鞭撻

牧野信一




 私は台所の隅へ駈けこむと、ながしもとで飯の仕度を手伝つてゐる母の袂にとり縋つて――仙二郎と一処に行くのは嫌だ、と云つた。が大声で喚くわけにもゆかず、たゞ無暗に鼻をならして駄々をこねた。
「どういふわけで、そんなに嫌なの……変だね。」母にさう追求されても私は決してその理由は審かにしなかつた。
 どうあつても母は私に同意の色を示さないので私は不平の余り口惜し涙を滾すと、プツと頬ツぺたをふくらませて玄関へ来て了つた。さうして障子にとりついて、舌で障子の紙を舐めてゐた。
「お父ツちやん早く行くベエツたらよう、俺アもう飯なんぞ喰ひたかアねエだよう、こんなにぐづ/\してゐたら競馬はおしめエになつちまふづらアな。」
 次の茶の間で祖母と話してゐる父親にかぶり付いてしきりに仙二郎は強情をはつてゐた。仙二郎の声はキイ/\と高い調子で、カツと他の声を圧へつけて了ふ騒音だつた。
 何といふ憎い声だらう――私はさう思つて思はず顔を顰めた。
「今朝ツからどうもこれに酷い目に遇ひつゞけで……おまけに今日は馬車がおそろしく混んで、その中で始めから終ひまでこの通りで、もうさん/″\でござんした。」と云ひながら父親は「仙二郎、おとなしくしねエか。うちぢやねエんだぞ。」と叱つたが少しも父親の威厳はとほらず却つて仙二郎はワツと大声を挙げて父親の頭をポカ/\と殴つた。
「仙二郎は赤ン坊の時分から阿父ツさん子だつたから無理もないさ、この位のうちは誰も皆なおなじでね。」と祖母が云つた。私は強く自尊心を傷けられて独りでムツとした。
 そこ/\に飯を終ると仙二郎は玄関へ飛び降りてハダシ足袋をはいた。
「サア! 信ちやん行くベエ、お前エは服を着て行かねエのか?」
 仙二郎は柿色の水兵服を着てゐた。ズボンが長い為か、それとも身軽く装ふ為か、キユッとたくしあげて上着をその中におし入れた上から太い縮緬のさんじやくを締めてゐた。後から見ると臀の格好がはつきり解つた。
「僕は未だ飯を食べないから行かないよ。」と私は答へた。私は普段大概自分のことを「俺、俺」とよんでゐるにも係はらず「僕」と云つた。
「飯なんていゝやな。俺がまんじゆうやなんかを持つてゐるからあツちへ行つて一処に喰ふベエよ。」仙二郎はさう云ふと、大日本軍艦三笠といふ金文字が並んでゐる黒いリボンを巻いた水兵帽を無造作に頭へのせた。
 祖母と母はたゞならぬ気色で私を叱つた。私は自分の肚を見透されたのぢやないかしらと思つて酷く怖れた。で私は仕方がなく着物を着換へさせられて了つた。私は明らさまに怒ることも出来なかつたもので、こんな帽子ぢや嫌だとか草履が汚いから他所行の雪駄を出して呉れ、などと云つて、その通りにさせた。
「信ちやん何処へ行くんだい、競馬へ行くのか。」往来で友達が声を掛けても、私は素知らぬ振りをしてスタ/\と歩いてゐた。
「うん、さうだよ、お前エ達も伴れてツてやるベエか。」仙二郎はそんなことを云ひながら、肩をそびやかせて真先へ歩いてゐた。うしろに垂れさがつてゐるリボンがヒラ/\と暖い風に翻つた。
「信太郎さん、お前さん腹でも痛いんぢやねエのか。痛かつたら私が薬を持つてゐるからやるぜ。」競馬場の桟敷に陣取つてから仙二郎の父親がさう云つて私の顔を覗きこんだ。私はホロリと涙を滾した。――何といふ自分は見下げ果てた心の持主だらう、と先刻から密かに苛責の念に苛まれてゐた心が頼りなく流れ滾れたのだつた。立身出世をする人物は子供の時分から粗衣粗食に甘んじて常に楽しく励む者である、といふ風なことをいつも祖母から教へられてゐた。そんなことも思ひ出されて暗い気持になつた。
「これを呑んで見な。これは腹痛みばかりでなく気分の悪い時には何でも利くんだから。」
「呑みなツたらよ、すぐ治るよ、苦くも何ともありアしねエだよ、信ちやん。サア呑みなツたらよ。お父ツちやん俺が出してやるベエよ。」仙二郎は直ぐに此方に気付いて父親の手から信玄袋を奪ひ取ると、苦茶々々な紙をひろげて赤い丸薬を三粒ばかり撮み出した。私は、そつと隣りの桟敷の方を窺つた。――さうして黙つてそれを受けとると、眼をつむつて冷い茶で一息にグツと呑みくだした。
「おなかが少し痛いんだ。」と云つて、私は仙二郎の父親の膝に打伏した。
「赤! 赤! 赤! しつかり/\。」仙二郎は突然さう叫んで躍りあがつた。「お父ツちやん甚太郎さんのあかがやつぱり一番速いや。」

「競馬をやるベエか。」帰りの坂道のところで仙二郎が私にさう云ひ掛けた。余り人通りもなかつたので私は、
「やらうか!」と答へた。
「どつちが速いだらうな、やつて見な。」と仙二郎の父親が云つた。
 一二ツ三! と仙二郎の父親が云ふがいなや二人はまつしぐらに駈け出した。足袋跣の仙二郎には私はとても敵はなかつた。忽ち私は五六間も追ひ抜かれて了つた。仙二郎は、馬の鬣をしごくやうに左の手を前に出して切りに動かし、右の手では鞭を打つやうに「ハツシ! ハツシ」と云ひながら臀を叩いて駈けてゐた。私もそれを真似して懸命に駈けた。
 私は手の平にウンと力をこめると、その痛さが全身に響き渡る程強くピシリ/\と臀を引ツぱたいた。――悪い心を叱り飛すのだ……さう云つたやうな小気味好さが犇々と胸に迫つた。
(十一年四月十三日)





底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「父を売る子」新潮社
   1924(大正13)年8月6日発行
初出:「象徴 第四巻第九月号」象徴社
   1922(大正11)年9月1日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年3月29日作成
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