湖の夢

牧野信一





 友人である医学士のF君が、オースチンを購入したので、案内車を先に立てながら富士の五湖をまはつて来ようと、或る晩わたしの部屋を訪れた。神経科の専攻であるF君は、かねがねわたしの病状については深い留意を払ひ、年来にわたつて投薬をつゞけてゐて呉れる人であつた。ともかく文字のことは忘れるんだね、花をつくることをすゝめるよ――F君は切りとさう云つて、然し酒は寧ろ結構だと寛大であつた。だからわたしは、F君とだけはいつも平気で飲み、F君に救けられて帰る晩が多かつた。F君は、職業柄決して酩酊が適はぬと滾し、わたしの忽ちなる陶酔状態を羨ましがつたが、わたしにして見ると、容易に酔はぬといふ大酒家の方が豪傑めいてゐて頼もしく、羨望のかぎりであり、どうかして自分も紳士的なる酒の片鱗でも望みたいと思はぬことはなかつたが、いつもわたしは時と場所の差別もなく駄目であつた。
 わたしは、いつにも爽やかな游山とか、ドライヴとかのいとまもなく、胸のうちでばかり憧れる風景の香りにばかり酔つてゐるといふやうな折からだつたので、F君の誘ひは何よりも嬉しく、彼が未だ言葉も云ひ終らぬうちに、もはやほのぼのと眼を霞めて非常に賛成した。では今宵は、ゆつくりと眠つて、翌朝は五時の出発といふ約束でF君にわかれ、わたしは目醒時計を四時にかけて、うとうとゝすると、湖のすがたが浮びあがつたりして、直ぐに眼が醒めるのであつた。……竹籔の蔭の井戸傍に木蓮とコヾメ桜の老樹が枝を張り、野天風呂の火が、風呂番の娘の横顔を照してゐた。囲炉裏のまはりには湖で獲れる魚(あのころわたしは魚が嫌ひだつたので名前も覚えてはゐない。あれは本栖村であつたか? と考へてもわたしはちよつとはもう見当もつかないほどの古い記憶なのだが、不思議と娘の名前がるいといふのであつたのを思ひ出したりした。――あの頃といふのは凡そもう今から二十年も前の昔で、わたしは途方もなく叙情的な大学生であつた。医者であつたわたしの亡くなつた叔父が、頭を悪くして白糸の滝のある上井出村に静養の日をおくつてゐた。東海道線の富士駅から馬車で大宮町を指し、富士を右の空に見あげながら桑畑の間に鳴る鞭の音を聞いてゐれば土も踏まずに間もなく滝のある村に到着するのであつたが、わたしは御殿場駅に降りると、籠坂峠を越え、山中村に泊り、吉田町から湖へ達して、また農家に幾晩か泊り、西湖で舟を漕いだり、精進湖の森で※(「虫+夾」、第3水準1-91-54)蝶類や甲虫類を採集し、幾日か振りで漸く本栖村に到着すると、鍬形台五郎といふ庄家のところで十日もかかつて脚の怪我を待つたことがある。大ムラサキ蝶を追ひかけて、本栖峠の断崖から滑り落ちたのであつた。さうだ、漸く思ひ出したが、るいといふ娘は鍬形家の小間使ひであつた。小間使とは称ふが、殆ど家内の仕事ではなく、舟を漕いだり、馬車を御して大宮町へ莨の葉を運んだ。わたしは、竹竿を構えながら一本脚で飛ばなければならないほどの負傷だつたので、るいさんの煙草馬車に乗せて貰つて、上井出村へ向つたが、ともかくその時分は「五湖めぐり」などといふ言葉もなく、吉田町から先は馬車の便もなく、虫採り網と双眼鏡とコダツクとを携へ、袋を背負ふた蚊トンボのやうな青年が、ひとりで森へ踏み込んだりするところを見ると、村々の人達から余程の冒険家のやうに眼を視開かれたものだつた。


