよう、だ。」
 斯んな馬鹿気た争ひをしてゐるよりも彼は、思はぬところで、飛んだ儲け物をしたので、上の空でその金の使ひ道を考へてゐた。――(面白い/\。俺の名前が、俺の知らない間に役に立つてゐるなんて、一寸不思議な気がするぢやないか。それにしても親父が死んで以来、こんなウマイことに四度も出遇つてゐるぢやないか、ひよツとすると俺の知らない間にも斯ういふ儲けがあつたのかも知れないぞ? まアいゝや、そこで…… チエツ、バカ気てゐらア、これツぽツちの金で、想像をたくましくするなんて――)
 彼は、父が死んで以来、例へば金に就いて考へるにしても、その額面が急に大きくなつてることが可笑しかつた。
「如何いふ了見なの?」
「了見ツて?」――彼は、今母と何か云ひ争ひをしかけてゐたのを忘れてゐた。
「お前は、一体何なんだい?」と、母は努めて落着いて訊きたゞした。
「煩いなア! 私は、私ですよ。」
「幾つだい、年は?」
「親の癖に、子の年を知らないの?」
「知らないよ。」
「二十九歳。」
 彼は、さう云つて悠々と煙りを吹いた。
「そして何なの?」
「幾度同じことを聞くんですね! 僕は、何でもありませんよ、――人間だよ、二十九歳の――」
 彼は、庭に眼を放つて、ピーピーと口笛を吹いた。そして火鉢の傍に投げ出してあつた金を、徐ろに懐中に容れた。――(お蝶にやつてしまはう。)さう思つて彼は、清々としたかと思ふと、直ぐまた斯んなことを考へた。(お蝶の奴、益々俺を尊敬するだらうな、何と云ふだらう、お光を呼んで、二人でお辞儀をするだらうな、ホツホツホウ。)――彼は、他人から感謝の礼などされたことがなかつたから斯んな空想が殊の他物珍らしかつた。――(突然なんだから一層彼女等は喜ぶだらう。よしツ、そこで一番! お光が大きくなつたら、一番俺が妾にしてやらう、と、斯う見るからに信頼されさうな重味のある声を出して見ようかな?)
 彼は、口笛を止めて変な咳払ひをした。母はそれに一層反感を持つたらしく、
「それでも、人間のつもりか。」と、口惜し気に呟いた。
「…………?」
 いつもならこんな場合に、極めて図太い度量を持つて、馬耳東風に聞き流すか、或ひは易々と相手を嘲笑ひ反すのが常だつたが、ふつと今彼も、母の詰問を自分に浴せて見た。――だが、これだけはまさか疑ふわけにもゆかない――ほんとに彼は、そんなことを思つた。――(たゞ、私は、あなたのやうにそれであることに、一抹の誇りも持たない者なのです。)
 さつきから彼は、自分の名前が、自分の知らない間に活動する? などといふことを、酷く濁つた頭で「不思議」に考へてゐたのであつた。夢で、自分の姿を見るやうに、気付かずにゐたところを写された写真を見るやうに、「考ふるが故に吾在り」の吾は、何も考へてゐない存在で、多少でも考ふるが故の吾は、別にその辺の隅にでもかくれてゐるやうに、彼は、ぼんやり、極めて単純なことを、「不思議」に、非科学的に想つてゐたのだ。
「名前」が活動するんだから一層おかしい……彼は、すれ違つた汽車の中に、厭に取り済して乗つてゐる自分を、チラリと見るやうな想ひに打たれたりした。
「ピー、ピー、ピー。」
 斯うやつて、犬でも呼ぶやうに口笛を鳴してゐると、今にもその辺の蔭から、
「何だい、何の用だい、僕アお前などに呼ばれる用はない筈なんだがなア。」などと云ひながら、迷惑さうに自分の「名前」が出て来さうな気がした。
「やア、S・タキノ!」
 斯う云つて彼は、その傍に寄つて行つた。
「君は、誰だい?」と、「名前」が云つた。
「S・タキノさ。――だが、そんなことは如何だつて好いぢやないか、名前位ひのこと。」
「好いけれどさ、他の名前を呼ばれゝば俺は、返事はしないからね。S・タキノでなければ――どうも、その生れて来て以来の習慣でね――H・タキノと云へば、やつぱりあの親父……」
「解つてゐるよ、馬鹿/\しい――。シンの奴、シンの奴! 斯う云つて何時か親父が、おそろしく怒つたことがあつたつけな。」
「うむ、あつた/\。」と、云つて「名前」は気色を雲らせた。
「あの時は、俺は、随分面白かつたよ、シンの奴、すつかり参つたね。」と、彼は、相手を嘲弄した。
「僕ア、面白いどころぢやなかつたぜ、冗談ぢやない、身が縮む思ひがしたよ。」
「フツフツフ、意久地のない奴だな。僕は、また、親父がカンカンに怒つてさ、シン、シン、シン、シン――と、斯う怒鳴るのを聞いてゐると、何だか、それは名前ぢやなくつて、景気好く釘でも叩き込む音のやうな気がして、胸のく思ひがしたぜ。」
「笑ひごとぢやないよ、俺ア随分痛かつたからな!」
「名前」は、斯う云つて今更のやうにそれを思ひ出したらしく、頭をさすつた。
 彼の父が、玄関を入ると怒鳴つた。
「シンの奴は居るか?」
 その勢ひがあまりすさまじかつたので、彼の母は、居ない――と、かくした。彼は、奥の書斎で机に噛りついて、詩を書いてゐた。
「何処へ行きアがつたんだ?」
「さア。」
「畜生奴! 帰つて来やアがつたら――」
 それらの言葉が手に取るやうに彼に聞えた。
「どうなすツたの?」
「赤ツ恥をかいちやツた。」と、叫んで、少し落着いてから父は、次のやうなことを説明した。
 山本の家(近所の父の友人)へ行くと、娘の咲子が、化物のやうな画の描いてある表紙で、「十五人」とか「十七人」とかといふ変な名前の薄ツぺらな雑誌見たいなものを持つて来て、
「シンちやんの散文詩が出てゐるわよ、おぢさん。」と云つた。
「ほう!」
「こんなのよ、こゝの処だけ一寸読んで御覧なさい――ホツホツホ、さんざんね、おぢさん!」
 咲子は、「父の章」といふ個所を指差して、彼の父に渡した。
「滅茶苦茶に俺の悪口を書いてゐやアがるんだ、畜生奴! もう俺ア、彼奴とは一生口を利かないぞ、カツ!」と、父は母に向ツて怒号した。
「詩ですつて?」
「田舎芸者を妾にもつて、女房にヤキモチを嫉かれてゐる間抜け爺――そんなやうなことが、一杯書いてあつた。……元来、貴様が馬鹿だからだア、倅の前も関はず、云ひたい放題なことを云やアがつて。」
「自分が、行ひさへ……」
「何だつて、行ひだつて? もう一遍云つて見やアがれ、ぶん殴るぞう。――何を云やアがる、手前は何だ、手前は何だ、手前エこそ俺の顔に……」
 父の激亢の声が、何だか彼には、笑つてゐるものゝやうに聞えた。
「叱ツ!」
「手前エこそ今に、息子の碌でもない詩に書かれないやうに要心しやアがれツ!」
「声が大きい。」
 彼には、父の云ふ意味が好く解らなかつた。
「手前エには、な、何だらう、倅の前かなんかでなければ大ツ平に俺のヤキモチを嫉くことも出来ねえんだらう、ヘツ! 俺アこれでも世界中を渡り歩いて来た人間だア!」
 偉いよ! と、彼は父に悪意を持つて呟いだ。彼は、母に味方してゐたからである。――父の声は、益々高まつた。
「俺のことは、関はないよ、勝手にしろ!」
 勝手にしたら好いぢやないか――と、彼も呟いだ。
「それよりも手前エの息子のことを気をつけろ! 息子に聞かれないやうに要心しろ! 恥知らず奴、皆な恥知らずだ、加けに彼奴は、シンの奴は、ぬすツと見たいな野郎だ、面からして気に喰はねえやア! ――どうせ、手前が生んだガキだ、俺ア知らねえよ。」
 彼は、ぬすツとのやうに呼吸を忍ばせて、窓から抜け出した。そして山本の家へ駆け込んだ。
「跣で――どうしたの?」
 ※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)小屋から出て来た咲子は、彼の赧い顔を見てなじつた。――草花を庭に植えてゐたところだ、といふやうなことを云つてから彼は、
「どうして×××なんかを、持つてゐたの!」
 と、雑誌のことを訊ねた。
「買つたのよ、この間――東京で。」
「さう、――ぢや、さよなら。」と、云つて彼は直ぐに引き返した。派手好みな、嬌慢な咲子の美しい姿が、もう彼の手のとゞかないところで、古い夢のやうに煙つてゐた。
「随分、ひどい人ね――」と、うしろから咲子が浴せかけた。彼は、体が空中に吹き飛んだやうにテレた。たゞ、彼女の声を、甘く胸に感じて、一層身が粉になつた。――咲子のことを、カン子といふ名前に変へて彼は、その「散文詩」の中で、咲子が若し読んだならば酷い幻滅を感じるに違ひない程に書いてゐた。咲子と彼とは、彼が未だ周子と結婚しない頃、親同志の婚約があつた。「この金持の娘は、金に卑しい。」などとも彼は書いた。彼女は、金持の一人娘だつた。
「自らそれを得意としてゐる哀れな娘」などとも彼は書いてゐた。
 外から、そつと窺つて見ると、未だ父と母との間では、盛んに彼の名前が活躍してゐた。……――「まつたく俺は、あの時、父や母の間で交されてゐる、シン! シン! が、さ。暫く聞いてゐるうちに自分とは思へなくなつてしまつたよ――戸袋の蔭に、ぴつたりと雨蛙のやうに体を圧しつけて、彼等の悲痛な争ひを聞いてゐると、まつたく馬鹿/\しくなつたね――たしかに俺は、蛙だつたよ、あの時、シンとかといふ彼奴等の息子は、悪い野郎だな――と、蛙である俺は、あきれて呟いだのさ。」
「お前は、そりや呑気だつたらうよ、さぞ面白かつたらうね。」
「面白くはないさ、そんなありふれた騒ぎなんて……」と、彼は、退屈さうなセヽラ笑ひを浮べた。
 これは、彼の先程からのあやふやな自問自答である。相手は、あの「名前」である。
「だが、君。」と、彼は感傷的な声で相手を呼びかけた。――「阿母とは仲良くして呉れね、特別に親孝行なんて仕なくつても好いが、普通の息子らしくさ……それだけのことも俺には出来さうもないんだ。」
「お前は、何かにこだはつてゐるんだな、倫理的な立場で――」
「――憎んではゐないさ。親だもの、たしかに母親だもの、――父親ツてエのは、これで疑へば疑へないこともないが、母親だけは疑へないぜ。周子が、子供を生んだ時、親父が沁々と云つたぜ――母親には、自分の子供を疑ふ余地がなからうな、たしかに自分の子だからね――だつてさ、馬鹿だね。……俺、あの時、一寸厭な想像をして、思はず親父の Bawdy appearance を覗いたぜ。」
「馬鹿だなア、お前こそ――」
「そんな話は止さう。ともかく阿母のことは頼むぜ。」
「よし/\、俺が引きうけた。」
「名前」は、斯う云つて見得を切つた。――。
「安心しろよ、何だい、べそ/\するない、ぬすツとらしくもない。」
「阿母だつて、寂しいだらう、親父にはさんざ憂目を見せられ、そして俺が、俺が……俺は、阿母は好きなんだ。顔だつて、心だつて随分俺は、阿母に似てゐるぢやないか!」
「よし/\もういゝ/\、お前は、名前のない人間なんだから愚痴を滾す必要はないんだよ。」
「それでも、いゝか? ほんとうに。何かにつけて不便なことがありやしないかね。」と、彼は絶へ入りさうな声で念をおした。
「そんなことは、俺たちの狭い世界だけの話だ、お前は独りでさつさと歩いて行つて関はないよ。」
「いよう! 君は、随分、度量が拡いんだね。――いや、有り難う、ぢや、失敬するぜ。」
「うむ。」
「ぢや、さよなら。」
「早く行けよ。」
「今、行くよ――握手しようか。」
「そんなことは御免だ。さつさと行つてくれ、少し焦れツたくなつて来た。」
「俺、何だか行くのは厭になつた、急に。」
「女のやうな奴だな。」
「厭だ/\、俺ひとりぢや、やつぱり寂しいや、せめて君が……」
「それぢや何ンにもなりやアしない……」
「何ンにもならなくなつても好いから、行つてくれ、一処に。ひとりぢや厭だ、厭なんだ、さつきから云つてゐたことは、ありやアみんなカラ元気なんだ、あゝ……」
 ――しやア/\と、洞ろな眼つきで口笛を吹いてゐた彼の眼から、ぽた/\と涙が滾れ出た。……しまつた! と、彼は気づいたが、面白いやうにハラ/\と涙が滾れ落ちた。
「…………」
 ふツと気づくと眼の前に居る母の眼にも、涙の珠が光つてゐた。まだ、彼は、母のそれをキレイに、感じなかつた。そして彼は、自分で自分を「邪魔」にした。


 雪が降つてゐた。
