俺には名前がない、但し人間が付けてくれたのは有るが、其れを云ふのは暫く差控へて置かう。
だが、何も恥かしいので云はぬと云ふわけでは毛頭ない。云ひにくいから云はないのだ。外になんにも理窟はない、冬になれば雪が降る、夜になれば暗くなる、腹が減つたら食ふのだ、一体、理窟と云ふ物も、あとから無理に拵へてクツ付けるので、なす事、する事、始めから一一理窟で割り出して来る物ではない。
余計な事は抜きとして、処で、俺は今年で丁度三つになつた。とは、人間なみに云つて見たので、俺の世界には歳も何も有つた物ではない。元日が大晦日だらうが、大晦日が元日ならうが、とんと、感じの無い方だ。
次は、俺の棲つてゐる処だが、御江戸日本橋のマン中と云ひたくても、実の処、其の隅ツ子の端ツコの、八百八町の埃や塵が抜け出す穴見たいな処だ。其の証拠には、俺が居る家の門の前を、毎朝、毎晩、雨が降つても雪が降つても、乃至、太陽に黒点が表はれやうとも、不相変のゴロ/\/\/\、百五十万人の糞を車に積んで、板橋とやら云ふ方へ引つぱつて行くのでもわかる。嘘だと思ふなら試に来て見給へ。で、この辺一体の地名は、慥か、向が岡、又、弥生が岡、一名向陵、乃至は武陵原頭なんかと、洒落れて云ふ人もある。其処に六軒、カラ/\した家が並んで立つてゐる。尤も、俺が始めて此処に来た時分は五軒しかなかつた。自治寮と云ふのが家の名ださうだ。自治の城とも云ふ人間もある様だが、其実、城処の騒か、家と云ふのも勿体ない位、何時見てもカラ/\してゐる奴で、湿り気は微塵もない、それで以て、汚い事、古い事、セントルイスの博覧会にこれを出したら、蓋し、金牌物だらうと云ふ話し。筑波

これから、愈

此の面白いと云ふのは、要するに、未来なるものゝ性質が解らんからだ。嗚呼未来乎、未来乎だ。総て、面白いとか、怖いとか云ふ奴は、其の対称物の性質不明の点に於て、尤も多く存在する様に思はれる。人間が好んで対外マツチを見るが如く、つまり、其結果の不明な意に、趣味を持つてやつてゐるのだ。又、人間は、幽霊と云ふ奴が怖いさうだが、これもつまりは、幽霊なるものゝ性質が、尾花で有るのか、杓子であるのか、乃至は、物干台の浴衣であるのか、其辺の消息に不明の点があるによつて、怖いに違ひない。
そんな事は、どーでもいゝとして、要するに、俺が此家へ持つて来られたと云ふのは、俺の記をして、素敵な彩色を織り出さしめた物であつた。思へば、過去三年の間、可笑しい事もあつたし、愉快な事も有つたし、或は悲しい事も、辛い事も有つた。
処で、我輩等の今の境遇はどーだと云ふと、愉快だと云ふ仲間も居るし、中には面白くないと云ふ仲間もある。しかし、俺は、愉快だとも、乃至、面白く無いとも思はんよ。何だと思ふつて、何とも思はんのさ。と云つたからつて意志が無いと思はれては困るね。面白い事と、悲しい事と、差引勘定
話が、えらく横丁の方へ這入つて居たが、扨、俺等が、此の自治寮に持つて来られた、と直ぐ分れ/\にされて、俺は北寮と云ふ処に行く事となつた。此所にも俺の仲間が五つ計り居つたが、一処に集つて居る事の出来ないのが、俺等の性分なので、一ツ/\離れて、そして、明けても晩れても、ヂツとして居るのだ。嗚呼、俺とイツシヨに持つて来られた連中は、今頃、何処にどーして居るだらうと思ふと、さすがに初旅の、心細くないでも無かつた。それに、俺等の役目は夜働くので、盗棒では無いよ、夜と云へば、総ての物は皆、地平線下に這入つてしまふ時だのに、物好きにも、一人起きてゐるのかと思へば、つく/″\、人間が恨めしい。何だつて、俺等を夜働かせるのは、人間がそーさせるからだもの。人間位、悪好者な者はない。しかも、針の穴程の知恵を持つて居て、それで、自惚加減と来たら、まるで、御話しにならない奴さ。