島に来るまで
この度、仏恩によりまして、此庵の留守番に坐らせてもらふ事になりました。庵は南郷庵と申します。も少し委しく申せば、王子山蓮華院西光寺奥の院南郷庵であります。西光寺は小豆島八十八ヶ所の内、第五十八番の札所でありまして、此庵は奥の院となつて居りますから、番外であります。已に奥の院と云ひ、番外と申す以上、所謂、庵らしい庵であります。
庵は六畳の間にお大師様をまつりまして、次の八畳が、居間なり、応接間なり、食堂であり、寝室であるのです。其次に、二畳の畳と一畳ばかしの板の間、之が台所で、其れにくつ付いて小さい土間に
東南はみな塞つて居りまして、たつた一つ、半間四方の小さい窓が、八畳の部屋に開いて居るのであります。此の窓から眺めますと、土地がだんだん低みになつて行きまして、其の間に三四の村の人家がたつて居ますが、大体に於て塩浜と、野菜畑とであります。其間に一条の路があり、其道を一丁計り行くと小高い堤になり、それから先きが海になつて居るのであります。茲は瀬戸内海であり、殊にズツと入海になつて居りますので、海は丁度渠の如く横さまに狭く見られる丈でありますけれども、私にはそれで充分であります。此の小さい窓から一日、海の風が吹き通しには入つて参ります。それ丈に冬は中々に寒いといふ事であります。
さて、入庵雑記と表題を置きましたけれども、入庵を機会として、私の是迄の思ひ出話も少々聞いて頂きたいと思つて居るのであります。私の流転放浪の生活が始まりましてから、早いもので已に三年となります。此間には全く云ふに云はれぬ色々なことがありました。此頃の夜長に一人寝てゐてつくづく考へて見ると、全く別世界にゐるやうな感が致します。然るに只今はどうでせう。私の多年の希望であつた処の独居生活、そして比較的無言の生活を、いと安らかな心持で営ませていたゞいて居るのであります。私にとりましては極楽であります。処が、之が皆わが井師の
丁度明治卅五年頃の事と覚えて居ります。其頃、井師も私も共に東京の第一高等学校に居りました。井師は私よりも一級上級生といふわけで、其頃は俳句――新派俳句と云つた時代です――が非常に盛で、其結果「一高俳句会」といふものが出来、句会を開いたものでした。句会は大抵根津権現さんの境内に小さい池に沿うて一寸した貸席がありましたので、其処で開きました。そこの椎茸飯といふのが名物で、お釜で焚いたまんまを一人に一つ宛持つて来ましたが中々おいしかつた、さうした御飯をたべたり御菓子をたべたりなんかして、会費は五十銭位だつたと記憶して居ます。いつでも二十人近く集りましたが、師匠格としてきまつて、虚子、鳴雪、碧梧桐の三氏が見えたものです。虚子氏が役者見たいに洋服姿で自転車をとばして来たり、碧梧桐氏の四角などこかの神主さん見たいな顔や、鳴雪氏のあの有名な腹燗なんかの事を思ひ出しますのですよ。其当時の根津権現さんの境内はそれは静かなものでした。椎の木を四五尺に切つて其を組合せて地上に立てゝ、それに椎茸が生えて居るのを眺めたりなどして苦吟したものでした。日曜日なんかには、目白の啼き合せ会なんか此境内でやつたのですから、それは閑静なものでしたよ。
処で私は三年の後、一高を去ると共に、此会にも関係がなくなりました。そして井師は文科に、私は法科にといふわけで、一時、井師との間は打ち切られて、白雲去つて悠々といふ形でありました。処が此縁が決して切れては居りませんでした。火山の脈のやうに烈々として其の噴出する場所と時期とを求めて居たものと見えます。世の中の事は人智をもつてしては到底わかりつこありませんね。其後、私は已に社会に出て所謂腰弁生活をやつて居たわけであります。そして茲に機縁を見出したものか、層雲第一号から再び句作しはじめたものであります。それからこつちは所謂絶ゆるが如く絶えざるが如く、綿々縷々として経過して居ります内に、三年前の私の放浪生活が突如として始まりまして以来は、以前の明治卅五六年時代の交渉以上の関係となつて来た訳なのであります。そこで、私が此島に参りまする直前、京都の井師の新居に同居して居りました事を少し話させていたゞきませう。井師の此度の今熊野の新居は清洒たるものではありますが、それは実に狭い。井師一人丈ですらどうかと思ふ位な処へ、此の飄々たる放哉が転がり込んだわけです。而も蚊がたくさん居る時分なのだから御察し下さい。一人釣りの蚊帳の中に、井師の布団を半分占領して毎晩二人で寝たわけです。其の狭い事狭い事、此の同居生活の間に私は全く井師に感服してしまつたのです。鋒鋩は已に明治卅五六年頃から有つたのではあるが、全く呉下の旧阿蒙に非ず、それは其後の鎌倉の修業もありませうし、母、妻、子に先立たれた苦しい経験もありませう。又、其後の精神修養の結果もありませうが、兎も角偉大なものです。抱擁力が出来て来たのであります。井師は私に決してミユツセンと云つた事がありません。一度も意見がましい言葉を聞いた事が無いのであります。それで居て、自分で自然とさうせざるを得ぬやうな気持になつて来るのであります。之が大慈悲でなくてなんでありませう。