 彼は、隙間のないやうに無数の鋲で、三方の幕をしつかりと圧えた。――静かな午後だつた。賢太郎が拵えかけたカーテンは、短かゝつたので、悉く白い布に取り換えたのである。
 風がなかつたから、湿つた布は凝ツと、この変梃な部屋を取り囲んでゐた。彼は、行火に噛りついて、トランクの中から取り出した金製の古いカツプで、チビチビとウヰスキイを舐めてゐた。
 ――「それぢや、原田では、この先き如何するんだらう、うちがなくなつては?」
 いつか彼の母は、この家に就いて一寸斯んな心配を洩したことがあつた。
「どうするのかね……」
「割合に大家内ぢやあるし――」
「原田の親父は、この頃何ンにも仕事がないんださうですぜ。」
「まア、気の毒な――」
 あまり気の毒らしくもなく、彼の母は苦笑を洩した。その後彼が、この家に就いて周子に訊ねて見ると彼女は、
「うちのお父さんが、また買ひ戻したんですツてさ。だから今度は、あたし達は相当の家賃を払はなければならないでせうね、うちのお母さんが、時々あたしにそれとなく云ふわよ。」などと云つた。原田は、この頃一文の収入もないといふ話だつた。
「毎日あんなに忙しさうに出歩いてゐるのに、一体何をしてゐるのさ。」
 決して訊ねたくはなかつたが彼は、彼女に、軽蔑的な笑ひを見せて訊ねたりした。
「人が好いから駄目なのよ、うちのお父さんは――」と、彼女は云つた。
「未だ半月しか経たないんだから、金はあるだらう、あの?」と、彼は云つた。引ツ越しの時前の借家の敷金を三百何十円か、彼女は彼に断りなく領してゐることを、彼は知らん振りをしてゐたが、忘れてゐたわけではなかつた。
「ホツホツホ。」と、彼女はわざとらしい下品な笑ひを浮べて「随分、あなたは細いのね。――もう三十円ぽつちしかありやアしないわよ。」と云つて、何に使つた、何に使つたなどといふことを立所に証明した。
「俺ア、知らねえよ。」
「でもいゝわね。この頃は手紙を出さなくつてもヲダハラから、お金が来るからね。」
 彼が、原田の家へ同居してゐることを彼の母はあまり喜んでゐなかつた。彼は、ずつと前に此処に居た頃は、その種の母の不快を察して、それも一つの理由で帰郷したのであるが、今度は、母が明らさまな不機嫌を示さないだけ、彼は、反つてこれ位ひの意地悪るを母にしてやることが、辛くもなかつた。
「お前は、随分親孝行だねえ、感心だよう! ほんとうなら今ぢやお前がヲダハラの主人なんだから、阿母さんの口なんて出させないのが当り前なのに、斯うして書生時分と同じ暮しをしてゐるなんて! ハヽヽヽ、おとなしいんだね、つまり。蔭弁慶……」などと周子の母は、巻煙草などを喫しながら親味を装ふ笑ひを浮べた。と彼は、ワザとこの老婆の言葉に乗せられたやうに、心中の不快は圧し隠して、放蕩児のやうな不平顔をして、
「ほんとうに、バカ/\しいや。」などと呟いた。そして、反つて相手の似非親切に研究の眼を放つた。すると老婆は、益々愉快がつて、
「確りしなよ。油断してはゐられないよ。」
 さう云つて暗に彼に「親不孝」を強いた。
「まつたくだね。」
 こんなに彼は、変な落つきを示して、相手の醜い感情を一層醜くしてやれ! などと計つたりした。
「阿母さんの前に出れア、碌々口も利けないツてエんだから仕末に終へないな、この子はよう、ほんとうに――」
「ほんとよ、お母さん。」と、周子も傍から口添へした。彼は、何となく好い気持だつた。
「間に入つて一番辛いのは、お前だけだのう。」と、老婆は娘に云つた。――「阿母さん任せにして置いたら、後で一番可愛想なのは英一だぜ。」
「どうしたら好いだらうね、お母さん。」
「うちのお父さんも、それを心配してゐるんだよ。」
「あたし、ヂリヂリしてしまふわ。」
「無理もないさ。好くタキノと相談して御覧よ。余計なお世話だなんて思はれるとつまらないからツて、お父さんも。」
「さうよ/\。直ぐにうちのお父さんを悪者呼ばはりをするんだからね。」
「バカだね。うちのお父さんも――。そりアさうと、ヲダハラの阿母さんは髪を切つたかね?」
 老婆は、知つてはゐるんだが、知らん振りをして、彼の、割合にそれに就いては潔癖らしい道徳的な反抗を煽てる為に、済して娘に訊ねたりした。
「いゝえ。」と、娘は、白々しい残酷感を胸に秘めて、首を振つた。
「へえ!」と、老婆は、仰天するやうに眼を視張つた。そして、拙い言葉で今更のやうに女の貞操に就いて、娘を諫めたりした。そして自分が、どんなに不行跡な夫と永く暮して来たにも関はらず、貞操観念は如何に律義なものであつたか、といふ事などを附け加へた。――彼女達は、彼の母の不徳を稍ともすれば吹聴したがつた。それで、哀れな自慰を貪つてゐるらしかつた。
 彼は、この家に同居するやうになつてから自分が今迄母に対して抱いてゐた「道徳的な反抗」が、ウマク影をひそめて行く気がして寧ろ清々とした。今迄、自分がひとりで焦立ツてゐた卑俗な感情を、この家の卑俗な連中が悉く奪つて呉れた――そんな気もした。それで自分の心は、別段デカダンにも走らず、あきらめといふ程の云へばエゴにも陥らず、別段改まつた人世観をつくることもなく――彼は、そんなことを思つて、気附かずにたゞ己れの愚鈍に安住しようとした。
(母上よ、安んじ給へ。)
 彼は、斯う祈つた。――彼の頭は、使用に堪へない剥げた鏡だつた。あの、昔の望遠鏡のやうに曇つてゐた。彼は、自分の頭を例へるにも、こんな道具に引き較べるより他に仕様のない己れの無智が可笑しかつた。
「でも、寂しいだらうね。」
「そんなこともないだらう……」
「さうかね、クツクツク……」
 老婆は、欠けた歯を露はにして笑つてゐた、娘と共々に。そして彼の方に向つて、話頭を転ずる為に、
「だけど、ちつたアお前だつてかせがなければ……、そんなことも考へてゐるの?」などゝ訊ねた。
「とても駄目だ。」と彼は云つた。
「嘘なのよ、お母さん。」と、傍から賢太郎が可愛らしい声で口を出した。「兄さんは、時々雑誌やなんかに童話を書いて、お金を儲けてゐるのよ。」
「ほう! 童話ツて何だい。」
「お伽噺のことよ――だから、この頃毎晩出かけて、屹度酔つて帰つて来るぢやないの! あれ、みんな自分で取るお金なのよ。」
「ほう、偉いんだね。――ぢや、ヲダハラからはいくらも貰つてゐるわけぢやないんだね、遠慮深いんだね、感心だねえ!」
「あたしなんて、病院へ行くんだつて遠慮してゐる程なのよ。」と、娘は云つた。彼女は、婦人科病院に通つてゐた。老婆は、忽ちカツとして彼を何か罵つた。
 階下の仲間入りをして、母上よ、安んじ給へ! などゝ祈つてゐることも彼は、面白かつたが、一時間も辛棒してゐると、反つて不純な己れを見るやうな浅猿しさに辟易して、ほうほうの態で二階へ逼ひあがつた。そして、この寒さも厭はず、この村社の急拵への神楽殿にも似た部屋に、幕を引き回らせて、筒抜けたやうな顔をして閑ぢ籠つてゐた。
「郵便」と、云つて賢太郎が幕の間から、彼が一目見れば解る母の書状を投げ込んで行つた。
 近頃気分が勝れない、といふやうなことが長々と書いてあつた。その一節に彼は、次のやうな個所を読んだ。
「……御身は近頃著述に耽り居る由過日村山氏より聞き及び母は嬉しく安堵いたし候、酒を慎しみたるものと思ひ候、父上なき後の痛き心を風流の道に向けらるゝも亦一策ならん、務めの余暇にはひたすら文章に親しむやう祈り居り候、如何なるものを執筆せしや、母は日々徒然に暮し居り候故著書一本寄贈されたく御承知の如く震後書店の出入なければ何卒至急御送り下され度候、孰れ閲読の後は改めて母の感想を申し述ぶべく到来を待ち居り候、御身は英文学士なればその昔母の愛詠せるおるずおるすにも似たる歌もあらんなどと徒らに楽しき空想を回らせ居り候……」
 母は、W. Wordsworth の古い翻訳詩の愛詠家だつた。日本では、馬琴を最も愛読した。母の実家は、昔、その父や祖父の頃から村一番の蔵書家だつた。そして、娘は母一人だつたが、二人の兄弟は並つた読書家だつた。その反対であるタキノ家や彼を、常々母は軽蔑した。彼は、いつか母からいろいろ文学に関する質問をうけて一つの返答も出来なかつた。――では、お前は一体何を主に研究してゐるんだ? と訊ねられて、彼は思はず顔を赧くした。籍を置いてゐた私立大学の文学部で、彼は英文科に属してゐることに気付いて
「英文学!」と、喉のあたりで蚊のやうに細く呟いだことがあつた。傍で聞いてゐた父が、
「へえ! お前は文学なのか? 俺ア、また理財科だとばかり思つてゐたんだ。ハツハツハ……」と笑つた。
「私は、文科の方が好いと思ふ。」
 母は、きつぱりとさう云つた。
「そりやア、好きなものなら――」と、父は云つた。
 彼は、たゞ楽をする目的でそれを選んでゐた。好きか? 嫌ひか? そんな区別も彼は知らなかつた。母が軽蔑した彼の父でさへ、彼よりは遥かに英文学に通じてゐたらしかつた、彼には父の少しばかりの蔵書である英文学書すら読めもせず、読まうともしなかつた。
 誰が読むといふわけでもなく、彼の家にも古くからの習慣で、月々村の書店からいくらかの雑誌が入つてゐたが、そのうちの通俗的でないものだけを彼は、伊豆に逃げのびた頃から、巧く母に断つて、書店から直接彼宛に郵送させた。東京に住む現在でも、それ等は附箋がついて回つて来た。彼は、母にいろいろの書物を呈供することを約したこともあつた、近頃の書物は、お前に選定して貰つた方が好いだらう、と母が云つたので――。
 村山氏といふのは、あまり彼の家と仲の善くない近所の会社員だつた。
 村山氏が、自分の何を読んだのだらう――と、彼は思つた。そして彼は、自分が今迄に書いたいくつかの小説の題名や内容を回想して、案外呑気な笑ひを浮べた。――たゞ村山氏が何んな気持で、彼のことを母に通じたか? が、解る気がした。ずつと前父をモデルにした小品文を父に発見されて激怒を買つたことがあるが、そして酷く困惑したことがあるが、この頃ではそれ位ひのことで困惑する程の余猶もなし、若し母が読んで「腹を切つて死んでしまへ!」――母は、好くさういふことを云ふ人である――と、云つたら、
「自殺は嫌ひだ――眠つてゐるところでもを闇打ちにしてくれ!」位ひの図々しさは用意してゐるんだが、勿論読まれたくはない。
 村山氏といふ人は、他人の不祥事や秘密を発いてセヽラ笑ふことが好きな人である。内容には触れずに、好い加減な皮肉で、彼の母を悦ばせたのであらう! 村山氏を、憎む気にもなれなかつたが、愚かなお調子者の非文学的な彼の小説のつまり彼である主人公が、ペラペラと吾家の不祥事を吹聴したり、親の秘密を発いたりする文章を書き綴つてゐる浅猿しさを、彼は自ら嘆いた。そして、何も知らない母が気の毒であつた。彼は、想像力に欠けた己れの仕事が憾めしかつた。また、下らない奴に邪魔される迷惑も感じた。
「翻訳をして、母に送らう。」
 彼は、母の手紙を読み終ると同時に、思はず斯んなことを呟いだ。一寸以前の彼であつたら、ワザと意地悪る気な笑ひを浮べて、――斯んな刺激も必要だ! とか、不徳の罰だ! とか、と安ツぽく露悪的に呟くに違ひなかつたが(現に彼は、さういふ小説を書いてゐる。)、そんな感情は巧い具合に、この家の一種彼にも通ずる卑俗な連中が、あゝいふ態度で彼の心を拭つたやうなものだつた。この家の連中が暗に彼に要求することの、反対の結果が彼の胸に拡がつてゐたから――。一体彼には、さういふ癖があつた。例へば自分の前に来て、誰かの悪口を吐く人になど出遇ふと、一応はウンウンと云つて聞いてはゐるが、そして時には自分も一処になつて喋舌ることもあるが、いつの間にか、そこで悪口を云はれてゐる向方の人が、反つて懐しく、好きになつて来るやうな場合があつた。
「さうだ、これはたしかに巧い思ひつきだつた。」と、彼は思はず口に出して独言した。
 古い浪曼的な幾つかの英詩を探し出して、耽念にこれを翻訳して、そして厚い紙に綺麗に清書して。何枚かを丁寧に立派にとぢて、恭々しく母に捧げよう……これやア、案外仕事としても面白いかも知れないぞ――などと、彼は呟いた。
(先づ、おるずおるす――か?)
