辞書と新聞紙

牧野信一





 あるところに大層偉い王様がありました。お国は大へんよく治つて居りましたが、たつた一つ王様にとつて心配なことがありました。それは王様には王子様が一人も無いといふことなのです。王様は常々からこの事を非常に心配して居られました。
 ある時王様は国中にお布令ふれを出しました。そのお布令は、人民の中から王様の試験に合格した者を王子として選ぶといふのでした。
 このお布令が出るやいなや国中の少年達は、にはかに大勉強を始めました。街の本屋では学術書は忽ちに売切れとなりました。街の図書館は早朝から夜半よなかまで一分の隙もなく満員となりました。
 公園の鞦韆ブランコは寂しさうに垂れ下つて居りました。小川のボートでは蝶がゆつくりと安心して日向の夢に耽つて居りました。美しい春の野辺はかすむがまゝに霞がたな引いて、朗らかな空の下にもたれ一人遊んで居るものなどはありませんでした。


 一月の間で、ラテン語の字引を一語も洩らさず暗記してしまつた少年もありました。ギリシヤ語の由来、エジプトの象形文字の訓読などを悉く覚えてしまつた少年もありました。大概の少年はお父様から何十冊といふ字引を買つて貰ひました。ラテン語とギリシヤ語と数学と世界の地理と歴史とを知らない者は皆無といつてもよい程になりました。
 この街に一郎といふ少年がありました。一郎の家には余計なお金が一文もありませんでした。ですから一郎は一冊の字引を買ふことも、図書館へ行くことも出来ませんでした。一郎は学校へ上つたこともないのです。一郎は試験をうけにゆく気はありませんでした。行つたところで、エジプトの文明史さへ知らない自分は勿論恥をかくばかりだ、と思つて居りました。
 希望をもつてゐる者だけが出るといふのなら、一郎は無論行きはしませんでしたが、町の少年は残らずこの試験をうけなければならなかつたのです。一郎は随分困つて居りましたが――この場合、いろはの本だつて誰一人一郎に借すどころではありませんでしたから――何と云つても一郎は不断のとほりに朝になれば羊を伴れて牧場へ行くより他はありませんでした。
 試験はいよ/\明日に迫りました。一郎は朝早く起きて、羊を伴れて野の小径をポツ/\と歩いてゆきました。一郎は王子になりたいなどゝいふ考へは少しもありませんでしたから――一郎の心は空と同じやうに晴れ渡つて居りました。一郎は口笛を吹きながら羊を追つて面白く野原を駈け廻つて居りました。春の花草は絵のやうに咲き乱れて居りました。いつもなら大勢の子供達が遊むで居るのですが、この頃では、この広い野原が一郎ひとりのものになつてしまひました。一郎は心ゆくばかりに小鳥の心にもなつて高らかに歌をうたつたりしました。一郎は悉くのことを忘れてしまつて、たゞかうして春の麗かな野辺に坐つてゐる身を、無上に喜んで居りました。


「一郎さんじやないか。明日は試験だといふのにお前さんは何故勉強しないのだ。」と呼むだのは、いつも一郎を大変可愛がつて呉れるお隣りの詩人のおぢさんでした。
「ですけれど、僕は書物を一冊も持つてゐないのです。僕は及第しようなどとも思つてゐませんから呑気です。――でも、おぢさん何か教えて下さいな。」
「ハツヽヽヽ。」と詩人のおぢさんは笑ひました。「私に教えて呉れ、戯談じやないよ。かうして毎日空や花ばかり眺めて暮してゐる私がなんで学問などを知つてゐよう、街の子供は私の学校時分の先生より、もつと詳しくラテン語を知つてゐるよ。」
「さうですか。僕は又おぢさんは何でも知つてゐると思つてゐました。」
「おぢさんは、たゞ小鳥を眺めることだけを知つてゐるよハツヽヽヽ。」
 一郎は詩人のおぢさんに面白い歌を教はつて、おぢさんのギターに合せて野原を踊り廻つたりしました。一郎も詩人のおぢさんも余程うたひ疲れて野原へごろりと横になりました。その時一郎はおぢさんのポケツトに何か字の書いてある紙が入つてゐるのを見ましたので「おぢさんそのポケツトに入つてゐる紙はなんですか。」とたづねますと、
「あゝこれか。」とおぢさんは紙屑をポンと投げ棄てゝ「これは私が今朝パンを買つた時包むで呉れた新聞紙だよ。」と云ひました。
 一郎は何か読むで見たいやうな気がしてゐるところでしたから、「ちよいと、僕に見せて下さいな。」と云つてそれを拾つて読むで見ました。


 いよ/\試験の日となりました。少年達は毎晩も/\徹夜をしたので目が血走つて居りました。それでもまだ書物から眼を離すことが出来ないで歩きながらも読むで居りました。試験場のドアに突当つて吃驚りしたりしました。一郎だけは、せんすべもありませんでしたから、破れたポケツトに両手を突込むでポツネンと試験場へ入りました。いつもなら皆ながあざ笑ふのですが、皆な夢中で一郎の居ることなどには気附なかつたものですから、却つて一郎は気がのんびりいたしました。
 どんな六ヶ敷問題が出るかと一同は片唾をのむで待ち構えて居りました、シーザーがローマ遠征に出掛ける朝はブドー酒を何盃飲むだか、などゝいふ詳しいことを忘れまいと、そつと爪に「七盃半」といふ文字を書いて置いた子もありました。
 王様は先づ第一の問題を提出しました。
「昨日は何をして暮したか。」
 これが一の問題でした。皆なアツと云つて驚きました。大勢の少年は交る/″\答へましたがその答へは皆同じでした。
「私は朝三時から今此処へ来ます迄勉強ばかりしてゐました。」と。
 たゞひとり一郎は恐る/\、
「朝は朝から羊を駈つて牧場へゆき、詩人のおぢさんと歌をうたひました。」と答へました。
 第二の問題は、
「昨日街にはどんな事があつたか。」といふのでした。
 一同は顔を見合せました。何日間といふもの書物から眼を離したことのない少年達は、だれひとりとして、この容易な問題に答えることが出来ませんでした。
 暫くたつて一番後方に坐つてゐた一郎が立上つて、
「昨日の朝、王様の侍従様はお隣の国へお使ひにお出でになりました。それから朝の十時頃第六の通りで荷車が衝突して果物屋の硝子戸をこわしました。」と申し上げました。
「一郎を王子にする。」と王様はおごそかにおつしやいました。めでたしめでたし。





底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「少年 第二〇〇号(二百号記念号 四月号)」時事新報社
   1920(大正9)年3月8日発行
初出:「少年 第二〇〇号(二百号記念号 四月号)」時事新報社
   1920(大正9)年3月8日発行
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年3月29日作成
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