やぶ入の前夜

牧野信一




 バリカンが山の斜面を滑る橇のやうにスルスルと正吉の頭を撫でゝゆくと、針のやうな髪の毛はバラバラととび散つた。正吉は一秒一秒に拡がつてゆく綺麗な頭の地ををさへ切れぬ悦ばしい心で凝と鏡の中に瞶めて居た。正吉の心はたゞ嬉しさばかりに躍つてゐた。何日前から明日といふ日を待構えて居たことであらう。幾十遍同じやうな夢を見て暮して来たのだつたらう。愈々その夢がほんとに明日は実現されるんだもの……何時間かの後には輝かしい故郷に帰ることが出来るのだ。この頭を刈つてしまつて、夜が明けさへすれば五年目に会ふ懐しい家庭へ行くことが出来るのだ。父は何と云ふだらう、母は何と云つて迎へるだらう、たつた一人の妹はどんなに大きくなつたらう――尤もいつかの春、一家族の写真を送つてよこしたが、それは今更のことではないけれど、写真を撮るとなるとどうしてあんなにすましてしまふのだらう。まるでかうしなければ写すものではないといふ犯すべからざる規則でもある様に四角張つて、袴をはいたり紋付の羽織を着たりして看板のやうに固くなつてゐる。到底それが笑つたり泣いたりする動く人とは思はれない程すましたものだ。――写真を凝と眺めてゐると、それが親しみのある人物であればある程、正吉には名状し難い不思議な感情が涌いて来るのであつた。だから正吉は写真など貰ふと、却つてもう再び会ふことが出来ないやうな気がして、悲みの涌くことが多かつた。
「おや君の頭には傷があるんだね。どうしたのさ。」と床屋の若い者はバリカンを動かしてゐた手を止めて、鏡に写つた正吉の顔を見て云つた。
「えゝ――ちよつと……」と正吉はそれに答へようとしたが、何となく云憎さうに黙つて首を垂れてしまつた。若い者はそれ以上尋ねようともせず、又バリカンを動かし初めた。
 ――その写真を受取つた晩のことだつた。正吉は寝床にもぐつてからも長い間、袴をはいた父や紋付を着た母などの並んで写つた写真を見てゐたのだつた。
 ――ハツと思つて正吉は飛び起きた。と一所に正吉はゴツンと強く柱の角に頭をぶつつけた。で眼がさめた。夢を見たのだつた。

(正吉がどんな夢を見たのだつたか、私はわざとこゝに記しません。それは読者諸君の想像にお任せいたします。)

「正どん、どうしたんだい?」
 其の音を聞いて吃驚してとび起きたのは、直ぐ隣に寝てゐた正吉の一番仲の善い春どんだつた。
「正どん! 頭から血が出てゐるぜ……」
 春どんは正吉の肩を強くゆすぶつた。――その時初めて正吉は自分の顔をだら/\と流るゝ血潮と、今のが夢だつたのだ、といふことを明瞭に感じた。と正吉は急に胸が一ぱいになつた。ワツと声を挙げて泣出してしまつた。さうして春どんに抱着いた。……なか/\正吉の涙は止らなかつた。――どうすることも出来なくなつて春どんも一緒に泣いてしまつた。
 それでもどうにか春どんが深切しんせつに洗つて呉れたり、貝殻の白い薬をつけて呉れたりして、其の夜は誰にも覚られずに済んだ。窓の硝子戸には冬の寒さうな月が、春どんの心配さうに正吉を瞶めてゐる顔を照してゐた。