第一人間を製造する事が出来ない様な知恵で以て、それで万物の霊長とはどーした者だ。動物には理性が無いだの、猿には毛が三本足りないだの、大きな御世話だ。乃至、鳥は空を飛ぶ物だの、飯は食ふものだの、しかも俺等の仲間は生命なきもの、意識なきもの也と、抜かすではないか、チヤンチヤラ可笑しくつて、御臍が御茶を湧かして、煮えてこぼれてしまふは、人間が勝手にこしらへた、一人ヨガリの理窟とか、道理とか云ふものを見給へ、こんな、愚にも付かん事が、よく云はれた物さ。俺見たいな物でも思ふね。人間のする事、なす事、云ふ事、皆、何等かの(仮定)と云ふ物を
要するに、二にならうが、三にならうが、随意に宥すのだから、泥田から出て来た足さ。こんな幼稚な事で満足して居て、しかも、俺等の事は、生なき物だと云ふ人間は、どこ迄馬鹿だらう、ズー/\しいだらう。俺等の仲間で話しあふ言葉、成程、人間には解らないだらう。併し、解らないからつて、有る物は矢張り有る。昼でも空には星がある。もし夜と云ふ物がなかつたら、人間には、美しい星の輝きは、永久に見られなかつただらう。
人間の知恵といふ奴は、大凡、こんな物だ。こんな話は抜きにして、此の北寮には、学生が七十人計り居る。但し、女は一人も居ない。必ずやなれば、洗濯屋の婆々だらう。名は体を現はすと云ふから、北寮丈に、ホク/\してゐるかと思つたが、年中、苦虫を噛みつぶした様な婆々さ。俺が北寮へ来てから二三日の間は、只ブラ/\と、さして大変動もなく暮して居たが、いやどーも、其の騒がしい事、汚い事。笑ふ、叫ぶ、唸る、泣きはしまいが、塵埃濛々然としてゐる中で、騒ぐは/\。三日目の晩、これが、俺の生涯忘れられないと云ふ日だ。なに老爺の命日だらう。それ処の話ではないさ。その晩にあつた事は、それから、百度や二百度の事ではなく有つた。現に今ありつつ有るから、俺も追々と、怖い/\から、何ともなくなり、今では面白い方になつて来たのだ。何ンしろ、来てからやつと三日目の晩だから、どーしてまだ尻が落ちつくものか。尤も、俺の尻は何時も落付かない。丁度、嫁入つた当座の気持だか、どーだか知らないが、怖い様な、悲しい様な、それが夜中の十一時過、この頃になると、電気燈連の方は、みんな寝てしまふので、俺達ばかり、眠さうな眼付でパチクリ/\。間もなう十二時、上野の鐘がゴーンと、後高に撞いてしまふと、思ひ出した様に犬の遠吠。湿つぽい風が陰にこもつて、サラ/\/\と云ふ奴。天地万象、シーンとした丑三ツの時、此所に出て来た物は何だと思ふ。無論、幽的と云ひたいが、処がさうでない。
俺は、其時丁度、二階の梯子を上りきつた処に、ブランコをきめて居たのだ。すると此時、すぐ家の外でワッワッと云ふ人の声、ハテナと思つて居ると、だん/\と其声が、北寮に近寄つて来る。益

フト、生気が付いて見ると、コリヤどーぢや、自分は、何時の間にやら立派な衣服を着て、人間になつて居る。眼の前を見ると、豚や、牛肉や、西洋料理は申すに不及、栗饅、煎餅、最中、に至る迄、すつかり喰ひ頃に出来てゐる。グルリと見渡すと、こゝには瓢箪形の酒の池だ。上加減と云ふので、白い煙がフワ/\と立ち上つてゐる
すると、どーだ、此処にも俺の仲間が、六ツバカリ坐つて居るではないか。しかも皆、同じ様に怪我をして居るから妙だ。「イヨー」と挨拶すると、向ふは「ヨー」と気のない返事をする。何の事やら解らない。まづ、ヤツと腰が落付いた様だから、つら/\見渡すと、天窓からさし込んで来る、ボンヤリした光線の中に、俺等の仲間が、今やつて来たのも加へて、総計十二居る様だ。そろひも揃つた仏頂顔でスマシテ居る。スルト、俺の向ふ側に坐つて居た奴が、「貴様等もトー/\来たね」と云つた。其声が、馬鹿に優しかつたので、俺も元気付いて、定めて驚くだらうと、得意になつて、昨夜の一部始終を話したのだ。併し、此奴のみならず、側に坐つて居る連中も、スマした物で、丁度、生徒の講義して居るのを、先生が聞いて居る様な顔付で、解り切つた事だ、と云はぬ計り。