 るいさんは眼のぱつちりした痩形の娘で、わたしの顔を見ると、写真をうつして呉れとか、を描いて呉れとかとせがんだ。棒縞のモンペを穿いてゐたが、夜になると赤い帯をしめて魚を焼いた。男共が集つて囲炉裡のふちで酒を飲み、唄をうたふ声が二階で日記をつけてゐるわたしの耳に響いた。写真は何んなのを写してやつたか忘れたが、わたしは娘が汀の舟に凭りかかつて雲を眺めてゐる姿を写生したのを憶ひ出した。真つ直ぐ向くと笑ひ出して止め度がないと困つて、寄ん所なく彼女は空を見あげたのである。――夜更けにわたしが何うかして眼を醒ますと、いつの間にか酔つ払ひの声も絶え、消えかゝつた豆ランプがわたしの枕もとに燭つてゐて、わたしは夢かとおもふのであつたが、あまり毎晩つゞくので終ひには、わたしは苦笑と共に眼を醒すようになり、女の方のすゝり泣くやうな、わらふやうな声がるいだとおもふのであつたが、わたしにはとり逃がした蝶々の方がはるかに悩ましい夢であつた。隣室は蚕の道具などがしまつてある納屋のやうな部屋でランプも燭らなかつたのが、返つて湖畔のロメオとジユリエツトのさゝやきどころにふさわしかつたのであらう。然し、まだまだ出発は無理であらうと主人達に引き止められたにもかゝはらず、一本あしの竹竿で、脚のもげたバツタのやうに立ちあがつて、わたしが出発を決意した心の何処かには、「悲劇のさゝやき」に聞き飽きた堪らなさがひそんでゐたには違ひなかつたらう。今、考へて見ると、たしかあの家は旧時代の庄屋の家で、旅人に宿を貸すと聞いたのであつたが、階下では酒を売つてゐたのだつたようでもある。
 その人と間もなく結婚式を挙げるのだらうといふやうなことを、わたしが煙草馬車の上で訪ねると、るいは顔をあからめもせず、厭なことだとほき出した。わたしにはその時、その意味が忖度し難かつたが、あんなさゝやきなどはるいにとつては悲劇でも何でもなく、単なる遊戯であるらしかつたのだ。それにしてもわたしは、汀の舟に凭りかゝつて雲を見上げてゐるるいの画を想つて、どうしてもそんな逞しい原始的な遊戯に耽るものとは考へられもせぬ、思ひ出であるからといふわけではなしにるいは、わたしが半日歩いては三日泊り、一日すゝむと西湖の北までへも踏み込んで山峡ひの村に滞在するといふ風に、五六十哩もの道程を幾十日がゝりで歩きまはつた村々で、凡そ比ぶべくもない、可憐とも云ふべき爽かな娘であつた。
「おら、このあひだ、狼の糞を見たぞ。」
 るいは、わたしが上井出村へ赴いた後に健脚をとり戻したら、もう一度本栖山に引き返して大ムラサキを追ひかけるのだといふと、そんなことを云つて悸かし、鞭の先で湖の向方にそびえてゐる落葉樹の山をさした。最も臆病なわたしは、そんなことを聞くと思はずぞつとして、然し未練深く、大ムラサキの産する森を見返してゐた。あんな蝶々ツパ、とつて何うするでえ、売れるかな? とるいが馬鹿にするので、わたしはあれだつて買へば、一羽五、六十銭はするよと云ふと狼の糞ときいて、わたしが眼を丸くしたよりも長くまばたきもしないで、うへツ/\! とおどろいた。――当今、大ムラサキの市価は八十銭であるが、買ふんでは興味もなく、F君に誘はれるとわたしはあの櫟林を思ひ出し、車をとめてせめて二、三羽は採集しようと、折畳みの捕虫網も用意したのであつた。


