牧野信一





「今夜こそ書きませう。……えゝと何から先に書かうかしら? ……候文も古くさいし、言文一致ではだら/\するし……」
 光子さんは、紙をひろげてペンを執りましたが、何から先へ書いたらいゝか? と思ふと、迷はずには居られませんでした。一年程前に別れた春子さんに、今夜こそ手紙を書かなければならないと思つてゐるのです。それはもう、四日も五日も六日も前から始終光子さんの心を離れずにゐるのでした。考へてゐること、是非知らせなければならないこと、春子さんに別れて以来どんなに寂しい日を送つたか――書きたいことばかりが沢山あつて、どうしても筆が心に伴ひませんでした。
 思ひきつて書きはじめては見るのですが、一二枚書いて読み直して見ると書かれた「文字」は妙に冷い感じがします。心のまゝの懐かしさが、どうしても文字の上には見出されないやうに思へてなりません。と、云つて光子さんには、友の涙を誘ふやうな言葉は如何しても使へませんでした。わけもない悲しさや寂しさを訴へるやうな、とりとめもない文字――例へば詩のやうな、歌のやうな飾つた文字を使ふことは、妙に恥かしくて用ふる気になれませんでした。
 そのくせ、心は極めて涙もろくなつて居ります。月の美しい晩、ひとり窓辺まどぎはに凭りかゝつて月を眺めてゐると、遠くの空の下で、今宵春子さんはどんな思で、この月を眺めてゐるだらうか――そんな事を思ふと知らず知らずの間に涙がこぼれて来ます。けれどもそんな心は、誰だつて味ふことで、自分ばかりが取りたてゝそんなことを書くのは変に思はれるのでした。勿論こんなことは些細な事柄で、もつともつと、ほんとうに悲しいこと、寂しいこと――あゝ、それを何から書きはじめたらよからうか――と思ふと、光子さんは堪らなく心がジク/\するばかりでした。――光子さんは、深い溜息をついて、ペンを置きました。


「……あの頃のことを思ひ起すと、ほんとに夢のやうな気がします。私達は何といふ幸福なことだつたでせう。私は毎日いろんな楽しい「思ひ出」にばかり耽つてゐます。かうして、この「思ひ出」が続く限り、私は幸福でなければなりません。昨日私は、あの頃使つた英語の読本を、ふと取り出して開けて見ましたら、その頁の間にクローバの葉を見かけ出しました。それはもう枯葉色に凋んでゐました。いつかの春、光子さんが学校の花壇で探して、私に下すつたあのクローバでした。光子さん、もうお忘れになつたでせう。」
 此の間春子さんから来た、長い手紙の一節にそんな言葉のあつたことを、光子さんは思ひ出しました。
「何のしるしでしたつけ!」と春子さんは、その時微笑みながら光子さんに訊ねました。
「ひどいわ、春子さんは、御存知のくせに。」
「でも、教へてくれない?」
「いやよ。」と光子さんはわざと素知らぬ振りをしたりしました――いつまでもいつまでも姉妹のやうに仲よくしてゐる自分たち……クローバの四ツ葉――二人には、それはよく分つてゐましたが、二人ともたのしみを味ふやうな心持でわざとそんなことを云ひ合つたりしたのでした。
 春子さんがゐなくなつてからは、光子さんにはとても春子さん程の親しい友達は出来ませんでした。あの頃は二人ともテニスの選手だつたので、毎日のやうにラケツトを持つて、楽しく遊んだのでしたが、今ではもう光子さんは、テニスをするのも厭になつてしまひました。ラケツトを見ると、一層強く春子さんのことが思ひ出されるので、物置の隅に片附けてしまつて、一度も手にした事はありませんでした。
 光子さんの「思ひ出」も、それからそれへ果もなく拡まりました。光子さんは、手紙を書くことを忘れてしまつたもののやうに、ぼんやりと窓に凭れて、いろんなこと思ひ起して居りました。
「思ひ出」は、華やかで楽しくあればある程、うら寂しさを覚えるものです。思ひ出の帷のなかでは、悲しかつたことも苦しかつたことも、却つて懐しい味深く覚ゆるものです。あの時の幸福は、春子さんの云つたとほり、たしかに「思ひ出」のなかに秘められるものであります。
 夕御飯が済んでから、お母さんは、町まで買物へ行くから一緒に行かないかと、光子さんを誘ひましたが、光子さんは出掛ける気がしませんでした。
「どうしたの、珍らしいことぢやないの?」
 お母さんはさう云つて笑ひました。
「でも私、これから春子さんにお手紙を書かなければなりませんから。」
「お前は此の間からそんなことばかし云つてゐるね。どんなむづかしい手紙を書くんだか知らないけど――大へんなことだね。」
「えゝ大変よ、それやアむづかしいんですもの。」と光子さんはきまり悪さうに笑ひながら、それでもきつぱりとさう云ひ切りました。
 お母さんは、ひとりでつまらなさうにお出かけになりました。光子さんは、一寸気がとがめたやうな気おくれを覚へましたが、そんな心は振り切るやうにして、慌てゝ自分のお部屋へ駆け込みました。