扨、其続きだが、小便の音もぢきに
自殺から、とんだ話になつたが、まだ/\面白い事が有るよ。君等は未だ日が浅いから、此処に居る生徒の気質なども、よく解らんだらうが、中々、面白い処があるよ。俺はさい/\例の化物連の御かげで、と云ふのは、化物は俺を忘れて行つてくれたからで、自修室に、二三日も遊んで居た事があるが、いや中々の面白さ。君が居る北寮の、四番室と云ふ処に居つた時も、随分愉快だつたよ。あすこには、慥かに五人居たと思つたが、今でもそーか知らん、支那人も一人居つた様だ。人数は少ないが、騒いで、唸る、踊る、喰ふ、しかも議論がすさまじい、イヤ、ともすると、真に口角泡を飛ばして、まるで烏賊の墨を吹く様、汚なくて、はたには寄り付かれない始末だ。或日の事、中の騒人、頭の馬鹿に大きい男が、少々、風の気味と云ふので、切りと、猫の様なクシヤミをして居る。すると、其すぐ向ひ側に居た色の白い男が、平生、毒舌を以て自任して居るさうだが、「風邪を引く様な不景気な奴は早く寝てしまへ」と云つたのだ。処が、それから大議論さ。「引いた物は引いた物だい」と大頭が云ふ。全く怒つて居た様だ。「引かない物は引かないさ」、と白頭は軽く流す。「貴様は、風を引かないのを得意として居るけれ共、
「イヨー、中々くはしい説明だね。併し矢つ張り風は治らん様に見えるな」と、白頭がヘラズ口を叩いて居る時、カラ/\と戸を開けて帰つて来たのは、今迄留守で有つた仲間の一人だ。馬鹿に痩せた処が幽霊じみて居るので、幽霊とも、ネーベルガイスターとも云ふ名ださうな。今迄、ムキになつて居た二人は、俄に向きなほつて、「帰つたか」と云ふ。幽的は「オー」と云ひながら、成程、幽霊的な細い手を袂に入れて、掻き廻して居たが、「ソラ」と云ひながら、大頭の前に何か投げ出した。「何だ」と云ひ乍ら大頭は、つと其物を見たが、俄然、大きな顔に壊れる様な笑顔を見せて、「有難い、君ならなくてだ、浮んだよ」と云ふ。「其の大頭がか」、と白頭は笑ひながら、其或物を手に取つて見せたが、其処には、「風邪薬実効散」と書いて有つた。幽霊は得意気な顔付をし、傍に立つてスマして居る。成程、柄に無い親切な男だな、と俺も思つた。しかし此の親切も、金が有る時だけかも知れん。すると白頭は、矢張り口が悪い生れ付きかもしらんが、大頭に向つて「君、この薬は一服散と書いて有るぜ。一服丈呑まなければ治らないと見えるぜ」、と云ふと、「馬鹿な、一服丈なんて奴があるかい。一服で治らなかつた時は二服呑むんだ」と大頭は云ふ。「処が、そーで無い。見給へ、二服呑めば
支那人は、スマシタ顔をして、鏡と首引をして居る。スルト、又ガラ/\と戸を開けて残りの一人が帰つて来た。図書館に行つて居たと見えて本をかゝへて居る。これは又、馬鹿に色の黒い奴だ。室に入るや否や、「オイ何処かへ行かう、腹が減つておへぬ」と云ふ。「金は有るかい」と白頭が、嘲弄的の横目を見せる。「有る/\」と幽霊が、スマシタ顔付をして云ふ。話しは直にまとまつて、何だかワヤ/\と云ひながら、四人で部屋を出て行つた。隣の部屋の時計は九時を打つた。四人は何処へ行つたのか、支那人は不相変、夜だか、昼だか解らん様な顔をしてゐる。つい眠くなつたので、俺もツルリと寝込んでしまつた。
と、云ふ様な様子さ、中々面白かつた。