 それは正吉も春どんも奉公に出たばかりの淋しい頃のことだつた。

「来年のお正月には二人で揃つてくにへ帰らうね。」といふのは春どんが去年の冬から始終正吉に話すことだつた。手足のしびれる程寒い日でも、愉快に毎日を働き乍ら送ることが出来た。
 早咲の上野の一重桜がほころびて巷は花の噂でぽつりぽつり浮きたつて来た頃、春どんは腹膜炎といふ病気になつた。さうして正吉と同じ町の故郷へ帰らなければならなかつた。
 気の早い連中はもう瓢箪やらお面やらを持つて浮かれ出さうとしてゐるのを他所に見て、正吉は寂しく帰つてゆく春どんを新橋まで送つた。出来るだけ心を強くしてゐたつもりだつたが、「そんなら君、気を附けて……」「――君も気を附けて働いて……」と走り出した汽車について話を交した時には、たしかに涙が正吉の頬を流れてゐた。
 春どんの消息は、時々春どんの弟が代筆で、
「熱が時々高くなるので、兄さんは未だ少しも起られません。熱に浮されると兄さんは、正どん正どんとよく口走ります。」などとも書いてあつた。
 正吉は泣かずには居られなかつた。意気地がなくつてなくのではない。男の涙だ、と思ふと尚更涙は止らなかつた。しまひには、意気地なしであらうとなからうとかまつて居られなくなつて、蔵の蔭などで手紙の来る度に思ふさま泣くことが多かつた。
 日曜日の小遣を倹約して、それで雑誌やら書籍やらを買つて春どんのところへ送つてやるのが、正吉のたつた一つの楽みとなつてゐた。
「僕の病気はどうせ長びくに定つてゐる。然し僕の真心はいつも君の傍にあるのだから、そのことは忘れないでゐて呉れたまへ。だから君は僕の分も御主人のために尽して呉れたまへ。さうして正月が来たら輝かしい君の笑顔を見せて呉れたまへ。その二つより他に頼みはない。」と春どんが自分で書いた手紙に正吉は九月頃接した。正吉は一所懸命に働いた。春どんと話をしてゐるやうな気持で働いた。――朝晩の大川の霞が冷たさを増して来た頃、春どんからあべこべに時候見舞の手紙を貰つたりした。
 正月さへ来れば春どんにも家の者にも会ふことが出来るんだ、――正吉はそのことばかりを思つてゐた。
 秋の雨が二三日降続いたかと思ふと直ぐに冬は来た。寝る前にときどき吹くハーモニカのかねが唇に冷いと思つた頃は、もう年の暮になつてゐた。

「さあ洗ひませう。」と若い者は椅子を起した。正吉の胸はもう悦ばしさでブルブルと震へてゐた。
「正どん、明日はどこへ行くのさ。浅草かね。それとも家へ帰るんかね。」
「僕?」と正吉は浅草へ行くのかなどと自分にたづねる人が間抜けのやうに思はれて、
「浅草なんかに行くもんかえ。家さ。」と大きな声で云つた。
「大へんな元気だね。」
「あたりまへさ。」
 頭を洗ふのさへ正吉は待ち切れぬやうに急かれて来た。時間が余程おそいと見へて正吉が一番終の客だつた。床屋の小僧は火鉢に凭つて頻りに居眠をしてゐた。
「ぢや正どん、今日は一つウンとおまけに香水をかけてやらうね。」
「香水なんかかけないでもいゝよ。」
「さあ、出来た。」と云はれて正吉は、鏡の前に自分を見た。
 鏡の中の自分は、正吉を見て微笑むでゐた。赤味を帯びた両頬は輝しい光沢で艶々としてゐた。心に思つてゐる嬉しさがありの儘に顔に現れてゐるのを正吉は見た。――五体がかすかにふるへて居るのにも気が着いた。
「もう何時だらう。」
「正どん、余程慌てゝゐるね。ハハハ。すぐ頭の上に時計があるじやないか。」と若い者は笑ひながら指さした。
「一時か……」と正吉は思はず叫んだ。さうして又うたがふやうにもう一度見直した。
「この時計、合つてるかい。」
「ドンとピツタリさ。」
「ヤツ! もう今日だ今日だ。」と正吉は殆んど夢中になつて床屋を飛出した。
 刈りたての頭に冷い夜風がしみ込むのを心地よく思ひながら、勢ひよく一散に凍つた街を駆けてゐた。
 速く駆ければ駆ける程嬉しさがこみあげて来るので正吉は出来るだけ早く駆た。とほくの方で火の番の木の音がした。
「もう朝だ。夜番なんかいらないや。」と正吉はつぶやいた。





底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「少年 第一九七号(新年号)」時事新報社
   1919(大正8)年12月8日発行
初出:「少年 第一九七号(新年号)」時事新報社
   1919(大正8)年12月8日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年3月10日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について


●図書カード