 彼は、母から英文学士と称ばれたことが、奇妙に嬉しかつたのである。そして彼は、一躍厳格な学究の徒になつた気がして、衒学的に眉を顰めて、幕の間から暫く外景を覗いたりした。――花やかに、大片の雪が降つてゐた。火の見塔が、雪にぼかされて煙突のやうにぬツと突き立つてゐた。勿論、見張りしてゐるに違ひないのだが、見張り番の姿は見えなかつた。顔つきばかりで、彼の心は無暗に白いばかりだつた。たゞ、今漠然と心を躍らせた形のない力が、形あり気に、ハラハラと顔や胸に雪のやうに暖く、冷たく、こんこんと降りしきつて間もなく五体までも、埋り、溶けてしまふやうに恍惚とした。――さつきからのウヰスキーがさせる業なのであらう、冷たく、暖かく、雪が、雪景色が、冷たく快かつた。――無い智識を振りしぼつて、努めて翻訳などをしないでも、三つや四つ位ひは立所に叙情的な詩が作れさうだ――ふと、そんな気もしたが、永遠に詞想からとり残されたカラの頭が、幕の間から雪景色を眺めてゐるだけのことに気附いて、彼はテレ臭い苦笑を浮べて、幕をとぢてしまつた。――そして、翻訳に心を反した。だが、二ツ三ツうろ覚えのウオーズオースやテニソンでは、折角翻訳しても、母だつて見覚えがあるかも知れない、「英文学士」の称号を取り上げられてしまふかも知れない、――それじや、何もならないし、語学力は中学の頃と何の変りもないし、
「折角の計画も、駄目かな。」と、思つて彼は、行火の上に首垂れた。――いや、いや、そんなことぢや仕方がない、間もなく自分の生活は、大変惨めなものになつて到底斯んな種類の仕事に耽つてゐる余猶はなくなるに違ひない――彼は、珍らしくそんな要心深い考へを起したりして、努めて心を明るくさせた。――(今夜から、早速取り掛らう、まさか字引の引き方を忘れてもゐないだらうからな。)
 彼は、なみなみと注いだウヰスキイのカツプを一息に飲み干した。――そして、またトランクの中から、ボロ/\になつてゐる英詩集を取り出して、断れ/\に歌つた。
 「She was a Phantom of delight
  When first she gleam'd upon my sight;
  A lovely apparition, sent
  To be a moment's ornament;
  Her eyes as stars of twilight fair;
  Like Twilight's, too, her dusky hair;
  But all things else......」とか、「何だか、はつきり解らないぞ、この、おるずおるすは!」と、云つて、また、別の処を開いて――「Who is the happy warrior? Who is he―Whom every man in arms should wish to be?」などゝ叫んで「こいつも、解らねえ、チヨツ!」と舌を打つたり「ぢや、こんどはテニソンだ。」と云つて、ひよろ/\と立ちあがつて、
 「Ring out, wild bells, to the wild sky,
  The flying cloud, the frosty light:
  The year is dying in the night;
  Ring out, Wild bells, and let him die.」
 ――「これやア、好いなア!」と、感嘆して「Wildワイルド bellベル は、好いなア!」などと悦びの眼を輝やかせた。この英文学士は、かの有名な、“In Memorium”をこの時初めて眼にしたのである。そして彼は、更に声を大にして、
  Ringリング outアウト theゼー oldオールド, ringリング inイン theゼー newニユー,
  Ringリング happyハツピイ bellsベルス acrossアクロツス theザア snowスノウ:
  Theゼー yearイヤア isイズ goingゴーイング, letレツト himヒム goゴー;」と、のろい怪し気な発音で切りに歌つた。――「Let him go ――彼ヲシテ、行カシメヨ、か!」
 それから彼は母へ宛てゝ手紙の返事を書いた。母の手紙が、彼と争ひをした後のものゝやうではないと同じく、彼の手紙も亦白々しい親情に充ちてゐた。


 初めは、さうしなかつたが、いつの間にか彼は、階下の連中と同じ夕餉の膳に向ふようになつた。そして、機嫌の好さゝうなことばかりを喋舌りながら夜、深更まで晩酌を続けて、翌朝、子供達の間に、子供達と同じやうにモグラのやうに転ろがつてゐる自分を見出すのであつた。
 ヲダハラの母に敵意を持つてゐるといふ心持を仄めかせたり、金銭の話をしたりすると、周子の母が相合さうごうを崩してニヤニヤするのでそんなことで彼は卑賤な愉悦を感じて、恰も七面鳥のやうに呑気な倨傲を示した。
「うむ、俺はもうヲダハラなんかに帰らないんだ。面白くもない!」
「お前は、吾家にゐる時分はそんなにお酒なんか飲まなかつたんだつてね!」
 さう彼女が云ふのは、彼女と違つて、彼の母は悴に大変冷淡だからそんな処でお酒など飲んだつて「お前のやうな気性の者が」落着ける筈はあるまい、それに引換へ自分はこのやうに親切だから定めしこの家の酒宴は楽しみであらう! ――それ程の意味で、若し彼が、その意味に気附かないでゐると、彼女はそれだけのことを明らかに附け加へるのであつた。彼女は、機嫌の好い時には稍ともすれば相手を喜ばす為めに「お前のやうな気性の者」といふ言葉を使ふのが癖であるが、機嫌の悪い時には、この同じ言葉を悪い意味に通用させて、蔭で他人のことをそしるのであつた。また彼女は、自ら「私は、斯ういふ人間だから。」といふ言葉を、自讚の意味に用ひて、自分の話を続ける癖があつた。――彼は、この重宝な言葉が夥しく嫌ひであつた。迷惑を感ずるのが常だつた。だから彼は、いつでも彼女のその自讚の言葉を耳にする時は、「如何いふ人間なのか此方は知らないよ、云はゞ、まア、あまり好い人間だとは思つてはゐないだけのことだが――」といふやうに、此方も概念的な冷淡さに片附けておくのみであつた。……彼が、そんな思ひに耽つてゐる時、丁度彼女は、
「そりやア、もう私は……」
 そりやア、もう私は? とは? ……と、この仲々彼女などには敗けてゐないつもりの鸚鵡のやうな婿の胸に繰り反させて、
「そりやア、もう私は、斯ういふ人間だから――」と云つた。「他人の事となると……」などと云ひながら、膳の上の食物を指でつまんで、具合の悪い入歯でニヤグ/\と噛んでゐた。
「ほんとうに、子供達に対しては親切だなア……羨しいやうだよ。」
 そんな風に彼が雷同すると、多少の嘲笑が含まれてゐても、それには気づかず、自分の讚められることだけには案外素直で、子供らしい彼女は、身をもつて点頭くのであつた。
「お前なんて、貧棒こそしなかつたらうが、相当これで人知れぬ苦労が多かつたらうからな!」と云つて、また彼の母を遠回しに批難するのであつた。と、ウマク彼女の穽に陥つて他合もなく彼は、胸がグツとするのであつたが、我慢して「さうとも/\、貧棒はしなかつたとは云ふものゝ、何も贅沢をしてゐた訳ぢやなしさ……賢太郎なんかの方が、反つて幸福だよ。」
 彼も体全体で点頭いたりするのであつた。この相手に、おもねる為に彼はさう云つたのであるが、云つて見ればこれも偽りではないやうに思へた。
 彼女は、他合もなく悦んだ。――「まつたく私ア、子供には心配をかけたことはないからな、気苦労だけは――」
 どんな範囲で彼女が、さう云ふのか解らなかつたが、彼の知つてゐる二三の実際的のことで見れば、この彼女の言葉は彼れには嘘としか思へなかつた。周子と一つ違ひの姉の賢子は、行衛不明だつた。父親のない赤児を伴れて暫く帰つてゐたが、母親に僅かばかりの所持金を費消されてしまつて、と急に母親は彼女を冷遇し始めて、いつか賢子から彼が聞いたのであるが、妻子があつたつて何だつて関はないから成るべく金のありさうな男を引ツ掛けろ! とか、カフエーの女給になれ! とか、と、この母に似てずんぐりした姿の醜ひ賢子に命ずるのだといふ話だつた。そして到々「死ぬなら死んでしまへ。」と云つて追ひ出したのださうだ。賢子は、赤児を置いて出掛けた限り戻らなかつた。
 面を見るのも厭だ! などと云ひながら母親は、赤児をぞんざいに世話をしてゐた。彼女は、飯よりも菓子が好きで、それがなくなると急に不機嫌になつて、赤児の頬ツぺたを抓つたりするといふ話だつた。優しい賢太郎が、大変困つて、電報配達になつてついこの間まで彼女を養つてゐたさうである。
「お前なんか、いくら働きがないと云つたつて未だ/\安心ぢやないか、家の親爺なんか……」と彼女が、調子づいて何か云はうとすると、
「お母さん。」と、傍から賢太郎が、たしなめた。
「僕だつて、子供ぢやないんだからなア。」
「さうとも/\、立派なお父さんぢやアないかよう。」
 斯んな風に彼女を、悦ばせて彼は、悠々としてゐたかと思ふと、急に山羊のやうに哀れな声を振り絞つて、自分には実際的には何の働きもないし、徒らに齢ばかり重ねて、この先き一体どうなることやら、自分のやうな人間が一朝にして貧乏人になつてしまつたら、それこそ水に浮んだ徳利も同様だ――。
「あゝ!」などと女々しい溜息を衝いて、忽ち彼女の顔から、にやにやを奪つて、その心を白くさせてやつたりした。さういふことを云ふと彼女は、見事に早変りをして、娘を売物にしてゐる悪婆のやうに冷淡になるのであつた。そして若し、彼がこの時後架にでも立たうものなら、狭い家だから聞えるのである、そこで子供等と遊んでゐる彼の四歳になつたばかりの英一を指差して、
「この子は、うちの子供達と違つて、悧口だぞう――、あの顔の大きいこと……」などと憎々しく呟いだ。悧口だぞう! は勿論悪意だつた。
 後架から戻つて来ると彼は、また七面鳥になつて、
「何アに、△△の土地だつて未だ残つてゐるんだ、近いうちにあいつを一番手放しさへすれば……」
 そんな風に、止せばいゝのに思慮ある肚の太い実業家が何事かを決心したやうに唸つたりした。――すると、また彼女も、彼の予期通りに、忽ち笑顔に返つて、
「しつかりおしよう、タキノやア。」と、薄気味の悪い猫なで声を出して――まつたく、斯んな種類の中婆アさんといふものがあるんだな! と、彼を変に感心させて、
「お前さへしつかりしてゐれば、大丈夫だよう、いくつだと思ふのさ、ほんとにお前はよう……ほんとうなら阿母さんは、クヽヽヽヽ。」と彼の悪感をそゝる意味あり気な忍び笑ひをはさんで「クヽヽヽヽ、もう隠居なんぢやないかねえ、クツクツク……、お前は未だカラ子供なんだねえ、なんにもクヨクヨすることなんて、ありやアしないぢやアないかねえ……」
 その声色が、見る見る飴のやうに甘く伸びて行つて、毛虫になつてうねうねと逼ひ寄つて来て、
「ヲダハラの阿母さんは安心だよう……まア、斯んなおとなしい悴をもつて……」
 あゝ、もう堪らないなア! あゝ、厭だ/\! と思つて、彼が身を引く途端、ポンと彼女の営養不良のまきのやうな手が、彼の肩先をさするやうに叩いて、彼をゾツとさせた。
 彼は、この中婆アさんの歓心を買はうとしてゐる己れの所置に迷つた。
(ヲダハラの阿母さん!)
