死せる魂

または チチコフの遍歴 第一部 第二分冊

MYORTVUIE DUSHI(МЕРТВЫЕ ДУШИ)

ニコライ・ゴーゴリ Nikolai Vasilievitch Gogolj(Николай Васильевич Гоголь)

平井肇訳




第七章


 だらだらと退屈な長の道中のあいだ、寒さや、雪融や、泥濘や、寝ぼけ眼の宿場役人や、うるさい鈴の音や、馬車の修理や、啀みあいや、さては馭者だの、鍛冶屋だの、その他いろんな街道筋の破落戸ごろつきどものためにさんざん悩まされた挙句、やっとのことで旅人の眼に、自分を出迎えにこちらへ近寄って来るような、懐かしい我が家の灯影がうつりだす――と、やがて彼の目前には見馴れた部屋々々が現われ、迎えに駈け出した人々の歓声がどっとあがり、子供たちがわいわい騒いで駈けまわる、次いで心もなごむような落着いた話に移るのであるが、それが又、旅の憂さをすっかり忘れさせるような熱い接吻でとぎれ勝ちになる――といった具合だったら、まったく申し分はない。そういう隠処かくれがのある世帯持は幸福だが、情けないのは独身者ひとりもので!
 また作家にしても、あの惨めな現状で人に眼を蔽わしめるような、甚だ面白くない、退屈きわまる人物などはそっちのけにして、もっと卓越した人柄の持主を題材とし、日毎に移りゆく世相の大いなる淵瀬から、ただ少数の例外だけを選り出して、己が竪琴の高雅な調子しらべを一度として変えたこともなければ、自分の立っている高所たかみから、取るにも足らぬ哀れな文士仲間と同じレベルなどへは決して降ることもなく、地上のことなどには一切かまわず、常に世俗から遠く掛けはなれた、いとも高尚な物象に一心を打ちこむことの出来る人は幸福である。彼はそういうものの間で、さながら自分の家族にでも取りかこまれたように、ほしいままに振舞っているが、その間にも彼の名声は遠く高く轟きわたるのだから、いよいよ以ってその素晴らしい運命が二重に羨ましい次第である。彼は身も心もとろけるような薫煙をたなびかせて人の眼を惑わし、世上の悲惨なものは押しかくし、美しい人間像だけを示して巧みに人心にとりいる。人々は挙って拍手を送りながら、勝ち誇った彼の戦車の後を追って駈けだしてゆく。彼は世界的の大詩人とあがめられて、あたかも他の群鳥を尻目に悠々と高く天翔ける鷲のように、他の群小詩人を睥睨しながら、泰然とおさまっている。その名声を聞いただけで、熱し易い若者の胸は感激に打ち顫え、万人の眼には随喜の涙がキラキラと光る……。彼に匹敵する者はない――彼は神だ! ところが四六時ちゅう眼前にころがっていても、無関心な人には一向眼につかない物象――つまり、我々の生活を取りまいている諸々の瑣事の人を顫えあがらせるような怖ろしい泥沼や、又ともすれば退屈で物悲しい浮世の旅にうようよと群がっている、冷淡で、とりとめのない、日常茶飯な性格の奥底をば遠慮会釈なく曝露し、仮借なき鋭利なのみで、万人の眼にはっきり映るように、それを浮彫にして見せる作家――そういう作家の辿る運命は全然ちがう! 彼は大向うからの拍手喝采を期待することも出来なければ、自分が感動させた読者の随喜の涙や同感の歓びを見ることも出来ない。血道をあげた十六娘が、前後のわきまえもなく、大胆に彼に向って飛びついて来ることもなければ、自分自身の掻きたてた世評に陶然として我れを忘れることもない。最後に彼は、その時代の批判を免れることが出来ない。それは彼の愛しみ育てた創作を、取るにも足らぬ卑しいものと名づけ、彼を侮蔑して、人間性を無視した作家たちと同列に置き、彼が自作に表現した主人公と同等の資格を押しつけて、彼から心も魂も聖なる天稟の炎をも取り去ってしまう。というのは、同時代の批判というものは、太陽を覗くレンズも、眼に見えぬ虫の動きを見せるレンズも、同じように素晴らしいものだという事実を認めないからであり、また、賤しい生活の中から取りあげた画面に光彩を添えて、それを創造の珠玉にまで高めるためには、精神的な深さが非常に必要であることを認めないからである。また同時代の批判は、高尚で熱狂的な笑いは、高い抒情的な感動と同列に置くだけの値打があって、かの大道芝居の道化のくすぐりなどとは凡そ同日に談ずべくもないことを理解しないからである! 同時代の批判は全然そういうことを理解しないで、凡てをこの認められざる作家に対する非難と悪罵に変えるのである。そこで彼は、苦衷を共に分つ相手もなく、何の反響もなければ、同情もなく、あたかも家なき旅人のように孤影悄然として道の只中に取り残されるのである。その立場は実に荒涼落莫たるもので、彼は自分の孤独をしみじみ情けなく思うのである。
 わたしは不思議な力に引きずられて、まだこれから先きも長いこと、この奇妙な主人公と手に手を取って進みながら、巨大な姿で移りゆく世相を、眼に見ゆる笑いと、眼に見えず世に知られぬ涙をとおして、残る隈なく観察すべき任務を負わされているのだ! もっと別な源泉から、聖なる恐怖と光明につつまれた章の中から、霊感の嵐が巻きおこり、読者がおどおどした胸騒ぎを以って、他の荘厳なる声の轟きに耳を傾けるのは、まだまだずっと先きのことである……。
 さあ、用意! 出発だ! 額に皺をよせたり、しかつめらしい陰気な顔をするのは、もう沢山だ! さあ、声なきさざめきや鈴の音にとざされた人生の真只中へ一思いに飛びこんで、チチコフの行動を逐一観察することにしよう。
 チチコフは眼を覚ますと、うんと一つ伸びをしながら、まったくよく眠ったと思った。一二分仰向けに寝そべっていてから、彼はポキンと一つ指を鳴らすと同時に、晴々と面を輝やかせながら、今は殆んど四百人からの農奴を持っているのだということを想い出した。そこで彼はいきなり寝台から跳び起きたが、鏡に映る自分の顔も碌々見なかった。彼にはその顔が頗る自慢で、中でも顎が一番チャーミングだと思っているらしく、よく友達の前などで、殊に髭でもあたっているような時には、手ばなしで惚気たものだ。『どうだね』と、彼は顎をなでまわしながら、いつも言ったものだ。『僕の顎もまんざらではないだろ、こう、すっかりまんまるっこくてさ!』しかし今は、その顎も見なければ、顔も眺めないで、いきなり、寝起きのままの服装で、モロッコ革の深い上靴をはいた。それは*1トルジョークのまちなどで盛んに売り出している、あの色とりどりの縫附飾アップリケのしてある上靴なんで。それをはくと暢気なロシア魂が彼を駆りたてたものと見え、まるでスコットランド人みたいに、短かいシャツ一枚のままで、日頃のたしなみも忘れ、自分のいい年も忘れて非常に身軽に踵をトントン踏み鳴らしながら、部屋の中で二度ばかり跳躍をやったものだ。それから、さっそく仕事に取りかかり、先ず手箱の前で、ちょうど何か審理のために出向いた地方裁判所の予審判事が、前菜のテーブルへ近よりながらやる、あの同じ手つきで、さも満足そうに揉手をすると同時に、その中から書類を取り出した。彼はぐずぐずしていないで、一刻も早く何もかも片づけてしまおうと思った。代書人などに一文だって余計な金を取られたくなかったので、彼は登記の書類も自分で文案をつくり、自分で認ため、自分で写しを拵らえることに決めた。書式のことなら何から何まで心得ていた。で、先ず大きな字で、『一千八百何十何年』と書き、次いで小さい字で、『地主、何の某』と書いてから、必要な事項を残らず認ためた。二時間ばかりですっかり出来あがった。後でその書類を眺めながら、曾ては確かに百姓として、いろんな仕事もすれば田畑も耕やし、飲んだくれもすれば、車力もし、旦那を瞞著するような奴もあれば、ただ地道な農奴に過ぎなかったのもあろうところの、さまざまな百姓どもの名前を一瞥した時、彼はふと何か自分でも訳の分らない不思議な気持に襲われたものである。名簿の一つ一つが、恰かもそれぞれ独自の特徴をそなえているように思われ、従ってそれに記載されている農奴までが、それぞれ独特の性質を持っているような気がした。コローボチカの農奴であった百姓どもは、殆んど一人残らず名前の外に余計な附けたりや渾名を頂戴していた。プリューシキンの認ためた書附は綴りの短かいことが特徴で、どうかすると、名前と父称の頭字だけを書いて、あとには点が二つ打ってあるきりであった。ソバケーヴィッチの拵らえた農奴目録は実に完全無欠で、その詳細なことは驚くばかりで、それぞれの百姓の性質が、『腕の達者な指物師なり』とか、『物事をよく弁え酒などは一切飲まず』などと、細大漏らさず書きこんである。それに父親は誰、母親は誰、それから両親の身持のよしあしまで詳しく認ためてあったが、ただフェドートフとかいう男の名前の下だけには、『父親は不明なるも、下婢カピトリーナの腹より生まる。されど性行可良にして、盗癖なし』と書いてあった。こうした詳細な記述が、一種特別な新鮮味を添えて、恰かもそれらの百姓どもは、つい前日まで生存していたような気がするのであった。長いこと、チチコフは百姓どもの名前を眺めながら、感慨に沈んでいたが、やがてホッと溜息をついて、こう呟やいたものである。『おい、皆の衆、ずいぶん沢山つめこまれているじゃないか! いったい君たちは何をして一生を過ごしてきたんだね? どうして生計くらしを立ててきたんだね?』この時、ふと彼の眼は或る一つの名前の上にとまった。それは曾て女地主コローボチカの農奴であった、例の槽かまわずのピョートル・サウェーリエフという奴であった。彼は又しても、こんなことを呟かずにはいられなかった。『いやはや、なんて長ったらしい名前だろう! 一行すっかり占領してしまっているじゃないか! お前は職人だったのか、それとも只の百姓だったのか? そして一体どんな死に方をしたのだい? 居酒屋でくたばったのか、それとも、道の真中で眠っているところを間抜けな荷馬車にでも轢き殺されたというのかい?――プローブカ・ステパン、酒も飲まない模範的な大工。うん、こいつだな! 近衛の聯隊へでも入れたらよかったという、あの豪傑のステパン・プローブカって奴は! おおかたお前は、腰に斧をさし、長靴を肩にかけて、県下を隅から隅まで歩きまわり、せいぜい麺麭を一文がとこに、干魚の二文がとこ位より食わないような倹約をして、いつも銀貨を百ルーブリずつも財布へねじこみ、紙幣さつは粗麻のズボンへ縫いこむか、長靴の中へ押しこんで、家へ持ち帰ったものだろう。だが、お前は一体どこで往生を遂げたのだい? 賃銀がいいからというので、お寺の円屋根の端へでも上ったのか、或は、頂上の十字架へよじのぼって、横木から足を踏みはずして、そこから地下したへぶち落ちたとでもいうのだろう。ところが、ちょうどそこに居合わせたミヘイ小父とか何とかいうのが、ちょっと頭を掻いて、※(始め二重括弧、1-2-54)ちぇっ、ワーニャ、ヘマなことをしやあがって!※(終わり二重括弧、1-2-55)とか何とか言っただけで、今度は自分の腰に命綱をつけて、お前の持場へのぼって行ったことだろう。――マクシム・テリャートニコフ、靴屋。へっ、靴屋か! 諺にも靴屋みたいな酔っぱらいって言うからなあ。いや、お前のことはちゃんと俺は知っているぞ。なんならお前の経歴を逐一話してやろうか。お前はドイツ人のところへ弟子入りをしたのだろうが、奴さんはお前たち内弟子に同じ器から物を食わせ、だらしがないと言っては背中を革紐で打ち、道楽をするからと言っては街へも出さなかったことだろう。お蔭でお前は只の靴屋どころか、素晴らしい名工になってしまい、そのドイツ人は細君や仲間に向って、お前のことを褒めても褒めても褒め足りなかったことだろう。ところが年期があけると、お前は、※(始め二重括弧、1-2-54)さあ、今度は一本立ちでやってゆくぞ。なあに、俺はドイツ人みたいに一銭二銭と貯めるようなケチな真似はしないでも、一遍に大金持になってやるぞ※(終わり二重括弧、1-2-55)なんていう偉い意気込みだったのだろう。そこで、旦那にはちゃんと免役税を納めておいて、いよいよ店を開き、注文を山ほど取って、さて仕事に取りかかったという訳だ。どっかから腐ったような革を三分の一ぐらいの安値で仕入れて来て、どんな靴でも一足につき、かっきり二倍の儲けはせしめたことだろうが、そんな靴は二週間もたつと、すっかり破れてしまうので、お前は糞味噌にいわれるようになり、とどのつまり店はさびれてしまい、お前は飲んだくれては往来にころがって、※(始め二重括弧、1-2-54)駄目だ、世の中なんて糞面白くもねえや! ロシア人はてんで食って行かれねえんだ、ドイツ人めが一から十まで邪魔をしやあがるので!※(終わり二重括弧、1-2-55)などとぼやいていたことだろう。おやっ、こいつはどういう男かな? エリザヴェータ・ウォロベイ? ちぇっ、畜生め、こりゃ女じゃないか! どうして女などがこんなところへのさばり出てるのだろう? さてはソバケーヴィッチの悪党め、こんなところでインチキをやりゃあがったな!』成程チチコフのいうとおり、それは正しく女であった。どうしてそんなものが紛れこんだのか、それはさっぱり分らないが、実に巧妙な書き方がしてあったので、遠目にはてっきり男と見紛いそうで、しかもその名前の語尾をトにして、つまりエリザヴェータという女名前をエリザヴェートと男の名前らしく見せかけてさえあるのだ。しかし、チチコフは一向そんなことにはお構いなしにさっさとそれを抹殺してしまった。『グリゴリイ・ドエズジャイ・ニェドエジョーシ! お前は一体どんな人間やつだったんだい? 運送屋でも営んで、二頭立の蓙掛馬車でも仕立てて、永久に家を見捨て、生れ故郷を見限って、商人どもと一緒に定期市から定期市へと乗りまわしていたとでもいうのだろう? そうした旅の途中で神様のお召しにあずかったのか、それとも、どっかの肥っちょの、頬っぺたの赤い兵隊後家でも張りあって、自分の相棒に殺されてしまったのか、または、お前の革の手套と、背は低いが、いたって頑丈そうな三頭立の馬が眼について、森の浮浪人にバッサリやられてしまったのか、でなければ、ハンモックに寝そべったまま、とつおいつ物思いに沈んだ挙句、なんという訳もなく、ふらふらっと居酒屋へころがりこみ、そこから真直ぐに*2氷穴へやって行ってお陀仏ということになってしまったのだろう。ああ、ロシア人ってやつは、みんなこうで! まともな死に方さえ嫌いなんだ!』――『ときに君たちはどうしたんだい?』と彼はプリューシキンの逐電した農奴たちの名前の載っている紙片に眼をうつしながら、語をついだ。『君たちはまだ生きているにしたところで、それが一体どうしたというのだ? やっぱり死人も同然じゃないか。で、今も君たちは素敏すばしっこい逃げ足で、どこかをどんどん駈けているのかい? 今ごろは監獄にでもぶちこまれているのか、それとも別の主人に身を寄せて、田畑を耕やしてでもいるのかい?――エレメイ・*3カリャーキン、ニキータ・*3ウォロキータ、その息子のアントン・ウォロキータ、成程こいつらは名前からして逐電でもしてのけそうな手合いだ。下男のポポフ……こいつは多分、読み書きが出来たに違いない。だから短刀ドスなんか振りまわさないで、お上品な方法で窃盗をやっていたのだろう。ところが、旅行免状を持っていないかどで、もう郡の警察署長に逮捕されてしまったのだろう。君は図々しく構えて対審訊問を受けることだろう。※(始め二重括弧、1-2-54)貴様の主人は誰だ?※(終わり二重括弧、1-2-55)そういって、いよいよ取調べにかかると、署長はちょっとこっぴどい悪罵をさしはさむ。※(始め二重括弧、1-2-54)これこれしかじかの地主でごぜえます※(終わり二重括弧、1-2-55)と君はしゃあしゃあ答える。※(始め二重括弧、1-2-54)どうしてこんなところへやって来とるのか?※(終わり二重括弧、1-2-55)と署長がいうと、※(始め二重括弧、1-2-54)ちゃんと免役税オブロークを納めて、暇を取ったのでがすよ※(終わり二重括弧、1-2-55)と君はまたすらすら答える。※(始め二重括弧、1-2-54)旅行免状はどうしたのだ?※(終わり二重括弧、1-2-55)――※(始め二重括弧、1-2-54)宿の亭主のピメーノフのところにごぜえますだ。※(終わり二重括弧、1-2-55)――※(始め二重括弧、1-2-54)ピメーノフを呼べ! お前がピメーノフか?※(終わり二重括弧、1-2-55)――※(始め二重括弧、1-2-54)へえ手前がピメーノフで。※(終わり二重括弧、1-2-55)――※(始め二重括弧、1-2-54)この男がお前に旅行免状をわたしたというが、本当かね?※(終わり二重括弧、1-2-55)――※(始め二重括弧、1-2-54)いいえ、この男は旅行免状なんか差しだしやしないのでございますよ。※(終わり二重括弧、1-2-55)――※(始め二重括弧、1-2-54)どうしたんだ、貴様は嘘をついたのだな?※(終わり二重括弧、1-2-55)と署長は又ちょっと口汚なく罵って、訊きなおす。※(始め二重括弧、1-2-54)まったく、その通りでがすよ※(終わり二重括弧、1-2-55)と君は、しゃあしゃあとして答える。※(始め二重括弧、1-2-54)夜おそかったんで、この人には渡さねえで、鐘撞番のアンチップ・プローホロフに預けといたのでごぜえます。※(終わり二重括弧、1-2-55)――※(始め二重括弧、1-2-54)鐘撞番を呼べ! この男がお前に旅行免状を預けたというが、本当か?※(終わり二重括弧、1-2-55)――※(始め二重括弧、1-2-54)いいえ、わっしはこの男から旅行免状なんか預かった覚えはございませんよ。※(終わり二重括弧、1-2-55)――※(始め二重括弧、1-2-54)どうだ、また嘘をついたじゃないか?※(終わり二重括弧、1-2-55)署長は、いかつい言葉で屹っと語調を引きしめながら、※(始め二重括弧、1-2-54)いったい旅行免状はどこにあるのだ?※(終わり二重括弧、1-2-55)と突っこむ。※(始め二重括弧、1-2-54)たしかにあったんですがね※(終わり二重括弧、1-2-55)と君はすかさず答える。※(始め二重括弧、1-2-54)おおかた、どっか途中でおっことしちまったのでごぜえますよ。※(終わり二重括弧、1-2-55)――※(始め二重括弧、1-2-54)それじゃあ、兵隊外套なんぞを※(終わり二重括弧、1-2-55)と署長は、ここで何か烈しい言葉で君を罵っておいて、※(始め二重括弧、1-2-54)どうして貴様は掻っぱらったのだ? それに祭司のところでも、銅貨の入った長櫃を掻っぱらって来たろう?※(終わり二重括弧、1-2-55)と畳みかける。※(始め二重括弧、1-2-54)飛んでもねえ※(終わり二重括弧、1-2-55)と、君は少しも動ぜず、※(始め二重括弧、1-2-54)泥坊なんてまだ一度もしたことはありましねえだ※(終わり二重括弧、1-2-55)と答える。※(始め二重括弧、1-2-54)じゃあ、どうしてお前のところに外套があったのだ?※(終わり二重括弧、1-2-55)――※(始め二重括弧、1-2-54)さあ、それはどうとも分りましねえだ。おおかた誰か他の者が持って来て、突っこんでおいたのでがしょうよ。※(終わり二重括弧、1-2-55)――※(始め二重括弧、1-2-54)えい、この悪党め!※(終わり二重括弧、1-2-55)と署長は首を振り立てながら、側腹に手をって言うのだ。※(始め二重括弧、1-2-54)こやつに足枷をはめて、留置場へ投りこんでしまえ!※(終わり二重括弧、1-2-55)――※(始め二重括弧、1-2-54)ようがすとも! 却って有難いくらいで※(終わり二重括弧、1-2-55)と君は答える。そしてポケットから煙草入を取りだして、君の足に足枷をはめる二人の癈兵に、さも親しげに嗅煙草をすすめながら、彼等がよほど前に除隊になったのか、またどんな戦争に参加したか、などと質問したりするだろう。そこで君は一件が正式の裁判に附されるまで、ずっと留置場ずまいをすることになる。裁判所の通告で、ツァーレヴォ・コクシャイスクから、どこそこの市の監獄へ君を移すことになる。ところがそこへゆくと、また裁判所の命令で、今度はウェシエゴンスクなんちゅうところへ移される。こうして未決監から未決監へと盥まわしにされて、しまいには新らしい監獄へ来るたんびに、君はあたりを見まわして、こんなことを呟やくようになるのだ。※(始め二重括弧、1-2-54)いや、こりゃウェシエゴンスク監獄の方がまだ小綺麗だぞ。あすこにゃあ*4バブカ遊びをやるぐれえの場所はあったし仲間だって沢山いたからなあ。※(終わり二重括弧、1-2-55)――さて次ぎはアバクーム・フイロフか! 君はどうしてるんだね? どこを一体うろつきまわってるんだい? ヴォルガへでも行って、気儘な生活くらしに惚れこんで、曳舟人夫にでもなったのかい?……』ここでチチコフは独り言をやめて、ちょっと考えこんだ。いったい何を考えこんだのだろう? アバクーム・フイロフの運命でも考えたのだろうか? それとも、老若貴賤の別なくあらゆるロシア人が広い世間の逸楽を思いうかべる時に必らず陥るあの沈思黙考に自ずと沈んだのであろうか? それにしても、実際フイロフは今どこにいるのだろう? 彼は商人たちと駈引をしながら、どこかの穀物波止場でも楽しそうに大騒ぎをして歩きまわっているのだろう。頸飾りやリボンをつけた、背の高い、すらりとした恋人や女房たちに別れを告げながら、曳舟人夫の一隊は、めいめい帽子に花やリボンをかざって、みんな面白おかしく楽しんでいる。踊ったり唄ったりで、広場は隅々まで沸きたっている、その間にも荷役の人夫たちは、喚き声や罵り声に急きたてられながら、三四十貫ずつもある貨物を鉤に掛けては背負い掛けては背負い、どしどし豌豆や小麦を深い船底へ積みこみ、燕麦や挽割麦の俵をころがしこむ。しかも吃水の深い貨物船がすっかり積荷を終って、果しない船隊が春の流水と一緒に、一列縦隊で出帆するまでは、少しはなれた広場一帯には、まるで砲弾でも積みあげたようなピラミット形の袋の堆積が見え、穀物の山が聳えるように姿を見せているのだ。そういうところで、曳舟人夫たちは稼いでいるのだ! 前に遊んだり、馬鹿騒ぎをしたと同じように、みんな汗水ながして働らきながら、このロシア帝国みたいに何処まで行っても涯しのない一つの歌にあわせて曳綱をひいているのだ!
