山峡の凧

牧野信一





 百足むかで凧と称する奇怪なかたちの凧は、殆ど人に知られてゐないらしい。竜凧といふのは去年も日比谷で挙げられたが、それよりも稍かたちが小さく、凡そ構造は似てゐるが、それよりもはつきりと日本趣味のもので滑稽味に富んでゐた。風車仕掛の金色の眼玉と赤く長い舌と馬の尻尾の鬚を持ち、団扇型の胴片が左右に棕梠の毛を爪と擬した節足を四十余片つなぎ合せて、空に浮游するとまことに節足類のうごめくさまを髣髴させた。金紙の眼玉が爛々と陽に輝き、赤く長い舌がぺらぺらと微風に翻つた。
 いつか、凧に関する何かの文献を読んだ時、この凧は昔湘南地方の一部で挙げられ、現今では殆ど姿を没して居るとあり、尚その製作者は相州小田原町に唯一人生存してゐるさうだが名は解つて居らぬとあつた。わたしも、その唯一人といふ製作者の名は知らぬが、その地方では今でも極めて稀に冬の青空に見出すことがあり、わたしも現在その一体を所有してゐる。小田原の町から五六里北へ踏み込み、足柄山の麓にある矢倉沢村といふところの乙鳥音吉なる老人が、わたしの幼少の頃にもこれを作つてわたしに贈つたが、近年――と云つてももう六七年も前のことだが、急にわたしはそれを欲しくなつて、矢倉沢村を訪れたのである。乙鳥音吉はわたしの幼少の時にもチヨンまげをつけた相当の爺いさんに見えたが、いつか訪れた時もやはり同じやうな感じの頬のこけた鷲鼻の顎の長い爺いさんで、禿頭の後頭部に川蜻蛉のやうに小つぽけなチヨンまげを結んでゐた。たゞ昔と明らかに変るところは、完全な聾者になつてゐたことである。わたしは、その時も一ト月あまりも彼の屋敷に滞在して製作の助手をつとめ、その後も何故か冬になると、聾者の爺いさんと酒を酌む静けさが慕はれて、遥々と馬に乗つて訪れた。わたしはその家の一室に机を構えてゐた。
 静かな小春日がつゞいてゐた。音吉が百足の頭部を、そしてわたしが尾端を恭しくさゝげ霜柱を踏みながら、収穫とりいれの済んでゐる芋畑の丘に登つた。わたしは丘の頂上に凧をさゝへて立ち、音吉は坂のふちで糸をとつて、風を待つのであつた。どんな風を待つのか、一向わたしにはそれらしいものも感ぜられないうちに、稍暫く天を仰いで呼吸いきを見はからつてゐる音吉は、間もなくカケスのやうな叫びをあげて合図の腕を振つた。全く、わたしには風などは解らぬまゝながら、それと同時に、わたしは六尺ちかくも凧と一処に飛びあがつて手を離すのであつた。と音吉は、一歩でもその場を動くことなしに、素早く五六回も糸を腕一杯にたぐつたかと見ると、ムカデはもう松の木の上に胴体をうねらせ徐ろに丘の向方に落ちかゝるのであつた。あはやその尾端が地に接しようとすると、音吉はまた大きく腕一杯に糸をたぐり、再び凧が松の木の上に泳ぎ出すと、徐ろに糸を伸ばした。ほんの三四回それを繰返すうちに最早ムカデは完全に天空高く浮き出し、伸ばせば伸ばす程悠々と高く、海抜三千尺の矢倉岳の頂きよりも遥かに見える空に登つて、この眺めは一目万両とでも唸つてゐるかのやうであつた。凧糸は三升笊に一杯とぐろを巻き渋を引いた強靭の長さで、笊が空になるころには凧はもう実物のムカデのやうに小さく見えたが、それでも眼玉の光りや舌の面白さや鬚の立派さや、そして節足の一本一本までが絵彩ゑどつた如く物々しく仰がれた。