其のあくる日も愉快な事があつた。学校は二時半迄だと見えて、それ迄はソハ/\して居る様だ。二時半の鐘が打つてしまふと、四人がノビ/\した顔をして帰つて来た。一人は手紙を書き出した。一人はサンドーをふつて居る。一人は財布をひろげて居る。一人は窓からボンヤリ眺めて居る。スルト窓の外から、「ドーダイ」と云ひ乍ら、顔丈出した奴が居る。「どーした」と白頭が云ふと、「今日は旧同室会だから残つて居るのだ」、と云ひながら、肱立をして窓を越えて部屋に這入つて来た。しかも靴のまゝだから驚く。よく見ると、顔の黒い、汚い容子をして居る。しかも其背丈が約四尺もあらうか、「チビ」と云ふ名ださうなが、成程、浅草者だと、俺もつく/″\感心して、出来る事なら、親の顔も見てやりたかつた。併し「チビ」先生は、土足でも、すこむるすました者で、話す、笑ふ、煙草を吸ふ、勉強もしないで饒舌くつて居る。何だか、又、議論が始まつた様だ。
「君はそんな事を云ふが、ハイカラと云つても、必ずしも排斥す可き者では無い」、と白頭がチビに向つて云つた。「勿論、我々は蛮カラを以て自任して居る。大人君子、向陵の健児にして理想としてゐる物だから、蛮カラーは大いに賞す可しだ。が、併しだ、君だつて花見に行かぬ事はあるまい。月を賞せぬ事は無いだらう。今、ハイカラーを見るにだな、頭の髪をスツカリと奇麗に分けた処は、丁度、雌浪雄浪がドー/\と、寄せては返す如く。雪の様に白い、しかも高いカラー、折目のシヤンとした洋服で以て、スラリと立つた所は、第一奇麗ぢや無いか。我輩は敢て華美を云ふのではない。清潔を云ふのだ。清潔は我四綱領の一つを占めて居る。翻つて、バンカラーを見るにだ、尤も近き例は君さ、モシヤ/\と味噌玉に菌の生えた様な頭で、シヤツの

かれこれする中に、四時になつた。すると「チビ」は「僕はもー行かう、失敬」と、又、窓から出て行つた。まるで猫だ。「ヤイ、余り呑むな」、大頭が首を出して笑つた。室の中は、今の「チビ」が穿いて来た靴の泥で、すこむる汚なくなつた。「汚いなー、どうも通学生は個人主義でいかん。自分が居らんからつて、まるでメチヤだ。通学生位、癪にさはる奴は無いよ」と、コボしてゐるのは大頭だ。しかし実を云ふと、俺の見てる中に、此の大頭先生も窓から出た事があつた。
人間と云ふ者は、得手勝手な者だな、と、俺はつく/″\思つた。得手勝手と云ふ事は、欲目と云ふ事だ。
扨、こんな様子で、俺は二三日、四番室で遊んで居たが、目に見えて感心したのは、此の四人だ。そりや中々悪口もつくし、悪戯もするが、もと/\悪気が有つてゞは無いので、其中のいゝ事は、まるで一心同体だ。起きるのも諸共、騒ぐのも諸共、甘い物を喰ふ時も諸共、寝るのも諸共、俺もつく/″\羨ましい位であつた。話しは、中々これ位な事ではない。併し、随分長話をした様であつたが、少しは君等には解つたかい」と、これで四年目の先生の話は終つたのであつた。「いやどーも大したもので」と、実は俺も内心此奴の経験の複雑なのに、少々感心してしまつた。他の若い連中も、皆感心して居る様だ。すると、又、口を切つた者がある。
「俺も君等に、自慢話をして聞かせようかな。俺は四年君とは、少々方面の異つた方で、四年君が旅順と云ふなら、俺の方は沙河とでも云ひたいね」鬚があつたら
「実は、俺がこれ迄行つてゐた方は、小使部屋、雪隠、湯殿、などの方面だつた。俺が初めて来た折は、西寮の小使部屋へ持つて行かれたのさ。勿論小使部屋だ、マツチ箱の様な中に持つて来て、角火鉢、大薬鑵、炭取、箒、寝台、布団、机、鈴、乃至茶碗、土瓶、飯箱、鉄串に至るまで、まるで足の踏み処も無い始末、もし火事が始まつた時には、小使はキツト焼け死ぬるに異ひないと思つた。秋小口はさうでもないが、追々と、富士山が白うなつて来る頃になると、小使部屋の火鉢にだん/\と、炭をたくさんつぎ出す、それと共に、生徒がこの狭い小使部屋に押しかけて来る。小使の椅子をチヤンと占領してしまつて、火鉢をグルリツと取りまく。