 彼は、そつと繰り反した。周子の母に、遠回しな厭がらせを浴せられて、今迄自分が母に抱いてゐた反対の心境が拡けたなどと思つたのも、みんな苦し紛れの痴夢で、斯うあくどく残虐な手に攻められると、一瞬間前の余裕あり気な心持などは、鵞毛の如く吹き飛んでしまひ、腑抜けた自分が「ヲダハラの阿母さん。」と、この中婆アさんの間で、夫々彼女等の命ずるまゝに、泣いたり、笑つたり、舌を出したり、出たら目に踊り狂ふ、魂のない操り人形である己れの所置に迷つた。道徳的な潔癖で母に義憤を覚えたのでもないらしい、また感傷が、彼女の幸福を祈つたのでもないらしい……(カツ! 周子の母親に肩を叩かれて、ゾツとする類のものか!)
「…………」
「お前は、なかなか感心だよう。」
 カツ! と、風船玉のやうな己れの頭をはぢいて、彼は――この「悪婆」の面上に唾を吐きかけてやる! やれる境遇か? やる代りに、こゝで己れの母をカツと罵るか? 罵れば、代りにはなりさうもない、心から己れの母を罵つてしまひさうである……何と、この「悪婆」が手を叩いて嬉ぶことであらう、相手が此奴でさへなければ、自分は声を挙げて自分の母を罵れる、そして清々する……いや、鏡に向つて、同じ程度にこの二人を罵つてやりたい、いや、鏡では、自分の馬鹿面が写つて噴き出してしまふだらう。天に向つて演説するか? 星を見れば、斯んな亢奮は、また鵞毛になつて飛散してしまふだらう……(あゝ、俺は、とてもこの眼前の妖婆には敵はない――)
 そつと彼は、にやにやしてゐる「妖婆」の横顔を眺めると、間もなく此奴に酷い幻滅を覚えさせる程のボロが現はれて、と忽ち妖婆は悪鬼となつて、胸を突かれ腕をとられて、子供諸共戸外にほうり出されてしまひさうな危惧を覚えて、――ふと、その危惧が反つて思はぬ安易に変つたり、自分の母からの白々しい通信に滑稽な戦きを持つたりした。――彼は、幼稚な自称科学者が、顕微鏡下に、人畜に害をなす怖るべき病菌を見て、思はず見震ひを感じたのであるが、大人であることゝ、研究家であつたことゝを顧みて、擽つたく身震ひを堪へながら、唖然として、厭々ながら眼鏡を眺いてゐる愚かな見得坊に過ぎなかつた。無能な衒学者に過ぎなかつた。カラクリの眼鏡を覗いてゐる児童に過ぎなかつた。また、何の得も取れない詐欺師にも等しかつた。――まつたく彼は、こゝで厭な顔を現さずに凝つとしてゐることは、如上の形容でも足りぬ程、随分苦しかつたのである。
「なア、タキノや――」
「アツハツハツ――まつたくだなア。」
 いくら程あれば、以前の運送店を取り戻して、あんな働きのない夫などは頼まずに――云々といふ、彼女は、癖になつてゐる愚痴を滾して、夫を批難しはじめてゐた。――母から遠ざかれば、いくらか彼は救かつた。
「それツぽツちのこと、何とでもなるさ。」
 何となく彼は、吻ツとして、ほんとに、それツぽつちならといふ気で、何の成算もなく
「俺がやる/\。」などと、景気好く叫びながら、また呵々と笑つた。――讚同しないと、怖い気もしたのである。
 彼は、斯んな場合に限らず、一寸感情がもつれると、直ぐに己れの姿を見失ふ性質が、幼時からあつた。無神経な物体になつてしまふ病気を持つてゐる。
 斯んな嘘のやうな経験がいくつもあつた。――幼時、発狂してゐた叔父に手を引かれて(彼には、叔父が狂人といふことが好く解らない程の幼時だつた。家人にかくれて叔父が彼を伴れ出したのださうだ。)裏の山へ散歩に出かけた。父の直ぐの弟で、彼が父のやうに慕つてゐた叔父である。細いことは忘れてしまつたが、何でも叔父が、可成り高い崖の上から、下の畑に、俺も飛び降りないか? と誘つたのである。低いやうに見えたので、叔父に続いて、飛んで見ると、案外に高くつて、彼は、脚が地についた刹那は平気だつたが、一寸間をおいた後に率倒した。――二十二三才の頃、父と一処に、初めてミス・Fを訪れた時、父はFの父と用談をしてゐるので、快活なFは彼を、自分の部屋に誘つた。いくらFが、話しかけても彼は、アセるばかりで答へることが出来なかつた。彼女は、おぼつかない日本語を用ひるのであつたが。――彼は、彼女の薄着の下に躍動してゐる鹿のやうに明るい四肢を想像して、自分が彫刻家でないことを後悔した。
 彼が返答に困つてゐると、彼女は、彼の顔を仰山に覗いて、
「うちの鸚鵡よりも、アナタはおとなしい。」
 などと、皮肉でなしに云つた。彼は、赧くなつて立ちあがつた。――彼には、洋風の居室などが、大変珍らしかつたので、不躾けにあたりを見廻した。Fが、一寸部屋から出て行つた時彼は、隣りにも同じ部屋があるので、その方へ進んで行くと、突然、酷く堅くて、冷いものに、イヤといふ程頭を殴られた。――気附いて見ると、壁に塗り込まれてある大きな鏡だつた。傍き見をしながら、歩いて行つたのだらうが、余程酷くテレてゐたものらしい。今、思つても、その時鏡に写つてゐた筈の己れの姿は、どうしても思ひ浮ばない。その晩、家に帰つてから彼は、熱を出した。誰にも見られなかつたから、好かつたが――と呟いで、胸を撫で降ろしてゐる自分が一層堪らなかつた。
 彼のは、物思ひに耽つて眼前のものを忘れるといふ類ひのものでない。
「さうなれば、ほんとうに私は救かるんだがな。」
「救かるなんて! そんなことを云はなくつてもいゝよ/\。」と、彼は、無造作に点頭いて、周子の母を一層気嫌好くさせた。――ブランコに乗つて、半円に達する程の弧を描き、風を切る身に、足の裏から冷い風が滲み込んで来る快くもない勢ひで、五体が硝子管になつてゐるやうな面白さだつた。
 悪事を働いて、茶屋酒を飲んでゐる小人の心持は、斯んなものかも知れないぞ! ――彼はまたそんな風に概念的な馬鹿気た比喩に身を投じて、鈍重な明るさに浸つた。――だが、彼は、そつと左手をふところに忍ばせて、右手では飽くまでも磊落を装ふて、徐ろに酒盃を上げ下げしながら、秘めた手の平をぴつたりと胸に圧しあてゝ、微かな鼓動を窺つて見たりした。と、それは、次第に鋭く凝りかたまつて、そして、見る間に、いくつかの粒に砕けて、小さくさらさらと鳴りながら脆弱の淵に沈んで行くのであつた。
 この小さな、無神経な物体の音は……? と、彼は夢想した。渚の岩蔭に潜んで、波が来ると驚いて窓を閉ぢ、引けばまたこつそりと顔を現してあたりを眺めたり、産れて以来それを続けてゐるにも関はらず一向波に慣れない愚かな「ヤドカリ」が、稍大きな波にさらはれて、アツといふ間もなく岩間から転落して、眼を閉ぢて、ころころと水の底に沈んで行く心細さだつた。
「またやられてしまつたぞ、残念だな。あの岩まで這ひあげるには、また相当の日数がかゝるんだな。あゝ、厭だな……」と、怠惰なヤドカリは呟いだ。――「眼もあけられやアしない……うつかりすると、砂に埋つてしまふぞ。口も利けやしない、息苦しくつて……水の底なんて――。ウヽヽヽヽ。」
「酒々!」と、「ヤドカリ」は叫んだ。
「もう、よしたらどう?」
 周子は、さつきからの彼の困惑を悟つて、珍らしく夫に同情する程の気になつた。
「好いぢやアないかねえ、お酒位ひ……」と、彼女の母は、親切に酌などした。「私は、なんにもやかましいことなんて云やアしないしさア。」
 彼は、何とかして、饒舌な周子の母を黙らせてやりたかつた。
「Hermit-Crab ツて、何だか知つてゐる?」と彼は、突然周子に訊ねた。
「知らないわ。」
 知つてゐると、彼は思ひはしなかつた。自分だつてさつき彼は、Yadokari〔寄居虫〕n. the Hermit Crab と、和製英語見たいな言葉を和英字引で引いたのである。
「何さ?」
「いや、知らなければ好いんだがね――俺も、一寸忘れたんだよ、えゝと?」などと彼は、空々しく呟きながら物思ひに耽る表情を保つた。好いあんばいに彼女の母は、黙つてしまつた。そればかりでなく彼は、二三日前から切りにヤドカリの痴夢に耽つて来た阿呆らしさを、こんな風に喋舌ることで払つてしまひたかつた。若しこれを和語で云つたならば彼女等ですら、そのあまりに露はな意味あり気を悟つて苦笑するに違ひない、などと彼は、怖れたのである。――彼は、二階で、和英字引を引いたり、Hermit といふ名詞をワザと英文の字引で引いて、“one who retires from society and lives in solitude or in the desert.”などと口吟んだり、また「やどかり――蟹の類。古名、カミナ。今転ジテ、ガウナ。海岸に生ズ、大サ寸ニ足ラズ、頭ハ蝦ニ似テ、はさみハ蟹ニ似タリ、腹ハ少シ長クシテ、蜘蛛ノ如ク、脚ニ爪アリ、空ナル螺ノ殻ヲ借リテ其中ニ縮ミ入ル、海辺ノ人ハ其肉ヲ食フ。俗ニオバケ。」と、わが大槻文学博士が著書「言海」に述べてゐるところを開いて、面白さうに読んだりしたのである。
「どうしたのよ?」
「…………」
 斯んな時彼は、うつかりすると、盃を鼻に突きあてたり、襖を忘れて次の間に入らうとして、襖に頭を打たれたりするのであつた。
「阿父さんの一周忌は――」と、周子の母が云ひだした。またか! と、彼は舌を打つた。それは三月の初旬だから、未だ遠いのであるにも関はらず、彼女は、それに事寄せて彼の母を話材にしたがつた。
 彼は、周子の方に向つて、前の続きを喋舌らうと努めたが、何の材料もなし、自分達のことを話材にすれば直ぐに、その母が口を出すし、うつかり「煩いツ!」などと癇癪を起せば、それこそ如何どんな酷い目に遇ふか? 想つたゞけでも竦然とするし、
「うん/\、僕は、前の日にでもなつて行けば好いんだらう――どうせ。」などと受け流しながら、酷く焦々とした。――何でも好いから、何か別の話材に逃げなければ堪らない、と思案した。――(なぶり殺しにされてしまひさうだ。)
 彼の口調が、棄鉢な風で、そして不平さうに口を尖らせてゐるのを、彼女は、自分が煩さがられてゐることも気付かず、彼が遠方の自分の母に向つて反抗してゐるものと思ひ違へて――にやりとして、狐となつて彼を諫めたりするのであつた。
「何を云つてゐるのさア、お前は、よう! 前の日にでもなつてだなんて……フツフツフ、そんな呑気なことで如何なるものかね、ゑゝ! 当主なんだぜ、お前は、さア!」
「……御免だ。」
「そりやア、向ふぢや何もお前を無理に呼び寄せようとはしないだらうがさ、ヲダハラの阿母さんだつて……」
 ――どうしても阿母を罵しらせるつもりなんだな、この俺に……斯う俺が思ふのは、決して邪推ぢやない、邪推なもんか、この狐婆ア奴、どつこい、そんな手に乗つて堪るものか、チヨツ!