 ムカデ凧の上げ方は、余程の練達を要すると見え、従つて其処に興味も深い仕儀ではある。わたしは特に凧上げの技巧が不器用とも思はれなかつたが、ムカデ凧を上げるには何時も余程の苦心を余儀なくされた。音吉の手にかゝるとあんなに他易く上り付いたが、わたしが此度は音吉に代つて糸をとり、合図を待つて、音吉のやうにその場で糸をたぐらうとする態の巧者を真似ようとしても、凧は地を舐めて引きずられるばかりで、いつかな空へなどのしたこともなく、忽ち此方の両腕ばかりが櫂のやうにしびれるだけだつた。寄んどころなくわたしは跣足になつてものゝ一丁あまりもあらうといふ急坂を芋畑の上から下まで糸を引いたまゝ一散に駈け降りるのであつた。それで辛うじて松の木の上ぐらゐまで上つたかとおもふのも束の間で、息切れを休めるうちには、とうにもう凧は地に落ちかゝつてゐた。音吉は、墜落の為にそれが破損することを何よりも怕れ、両腕の上に落ちて来る凧をうけようとして、上を仰ぎながら踊るやうな恰好で待ちうけた。凧は彼の近くに達すると、恰で甘えかゝるやうにうねりながら、ぐつたりとその腕の中に身を任せた。
 音吉のコーチがあつてさへ、そんな態だつたから、もとよりわたしはあきらめて、上げるといふよりも、如何にもその組立がおもしろく、彩色の具合も華麗なので、壁か天井に飾つて置きたいのだ――などと負惜しみを云つた。伸すと八畳間の天井を隅から隅へ斜めに掛けても尾端は鴨居の下迄垂れさがつた。二条に岐れた長い銀色の尻尾であつた。そして例の舌と鬚をもつた怖ろしげなかしらが、恰度音吉とわたしが向き合つて酒などを酌み交す囲炉裡の真上に赤い口腔くちをあけてゐた。わたしは余念もなさゝうに折々それを見あげて飾りものを悦んでゐる風を装つてゐたが、やはり内心では、これが若し自分の手で他易くも思ひに任せて難なく上げられたならば何んなに愉快であらうか! と、音吉の力量を羨望する念が強かつた。
「やはり、これも練習かね?」
 とわたしは、音吉の聾の耳に口を寄せたり、その意味を手真似で示しながら訊ねた。
「お前さんは不器用の上に、気忙し過ぎるから、容易な辛棒ではなからう。」
 音吉は一向わたしに望みを持たぬ気であつた。
「ともかく――」
 とわたしは、然し望みを棄てたがらなかつた。「いくら不器用でも気永に落着きさへすれば、上げられるようにはなるだらう?」
 音吉は、
「いつのことやら……」
 と苦笑するだけだつた。
 彼は去年の春、老衰病で歿くなつた。八十八歳で、一生涯薬を服んだ験がなく、その時も医者の手にもかゝらなかつたさうである。彼の道具箱から、わたしはムカデ凧の図取りを見つけ出した。絵は仲々器用で、絵具の配合なども大胆に見えたが、文字は自分の名前も書けなかつたくらゐであつたから、の図取りにも説明がついてゐないのである。尤もわたしは屡々彼の助手をつとめたことがあるので大体の想像はつくが、到底風を切つて雲に泳ぐほどの凧を作る自信は毛頭も持てぬのである。小田原には、唯一人といふのではなく、未だ三人の人が残つてゐるさうである。直接にわたしは彼等を知らぬので、乙鳥音吉に比べて孰れが名手かも不明である。