尤も、こんな事をやるのは古い生徒ばかりだが、すると小使は、法螺貝の中から追ひ出されたヤドカリと云ふ見えで、傍にシヨンボリと、斑になつた小倉服を衣て、寒さうに立つて見てゐる。コツチは一向頓着なしで以て、笑つたり、うなつたり、小使なる者の存在は、もとより眼中に無いので、時によると、国から可愛い息子に送つて来た餅だの、魚だのを持つて来て、鉄串で焼いて喰ふ。皆、狼の様な連中だもの、御溜りコボシが有るものか、あはれ息子に、あの可愛い息子に喰はせようと、はる/″\送つて来た餅は、支那の様に、見る間に蚕養せられてしまつて、肝心の息子様は、ヤツト一つ、呑みこんだか呑み込まんかと云ふ有様、もし、ソロ/\噛んで居ようものなら、それこそ、半分も此の息子は喰はなかつたであらう。俺はつら/\考へたね、決して江戸に出て居る息子なぞに、餅を送つてやつたりする者ではないと。
或日の事で有つたが、朝から、ドン/\と云ふ大雪、小使部屋は従つて素敵な人数、小使は壁の方に押し付けられて、小さくなつて居る。も少し押したら、小使は大方、壁の中に塗り込まれてしまふだらうと、心配した程だつた。従つて、話も随分始まる。一番火鉢の傍にかまへて居た、化物見たいな生徒が、「そー、メチヤ/\に云ふ程でもない、酒を呑むつて、決して害計りは存在して居ないよ」と云つた。調子が、馬鹿に高かつたので、フイと耳を傾けると、「総て君、物には両面ありさ。楯の表裏も古い話しだが、行くと云ふ裏には帰ると云ふ奴が隠れてゐる。上ると云ふのは下ると云ふのを意味して居る。要するに、燗徳利主義と云ふのだ。とは、其れ燗徳利は銅壺の中に、這入つたり又出たり、出たり這入つたり、這入るのは即出るにある処、出るは即這入る処と云ふのさ。何しろ、善い処と悪い処とは必ずクツ付いて居る物だ。一がいに、冬を寒いと云つて炬燵に尻を焙つて居る快楽を無視するのはいかん。成程、酒はストーム、始めてか知らんが、昨夜、君等が見たと云ふ化物連の事を、ストームと云ふのだ。其のストームの玉子かも知れん。だが、ストームの快不快、利不利は別問題としてもだ、酒なる物が、所謂、大人君子連に、与へて居る利害の点に関して、ストーム以外に、猶大なる物があるであらうと思ふ。我輩は、酒その物が悪いと云ふ事を、しば/\聞かされたが、此のその物が悪いと云ふ事は、根本的に云ひ得ない事だと思ふ。これは丁度、太陽その物が好いとか、悪いとか云ふのと同じで、全く、ノンセンスの話さ。即、我輩が述べたいのは、酒と吾々大人君子の境遇と、此の相互間の接触上に出て来る利害だ。其利害を云ふに付て、一応、我輩の所説、勿論、酒以外の、に付て聞いてもらはんければならない。
抑、吾々人間は、嗜好性と云ふ物を有してゐる。嗜好性を有して居ない人間は決してない。其嗜好してゐる物の、性質が高尚だとか、卑しいとか、高いとか、低いとか、そんな事は別問題として、兎に角に、人間には嗜好、何等かの嗜好がある。否、此嗜好が無ければ、人間は生存して居る事が出来ない、と云つても過言では無いと思ふ。吾々が、朝から晩迄、嫌ひな物計りやらされて居つた日には、どうして生きて居たいと云ふ考は出て来ない。此の嗜好、自分が好きな事をやる、と云ふ点で以て、人間は生存して居るのだ。所謂、生きがひが有るのだ。此の嗜好は、人間の生命と云つてもよい。斯様な大切な物であるからして、もしかゝる嗜好が、他人からして奪はれる、取られてしまふ、もしくは、無くなると云ふ様な場合には、必ず、第二の、それに相応する、或は、それ以上の嗜好を求めんとして、働く、否遂に求めなければ止まないのだ。これは、事実を以て示さなくとも、解る筈だ。処で、吾々の今の状態はどうだ。成程、大人君子には相違ないけれ共、此の大人君子は、青年と云ふ大人君子だ。