『うへっ! もう十二時だ!』とチチコフは、とうとうしまいに時計を見て、呟やいた。『おれは何をぼやぼやしていたんだ? さっさと仕事を片づけるならまだしも、初めは何ということなしに与太を飛ばしていたのが、しまいにこんな風に考えこんでしまうなんて。おれもよくよく焼きがまわったぞ!』そう言うと彼は、さっそく例のスコットランド式の着物をヨーロッパ風の洋服に著換えて、太鼓腹をギュッと尾錠でしめつけ、オーデコロンをふりかけて、防寒用の縁無帽カルツーズを手にとると、書類を小腋にかかえて、売買登記をすませるために民事裁判所をさして出かけた。彼が急いだのは、別に遅くなるのが心配だったからではない。遅くなることなどは少しも意に介していなかった。というのは、裁判所長は自分の知合いだから、開廷時間を伸ばさせようと、繰りあげさせようと思いのままで、ちょうど、ホーマーの叙事詩に出て来るゼウスの神が、自分の気に入りの英雄たちに戦闘を中止させたり、決勝の段取りを講じてやる必要のある場合に、勝手に昼を繰りあげて早目に夜をおくるのと同様、自由自在であったからだ。それよりも彼は一件を出来るだけ早く片づけてしまいたいと思ったのだ。そうしないうちは、どうも不安で落ちつきがないような気がした。何といっても、あれはまともな農奴ではないから、こういう場合には、こんな重荷はなるべく早く肩代りをしてしまわなければならない――そういう考えが去来していたのである。とつおいつそんなことを考えながら、彼が肉桂色の羅紗を表につけた熊の毛皮の外套を肩に羽織って、通りへ出た途端に、ちょうどそこの横町へ曲る角で、やはり肉桂色の羅紗の表をつけた熊の毛皮の外套を著て、耳被いのついた防寒帽をかぶった紳士とばったり出会った。紳士は、あっと声をあげた――それはマニーロフであった。咄嗟に二人は抱きついて、ものの五分間ばかりというものは往来の真中にそのままの姿勢で立っていた。お互いにあまり強く接吻し合ったものだから、二人ともその日一日じゅう前歯がズキズキうずいたくらいであった。マニーロフの顔は喜びのあまり鼻と口だけになってしまい、眼などはすっかり姿を消してしまった。彼の両手に十五分間ばかりも握りしめられていたチチコフの手は、おそろしくほてって来た。マニーロフは極めて巧者な、気持のいい身振り手振りで、どんなに夢中で自分がパーウェル・イワーノヴィッチを抱きに飛んで来たかを物語った、その言葉は、踊りの相手を申込まれた時の娘にのみ適わしいような愛嬌を含んでいた。チチコフが感謝の言葉も知らず、ようやく口を開こうとした時、不意にマニーロフは毛皮外套の下から、筒のように巻いて、淡紅ときいろのリボンでしばった紙を取り出した。
「それは何ですか?」
「例の百姓たちですよ。」
「ああ!」彼は早速それをひろげて、さっと一通り眼をとおしたが、そのあまりにも整然きちんとした綺麗な出来ばえにびっくりした。「実に見事に書けておりますねえ。」と彼は言った。「これじゃあ浄書する必要もありませんよ。おまけに、ぐるりに縁までとってあるじゃありませんか! 一体どなたがこんなに巧く縁をおとりになったのですか?」
「そんなことはお訊ねになるまでもありませんよ。」とマニーロフが言った。
「あなたですか?」
「いえ、家内ですよ。」
「ああ、それは、それは! こんなお手数をおかけしては、ほんとに、何とも恐縮ですねえ。」
「いいえ、ほかならぬパーウェル・イワーノヴィッチのためですもの、手数だなどということは決してありませんよ。」
 チチコフは感謝をこめてお辞儀をした。彼が売買登記の手続きに裁判所へ行くところだと聞くと、マニーロフはそれでは一緒に行こうと言った。そこで二人の友は、腕を組みあって一緒に出かけた。マニーロフは、ほんのちょっとした登り道や坂や段々があっても、早速チチコフのからだを支えて、例の気持のいい微笑をうかべながら、殆んど相手を抱きかかえるようにして、どんなことがあってもパーウェル・イワーノヴィッチのおみ足に怪我などさせてはなりませんからねと言い添えたものだ。チチコフは、どう言ってそれを感謝したものかと、どぎまぎした、というのは少々うるさく思ったからである。お互いに世話を焼きながら、二人はとうとう役所のある広場へ着いた。それは大きな三階建の石造の建物で、全体を白墨チョークのように真白に塗ってあるのは、中で職務をとっている連中の心の潔白を表わしたものでがなあろう[#「ものでがなあろう」はママ]。その広場にある他の建物は、大きさでは到底この石造家屋には敵わなかった。それは、鉄砲を持った兵隊の一人たっている哨舎と、二三の辻馬車屋の溜りと、それから長い長い木柵とで、それには炭や白墨でよくある字や絵の楽書がしてある。このがらんとした、或は我が国の言いならわしに従えば綺麗さっぱりとした広場には、それ以外には何一つなかった。二階と三階の窓から、*5フェミダの祭司どもが、清廉潔白な首を覗けたが、途端にまた引っこめてしまった。多分そのとき、上官でも部屋へ入って来たのだろう。二人は階段を、ただ登るのではなく、駈けあがって行った。というのは、チチコフはマニーロフが腕をとって援けようとするのを極力さけて足をはやめ、マニーロフはマニーロフでチチコフを疲れさせてはなるものかと飛ぶようにして駈けあがったからで、それがために二人が暗い廊下へ飛び込んだ時には、どちらもぜいぜいとひどく息を弾ませたものだ。廊下にも部屋の中にも二人の眼を驚かすほどの清潔さは見られなかった。まだその頃は一向そんなことに心を配る者がなくて、穢ないものは穢ないままに、外面をつくろうなどということはなく、ありのままに放任されていたのだ。フェミダもありのままの不断着の姿で客を引見したものである。さて我等の主人公たちが通り過ぎて行った事務室の光景を一つ描写しなければなるまいが、こういうお役所のこととなると、どうもおっかなくって、作者わたしなどは手も足も出なくなるのだ。作者がもし、床やテーブルにはニスをいた、外観は実に高尚で光り目映ゆいばかりの役所の中を通り過ぎるようなことがあれば、もうおとなしく伏目になって足許ばかり見ながら、出来るだけ早く駈けぬけようとする、従って、何がそこでいとも盛大に行われているのやら、まるきり分らないのである。が、我等の主人公たちは、書きつぶしたり白紙のままの夥しい紙だの、俯向きになっている頭だの、だだっぴろいうなじだの、燕尾服や、田舎仕立のフロックコートを著た連中だの、また中には非常にくっきり浮きたつような、薄鼠いろの背広姿ですましている男だのを見たが、この背広姿の先生は、首をぐっと横へ曲げて、殆んどそれを紙にくっつけないばかりにして、手ばやく書き擲るように、何でも他人ひとの土地をおとなしい地主が横領して、長の一生を裁判沙汰のまま、却ってそのお蔭で自分も子供も孫も何不自由なく、今日まで安穏に暮らして来た、その地所の横領とか差押えに関する訴訟記録か何かを抜萃していた。また時々、嗄がれ声で、『フェドセイ・フェドセーヴィッチ、三百六十八号の件を頼みます』とか、『君はいつも官有のインキ壺の栓をどっかへ持って行くんですね!』というような、短かい文句が耳についた。時には確かに上役の声らしいもっと威厳のある声が、『さあ、書き直し給え! さもないと、靴をぬがせて、六日六晩、飲まず食わずで、わしの前に坐らせてやるぞ!』と、高圧的に響きわたった。紙の上を走るペンの音はなかなか騒々しくて、ちょうど柴をつんだ数台の荷車が、六七寸もの厚さに落葉の積っている森の中でも通る音に似ていた。
 チチコフとマニーロフとは取っつきの、まだ年若な二人の役人の坐っている、テーブルへ近づいて、
「あの、ちょっと伺いますが、農奴係りはどちらでしょうか?」と訊ねた。
「一体どんな御用ですかね?」と、役人は二人ともこちらを向いて訊きかえした。
「実は売買登記をして頂きたいと思いますんで。」
「で、何をお買いになったんですか?」
「それはともかく、農奴係りはどちらでしょうか、それから先きに伺いたいのです。こちらなんでしょうか、それとも何処かほかなんでしょうか?」
「いや、それよりも先ず何を如何ほどでお買いになったのか、それから先きに仰っしゃって下さい。そうすれば、係りをお教えしますよ。でなくっちゃ、お教えする訳に参りませんなあ。」
 チチコフはすぐに、この二人は若造の役人が皆そうであるように、無闇に好奇心が強くて、そんなことを言って役人風を吹かせてからに、自分たちの職掌に勿体をつけようとしているのだなと見てとった。
「ですがね、」と彼が言った。「私は、農奴に関する限り、それが幾らで売買されようが、いっさいの手続きが同一の係りで取扱われることぐらいは、ちゃんと心得ていますからね、だからその係りを教えて頂きさえすればいいんです。もしあなた方が、どこで何を取扱うかも御存じないというのなら、他の方にお訊ねするだけですよ。」役人たちもそれには返す言葉がなくて、一人が黙って部屋の片隅を指さした。そこには、一人の老人がテーブルに向って、何かの書類に記号しるしを入れていた。チチコフとマニーロフとは、テーブルの間を通ってまっすぐにその老人のところへ行った。老人はひどく熱心に仕事に没頭していた。
「ちょっと伺いますが、」とチチコフは会釈をして言った。「農奴係りはこちらでしょうか?」
 老人は眼をあげると、休み休み、『農奴係りはここじゃありません。』と言った。
「じゃあ、どちらなんでしょう?」
「それは農奴課ですよ。」
「その農奴課というのは何処ですか?」
「それはイワン・アントーノヴィッチが係りです。」
「そのイワン・アントーノヴィッチは何処にいるんです?」
 老人は別の隅を指さした。チチコフとマニーロフとはイワン・アントーノヴィッチのところへ行った。イワン・アントーノヴィッチは逸疾く片眼を後ろへむけて、ジロリと横目で二人を眺めたが、それと同時に一層熱心そうに書きものに没頭した。
「ちょっと伺いますが、」チチコフは会釈をして言った。「農奴係りはこちらでしょうか?」
 イワン・アントーノヴィッチは何も聞こえないといった風に、まるで書類の中へ顔をつっこんだまま、何の返事もしなかった。一見してこれは、もう分別盛りの男で、若いおしゃべりのおっちょこちょいとは違うということが分った。イワン・アントーノヴィッチは、四十の坂はよほど越しているらしかったが、髪は黒くて房々としており、顔の中央が全体に前へせりだして鼻になっている、つまり一般に土瓶面といわれている顔の持主であった。
「ちょっと伺いますが、農奴課はこちらでしょうか?」とチチコフが言った。
「ここです。」そう言ってイワン・アントーノヴィッチは、その土瓶面をこちらへ向けたが、すぐにまた書きものに取りかかった。
「実は、こういう用件なんです、私は当地のいろんな地主から農奴を買い取りまして、移住させようと思いますんで、売渡証書もありますから、登記の手続だけして頂けばいいんですがね。」
「売り手は出頭していますかね?」
「出頭する人もありますし、出頭の出来ない人からは委任状が取ってあります。」
「申請書は持って来たんですか?」
「申請書も持参しております。実はその…… 少し急いでおりますが……。どうでしょう、今日じゅうに登記をして頂く訳には参りませんでしょうか?」
「えっ、今日じゅうにですって!…… そりゃ、とても駄目ですよ。」とイワン・アントーノヴィッチが言った。「法律に抵触するようなところがありはせぬか、それも調べてみなければなりませんからね。」
「しかし、手続を早くして貰おうと思えば、所長のイワン・グリゴーリエヴィッチは私の大の親友ですから……。」
「だって、イワン・グリゴーリエヴィッチ一人じゃ駄目ですよ。ほかにも沢山おりますからね。」とイワン・アントーノヴィッチはにべもなく言った。
 チチコフは、イワン・アントーノヴィッチの仄めかした故障の意味を悟って、『いや、他の方にも決して恥はかかせませんよ。私も勤めていたことがありますから、その辺のことは心得ておりますよ……。』と言った。
「じゃあ、イワン・グリゴーリエヴィッチのところへいらっしゃい。」と、イワン・アントーノヴィッチは少し声を柔らげて、「そうすれば、あの人が適当な人に指図をしますよ。我々は命令があれば事務を停滞させるようなことはしませんからね。」
 チチコフは衣嚢かくしから紙幣を一枚とりだして、イワン・アントーノヴィッチの前においたが、相手は全然それには眼もくれず、咄嗟にその上へ本を載せてしまった。チチコフはイワン・アントーノヴィッチにそれを注意してやろうかと思ったが、相手は首を振って、いや、それには及ばないという合図をした。
「さあ、この男が法廷へ御案内いたしますよ。」そう言って、イワン・アントーノヴィッチが顎を一つしゃくると、真面目くさって事務を取っていた下役の一人で、常々フェミダに忠誠をつくすあまり、両袖が肱の辺でぽっかり口をあいて、そこから、もうずっと前から裏地が覗いていたが、その癖やっと十四等官にありついていようといった先生が、*6ヴァージルが曾てダンテを案内したようにペコペコしながら我等の主人公たちを法廷へと案内した。そこには大きな安楽椅子が一脚あって、テーブルの上の*7正義標ゼルツァーロと二冊の部厚な書物の蔭になって、所長がその椅子に、まるで太陽のようにただ一人ぽつねんと坐っていた。そこまで来ると新時代のヴァージル先生は、すっかり畏怖の念に打たれてしまい、もはや一歩も前へ足を進めることが出来ず、くるりと向きをかえて、鶏の羽毛などのくっついている、まるで蓙みたいにぼろぼろにすりきれた背中をみせて引っ返して行った。一歩法廷の大広間へ入ると、そこにいるのは所長一人だけではなく、彼の傍らには正義標の後ろにすっかり隠れてソバケーヴィッチの坐っていることが分った。客の入ってきたのを見ると、ワッと喚声があがり、騒々しい音を立てて所長が椅子を後ろへ押しやった。ソバケーヴィッチも椅子から立ちあがったので、例の長い袖をぶらさげた恰好がまるみえになった。所長はチチコフを迎えて抱擁した。すると接吻の音で法廷じゅうが響きわたった。彼等は互いに相手の健康を訊ねあったが、その結果、どちらもちょいちょい腰が痛むということが分り、それはてっきり坐ってばかりいる生活のためだろうと断定された。所長はもうチチコフの農奴買入れの話はソバケーヴィッチから聞いていたものと見え、さっそくお祝いを述べにかかったので、我等の主人公は初めちょっと面喰らった。殊におのおの内密で取引を結んだ、売り手のソバケーヴィッチとマニーロフが今いっしょに顔を突きあわせているのだから尚更具合が悪かった。しかし所長に一応謝意を述べると、彼はさっそくソバケーヴィッチの方をむいて『御機嫌はいかがで?』と訊ねた。
「お蔭さまでな、別にこれという故障さわりもごわせんわい。」とソバケーヴィッチが答えた。なるほど、かれこれいうがものはない筈で、この不思議なくらい体格のがっしりした地主よりは、鉄の方が先きに風邪を引いたり咳をしたりするに違いない。
「まったく、あなたはいつも御壮健ですなあ。」と、所長が言った。「亡くなられた御尊父も御丈夫な方でしたが。」
「ええ、親爺は一人で熊にだって立ちむかいましたからなあ。」とソバケーヴィッチが答えた。
「しかし、あなただって、」と、所長が言った。「熊を相手になされば、大丈夫、手玉にとれそうですぜ。」
「いんにゃ、そうはいきませんわい。」とソバケーヴィッチが答えた。「亡父はわしなんかよりずっと強うがしたからなあ。」そう言って、彼は一つ溜息をついてから、「いや、当節の人間はがらりと違いまさあ。わしの暮らしにしてからが、なんちゅう暮らしでごわしょう? どうも、これはあんまり……。」
「あなたの暮らしがどうして立派でないと仰っしゃるんで?」と、所長が訊ねた。
「よかごわせんよ、まったくよかごわせんよ!」と、ソバケーヴィッチはかぶりをふって、「まあ、つもってもみて下さい、イワン・グリゴーリエヴィッチ、わしはこれで五十年から生きておりますが、一度も病気らしいものにかかったことがごわせん。せめて咽喉でも痛むとか、腫物か疔でも出来てくれりゃだが……。どうも、こりゃ好くねえ前兆でがすわい! そのうちに何時か酷い目に合う時が来ますからね。」そう言って、ソバケーヴィッチはひどく憂鬱になってしまった。
※(始め二重括弧、1-2-54)こん畜生め!※(終わり二重括弧、1-2-55)と、チチコフと所長とは同時に思った。※(始め二重括弧、1-2-54)なんという贅沢な苦労をしてやがるのだ!※(終わり二重括弧、1-2-55)
「時に、私はあなたに宛てた添書を貰って来たのですが。」そう言ってチチコフは、衣嚢かくしからプリューシキンの手紙を取り出した。
「誰からですか?」所長はそう言いながら封を切ったが、思わず声をあげて、「ほほう、こりゃプリューシキンからですな! あの男はまだこの世に生き永らえていたんですかね。あれくらい不思議な運命の男はありませんて! あの男も昔はなかなか利口な、大金持でしたがね! それが今では……。」
「犬でがさあ。」とソバケーヴィッチが言った。「百姓という百姓をみんな干乾しにしちまやあがった悪党でがさあ。」
「ああ、宜しいとも、」と、所長は手紙を読みおわってから言った。「じゃあ私が代理を務めることにしましょう。で、その登記はいつになさいます、今すぐですか、それとも後ほどで?」
「さっそくお願いしたいのです。」と、チチコフが言った。「出来れば今日じゅうに片づけてしまいたいと思うのですよ。実は、明日この市をたちたいと思いますのでね。売渡証書も申請書も持って参りました。」
「そりゃ万事承知いたしましたが、しかし何と仰っしゃっても、そう早急にあなたをお帰しする訳にはゆきませんよ。売買登記は今日じゅうに出来ますがね、それはそれとして、あなたにはもっと御滞在願わねばなりませんよ。じゃあ、さっそく指図をいたしましょう。」そう言って彼は事務室の扉をあけたが、その事務室には、それを蜜蜂の箱に例えることが許されるならば、まるで蜂窩にたかる勤勉な働蜂のように、役人がうじゃうじゃ群がっていた。「イワン・アントーノヴィッチはいるかね?」
「おります。」と、中から一人の声が答えた。
「ここへ呼んで下さい!」
 読者には先刻お馴染の、例の土瓶面のイワン・アントーノヴィッチが法廷の大広間へ顔を出すと恭しく一礼した。
「イワン・アントーノヴィッチ、この方の売渡証書を持って行って登記を……。」
「それから、ようがすかね、イワン・グリゴーリエヴィッチ、」と、ソバケーヴィッチが横から口を挟んだ。「少なくとも双方から二人ずつ証人が要りますぜ。さっそく検事を呼びにやって下さい。ありゃ暇人だから、きっと家にいましょう。何もかも試補のゾロトゥーハに委せっきりで、しかもその試補が世界一の収賄漢つかみやときていまさあ。それから医務監督、あれも暇人だから、どっかへ骨牌でもやりに行ってなきゃ、きっと家にいまさあ。それにもっと手近なところに幾らもおりまさあね。トゥルハチェーフスキイだの、ベグーシキンだのと――みんな揃いも揃って娑婆ふさげのやくざばかりでな。」
「いや、成程ご尤もで!」所長はそう言って、早速その人たちを迎えに事務員を走らせた。
「それからもう一人、呼んで頂きたいのですが、」とチチコフが言った。「やはり私が契約を結んできた或る女地主の代理人でして、祭司長のキリール神父の息子とかが、たしか当役所こちらに勤めている筈なんですが。」
「よろしいとも、それも呼びにやりましょう!」と所長が言った。「万事、御希望どおりに取計らいますがね、しかし役人へのお心附けなどは一切御無用ですよ。これはしかとお断わりしておきます。御懇意な方に無駄なお金をつかわせては済みませんからねえ。」そう言うと、さっそく彼はイワン・アントーノヴィッチに何か命令を下したが、どうやらそれは後者にとって余り有難いことではなさそうだった。所長に対してはその農奴売渡証書はどうやら素晴らしい効果を齎らしたようだ。殊にその買入価格が少なくとも十万ルーブリは下るまいと思われたのだから堪らない。所長はさも我が意を得たりと言わんばかりの面持で、暫らくチチコフの顔を見つめていたが、やがてのことに、『成程そうですかい、パーヴェル・イワーノヴィッチ! ありゃ大したものじゃありませんか! とうとうお手に入りました訳ですね。』と言った。
「ええ、どうやら手に入れましたので。」とチチコフは答えた。
「結構なお買物ですよ! まったく、結構なお買物で!」
「ええ、私もね、これ以上いい取引はちょっとないだろうと思いますので。なんにしても人間は、青年時代の自由主義的な妄想などからは脱却して、鞏固な基礎の上にしっかり足を踏みしめなくっちゃあ、人生の目的はまだまだ定まったとはいえませんからね。」こう言って彼は、この時とばかりに自由主義を罵り、いかにも尤もな理由で、世の青年層をけなしつけた。しかし不思議なことに、彼の言葉には、何やら頼りないところがあって、今にも自分自身に向って、『ちぇっ、ほらをふいてらあ、それも大嘘おおぼらをさ!』とでも言いたそうであった。彼はソバケーヴィッチやマニーロフと顔を合わせたら何か面白くないものにぶつかりそうで、二人の顔を見ることが出来なかった。しかしそれは理由いわれのない惧れで、ソバケーヴィッチは顔の筋ひとつ動かさなかったし、マニーロフに至っては、相手の言葉に恍惚となって、我が意を得たりとばかりに頻りにうなずくばかりで、恰かも歌姫が伴奏のヴァイオリンの音を圧倒しながら、小鳥の咽喉も及ばないような巧みな調べを唄う時の、音楽ファンのそれに似た心境に浸っていたのである。
「だが、どうしてイワン・グリゴーリエヴィッチにお話にならないのです?」とソバケーヴィッチが口を入れた。「一体全体どんな農奴を手にお入れになったかってことをさ。あなたもあなたですよ、イワン・グリゴーリエヴィッチ、この人が一体どんな農奴を買い取ったか、それを訊かないちゅう法がごわすかい? そりゃ素晴らしい奴ばかりでがすぜ! 言ってみりゃ、まず黄金きんでがすなあ! わしなんざあ、馬車大工のミヘーエフさえこの人に売っちまったでがすからなあ。」
「まさか、あのミヘーエフまでお売りになるなんてことはないでしょう?」と、所長が言った。「あの馬車大工のミヘーエフなら、私も知っていますよ。立派な職人でしてな、私も馬車の改造をさせたことがありますわい。だが、ちょっと待って下さい、おかしいなあ……。確かあの男は死んだと仰っしゃったじゃありませんか……。」
「誰がミヘーエフが死んだなんて言いましたい?」と、ソバケーヴィッチは少しも動ずるところなく答えた。「死んだのはあれの兄の方で、あいつはまだピンピンしているばかりか、前よりも丈夫になった位でがすよ。つい四五日前に、モスクワでも出来ないような、素晴らしい半蓋馬車ブリーチカを拵らえたばかりでな。本来なら、皇室の御用を専門に務めさせてもいい位の男でがすよ。」
「いや、ミヘーエフは素晴らしい名工ですよ。」と所長が言った。「それにしてもあれを手離しなさるなんて、実に驚きましたなあ。」
「そのミヘーエフだけじゃごわせんわい! 大工のプローブカ・ステパンも、煉瓦師のミルーシキンも、靴屋のテリャートニコフ・マクシムも、みんなわしの手を離れてこの人に買われちまったのでがすぜ!」そこで所長が、そういう揃いも揃って一家になくてはならぬ人間や職人どもを、どうして手離してしまったのだと訊くと、ソバケーヴィッチは手を振ってこう答えた。「どうもこうもねえ、ふと魔がさしたのでがすよ。ええ、売ってやれえってんで、ついうっかり売っちまった訳でな!」そして彼は、さもそれが残念だといわんばかりに、首うなだれて、こう言い足した。「こんな白髪の親爺になっても、いまだに分別がごわせんのさ。」
「それはそうと、パーウェル・イワーノヴィッチ、」と所長がいった。「あなたは土地もつけずに百姓だけ買ってどうなさるんです? 移住でもさせるんですか?」