「あゝ、厭だア!」と、彼は、顔を顰めて溜息を衝いた。
「だが、可愛想になア、お前も。お前は、これで規丁面なたちなんだものねえ。」
 ――ばかされたやうな顔をして、あべこべにばかしてやらうかね、何の斯んな婆ア狐ぐらひ……阿母さんの悪口なんて云ふもんぢやないよ、なんて諫めたいんだな、心では快哉を叫びながら――などと彼は、敗ン気な邪推を回らせたが、何としてもばかし返す手段として、自分の母を選ぶわけには行かなかつた。と、云つて彼には、他の方法は一つも見出せなかつた。――全く彼は、この婆アさんに心まで見透され、操られ、打ちのめされてしまつたのである。いくら口惜しがつても無駄だつた。笑ふことも憤ることも出来ない穴の中に封じ込まれて行くばかりだつた。――彼は、口惜しさのあまりギユツと唇を噛んだ。
「そりやア、お前としては随分口惜しいだらうがね、お前は、仲々辛棒強いから口にこそ出さないが、私は、ほんとうに察するよ。お前の心を、さア。」
「鬼だ!」
「うん/\、我慢をし/\、私はもう……」
 ――憤慨の情を露はに出来たゞけでも彼は、いくらか救かつた。彼は、肚立しさのあまり滅茶滅茶に、この眼の前の「狐婆ア」に向つて、胸のうちで、思ひつく限りの野蛮な罵倒を叫んだ。――(畜生奴、鬼だ! と云つたのは手前のことを云つてやつたんだぞ、この鬼婆ア! 営養不良の化物婆ア……淫売宿の業慾婆ア! ぬすツとの尻おし! くたばつてしまへ! 夫婦共謀の大詐欺師! 烏の生れ損ひ! 食ひしん棒!)
 彼は、そんな風に、如何どんな下等の人間でも口にしさうもない幾つかの雑言を繰り反してゐるうちに、このうちの何れでも好いから、一つはつきり相手に悟れるやうに叫んで見たいな――などと思つてゐるうちに、ふと名案が浮んだやうに、ポンと膝を叩いた。
 彼は、横を向いて、
「Devil-Fish!」と、叫んだ。周子の母を罵つたのである。
「え?」と、周子は、一刻前からの続きで邪気なく問ひ返した。無智な彼女の母は、娘がさういふ話(English)に興味を持つてゐるらしいのを悦んで、
「お前達の話は、何だか私には解らない。」などと微笑みながら娘の顔を眺めてゐた。
「Devil-Fish! Devil-Fish!」
 彼は、ふざけるやうに叫んで、すつと胸のすく気がした。――(烏賊が墨を吐いて、敵の眼を眩ませるんだが、自分の墨で自分が眩まないやうに気をつけろよ。)――「ウーツ、怖ろしく酔つ払つて来たぞう。」
「お酒はね、酔ひさへすれば薬だよう、この頃お前は、随分気持よさゝうに酔ふぢやアないか。ヲダハラに帰つた時などゝ如何なのさ?」
「Devil-Fish ツてえのはね、お前知つてゐる?」
「さア!」と、周子は、考へるやうに首をまげたりした。
「どれ、ひとつ余興でも見せてやらうかな、……Devil-Fish ぢやア、困つてしまふな、いや、お前なんて、烏賊の泳ぐところを見たことがあるかね。」
 彼は、気嫌の好い酔つ払ひらしくそんなことを云つた。
「ないわ。」
 彼も、烏賊の泳ぐところなどは見たこともなかつたが、
「斯んな風な格構でね。」などと云ひながら、上体を傾けて、スイスイと頭を突きあげたり、ブルブルツと、幽霊のやうに手や脚を震はせたり、うねうねと体を伸縮させたりした。
 周子も、その母も、肚を抱えて笑つた。そして彼は、この運動の合間に、掛声のやうに見せかけて、鬱憤の洩し時は、こゝぞと云はんばかりに力を込めて、
「Devil-Fish!」と、叫んだ。
「アツハツハツハツハ。」
「デビル・フヰツシユツて、烏賊のことなの?」と、周子が訊ねた。彼女は、自分の母の前で彼が気嫌の好いのを悦んでゐた。
「……何しろデビル・フヰツシユぢや食へないんださうだ。」
 彼女は、彼がもう酔ひ過ぎてわけの解らぬことを云ひ初めた、と思つた。
 これは、嘗て彼が、父から説明を聞いた英語であつた。ある種の紅毛人は、章魚、烏賊、鮟鱇などの魚類を、俗に「悪魔の魚デビル・フヰツシユ」と称して、食膳にのぼすことを厭ふといふ話だつた。――彼は、周子の母を鮟鱇に例へ、己れを或る種の紅毛人になぞらへて見たりしたのであつた。
「うちの阿母は?」と、彼は、思はず呟いで、同じやうな不味まずさを覚えた。その時彼は、周子とその母の眼が、不気味に光つたのを感じてヒヤリとした。……(鮟鱇と烏賊の相違位ひのものかね、フ……)
 彼は、間の抜けた笑ひを浮べた。……(俺も、俺も……)
「ぢや、ひとつ今度は、章魚踊りをやつて見ようか。」
 周子の母が、何か云ひかけようとした時彼は、斯う云つて、厭々ながらひよろ/\と立ちあがつた。
「キヤツ、キヤツ、キヤツ――タキノは、仲々隅には置けない通人だよう。普段は、あんまり口数も利かないけれど、酔ふとまア何て面白い子だらう。」
 そんなことを云ひながら周子の母は、火鉢に凭りかゝつて、指先きで何か膳の上のものをつまんだり、チビチビと盃を舐めたりしてゐた。
「いくらか痩せてゐるだけで、やつぱり斯うやつて見ると、阿父さんにそつくりだわね、ねえ、お母さん。」
 周子は、母親に凭り添つて、母に甘へる笑ひを浮べながら彼を見あげてゐた。
 彼等は、夜毎、このアバラ屋で、彼様に花やかな長夜の宴を張るやうになつた。


 三月上旬、彼の父の一周忌の法事が、ヲダハラの彼の母の家で、さゝやかに営まれた。遅くも二日位ひ前には帰る筈だつた施主即ち彼は、当日の午頃になつて、のこのこと招かれた客のやうに気取つて、妻子を随へて戻つて来た。別段彼は、母に意地悪るをする為とか、不快を抱いてゐたからとか、そんなわけで遅れたわけではなかつた。わけもなく無精な日を送つてゐたばかりである。
 二三日前彼は、この日を忘れないやうに注意された母の手紙を貰つてゐた。それと一処に、高輪の彼が同居してゐる原田の主人に宛てゝ、差出し人が彼の名前で、ヲダハラから招待状が配達されてゐた。彼は、偶然それを原田の玄関で配達者から受け取つた時、母の手蹟で、れいれいと書かれてゐる書状の裏の自分の名前を見て、母に済まなく思つたり、いつかのやうに怪しく自分の存在を疑ふやうな妄想に走つたりした。――勿論、原田では誰も来なかつた。反つて、彼が出発する時には周子の母は、好く彼に意味の解らない厭味見たいなことを云つたりした位ひだつた。
 もう、少数の招ばれた客達は、大抵席に就いてゐた。彼は、父の居る時分吾家の種々な招待会を見たが、の点から見ても斯んなに貧しく佗しいのに接した験しはなかつた。彼は、次第に怖ろしい谷に滑り込んで行く自分の佗しい影を見る気がした。
 母が、彼の代りに末席に控へて、客のとりなしをしてゐた。――彼は、止むなく母に代つて座に就き、黙つて一つお辞儀した。
 彼が、小説「父の百ヶ日前後」のうちに書いた岡村の叔父もゐた。叔父は、彼の方に眼を向けないで隣席の客と書画の話をしてゐた。彼は、自分が小説に書いたといふことで、とんだところに自惚れみたいな心があつて、叔父に妙な親しみを感じたり、人知れず冷汗を浮べたり、「若し、今夜、百ヶ日の時みたいな騒動が持ちあがつたつて、今度こそは敗けないぞ。」などと、運動競技のスタートに立つた時のやうに胸を踊らせたりした。葉山老医も居た。日本画家の田村も居た。また彼が、二度目の苦しい小説「悪の同意語」で、岡村の叔父のやうに強い人に書いたり、周子が口惜し紛れに彼に向つて「お前の阿母は何だツ、間男、間男!」と叫んだ当の志村仙介も居た。「清親」と、彼は嘗て書いたが、それは彼が苦し紛れに岡村の叔父と志村との印象を、ごつちやにする為めにその一つの名前を併用してしまつたのである。叔父と志村との間に、もう一人「清親」と称ふ得体の知れぬ人間が「居ない」とは彼れは思へなかつた。彼は、小説でない場合でも自分のことを平気で「彼」と称び慣れてゐた、殊にそれらの小説を書いて以来、歪んだその狭い世界と自分の生活との区別もつかなくなつてゐた。彼は、往々他人に向つて自分のことを「彼奴」と吹聴する癖が出来てゐた。
「君は、さつきから彼奴/\ツて、酷く悪口を云ふが一体それは誰のことなんだい?」と、相手の者から迷惑さうに問ひ返されて、酔払ひの彼は、思はずハツとして言葉を濁らせることが屡々あつた。せめてそれより他に能が無いのである。その癖彼は、決して「彼奴」を客観視出来なかつた。出来る位ならば彼の小説だつて、多少は小説らしい巧さが出る筈だつた、縦令「彼奴」が、如何どんなに馬鹿であらうと、無智であらうと、法螺吹きであらうと、取得のない酔払ひであらうと、多くの愚と悪の同意語で形容すべき人間であらうとも――。彼は、小説家としてのあらゆる才能に欠けてゐた。無理に、己れに、肩書を要求される場合に出遇つたならば、彼は徹夜をして、何か、突飛な名称を考案しなければなるまい。「周子の母が、俺を厭がらせる道具か、あれと、これが!」
 そんな心持で、あまり出来のよくない木像でも見物する程の無責任な眼で、軽く志村の横顔を眺めたり、母を振り返つたりすると彼は、可笑しく心が平静になつた。
「どうも、何ですな、……今日の法事は大変貧弱で、恐縮で御座いますな、親父は、どうもお客をすることがあの通り好きだつたので、その、仲々、何で御坐いましたが、いや、その私も、大変好きなんですがね、どうも、斯う……」
 何かお世辞を云はなければならないと気附いて彼は、急にそんなことを喋舌り出したが、久しく使用しなかつた為か、改つた叮嚀な言葉使ひをすつかり忘れてゐて、直ぐに行き詰り、困つて、仕方がなく出来るだけ大人らしく構へて、
「ハツハツハ……」と、笑つた。
「何を云つてゐるんだね、お前は。失礼な。」
 と、傍から母がたしなめた。――「どうも、これは口不調法で。」