青年とは、他の言葉で以て云ふと、嗜好が非常に多い時代だ。何でも一寸気に向いた物は嗜好してしまふと云ふ時代なのだ。猫も来い、杓子も来い、と云ふ時だ。成程浅いかもしらぬが、広いさ。かう云ふ時代に当つて、所謂、大人君子なるものに、酒と云ふ嗜好を与へて見るとする。すると其結果はどうだらう。此所で一寸、酒の性質に付て云ふ可き必要がある。酒ぐらゐ微妙な物は無い。詩的な物はない。酒を呑むと云ふと、妙に気が大きくなる。六大洲は掌位にしか見えた物では無い。酒を呑んで中には泣く奴も有らう、怒る奴も有らうが、まづ大抵の者は、非常に愉快になつて来る、面白くなつて来る、無邪気になる。千鳥足になつて来る。こんな一種云ふ可からざるミステイカルな性質を以て居る物は他には有るまい。扨、斯う云ふ素敵な、面白い、愉快な酒なる者の趣味を、嗜好の馬鹿に多い、吾々大人君子に持つて来て与へるのだから、猫に鼠だ。忽に酒が好きになるのと云ふのは、無理もない話だ。其結果はどうだらう。勿論、学生の境遇だから、毎日はやれないが、一週間に一度位宛、金の有る時は、同好を誘つて、酒を呑みに行く。愉快になる、無邪気になる、豪傑気取になる、大きくなる、菓子が嫌ひになる、シルコが厭になる。凡そ、僕が知つてゐる酒党連中の経路は、以上の通りになつて行くのだ。此処で又考へて見るに、吾々の今の境遇で、酒の外に、猶、一層、強い嗜好力を有してゐる物が他に無いであらうか、と云ふと、それが大に有るのだ。しかも、大に危険なる物が有るので有る。処でだ、今此の酒党から、酒を呑むと云ふ嗜好を奪つてしまふと、其結果はどうで有らう。到底、其嗜好を取ると云ふ事は出来ないかも知れぬが、まづ出来るものとして見ると、其結果は、それ、酒以外に於て、それ以上に危険な嗜好を求めなければ遏まない、と云ふ事になるは必定だ。かく云ふと或は君等の内に、そんな浅薄な議論はやめにしろ、小供に菓子をやつて置くのは、決して最後の目的では無い。君の云ふ事は、甚卑劣な、

君等も、一度は小使部屋に這入つて見る可しだ。中々面白い事がある。だが、門衛の処も随分愉快だよ。全体、八時で禁出入とか云ふのださうだが、大嘘だ。九時になつても通る、十時になつても通る、十一時、十二時になつても出入するよ。なに、札なんか裏返すものか。門衛の奴も、余程、呑気な奴でなけらねば出来る商売ぢやないね。朝から晩まで、壁を眺めて居たり、小便をしたり、人形を書いて見たり、新聞広告を読んで見たり、それで、夜中に寝てから迄、起きて出て戸を開けねばならないなんて、目出度い奴さ。それで以て、時には、生徒に虐待せられる事も有るのだもの。さうだ昨年であつたか、或晩、十一時も既に打つてしまつたので、門衛君が今や門を閉ぢようとした時、ヒヨロリ/\と帰つて来たのが、生徒の奴さ、イキナリ「ヤイ門衛、俺の名を消せ、ケケケ消さぬか、野郎!」、門衛の、其のテカ/\した頭を、ポカリと御見舞申さうとした時、又、やつて来たのが一人の生徒さ。これは酒に酔つて居ないと見えて「ヤイ、待て/\、何だ」と、酔つて居た奴を抑へると、「放せ、放せつたら放せ、門衛の奴、自治の何たるかを解せない、見ろ、俺の名を消さんとぬかすのだ。かるが故に、一本ポカリと」、「まー待て、そりや君が悪いよ、大人しく帰つて寝ろ」、「何、俺が悪い、貴様も又、自治を解せないと見える。俺の言ふ処を暫く聞けだ。夫れだね、夫れ自治なるものは、一年や一年半、寮に居たとて、解る物ではない。少なくとも三年、多くは、四年居らんければ解らない。之を換言すれば、自治は無規則なり、規則無き也だ。而し、只之丈では、君見たいな一年級は、誤解を来すだらう。無規則とは、要するに之、一種の規則であるのだ。『規則が無い』規則と云ふ規則なのだ。抑、自治には三階級がある。