珠玉の如き

牧野信一




 奥深い芸術の殿堂であつた。
 山門をくゞり、径道をのぼつて、堂のほとりに達すると、常緑樹の翠の香が煙りの如く漂ふてゐた。
 薄暗い廻廊を幾曲りして、(おゝこれは何といふ手のこんだ誤り易い、困難な、そして厄介な廊下であることよ。訪者は、ムカツ肚をたてゝ引き返すことがある、疳癪の舌打ちをして引き返すことがある、道に迷つて逃げ出すことがある……)漸く主の房に達すると、訪者は、三ツの光りが雨の日も風の日も、一抹の揺ぎもなく、静かに瞬いてゐるのを見た。――二ツの光りは、主人の眼光であつた。そして、一ツは主人のあらゆる努力をもつて、身をもつて、燭し続けられてゐる芸術の光である。……この殿堂の主は、人の世の多くの苦悩を、短き間に知り尽し、no Struggle, no Art! ――の厳たる珠光を示した。(ストラツグルのなきところにアートなし。)
 今や主人の眼光は消え去つたが、永遠に生けるが如く、彼の珠光は益々光の翼をのべて、不断にいつまでも輝き、多くの訪者になつかしまるゝであらう。――惜しくも、彼の稀なる九折の回廊も共に消え去せたが、吾等は、常緑樹の翠の香が煙りの如く漂ふうちに――何時、何処でゞも、居ながらに、直ちに彼の悉くの珠玉の光りに接し得らるゝ――。
 葛西善蔵全集・三巻で――。





底本:「牧野信一全集第三巻」筑摩書房
   2002(平成14)年5月20日初版第1刷
底本の親本:「新正統派 第一巻第八号(九月号)」新正統派社
   1928(昭和3)年9月1日発行
初出:「新正統派 第一巻第八号(九月号)」新正統派社
   1928(昭和3)年9月1日発行
※小特集「葛西善蔵氏の追憶」に発表された。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年8月1日作成
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