井師の新居に同居してゐた間は僅の事でしたけれども、其私に与へた印象は深甚なものでありました。井師と二人で田舎路を歩いて居た時、ふとよく晴れた空を流れてゐる一片の白雲を見上げて「秋になつたねえ」といふたつた一言に直に私が共鳴するのです。或る夕べ、路傍の行きずりの小さい、多分子供の、葬式に出逢つて極めて自然に、ソツと夏帽をとつて頭を下げて行く井師にすぐと私は共鳴するのです。二人で歩いて居て、井師も亦、妻も児も無い人なんだなと思つてつくづく見ると、其の着物の着方が如何にも下手くそなのです。而も前下りかなんかで、それを誰も手をかけてなほしてくれる人も今は無いのだ。何時でも着物の着方の下手くそなので叱られて居た私は、直に又共鳴せざるを得ぬのです。下駄の先鼻緒に力を入れて突つかけて歩くもの故、よく下駄の先をまだ新しいうちに壊してしまつたり、先鼻緒を切つたりした自分を思ひ出すと、井師が又其の通り、又共鳴せざるを得ませぬ。其外、床の間の上に乗せてあつた白袴……恐らくは学生時代のであつてほしかつたが……一高の寮歌集等々、一事、一物、すべて共鳴するものばかり。僅かの間の同居生活でしたけれども、私にとつては、実に異常なもので有つたのであります。
井師は今、東京に帰つて居らるゝ日どりになつて居る。なんとなく淋しい、京都に居ると思へば、さうでもないのだが、東京だと思ふと、遠方だなと云ふ気持がして来るのです。私は茲で又、観音経を読まなければならぬ。机の上には、いつでも此のお経文が置いて有るのですから――。扨、私は此辺で一寸南郷庵に帰らせていたゞいて、庵の風物其他につき、夜長のひとくさりを聞いていたゞきたいと思ふのであります。
我昔所造諸悪業。 皆由無始貪瞋癡。
従身口意之所生。 一切我今皆懺悔。
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海
庵に帰れば松籟颯々、雑草離々、至つてがらんとしたものであります。芭蕉が弟子の句空に送りました句に、「秋の色糠味噌壺も無かりけり」とあります。これは徒然草の中に、世捨人は浮世の妄愚を払ひ捨てゝ、
坐つて居る左手に、之も拝借もの……と云ふよりも、此庵に私がはいりました時残つて居つた、たつた一つの什器であつた処の小さな丸い火鉢が置いてあるのです。此の火鉢は殆ど素焼ではないかと思はれる程の瀬戸の黒い火鉢なのですが、其の火鉢のぐるりが、凡そこれ以上に毀す事は不可能であらうと思はれる程疵だらけにしてあります。之は必ず、前住の人が煙草好きであつて、鉄の煙管かなんかでノベツにコツンコツン毀して居た結果にちがひないと思ふのです。誠に御丹念な次第であります。此の外には道具と申してもなんにも無いのでありますから誠にがらんとし過ぎたことであります。此の南よりの一本の柱と申すのが、甚だ形勝の地位に在るので、遙かに北の空を塞ぐ連山を一眸のうちに入れると共に、前申した一本の大松と、奉供養大師堂之塔の碑とが、いつも眼の前を離れぬのであります。居ながらにして首を少し前にのばせば、そこは広々と低みのなだれになつて一面の芋畑、そして遠く、土庄町の一部と、西の空の開いて居るのが見えるのであります。東は例のこの庵唯一の小さい低い窓でありまして、其の窓を通して渠の如き海が見え、海の向うには、島のなかの低い山が連つて居ります。西はすぐ山ですから、窓によつて月を賞するの便があるのみで、別に大した風情は有りませんのです。お天気のよい日には毎朝、此の東の空に並んで居る連山のなかから、太陽がグン/″\昇つて来ます。太陽の昇るのは早いものですね。山の上に出たなと思つたら、もう、グツグツグツと昇つてしまひます。その早いこと、それを一人坐つてだまつて静に見て居る気持ツたら全くありません。私は性来、殊の外海が好きでありまして、海を見て居るか、波音を聞いて居ると、大抵な脳の中のイザコザは消えて無くなつてしまふのです。「賢者は山を好み、智者は水を愛す」といふ言葉があります。此の言葉はなか/\うま味のある言葉であると思ひます。