第一は真正の自治だ。第二は半自治だ。第三は似而非自治と云ふのだ。勿論、自治の目的は、この真正の自治となる処にあるのだけれ共、到底、吾々は真正の自治と云ふ物を見る事は出来ない。如何となればだ。追々むつかしくなるよ。如何となれば、前にも云つた通り、自治とは、無規則なりだから、人間の社会に於て、規則も何もなくなる。換言すれば、全くの平和的社会、理想的社会、トルストイが云ふ様な、無規則な社会と云ふものが、眼の前に現はれる時があるだらうかと云ふに、之は決して無いのだ。人間が二人以上、生存して居る間には、決してかゝる社会は出て来ない。即、真正の自治と云ふものは、人間消滅後に於て、実現し得可きものであるのだ。処で、其次が半自治と云ふ奴だ。吾々の自治寮は、即ちこの半自治の状態に有るのだ。半自治とは、換言すれば、規則が有つたり無かつたりと云ふ状態なのだ。我が自治寮の自治と云ふ奴は、今云ふ様な朦朧体である。ボンヤリした物である、以て行はれ易き所以なりだ。併し、此のボンヤリ体、行燈体と云ふのは、尤も面白い奴で、自治はどうしても、此の行燈体でやらなくては成功しない。馬鹿に大きな火をおこすと餅が焦げてしまふ。ヌル/\と焼く処で甘く出来るのだ。あつちに寄つたり、こつちに寄つたりで、舟は航海が出来る。天気になつたり、雨が降つたり、照つたり降つたり、降つたり照つたり、ボンヤリした処で、甘く調子が取れて行く。此所に尤も味が有る処で、此処を一つ考へなければならないのだ。甚だ、君等には要領を得にくいかも知らんが、大賢は市で騒ぐと云ふ事もある。瓢箪の様な、ノラクラした中に、チヤンと腹のククリが有る。あの、括りがえらい処なのだ。動中の静、静中の動だか、よくは知らないが、人の顔立でもさうだ。目付が勝れていゝとか、耳がすぐれてよいとか、鼻がスラリとして居るとか、さう云ふ事は無いけれど、ボンヤリした顔全体その物に於て、立派な顔とか、美くしい顔とか、認める事が出来る。我自治は、半自治なりさ。此に於て、消したり、消さなんだり、門衛の頭を殴つたり、殴らなんだりと云ふ、面白いだらう。ヤイドーダ」と、矢鱈に舌なめずりして居る。云ふ中に又、ドヤ/\と這入つて来た四五人の生徒に取まかれて、酔つた人も、酔はない人も、遠くの方に行つて仕舞つた。こんな事は、毎晩の様にあるよ。えらい饒舌つて、少々くたびれた様だが、誰か又、話しをする奴はないかな」とこれで第二の先生の話しも終つたのであつた。
が、皆思ひ合した様に黙つて居て、何とも云ふ奴はない。こんな話しを聞いたり、聞かされたりして居て、此の暗い部屋の中に、二週間位も居たであらう。すると或日、小使がやつて来て、皆を連れて、怪我を治しに連れて行つてくれた。二三日もして、怪我も全快したので、又、寮へ帰つて、職務につく事になつた。
思ひ起せば、この事があつたのは丁度三年前、それから、二度冬を越して、又、二度春を向へたが、其間、或は、東寮に居つた事もあるし、南寮に居た事もある。小使部屋にも居つた。怪我も五六度やつた。が、まだ、人の死ぬる処は見た事がない。尤も、妙に思ふのは、俺が来た時に、一番胆をつぶした、ストームが、其後、何十回となくやつた性か、今では至極、愉快になつて来て、三日に一度位無いと、何となく物足らない気がする。従つて、生徒の中には、随分、昵懇な連中が出来た。尤も仲のいゝのは化物、狼、ニグロ、辨慶、幽霊、章魚なぞだらう。云ふ内、今夜でも、此の連中が来て、連れて行つてくれはしないだらうかと、心待ちに待つて居るのである。これで今日迄の「俺の記」は終りとする。
最後に、俺の名前も、既に解つたで有らうが、念の為に、人間が俺に付けてくれた名はランタンと云ふのだ、と云つて、そして筆を擱かう。 (終)
三十八年二月十九日