「何ですか、この頃は、務めの傍ら著述などに耽つてゐるさうですが。まア、何をやつてゐるか私も未だ見ないんで御坐いますが。でも、まア、そんな方に心が向けば、いくらか落つきも出て来るだらうと……」
 母が、安堵の微笑を湛へて葉山氏の問ひに答へてゐるのを聞いて彼は、一寸坐を退いた。
 その晩、帰るといふ志村を彼は無理に引き止めた。
「留守ばかりしてゐるんで、いろ/\厄介を掛けてゐるね。」
 彼は、盃をさしながら言つた。志村が、何となく自分に一目置いてゐるらしい様子が彼は、愉快だつた。夜になつてから清友亭のお園が来た。お園を見ると彼は、急に故郷に帰つたらしい懐しさを覚えて、そして、そこに居る父に不平でも訴へに行く、たつた二年も前の時日が、昨日のことのやうに蘇り、
「お園さんのところへ行かうか――どうも、デビル・フヰツシユばかりで面白くねえ。」と云つて、彼女を呆然とさせた。
 ……「迎へに行く振りをしてやつて来たのさ、今まで阿母を相手に飲んでゐたんだが堪らなくなつてしまつてさア。然し何だね、斯んな場合に僕が若し、所謂だね、善良な青年だつたら阿父さん、やり切れないでせう。」
 斯んなことを云つて彼は、父を参らせた。
「何アに俺ア、善良な青年の方が好いよ。親のだらしのないところに附け込むやうな奴に会つては敵はないからね、キタナラしい気がするぢやないか。」と、父も敗けずに笑つた。
「そんなことを云ふと、また詩を書くぜ。」
 もう時効に掛つてゐるので安心して彼は、そんなことを云つた。
「御免だア!」と、父は、大口を開けて叫んだ。
「怒つたね、あれぢや。」
「お前に面と向つて怒りはしなかつたらう、阿母に、だつたぜ。」
「どうして僕に、直接……」
「――止せ、止せ。……おい、お蝶、シンの奴がまた遊びに来たから、トン子ちやんでも呼んで騒がうぢやないか。」
「ひよつとすると今晩あたりは、また阿母がやつて来るかも知れないよ。」
「えツ!」
「さうしたらね、お蝶さん、僕は、急に態度を変へて阿父さんと喧嘩を始めるかも知れないからね、そのつもりでゐておくれ。」
 斯う云つて卑し気に口を歪めた時彼は、ふつと母が堪らなく慕しくなつた。そして彼は「まさかね、それほど僕も不良青年でもないさ。」と、静かに附け加へて、お蝶を白けさせたり、父の顔を曇らせたりした。……
「君は、この頃酒を止めたといふ話ぢやないか、それとも相変らずかね。」と、退屈さうに云つたのは志村だつた。
「酒位ひ何でえ! 止めようと、止めまいと、俺ア、そんなこと……」
「俺ア、酒の為に命をとられたつて平気なんだ。死んだあとで一人でも泣く奴があるかと思ふよりも、彼奴が死んで清々と好いと思はれた方が余ツ程面白いや。」
 よく父は、そんなことを云つた。
「僕ア、さうぢやないな。僕は、別段酒飲みぢやないが、若しもつと年をとつてから、酒を止めないと危いよ、と云はれゝば直ぐに止めますね。」と彼は、父の健康を慮つて云つたことがある。
「今ツから酒飲みのつもりになんてなられて堪るかよ。」
 ……「清々と好いや!」と、彼は叫んだ。
「お酒は慎んだ方が好いよ。」と、お園と話してゐた母が振り返つて云つた。
「鬚があるのか?」と、彼は志村を指差した。志村は、たゞ笑つてゐた。
「東京も面白くないし、また此方にでも舞ひ戻らうかな、だが戻つたところで――か。旅行は一辺もしたことはなし、だから未だ好きだか嫌ひだか解らないし……」
 そろ/\危くなつて来たぞ、と彼は気付いて、ふらふらと立ちあがり、父の位牌の前に進んで、帰つてから、二度目の線香をあげた。


 朔日ついたちと十五日と、毎月、夫々の日の朝には、彼の家では「蔭膳」と称する特別の膳部がひとつ、仰々しく床の間に向けて供へられた。そして、それが下げられてから、彼ひとりがその膳を前にして、しよんぼりと朝の食事を執らせられるのがその頃の定めであつた。――彼が、写真でしか見知らなかつた外国に居る父の「蔭膳」なのである。その冷たくなつた定り切つた貧しい料理を食ふのが、ひとつは妙に薄気味悪くて、往々彼は、厭だと云つて、祖父母や母に憤られた。
「頂くんだ。」
 祖父は、斯う云つて彼を叱つた。――写真で見る父などを彼は、それ程慕ひはしなかつた。――嘘のやうな気がしてゐた。
 彼は、ふと、今自分が盃を上げ下げしてゐる膳に気づいて、そんな思ひ出に走つた。定紋のついた、脚の高い、黒塗りの、四角な小さな膳だつた。
「斯んなお膳が、未だあつたの?」
 隅々の塗りの剥げてゐるところを触りながら何気なく彼は、母に訊ねた。
「どうしたんだか、それは残つてゐたんだよ――もう使へないね。」
「えゝ――。これ、蔭膳のお膳ぢやないの?」
 蔭膳といふのは、遠方へ行つてゐる吾家の同人の健康を祈る印なのだ――と、いふ意味の説明を彼は、新しく母から聞いた。
 いつかお蝶の家で父と飲み合つてゐた時彼は、その蔭膳を食はされるのが随分迷惑だつたといふ話を父にしたことがあつた。
「馬鹿ぢんぢいだなア!」
 父は、自分の父のことをそんな風に称んでセヽラ笑つた。
「どつちが馬鹿だか!」
 彼も、眼の前の自分の父のことをそんな風にセヽラ笑つた。――「ちやんとそれにはオミキが一本ついてゐたぜ。」
「貴様もやがて蔭膳でもあげられないやうに気をつけろよう……碌なもんぢやない。」
「何がさ?」
「あいつ等がさ……」
「あいつ等ツて誰れさ、おぢいさんのこと?」
「……フツ、つまらない。」
 ――母は、昔の話には興味を持つてゐた。彼は、今話を成るべく古い方へ持つて行くことに努めてゐた。前の晩彼は、危くなる心を鎮めて、百ヶ日の時のやうな不始末もなく済んだので、今、ホツとしてゐた。自分さへ心を鎮めてゐれば、今の吾家には何の風波もないわけか――さう思ふと彼は、こんな心を鎮める位ひのことは何でもない気がした。
 周子は、隣りの部屋で二郎や従妹達と子供のやうに話してゐた。――彼は、周子の心になつて、この母とこの悴が話してゐる光景を想像すると、他合もない気遅れを感じた。……(何しろ彼奴には、あんな事を知られてゐるんだからな、何んな気持で俺達を見てゐることやら?)さう思つても彼は、こゝで周子に何の憤懣も覚えなかつた。――母は、彼も周子も、母のそんな事は何も知らない気で、飽くまでも母らしい威厳を保つてゐるのだ。百ヶ日の頃には、父の突然の死を悲しむあまり彼が狂酒に耽つてゐたのだ、といふ風に母は思つてゐるのだ。
 彼は、周子を感ずると一層母と親しい口が利きたかつた。
 斯うやつて彼は、「蔭膳」を前にしてチビチビ飲んでゐると、いつの間にか自分の心は子供の頃と同じやうに白々しくなり、写真でしか見知らない若い父が、嘘のやうに頭に浮ぶばかりであつた。二十年程の父との共同生活は、短い夢のやうに消えてしまつた。
「阿父さんが早く帰つて来れば好い、なんて思ふことがあるかね。」
 時々、そんなことを聞かされると彼は、子供の癖に酷くテレて、
「どうだか知らないや。」と、叫んで逃げ出すのが常だつた。
「そんなものなんだらうな、子供なんて。」
 祖父は、さう云つて彼を可愛がつた。
 祖父が死んでから間もなく父が帰つて来たのだが彼は、少しも父になつかず、本心からそんなつもりでもないんだが、
「あんな人は知らないよ。」などと云つて、到々父を怒らせたといふ話だつた。
 今、彼は、それと同じ言葉を放つても、そんなに不自然でもない気がした。
「阿父さんが帰つて来るまでは、これは続けるんだよ。厭だ、なんて勿体ないことを云ふものぢやない。」と、祖父から命ぜられて、何時帰るか解らない者の為に何時までもこれを食はされるのぢや堪らない――などと彼は思ひながら、情けない気がしたのである。だが、その度毎に、ぼんやりと「無何有の境」に居る父の姿が、止り止めもなく静かに空想された。情けなく明るい幻であつた。
 ……さう、想はせることが「お蔭膳」の有り難味なんだ、といふ祖父の説明を聞いても彼は、さつぱり有り難くなかつた。ボソボソと、大豆の混つた飯を噛みながら、一層不気味に海の遥か彼方の街を余儀なく想像させられることは、頼りなく物悲しかつたが、一脈の甘さに浸つて、己れを忘れる術になつたには違ひなかつた。
「ぼんやりしてゐないで、早く頂くんだ。」
 想ひ描けない空想に、己れの身を煙りに化へてまでも、何らかの形を拵へようとする彼の想ひは、徒らに渺として、瀲※(「さんずい+艶」、第4水準2-79-53)と連り、古き言葉に摸して云ふならば、恰も寂滅無為の地に迷ひ込む思ひに他ならなかつた。
 彼は、盃を下に置いて、仰山に坐り直して眼を瞑つたりした。――(今の心は、まさしく幼時のそれと一歩の相違もないらしい。あの頃だつて、別段父の現実の姿を待つ程の心はなかつたぢやないか……おや、おや、また今日は、例の蔭膳の日か、お祖父さんとお祖母さんの姿が見へないやうだが、何処へ行つたのかな、畑の見廻りにでも行つたのかな、まア、好いや煩くなくつて、そのうちに早く飯を済せてしまはうや、だが相変らずのお膳で飽き/\したね、喰つた振りでもして置かうかな……ヘンリーが帰るなんてことは考へたこともない、写真で見たところ仲々活溌らしい格構だな、この間の写真で見ると、五六人の級友達と肩を組んだりしてゐるぢやないか、女も混つてゐるな、あちらではあんなに大きくなつても、あんな女の友達が学校にあるんだつてね、何だか羨しいな……阿父さんツて一体何なんだらう、俺にもあんな阿父さんとやらがあるのかね、手紙と玩具を送つて呉れる時は嬉しいが、面とぶつかつたら何だか変だらうな、やつぱり手紙のやうに優しい声を出すのだらうか、そんなものが阿父さんと云ふのか、何だかほんとゝは思へないや、それに阿父さんの癖に学校の生徒だなんて、何だかみつともないな……)
「もう、これからは務めをしくじらないようにしておくれよ。」と、母が云つた。
「……」――(お蔭膳のオミキか!)