但し、私だけの心持かも知れませんが――。一体私は、ごく小さな時からよく山にも海にも好きで遊んだものですが、だんだんと歳をとつて来るに従つて、山はどうも怖い……と申すのも可笑しな話ですが、……親しめないのですな。殊に深山幽谷と云つたやうな処に這入つて行くと、なんとはなしに、身体中が引締められるやうな怖い気持がし出したのです。丁度、怖い父親の前に坐らされて居ると云つたやうな気持です。処が、海は全くさうではないのであります。どんな悪い事を私がしても、海は常にだまつて、ニコ/\として抱擁してくれるやうに思はれるのであります。全然正反対であります。ですから私は、これ迄随分旅を致しましたうちで、荒れた航海にも度々出逢つて居りますが、どんなに海が荒れても、私はいつも平気なのであります。それは自分でも可笑しいやうです。よし、船が今微塵にくだけてしまつても、自分はあのやさしい海に抱いてもらへる、と云ふ満足が胸の底に常にあるからであらうと思ひます。丁度、慈愛の深い母親といつしよに居る時のやうな心持になつて居るのであります。
私は勿論、賢者でも無く、智者でも有りませんが、只、わけなしに海が好きなのです。つまり私は、人の慈愛……と云ふものに飢ゑ、渇して居る人間なのでありませう。処がです、此の、個人主義の、この戦闘的の世の中に於て、どこに人の慈愛が求められませうか。中々それは出来にくい事であります。そこで、勢之を自然に求めることになつて来ます。私は現在に於ても、仮令、それが理窟にあつて居ようが居まいが、又は、正しい事であらうがあるまいが、そんな事は別で、父の尊厳を思ひ出す事は有りませんが、いつでも母の慈愛を思ひ起すものであります。母の慈愛――母の私に対する慈愛は、それは如何なる場合に於ても、全力的であり、盲目的であり、且、他の何者にもまけない強い強いものでありました。善人であらうが、悪人であらうが、一切衆生の成仏を……その大願をたてられた仏の慈悲、即ち、それは母の慈愛であります。そして、それを海がまた持つて居るやうに私には考へられるのであります。
猶茲に、海に附言しまして是非共ひとこと聞いて置いていたゞきたい事があるのであります。私が、流転放浪の三ヶ年の間、常に、少しでも海が見える、或は又海に近い処にあるお寺を選んで歩いて居りましたと云ふ理由は、一に前述の通りでありますが、猶一つ、海の近い処にある空が、……殊更その朝と夕とに於て……そこに流れて居るあらゆる雲の形と色とを、それは種々様々に変形し、変色して見せてくれると云ふことであります。勿論、其の変形、変色の底に流れて居る光りといふものを見逃がす事も出来ません。之は誰しも承知して居る事でありますが、海の近くで無いとこいつが絶対に見られない事であります。私は、海の慈愛と同時に此の雲と云ふ、曖昧糢糊たるものに憧憬れて、三年の間、飄々乎として歩いて居たといふわけであります。それが、この度、仏恩によりまして、此庵に落ち着かせていたゞく事になりまして以来、朝に、夕べに、海あり、雲あり、而も一本の柱あり、と申す訳で、況んや時正に仲秋、海につけ、雲につけ、月あり、虫あり、是れ年中の人間好時節といふ次第なのであります。
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念仏
六畳の座敷は、八畳よりも七八寸位、高みに出来て居りまして、茲にお大師さまがおまつりしてあるのです。此の六畳が大変に汚なくなつて居ましたので、信者の内の一人がつい先達て畳替へをしたばかりのとこなのださうでした。六畳の仏間は奇麗になつて居ります。此の島の人……と申しても、重に近所の年とつたお婆さん連中なのですが、お大師さまの日だとか、お地蔵さまの日だとか、或は又、別になんでも無い日にでも、五六人で鉦をもつて来て、この六畳の仏間にみんなが坐つて、お念仏なり、御詠歌なりを申しあげる習慣になつて居ります。
それはお念仏を申すとか、御詠歌を申すとか、島の人は云ふのです。それで、只単に「申しに来ました」とか、「申さうぢやありませんか」と云ふ風に普通話して居ります。八九分通り迄は皆お婆さん許り……それも、七十、八十、稀には九十一といふお婆さんがありましたが、又、中には、若い連中もあるのであります。そこで可笑しい事には、このお念仏なり、御詠歌なりを申しますのに、旧ぶしと新ぶしとがあるのであります。「旧ぶし」と云ふのは、ウンと年とつたお婆さん連中が申す調子であります。「新ぶし」は中年増と云つたやうな処から、十六や十七位な別嬪さんが交つて申すふしであります。そのふし廻しを聞いて居りますと、旧ぶしは平々凡々、水の流るゝが如く、新ぶしの方は、丁度唱歌でもきいて居るやうで、抑揚あり、頓挫あり、中々に面白いものであります。ですから、其の持つて居る道具にしても、旧ぶしの方は伏鉦を叩くきりですが、新ぶしの方は、鉦は勿論ありますし、それに長さ三尺位な