 またわたしは凩の風が吹きそめる頃から矢倉沢の、天井にムカデ凧が掛つてゐる炉端に赴いた。試みに、たつた一度それを持ち出して裏山へ登つたが、手伝ひの子供連さへが愛想を尽して嗤ふばかりで、埒もなかつた。わたしは、さういふ才分に欠けてゐるとあきらめかゝつた。加けに疳癪を起して荒々しく地面を引きずつたので、あちこちと破損の個所が大きく、どうやら小田原へ運んで残存者の手でもわづらはさぬ限りは手の配しやうもない無残な凧と化してしまつた。
 わたしは、主にひとりで炉端の酒を酌みながら、天井の破れ凧を見あげた。わたしと乙鳥音吉とはどんなに夜更まで炉端に坐禅を組んだ後でも、朝ともなつて麗かな陽が紫色の山々を染め出してゐる日和を見定めると、とるものもとりあへず大ムカデを担いで裏山へ登つたものだ。憶ひ出の中では飴色の光りが輝き、青空にくつきりとそびえた山々の青肌に翼を拡げた鶴のやうなかたちの雪の痕が点々と望まれる和やかな冬の日ばかりが続いてゐるが、案外にもこのあたりの朝は、早朝から達磨型の矢倉岳を吹き降す烈風が麓の部落に渦を巻く日が多く、滅多に絶好の凧上げ日和などは見出せなかつた。それ故音吉もわたしも稀に左ういふ朝に出遇ふと胸を躍らせて自慢の凧を担ぎ出したわけなのである。かしらをさゝげた音吉が先に立ち、わたしは尻尾と凧糸の笊を抱へて、物をも云はず坂を登つた。音吉の腰には、酒を詰めた瓢箪が脚どりに伴れて揺れてゐた。矢倉岳の天辺よりも高く望める天空にムカデが静かに遊ぶのを眺めながら、凧糸の末端を杉の幹にしばつたまゝ、音吉は瓢箪をかたむけた。わたしは枯枝を焚き、その傍らで折々居眠りをしたが、何時眼を醒して見ても、音吉は放心的な眼を挙げて遥かの凧を視詰めてゐた。会話の為には最も誇張的な身振り手振りをしなければ意味の通じ難い相手であつたから、わたしは終日はなしかけぬ時の方が多かつた。
 この頃わたしは炉端にひとり坐つて、天井の凧を眺めてゐると、何うせ物言はぬ音吉の気合ひを感ずるやうである。破目を洩る風が冷く焚火の上をかすめた。わたしは丘の上の凧日和を夢見つゞけるばかりであつた。――時々晴れた朝に出遇ふと、わたしは裏山へ杖を曳いた。霜柱が深く遠方の山には雪の斑点を見た。上げ手の姿は見えないがウナリを取りつけたダルマ凪があがつてゐた。トンビ凪が二ツ三ツお辞儀をしながら川向ふの土堤どてに添つて舞ひ散つてゐた。見渡す限り電信柱も見えぬ高原地帯のために、凧上げは昔ながらの古風な方法で、角凧とデルマ凧は糸の中途に、ガンギリと杯ばれる刃物を付けて凄烈な切り合ひを演じた。低空のトンビや蝉凧や奴凧が、応援隊の如くに二体の勇者をとりまいてゐた。勿論、未だ方々の凧の出揃ふ時でもなく、子供の遊びに違ひなかつたが、それにしても刻々に凧の数は増してゐたものゝ、決してムカデ凧の現れることはなかつた。たしか、わたしの部屋のだけがたつた一つの凧ではなかつた筈だが、その日その日を期待しても何処の一隅からもあの物凄い目玉の凧はおよぎ出さなかつた。若しかするとこの村中であの凧のツリを掛け得る人物は乙鳥音吉独りだつたのか、それとも他の連中は悉くわたし同様に不器用の上に気忙しい不適任者で、徒らに空を眺めて嘆を久しうしてゐるのか、左ういふ連中と一夜囲炉裡を囲んで座談会を催し度いものだ――とわたしは呟いた。





底本:「牧野信一全集第六巻」筑摩書房
   2003(平成15)年5月10日初版第1刷
底本の親本:「都新聞 第一七二八六号〜第一七二八八号」都新聞社
   1935(昭和10)年12月26日〜28日
初出:「都新聞 第一七二八六号〜第一七二八八号」都新聞社
   1935(昭和10)年12月26日〜28日
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年9月30日作成
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