「阿父さんが居る時分とは違ふんだからね。」
「……さう。」――(えゝと、俺は何処に務めてゐる筈になつてゐたんだつけ? 新聞社? 雑誌社? △△会社の無収入の重役? 学校? 学校だつたつけな、ハヽヽ、親父のことは笑へないや、俺だつてもう英一の親父だつたね、ハヽヽ。)
「ハヽヽ、どうも貧棒で弱つちやつたな。未だ当分お金は貰へますかね。」
「少し位いのことなら出来るだらうが、無駄費ひぢや困るよ。」
「どうして、どうして無駄どころか。」と、彼は、厭に快活に調子づいた。「研究ですからなア。」
「そんならまア仕方がないけれどさア。」
「それアもう僕だつて――」――(阿母の奴、奇妙にやさしいな、ハヽヽ、気の毒だな、こんな悪い悴で、だが、自分は如何だ、仕方のないやさしさなんだらう、フツ。嘘つき、罰かも知れないよ、こんな悴が居るのも。……一寸、一本おどかしてやらうかな。)――「だけど勉強なら何も東京にばかり居る必要もない気がするんで、当分吾家に帰らうかなんて、思つてもゐるんだが?」
「また!」と、母は眼を視張つた。
(どうだ、驚いたらう、――大丈夫だよ、お金さへ呉れゝば帰りアしないよ、面白くもない、……志村の泥棒!)――。
「また、と云つたつて、阿父さんが亡いと思へば、さう阿母さんにばかり心配かけては僕としても済まない気がするんですもの、ちつたア……」
「直ぐにお前は、嶮しい眼つきをするのが癖になつたね、お酒を飲むと、東京などで、外で遊んだりするのは、お止めよ、危いぜ。」
「えゝ。」と、彼は、辛うじて胸を撫でおろした。
「間違ひを起さないようにね、いくら困つたつて好いから卑しいことはしないやうにしてお呉れ。貧ハ士ノ常ナリといふ諺を教へてやつたことがあるだらう。」
「…………」
 彼は、点頭いた。もう彼は、悪い呟きごとは云へなかつた。自分が、卑しいことばかりしてゐるやうな不甲斐なさにガンと胸を打たれた。先のことを思へば、一層暗い穴に入つて行く心細さだつた。――「僕……大丈夫です、士、さうだ、士です、士です。」
 彼は、悲しいやうな、嬉しいやうな塊りが喉につかへて来る息苦しさを感じた。悲しさは、己れの愚かに卑しい行動である。母の言葉が、それを奇妙に嬉しく包んで呉れたのである。――(御免なさい、御免なさい、私のほんとうの阿母さん、たつた一人の阿母さん、阿母さんが何をしたつて私は、関ひま……せん、とは、未だ云へない、感傷は許して貰はう、不貞くされは胸に畳まう、だが、この神経的な不快感は、ぢやどうすれば好いんだ……えゝツ、面倒臭い、酔つてしまへ、酔つてしまへ、神経的も、感傷的も、卑しさも、そして士もへつたくれもあつたものぢやない、どうせ俺アぬすツとだア、アツハツハ……)
「ハヽヽヽ、士ですからね、私は。何時、官を退いてに帰るかも知れませんよ、ハヽヽヽ、帰る、帰る、帰る……例へば、ですよ。」
「それア、勿論、それ位ひの……」
「ハヽヽヽ、何と僕は見あげた心をもつてゐるでせう、ハヽヽ、願クバ骸骨ヲ乞ヒ卒伍ニ帰セン、でしたかね。」
「口ぢや何とでも云へるよ。」
 母は、彼の調子に乗せられて、笑ひながら、明るく叱つた。斯んな調子は、母は好きなのである。斯んな言葉は、彼が幼時母から授かつたのである。母は、その幼時その父から多くの漢文を講義されたさうである。――母は、彼が斯ういふ態度をすると、タキノ家に対して淡い勝利を感ずるのであつた。実際の彼は、そのやうな母の血を少しも享けてはゐなかつた。
 母は、その兄達と共にタキノ家の者、就中彼の父を「腰抜け」と呼んだことがあるが、そして彼の父を怒らせたのであるが、父以上のそれである彼は、その時内心父に味方しながらも怒つた父を可笑しく思つた。母の兄は、七十幾歳だつたかのその母(彼の祖母)に向つて、蔭で彼のことを、
「やつぱり、飲んだくれのH・タキノの子だからお話にはならない。」とか「あんな堕落書生に出入りされては迷怒だ。」とか「阿母がしつかりしてゐるから、若しかしたら彼奴だけはタキノ風にはなるまいと思つてゐたんだが、あれぢやHよりも仕末が悪い。私立大学で落第するとは、あきれた野郎だ。」とか、「その叔父は、大礼服を着た写真を親類中に配布して、常々、親類中に俺の話相手になる程の人間が一人も居ないと云つて嘆いたさうだ。」そんなことを云つて、その祖母は、長く彼と一緒に暮したことがあるので、どつちかと云へば孫のひいきで、
「それでも貴様は口惜しいとは思はないのか!」と、少しも口惜しがらない彼を、焦れツたがつた。彼の父なら、多少は口惜しがつて「俺は、フロツク・コートだつて着たことはない。あんなものは坊主が着るもんだ。」位ひのことを云ふだけ彼より増だつた。彼は、嘗て屡々この祖母の金を盗んで、故郷の村で遊蕩を試みたことがあつた。彼の父も、若い頃その父が大変頑迷だつたので屡々業を煮やして、この彼の祖母から金を借りて、秘かに村の茶屋で遊蕩に耽つたといふ話である。
 隣室に周子が居るので、彼と母の間ではいつものやうに原田の噂は出なかつた。彼は、少しはやつてやり度く思つた位ひだつた。
「僕は、たしかに阿母さんの影響を多く享けてゐる気がしますよ、この頃時々ひとりで考へて見るんだが。」
 彼は、そんなよそよそしいことを臆面もなく呟いで母におもねつた。……そして、また野蛮な憤懣は、言語とうらはらに悉く心の呟きに代へた。――(ひとりで思ふね。あんまり俺はタキノ風であることをさ。……帰るといふ素振りをすると、それとなく顔色を変へるから、がつかりするよ。――若し、こゝんところに志村の畜生が来やアがつたら、何とか文句をつけて、ぶん殴つてやるから見てゐるが好い。もう敗けるもんか。)
一度ひとたび、東京へ出ずれば、ですね――僕、さう、おめおめと帰つて来やしませんから安心して下さいよ。」
「お前は、仲々強くなつたから、私は安心してゐる。」
「さうとも/\。」――(フツフツフ、あべこべに煽てられてしまひさうだぞ。)
 それでも彼は、ばかに好い機嫌に酔つてしまつた。……「帰る時には――ですね、僕は、その、楯に乗つて帰りますよ。」
(だが、斯んな法螺を吹いて好いかしら、来月あたりは、もう高輪の家をほうり出されるかも知れないぞ、あゝ、怖しい/\、行きどころが無くなるなんて!)
「うん。」と、母は、点頭いた。彼は、益々調子づいて、
「楯に乗るといふことは、目出度い話なんですよ、その話を、阿母さんは知つてゐる、スパルタのさ。」
「好く知らない。」と、母は、一寸薄気味悪るさうに首を振つた。――彼は、簡単に、多少の出たら目を含めた古代スパルタの歴史を説明してから、
「即ち、生きて帰るな、花々しく戦場の露となれ、生きて帰れば、汝の母は泣くぞよ――といふわけなのさ――その、楯に乗りて云々といふ一言がですなア! ハヽヽ、どうです、偉いでせう、僕は――」などと、彼は、何の辻棲も合はぬ、夢にもないことをペラペラとまくしたてた。
「日本にだつて、そんな語はいくらもあるよ、そんなスパルタなんぞでなくつたつて。」
 母は、楠正行の母にでもなつた気で、他合もなく恍惚として――彼を、悲しませた。
 ともかく、この夜の彼等は、異様に朗らかな二人の母と子であつた。
(お蔭膳のオミキか!)と、また彼は、これが新しい口癖になつたかのやうに呟いだ。――たゞ、惨めなことには彼の心は、子供の頃のそれのやうに容易く「寂滅無為の地」に遊べなかつたのである。腕を挙げ、脚を蹴り、水を吹きして身を踊らせるのであつたが、たゞ見たところでは弱々しく邪魔にもなりさうもなく漂ふてゐる多くの水藻が、執拗に四肢にからまりついて、決して自由な運動が出来ないのである。岸から傍観してゐる人は、一体彼奴は、あんなところで何を愚図/\してゐるんだらう――と、訝かるに違ひあるまい――彼は、そんなに、山蔭の小さな水溜りで水浴びをしてゐる光景を想つたりした。
 ……(もう少し酔つて来ると危いぞ、どんな失敗をしないとも限らないぞ――。……折角のところで阿母と、飛んだ争ひをしてしまつては、何んにもならないからな……第一、東京へ帰つてからの暮しが出来なくなる……あつちには、あつちで、あの怖るべき周子の母が、裕福になつて帰るべき自分を、空腹を抱へて待つてゐるのだ。母だつて、自分が今まで斯うして、例の鬱屈とやらを――、ツマラナイ、馬鹿なことだが――卑怯に我慢してゐればこそ、此方に秘密を――ヘツ、かくさないでも好いのに、が、まアそれも好いさ――悟られまいとして、やさしくもする、気味の悪い手紙も寄す……凡て、自分が知らん顔をしてゐればこそである。これで若し自分が、いつか周子から浴せられたやうな雑言を、一寸でも洩したならば、もうお終ひだ。ぢや、どうとでも勝手にしたら好いだらう――と、斯う突ツ放されたら、俺には訴へどころがないんだ。親爺は、ゐないし――か! 周子の阿母にでも訴へるのか! そして俺は、どうする、みすみす阿母に棄てられて、どうなる、……阿母だつて、悲しいだらう、俺だつて、悲しからうさ、これでも。――阿母だけは、お前の世話にならないでも好いやうにして置く――と、常々アメリカ勘定の親父は、俺に云つて、アメリカ勘定嫌ひの俺の顔を顰めさせたが……成る程なア! 親父が死んだら、屹度俺が彼女に反抗心を起すだらうといふ懸念があつたんだな! 大丈夫だよ、ヘンリー阿父さん、あなたのお蔭で私は、金が無一物になつてしまつたんだから、うつかり阿母に反抗心なんて現はせやしないよ、ハヽヽ、うまくいつてゐやアがらア、ヘンリーさんの計画が、失敗に終らなかつたのは、これ位ひのものかね。だが、阿母の方だつて、もうそろそろ欠乏らしいぜ……でも、好いよ、――安心し給へ、ヘンリー……と、斯う彼に呼びかけたいものだな。あなたの何時かの言葉を一寸拝借して見る――「俺の真似をされては困るぜ、シン! 貴様には、阿母を責める資格はないんだよ。」
「そんなことは解つてゐるよ。」
「縦令、阿母にどんな落度があらうとも――だぜ。」
「変なことばかり云ふなア、阿父さんは。どうしたのよう。」
「お前が阿母に逆らへば、何と云つたつて俺ア阿母の味方だぜ、ハヽヽヽ。」
「ハヽヽヽ、羨しいや、お蝶が嫉妬やきもちをやきはしないの?」
「好い気なもんだなア、俺は、さア!」
「まつたくだね、――変な女! お蝶だよ、阿母さんぢやないよ。」
「馬鹿ア、そんなことはどうでも好いよ。自分は、どうでえ!」
「ハヽヽ、周子かね。」
「ハヽヽ、周子さんと、トン子さんかね。」
「ハヽヽ、困つたね。」
「英一は、いくつだ。」
「三つさ。」
「ぢや俺が、丁度貴様と別れて外国へ行つた年だな!」
「あゝ、僕も行きたい、僕も行きたい!」――(忘れやアしないよ、阿父さん、阿母は、屹度大切にしますよ、ハヽヽヽ――)
「阿母さん! 僕は、今までだつて別段贅沢をしたわけぢやないが、この先きだつて……、ホラ、よく岡村のおばアさんが云つたこと、あの……その、人間は――だね。」と、彼は、ゴクリと酒を飲んで「人間は、その――乞食と泥棒さへ……」と、云ひかけた時、胸が怪しく震へた。「……さへ、しなければ――さへ、しなければ、でしたかね? フヽヽヽ!」