一体関東の方では、お大師さまの事をあまりやかましく云はないやうですが、関西となると、それはお大師さまの勢力といふものは素破らしいものであります。私が須磨寺に居りました時、あすこのお大師さまは大したものでありまして、殊に盆のお大師さまの日と来ると、境内に見世物小屋が出来る、物売り店が並ぶ、それはえらい騒ぎ、何しろ二十日の晩は夜通しで、神戸大阪辺から五万十万と云ふ人が間断なくおまゐりに来るのですから全くのお祭であります。……丁度、東京の池上のお会式……あれと同じ事であります。その時のことでしたが、ある信者の団体は一寸した舞台を拵へまして、御詠歌踊と云ふのをやりました。囃しにはさき程申し上げました美しい
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鉦たたき
私がこの島に来たのは未だ八月の半ば頃でありましたので、例の井師の句のなかにある「氷水でお別れ」をして京都を十時半の夜行でズーとやつて来たのです。ですから非常に暑くて、浴衣一枚すらも身体につけて居られない位でした。島は到る処これ蝉声
一体、庵のぐるりの庭で、草花とでも云へるものは、それは無暗と生えて居る実生の鶏頭、美しい葉鶏頭が二本、未だ咲きませぬが、之も十数株の菊、それと、白の一重の木槿が二本……裏と表とに一本宛あります。二本共高さ三四尺位で、各々十数個の花をつけて居ります。そして、朝風に開き、夕靄に蕾んで、長い間私をなぐさめてくれて居ります。まあこれ位なものでありませう。あとは全部雑草、殊に西側山よりの方は、名も知れぬ色々の草が一面に山へかけて生ひ繁つて居ります。然し、よく注意して見ると、これ等雑草の中にもホチホチ小さな空色の花が無数に咲いて居ります。島の人は之を、かまぐさ、とか、とりぐさ、とか呼んで居ります。丁度小鳥の頭のやうな恰好をして居るからださうです。紺碧の空色の小さい花びらをたつた二まい宛開いたまんま、数知れず、黙りこくつて咲いて居ます。私たちも草花であります、よく見て下さい――と云つた風に。
かう云ふ有様ですから、追々と涼しくなつて来るといつしよに、所謂虫声
鉦叩きと云ふ虫の名は古くから知つて居ますが、其姿は実の処私は未だ見た事がないのです。どの位の大きさで、どんな色合をして、どんな恰好をして居るのか、チツトも知りもしない癖で居て、其のなく声を知つてるだけで、心を惹かれるのであります。此の鉦叩きといふ虫のことについては、かつて、小泉八雲氏が、なんかに書いて居られたやうに思ふのですが、只今チツトも記憶して居りません。只、同氏が、大変この虫の啼く声を賞揚して居られたと云ふ事は決して間違ひありません。東京の郊外にも――渋谷辺にも――ちよい/\居るのですから、御承知の方も多いであらうと思はれますが、あの、チーン、チーン、チーンと云ふ啼き声が、何とも云ふに云はれない淋しい気持をひき起してくれるのです。それは他の虫等のやうに、其声には、色もなければ、艶もない、勿論、力も無いのです。それで居てこの虫がなきますと、他のたくさんの虫の声々と少しも混雑することなしに、只、チーン、チーン、チーン……如何にも淋しい、如何にも力の無い声で、それで居て、それを聞く人の胸には何ものか非常にこたへるあるものを持つて居るのです。そのチーン、チーンと云ふ声は、大抵十五六遍から、二十二三遍位繰返すやうです。中には、八十遍以上も啼いたのを数へた……寝ながら数へた事がありましたが、まあこんなのは例外です。そして此虫は、一ヶ所に決してたくさんは居らぬやうであります。大抵多いときで三疋か四疋位、時にはたつた一疋でないて居る場合――多くの虫等の中に交つて――を幾度も知つて居るのであります。
瞑目してヂツと聞いて居りますと、この、チーン、チーン、チーンと云ふ声は、どうしても此の地上のものとは思はれません。どう考へて見ても、この声は、地の底四五尺の処から響いて来るやうにきこえます。そして、チーン、チーン、如何にも鉦を叩いて静かに読経でもしてゐるやうに思はれるのであります。これは決して虫では無い、虫の声ではない、……坊主、しかし、ごく小さい豆人形のやうな小坊主が、まつ黒い衣をきて、たつた一人、静かに、……地の底で鉦を叩いて居る、其の声なのだ。何の