「ええ、移住させますので。」
「なるほど、移住のためと仰っしゃれば、話は別ですよ。して、どちらの方面へ?」
「方面ですか……ヘルソン県下です。」
「ああ、それはいい土地ところですなあ!」そういって所長は、あの県下では牧草の出来が素晴らしいなどと撥を合わせた。
「で、地所は充分におありなんで?」
「まあ、こんど買った農奴ぐらいにはたっぷりです。」
「水利は河ですか、それとも池で?」
「河です。しかし池もありますよ。」そう言ってチチコフは、ふとソバケーヴィッチの顔を見た。ソバケーヴィッチは相も変らず落着きはらっていたが、しかしチチコフにはその顔に、『こいつ、出鱈目をいってやがるな! 河や池があるなんて、第一、そんな地所からしてありもしない癖に!』とでも書いてあるような気がした。
 こんな話のつづいているあいだに、証人がぼつぼつやって来た。読者にも先刻お馴染の、いつも眼をパチパチやっている検事を初めとして、医務局の監督だの、トゥルハチェーフスキイだの、ベグーシキンだの、その他ソバケーヴィッチの謂ゆる娑婆ふさげどもが、次々に姿を現わしたのである。その中の多くは、全然チチコフと初対面であった。証人の足りないところは勿論、余計な分まで、役所の連中が代理に選ばれた。祭司長キリール神父の息子ばかりか、祭司長自身までが引っぱり出された。証人たちはめいめい自分の位階勲等まで書いて署名した――或る者は普通と逆の左傾ぎに、或る者はあたりまえの右傾ぎに、また或る者はロシア語のアルファベットには見当らないような文字をまるで上下さかさまに書いたものである。例のイワン・アントーノヴィッチが極めて敏速に事務を遂行して、売買証書は登録され、日附が入れられ、台帳及び所定の場所へ記中されたが、〇・五分の登記手数料と、官報への公告料を課されたきりで、チチコフの出費は極めて小額で済むことになった。おまけにその手数料も、所長の指図で半額だけ出せばよいことになり、あとの半額は有耶無耶になって、いずれ他の請願人が穴埋めをさせられることになるのだろう。
「じゃあ、これで、」と、何もかもが一応かたづいた時、所長が言った。「あとはもう祝杯をあげるだけですよ。」
「仰っしゃるまでもありませんよ、」とチチコフが答えた。「ただ何時にするかを決めて頂けばね。こんな嬉しいお集まりを願っておきながら、シャンパンの二三本も景気よく抜かないでは、手前としてはまったく顔が立ちませんからね。」
「いや、飛んでもない。シャンパンはこちらで持ちますよ。」と所長が言った。「これは我々の義務です、本分です。あなたは我々のお客さんですもの、こちらから御接待をしなくちゃなりませんよ。じゃ、ようがすなあ、皆さん? 何はともあれ、こうしようじゃありませんか、このまま、みんなで警察部長のところへ押しかけるのですよ、あれはまるで魔法使ですからね、あの人が魚市場なり酒倉なりの傍を通りながら、ちょいと※(「目+旬」、第3水準1-88-80)せの一つもして来れば、ちゃあんと我々は酒肴にありつけるというもので! この機会にまたヴィストでも一番やりましょうや。」
 こういう動議を御免蒙ろうなどという者は一人もなかった。立会人どもは魚市場という名前を聞いただけで、もう涎れが垂れそうになり、さっそく一同が帽子を持って立ちあがったので、法廷もそれでひけになってしまった。一同が事務室を通りぬける時、土瓶面のイワン・アントーノヴィッチが丁寧にお辞儀をして、そっとチチコフの耳に、『百姓を十万ルーブリからお買いになって、お心附けが*8白紙幣しろざつ一枚とは、ひどいですなあ。』と、囁やいた。
「百姓にもよりけりでさあ、」と、それに対してチチコフも小声で応酬した。「選りにも選ってくだらない屑ばかりで、その半額にもつきませんや。」そこでイワン・アントーノヴィッチは、こいつあなかなかがっちり屋で、とてもこれ以上は出しっこないと諦めた。
「時にプリューシキンのところでは、幾らずつお出しになりましたね?」とソバケーヴィッチがチチコフの一方の耳許で囁やいた。
「それよりも、あなたはどうしてあんなウォロベイなんてものを掴ませなさるのです?」こうチチコフは、答えの代り言い返した。
「はあて、ウォロベイってね?」と、ソバケーヴィッチが空とぼけた。
「女ですよ、エリザヴェータ・ウォロベイっていう。おまけに語尾しまいのタをトに書き変えたりなすってさ。」
「へえ! そんなウォロベイなんて名前を書いた覚えはごわせんぜ。」そう言って、ソバケーヴィッチはコソコソと他の連中の方へ行ってしまった。
 さて、お客一同は、やがてのことに警察部長の邸へどやどやと乗りこんで行った。警察部長はまったく魔法使みたいな男で、事の次第を聞くや否や、即座に、エナメル塗りの大長靴をはいた小柄できびきびした巡査部長を呼びつけて、その耳へ口を寄せて、何か二言三言ささやいてから『分ったね?』とつけ加えただけであったが、それでもう、来客がヴィストに夢中になっている間に、別室のテーブルの上には、大蝶鮫や、※(「魚+潯のつくり」、第4水準2-93-82)魚や、鮭や、塩漬のイクラや、薄塩のイクラや、鰊や、小蝶鮫や、チーズや、燻製の舌や、乾魚などがうずたかく並べられた――いずれも魚市場から徴発して来たものだ。次いで主人あるじ側からの添物として、*9九プードもある※(「魚+潯のつくり」、第4水準2-93-82)魚の軟骨と頬肉とを入れたピローグだの、白椎茸入りのピローグだの、揚煎餅だの、牛酪菓子マスリャーネッツだの、茹麺麭だのといった、自家うちできのものが持ち出された。警察部長は或る意味に於いてこの市の慈父であり、恩人であった。彼は人民の間では、さながら肉親の家族と共にいるように振舞い、商店や市場へはまるで自分の家の物置へでも入るように自由に出入りしていた。謂ゆる適材適所というやつで、自分の役柄を裏の裏まで理解していた。で、彼がその地位のために生まれたのか、それとも彼のためにその地位が創られたのか、どちらともちょっと見当がつかないほどであった。何処までも利口に立ちまわったため、彼の収入みいりは前任者に比べたら二倍にものぼっていたが、それでいて、おまけに全市民の愛を贏ち得ていたのである。一流の商人連は、何より彼が威張らないという点で非常に彼を好いていた。それもその筈で、彼はそういう連中に子供の洗礼を施してやったり、教父になってやったりしたものだ。時にはしたたか彼等をしぼることはあっても、実にそれが手際よく、相手の肩を叩いたり、笑い出したり、お茶を飲ませたり、こちらから将棋を指しに行く約束をしたり、景気はどうだの、何はどうだのと、いろんなことを根掘り葉掘り訊く、そして子供がどうかして加減が悪いというようなことでも聞くと、さっそく薬剤を教えてやる。要するに、如才がないのだ! 馬車に乗って巡視をしながらも、誰彼なしに言葉をかける。『どうだい、ミヘーヴィッチ! そのうち、例の10ゴルカの勝負をつけなきゃならないなあ。』すると相手は、『はあ、アレクセイ・イワーノヴィッチ、』と帽子をとりながら答える。『是非つけなきゃなりましねえだよ。』――『やあ、兄弟、イリヤ・パラモーヌイッチ、うちの※(「足へん+鉋のつくり」、第3水準1-92-34)馬を見に来てくれよ。君んとこのと一つ駈けっくらをさせようか、序でに繋駕をつけ給え。ね、やってみようじゃないか?』※(「足へん+鉋のつくり」、第3水準1-92-34)馬に夢中になっていた商人は、それを聞くと、いわば相好を崩して北叟笑みながら、顎鬚をなでなで、『やってみましょう、アレクセイ・イワーノヴィッチ!』と答えたものだ。そういう時には、そこに居合わせた連中までがいつも帽子を脱いで、満足そうに、『アレクセイ・イワーノヴィッチは好い人だなあ!』とでも言いたげに、お互いに顔を見あわせたものである。要するに、彼は民心の機微を掴んでいた訳で、『成程アレクセイ・イワーノヴィッチは取るものは取るけれども、その代り決してこちとらを裏切るようなことはしない』というのが商人連の定評であった。
 酒肴の用意が出来たのを見ると、警察部長は一同に向ってヴィストは食事をすましてから勝負をつけてはどうかと提案した。そこで一同は別室へ移ったが、そこからはもう先刻から好い匂いがプンプンとして来て、彼等の鼻の孔を擽っていたのである。ソバケーヴィッチに至っては、最前からちょいちょい扉口を覗いて、一方の大皿にのっかっている蝶鮫に遠くから狙いをつけていたのである。お客はめいめい盃に一杯ずつ、ちょうどロシアで印形を彫るのに使う、あのシベリア水晶の色合いにしか見られないような、黝んだオリーブ色をしたウォツカをひっかけると、早速フォークを取って四方から食卓に向い、謂ゆる各自の性分や癖をまるだしにして、或る者はイクラを、或る者は鮭を、或る者はチーズをむしゃむしゃと貪りはじめた。ソバケーヴィッチはそんなけちなものには眼もくれず例の蝶鮫にしがみついて、みんなが飲んだり、食ったり、話したりしている間に、ものの十五分あまりで、すっかりそれを平らげてしまった。で、警察部長がようやく蝶鮫のことを思いだして、『さあ、今度は一つ皆さんに、この天産物を御賞味ねがいましょうて。』そう言って一同と共に、フォークを持ってその方へ立ち向ったが、ああら不思議や、その天産物は姿を消して、残っているのは尻尾だけであった。そのときソバケーヴィッチは黙々として、素知らぬ顔で少し離れたところにある皿へにじり寄って、何か小魚の干物をフォークの先きでつついていた。蝶鮫を一人ですっかり平らげたソバケーヴィッチは安楽椅子へどっかり腰をおろすと、流石にそれ以上は飲みも食いもしないで、眼を細くしたりパチクリさせたりしているばかりであった。警察部長はどうやら酒をケチケチするのが嫌いな性分らしく、乾杯は何度ということなく重ねられた。最初の一杯は、恐らく読者にも推察がつくとおり、ヘルソン県の新らしい地主の健康を祝して挙げられ、次ぎには、彼の農奴の繁栄と、その移住の多幸を祝し、次いで、彼の未来の花嫁たるべき美人の健康を祝して乾杯されたが、その時、我等の主人公の口許は、さも嬉しそうな微笑に綻びたものである。一同は四方から彼を取り巻いて、せめてもう二週間この市に滞在するようにと、極力、懇願しはじめた。『そりゃ、いけませんよ、パーウェル・イワーノヴィッチ! どういうおつもりか知りませんがね、閾を跨いだばかりで直ぐ引っ返すなんて、そりゃ家の中を寒くするだけじゃありませんか! 是非もう暫らく、滞在して下さい! 花嫁のお世話でもしましょう。ねえ、そうじゃありませんか、イワン・グリゴーリエヴィッチ、この人に一つ花嫁のお世話をしようじゃありませんか?』などと言い出す。
「ええ、お世話しましょう、是非お世話しましょう!」と裁判所長が相槌を打った。「さあ、もうどんなにじたばたしても駄目ですよ、是が非でも花嫁を押しつけますからね! こうなったからには、愚図々々いわないことです。私たちは冗談をいうことが嫌いですからね。」
「これはしたり! 何もじたばたなどするもんですか。」とチチコフは、にやりとして、「女房を持つってことも悪かありませんからね…… ただ適当な相手さえあればね。」
「花嫁の候補はいくらでもありますよ! どうして、ないことがあるもんですか! 何もかも旨くゆきますよ、何でもお望みどおりになりますよ!……」
「まあ、そういうことでしたら……。」
「素敵々々、滞在だ!」と、一同が叫びだした。「万歳! ウラア! パーウェル・イワーノヴィッチ、万歳!」そして、てんでに盃を持って彼の盃とカチあわせに寄って来た。チチコフはみんなと盃をカチあわせた。『いや、もう一度だ!』一層熱狂した連中は、そう言って、更に盃を挙げて詰め寄った。それでも足りずに三度も盃を挙げて、三度目の乾杯をした。間もなく一同はすっかり上機嫌になってしまった。この上もなく人の好い裁判所長は、有頂天になって、幾度となくチチコフを抱いては、感極まって、『お前さんは私の恋人だよ! 私のお袋だよ!』と言ったり、剰さえ指をパチパチ鳴らして、彼のまわりを踊りまわりながら、『なんてお前はい奴だ、コマリンスクのお百姓!』という有名な唄をうたい出したりしたものだ。シャンパンに次いでハンガリー酒が抜かれ、それで一層景気づいた一座は更に陽気になった。誰も彼もがヴィストのことなどはすっかり忘れてしまって、あらゆる問題について論じたり、喚いたり、語ったりした――政治上の問題も出れば、軍事関係のことまで飛び出して、これが他の場合だったら、自分の子供でもピシピシと打擲しかねないような、自由主義的な思想を開陳した。ずいぶんむつかしい難問題がいとも易々と即座に解決されたものだ。ついぞチチコフもこれほど愉快な気持になったことがなく、もう本当にヘルソン県の地主になったようなつもりで、農事上のいろんな改良や、11三圃農作のことや、未来の夫婦生活の幸福などに就いてべらべらと喋りまくり、挙句のはてにはソバケーヴィッチに向って、12ウェルテルがシャルロッテに書き送った手紙を詩のように朗読したりしはじめたが、それに対して当のソバケーヴィッチは、安楽椅子に坐ったまま眼をぱちくりさせるだけであった――というのは、あれだけの蝶鮫を平らげた後のこととて、ひどく睡気がさしていたからである。チチコフも、どうやらこれは少しお調子に乗りすぎたと気がついたので、さっそく馬車の借用を申し込んで、検事の馬車を借りて帰ることにした。途中で分ったことだが、検事の馭者はなかなか経験のつんだ奴らしく、片手で手綱をさばきながら、片手は後ろへまわして我々の主人公をしっかり支えていたものである。先ずこんな具合にして検事の馬車で自分の宿へ帰りついてからも、くどくどと長いこと彼は、右の頬っぺたにえくぼの出来る、血色の美しい薄色髪の花嫁だの、ヘルソン県下の持村だの、財産だのと、いろんなくだらないことを喋りちらしていたものである。セリファンに対しては、新らしく移住させた百姓の人員点呼をするから一人残らず呼び集めろと命令したりした。セリファンは長いこと黙ってそれを聞いていたが、やがて部屋を出るとペトゥルーシカに向って『はやく旦那の着物を脱がせろよ!』と言った。ペトゥルーシカは長靴を脱がせにかかったが、あぶなく長靴と一緒に主人まで床の上へ曳きずりおとしそうにした。それでもどうにか長靴をぬがせると、主人は曲りなりにも着物を脱いで、寝台をガタビシとやけに軋ませながら、暫らくのあいだ輾転反側していたが、やがてのことに、すっかりヘルソン県の地主になったような気持で、ぐっすり寝こんでしまった。その間にペトゥルーシカの方は、主人のズボンと、例のピカピカ光る蔓苔桃色の燕尾服を廊下へ持ち出して、木の衣紋掛にかけて、廊下じゅうに埃りを立てながら、服叩きでたたいたりブラシをかけたりし始めた。やがてそれを取りはずそうとして、ふと外廊下から下をのぞくと、今しも厩から戻って来たばかりのセリファンの姿が眼についた。二人は眼と眼を見合わせたが、以心伝心でお互いの心が通じ合った。――旦那は寝こんでしまったから、一つどっかへ出かけようというのだ! さっそくペトゥルーシカが燕尾服とズボンを部屋の中へ取りこんでおいて階下したへおりると、二人は行先のことなどは何一口いわずに、途々もまるでそれとは関係のない軽口を叩きながら、相携えて出かけた。が、二人の漫ろ歩きは決して長いものではなかった。ただ通りを横切っただけで、ちょうど旅館の真向いにある一軒の家に辿りつくと、煤で真黒になった低いガラス扉を押しあけて、まるで穴倉のようなところへ入って行ったが、そこにはもう、いろんな種類の人間が、木のテーブルに向って腰かけていた。鬚を剃ったのや、剃らないのや、裸皮の百姓外套を著たのや、シャツ一枚きりしか著ていないのや、そうかと思うと、粗羅紗のマントにくるまったのなどもいた。さて、そこでペトゥルーシカとセリファンがいったい何をしたかということは、神様より他には御存じあるまいが、とにかく一時間ばかりすると、二人は腕を組みあって、黙りこくったまま、お互いに足許に注意したり、角々を警戒しながら、そこから出て来た。手に手を取って、縺れあいながら、二人は階段を上るのに四半ときも手古摺っていたが、それでもやっとのことで二階へ這いあがった。ペトゥルーシカは自分の低い寝台の前にちょっと立ちどまって、さてどういう風に寝たものかと考えた挙句、ごろりと寝台へ直角に寝そべったものだから、彼の両足は床についたままで立膝になった。セリファンもその同じ寝台へぶっ倒れるなり、本来自分の寝るのはここではなく、厩の中で馬の隣りにでも寝なければ、せいぜい下男部屋で寝るのが当然だということも忘れて、ペトゥルーシカの腹を枕に横たわってしまった。二人はそのまま寝こんで、前代未聞の大鼾をかきはじめた、それに合わせて隣りの部屋からは、笛のように細い旦那の鼻息が聞こえていた。それについで間もなく辺りがひっそりして、旅館全体が深い眠りに落ちた。ただ一つだけまだ灯影のさしている小窓があった。それはリャザーニからやって来たという例の中尉が泊っている部屋で、この男は、どうやら、大の長靴気違いだと見えて、もう既に四足も拵らえた癖に、また五足目を注文して、ひっきりなしに足に合わせてみているのであった。幾度も彼は寝台へ近寄って、それを脱ぎすてて寝ようとするのだが、どうも思い切って寝られないのだ。長靴はまったく素晴らしい出来ばえであった。彼はいつまでもいつまでも、足を持ちあげては、実に見事に仕上げられた靴の踵をつくづくと飽かず眺めているのであった。
*1 トルジョーク トゥヴェリ県下の小都会で、手細工ものの産地として有名なところ。
*2 氷穴 冬季河川の氷結した表面に水汲みのために穿った穴。
*3 カリャーキン、ウォロキータ カリャーキンにはがにまた、ウォロキータには愚図の意味が含まれていて、どちらも凡そ逐電には不向きな名前であるが、それをここでは反語的に皮肉っているのである。
*4 バブカ遊び 動物の小骨を一列に立てておいて、それを一定の距離から、やはり骨を投げて倒す、幼稚な遊戯。
*5 フェミダ ギリシア神話に於ける法律の女神。目隠しをして秤を持った像であらわされている。
*6 ヴァージル 古代ローマの叙事詩人で、ホーマーと並び称せられているが、ダンテの『神曲』では、このヴァージルの案内で作者が地獄や煉獄を遍歴することになっている。
*7 正義標ゼルツァーロ 三角錐形の置物で、頂上に帝室の紋章をつけ、三つの面に各々ペテロ一世の勅令を彫みつけたもので、役所のテーブルの上に必らず備えつけられていたもの。
*8 白紙幣 二十五ルーブリ紙幣のこと。
*9 九プード 一プードは四貫三百八十匁だから、九プードといえば殆んど四十貫にも当る重量である。
10 ゴルカ 民衆的な骨牌戯法の一種。
11 三圃農作 ロシアで最も普通に行われる耕作地の用い方で、最初の年に秋蒔麦を作り、次ぎの年に春蒔麦を作り、第三年目は農作を休んで、翌年から又、前述のように繰り返して農作をする方法である。
12 ウェルテルがシャルロッテに書き送った手紙 ゲーテの小説『若きウェルテルの悲しみ』――この小説は、主人公ウェルテルが愛人シャルロッテに送った書簡で全篇が構成されているから、その中の一節を諳誦したのである。
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第八章


 チチコフの農奴買入れは好個の話題になった。様々の風評や意見が市じゅうにひろまって、移住の目的で農奴を買うことが果して有利かどうかに就いて、いろんな論議が行なわれた。論議を聞いてみると誰も彼もがいかにもその問題に精通しているように思われた。『そりゃ、もう、』と或る者が言った。『有利にきまっていますよ、それには議論の余地がありませんて。南方の諸県は確かに地味が肥沃ですからねえ。だが、チチコフ氏の百姓どもは、水なしで一体どうするんでしょう? あの辺には、河ってものが一つもありませんからね。』――『いや、水がないからって大事ありませんよ。それは別に大した問題じゃありませんがね、ステパン・ドミートリエヴィッチ、それはともかくとして、どうも移住ってことは、あんまり感心できませんよ。何しろ百姓ってやつがどんなものかは、明々白々ですからねえ、新らしい土地へ移して、耕作をさせる段になっても、まだ小屋もなければ、屋敷もなく、まるで裸一貫ですからね、もう間違いなしに逃げっちまいますよ――尻に帆あげて行方も知れず逐電しちまうに決まっていますよ。』――『いや、ちょっと待って下さい、アレクセイ・イワーノヴィッチ、失礼ながら私は、チチコフ氏の農奴が逃亡すると仰っしゃるあなたの御意見には賛成できませんよ。ロシア人ってやつは、何にでも適応してゆくことの出来る国民で、またどんな気候風土にも慣れることが出来るのです。例えば、カムチャッカのようなところへやったとしても、まあ防寒手袋の一つも宛がえば、平気で斧をかついで、新らしい小屋を建てる木を伐りに出かけますからね。』――『だが、イワン・グリゴーリエヴィッチ、君は一番重要なことを見落しているよ。君は第一チチコフの買った農奴が一体どんな農奴だってことをまだ考えてみないんだろう。地主が決して良い農奴を売る筈がないということを君は忘れてるんだ。僕は、チチコフの買った農奴が大泥坊で、しようのない飲んだくれで、手のつけられない破落戸ごろつきでなかったら、この首を賭けてもいいねえ。』――『なるほど、それは私も同感です、そりゃあまったくですよ、誰だって良い百姓を売る筈はありませんからねえ、きっとチチコフ氏の買った百姓は飲んだくれでしょうさ。しかし、道徳というもののあることは見逃す訳にゆきませんよ、やはり奴らにも道徳はありますからね。今はしようのないならず者でも、新らしい土地へ移住すると同時に、忽ち優秀な人間に変るかもしれませんよ。そういう例は世間にも、歴史上にも間々あることですからね。』――『いやいや、断じて、』と官営工場の監督が言った。『そんなことは絶対にあり得ませんよ。と言いますのは、チチコフ氏の農奴には二つの強敵が今に現われるからです。その第一の敵は、行先が小ロシアの諸県に接近していることで、あちらでは周知の如く、酒の販売が自由に許されていますからね。無茶飲みをした挙句、二週間もすれば奴らがまるで役に立たなくなってしまうことは請合いですよ。それから第二の敵は、他ならぬ放浪癖で、これは百姓を移住させる時に必らず染みこむものです。だからチチコフ氏は、絶えず奴らから眼をはなさず、ピシピシ厳重に取締って、どんな些細なことでも容赦しちゃいけない。それも他人委せにしないで、自分で直接じかにぶつかって、必要な場合には、横面殴よこびんたを喰らわせたり、首根っこを殴りとばしてくれなきゃ駄目ですよ。』――『なにも、チチコフ氏自身がそんな大騒ぎをしたり、打ち打擲まですることはないでしょう? 然るべき管理人を雇ったらいいじゃありませんか。』――『そりゃ、管理人は幾らでもありましょうが、みんな悪党ばかりですからね!』――『悪党になるのも、主人が事にあたらないためですよ。』――『確かにそうですねえ!』と多くのものが相槌を打った。『主人たるものが多少でも家事に明るくて、人を見わけることが出来さえすれば、自然と管理人もよくなりますからねえ。』ところが工場監督は、良い管理人を五千ルーブリ以下で雇うことは決して出来ないと言った。しかし裁判所長は、三千ルーブリも出せば結構あると言う。すると工場監督は、『一体そんなのが何処にいるのです? 目と鼻の先きにでもお心当りがあるのですか?』と訊いた。しかし裁判所長は、『目と鼻の先きという訳じゃありませんがね、この郡下にピョートル・ペトローヴィッチ・サモイロフという男がいます、あんなのが丁度チチコフ氏の農奴には持ってこいの管理人ですよ!』と答えた。多くの者がチチコフの立場にいたく同情して、そのような多人数の農奴を移住させる苦労に竦然ぞっとした。そしてチチコフの農奴みたいな不穏な手合いの間には、百姓一揆がおこりはしないだろうかと、ひどく危ぶみはじめた。それに対して警察部長は、決して百姓一揆などの心配はない、それを防遏するために郡警察署長というものが置いてあるのだ、郡の警察署長は自から出馬する代りに自分の制帽だけ送ってやりさえすれば、それだけで農奴を恙なく所定の居住地へ護送することが出来ると言明した。多くの連中は、険悪化したチチコフの百姓どもの不穏の形勢を如何にして鎮圧すべきかについて、てんでに意見を述べた。意見は種々様々で、中には軍隊のそれにも劣らない厳重苛酷な態度をよしとするものもあれば、そうかと思うと温情主義を振りかざしているものもあった。郵便局長は、チチコフが自分の農奴たちにとって、彼の表現によれば、一種の父親となって、有益な教化の実を挙げるという神聖な義務を負わされていると言い、それには、*1ランカスター式相互教育法を採用するのが最も有効だと主張した。