 長い夏の日も暮れて、ポツチリと電灯の灯が瞬いてゐました。窓ぎはには涼しい風が静かに漂うて居りました。
 ツワイライト――(たそがれ)――光子さんは胸の中で、そつとそんな言葉を呟きました。さうして再び机の前に坐つて、そつとペンを執りました。
「春子さん、しばらくおたよりいたしませんでしたが、それには種々いろ/\理由わけがあるのです。」と光子さんは書き出しました。それから、その理由を書かうと思ふと、また心が迷ひはじめます。自分が今書かうと思つてゐることとは、何だか手紙を書かなかつた理由にはなりさうもない気がしました。それは全く余計なことで、書く必要がないやうな気が致しました。
 暫く考へて、光子さんは、その手紙の書きかけも止めました。――光子さんは、もうじつとして居られない程心がジリ/\して、一刻前と同じやうに立ちあがつて、縁端へ出るとグツタリと籐椅子に身を投げかけました。光子さんの眼は、夜露を湛へた露草のやうにうるんでゐました。
「今ね、帰りがけに丁度虫屋が通りかゝつたから、蛍を買つて来たよ。」と云ひながらお母さんは、青い蛍籠を手にして、光子さんの傍に来ました。光子さんは、黙つてうなづきました。お母さんは、蛍籠を軒先に釣して、「綺麗でせう……」と云ひ残して居間の方へ行つてしまひました。
 もう、あたりはすつかり暗くなつてゐました。光子さんの部屋からもれる、灯がぼんやりと、淡い光を漂はせてゐました。光子さんの心は、晴間の底にたゞずんでゐるかのやうに、少しも浮きたちませんでした。光子さんは、眼を閉ぢて、身じろぎもせず椅子に凭りかゝつて居りました。
 私の心は春子さんには解つてゐる筈だ……光子さんは今更のやうにさう呟きました。……だから春子さんと一緒になつて、悲しい手紙を書いてはならない。元気な心にならうそれは自分を慰めることで、同時に春子さんを慰めることになる元気の好い手紙を書かう。たとへ遠くに離れてゐても、心さへ解し合つて居れば、決して寂しくはない、その親しい友を思ひ出せば一層元気が甦つて、かうしてゐることに却つて力強い幸福を感ずる――光子さんはさう思ふと、今迄の沈んだ心が急に明るく/\輝きました。そして、さういふ意味のことを手紙に書かうと決心しました。「あしたからテニスをやろう。」そんなことも考へながら、「人の心といふものは、ちよつとした考へ方によつて、悲しくもなればよろこびにもなるものだ。」といふことを沁々味ひました。
 光子さんは、籐椅子の中で静かに眼を開きました。その視線の一端に、未だ光子さんの睫毛には涙が残つてゐたのでせう。――蛍の蒼白い光がキラキラと真珠のやうに美しく映ゑました。光子さんは、思はず微笑を洩しながら、うるんだ瞳を※(「目+爭」、第3水準1-88-85)みはつて凝とその光を瞶めました。
 隣の家からポツンポツンと、未熟なピアノの音が幻のやうに響いて来ました。「夕日はかくれて、道ははるけし……」とピアノは鳴りました。





底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「少女 第一一七号(菊月の巻 九月号)」時事新報社
   1922(大正11)年8月8日発行
初出:「少女 第一一七号(菊月の巻 九月号)」時事新報社
   1922(大正11)年8月8日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年3月29日作成
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