其の私の好きな、虫のなかで一番好きな鉦叩きが、この庵の、この雑草のなかに居たのであります。私は最初その声を聞きつけたときに、ハツと思ひました、あゝ、居てくれたか、居てくれたのか……それもこの頃では秋益

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石
土庄の町から一里ばかり西に離れた海辺に、千軒といふ村があります。島の人はこれを「センゲ」と呼んで居ります。この千軒と申す処が大変によい石が出る処ださうでして、誰もが最初に見せられた時に驚嘆の声を発するあの大阪城の石垣の、あの素破らしい大きな石、あれは皆この島から、千軒の海から運んで行つたものなのださうです。今でも絵はがきで見ますと、其の当時持つて行かれないで、海岸に投げ出された儘で残つて居るたくさんの大石が磊々として並んで居るのであります。石、殆ど石から出来上つて居るこの島、大変素性のよい石に富んで居るこの島、……こんな事が私には妙に、たまらなく嬉しいのであります。現に、庵の北の空を塞いで立つて居るかなり高い山の頂上には――それは、朝晩常に私の眼から離れた事のない――実になんとも言はれぬ姿のよい岩石が、たくさん重なり合つて、天空に聳えて居るのが見られるのであります。亭々たる大樹が密生して居るがために黒いまでに茂つて見える山の姿と、又自ら別様の心持が見られるのであります。否寧ろ私は其の赤裸々の、素ツ裸の開けツ拡げた山の岩石の姿を愛する者であります。恐らく御承知の事と思ひます、此島が、かの耶馬渓よりも、と称せられて居る寒霞渓を、其の岩石を、懐深く大切に愛撫して居ることを――。
私は先年、暫く朝鮮に住んで居たことがありますが、あすこの山はどれもこれも禿げて居る山が多いのであります。而も岩石であります。之を殖林の上から、又治水の上から見ますのは自ら別問題でありますが、赤裸々の、一糸かくす処のない岩石の山は、見た眼に痛快なものであります。山高くして月小なり、猛虎一声山月高し、など申しますが、猛虎を放つて咆吼せしむるには岩石突兀たる山に限るやうであります。
話が又少々脱線しかけたやうでありますが、私は、必ずしも、その、石の怪、石の奇、或は又、石の妙に対してのみ嬉しがるのではありません。否、それ処ではない、私は、平素、路上にころがつて居る小さな、つまらない石ツころに向つて、たまらない一種のなつかし味を感じて居るのであります。たまたま、足駄の前歯で蹴とばされて、何処へ行つてしまつたか、見えなくなつてしまつた石ツころ、又蹴りそこなつて、ヒヨコンとそこらにころがつて行つて黙つて居る石ツころ、なんて可愛い者ではありませんか。なんで、こんなつまらない石ツころに深い愛惜を感じて居るのでせうか。つまり、考へて見ると、蹴られても、踏まれても何とされても、いつでも黙々としてだまつて居る……其辺にありはしないでせうか。いや、石は、物が云へないから、黙つて居るより外にしかたがないでせうよ。そんなら、物の云へない石は死んで居るのでせうか、私にはどうもさう思へない。反対に、すべての石は生きて居ると思ふのです。石は生きて居る。どんな小さな石ツころでも、立派に脈を打つて生きて居るのであります。石は生きて居るが故に、その沈黙は益

私は屡

庵は町の一番とつぱしの、一寸小高い処に立つて居りまして、海からやつて来る風にモロに吹きつけられた、只一本の大松のみをたよりにして居るのであります。庵の前の細い一本の道は、西南の方へ爪先き上りに登つて行きまして、私を山に導きます。そして、そこにある寂然たる墓地に案内してくれるのであります。此の辺はもう大分高みでありまして、そこには、島人の石塔が、白々と無数に林立してをります。そして、どれも、これも皆勿体ない程立派な石塔であります。申す迄も無く、島から出る好い石が、皆これ等の石塔に作られるのです。そして、雨に、風に、月に、いつも黙々として立ち並んでをります。墓地は、秋の虫達にとつては此上もないよい遊び場所なのでありますが、已に肌寒い風の今日此頃となりましては、殆ど死に絶えたのか、美しい其声もきく事が出来ません。只々、いつ迄もしんかんとして居る墓原。これ等無数に立ち並んで居る石塔も、地の下に死んで居る人間と同じやうに、みんなが死んで立つて居るのであります。地の底も死、地の上も死……。あゝ、私は早く庵にかへつて、私のなつかしい石ツころを早く拾ひあげて見ることに致しませう、生きて居る石ツころを――。