 こんな具合に市ではいろんな議論や取沙汰に花が咲き、お切匙な連中は、直接チチコフに向ってかれこれと助言したり、目的地へ安全に農奴を送りとどけるため、護衛兵でも雇ってはどうかとすすめたりさえした。そうした助言に対し、チチコフは謝意を述べて、場合によっては御忠告に従うに決して吝かでないと答えた。が、護衛兵の一件だけは、全然そんな必要がない、自分の買入れた農奴は頗る性質がおとなしくて、そのうえ自発的に移住の心構えになっているのだからどんなことがあっても、彼等のあいだに一揆などの起こる心配はないと言って、きっぱりそれを断わった。
 だが、そうした取沙汰や議論は、チチコフにとってはまったく願ってもない、極めて好都合な結果を齎らした。即ち、彼はてっきり百万長者に違いないという噂がひろまったのである。我々が既に第一章に於いて見たように、この市の連中は、そうでなくてもチチコフに心酔していたのだから、そんな評判が立ってからというものは、いよいよ夢中になった。とはいえ、実のところ彼等もみな善良な人たちで、お互い同士仲がよく、まるきり友達附合いをしていたから、語りあう言葉にもどことなく一種特別な純真さと心易さの響きが籠っていた。例えば、『やあ、イリヤ・イリイチ君!……』だの、『こうなんだよ、兄弟、アンチパートル・ザハーリエヴィッチ!……』だの、『イワン・グリゴーリエヴィッチ、そいつは君、出鱈目というものだよ!』といった塩梅。郵便局長はイワン・アンドレーエヴィッチという名前だったが、みんなはいつも、『*2シュプレヘン・ジイ・ドイッチェのイワン・アンドレーイッチ!』と附け加えたものだ。要するに、凡てが極めて家族的だったのである。多くの者は相当の教育を受けていた。裁判所長はその当時まだ斬新とされていた*3ジュコフスキイの『リュドミーラ』を空で覚えていて、その大部分を朗々と諳誦したもので、殊に『松林はやしは眠り、谷はね』というあたりは、ほんとにありありと谷が眠っているように感じられ、思わず『謹聴!』と声がかかる、そういう時には一入ひとしお実感を出すために彼は眼を細く閉じさえしたものだ。郵便局長は、どちらかといえば寧ろ哲学に興味をもって、*4ヤングの『夜』や、*5エッカルッハウゼンの『自然の神秘を解く鍵』などをとても熱心に、夜でさえ読み耽って、そういう書物から厖大な抜萃を拵らえたものであるが、それが一体どんなものであったかは誰ひとり知らなかった。それでいて彼は弁舌が達者で、美辞麗句を操ることに秀で、自分でもそう言っていたように、言葉を『潤飾する』ことが好きだった。彼は実際いろんな助辞や副詞をはさんで言葉を潤飾した。例えば、『ねえ君』、『まあ、そういった風な』、『ね、つまり』、『よろしいかね』、『そうでしょう』、『まあ、言ってみれば』、『大体は』などという類いの文句をやたらに撒きちらした。それに彼はまた※(「目+旬」、第3水準1-88-80)せをしたり、片目をパチパチさせたりすることによって、矢張りなかなか巧く言葉を潤飾したが、なるほどそうすると、いろんな彼の皮肉な言い草がひどく辛辣味を帯びてくるのであった。その他の連中にも、大なり小なり教養があって、或る者は*6カラムジンを読み、或る者は*7『モスクワ報知』を読んでいたが、中には全然なにも読まないような手合いもあった。それから謂ゆる愚図というやつで、何かさせるためには足を蹴とばすようにするより他はないといった人間もあった。また年がら年じゅう寝そべってばかりいて、起たせようと思っても、とても無駄な話で、どんなことがあっても決して起き上ろうとしない無精者もあった。風采にかけては既に周知のとおり、みんな実に堂々たる連中ばかりで、彼等の中には肺病やみなどというものは一人もなかった。どれもこれも、細君と二人きりで睦言を交わす時、細君からふとっちょさんだの、おでぶさんだの、お太鼓さんだの、黒さんだの、キキだの、ジュジュだのといった有難い呼び名を頂戴する連中だった。だが、概して好人物ぞろいで、そのうえ客あしらいがとてもよくて、彼等の家で手厚い御馳走になるとか、一夕ヴィストの相手でもすれば、もうそれですっかり懇意になってしまうのに、況んや人柄といい、物腰といい、いかにも魅惑的で、おまけに人に取入るをちゃんと心得ているチチコフに於いておやだ。一同があまりにも彼に惚れこんでしまったため、チチコフはどうしてこの市を抜け出したものやらさっぱり見当がつかず、何かといえば、きまって『いや、もう一週間だけ、せめてもう一週間だけ滞在して下さいよ、パーウェル・イワーノヴィッチ!』とせがまれるばかりで、一口にいえば、謂ゆる手取り足取り、下へも置かぬ款待を受けていたのである。しかしチチコフが婦人連に与えた感銘は、(これはまったく驚嘆すべきことであるが!)更に目覚しいものがあった。それを多少なりとも説明するには、さしずめ当の婦人連なり、彼女らの社交界について縷々叙述し、その気風をば、謂ゆる鮮明な色彩をもって描写しなければならないが、作者にはそれが甚だ苦手なのである。一面からは、貴顕紳士の夫人がたに対する限りない尊崇の念が作者を押しとどめ、他面からは…… いや、他面からは、つまり苦手なのである。N市の婦人連は…… いや、金輪際駄目だ、どうも気おくれがしていけない。N市の婦人連の最も卓越した点は……。いや、まったく不思議なくらいだ――まるで鉛でも注ぎこんだようにペンが重くなって、いっかな持ちあげることも出来ない。まあ仕方がない。彼女たちの性格の描写は、パレットにもっと生彩のある絵具を、もっと豊富にそなえている人に委せておいて、まあこちとら風情はほんの外郭を、それも極あっさりと一言するのが関の山である。N市の婦人がたは皆、謂ゆる押出しが立派で、この点では他の一般婦人の軌範としてもいい位であった。その身の振舞いは因より、ちゃんとお品を保って最もデリケートな作法にも心をくばり、殊にどんな細かいことにまで最新の流行を追う点では、まったくペテルブルグやモスクワの婦人連にすらひけを取らないほどであった。彼女たちはなかなか凝った服装をして、市内を軽馬車で乗りまわしていたが、その馬車の後部には、ちゃんと流行にしたがって、金モールつきのお仕着せを著た従僕がゆらゆら揺れながら立っていた。たとえクラブの二かダイヤの一の札に書いたような訪問用の名刺でも、やはり、非常に神聖なものとされていた。それが原因もとで、無二の親友で、そのうえ親戚同士であった二人の婦人が、すっかり仲違いをしてしまったことがある。それというのも、片方の婦人が、つい訪問の答礼を怠ったということからであった。その後、双方の良人や親戚縁者が二人を仲直りさせようとして、どんなに骨を折っても駄目だった――実際この世の中に何一つ出来ないことはない筈だが、訪問を怠ったことで仲違いした女の仲直りをさせることだけは出来ない相談であった。そんな訳で二人の婦人は、この市の上流社会の人たちの言い草ではないが、『互いに睨み合いの形』になってしまったのである。一位争いというやつでも矢張り、猛烈な張合いになって、ともすれば良人たちに、全く騎士的な、鼻の下の長い身代り役を引受けさせたものである。尤も彼等は皆おとなしい文官ばかりであったから、決闘などは勿論しなかったけれど、その代り互いに相手を糞味噌に誹謗した。ところが周知の如くそれは、ともすればどんな決闘よりも遥かに辛いものである。気風に於いてN市の婦人連はひどく厳格で、あらゆる堕落あらゆる誘惑に対して気高い憤懣の情を抱き、如何なる弱点をも情け容赦なくやっつけた。もし彼女等のあいだに謂ゆる『うわき』をするというようなことがあったとしても、それはごく内密に行われたので、事実は、少しも外部に漏れず、相変らず猫ととくわぬ顔で澄ましていた。それに良人の方も心得たもので、たとえ当の間男を見たり、又はそんな噂をきいたりしても、『なあに、教母が教父と一緒にいたって、何も頭痛にやむことはないさ!』とあっさり如才のない諺で片づけてしまったものである。なお、是非述べておかなければならないのは、N市の婦人連が、ペテルブルグの婦人の多くと同様、言葉や物の言いまわしに並々ならず注意を払い、嗜みを保っていたことである。彼女たちは決して『鼻をかんだ、汗をかいた、唾を吐いた』なぞとは言わないで、『鼻を軽くしました、手巾をぐっしょりにしました』などという風に言った。どんな場合でも、『このコップ(又は皿)は臭い』などと言ってはならない、いや、そういったことを仄めかすような言葉づかいをしてもいけないのだ。そんな場合には、『このコップはお行儀が悪うございますわ』とか何とか、そんな風な言い方をしたものである。ロシア語をより一層お上品にしようとて、日常語の殆んど半ばがまったく除外されてしまったため、何かといえばフランス語にたよらなければならなかった。ところがフランス語となると、もはや問題は自ずから別で、前述の言葉などより遥かにひどい言葉でも平気で語られたものである。で、外面的なところだけ言えば、N市の婦人方というのは、まず大体こんなものであった。しかし、もう少し深く観察すれば、勿論いろんな異ったものがざらに発見されるだろうけれど、御婦人がたの内心を覗きこむのは、どうも甚だ以って危険千万である。それでまあ、この位のことにしておいて、先きをつづけることにしよう。さて、このまちの婦人連は、これまでとてチチコフの如才ない応対の気持よさは十二分に認めていながら、彼のことを余り喧ましくは言わなかったのであるが、一たび彼が百万長者だという噂がひろまってからは事態が一変した。といっても、決して婦人連が打算的であったためではなく、そもそも『百万長者』という言葉が因をなしたのである――百万長者そのものではなく、偏えにその言葉が影響したのである。というのは、この言葉の音には、どんな金嚢にもまして、卑しい人間をも、どっちつかずの人をも、また立派な人々をも、つまり万人を動かす何ものかが潜んでいるからである。百万長者には、何ら打算に立脚しない、慾得を全然はなれた、純粋な卑下に接し得られるという役得がある――つまり大衆は、百万長者から何ひとつ利益など受けられるものでもないし、また受ける権利もないということは百も承知の癖に、もうきまって、先まわりをして、へらへらと笑いかけ、帽子をとって、相手がどこそこの晩餐に招かれて行くのだと分ると、自分も無理矢理にそこへ押しかけて行くのだ。そういった卑劣な諂い根性が婦人連の心にきざしたのだとは言えないが、あちこちの客間で、チチコフは決して天下無双の好男子ではないにしても、その代り男としては誠に申し分がない、但し彼がもう少し肥っていたらさぞ見られなかったろう、などという噂が盛んに出るようになった。それに関聯して、痩せた男にとっては余りどうも香ばしくない話が出た――そもそも痩せん坊などというものは、せいぜい爪楊枝かなんかに類するもので、人間じゃないというのだ。婦人連の衣裳には急にいろんな装飾がくっつけられるようになった。百貨店は押し合いへし合いごった返した。まるでお祭り騒ぎで、馬車がわんさと押し寄せた。商人たちは、定期市いちで仕入れてきたものの、値段が少し高いために一向はけなかった切地が、急に捌けだして、飛ぶように売れ始めたのを見て、ただもう吃驚してしまった。ミサの時、一人の婦人が、会堂の半ばを領するような素晴らしく大きな箍骨ルーロを入れた着物をきてやって来たため、その場に居合わせた巡査は、くだんの貴婦人の衣裳をもみくちゃにしては大変だとばかりに会衆にもっと遠くへ、出口の方へ寄れと命じたものである。チチコフ自身も幾分はこうした異常な空気に気がつかずにはいられなかった。或る時、彼が宿に帰って見ると、テーブルの上に一通の手紙がのっていた。一体どこから誰が持って来たのやら皆目わからなかった。給仕の話では、使いの者が誰からということは口止めされていると言ったそうだ。手紙は次ぎのような、非常に思いきった文句ではじまっていた。『いいえ、妾どうしてもお手紙を差しあげずにはおられませんわ!』それから、魂と魂とのあいだには神秘な共鳴が存するというようなことを書いて、その真理を強調するために殆んど半行ほども点々がうってある。それに次いで誠に肯綮にあたる卓見が述べられてあったが、これは是非ともここに抜萃しておく必要があるとおもう。『わたくし共の生活とはそも何でございましょう?――悲しみの棲む谷間でございます。社会とは何でございましょう?――感情を失った人間の集合でございますわ。』それから手紙の主は、すでに二十五年も前にこの世を去った優しい母のものした文章に涙が流れますと書き、こんな息づまるような囲いに閉じこめられて、胸一ぱい空気を吸うことも出来ないまちは永久に見棄てて、いっそ曠野へ参りましょうよと、チチコフを誘っているのだ。手紙の最後は決定的な絶望の調子を帯びて、こんな詩句で結んであった。

二羽の小鳩は御身に示さん、
わが冷たき屍灰をば。
懶げにククと鳴きつつ御身に告げん、
彼女は涙のうちにみまかれりと。

 最後の行には韻もふんでなかったが、そんなことはどうでもいい。そもそもこの手紙は当時の風潮によって書かれてあったのだ。署名らしいものは何も書いてない。名前もなければ、苗字もなく、日附ひとつ入れてなかった。ただ Postscriptum(二伸)で、あなたのお胸に訊けば、手紙の主の見当はつく筈です、又あす知事の家で開かれる舞踏会には、当の本人も出席することになっていますとだけ書き添えてあった。
 これは非常に彼の興味をひいた。この匿名ということにはひどく人の心を惹き、好奇心をそそるものがあったので、彼はその手紙を二度も三度も繰り返して読み、最後にこんなことを呟やいた。『とにかく、この手紙の主がどんな女か、探ってみるのも面白いて!』つまり、問題がどうやら重大性を帯びて来たのである。彼は一時間以上もそればかり考えていたが、しまいに両手をひろげて、首をかしげながら、『だがこの手紙はなかなか非常に凝った名文だ!』と言った。それからこの手紙がたたまれて、何かのビラだの、もう七年間も同じようにして同じ場所にしまわれている婚礼の招待状だのと一緒に、例の手箱の中へしまいこまれたことは言うまでもない。しばらくすると果して彼の許へ、知事の邸で催される舞踏会の招待状が届いた。これは県庁所在地の市にはごくありふれたことで、苟くも知事のあるところ舞踏会あらざるはなしで、さもなくては地方貴族の愛と尊敬をつないで行くことが出来ないからである。
 チチコフはそこで何もかも他のことはうっちゃっておいて、ひたすら舞踏会に出る身仕度に没頭した。それというのも、確かに、彼の心をわくわくさせるような、いろんな動機があったからである。その代り、恐らく天地開闢以来、これほど時間をかけた者はあるまいと思われるくらい身仕舞いに手間どった。姿見に映して自分の顔をつくづくと眺めるだけでも、たっぷり一時間はかかった。ためつすがめつ彼はいろんな表情をしてみた――勿体ぶった糞真面目な顔をするかと思えば、いかにも慇懃な、しかしちょっと微笑を含んだ顔をしたり、また慇懃なだけでにっこりともしない顔をする。そうかと思うと、姿見に向ってペコペコとお辞儀をしながら、何かはっきりしないことを呟やいた。それはどうやらフランス語らしくもあったが、チチコフはてんでフランス語などは一言も知らなかったのだからおかしい。彼はその上、自分にさえ全く思いがけないような、いろんな変な身振りをしたり、眉と唇で※(「目+旬」、第3水準1-88-80)せのようなことをしたり、舌を変に動かしてみたりさえした。要するに、一人きりになって、そのうえ自分を好男子だと自惚れて、しかも誰ひとり隙見などしている者がないと思うと、随分いろんなことをやるものである。最後に顎をちょっと撫でて、『へっ、こいつ、ちょっと踏める御面相だて!』そう呟やいておいて、彼は衣裳をつけにかかった。衣裳をつける間も彼はすこぶる上乗の御機嫌であった。ズボン吊りをかけたり、ネクタイを結んだりしながらも、彼は足擦りの礼をしてみたり、特別あざやかなお辞儀をしてみたり、また、ついぞ舞踏などしたこともない癖に、跳躍をやってみたりした。その跳躍がいささか他愛もない結果を生み、箪笥が揺れて、テーブルの上からブラシがおっこちた。
 彼が舞踏会に姿を現わすや否や、異常な活気が沸きあがった。その場に居合わせたほどの人々が残らず彼を迎えに立ちあがった――或る者は骨牌を手に握ったまま、また或る者は談たまたま佳境に入って、『すると区裁判所のそれに対する答申は……』と、言いかけたところであった。が、区裁判所の答申がどうであろうが、そんなことはうっちゃってしまって、あたふたと我等の主人公の方へ挨拶をしに駈け寄った。『パーウェル・イワーノヴィッチ! これはこれは、パーウェル・イワーノヴィッチ! やあ、ようこそ、パーウェル・イワーノヴィッチ! これはどうも、パーウェル・イワーノヴィッチ! 持っていましたよ、パーウェル・イワーノヴィッチ! やあ、いらっしゃい、パーウェル・イワーノヴィッチ! おや、やって来ましたね、我々のパーウェル・イワーノヴィッチ! さあ一つ抱擁をさせて下さい、パーウェル・イワーノヴィッチ! その人をこちらへよこして下さい、一つ大事なパーウェル・イワーノヴィッチを、思いきり接吻するんですから!』チチコフは一度に数人の人から抱擁されたように思った。まだすっかり裁判所長の抱擁から脱しきれないうちに、はやくも警察部長に抱きしめられてしまった。警察部長から医務監督にわたされ、医務監督から徴税代弁人に、徴税代弁人から建築技師へと……。この時、片手にボンボンの包み紙を持ち、片手に狆を抱いて、婦人連の傍に立っていた知事は、チチコフの姿を見つけるといきなり包み紙も狆も床へ投げだしてしまった――狆ころはキャンキャン鳴きだした。要するに彼は、非常な悦びとはしゃぎを四方に撒きちらしたのである。どの顔をみても満悦の情を現わしていない顔はなかった。少なくとも一座の満悦を反映していない顔はなかった。こういう表情は役所へ上司が監察にやって来る時、官吏連の顔によく現われるもので、どうやら最初の恐怖も消え去り、大体のところはお眼鏡にかなったとみえ、長官がしまいに軽口を叩いてニコニコしながら、何か一言二言いわれたりすると、ぐるりを取りまいている側近の役人連はそれに答えて二倍も笑う。長官が何を言われたのやら、よくも聞きとれなかった連中までが、さも面白そうに笑うのだ。しまいにはずっと離れて入口の扉の傍に立っていた、生まれてこの方一度も笑ったことがなく、今の先き人民に向って拳骨を振りまわしたばかりの巡査までが、永久不変の反射の法則に従って一種の微笑を顔にうかべるが、その微笑は寧ろ、強い嗅煙草でも吸いこんで正に嚏みをしそうになった人の顔によく似ている。我等の主人公はそれぞれ一同の挨拶に答えたが、我ながら自分の物腰をひどく軽快だと思った。彼は右に左に会釈をした。が、その会釈はいつもの癖で少し横にかしぎはしたけれど、実にゆったりしていて一同をうっとりさせてしまった。婦人連は忽ち美々しい花環のように彼を取りまいて、あらゆる種類の芳香をさながら雲のように辺りに漂わせた。一人が薔薇の匂いをさせれば、他の一人は春と菫の香りをたて、その次ぎの婦人は全身に木犀草の匂いを浸みこませているという有様、チチコフはただ鼻をおっ立てて、くんくんその匂いを嗅ぎまわすばかりであった。彼女たちの衣裳の好みにいたっては実に千差万別で、モスリンだの繻子だの、紗だのの服地は、何色とも名前のつけようもないほどぼんやりした淡い流行色であった――それほど趣味が洗煉されていた訳である! リボンを結んだのや花束などが衣裳のあちこちに最も絵画的な無雑作さで取りつけてあったが、それはどうして、なかなか無雑作でない頭で工夫に工夫を凝らした無雑作さであった。ふんわりとした髪飾りは、両耳の上にだけくっついていて、『ええ、どこかへ飛んでいってしまいたい! でも、この麗人を一緒に持ちあげられないのが残念だ!』とでも言っているようだ。どの婦人の腰もぴっちりと締めつけられて、いかにも逞ましく、見た眼にも快い容姿を具えていた。(ここで一言注意しておかなければならないことは、概してN市の婦人連はやや肥り肉の方であったけれど、コルセットのつけ方が上手で、そのうえ身のこなしが非常に巧みであったため、少しもその肥満が目立たなかったことである。)彼女らは頭の天辺から足の爪先まで実に並々ならぬ注意をはらって、頭や肩にしても、ちょうど程々に露わして、決して程度を越すようなことはしていなかった。めいめい自分の所信に基いて、これ以上見せると男性を破滅させるという際疾きわどいところまで自分の肉体を露出して、それ以外は非常に手際よく蔽いかくしていた。例えば、一般に『接吻』という名前で通っている、干菓子よりも軽いリボンのふんわりした頸飾りを、あるかなきかのように頸へ巻くとか、或はバチスト麻の、謂ゆる『謙遜』という、縁をギザギザに切りこんだ薄物を、肩の後ろで着物の下からのぞかせたりしているのである。この『謙遜』は、実際は男性を悩殺する力など持っていない癖に、恰かもそこにこそ悩殺の力が潜んででもいるように思いこませる或るものを、前と後ろから蔽いかくしているのである。長い手袋もずっと袖口まで蔽っているのではなく、肱の上あたりの、男の心をそそる部分だけは、いかにも思わせぶりに残してあって、それが大抵は羨ましいほどまるまる肥っているのだ。或る婦人などは仔羊キッドの手袋をもう少し深くはめようとして、破ってしまったほどである。要するに何を見ても、『いいえ、ここは田舎じゃありませんよ、立派な都です、パリの真中ですよ!』とでも一々書いてあるように思われるのだ。ただ処々にチラホラと、どうもこの世では曾て見られなかったような不思議な頭巾帽だの、孔雀の羽根かとも思われそうな変てこな羽根飾りだのが、流行とはまるで逆に、てんでの好みにしたがって、ひょっこりと思いがけもなく顔をのぞける位のものである。しかし、これは已むを得ない話だ――いわばそれが県庁のある市の特色で、屹度どこかで破綻を見せてもいるものだ。こういう婦人連の前に佇みながらチチコフは、『だが、一体あの手紙の主はどれだろう?』と思って、鼻を前に突きだしたが、そのつい鼻の先きを、夥しい肱だの、袖口だの、袖だの、リボンの端だの、いい匂いのする肌著の襟だの、着物だのの列が掠めて行くばかりであった。今や『*8ガロパード』が闌であった。郵便局長の夫人も郡警察署長も、青い羽根をつけた婦人も、白い羽をつけた婦人も、ジョージヤ人の公爵チプハイヒリッゼフも、ペテルブルグから来た役人も、モスクワから来た役人も、フランス人のククーも、ペルフノフスキイも、ベレベンドフスキイも――みんな立ちあがって踊りだした……。