 上井出村の叔父の寄宿先は、滝の音の聞える村長の家の離室はなれで、現在でも其処にはわたしが描いた「水際の娘」の油絵や※(「虫+夾」、第3水準1-91-54)蝶科の標本が、あのまゝ壁の飾りとなつてゐると叔母から聞いたことがあるのだ。叔父は村長の娘と結婚して沼津に病院を建てたが発狂の後に没くなり、未亡人は今滝の音をきゝながら伝書鳩を飼つてゐるなど、折々わたしに便りしてゐた。
 小田原を起点として、長尾峠、御殿場、山中、吉田、精進、西湖、本栖、白糸、大宮、沼津――と、所謂五湖めぐりのコースがひらけて、百数十哩を一日でドライヴする遊山が流行つてゐたが、あれらの道々のわたしの思ひ出は仲々に深々たるもので、たうとうF君達の二台の車が迎ひに来た朝ぼらけの五時まで眠れようともしなかつた。前の晩、稍亢奮して、ひといきに眠らうと飲み過した酒の酔が、二十年も前の思ひ出の風景を、たゞわけもなく眼のあたりに浮び出すかのやうにほろ/\と棚引いてゐるばかりで、いつかもう車は長尾峠に達し、ゴルフリンクの見晴しや誰々の別荘は何のあたりだなどゝ、わたしも名前だけは知つてゐる流行の人々のことなどが話されてゐたが、わたしはまるで章魚たこのやうに酔ひ痴れてゐるとも、眠つてゐるともつかぬ正体もない有様で、何も彼も有耶無耶であつた。たゞ折々、鶯の声を耳にすると、伴れの人達は車を止めて景色を眺めてゐるのだな――とわたしはおもふだけだつた。
 それでも午さがりになつて、本栖に着いた時にはいくらか眠り足りた後なので、湖畔の休み茶屋に這入ると、わたしは鍬形の家やるいのことなどを訊いて見たが一向あたりもつかなかつた。エハガキや土産物などを売る新しい家がならんでゐて、わたしにしても見当がつかなかつた。思ひ違ひで、あれは山中湖だつたのか知ら? ともわたしは長年一日酔えるが如き自分の頭を疑つたが、狼の糞のあつた山や煙草車を駆つた道は、たしかにそこに蕩漾たる春のまぼろしの長酔極みなき紗窗の彼方に浮んでゐるのだ。わたしは自分の思ひ出に関しては、その感慨癖を軽蔑する家妻などがゐたばかりでなしに、たしかにそれは厭味なことに相違ないと思ふので、始めから何も口にしなかつたのであるが、あまりわたしがいつまでも妙な眼つきをしてゐるので連れの人達はわたしが酒でも欲しがりはじめたのかと惧れ、沼津まで、沼津まで――とせきたてるのであつた。
 わたしのために一行は日程を変へて、上井出村に二、三日を費やすことになり、叔母の家に来て見ると、案の条わたしの描いた画は離室の欄間にかゝつてゐた。何年か振りで聞く滝の音を感ずると、わたしがあまり不思議な声を放つて詩をうたひ過ぎるといふので、F君は脈をとつたりしたが、どうも普段とは違つて聞き違へるほどの声でおもしろく、どうやら吾が地を離れて吻つとしたゝめか、君と同じやうに酔へて来たと、わたしに次々とうたばかりを所望するのであつた。ふたりは、何処かで静かに花が散つてゐるやうな朧月の田圃道を滝の音が聞えぬあたりまで、肩を組んで歩き出し、女房連にかくれて、春はあけぼのやうやう白くなりゆく頃ほひまでも飲めるであらう当もない遊里を目指して、見渡す限りの煙草の苗畑のふちを見えぬ蝶を追ひかけるかのやうであつた。落花踏ミ尽シテ何処ニカ遊ブなどゝわたしはうたつた。





底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
   2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「時事新報 第一八六六九号〜第一八六七一号」時事新報社
   1935(昭和10)年5月20日〜22日
初出:「時事新報 第一八六六九号〜第一八六七一号」時事新報社
   1935(昭和10)年5月20日〜22日
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年9月30日作成
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