「さうとも。」
「……さへ、しなければ、何の人に恥ずるところはない、ボロを纏はうとも、でしたな。」
「乞食と泥棒と、そして――」と、母は、一寸と気恥し気に笑つた。「親不孝と――」
「あゝ、さう、さうその三つでしたね。」
 それだけかな? などと思ひながら彼は、荒唐無稽の幼稚な例へ話を笑ふやうに、笑つたが、喉を落ちて行く酒の雫に、雨だれのやうに冷く胸を打たれた。……「味噌と醤油と米と、そして薪さへあれば――とも云つたね、岡村のおばアさんがさア?」
「戦争の時の話だらう。」と、一寸母は煩ささうに云つた。
「さうぢやないよ、普段でも、だよ。それだけあれば不自由はない――とかさ。」
「そんなことを知つてゐながらお前は、どうさ?」と、母は苦笑した。
「直ぐさう云つてしまつてはお終ひだよ。僕は、何もそんなおばアさんの言葉に感心して居るわけぢやあるまいし、寧ろ、軽――」と云ひかけて彼は、「蔑」を呑み込んだ。
「いゝよ。」と、母は益々煩ささうに享け流した。すると彼は、もつと、これに類する退窟な話を持ち出して母の欠伸を誘つてやりたくなつて、
「あの、マーク・アントニーといふローマの大将ですね、あの人は手に負へない贅沢な放蕩家だつたが、何かの行軍の時にですね、食糧が欠乏してバタバタと兵士が斃れた、ウン、その時、彼は、ですね、俺も腹が滅つたから、これを飲む! と叫んで、道傍の濁つた水を飲み、それも尽きた時には、馬の尿いばりを飲んで、そして無事に行軍を終へた。」
「まア、キタナラしい、そんな話は止めておくれよ。」と母は顔を顰めた。「お酒を飲みながら何のことさ――。武士は食はねど――の方がキレイで好い。」
 いつの間にか彼は、「正行の母」のやうに恍惚として、「アントニー」に想ひを馳せ、ひたすら痩躯矮小の身を嘆いた。
「ところで俺には、デビル・フィツシユさへ苦手か!」
「えゝ?」
「いや――その僕は、そんなに小さい時分には食べ物の好き嫌ひが多かつた?」
「生魚は、何にも喰べなかつたよ。だから今もつてそんなに痩せてゐるのさ。痩つぽちに限つて、口先きばかり大きなことを云ひ、心は針目度のやうだと云ふがね。」
 母方の者は、皆な肥つてゐた。
「ハツハツハ――。おい、皆な此方に来ないか。」と、彼は隣室の子供達を呼んだ。酔つて来るのが自分ながらはつきり解るので彼は、不安になり、子供達が居れば母に悪いことを云ふ筈がない、とこれで予防したつもりだつた。周子も二郎も入つて来た。
 それから彼は、どんな風に酔つ払つたか殆ど覚へてゐない。子供達に接して、一途に吻つとして、異様に朗らかになつた。翌日、一同の者の話とうろ覚えを総合して見ると、大体に気嫌の好い、愉快な、当り前の酔漢であつたらしい、殊に子供達から、絶大な賞讚を博されたことでも解る。――彼は、二つばかりうろ覚えのお伽噺をして聞かせた。その種が尽きると、星の話をした。これも少し熱心に追求されると直ぐに困つて、次にはお神楽の真似をした。軍歌や唱歌を吟じた。その辺までは母も、一処になつて気嫌が好かつたのであるが、だんだんに種が尽きると終ひに彼は「烏賊泳ぎ」や「章魚踊り」を演じて子供達を笑ひ過ごさせ、母の顔を曇らせた。「烏賊泳ぎ」は、さうでもなかつたが「章魚踊り」を母は、何か通俗な遊蕩的の余興と思つたらしかつた。その上彼は、
「そんなら今度は、狐に化されるところを演つて見よう。」などと云つて、膳の上を片づけ、それを両手でたてにさゝげ、
「狐に化されると、こんなものがほんとの鏡に見へるんだぜ、いゝかへ……」――「斯うやつて飲んでゐるこの酒が、実は馬の小便でさ。」
 彼は、片手で盃を干し「あゝ、うめえ、うめえ……コリヤ/\ツと。」――「俺が斯んなに女にもてたのは始めてだぞ。まさか夢ぢやアあるまいな。どれ/\、どんな顔をしてみるか一寸鏡を見てやらう。」
 そんなことを云ひながら彼は、気取つた顔をして凝ツと「鏡」を覗き込んだ。
「子供の前で、何です。」
 突然、母が叫んだ。
「いや、諸君。」と、彼は子供達に向つて云つた。「若し誰かゞ狐に化されたならば、だね。そいつの背中か頭を力一杯殴つてやると気がつくさうだよ、――う。」と云つて彼は、ポカリと自分の頭を殴り、急に夢から醒めてキヨロ/\とあたりを見廻す動作を巧みに演じた。
「冗談にも程がある、第一縁儀が悪いよ、塗物に顔を写すと気狂ひになるツ!」
 母は、ぶつ/\云ひながら彼の手からお膳を取りあげてしまつたさうである。それから彼は、この失敗を取り返して更に子供達を悦ばせる為に、クロール泳ぎの型や呼吸の仕方を説明したり、兵隊の真似をしたりして、到々過激な運動の結果ゲロを吐いて椽側にのめつてしまひ――「ウー、苦しい、ウー、苦しい、死にさうだよう!」と、腸を絞つて息も絶へ/\に唸つた。
「ゲロを吐く位ひならお酒なんて飲むな、この腰抜け奴!」――「まア、何といふだらしのない格構だらう、あきれたお調子者だ。」
 母は、そんなことを云つたが、もう何と罵られようが何のうけ答へもなく、たゞスースーと云つてゐるばかりな浅猿しい悴の姿を、悲し気に視守るより他はなかつた。
 それから一同の者が、彼の手足をとつて軽々と寝床に担ぎ込んだのである。


「あゝ、海が恋しい、海が恋しい。」
 彼は、毎日のやうにこんなことを呟きながら東京郊外の陋屋で碌々とその日その日を送つてゐた。医家に厳禁されたこと位ひは生来不摂生な彼であつたから別段に意ともしないのであるが、酒も今では殆んど飲めなくなつてゐた。――春、原田の家を逃げ出し、どうしても未だヲダハラの母の家へ帰る決心はつかずに、る二日前までは名前も知らなかつた此の郊外に偶然引き移つてから、もう夏になつてしまつた。――下谷から移る時にはあんなに好く働いた賢太郎も、高輪を引きあげる時には、奥でハーモニカを吹奏してゐるばかりなので彼が独りで荷拵へをしなければならなかつた。彼は、彼の所謂、何らかの「人間的な刺激」幼稚な俗臭を欲する幼稚な男であつたから、寧ろ同所に引き止まることを主張したのであるが(如何どうして引き上げなければならなかつたかの経緯は省略するが。)返つて周子が己の家を嫌ひ始めたことも、幾つかのうちの一つの理由であつた。
 この頃の彼は、蝉の空殻のやうであつた。酒も飲めず吾家の晩酌は倦々もした。街に出掛ける元気もなく、ヲダハラを想つても、原田のことを想つても、瞬間だけで悉く嘘のやうに消えてしまつた。たゞ、この一年半ばかりの間の……と、云ふ程のこともないのであるが、己れの痴態が、時々呆然と眺める眼の前の木々の間や、直ぐその先きには海でもありさうな白昼の白い路に、ヒヨロ/\と写るばかりであつた。昔、或る国に不思議な刑罰があつた、天井も床も四方の壁も凡て凸凹な鏡で張り詰めた小さな正立方体の部屋が重刑者を投ずる牢で、其処には昼夜の別なく怖ろしく明るい一つの灯火が点じてあつた。凸凹な鏡に歪んだ己れの姿が、鏡は鏡を反映して無数に映る。この牢に投ぜられたものは大概三日目には白痴になつてしまふのである――そんな即席のお伽噺を彼は、いつか子供に聞かせて、その先はまた出たら目に、こゝに投ぜられた一人の青年が如何してこの牢を破つたか? などといふことを、「破る」あたりから厭々ながら冒険小説風に話したりしたこともあつたが、その空想の牢獄を更に細かく構想したりすることもあつた。
 或る日彼は、あの昔の錆びて使用に堪へないピストルを懐ろにして「呑気な自殺者の気分」を味ふ為めに、秘かに林間を逍遥したが、毛程もそんな気分は味はへずに、テレて勝手に赧い顔をして直ぐに引き返した。――またアメリカのFに出す手紙の文案を二日も三日も考へて、断念したり、静岡のお蝶を訪れて大遊蕩を試みようなどと思ひ、秘かにその資金の画策を回らせたり、アメリカ行の夢に耽つたり、時には小説家を装つて、家人を退け、近所に間借りを求めて、物々しく机の前に端坐して、顔を顰めたり、した。
 前の森では、夜になると梟がポーポーと鳴いた。あまり英一が騒がしく暴れると、彼は、ありふれた親父らしく眼をむいて、
「ゴロスケにやつてしまふぞ。」などと、さう云つても一向平気な英一を悸したりした。彼の故郷では梟のことを俗にゴロスケと称び、魔法使ひの異名に用ひた。幼時彼も往々家人から、さう云つて悸されたが、
「ゴロスケとなら一所に住んでも好いよ。」と、云つて祖父を口惜しがらせた。
「ゴロスケつて何さ、田舎言葉は止めて下さいよう。」などと、周子は云つた。彼女は、もうそろそろとほとぼりが醒めて自家との往復を始めてゐた。時々賢太郎も、草花などを持つて訪れて来た。賢太郎は、相変らず吾家でごろ/\してゐるらしいが、外出の時は私立大学の制服などを着てゐた。
 また、或る日彼は、郷里の区裁判所からの書留郵便に接して、刑事に踏み込まれでもしたやうに胸を戦かされた。
 土地家屋競売の通知書だつた。彼の「海岸の家」は、高輪の原田の家の代りに抵当になつてゐて、高輪が残り、これが失はれたのである。
「俺の親父が斯んなことをする筈がない、チヨツ、チヨツ、……あゝ、もう海の傍にも住むことは出来ないのか。」
「何さ、自分の方で訴へて置いて……」
 周子は、洒々としてゐた。彼は、憤る張り合もなかつた。――間もなく、伝来の屋敷あとの土地や、少しばかり残つてゐた蜜柑山の競売通知書も配達された。
「あゝ、これは親父の土産か!」
 彼は、さう云つて苦笑を洩した。「ハヽヽヽ、面白くない話だなア。」
「うちのお父さんに頼みなさいよ、何とかなるわよ。」
「何とかすることは巧いだらうよ――ぢや、頼まうかね。」と、彼は、弱々しく呟いだ。
 母からも手紙が来た。彼女は、未だそんなことは知らないらしかつた。そして、彼の著述の催促などをして寄した。秋になつたら、御身の新居を訪れ傍々、芝居見物の為に上京したいからその節はよろしく案内を頼む――そんな文面もあつた。
「秋になつたら――か!」と、彼は繰り返して、母の来遊の日を変に楽しく待ち遠しがつたりした。
 また、当方を顧慮することなく、ひたすら勉学にいそしみ余暇あらば風流に心を向け給はれかし、とか、御身の為に蔭膳を供へ始めたり、尚また震後頓に涌水鈍りたる旧井戸を埋め、吉日を選び、新たにこの借地の泉水の傍に掘抜き井戸を造るべく井戸清に命じたれば、御身帰郷の節には前もつて通知あらば、新しき水に冷菓冷酒を貯へ置くべし――などと報じてあつた。
(十四・八)





底本:「牧野信一全集第二巻」筑摩書房
   2002(平成14)年3月24日初版第1刷
底本の親本:「中央公論 第四十巻第十号(秋季大附録号)」中央公論社
   1925(大正14)年9月1日発行
初出:「中央公論 第四十巻第十号(秋季大附録号)」中央公論社
   1925(大正14)年9月1日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2010年5月23日作成
2011年4月23日修正
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●表記について


●図書カード