※(始め二重括弧、1-2-54)ちぇっ! すっかりこんぐらかってしまやがった!※(終わり二重括弧、1-2-55)そう呟やいてチチコフは後へ退ったが、やがて婦人連があちこちに散らばって席につくや否や、又しても彼は一体どれがあの手紙の主なのか、顔色か眼つきからでも見分けることは出来ないかと、じろじろ眺めはじめた。しかし顔色からも眼つきからも、どれが手紙の主なのやら、さっぱり見当がつかなかった。どちらを見ても、何か微かに仄見えてはいるが、しかとは捉え難い微妙な情調につつまれている――いやはや実に微妙な!……『駄目だ、』とチチコフは肚の中で呟やいた。『女ってやつは、こうしたものだ……』そう言って彼は手を一つ振りまわした。『てんで、話にも何にもならない! 試しに一つ、凡そ女の顔に閃めくところのものを、残らず語り伝えてみるがいい、あの陰影を、あの暗示のすべてを……。だが、そいつはとても出来ない相談だて。女の眼そのものが涯しない王国のようなもので、人が一度そこへ足を踏みこんだら、おしまいさ! もう何としても、そこから彼を曳っぱりだす手段はないのだからなあ。じゃあ今度は一つ、せめて、その眼の光彩あやだけでも語ってみるがいい。潤いのある眼、天鵞絨のような眼、砂糖のような眼、まだその上に一体どんな眼がないというのだ! きつい眼に、やさしい眼、うっとりした眼、それから誰かが言ったように婀娜っぽい眼、婀娜っぽくはないが、婀娜っぽい以上にすごい眼――こいつが男の胸に触れたら、まるで琴線に弓が触れたように高鳴るのだ。いや、何ともお話にならないて。いわゆる人類の贅沢な半分に過ぎないからなあ!』
 いやこれは失礼! どうやら街頭で拾ったような俗語を、我等の主人公の口からすべらせてしまって恐縮です。しかし、どうも仕方がない。ロシアでは作家というものが皆こういう立場におかれているのだ。とはいうものの、街中で聞きかじってきたような俗語を、いきなり本の中へ叩きこんだからとて、それは作者の罪ではなく、寧ろ読者が悪いのだ、第一に上流社会の読者がよくない。彼等の口からは申し分のないロシア語などは一言も聞かれず、その代り彼等は、フランス語やドイツ語や英語ならうんざりするほど知っており、そのうえ発音も一から十までちゃんと心得ていて、フランス語は鼻声を出したり、rの音をにごし、英語はベチャクチャと小鳥の鳴声みたいに喋りたてる。おまけに顔まで鳥のような顔附をしてからに、そういう鳥のような顔附の出来ない人を笑うのだ。そしてロシア語などは頓と眼中におかず、愛国心から、せいぜい自分の別荘にロシア好みの小屋を建てる位が関の山だ。こういうのが上流社会の読者の常で、また自から上流社会に加わらんとする手合いがそれに追随するのだ! そのくせ、何という虫のいい注文だろう! 文章は須らく、厳正且つ高尚な、洗煉された言葉で書かなければいけないというのだ――つまり申し分のない立派なロシア語がひとりでに天から降ってきて彼等の舌の上に乗る、そこで彼等は口を開いてそれを吐きちらせばよい、といった具合になることを望んでいるのだ。なるほど人類の女性的半面というやつはややこしいこと夥しいが、しかし、ありようを言えば、寧ろ尊敬すべき読者諸君の方が、それ以上に七面倒くさいのである。
 さてこの間にもチチコフは、一体どの婦人があの手紙を書いたのか、それはとうてい見当がつかないと思った。試しに彼がじっと注意深い視線を向けると、婦人連の方にも、希望と甘い悩みとを同時に哀れな人間の心に送る一種の表情がたたえられているのに気がついた。で、とうとう彼は、『駄目だ、とても見当などつきやしない!』と呟やいた。が、それは彼の浸っている愉快な気持を少しも損なうものではなかった。彼は伸々とした如何にも軽妙な態度で二三の婦人と気持よく言葉を取り交わしながら、小刻みな足どりで次ぎから次ぎへと移って行った、というよりは、踵の高い靴をはいて、いつも婦人たちのぐるりをコソコソ駈けまわるので独楽鼠などと呼ばれている小柄な年寄の伊達男がよくやるように、チョコチョコ歩きまわったものである。彼はかなり敏捷に右へ左へ向きを変えながら、まるで小さい半円かコンマでも書くように、一々片足を後ろへ退いて会釈をした。婦人連はもう大満悦で、彼の態度の中に数々の愉快な点や愛嬌のあるところを発見したばかりではなく、彼の顔に一種荘重な、誰でも知っている通り女性にはひどく気に入る、あの*9マルスの神や軍人を思わせるような表情まで認めはじめたのである。彼のことでもうそろそろ鞘当がはじまった位だ。というのは、彼がいつも入口の近くに立ちどまるのを見てとると、二三の婦人は先きを争って入口に近い席を占めようものと躍起になったが、その中の一人が逸早くそこを占領してしまったため、今にも不快極まる悶著が起こりそうになったことで、同じような野心を持っていた多くの婦人連にも、その傍若無人な振舞があまりにも忌わしく思われたのであった。
 チチコフは婦人連との話にあまり夢中になっていた、というよりは寧ろ婦人連の方がすっかり彼を俘虜にして、ベチャベチャと話しかけ、恐ろしくややこしいデリケートな譬喩を連発するので、それを一々解くのに汗だくの有様であったため、彼は礼儀として先ず第一番にこの家の女主人の傍へ行って挨拶をする義務をうっかり忘れていた。で、彼がようやくそれに気がついたのは、もう数分まえから彼の前に立っていた当の知事夫人から声をかけられた時であった。知事夫人は気持よく首を振りながら、愛想のいい、ちょっと皮肉な声で、『おや、パーウェル・イワーノヴィッチ、ようこそまあ!……』と言った。知事夫人の言葉を、ありのままに伝えることは出来ないが、非常に愛嬌たっぷりで、その調子が、好んで客間を描いて、上流社会の作法に通じていることを自慢したがる我が国の通俗作家たちの小説に出てくる、貴婦人や騎士の言葉遣いにそっくりの、まあ言ってみればこんな具合であった。『あなたは今、すっかりどなたかに心を取られていらっしゃいますから、可哀そうにあなたから置き去りにされた妾たちには、あなたのお心のどんな隅っこへも入れて頂く余地がないのでございましょうかしら?』そこで我等の主人公は、さっそく知事夫人の方へ向き直って、流行小説の中でズウォンスキイだの、リンスキーだの、リーディンだの、グレミンだのといった連中や、あらゆる巧者な軍人どもが連発する世辞愛想にも負けぬ、如才ない受け答えをしようとして、何気なく眼をあげたが、その途端に、まるで雷にでも撃たれたように立ち竦んでしまった。
 彼の前に立っているのは知事夫人だけではなく、夫人に手を取られて十六七のあどけない少女が傍にひかえていた――瑞々しい金髪の娘で、きゃしゃに整った面差といい、心持とがった顎といい、その惚々するような卵形の顔は、画家が見たらマドンナのモデルにでも懇望しそうだ。こういう顔だちは、山でも、森でも、曠野でも、顔でも、唇でも、足でも、あらゆる森羅万象が得て大規模になりたがるロシアでは、滅多に見られないものだ。この金髪の少女こそ、いつぞや彼がノズドゥリョフの家から這々の体で逃げ出す途中、馭者がうっかりしていたか、馬がぼんやりしていたため、馬車と馬車とが変な具合に衝突して、双方の馬具がこんぐらかってしまい、ミチャイ小父とミニャイ小父がその縺れを解こうとして骨折った、あの時に見かけた娘なのだ。チチコフはすっかりまごついてしまって、条理のとおったことなどは一言もいえず、何だか訳の分らない、それこそグレミンも、ズウォンスキイも、リーディンも決して言いそうにないようなことを呟やいたものだ。
「あなたはまだ宅の娘を御存じなかったのですわね?」と知事夫人が言った。「ついこのごろ国立女学院を出たばかりでございますの。」
 彼は、いや実は思いがけないことで、一度はもうお眼にかかっていると答えて、更に何か一言つけ加えようと思ったが、その一言がどうしても口に出なかった。知事夫人は二言三言口をきくと、やがて娘をつれて、部屋の向うの端にいる他のお客の方へ行ってしまったが、チチコフは矢張りそのまま、じっと一つところに立ちつくした。それはちょうど、何一つ見落すまいとするように眼をキョロキョロさせながら、好い機嫌で街へ散歩に出かけた男が、不意に何か忘れ物でもしたように思って、じっと立停った恰好にそっくりだった。そういう時の、その男の様子くらい間の抜けたものは先ずなかろう。のんびりとした表情は忽ちその顔から消え去り、いったい何を忘れたのだろうと彼は切りに首を傾ける。手巾じゃなかったかな? いや、手巾はポケットにある。では、金じゃなかったかな? いや、金もポケットにある。何もかもちゃんと手許にあるようだ。それだのに何か得体の知れない精霊すだまが彼の耳に、お前は忘れ物をしているぞと囁やく。で彼は気の抜けたような顔をして、自分の眼の前を動いてゆく人の波を、駈けてゆく馬車を、通りすぎる軍隊の帽子や小銃を、看板を、ぼんやり眺めているだけで、何一つはっきり見ている訳ではない。ちょうどそれと同じように、チチコフも急に、自分のぐるりで何が持上ろうと、そんなことには頓と縁もゆかりもない人間のようになってしまった。と、その時、匂やかな婦人連の口から、世辞と愛想のこもった諷刺や質問の矢玉が彼に向けて連発された。『まあ、妾どものような世にも哀れな女が、こんなことをお訊ねしますのは大変無躾けかも存じませんが、一体あなたは何をお考えになっているのでございますの?』――『あなたのお心がさまよっている、その幸福な場所ところは一体どこなのでございましょうか?』――『あなたをそんな甘い瞑想の谷へ曳きずりこんでしまったかたは、一体どなたでございますの?』しかし彼は、それに対して一向気のない返事しかしなかったので、折角気持のいい殺し文句も水の泡であった。そればかりか、もうすっかり嗜みを忘れてしまった彼は、間もなく婦人連を見捨てて、いったい知事夫人はどこへ令嬢をつれて行ったか見届けようものと、向うの方へ行ってしまった位だ。しかし婦人連はそうあっさりと彼を手離すつもりはなかったらしい。彼女らはめいめい心のうちで、我々男子の心臓にとっては甚だ険呑な、ありとあらゆる武器を使用して、事態を好転せしめようと決心したのである。ここでちょっと注意しておかなければならないのは、御婦人の中にはいささか弱点を持った方のあることで――それも、ほんの一部の御婦人がたで、決して全部が全部そうだという訳ではないが――そういう婦人は自分の身にどこか特に秀でたところがあると、それが額であれ、口であれ、かいなであれ、その秀でた部分が何より第一に人眼をひき、誰も彼もが期せずして異口同音に、『どうだい、ちょっとあれを見給え、なんて素晴らしいギリシア型の鼻だろう!』とか、『なんて端麗で魅惑的な額だろう!』というに違いないと思っていることだ。また美しい肩をもっている婦人は、その肩を見たら若い男という男が恍惚となってしまい、彼女が傍を通る時には、『ああ、なんてこのひとの肩は素敵なんだろう!』と繰り返すにきまっていて、顔や、髪の毛や、鼻や、額などは見ようともしない、又たとえ見るにしても、何かまるで無関係なものでも眺めるようにしか見ないのだ。こんな風に或る婦人がたは考えているのである。そこで婦人連はめいめい、踊りの時には出来るだけチャーミングに振舞って、自分の具えている最も勝れた点を最も華々しく見せつけてやろうと心に誓った。郵便局長夫人はワルツを踊りながら、ほんとうに天来の音楽にでも耳を傾けているように、うっとりと首をかしげた。また一人とても愛嬌のある婦人は、彼女自身の言うところによれば、右の足に豆粒のような小さい腫物おできが出来たため、是非なくフラシテンの靴をはいて来たほどで、抑※(二の字点、1-2-22)初めから踊ろうなどとは少しも考えないで出席していたのであるが、郵便局長の夫人があまり図にのって好い気になっているので我慢がならなくなり、その鼻をあかしてやりたいばかりに、フラシテンの靴をはいたまま、二三囘ワルツを踊ったものである。
 しかし幾らそんなことをしても、予期したような効果は少しもチチコフに現われなかった。彼は婦人連のつくった踊りの輪などは見向きもしないで、絶えず爪先で背伸びをしては、あの魅惑的な金髪娘は一体どこへ行ってしまったのだろうと、人の頭越しに行方を探し、また身を屈めては、人の肩や背のあいだから、しきりに眼を光らせていたが、とうとうしまいに、当の娘が母親といっしょに坐っている姿を探しあてた。母親の頭には、鳥の羽根をつけた東洋風の頭布のようなものが厳かに揺れていた。どうやら、彼は一挙にして二人を奪い取ろうとでも思ったらしい。春という季節に唆かされたのか、それとも誰かに後ろから押し出されでもしたのか、それはとにかく、彼はあたりかまわず前へ前へとぐんぐん突き進んで行った。徴税代弁人は思いきり彼に突き飛ばされて、よろよろとしながら、やっと片足で踏みこたえたが、罷り違えば、てっきり自分の後ろの一群を将棊倒しにするところであった。郵便局長も後ずさりをしながら、吃驚したような顔にかなり鋭い皮肉の色を浮かべて、我等の主人公を見やった。しかし彼等のことなどてんで眼中にないチチコフは、どうやら寄木の床を思う存分おどり※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)りたいという熱望に駆られているらしい、長い手袋をはめた金髪娘を、遠くから見つめるばかりであった。ところが、一方では四組の男女がマズルカを踊りはじめた。靴の踵は高々と床を鳴らし、或る普通聯隊の二等大尉などは身も心も打ちこんで、手と足を働らかせながら、誰ひとり夢にも見たことのないような素晴らしい足さばきをやっていた。チチコフは殆んど踊り手の踵とすれすれに、マズルカの傍を擦りぬけて、真直ぐに知事夫人母娘の坐っているところへ進んで行った。しかし二人の傍へ近づくと共に彼はすっかり怖気づいて、もはや先刻のように、てきぱきと、伊達に小刻みな歩きぶりが出来なかったばかりか、言葉も少しとちり、すべて彼の動作ものごしには一種ぎごちないものがあった。
 我等の主人公の胸に果して恋愛感情が目醒めたのかどうか、それは明言の限りではない。大体こういった類いの紳士、つまり、肥っているでもなければ痩せているでもない紳士に、恋愛の可能性があるかどうかすら疑わしい位であるが、それにも拘らずここには、何かしら奇態な、彼自身にも解釈のつかない、一種不可思議なものがあった。というのは、後日彼自身が白状したとおり、その際この舞踏会全体が、やかましい話声や騒々しい物音と一緒に、しばらくのあいだは何処かへ遠退いてしまい、ヴァイオリンやホルンも、何処か山の向うででも、やけに鳴らされているように思われたのである。そしてすべてが、まるで乱暴に塗りつぶされた下手な絵の背景みたいにぼうっと霧に蔽われてしまった。そのいい加減に描きなぐられて、ぼんやり靄のかかったような背景の中から完成した形でくっきりと浮きあがっているのは、魅惑的な例の金髪娘の妙なる姿だけであった。――卵なりに丸味をもった顔、女学校を出て一二ヶ月しか経たない娘にありがちの極々ほっそりしたからだつき、一種清純な曲線によってそれと知られる若々しいすんなりした四肢を残る隈なくやんわりと軽く包んでいる、殆んど飾りけのない、白い衣裳。さながら彼女の全身はこまかく彫んだ象牙の置物にそっくりで、一人だけくっきりと白く、濁って不透明な群集の中から明るく透きとおるように浮き出していた。
 成程、世の中にはこういう事もあるもので、チチコフのような男でも生涯のうち数分の間ぐらい詩人になったからとて不思議はないだろう。いや、詩人とまで言っては少し大袈裟かも知れない。が、少なくともまだ若い青年のようなつもりで、自分がまるで驃騎兵ででもあるような気持になったのである。彼は二人の傍に空椅子が一つあるのを見つけると、早速それを占領した。初めのうちはばつがよく合わなかったけれど、そのうちにすらすらと話が出来るようになり、しまいには乙に気取ったりさえしはじめたほどである……。だが、誠に残念なことではあるが、相当の地位にある中年男という奴は、話相手が婦人だと妙にぎごちなくなるもので、その段には何といっても中尉か、せいぜい大尉以下の先生がたは堂に入ったものである。一体どういう手を使うのか、その辺のところはさっぱり分らないが、あの先生がたにしたところで、大して感心するような話をする訳でもなさそうなのに、若い娘などはいつも椅子の上で笑いころげるのだ。五等官の紳士が一体どんな話をするか、それは知る由もないが、おおかたロシアは広大無辺な帝国だというような話をしたり、なかなか気のきいたお世辞を言ったりもするだろうけれど、どうもこの先生方のいうことは書物臭くて堪らない。何か面白そうなことでも言ったとすると、聴いているひとより自分の方が先きにげらげらと笑い出してしまう始末だ。今更こんなことを述べるのは、我等の主人公が盛んに話しこんでいる間に例の金髪娘がそろそろ欠伸をしはじめた訳を読者に篤と了解して頂きたいためである。しかし、我等の主人公はてんでそんなことには気がつかず、次ぎから次ぎへといろんな珍談を持ち出したが、それはもうこれまでにも、丁度これと同じような場合に彼が方々で何度となく持ち出した話であった。例えば、シムビルスク県のソフロン・イワーノヴィッチ・ベズペーチヌイという男のところでも彼はその話をした。その男には実の娘のアデライーダ・ソフローノヴナと、妻の連子でマリヤ・ガウリーロヴナ、アレクサンドラ・ガウリーロヴナ、マデリゲイダ・ガウリーロヴナという三人の義理の娘があった。リャザーニ県のフョードル・フョードロヴィッチ・ペレクローエフのところでもその話をした。ペンザ県のフロール・ワシーリエヴィッチ・ポベドノスヌイのところでも、その弟のピョートル・ワシーリエヴィッチの家でも話したが、このピョートル・ワシーリエヴィッチの家には、細君の妹のカテリーナ・ミハーイロヴナと、その再従姉妹のローザ・フョードロヴナとエミリヤ・フョードロヴナとがいた。ウャトカ県のピョートル・ワルソノフィエヴィッチの家でも話したが、そこには彼の許嫁の妹のペラゲヤ・エゴーロヴナと、姪のソフィヤ・ロスチスラーヴナヤと、その腹異いの姉妹であるソフィヤ・アレクサンドロヴナとマクラトゥーラ・アレクサンドロヴナがいたのである。
 婦人連にはチチコフのそういう態度が気に入らなかった。一人の婦人などは、それを彼に思い知らせようと思って、わざわざ彼の傍を通り抜けながら、かなり無躾けに自分のスカートの太い箍骨ルーロを金髪娘にぶっつけ、おまけに肩にかけていたスカーフの端で、わざと娘の顔をなでるようにした。同時に彼の後ろでは、かなり辛辣な毒々しい言葉が、菫の匂いと一緒に一人の婦人の口から漏らされた。だが、彼が実際それを耳にしなかったにしろ、或は故意と聞こえない振りをしたにしろ、それは甚だ宜しくない。御婦人がたの意向はどこまでも尊重しなければならないからである。彼は後になってそれを悔んだけれど、もはや後の祭りであった。蓋し、どの点から見ても多くの婦人が憤懣の色を表わしたのも、至極もっともなことであった。チチコフが社会的にどれだけ大きな勢力を持っていようと、たとえ彼が百万長者で、いかに堂々として軍神マルスを思わせるような頼もしい顔附をしていようとも、世には相手の何人たるを問わず、婦人がたの断じて許容しない事柄があって、それにぶつかったら、まったく万事休すである! 女が男に比べてどんなに弱々しく頼りないものであっても、時と場合によっては、急に男よりも、いや男だけではなく、世の中の何者よりも強くなることがある。チチコフがまるで何気なく示した粗略な態度が、先刻の椅子の奪いあいから一度は縺れを見せた婦人連のあいだに、期せずして妥協を成立させたのである。彼が不用意に口外した何の意味もない極くありふれた言葉までが辛辣な皮肉のように取られた。搗てて加えて若い男の一人が、踊っている連中をあてこすって、さっそく諷刺詩を作った。これは知ってのとおり、田舎町の舞踏会には必らずつきものであるが、その詩は忽ちチチコフが作ったことにされてしまったのである。婦人連の憤懣はいよいよ募り、あちらの隅でもこちらの隅でも、彼のことを糞味噌に罵りはじめた。その巻添えで可哀そうな女学生までが完膚なくやっつけられて、あられもない宣告を下されてしまったのである。
 ところが、我等の主人公の思いもかけぬ、更に更に不快なことが待ち伏せていたのである。というのは、金髪娘がじっと欠伸を怺えているのもお構いなしに、彼があれやこれやと、いろんな時代にあった出来事を物語りながら、ギリシアの哲学者ディオゲネスの話まで持ち出した時、下手の部屋からノズドゥリョフがひょっこり姿をあらわしたのである。彼は食堂からでも飛び出してきたのか、それとも普通のヴィストより少し激しい勝負の闘わされていた小さい緑色の客間からでも出てきたのか、それも自分の意志で出てきたのか、それとも他人ひとにおっぽり出されてやってきたのか、その辺のことはよく分らないが、とにかく上機嫌でニコニコしながら、検事の腕をかかえて現われたのである。検事はもういい加減この男に曳っぱりまわされたと見えて、可哀そうに太い眉毛をあげて四方八方へ眼をくばりながら、何とかしてこの有難迷惑な腕から逃れる工夫はないものかと苦心しているようであった。実際、それは堪らないことであった。ノズドゥリョフは二杯のお茶、それも勿論ラムを入れたやつで、勢いつけて、矢鱈に大法螺を吹いていた。チチコフはまだ遠くからそれを見つけて、こいつは拙いなと思った。つまり、ここであいつに出逢っては、どうせ碌なことはないからと、人目にも羨ましいような自分の地位を見捨てて、一刻も早くこの場をはずそうと決心したのである。ところが運わるく丁度その時、知事につかまってしまったのである。知事は、いいところでパーウェル・イワーノヴィッチにお目にかかったと言って、ひどく喜びながら、自分はいま二人の御婦人と、女の愛情は永続するものかどうかということで議論をしているところだが、ぜひ一つその審判官になってもらいたいと、無理やり彼を引きとめてしまった。そうこうしているうちに、とうとうノズドゥリョフが彼を見つけて、つかつかと彼の方へやって来た。
「よお、ヘルソン県の地主君、ヘルソン県の地主君!」傍へ近よると、彼は春の薔薇のように真赤な、生々した頬をふるわせて、カラカラと笑いながら叫んだ。「どうだい? あれから死人はよっぽど買えたかい? ねえ、閣下、あなたは御存じないでしょう、」と、そこで彼は県知事の方を向いて喚いた。「この男は死んだ農奴を商ってるんですぜ! まったくの話でさあ! なあ、おい、チチコフ! これはまったくの友情から君にいうんだがね――ここにいるのはみんな君の友達だからさ、そら、この閣下にしてからがそうなんだ――だからいうのだが、おれは君を縛り首にしてくれたいんだ、まったく縛り首によ!」
 まったくチチコフは、穴があったら入りたいような気持だった。
「本当になさいますかね、閣下、」とノズドゥリョフは続けて言った。「この男は僕に、『死んだ農奴を売ってくれ』って言やがるんでさあ。ちゃんちゃら可笑しくって、お臍でお茶を沸かしましたがね。ところが、こちらへやって来るてえと、移住の目的でこの野郎が農奴を三百万ルーブリも買いこんだってえ話でさあ。移住が聞いて呆れらあ! 現に僕んとこで死んだ農奴を値切り倒しやがった癖にさ。なあ、おい、チチコフ、君は畜生だぞ、まったく、畜生だ! ここには閣下もおいでになる……。ね、そうじゃありませんかね、検事さん?」
