眼醒時計の憤慨

牧野信一





 あしたはきつと五時に起きよう――と、また美智子さんは、堅く決心しました。あしたこそ大丈夫だ――と、更に美智子さんは、自分の胸に念をおしました。そして今年の春、叔父さんから貰つた大形の眼醒時計を書棚の上から取りおろして、ぴつたり朝の五時にベルをかけました。この時計は、ベヒーベンとか云ふ米国製の時計で、暗闇のなかでも指針はりと文字が青白い光を放つて、はつきりと読めます。
 美智子さんは時計を枕もとに据えて、なるべく耳をそばだてるやうなつもりで寝床へ入りました。間もなくお母さんがきて、
「お前は毎晩毎晩時計の用意ばかりしてゐるくせに、未だ一度も五時に起きられたことがないのね。」と、笑ひながら云ひました。
「あしたこそは大丈夫です。」美智子さんはさつき自分の胸に誓つた通り力をこめて答へました。
「お前の大丈夫は当にならない。」と、お母さんは云ひました。美智子さんは顔をかくして、唇を噛みました。(さう思つていらつしやい。もう何も云はない。)
 お母さんが電灯を消して出て行つてから、直ぐに美智子さんは眠つてしまひました。
「おやツ!」と、美智子さんは思ひました。見ると窓の障子にカンカンと朝日がさしてゐます。(おやおや、もう朝かしら、随分早いなア!)美智子さんは、ばかにあつけない気がしました。美智子さんは、宵に眠つてからこれまで、勿論一度も眼は醒さなかつたし、何の夢さへ見ませんでした。だから夜の明けるのが、あんまり早かつたやうな気がしてなりませんでした。(それにしても、五時に鳴る筈だつた眼醒時計はどうしたんだらう。それともまだ五時前なのかしら? でも陽の光り具合が強すぎるやうだ。それとも自分は時計のかけ方を間違へてゐたのかしら? ベルが壊れでもしたのかしら?)美智子さんは斯う思ひましたので、直ぐに起きあがつて、時計を手にして見ました。――もう六時を過ぎてゐました。(あゝ、またやり損つてしまつた!)と思つて嘆息しました。
 ベルの鍵を験べて見ると、それはすつかりまきが切れてゐます。(して見るとベルはちやんと鳴つたのだ。どうしてそれに気づかなかつたのだらう。)と、美智子さんは思ひました。
 どうして――とは可笑しい! 自分がグウグウと眠つてゐたのを忘れて、そんな風に考へるとは、それはどうも少し可笑しいぢやありませんか! ねエ、読者の皆さん!
 そこへお母さんが、また笑ひながら入つてきて、
「また今日も駄目だつたのね。昨夜あんなに威張つてゐたくせに。それにしても、さつき時計があんなに喧しく鳴つたのも知らないで眠つてゐるとは、ほんとうにあきれたお寝坊さんだ。」と云ひました。
 美智子さんは口惜しくて堪りませんでしたが、何と返す言葉もありません。たゞ顔を赤くして苦笑ひするより外どうしようもありませんでした。だが余り口惜しい……美智子さんは胸のなかで、(あしたこそは大丈夫だ。)と思はず叫びました。


 学校の帰りに美智子さんはお友達と、夕暮近くまでテニスの練習をしました。そして大変疲労くたびれて家に帰りました。宵のうちに、ちよつとお復習さらひをして(またあしたの朝お母さんに、笑はれては口惜しい)と、思ひましたから、直ぐに時計の仕度をして寝床に入りました。入ると同時にぐつすりと眠りました。
 綿のやうな雪がちらちらと降つてゐます。夏だのにおかしい! 夏でも雪が降るのかしら? その雪は少しも冷くありません。頬に降りかゝる雪は小鳥の胸毛のやうに暖かい……。
雪やこんこん、雪やこんこん!
もつと降れ、もつと降れ!
 美智子さんは潮風に吹かれるやうな快さを覚えて、切りに斯う呟きました。ふつと、気がつくと、それは夢でした。同時に美智子さんの胸は、突然けたゝましく鳴りました。胸が鳴つた! と思つたのは大間違ひで、それは眼醒時計が鳴りだしたのでした。それが鋭く美智子さんの胸を打つたのです。(あゝ眠い/\/\/\!)眼を開けた瞬間美智子さんの心をすつかり占領したものは、たゞそれだけの言葉でした。美智子さんは夢中になつて、何の分別もなく眼醒時計に武者振りついて、慌てゝベルを止めました。止めると同時に美智子さんは再び雪の夢を見続けました。
 これで、この朝も失敗でした。
「一度起きあがつて、時計を止めて、また眠つてしまふなんて……」と、前の朝より以上お母さんから笑はれました。