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風
市中甚だ遠からねば、杖頭に銭をかけて物を買ふ足の労を要せず、而も、市中又甚だ近からねば、窓底に枕を支へて夢を求むる耳静なり。それ、巣居して風を知り、穴居して雨を知る……
かう書き出しますると、まるで、鶉衣にある文句のやうで、すつかり浮世離れをして居る人間のやうに思はれるのですが、其の実はこれ、俗中の俗、
今暫くしますれば、庵と私と云ふものが、ピタリと一つになり切つてしまふ時が必ず参る事と信じて居ります。只今は正に晩秋の庵……誠によい時節であります。毎朝五時頃、まだウス暗いうちから一人で起き出して来て、……庵にはたつた一つ電燈がついて居まして、之が毎朝六時頃迄は灯つて居ります……東側の小さい窓と、両側の障子五枚とをカラリとあけてしまつて、仏間と、八畳と、台所とを掃き出します。そしてお光りをあげて西側の小さい例の庭の大松の下を掃くのです。この頃になると電気が消えてしまひまして、東の小窓を通して見える島の連山が、朝日の昇る準備を始めて居ります。其の雲の色の美しさ、未だ町の方は実に静かなもので、何もかも寝込んで居るらしい、たゞ海岸の方で時折漁師の声がきこえてくる位なもの――。これが私のお天気の日に於ける毎日のきまつた仕事であります。全く此頃お天気の日の庵の朝、晩秋の夜明の気持は何とも譬へやうがありません。若しそれ、これが風の吹く日であり、雨の降る日でありますと、又一種別様な面白味があるのであります。島は一体風の大変よく吹く処で、殊に庵は海に近く少し小高い処に立つて居るものですから、其の風のアテ方は中々ひどいのです。此辺は余り西風は吹きませんので、大抵は海から吹きつける東南の風が多いのであります。今日は風だな、と思はれる日は大凡わかります。それは夜明けの空の雲の色が平生と異ふのであります。一寸見ると晴れさうで居て、其の雲の赤い色が只の真ツ赤な色ではないのです。之は海岸のお方は誰でも御承知の事と思ひます。実になんとも形容出来ない程美しいことは美しいのだけれども、その真ツ赤の色の中に、破壊とか、危惧とか云つた心持の光りをタツプリと含んで、如何にも静かに、又、如何にも奇麗に、黎明の空を染めて居るのであります。こんな雲が朝流れて居る時は必ず風、……間も無くそろそろ吹き始めて来ます。庵の屋根の上には例の大松がかぶさつて居るのですから、之がまつ先きに風と共鳴を始めるのです。悲鳴するが如く、痛罵するが如く、又怒号するが如く、其の騒ぎは並大抵の音ぢやありません。庵の東側には、例の小さな窓一つ開いて居るきりなのですから、だんだん風がひどくなつて来ると、その小さい窓の障子と雨戸とを閉め切つてしまひます。それでおしまひ。他に閉める処が無いのです。ですから、部屋のなかはウス暗くなつて、只西側の明りをたよりに坐つて居るより外致し方がありません。こんな日にはお遍路さんも中々参りません。墓へ行く道を通る人も勿論ありません。風はえらいもので、どこからどう探して吹き込んで来るものか、天井から、壁のすき間から、ヒユーヒユーと吹き込んで参ります。庵は余り新しくない建て物でありますから、ギシギシ、ミシミシ、どこかしこが鳴り出します。大松独り威勢よく風と戦つて居ります。夜分なんか寝て居りますと、すき間から吹き込んだ風が天井にぶつかつて其の儘押し上げるものと見えまして、寝て居る身体が寝床ごといつしよにスーと上に浮きあがつて行くやうな気持がする事は度々のことであります。風の威力は実にえらいものであります。私の学生時代の友人にK……今は東京で弁護士をやつて居ります……と云ふ男がありましたが、此の男、生れつき風を怖がること夥しい。本郷のある下宿屋に二人で居ましたときなんかでも、夜中に少々風が吹き出して来て、ミシ/\そこらで音がし始めると、とても一人でぢつとして自分の部屋に居る事が出来ないのです。それで必ず煙草をもつて私の部屋にやつて来るのです。そして、くだらぬ話をしたり、お茶を呑んだり煙草を吸つたりしてゴマ化して置くのですね。私も最初のうちは気が付きませんでしたが、たうとう終ひに露見したと云ふわけです。あんなに風の音を怖がる男は、メツタに私は知りません。それは見て居ると滑稽な程なのです。処が、此の男に兜を脱がなければならないことが、こんどは私に始つたのです。それは……誠に之も馬鹿げたお話なのですけれ共……私は由来、高い処にあがるのが怖いのです。それも、山とか岳とかに登るのではないので、例へば、断崖絶壁の上に立つとか、素敵に高いビルデイングの頂上の欄干もなにもない其一角に立つて垂直に下を見おろすとか、さう云ふ場合には私はとても堪へられぬのです。