 しかし検事も、チチコフも、知事自身までも、すっかりまごついてしまって、何とも答える術を知らなかった。ところがノズドゥリョフは、一向そんなことには頓着なく、生酔らしい口調でしゃべりたてた。「いいかい、おい、兄弟……おりゃな、君が死んだ農奴なんか買ってどうするんだか、その訳をきかないうちは、決して後へ退かないぞ。なあ、チチコフ、君はほんとに恥かしくないのかい。君の友達として、おれくらい良い友達はないってこたあ、君だって、ちゃんと知ってるだろう……。そうら、ここには知事閣下もおいでになる……。そうじゃありませんか、検事さん? 知事閣下は本当になさらないかも知れませんがね、わっしとこの男とはすっかり良い仲になってるんですぜ。だから閣下がたった一言、わっしがこのとおり立っているところで、『ノズドゥリョフ、君には自分の親爺とチチコフと、どっちが大事か、一つ正直のところを言ってみろ!』って仰っしゃれば、わっしは言下に、『チチコフ!』と答えますよ、まったくです……。さあ、大将、一つ接吻をさせてくんな。じゃあ閣下、一つ御免を蒙って、この野郎を接吻させて貰いますぜ。なあ、チチコフ、君もいやがったりするこたあないだろ、君のその雪のように白い頬っぺたを一つ接吻させてくれよ!」ところが、相手に接吻しようとしてかかったノズドゥリョフは、手きびしい肘鉄砲を喰らって今にも床の上へつんのめりそうになった。誰も彼も彼のそばを離れるようにして、もはや彼の言うことなど聴いている者はなかった。しかしながら彼は、死んだ農奴の買い占め云々という言葉を、思いきり大きな声で、しかもゲラゲラ笑いながら喋りたてたので、部屋の一番遠くにいた人でも耳を欹てずにはいられなかった。このニュースがあまりにも奇怪だったので、一同はまるで木で作った面のように間の抜けた顔をして、訝しげにハッと固唾をのんだ。チチコフは、多くの婦人が何となく意地の悪い、棘を含んだような嘲笑いをうかべて互いに※(「目+旬」、第3水準1-88-80)せするのを見た。また中にはどっちつかずの変に瞹昧な表情をうかべている婦人もあって、それがいよいよ彼をまごつかせてしまった。ノズドゥリョフが名うての大嘘つきであることは誰でも知っていたから、彼の口からどんな荒唐無稽なことを聞かされても、一向不思議ではなかったけれど、人間というやつはどうしてこんな風に出来ているのか、実際、了解に苦しむ次第であるが、どんなつまらないことでも、初耳でさえあれば、必らずそれを他人に告げるのだ、ただ、『どうです、飛んでもない出鱈目を言いふらすものじゃありませんか!』と、それだけのことが言いたいだけにも吹聴せずにはいられないのだ。すると相手も、『まったく一顧の値打もない、馬鹿々々しい嘘っぱちですねえ!』などと後では言う癖に、好んで耳を傾けるのである。そして直ぐさままた第三の人間をさがし出してその話をすると、さも殊勝らしい公憤の面持で、『なんてくだらないデマだろう!』と叫ぶ。そしてそれが間違いなしに市じゅうにひろまり、市じゅうの人間が申しあわせたように、一人残らず、堪能するだけしゃべった挙句、こんなことは一顧の値打もなく、てんで問題とするに足りないと言うのである。
 この一見、愚にもつかぬ出来事が我等の主人公をいたくまごつかせた。愚者のどんな馬鹿げた言葉でも、時には賢者を困惑させるに足るものである。彼はひどくぎごちなく極りの悪い気分になった。ちょうどそれは、きれいに磨きあげた長靴で、いきなり汚ならしい、悪臭芬々たる泥溝の中へでも踏みこんだような気持であった――要するに不愉快なのだ、まったく以って不愉快なのだ! 彼はそれを考えまいとして、努めて他のことに気を紛らし、憂晴らしをしようと思ってヴィストの仲間へ入ってみたが、しかし、することなすことが※(「易+鳥」、第4水準2-94-27)いすかの嘴とくい違って、二度も親札と異った札を出したり、三枚目を出すのでないことをうっかり忘れて、大きく一つ手を振りまわしざま、軽率にも自分の切札を出してしまったりした。裁判所長は、あんなに骨牌が上手で勝負の駈引に精通している筈のパーウェル・イワーノヴィッチが、どうして又こんなヘマをやったり、自分がこれこそ神様のように頼りだと言っているスペードのキングを、あたら犠牲にさせてしまった訳がさっぱり分らなかった。いうまでもなく、郵便局長や裁判所長ばかりか、警察部長までが、例によって我等の主人公をからかって、さては恋に眼がくらんでるのだろうとか、いや確かにパーウェル・イワーノヴィッチは心の平衡を失っているとか、誰に心臓むねを射ぬかれたのか、ちゃんと分っているなどと言って冷かした。けれどそんなことでは少しも彼は慰められず、どんなに笑ったり冗談を言ってみようとしても駄目だった。晩餐の席でも彼はどうしても寛ろいだ気持になれなかった――食卓についたのはみな愉快な連中ばかりで、ノズドゥリョフは疾の昔に、外へつまみ出されてしまっていた。というのは、とうとう婦人連までがノズドゥリョフの振舞をあまりにも乱暴だと言って非難したからである。彼は10コチリオンの真最中に床へ坐りこんで、あろうことか、踊っている女の着物の裾をつかまえたりし始めたものだ、それは婦人連の言葉によればまったく言語道断の所業であった。晩餐は非常に賑やかで、三つの燭台や、花や、菓子や、酒壜などの前に明滅する顔という顔が、いかにものんびりした満悦の色に輝やいていた。士官や、婦人や、燕尾服の連中は、どれもこれも愛想がよくて、しつこい位であった。男たちは跳びあがるようにして席を立っては駈けだして行き、給仕の手から料理を奪いとって、恐ろしく物馴れた手つきでそれを婦人連にすすめたりした。一人の大佐などは、ソースの入った皿を抜身の軍刀の先きに乗せて、婦人の前へ差し出したものだ。チチコフと同席の、相当年のいった男たちは、矢鱈に辛子をきかせた魚肉や牛肉を肴に、分別くさい口を叩きながら、がやがやと議論を闘わし、いつもなら彼が決して黙っていないような問題を盛んに論じあっていたが、しかしチチコフはまるで長途の旅に疲れはてて頭も働かねば何をする気力もない人間といった状態であった。で、晩餐の終るのも待たず[#「待たず」は底本では「持たず」]、いつもの習慣ならわしとはお話にならないほど早く宿へ引上げてしまった。
 読者には先刻お馴染の、隣室への扉口は箪笥でふさがれ、四隅からは時どき油虫が顔をのぞけようといった例の部屋へ帰ってからも、彼が腰かけたグラグラの安楽椅子と同様に、いっこう気分が落着かなかった。彼の心は不快で、そわそわして、何かしら空虚な重苦しさがのさばっていた。『あんな舞踏会なんてものを思いついた奴は、鬼にでも食われてしまえばいい!』と、彼はプリプリしながら呟やいた。『ふん、何をああ騒いで嬉しがることがあるんだい? 県下は凶作で、物価が高くて困っているのに、奴らは舞踏会などに憂身をやつしていやあがるんだ! ふん、どうだい、百姓女みたいにゴテゴテと矢鱈に著飾りおってさ! 千ルーブリもするような大層な服装なりをした女が中にあったからって、何も珍らしいことじゃないさ! みんな百姓どもから搾り取った免役税でこしらえたのじゃないか。いや、悪くすると、こちとらのような人民に良心を売らせた金でつくったのかも知れんぞ。彼奴らが不正と知りつつ賄賂を取る理由は、ちゃんと分ってるさ。みんな細君に、肩掛ショールだの、いろんな11ロブロンだのという、碌でもないものを買ってやるためで! それも何がためといえば、シドローヴナとか何とかいうどこかの阿婆ずれ女に、郵便局長の奥さんの方がいい服装なりをしていたなどと言われたくないだけで、そんな物のために千ルーブリも棒に振ってしまうのだ。『舞踏会、舞踏会、ああ愉快だ!』などと、みんな大騒ぎをしてやがる。どだい舞踏会なんて実にくだらないもので、抑※(二の字点、1-2-22)ロシア精神にかなったものでもなければ、ロシア人気質にふさわしいものでもなく、てんで得体の知れない代物なんだ。いい年をからげた大の大人がまるで小鬼のようにピチピチ一杯の黒ずくめの装束を窮屈そうに身につけて、足を互い違いに出したり引っこめたりしてやがるのさ。中には、組になった相手と、何か糞真面目なことを話しあいながら、足だけは、まるで仔山羊のように、右に左にステップを踏んでいる……。ありゃ、みんな猿真似だ、猿の人真似だ! フランス人という奴は四十になっても、まるで十五六の子供みたいに他愛のないものだが、だからといって、こちとらもその通りにしなければならないっていうのかい! いや、まったくのところ……いつも舞踏会の後では、何かまるで悪事でも働いたような気がして、思いだしても厭なものだ。ちょうど上流社会の紳士と話でもしたあとみたいに、頭の中がまるで空っぽだ。なんしろ上流の紳士という奴は、何でもかんでも喋りちらすのだ、どんなことにでもちょっぴり言及して、本の中から曳っぱりだしたことを、滅多矢鱈に滔々とまくし立てるが、それが頭へは一向はいってこないのだ。だから後になってみると、こういうおっちょこちょいの話よりは、自分の商売のことしか知らないが、商売にかけては実に精しくて経験の深い無学な商人と話をした方がよっぽど面白いってことが分る。いったいあんなものから、あんな舞踏会なんてものから、どんなとくがえられるというのだ? 仮りに或る一人の作家が、この舞踏会の光景をありのままに書いてみる気になったとしたらどうだろう? 本に書いても、矢張り舞踏会なんてものは本物どおり無意味なものに違いない。それがまた果して道徳的だろうか、非道徳的だろうか? いや何がなんだか分ったものじゃない! ペッと唾をはいて、そんな本は閉じてしまうのが落ちだ。』このようにチチコフは全般的に舞踏会というものを糞味噌にやっつけたが、しかし、どうやらそれには、もっと別な憤懣の種がまじっていたようである。何より忌々しいのは、舞踏会そのものではなくて、計らずも自分が面目をなくした事実で、思いもかけず満座の中で、何とも言いようのない醜態をさらし、実に変てこなえたいの分らぬ役割を演じたことである。無論、常識的な眼を以ってみれば、あんなことはつまらないことで、殊に肝腎な手続がすっかり完了している現在、どんな馬鹿げた言いがかりをされようと更に問題でないこと位は、彼にも分っていた。しかし人間というやつは変なもので、日頃いっこう尊敬もせず、その服装やこせこせした態度を槍玉にあげて、さんざんに自分が貶している相手から冷遇されるのをひどく気にやむものである。然もよくよく考えて見れば、その原因の一半は自分自身にあるのだから、いよいよ以って忌々しい……。その癖、自分を責めようとは決してしないのだが、成程それも尤もな次第で。我々はとかく自分の罪は軽く見ようとする弱点をもっていて、ともすれば自分の鬱憤を他に向って晴らす相手を手近に発見しようと之努める。例えば、折よくやって来た目下の小役人とか召使、さては細君に向って恨みを晴らす、時には無心の椅子までがとばっちりを受けて、ところ構わず、扉などへ叩きつけられるものだから、腕木や凭れはけし飛んでしまう――せめてそんなものにでも当り散らして怒りの程を思い知らせる訳である。同じようにチチコフも、早速、そのむしゃくしゃした気持の原因をそっくり転嫁する相手を見つけた。その相手というのは他ならぬノズドゥリョフで、彼があらゆる方面から仮借なく罵倒されたのは言うまでもないことで、それは嘘つきの宿場頭や馭者が、旅馴れた老練の大尉とか、また時には、もう古典になってしまったような、いろんな罵詈讒謗の他に、自分自身の発明にかかる、まだ一般的には知られていない悪口雑言を吐きちらす将軍にでもつかまって、糞味噌にやっつけられているようであった。果てはノズドゥリョフの家系までがつぶさに調べられて、親や先祖にさかのぼってまで、こっぴどく槍玉にあげられたものである。
 ところが、彼が硬い安楽椅子に腰かけて、さまざまな思いと不眠に悩まされながら、ノズドゥリョフとその一族をさんざんにやっつけ、彼の眼の前では、もうだいぶ前から芯に黒い燃えかすのかぶさった脂蝋燭が、今にも消えそうになりながらじりじりと燃えており、物の文目も分らぬ暗い夜は、黎明に近づいてほんのりと青味を帯びかけながら窓から彼をさし覗き、遠くでは鶏が長鳴ときをつくり、またすっかり寝しずまった市のどこかを、粗羅紗の外套にくるまった、どんな階級の、どんな身分の者か、それは知る由もないが、ただただ(ああ!)ロシアの浮浪人共の足ですっかり擦りへらされた道だけを知っている哀れな人間が、多分うろつき※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)っていただろう間に、市の他の端では、我等の主人公の立場をいよいよ不快なものにする事件が持ちあがっていた。それは他でもない、遠くの大路小路にガタゴトと音を響かせながら、果して馬車と呼んでいいかどうか甚だ疑わしいような、奇妙奇天烈な恰好の馬車が走っていた。それは旅行馬車タランタスでもなければ軽馬車カリャースカでもなく、そうかといって半蓋馬車ブリーチカにも似ていないで、寧ろ上出来の西瓜に車輪くるまを取りつけたような恰好をしていた。この西瓜の頬っぺた、つまり黄いろい塗料ぬりの跡を留めている両側の扉は、把手や、いい加減に紐で結わえてある蝶番の具合がよくないため、立附けが非常に悪かった。その西瓜の内部は、巾著形や筒形や普通の枕の形の更紗のクッションで充たされ、麺麭だの、環麺麭カラーチだの、コクールカだの、早焼だの、捏紛をふかして拵らえた巻麺麭だのを入れた袋が一杯つめこんであった。鶏肉入りのピローグや瓜漬入りのピローグが、上へまではみ出していた。ぼつぼつ白毛のまじった顎鬚をもじゃもじゃとのばした下男階級の男が、手織飛白の上衣にくるまって乗っていたが、これは謂ゆる小者マールイという名前で通っている人物である。鉄の緊金や錆びた螺旋ねじの軋る騒々しい音で、市の反対側の端にいた立番の巡査までが、仮寝の夢を破られて、ハッと鉾を取りなおしざま、寝ぼけ声を張りあげて、『誰だ、そこへ行くのは?』と呶鳴った。だが、誰もそこへ来たのではなく、ただ遠方からガタガタと轍の音が聞こえているばかりなのに気がつくと、彼は自分の襟元の所で或る動物を一匹つかまえて街灯のそばへ近よるなり、そいつを自分の爪で死刑に処したが、それからは又、鉾を手ばなして、騎士道の掟どおり、再び居睡りに落ちた。一方、くだんの馬車の馬どもには蹄鉄が打ってなかったし、その上どうやら彼等は、こうしたなだらかなまちの鋪道には余り馴れていなかったと見え、ともすれば前足で跪き跪きした。この大きなガタ馬車は、通りから通りへと何度も曲った挙句、最後に、新田のニコライ寺という、小さな末寺のわきの、暗い横町へ入ると、祭司長の梵妻おだいこくの家の門前でとまった。頭布プラトークで頬かぶりをして袖無をきた小娘が馬車からおりて、両の拳でまるで男みたいに力まかせに門を叩いた。(飛白の上衣をきた小者マールイのやつは、まるで死んだように眠りこけていたので、その後で、足をもって曳きずりおろされたものである。)犬がワンワン吠えだすと、やがて大口をあいた門が、この不恰好な乗物をやっとのことで嚥みこんだ。馬車が薪だの大小さまざまの鶏舎とやだのの積みかさねてある狭くるしい庭へ入ると、馬車から一人の老婆が降りた。その老婆は、十等官夫人と名乗る例の女地主、コローボチカ婆さんであった。この婆さんは、我等の主人公が立去ると同時に、あの男はあんな事をいって自分をペテンに掛けたのではなかろうかと、それがもう心配で心配で堪らず、ここ二晩というものはまんじりともすることが出来なかった。それでとうとう思いきって、馬に蹄鉄の打ってないことも構わず、自分で市へ出かけて、もしや自分は三分の一などという安値を掴まされて大損をしたのじゃないかと、死んだ農奴のほんとの相場を確かめて来ることにしたのである。畢竟、彼女の乗込みが如何なる結果を齎らしたかは、さる二人の婦人の間に取り交わされた会話によって知ることが出来る。その会話というのは……いや、その会話は次ぎの章に譲ることにしよう。
*1 ランカスター式相互教育法 正しくはベル・ランカスター式相互教育法といい、一七九〇年頃、英国の牧師アンドレイ・ベルがインドで試みた教育法を、一八〇五年、英国の教育学者ジョセフ・ランカスターが改良して英本国にひろめたもので、先ず教師が優良な生徒に課業を授けると、優良な生徒が他の生徒たちを指導するという方式である。
*2 シュプレヘン・ジイ・ドイッチェ これはドイツ語の Sprechen sie Deutche?(ドイツ語をお話になりますか?)という文句を、語呂合せのように、イワン・アンドレーヴィッチという名前にくっつけて呼んだのである。
*3 ジュコフスキイ ワシーリイ・アンドレーヴィッチ(1783-1852)有名なロシアの浪漫派の詩人。『リュドミーラ』はドイツの詩人ブュルゲルの譚詩『レオノーラ』をジュコフスキイが改作したもの。
*4 ヤング エドワード(1684-1765)英国の詩人。彼の諷刺詩は早くからロシア語に翻訳されており、就中『夜』は『ヤングの夜』といって、最も有名になっていたのである。
*5 エッカルッハウゼン ドイツの神秘主義者(1752-1803)多くの神秘主義的な著作がある。
*6 カラムジン ニコライ・ミハイロヴィッチ(1766-1826)有名なロシアの歴史家で、『ロシア帝国史』の大著述によって有名であるが、一方、文学に於いても所謂感傷主義の開祖として知られ、その小説『哀れなるリーザ』は、内容的には全然無価値であるが、小説の語形の完成を示したものとして文学史的に著名である。
*7 『モスクワ報知』 一七五六年よりモスクワで発行されていた有名な新聞。
*8 ガロパード 非常にステップの急調子舞踏の一種
*9 マルスの神 ローマ神話に於ける軍神。ジュピターとジュノーの間に生まれた息子で、美丈夫の典型とされている。
10 コチリオン ルイ十四世時代に流行した舞踏の一種で、踊りの型を最初の一組の舞踏者がきめると、他がそれに追随して踊ったものである。
11 ロブロン 腰に箍骨を入れた古風な婦人の衣裳。
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第九章


 早朝、N市で訪問時間と定められている時刻よりずっと早い頃、中二階と空いろの円柱のついたオレンジ色の木造家屋の扉口から、格子縞の粋なコートをまとった婦人が、幾重にも肩覆いを重ねた、金モール附きの外套に、ピカピカ光る円筒帽という扮装いでたちの従僕をつれて、あわただしく飛びだしてきた。婦人はすぐさま、玄関に待っていた軽馬車カリャースカの蹈段を駈け上るようにして、大急ぎでそれに飛び乗った。従僕はさっそく、婦人の乗りこんだ後の扉をしめて、蹈段を折畳むと、革紐につかまって馬車の後部へ飛び乗りざま、馭者に向って、『やれ!』と叫んだ。婦人は、丁度いま珍談を聞きこんだばかりで、それを一刻もはやく、誰かに吹聴したいという抑え難い慾望に駆られているのだった。彼女はひっきりなしに窓の外を眺めたが、まだ道の半分も来ていないのを知ると堪らなくもどかしかった。どの建物もどの建物も、ふだんより長いように思われた。殊に、小さい窓の幾つもついている白い石造の養育院などは、どこまで続いているとも分らないような気がしたので、彼女はとうとう我慢がしきれなくなって、『まあ、なんていけすかない建物だろう、ほんとにどこまで行っても切りがないわ!』と口走ったものである。馭者はもう二度も『もっと早く、早くったらさ、アンドリューシカ! きょうはお前、どうしてそんなにのろくさやってるのさ!』と叱責を蒙った。それでも、ようやく目的の場所へ着いた。馬車は、濃い鼠色をした、やはり木造の一階建の家の前に停ったが、その家の窓の上には白い薄肉彫がほどこしてあり、窓の前には、たけの高い木の四つ目垣をめぐらした、小さな植込があって、その四つ目垣のなかの細い樹々は、しょっちゅう町の埃をかぶるので、真白になっていた。窓の内側には、花をいけた壺と、籠の中で金環を嘴でくわえてからだをブランブランさせている鸚鵡と、日向ぼっこをしながら寝こんでいる二匹の小犬とが仄見えている。これは、今やってきた婦人の無二の親友の住いであった。ところで、一体この二人の婦人をどういう名前で呼んだら、従来のようなひどいお叱りを蒙らずにすむだろうかと、作者は内心甚だ当惑している。勝手にいい加減の名前をつけるのは危険千万である。どんな名前をでっちあげても、有難いことに、必らず我が帝国のどこかに、実際そういう名前の人があって、屹度かんかんになって腹を立てる。そして、あいつはいろんなことを探りに、故意とこっそりやって来たんだとか、作者はしかじかの人間で、これこれの外套を着ており、アグラフェーナ・イワーノヴナのところへ立寄ったとか、あいつは食いしんぼうだなどと、あられもないことまで言いだす。官等などを呼ぼうものなら、それこそ大変で、いよいよ以って危険千万だ。今日では我が国のあらゆる官等あらゆる身分の人々が、恐ろしく神経過敏になっていて、何か書物に書きでもすると、それを例外なしに自分のことだと思いこんでしまう。どうも、そういった雰囲気なのである。早い話が、或る町に一人の馬鹿な人間がいると、それだけ書けば――もうそれで或る人の人身攻撃をしたことになってしまい、見たところ分別ありげな紳士が、いきなり躍りあがって、『我輩だって人間なんだ、そうすれば我輩も矢張り馬鹿だということになるじゃないか』と喚き出す。要するに、何でもすぐ早合点をしてしまうのである。だから、凡てそういったことを避けるために、今お客に訪問された方の婦人は、N市で彼女のことを殆んど一様にそう呼んでいる通称とおりな※(始め二重括弧、1-2-54)どちらから見ても気持のいい婦人※(終わり二重括弧、1-2-55)と呼ぶことにしよう。この異名を彼女は至極妥当な方法で贏ち得た。というのは、自分を少しでも愛想よく見せるためには何ものをも吝まなかったのである。尤もその愛嬌の中には、女の持前の、あの際疾い抜目なさがちゃんと忍びこんでおり、又その気持のいい言葉の中にも、時には鋭い針が感じられたものである! こういった風な、あの手この手を用いて第一位を獲得したような婦人の憤激を買うようなことがあったら、それこそ大変である! だが、そういうものは凡て、ひとり県庁所在地にだけ見られる、あのいとも繊細な社交の中に隠されていたのである。彼女の一挙一動はいかにも雅やかで、そのうえ詩を愛したり、時にはうっとりと夢見るように首を傾げる術さえ知っていたので彼女が確かにどちらから見ても気持のいい婦人であるという事には、誰ひとり異論がなかった。もう一人の婦人、つまり、いま馬車で乗りつけた婦人の方は、性格に於いてそれほど多方面ではなかったから、我々も彼女のことを※(始め二重括弧、1-2-54)単に気持のいい婦人※(終わり二重括弧、1-2-55)と呼ぶことにしよう。この客の到着で、日向ぼっこをしていた二匹の犬が眼をさました。いつも毛をもじゃもじゃにしている尨犬のアデリと、脚の細い牡犬のポプリだ。どちらもワンワン吠えながら、尻尾を輪のように捲きあげて控室へ駈け出して来たが、そこにはお客が今コートをぬいで、柄といい色といい、いま流行の衣裳に、頸から長い毛皮の尻尾を垂れて待っており、ジャスミンの匂いが部屋じゅうに漂っていた。どちらから見ても気持のいい婦人は、単に気持のいい婦人がやって来たと知るや否や、さっそく控室へ飛び出して来た。二人の婦人は手に手を取って接吻しあい、ちょうど二人の女学生が、学校を出たてで、まだ母親から、一方の娘の父親の方が片方の娘の父親より貧乏で、官位も低いということを聞かされる暇もない頃に、ばったり出逢って歓声をあげるように、ワッと叫び声をあげた。接吻の音があまり高かったので、二匹の小犬がまた吠えだしたほどであったが、その報いに犬どもは手巾で打たれた。そのまま二人の婦人は客間へとおった。それは言うまでもなく空色の部屋で、長椅子と橢円形のテーブルと、常春藤きづたをからませた衝立まで具わっていた。二人の後から尨毛のアデリと脚のひょろ長いポプリが、くんくん言いながら駈けこんだ。『さあ、さあ、ここへ掛けて頂戴な!』そう言って、女主人は客を長椅子の隅に坐らせながら、『ええ、そうそう! さあ、クッションを当てて下さいな!』彼女はそういって、客の背中へクッションを押しこむようにしたが、それには、よく画布カンバスに刺繍してあるのと同じような騎士の絵が毛糸で刺繍してあった――つまり、鼻が段々になって前へ突き出し、唇は四角い形をしていた。『まあ、なんて嬉しいんでしょう、あなたがいらしって……。ふと、玄関に馬車の停った音を聞いて、あたしそう思ったの、こんなに早くどなただろう? って。パラーシャは、きっと副知事の奥さまですよって言うんでしょう。で、あたしも、じゃあ、あのお馬鹿さんがまた退屈をさせにやってきたんだわって言って、もう少しで居留守を使うところでしたわ……。』