 その晩こそは美智子さんは、堅く決心しました。その決心は、たしかに前よりも堅い決心でした。美智子さんは、時計の用意をして体中に一杯力を込めて、唇を噛んで寝床に入りました。(若し夢が襲ふたら、夢を叱り飛してやる! 夢なんかに欺されては大変だ。)美智子さんは斯んなことも考へました。が好いあんばいに夢にも出遇はず、すやすやと美智子さんは眠つて行きました。静かに夜は更けて行きました。(さア大変だまた夢を見てしまつた。)美智子さんは驚き立ちあがると、いきなり机の傍にあつたラケツトを取つて夢中になつて外へ飛び出しました。(それが夢だつたのです。)夢の中で、叫んだのでした。
 美智子さんは、白い一筋の道をどんどんと駆けてゐました。そのうちに広い運動場のやうなところに行き着きました。見ると其処は群集をもつて埋つてゐます。余り大勢の人がゐる為に、始めそれは人ではないのかと思つたのです。群集は口々に切りに何か呼んでゐます。そのうちから斯んな声が聞えました。
「やア寝坊の美智子が今頃やつて来た!」
「美智子の寐坊顔! 泣いてゐるよ!」
「今頃来たつて入れてやるものか。」
「早く戸を閉めてしまへ/\。」
 見る間に真黒いが閉りました。
「開けて下さい/\。」
 美智子さんは夢中になつて扉を叩きました。扉の向ふでは、ワツと云ふ喜の声が上りました。
「面白い/\。」
「いよ/\始まり/\」
 そんな声がします。美智子さんは一所懸命に扉を叩きました。泣きながら叩きました。もう腕が痛んで動かなくなりました。思はず大声をあげて泣き出さうとした時、ハツと気づきました。
「さア大変だ。ほんとに夢を見てしまつた。」と、今度はたしかに眼を開いて、美智子さんは呟きました。
 部屋の中はまだ真暗です。わづかに雨戸の隙が仄白く煙つてゐました。「まだ早いんだな。」と、美智子さんは思ひました。もう半分眠りかけました。(それにしても今は一体何時頃なんだらう、もう一眠りしたいものだ。)と思つて枕元の時計の方へ眼を向けました。
 無論五時前です。夜光時計の文字と針が、暗いなかに気味悪い光を放つてゐました。美智子さんの眼は眠りたがるばかりで、時計の針を見定めることも出来ず、ぼんやりと眼を視張ると、二つの針が軍人の鬚のやうに威張つてゐます。
「おい美智子! また今朝も俺の云ふことをきかないつもりか。愚図/\してゐるとこれから俺が呶鳴り出すぞ!」
 時計は憤慨のあまり、さう呟いてコチコチ/\/\美智子さんを屹と睨みつけてゐました。(これも夢かな!)と美智子さんは思つて見ましたが、たしかに夢ではありません。美智子さんは急に怖ろしくなつて、慌てゝ飛び起ると夢中で雨戸を一枚開けました。朝の光がパツと部屋のなかへ流れ込みました。それで美智子さんは始めて夢から醒めました。
 美智子さんがすつかり朝の仕度をしてしまつた頃に、お部屋の方から朗らかな時計のベルが歌でも歌ふやうに鳴り出しました。「今頃鳴つてゐる……」と美智子さんは止めに行きました。
「明日から、きつと時計なんか無くても早起きしますよ。時計なんて反つて邪魔ですわ。」と、美智子さんはお母さんへ向つて誇り気な自信を示しました。





底本:「牧野信一全集第一巻」筑摩書房
   2002(平成14)年8月20日初版第1刷
底本の親本:「少女 第一二九号(ひぐらしの巻 九月号)」時事新報社
   1923(大正12)年8月8日発行
初出:「少女 第一二九号(ひぐらしの巻 九月号)」時事新報社
   1923(大正12)年8月8日発行
入力:宮元淳一
校正:門田裕志
2011年5月6日作成
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