そんな処に長く立つて居ようものなら、身体全体が真ツ逆様に下に吸ひ込まれさうな気持になるのです。イヤ、事実私は吸ひ込まれて落ちるに違ひありません。と申すのは、さう云ふ高い処から吸ひ込まれて落込む夢を度々見るのですから。処が此Kです、あの少しの風音すらも怖がるKが、右申上げたやうな場合は平気の平左衛門なのです。例へば浅草の十二階……只今はありませんが……なんかに二人であがる時、いつでも此の意気地無し奴がと云ふやうな顔付をして私を苦しめるのです。丁度、蛇を怖がる人と、毛虫を怖がる人とが全然別の人であるやうなものなんでせう。浅草といへば、明治三十年頃ですが、向島で、ある興業師が、小さい風船にお客を乗せて、それを下からスル/\とあげて、高い空からあたりを見物させることをやつたことがあります。処がどうです、此のKなる者は、その最初の搭乗者で、そして大に痛快がつて居るといふ有様なのです……いや、例により、とんだ脱線であります。扨、風の庵の次は雨の庵となるわけですが、全体、此島は雨の少い土地らしいのです。ですから時々雨になると大変にシンミリした気持になつて、坐つて居ることが出来ます。しかし、庵の雨は大抵の場合に於て風を伴ひますので、雨を味ふ日などは、ごくごく今迄は珍しいのでした。そんな日はお客さんも無し、お遍路さんも来ず、一日中昼間は手紙を書くとか、写経をするとか、読経をするとかして暮します。雨が夜に入りますと、益

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灯
庵のなかにともつて居る夜の明りと申せば、仏さまのお光りと電燈一つだけであります……之もつい先日迄はランプであつたのですが、お地蔵さまの日から電燈をつけていたゞくことになりました。一に西光寺さんの御親切の
灯と申せば、私が京都の一燈園に居りました時分、灯火に対して抱いた深刻な感じを忘れる事が出来ません。此の機会に於て少し又脱線さしていたゞきませう。一寸その前に一燈園なるものの様子を申上げませう。園は、京都の洛東鹿ヶ谷にあります。紅葉の名所で有名な永観堂から七、八丁も離れて居りませうか、山の中腹にポツンと一軒立つて居ります。それは実に見すぼらしい家で、井師は已に御承知であります。いつぞや北朗さんとお二人で園にお尋ねにあづかつた事がありますから……それでも園のなかには入りますと、道場もあれば、二階の座敷もある、と云つたやうなわけ。庭に一本の大きな柿の木があります。用水は山水、之が竹の樋を伝つて来るのですから、よく毀れては閉口したものでした。在園者はいつでも平均男女合して三十人から四十人は居りませうか、勿論その内容は毎日、去る者あり、来る者ありといふのでして、在園者は実によく変ります。私は一昨年の秋、而もこの十一月の二十三日
京都の冬は中々底冷えがします。中々東京のカラツ風のやうなものぢやありません。そして鹿ヶ谷と京都の町中とは、いつでも、その温度が五度位違ふのですからひどかつたです。一体、園には、春から夏にかけて入園者が大変多いのですが、秋からかけて酷寒となるとウンと減つてしまひます。いろんなことが有るものですよ。扨、それから大に働きましたよ。何しろ死ねば死ねの決心ですから、怖い事はなんにもありません。園は樹下石上と心得よと云ふのがモツトーでありますから、園では朝から一飯もたべません。朝五時に起きて掃除がすむと、道場で約一時間ほどの読経をやります。禅が根底になつて居るやうでして、重に禅宗のお経をみんなで読みます。但、由来何宗と云ふことは無いので、園の者は「お光り」「お光り」を見ると、申して居る位ですから、耶教でもなんでもかまひませぬ。以前、耶教徒の在園者が多かつた時は、讃美歌なり、御祈りなり、朝晩、みんなでやつたものださうです。それも、オルガンを入れてブーカ/\やり、一方では又、仏党の人々が木魚をポク/\叩いて読経したのだと申しますから、随分、