 お客はさっそく肝腎の話を持ちだして、例の珍談を吹聴しようと思ったのであるが、ちょうどその時、どちらから見ても気持のいい婦人のあげた叫び声が、急に話題を別の方向へ導いてしまった。
「まあ、なんて柄の面白い更紗でしょう!」と、どちらから見ても気持のいい婦人が、単に気持のいい婦人の着物を見ながら、叫んだ。
「ええ、ちょっと面白い柄でしょう。だけれど、プラスコーヴィヤ・フョードロヴナは、この格子がもう少し細かくて、点々が褐色の代りに空色だったら、もっとよかろうって仰っしゃるのよ。妹にも妾、服地を送ってやりましたけど、何とも口ではいえない位、そりゃ好い柄でしたわ。まあ、ちょっと考えても御覧なさい、空色の地に、細い細い、とても人間の頭では考えられないくらい細い縞があって、その縞のあいだあいだに、眼とあし、眼と蹠という風に模様がはいってますのよ……。まあ一口にいえば、ちょっと類のないものでしたわ! ほんとに、あんなのは決して二つとない柄だと言うことが出来ますもの!」
「じゃあ、それはまだら模様なんでしょう。」
「いいえ、大違い! まだら模様なんかじゃありませんわ!」
「あら、まだら模様なんでしょう!」
 この、どちらから見ても気持のいい婦人は、ちょっと唯物論者らしいところがあって、物事を否定したり疑ったりする傾向をもっており、何でも世の中のことは一応排斥する癖のあったことを注意しておかなければならない。
 そこで単に気持のいい婦人は、それが決してまだら模様でないことを力説してから、「ときに、お生憎と今どき、あなたのように、そんな襞飾ぎゃだなんかつけてるかたはありませんのよ。」と叫んだ。
「あらどうして?」
襞飾ぎゃだのかわりにレースをつけますわ。」
「まあ、いやだ――レースなんて!」
「でもレースが大流行ですわ。肩布にもレース、袖にもレース、肩飾にもレース、下の方にもレース、どこにもかしこにもレースをつけますのよ。」
「だって、ソフィヤ・イワーノヴナ、そう矢鱈にレースばかりつけたら、おかしいでしょう。」
「ところが、まるで嘘みたいに、とても素敵なのよ、アンナ・グリゴーリエヴナ。間隔をひろく取って、二重に襞をつけ、その上から……。でも、それよりも、もっともっとお驚きになって、屹度こう仰っしゃいますわ……。そりゃ屹度びっくりなさいますわ、だって、思っても御覧なさいまし、コルセットの丈がずっと伸びて、下が岬のように尖り、前の鯨骨が突拍子もなく長くなりましたの。スカートは、丁度むかし箍骨を入れたように、まんまるくふくらまして、その上、後ろへも少し綿を入れて、すっかり申し分のない大女に見せようっていう寸法なんですの。」
「まあ、いやだわ、ほんとに!」と、どちらから見ても気持のいい婦人は、勿体ぶって首を振りながら言った。
「ええ、ほんとにいやですわ!」と、単に気持のいい婦人が相槌を打った。
「まあ、あなたはどうだか存じませんけれど、あたしは、どうしてもそんな真似をする気にはなれませんわ。」
「そりゃ、あたしだってそうですわ……。ほんとに流行なんて、飛んでもないことになるもので……。おしまいには何が何だか訳が分らなくなってしまうんですもの! あたし、ほんの笑い草に、妹にそう言って型紙を貰いましたの。うちのメラーニヤが縫いにかかっていますわ。」
「じゃあ、あなたは型紙をお持ちなんですの?」と、さすがに心の動揺を隠しきれずに、どちらから見ても気持のいい婦人が口走った。
「ええ、そうよ。妹が持って来たんですもの。」
「ねえ、あんた、それ、あたしに譲って下さいませんこと、後生一生のお願いですから。」
「あら、あたしもう、プラスコーヴィヤ・フョードロヴナにあげるって約束をしてしまったのよ。あの人の後でなくっちゃあ。」
「プラスコーヴィヤ・フョードロヴナが拵らえた後でなんか、そんなもの誰が着るもんですか! あたしを差措いてあんな人におやりになるなんて、よっぽど、どうかしてらっしゃるわ。」
「だって、あの人は、あたしの復従姉妹またいとこなんですもの。」
「おや、あの人があなたのどんな復従姉妹またいとこですの、それも御主人の側のお身内というだけじゃありませんか……。いいえ、ソフィヤ・イワーノヴナ、そんなことあたし伺いたくもございませんわ。つまり、あなたはあたしに恥をかかせようとなさるんでしょう……。屹度あなたは、そろそろあたしに厭気がさしてきたんでしょう、屹度もう、あたしなんかとはお交際つきあいもして下さらないおつもりなんでしょう。」
 哀れなソフィヤ・イワーノヴナは、一体どうしたらいいのか、さっぱり分らなくなってしまった。彼女はまるで、燃えさかっている火の中へ身を置くような気がした。それというのも、下らない自慢をしたからである! 彼女はつくづく自分の愚かさ加減が恨めしく、舌の根を針で突き刺したいような衝動に駆られた。
「ときに、例の伊達男はどうしまして?」と、その時、どちらから見ても気持のいい婦人が言った。
「あら、そう、そう! あたし、何をぼんやり、あなたの前に坐っているんでしょう! まあ、よかった! 一体あたしが何の用でお宅へ伺ったか御存じ、アンナ・グリゴーリエヴナ?」ここで客は、言葉が次ぎから次ぎへと、まるではやぶさのように後を追って飛びだして来そうになり、息もつけないほどであったから、その口を制するためには、そのとき彼女の親友が取ったような冷酷無情な態度を取るより他はなかったのだ。
「いいえ、どんなにあなたがあの人の肩を持ったり、褒めちぎったりなさいましても、」と女主人は、いつもよりずっとてきぱきした調子で遮った。「あたしははっきり申しますわ、ええ、あの人に面と向ってでもそう言ってやりますわ、あの男はやくざ者だって、ええ、やくざ者ですとも、やくざ者ですとも、やくざ者ですとも!」
「まあ、ちょっと、あたしの言うことを聞いて下さいな……。」
「あの男が好男子だなんて、もっぱら評判のようですけれど、あんな男はちっとも好男子じゃありませんわ、好男子どころか、あの鼻だって……。ずいぶん[#「ずいぶん」は底本では「すいぶん」]厭な恰好じゃありませんか。」
「まあ、それよりも、先ずあたしの話を聞いて下さいましったら……アンナ・グリゴリーエヴナ、先ずあたしの話をさ! だって、これは大事件なんですもの、お分りになって? ほんとに大事件なんですのよ、*1スコナペル・イストアールなのよ。」と客はもう、殆んど絶望的な表情をうかべて、まったく哀願するような声で言った。ところで、この二人の婦人が会話の中へ屡※(二の字点、1-2-22)外国語を混ぜ、時には相当ながいフランス語の文句をさし挟んだことを指摘するのも妨げにはなるまい。けれど、如何にフランス語が我がロシア帝国に齎らす救世的利益を多とし、また勿論、祖国に対する深い愛情からではあるが、二六時中、フランス語を使っている我が国上流社会の称讃すべき風習を如何に徳とするにしても、それでもやはり作者は、このロシアの叙事詩の中へ、たとえどのような文句にしろ、外国語を引用する気にはどうしてもなれないのである。だから、ロシア語で先きをつづけることにする。
「大事件って、どんなことですの?」
「まあ、それがですよ、アンナ・グリゴーリエヴナ! ほんとに、あなたが少しでもあたしの出逢った立場を察して下さることが出来たなら! ね、どうでしょう、けさね、宅へお梵妻だいこくさんがいらっしたのよ、あのお梵妻だいこくさん、祭司長のキリール神父の奥さんがですよ、それでどうしたとお思いになって? あの温和おとなしそうな風来坊が一体どんな男だったとお思いになって?」
「まあ、あの人がお梵妻だいこくさんにいやらしいことでもしたと仰っしゃるの?」
「あら、アンナ・グリゴーリエヴナ、いやらしいことぐらいなら、まだまだ何でもございませんわ。まあ、あのお梵妻だいこくさんがあたしに話したことを聴いて下さいよ。あのひとの話では、コローボチカとかいう女地主が、まるで死人のような真蒼な顔をして、ブルブル顫えながらやってきて、こんなことを話したんですって! ね、まあ、どうでしょう、まるで小説そっくりですわ。なんでも或る晩のこと、草木も眠る丑満時に、突然、それはそれは恐ろしい音をたてて、どんどんと門を叩く者があるんですって。そして、『あけろ! あけろ! あけなきゃあ、門をぶっ壊してしまうぞ!……』って呶鳴るんですとさ。さあ、あなたはどうお思いになって? そんなことがあったとしたら、一体あの伊達男はどうなるのでしょう?」
「で、そのコローボチカって、どんなひとですの? 若くて美人だとでもいうんですの?」
「ところが、それが大違い、よぼよぼのお婆さんなんですのよ。」
「あら、素敵だこと! じゃあ、あの男はそんなよぼよぼのお婆さんに手をつけたんですの? して見ると、このまちの御婦人がたもよっぽど物好きなのねえ、そんないやらしい男に血道をあげるなんて!」
「ううん、そうじゃないってば、アンナ・グリゴーリエヴナ、そんなこととは、まるで違うのよ。まあ、どうでしょう、あの男は、まるで*2リナルドー・リナルジンみたいに頭の天辺から足の爪先まで物々しく身固めをして押し入るなり、『さあ、死んだ農奴をすっかり俺に売れ』って言うんですとさ。そこでコローボチカは、『そんな死んだものを売る訳にはいきません』って、如何にも尤もな答えをしたんですよ。すると、『いや、そいつらは死んじゃいない。死んでいようが、死んでいまいが、そんなことはこっちのことで、お前の知ったことじゃない、そいつらは死んじゃいない、死んじゃいないんだ!』と呶鳴るんですって。『死んでいるものか!』って。一口にいえば、飛んでもない乱暴狼藉をはたらいた訳ですわ。村じゅうの者が駈けつけて、子供は泣く、大人は喚くという騒ぎで、何が何やらさっぱり分らないんですもの、それこそ、ただもう、ほんとに*3オルリョール、オルリョール、オルリョール!って有様なの……。でも、アンナ・グリゴーリエヴナ、あなたにはこの話を聞いてあたしがどんなに吃驚したか、とてもお分りにはなりませんわ。『まあ奥さま』って、マーシュカがわたしに言いますのよ。『鏡を御覧なさいませ、お顔が真蒼でございますわ。』でも、あたしは、『鏡どころじゃないよ。すぐにアンナ・グリゴーリエヴナのお宅へ伺って、お話してこなくっちゃあ』って言いましてね、さっそく軽馬車の仕度を言いつけましたの。馭者のアンドリューシカが、どちらへ参りますかって訊ねても、あたし、何ひとこと物をいうことが出来ずに、まるで馬鹿みたいに、馭者の顔ばかりぼんやり眺めていたんですのよ。きっとあれは、あたしが気でも違ったのじゃないかと思ったかも知れませんわ。ほんとにさ、アンナ・グリゴーリエヴナ、あたしがどんなに吃驚仰天していたか、それがあなたにお分りになったなら!」
「でも、ほんとにおかしな話ねえ。」と、どちらから見ても気持のいい婦人が、口をはさんだ。「いったいその死んだ農奴って、どういう意味なんでしょうね? 正直なところ、あたしにはさっぱり訳が分らないんですの。その、死んだ農奴をどうかしたっていう話は、これでもう二度も聞きましたわ。それに良人たくなども、ノズドゥリョフは嘘つきだけれど、慥かに何か曰くがありそうだなんて言っておりますのよ。」
「ですけれどね、アンナ・グリゴーリエヴナ、あたしがその話を聞いた時の気持も察して頂戴な。『今でも妾は』って、そのコローボチカが言うんですって。『一体どうしたらいいのか、さっぱり分りません。妾に無理矢理、何か瞹昧な証文に署名させて、紙幣で十五ルーブリ投げつけておいて行ってしまったのです。妾は』って、そのお婆さんは言うんですって。『世間しらずの、寄辺ない後家のことで、何のことやら、さっぱり分りません……』って。事件っていうのは、まあ、こんなことですのよ! だけど、あたしがどんなに吃驚仰天したか、それが少しでも、あなたにお分りになったらねえ?」
「それはともかくとして、これには死んだ農奴そのものじゃなくって、何か裏があるのよ、きっと。」
「そういえば、そうねえ。」と、単に気持のいい婦人はちょっと眼を瞠って言ったが、すると忽ち彼女は、一体その裏には何が隠されているのだろうという強い好奇心を覚えた。で、彼女はためらいがちに言った。「それでは、どんな裏があるとお思いになりますの?」
「あなたこそ、どうお思いになって?」
「あたしがどう思うって?……正直なところ、まるであやふやですわ。」
「でも、あたしは是非、これに対するあなたの御意見が伺いたいの。」
 しかし、単に気持のいい婦人は、てんで言うべき言葉を知らなかった。彼女はただ大騒ぎをするだけが能で、何か気のきいた推定を下す段になると、から意気地のない女であった。そういう訳で、他のどんな女性にもまして彼女には優しい友情と助言を必要としたのである。
「では、その死んだ農奴というのが、いったい何だか、それを一つお話しますわ。」と、どちらから見ても気持のいい婦人が言った。その言葉を聞くと、女客の全身はまるで聴覚器に変ってしまい、両の耳が自然に伸びて、彼女は殆んど長椅子の上にじっと坐っていられないように腰を浮かして前へ乗り出したが、どちらかといえば肥り肉の五体が急に、ちょっとの微風にでも空中へ舞いあがって行きそうな、鳥の羽毛はねみたいに軽い、ふわふわしたものになってしまったように思われた。
 それはちょうど、犬ずきで狩猟かりずきなロシアの貴族が、犬番や短気な猟師をつれて、森の方へ近づいて行くと、今しも森の中から勢子に追いたてられた兎が飛びだして来て、ハッとした瞬間にその貴族は、乗った馬と、振りあげた鞭もろとも、導火線の火が正に移ろうとする火薬も同じに変ってしまうと同じで、[#「同じで、」は底本では「同じで。」]両の眼をくわっと見ひらいて、ぼんやり霞んだ虚空に注ぎながら、一散に獲物を追っかける彼は、どんなに物凄い雪の野原が行手を遮って、チカチカと星のように光る銀のつぶてを、口といわず、髭といわず、眼や眉はもとより、海狸の帽子にまで振りかけようとも、いっかな後へは退かず、目指す獲物をしとめずには措かぬのである。
「その死んだ農奴というのは……」と、どちらから見ても気持のいい婦人が言葉をついだ。
「さあ、何ですの、それは?」と客の婦人は、胸をわくわくさせながら後を促した。
「死んだ農奴だなんて!……」
「ええ、早く仰っしゃいよ、後生だから!」
「あれは、ただ人眼を誤魔化すために思いついただけのことで、ほんとうは、知事のお嬢さんをかどわかそうってのが、あの人の魂胆なんですわ。」
 たしかにそれは、まったく思いもよらぬ、またどの点から見ても珍無類な断案であった。これを聞くと単に気持のいい婦人は、まるでその場で化石したように、さっと顔色を変えて、死人のように蒼ざめてしまい、まったく心から度胆をぬかれてしまったのである。『まあ、驚いた!』と、彼女は思わず手を叩いて叫んだ。『ほんとに、そこまではあたし気がつきませんでしたわ。』
「実はね、初めあなたからちょっと伺ったばかりで、ハハーンとあたし、すぐに気がつきましたのよ。」と、どちらから見ても気持のいい婦人が答えた。
「でも、そんなことだとすると、国立女学院の教育なんて当てになりませんわねえ、アンナ・グリゴーリエヴナ! だって、まだほんのねんねじゃありませんか!」
「ねんねなもんですか! あたしはあのの口から飛んでもない言い草を聞きましたのよ、正直なところ、あたしなんぞとても口に出す勇気もないようなことなんですのよ。」
「まあ、ねえ、アンナ・グリゴーリエヴナ、当節の若い娘がそんなにふしだらになったのかと思うと、ほんとに胸がつぶれますわ。」
「だのに、殿方たちといえば、もう、あのに夢中なんですものねえ。あたしに言わせると、正直なところ、あの娘なんぞに、ちっともいいところがあるとは思いませんわ……。」
「いやに澄ましてるばかりでねえ。」
「あら、澄ましてるんじゃありませんわ、アンナ・グリゴーリエヴナ! あのは石地蔵そっくりで、顔に表情というものがまるでないんですのよ。」
「いいえ、澄ましていますとも! 澄ましていますとも! ほんとに憎らしいほど澄ましているじゃありませんか! 誰に教わったのか、それは知りませんけれど、あたし、まだこれまでに、あんなに気どったひとって、見たことがありませんわ!」
「そうじゃありませんわ! あのはまるで石地蔵みたいで、顔色が死神のように真蒼なんですもの。」
「あら、何を仰っしゃるのさ、ソフィヤ・イワーノヴナ、あのやけに頬紅をさしているじゃありませんか。」
「まあ、あんなことを。あのの顔はまるで白墨みたいですわ、まるで白墨みたいですわ、正真正銘の、白墨そっくりですわ。」
「でもねえ、あたしはあののそばに坐っていたんですが、紅をこってりと、そりゃ厚くつけていますのよ、だからそれがまるで漆喰のように、ぼろぼろと欠けて落ちるんですもの。あれはお母さんが淫婦コケットなもんだから、それを見習ったのだけれど、娘さんの方が、役者が一枚うわてになった訳ですわ。」
「ええ、そりゃ、まあ、あなたはどんなにお請合になっても構いませんけれど、もしもあのが、紅をほんの一滴でも、ほんのちょっぴりでも、いいえ紅のべの字でもさしていたら、たった今あたしは、子供も、良人も、財産もすっかり投げだしたって構いませんわ。」
「まあ、変なことを仰っしゃるわねえ、ソフィヤ・イワーノヴナ!」そういって、どちらから見ても気持のいい婦人は手を拍った。
「あら、あなたこそ変なこと仰っしゃるのよ、アンナ・グリゴーリエヴナ! ほんとにあたし吃驚して、お顔を見つめるより他ありませんわ!」こう言って、単に気持のいい婦人も、同じように手を拍った。
 このように、殆んど同時に見たものに就いて、二人の婦人が互いに別々の意見を抱いていたからとて、読者には別段不思議なことはあるまい。実際、こういったような事柄は世間には間々あって、或る婦人の眼には明らかに白く見える物が、他の婦人の眼には赤い赤い蔓苔桃のように見えるのである。
「そうそう、あのが真蒼な顔をしていたという証拠がまだありますわ。」と、単に気持のいい婦人が言葉をついだ。「あたし、今でもはっきり憶えていますが、あの時マニーロフさんのそばに坐っていて、あの方に、※(始め二重括弧、1-2-54)まあ御覧なさい、あのひと、なんて蒼い顔色なんでしょう!※(終わり二重括弧、1-2-55)って言いましたのよ。ほんとに、あんな娘に血道をあげるなんて、このまちの男たちぐらいの頓馬でなきゃ出来ない相談ですわ。だのに、あの伊達男ったら……。ほんとに、あの時のいやらしい態度ざまったらありませんでしたわ! ねえ、アンナ・グリゴーリエヴナ、あたしがどんなにあのひとを忌々しく思ったか、とてもあなたにはお分りになりませんわ。」
「でも、大分あの男に御執心の夫人ひともありましたわねえ。」
「それ、あたしのことを仰っしゃるの、アンナ・グリゴーリエヴナ? ううん、決してあたしそんなこと仰っしゃられるような覚えはありませんわ、決して、決して!」
「おや、別にあなたのことを言ってるのじゃありませんわ、あなたの他には誰もいなかったかのように、妙なことを仰っしゃるのねえ。」
「だって、決して決してそんな覚えはないのですもの、アンナ・グリゴーリエヴナ! 口幅ったい申し分ですけれど、あたし、自分の身のほど位ちゃんと弁まえていますわ。そりゃね、どっかの奥様がたみたいに、乙に澄ましてツンとしていらっしゃる方たちのことは存じませんけれどさ。」
「ね、ちょっと、ソフィヤ・イワーノヴナ! あたし、憚りながら、まだ一度もそんな如何わしい真似をしたことはありませんわ。どなたか他の方ならいざ知らず、憚りながらあたしだけは決してそんな真似はしませんからね、それだけははっきりお断わりしておきますわ。」
「まあ、どうしてそんなに御立腹になるの? だって、あの時には、他にも奥様がたは幾らもいらっしたじゃございませんか。そればかりか、あのひとのそばへ坐ろうと思って、躍起になって扉口の椅子を奪いあった方たちさえありましたわ。」
 さあ、こんなことまで、単に気持のいい婦人が口外したかぎり、どうせ只では納まらないはずであった。ところが、驚いたことに二人の婦人は急に鳴りをしずめてしまって、全然なんの騒ぎもおこらなかった。どちらから見ても気持のいい婦人は、例の流行服の型紙をまだ手に入れていないことに気がつき、また単に気持のいい婦人の方は、自分の親友の発見した事柄を、まだ一向詳しく聴き取っていないことを思い出した。そんな訳で案外はやく和睦が成立したのである。もともとこの二人の婦人は、殊更相手の心を傷つけるつもりがあった訳ではなく、概して二人とも性質に於いてはそう意地の悪い方ではなかった、ただ話の行きがかりで、無意識のうちに、ちょっと相手をやっつけてやろうという、けちな慾望を起こしたまでである。いわば、どうかしたはずみに、ちょっと慰み半分に、『じゃあ、これでもあげますわ、さあ召しあがれ!』などというのと同じである。男性にしても女性にしても、いろんな慾望を心に持っているものである。
「でも、たった一つあたしに分らないのは、」と、単に気持のいい婦人が言った。「どうしてチチコフという男は風来坊のくせに、そんな大それたことを思いついたものだろうってことですわ。ひょっとしたら、これには共謀者なかまがあるのかも知れませんわねえ。」
「その共謀者なかまがないとでもお思いになって!」
「じゃあ一体、誰があのひとの尻押しをしたと仰っしゃいますの?」
「そりゃ、例えばあのノズドゥリョフあたりでしょうよ。」
「まあ、ノズドゥリョフがですって?」
「ええ、どうして? あのひとのやりそうなことじゃありませんの。御存じのとおり、あれは生みの父親まで売り飛ばそうとした人ですもの、売るというより骨牌に賭けるといった方が当っていますけれど。」
「おや、まあ、なんて面白いことを伺うのでしょう! まさかノズドゥリョフがこの事件に関係していようなんて、あたし夢にも思いませんでしたわ!」
「ところが、あたしは始終そう思っておりましたのよ。」
「ほんとに、世の中には、何が起こるか分ったものじゃございませんわねえ。そうでしょう、そら、あのチチコフがこの市へやって来たばかりの頃にさ、まさかあのひとが社交界でこんな変な真似をしようなどと、誰が想像したでしょう? まあ、アンナ・グリゴーリエヴナ、あたしがどんなに驚いたことか、あなたに分って頂けましたらねえ! でも、あなたの御好意と友情がなかったなら…… ほんとに、それこそあたし、飛んでもないことになるところでしたわ…… そうですとも! 宅のマーシュカなんか、あたしが死人のように真蒼な顔をしているのをみて、※(始め二重括弧、1-2-54)まあ、奥さま、まるで死人のように真蒼なお顔でございますよ※(終わり二重括弧、1-2-55)って言いますの、で、あたし、そう言ってやりましたわ。※(始め二重括弧、1-2-54)マーシュカ、あたしは今、それどころじゃないんだよ※(終わり二重括弧、1-2-55)って。まあ、そんなことでしたの! じゃあ、ノズドゥリョフまでが共謀ぐるになっていたのですわねえ! まあ、呆れた!」
 単に気持のいい婦人は、くだんの令嬢誘拐事件に関する更に詳細な点まで、つまり、それの敢行される時間やその他についてまで、是非さぐりだしたいと思ったのであるが、しかし、それは少し慾が深すぎた。どちらから見ても気持のいい婦人は、正直に、それはよく知らないと言った。彼女は嘘をつくことが出来なかったのである。尤も或ることを推定するのは別問題である。それとても、その推定が内心からの確信に基く場合に限られていた。で、心にそうと確信を抱いていさえすれば、彼女はどこまでも頑張り通す。そういう場合には、他人の説を打ち破る才に長けた如何なる弁護士といえども、彼女と論戦を試みれば結局、内心よりの確信にはとうてい敵わぬことを発見したに過ぎないだろう。