扨、私が灯火に対して忘れる事の出来ない思ひ出と申しますのは、この、朝早くまだ暗いうちから起き出して来て、遙か山の下の方に、まだ寝込んで居る京都の町々の灯、昨夜の奮闘に疲れ果てて今暫くしたら一度に消えてしまはうと用意して居る、数千万の白たゝけた京都の町々の灯を眺めて立つて居る時と、夜分まつ暗に暮れてしまつてから、其日の仕事にヘト/\に疲労し切つた足を引摺つて、ポツリ/\暗の中の山路を園に戻つて来る時、処々に見える小さい民家の淋しさうな灯火の外に、自分の背後に、遙か下の方に、ダイヤかプラチナの如く輝いて居る歓楽の都……京都の町々のイルミネーシヨンを始め、其他数万の灯火の生き/\した、誇りがましい輝かさを眺めて立つて居た時の事なのです。此時の私の心持なのであります。此時の私の感じは、淋しいでもなし、悲しいでもなし、愉快でもなし、嬉しいでもなし、泣きたいでもなし、笑ひたいでもなし、なんと形容したら十分に其の感じが云ひ現はされるのであらうか、只今でも解りかねる次第であります。只、ボーツとして居るのですな。無心状態とでも申しませうか、喜怒哀楽を超越した感じ、さう云つた風なものでありました。而もそれが、いつ迄たつても少しも忘れられませんのです。灯火の魅力とでも申しませうか、灯火に引き付けられて居る状態ですな。灯火といふものは色々な点から吾人の胸底をシヨツクするものであると云ふ事をつく/″\感じた次第であります。此時の感じをうまく表現して見たいと思つたのですが、これ以上到底なんとも申し上げやうの無いのが遺憾至極であります。この位で御察し下さいませ。
次に、この毎日の仕事……園では托鉢と申して居ります……之が実に種々雑多のものでありまして、一寸私が今思ひ出して見た丈けでも、曰く、お留守番、衛生掃除、ホテル、夜番、菓子屋、ウドン屋、米屋、病人の看護、お寺、ビラ撒き、ボール箱屋、食堂、大学の先生、未亡人、簡易食堂、百姓、宿屋、軍港、小作争議、病院の研究材料(之はモルモツトの代りになるのです)等々、何しろ商売往来に名前の出てないものが沢山あるのですから数へ切れません。これ等一つ一つの托鉢先の感想を書いても面白い材料はいくらでもありませう。さて、私がこれ等の托鉢を毎日々々やつて居ります間に、大に私のためになることを一つ覚えたのであります。それはかう云ふ事です。百万長者の家庭には入つて見てもカラ/\の貧乏人の家庭には入つて行つて見ましても、何かしら、其家のなかに、なんか頭をなやます問題が生じて居る、早い話が、お金に不自由が無い家とすれば、病人が有るとか、相続人が無いとか、かう云つた風なことなのです。ですから万事思ふまゝになつて、不満足な点は少しも無いと云ふやうな家庭は、どこを探して見ても、それこそ少しも無いと云ふ事でありました。仏力は広大であります。到る処に公平なる判断を下して居られるのであります。それと今一つ私の感じたことは、筋肉の力の不足と云ふことです。これは私が在園中の正直な体験なのですが、幸か不幸か、死ぬなら死んでしまへとはふり出した肉体は、其後今日迄別段異状無くやつて来たのでしたが、只、人間も四十歳位になりますと、いくら気の方は慥であつても、筋肉、体力の方が承知を致しません。無理は出来ない、力は無くなつて居る。園の托鉢はなんと申しましても力を要する仕事が一番多いのでありますから、最初のうちは、ナニ若い者に負けるものかと云ふ元気でやつて居つたものゝ、到底長続きがしないのです。ですから、一燈園には入るお方は、まづ、二十歳から三十二三歳迄位の青年がよろしいやうです。又実際に於て四十なんて云ふ人は園にはそんなに居りはしません。居つても続きません。私は入園した当時に、如何にも若い、中には十七八歳位な人の居るのに驚いたのです。こんな若い年をして、何処に人生に対し、又は宗教に対して疑念なんかを抱くことが出来るであらう?……而しまあ、以前申した年頃の人々には、よい修業場と思はれます。年輩者には駄目です。天香さんと云ふ人は慥にえらい人に違ひない。あの園が、二十年の歴史を持つて居ると云ふ点だけ考へてみても解ることです。そして、知能の尤もすぐれた人であります。茲に一つの

いや、非常な大脱線で、且、大分ゴタ/\して来ましたから、此の入庵雑記もひとまづ此辺で打切らしていたゞかうと思ひます。筆を擱くにあたりまして、今更ながら井師の大慈悲心に想到して何とも申すべき言葉が御座いません。次に西光寺住職、杉本師に対しまして、之又御礼の言葉も無い次第であります。杉本師は、同人としては玄々子と称して居られますが、師は前一寸申上げた通り、相対座して御話して居ると、全く春風に頬を撫でられて居るやうな心持になるのであります。此の偉大な人格の所有主たる杉本師の庇護の下に、南郷庵に居らせていたゞいて居ると申しますことは、私としまして全く感謝せざるを得ない事であります。同人、井上一二氏に対する御礼の言葉は余りに親しき友人の間として、此際、遠慮さして置きます。扨、改めてお三方に深い感謝の意を表しまして、此稿を終らせていたゞきます。南無阿弥陀仏。
(十四年、十一月五日)