 二人の婦人が初めにただ、一つの仮定として想像したことを、しまいには確定的な事実として信ずるようになったからとて、それは何ら異とするに足りないのである。自から賢明な人間と称している我々一同が、やはりそれと殆んど同じようなことをやっていて、多くの学問上の論説がそれを証明している。初め学者が或る問題を論究せんとするや、非常に卑屈な態度でそれを取りあげ、小心翼々として、『これは一体どういうところからこうなったのだろう? 斯く斯くの国名はこの一角の名前から由来したのではなかろうか?』とか、また、『この文献はもっと別の、遥か後代に属するものではなかろうか?』また、『この人民というのは、これこれの人民の意味に解すべきではなかろうか?』などといった、極めて謙虚な質疑を以ってはじめる。それから間もなく、あれやこれやと古代の稗史小説を引合いに出して何か暗示を見つけるか、又は暗示を見つけたような気がすると、もうそろそろ彼はお調子に乗って大胆になり、初め遠慮がちな臆測から出発したことなどは、すっかり忘れてしまって、古代の著者達と不遠慮に言葉をかわしたり、彼等にさまざまな質問を課したり、それに自分で答えたりまでするのである。そして自分は何もかも会得しており、一切は明白であると思いこんでしまって、『つまり、事の起こりはしかじかであった、しかも、その張本人はこれこれの人種と解すべきである! 従って、そういう見地からこの問題を考察する必要がある!』といった風な言葉で断案を下してしまうのである。やがてそれが公然と演壇から叫ばれ、新発見の事実として世間にひろまりながら、追随者と崇拝者を集めることになるのである。
 このように二人の婦人が、さしもこんぐらかった事態を手際よく見事に解決している間に、例の眉毛の濃い検事が、絶えず片眼をパチパチさせるだけで顔の筋一つ動かさずに客間へ入って来た。二人の婦人は先きを争って、すべての事情を彼に報告し、チチコフの死んだ農奴買入れの話から、知事令嬢誘拐の企らみに至るまで、逐一物語って、彼をすっかり煙に巻いてしまったので、相手は長いあいだ一つところに突っ立ったまま、左の眼をパチパチやりながら、手巾で顎鬚を叩き叩き、そこにくっついている煙草を払いおとしていたけれど、彼には何が何やらさっぱり話の意味がのみこめなかった。二人の婦人はそのまま彼を打っちゃっておいて、市中に一騒動おこさせるため、それぞれ志す方へと出かけていった。この企ては僅々三十分あまりで見事に達成された。果然、市中には囂々たる騒ぎが持ちあがって、鼎の沸くが如き大混乱を来たしたが、誰一人この事件の片鱗すら理解のみこむことが出来なかった。二人の婦人にすっかり眼をくらまされてしまって、すべての人々、殊に役人連は、茫然としてなすところを知らなかった。最初のうち彼等のおかれた状態は、ちょうど寝坊をしていた中学生が、先きに起きた友達に、鼻の孔へ※(始め二重括弧、1-2-54)驃騎兵※(終わり二重括弧、1-2-55)をつっこまれた時と同じであった。※(始め二重括弧、1-2-54)驃騎兵※(終わり二重括弧、1-2-55)というのは、嗅煙草を包んだ紙搓こよりのことであるが、眠っていた中学生は、夢うつつのこととて思いきりその煙草を鼻へ吸いこんで、はっと眼をさますなり、跳び起きて、寝ぼけ眼をみはり、馬鹿のように四方八方をキョロキョロと見※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)しながら、自分が現在どこにいて何をしているのやら見当もつかないのであるが、やがてのことに、斜に日光のさしている壁をみとめ、部屋の隅に隠れてクスクス笑っている友達の声を聞きつけ、窓から覗きこんでいる朝の景色に気がつく――森は眼ざめて、無数の鳥の声に谺し、小川はキラキラと輝やきながら、曲りくねって、ところどころ細い葦のあいだに見え隠れしながら、呼びかわして水浴に戯れる素裸の子供たちで一杯になっている――その時になって初めて彼は、自分の鼻の中に※(始め二重括弧、1-2-54)驃騎兵※(終わり二重括弧、1-2-55)が押しこまれていることに気がつくのである。最初のうちの市民や役人連の状態が丁度これにそっくりであった。誰も彼もが、まるで羊のように、ぼんやりと眼ばかり剥きだして立ちすくんでしまった。死んだ農奴と知事の娘とチチコフとが、彼等の頭の中で非常に変な具合にこんぐらかって、ごった返した。やがてのことに最初の放心状態が過ぎ去ると、彼等はそれを個々別々に切りはなして、その真相を究明しようとしたのであるが、問題がどうしてもはっきりしそうにないのを見て、今度は腹を立てはじめた。『まったく、その死んだ農奴なんて、いったい何だい? 死んだ農奴なんて、どだい理窟に合わないじゃないか、どうして死んだ農奴なんか買うのだろう? そんな阿呆がいったい何処にあるだろう? どんな死金を使って、そんなものを買おうというのだ? いったい何の目的あてがあって、どこへおっつけるために、死んだ農奴など買いこむのだろう? 又それに知事の娘が何の関係があるのだろう? あの男が知事の娘を誘拐しようとしたからとて、それがためにどうして死んだ農奴など買わなければならないのだろう? また死んだ農奴を買い込んだからとて、何のために知事の令嬢を誘拐しなければならないのだろう? 死んだ農奴をあの娘にやろうとでもいうのだろうか? まったく、何という馬鹿げた話がまちじゅうにひろまったものだろう? ちょっと身じろぎをしたかと思うと、直ぐにあられもない噂が持ちあがるなんて、一体、何という傾向だろう、それも何か意味でもあればだが……。しかし、こんな噂が流布された限り、それには何か根拠がある筈だ。それでは、死んだ農奴にどんな根拠があるのだろう? いや、根拠などというものはないのだ。これはただ、ひょっくり飛び出したゴシップか、根も葉もない流言蜚語といった類いの、馬鹿げた出鱈目なんだ、長靴の半熟っていうやつだ! そんなものはまったく、糞くらえだ!……』要するに、風説は風説を生んで、まちじゅうの者が、死んだ農奴と知事の娘について、チチコフと死んだ農奴について、知事の娘とチチコフについて喋り出し、ありとあらゆるものが起ちあがった。それまでは仮睡まどろんでいたような市が、まるで旋風のように沸きたったのである。何年も家にひっこんで、寝巻のままごろごろしていたような愚図や惰け者までが、のこのこと塒から這いだして来て、これまで外へ出られなかったのは、長靴を窮屈に作った靴屋のせいだの、仕立屋のせいだの、酔っぱらいの馭者のせいだのと弁解した。もう久しい前からあらゆる交際を断って、謂ゆる横寝五郎造氏とばかり懇ろにしていた連中、(これは『横臥する』とか『ごろごろしている』という動詞から出た有名な文句で白河夜舟氏を訪ねるなどという文句同様、横向き、仰向き、その他あらゆる恰好で、グウグウ鼾をかいたり、鼻を鳴らしたり、その他いろんな附随動作をやりながら、まるで死んだように寝こんでいることを意味して、我がロシアでよく使われる洒落であるが、)そういった連中や、また目の下五尺もある蝶鮫と、口の中でとろけてしまいそうなパイを添えた、五百ルーブリも金のかかった魚汁ウハーを御馳走するといっても、いっかな家から誘い出すことの出来ないような連中までが、一人残らず飛び出して来たのである――一口にいえば、成程このまちもなかなか賑やかで、大きくもあれば、人口も相当にある事が分ったのである。スイソイ・パフヌーチエヴィッチだの、マクドナルド・カルロヴィッチだのといった、これまでついぞ聞いたこともないような人々が顔を見せたり、これまで見たこともないような、おそろしく背の高い、手に貫通銃創のある長身のっぽの男がにゅっと客間へ現われたりした。通りはまた通りで、幌をかけた弾機附馬車や、一向見たこともない大型の馬車や、喧ましいガタ馬車や、車輪のギーギー軋る馬車などで一杯になって、まるで芋をあらうようにごった返した。これがもっと他の場合で、事情さえこんなことでなかったなら、このような噂には誰ひとり耳を傾ける者はなかったであろうが、時あたかもN市には、もうかなり前から事件らしいものが全然なかったのである。殊にここ三ヶ月ばかりというものは、首都で疑獄といわれている類いのものさえ一つもなかった。この疑獄というやつは、周知のとおり、都会生活にとっては、恰かも適宜に供給される食料品と同じような役目を務めるものである。そこで市の輿論には、忽ち二つの全く相反する見解が現われ、二つの相対立する党派が形づくられた――男性派と女性派とである。男性派は、から他愛がなくて、死んだ農奴を重要視していた。それに引きかえ女性派の方は専ら知事令嬢の誘拐を問題にしていた。この党派は――婦人がたの名誉のために一言しておかねばならないが――断然、条理にもかない、注意も行届いていた。それは明らかによき主婦となり、一家を巧みに切盛りする彼女等の本分の然らしむるところであった。で、彼女たちのあいだでは、間もなく何もかもがはっきりした決定的な姿となり、一目瞭然たる形を具えて、ちゃんと解釈もつき、磨きもかけられてしまった――一口にいえば、最後の仕上げを施した一幅の絵が出来あがったのである。それによると、チチコフはもうずっと前から知事の娘と恋仲になっており、二人は月の夜に庭で逢曳までしていたのであって、知事自身も、チチコフがユダヤ人のような大金持であるところから、彼に娘をやるつもりであったが、端なくも彼の見棄てた細君から故障が出て、(一体どこからチチコフに細君があったなどということを婦人連が嗅ぎ出したのか、それは誰にも分らなかったが、)その細君が、もはや良人の愛を取り戻す望みを失って、苦しみもだえた挙句、知事に宛てて、惻々として胸を打つような一通の手紙を書き送った。それでチチコフは、とうてい娘の両親が結婚に承諾を与えないものと見て、いよいよ誘拐の肚をきめたというのである。また別の家では、その話が幾分ちがっていて、チチコフには細君などは全然なく、ただ狡獪で、金的を狙ってばかりいる実際家として、彼は、謂ゆる将を射んと欲せば馬を射よの筆法で、まず母親をくどき落して、ついに人目をしのぶ仲となり、それから徐ろに令嬢を妻に申し受けたいと切りだした、ところがそれを聞くと母親はびっくりして、宗教にそむく不倫の罪を犯すことを恐れ、且つ良心の苛責を感じて、きっぱりと相手の申出を断わってしまった、そこでチチコフは娘を唆かして駈落をしようと肚をきめたというのである。この風説がいよいよ高くなるにつれて、誠しやかにいろんな説明や訂正が施されて、とうとう場末のどんづめの横町まで伝わって行った。大体このロシアという国は、下層社会の者が上流社会で行われるいろんなゴシップの受売りをしたがる国だから、忽ちこの話は、チチコフのことなどは知りもしなければ、顔を見たこともない手合いの、荒ら家でまで云々されるようになり、いろんな尾鰭がつけられて、ずいぶんふるった解説が加えられたものである。話の筋は刻々と面白味を増し、日毎に決定的な形式を整えて、最後にすっかり完成された形となって、知事夫人の耳に達したのである。知事夫人は、一家の母親として、またこのまち第一の貴婦人として、且つまた、そのようなことは夢にも思いがけなかったこととて、その風評にすっかり気を悪くして、どの点から見ても至極尤もな憤懣の情に駆られたのである。で、哀れな金髪娘は、十六七の処女おとめがたまさか母親から受ける、あの不快極まる t※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)te-※(グレーブアクセント付きA小文字)-t※(サーカムフレックスアクセント付きE小文字)teテートアテート膝詰談判)の憂目を忍ばなければならなかった。いろんな質問や、訊問や、叱責や、威嚇や、非難や、訓戒が、洪水のように降り灑がれたけれど、娘は涙にかきくれて、たださめざめと泣くばかりで、何を言われているのやら少しも頭へ入らなかった。門番にはチチコフがいつ、どんな触込みでやって来ても決して通してはならないという厳命が下された。
 知事夫人の問題に一応片をつけると、婦人連は男性派に肉迫して、死んだ農奴なんていうのは実は好いかげんの出鱈目で、あらゆる疑惑を他に転じておいて、うまうまと娘を誘拐しようという肚にすぎないと断言して、彼等を味方に引きこもうと企てた。男たちの中には、その誘惑に負けて、女の党派に荷担した者も少なくなかったが、そういう連中は仲間から手厳しい非難を受けて、二本棒だのでれすけだのと罵られた――これは周知の如く、男子にとっては甚だ不面目な呼称である。
 しかし、如何に防備をかため、抗争をこころみても、男子側には婦人側に見られるような秩序というものが全然なかった。彼等の仲間では、すべてががさつで、粗野で、拙劣で、無益で、不調和で、醜悪で、その頭の中には、思想的な混乱と、もつれと、錯雑と、不純が渦を巻いていた。一言にしていえば、男性としての無分別な本性が――野卑で、鈍重で、家事の切盛りにも精神的な確信にも向かない、懶惰で、しかも間断なき猜疑と永遠の恐怖に充たされた本性が、万事にそれと窺われるのであった。彼等は口を揃えて、そんなことは凡そナンセンスだ、知事の娘を誘拐するなんて、驃騎兵でもやりそうなことで、歴乎とした人間のやるべきことではない、チチコフがそんなことをする筈はない、それは女どもの譫言に違いない、だいたい女という奴は袋みたいなもので、何でも耳へ入れたら、そのまま次ぎへ持って行って喋ってしまうのだ。この際、何より先きに注意をむけなければならない重要な目標は死んだ農奴で、一体それが何を意味するのか、それはさっぱり分らないにしても、この言葉の裏には何か極めて卑劣な、よくないことが隠されているのだ、と言った。そんな卑劣な、よくない裏があるなどと、どうして男たちが考えたのか、それはすぐに分る。今度この県に新らしい地方総督が任命された――これは言うまでもなく、役人連を大恐慌に導く出来事で、いずれ調査が行われて、叱責だの、譴責だのという、長官が部下にふるまうところの、いろんな職責上の苦汁をなめさせられることになるのだ。『さあ、もしも』と、役人連は心に思った。『総督が、この市にこんな馬鹿々々しい風説の行われていることを知ったら、どうだろう? それだけで、もう一通りや二通りではなく、カンカンに怒ってしまうだろう。』医務監督は急に顔色を失った。というのは、実に奇想天外な想像が、ふと彼の胸に浮かんで、『死んだ農奴』というのは、その実、自分が責任者として適宜の処置を講じなかったために附属病院その他で、夥しく悪疫に斃れた病人のことではなかろうか、そしてあのチチコフはこっそりとそれを探索するために、地方総督の官房から派遣された役人ではなかろうかと揣摩臆測したのである。彼は早速それを裁判所長に話した。裁判所長は、そんな馬鹿なことがあるものかと答えたが、もしやチチコフの買いこんだ農奴がほんとうに死んだ農奴だったら、どうなるだろうと考えて、今度は自分自身が急に真蒼になってしまった。そういえば、彼は売買の登記を許可したばかりか、自分でプリューシキンの代理までつとめているのだ。こんなことが総督の耳に入ったら、一体どうなるだろう? 彼がこれだけのことを二三の連中に話しただけで、それを聞いた連中は忽ち顔色を失ってしまった。恐怖というやつはペストよりも感染しやすく、忽ち次ぎから次ぎへと伝播するものである。役人一同は急に我れと我が身を振り返って、本当に犯してもいない罪まで探しはじめたものである。そればかりか、『死んだ農奴(魂)』という言葉が甚だ漠然たる響きを持っているので、もしやこれは、つい最近にあった二つの不祥事件の犠牲者で、てっとりばやく埋葬されてしまった死人のことを暗示しているのではなかろうか、などと疑い出しさえした。その不祥事件の一つというのは、市の定期市にやって来た*4ソリウイチェゴーズスクの商人連が、商いのすんだ後、商売仲間の*5ウスチスイソーリスクの商人連を招いて酒盛をやった――ロシア流儀にドイツ式の工夫を加味した酒盛で、*6アルシャードや、プンシュや、芳香酒バルザムなどが出た。例によって、この酒盛は乱闘に終り、ソリウイチェゴーズスクの連中はウスチスイソーリスクの連中をさんざんにあやめてしまった。尤も彼等の方も相手方から、脇腹わきばらだの鳩尾みぞおちだの、顎だのに手痛い打撲を蒙ったものだが、それでみると、なかなかどうして、死んだ相手方も素晴らしく大きな拳骨の持主であったことが立証された。で、勝った方の一人などは、闘士仲間でいう『鼻潰し』を喰らって、つまり、鼻がすっかり叩き潰されてしまって、もう顔にはそれが小指の半分くらいしか残っていないという為体ていたらくであった。商人どもは少し乱暴なことをしたと言って、自分たちの犯行を認めた。そして彼等は自白の際に、めいめい百ルーブリ紙幣を四枚ずつ役人に握らせたという噂であった。が、とにかくこの事件は有耶無耶になって、そののち行われた訊問や審理の結果、ウスチスイソーリスクの連中は炭酸ガス中毒で死んだことになり、従って炭酸ガスの中毒で死亡したものとして埋葬されたのである。もう一つ、最近にあった事件というのはこうである。ウシワーヤ・スペーシ村の御料農民が、ボロフカ村やザディライロヴォ村の御料農民と結託して、ドゥロビャージュキンとかいう巡査を殺して、駐在所の存在を有名無実にしてしまったというのであるが、その地方警察官、即ちドゥロビャージュキン巡査は、あんまりうるさく村へやって来るので、ともすれば疫病神のように嫌われており、何よりもこの駐在巡査には、素行上いささか欠点があって、村の女房や娘たちの尻ばかり追いまわしていたことが、どうやらその真因であったらしい。何でも百姓たちのあけすけに供述したところによれば、この駐在巡査はまるで狒々のように好色で手癖が悪かったので、彼等はもう一再ならず彼に警告を与えており、一度などは、夜這いに入っているところを丸裸のまま追い出したことさえあるというのであるが、しかし確かなところは分らない。勿論、この駐在巡査は素行上の欠点から天罰を受けるのが当然であったにしても、百姓達の方も、ウシワーヤ・スペーシの百姓にしろ、ザディライロヴォの百姓にしろ、事実上その殺害に荷担しているからには、やはり、その専断の行為は許される訳にはゆかぬ。が、事件は甚だ不明瞭で、駐在巡査の死体は往来の真中で発見され、その制服だったか燕尾服だったか、着ていた物は襤褸よりひどく引き裂かれて、顔などはまるで見分けもつかないくらい滅茶々々にされていたとのことだ。事件は地方裁判所で審理されて、ついには控訴院にまでまわされたが、そこで最初から秘密会議で次ぎのような判定が行われた。即ち百姓たちは多勢で、その中、果して誰が下手人であるかが不明であるし、ドゥロビャージュキンの方は既に死んでいるのだから、たとい彼に有利な判決が下されたとしても一向有難くもなかろうけれど、百姓どもはまだ生きているのだから、彼等にとっては少しでも有利な判決の下ることが重要だというので、結局ドゥロビャージュキン巡査はウシワーヤ・スペーシやザディライロヴォの百姓に不当な圧迫を加えて、自から墓穴を掘った訳であるが、その実、彼は橇で帰宅の途中、卒中で死亡したのであるという判決が下された。これでどうやら事件も円くおさまったように思われていたのであるが、どうしたものか役人連は、てっきり、そうした死せる魂が今、問題になっているのだと考えはじめたのである。こうして役人連が、さなきだに困惑している最中に、まるで故意わざとのように、県知事の許へ一度に二通も通牒が届けられた。その一つは、最近各所よりの情報によると、貴県に銀行紙幣の偽造犯人が入りこみ、さまざまの変名を用いて潜伏している筈だから、即刻厳重な捜索をしてもらいたいという内容であった。もう一つの方は、隣りの県の知事から来た報告で、その筋の追跡を免れて逃亡中の強盗犯人があるから、もし貴県に、身分証明書及び旅券を所持せざる不審人物が姿を見せたら、猶予なく逮捕して戴きたいというのであった。この二つの通報に一同はすっかり仰天してしまった。で、前に下された結論や推測は、又しても五里霧中へ逆もどりをしてしまった。無論そこに、仮にもチチコフの関係したことがあろうなどとは決して思われなかったけれど、一同がめいめい各自の立場から、よくよく考えてみると、彼等はまだチチコフが一体どういう人間であるかを知らないし、彼自身も自分の素性については実は瞹昧なことしか話さず、なるほど、勤務中にも真理のためには忍び難きを忍んだなどとは言っているけれど、随分それも漠然としている、それに彼が自分の生命まで狙っているような敵を多く持っているなどと語ったことを思い出すと、彼等は更に深い物思いに沈んでしまった。して見れば、彼の生命は非常な危険に瀕しているのかもしれない。或はまた追跡されている身の上かもしれない。従って、それだけの何か悪事をはたらいたのかもしれない……。第一に、彼は実際何者なのだ? 勿論、彼が銀行紙幣を贋造したり、まして、あの上品な風采からして強盗などをはたらくものとは、どうしても考えられないが、それはともかくとして、では実際のところ、彼はいったい何者なのだ? こうして官吏諸公は、そもそもの最初に、つまり我々の叙事詩の第一章に於いて起こさねばならなかった筈の疑問を、今頃になってやっと起こしたのである。そこで後れ馳せながら、彼に農奴を売った人々を訊き糺して、少なくともどんな塩梅に売買が行われたか、またその死んだ農奴とは果してどういう意味に解すべきであるか、ひょっと彼は何の気なしに、ほんの一寸でも、誰かに自分の本音を漏らさなかったか、誰かに自分の素性を話していないかどうかを、探り出すことになった。まず第一にコローボチカが槍玉にあげられたが、彼女からは大して得るところがなかった。彼が十五ルーブリで農奴を買取ったこと、鳥の羽根も買うといったこと、そしてまだいろんなものを買う約束をしたり、政府おかみの御用で獣脂も調達しているように言っていたとのことであった。して見ると彼はてっきり詐欺師に違いない。というのは、前にも一人そういう男がやって来て、鳥の羽根を買ったり、政府おかみの御用だと称して獣脂を狩り集め、人々をまんまとペテンに掛け、例の梵妻からなどは百ルーブリの余も巻きあげて行ったからである。それ以上は彼女が何を語っても、同じ事の繰り返しに過ぎず、役人連の知り得たところは、ただコローボチカが愚鈍な老婆だということ位に過ぎなかった。マニーロフは質問に答えて、パーウェル・イワーノヴィッチのことなら自分は首を賭けて保証する、自分はパーウェル・イワーノヴィッチの値打の百分の一でも身につけることが出来たなら、財産を全部なげだしても構わないと言って、あらん限りの讃辞を捧げて彼を褒めそやし、すっかりもう眼を細くして、友情に関する若干の意見をつけ加えたものである。無論、その意見は彼の胸のやさしい感動を充分に表明していたけれど、肝腎の問題を役人連に説明するには足りなかった。ソバケーヴィッチはまた、自分の見るところではチチコフという男は立派な人間だ、自分がチチコフに売ったのは皆、粒選りの農奴で、どの点から見てもピチピチした奴ばかりであるが、しかし、先きのことまでは保証の限りでない、もし移住の途中で何か困難に逢って彼等が死ぬようなことがあっても、それは自分の責任ではなく、ひとえに神のお思召である。なにしろこの世には、熱病だの、いろんな命とりの病いだのがざらにあって、全村ことごとく死に絶えるという例しもよくあることだから、と答えたものである。そこで役人連は更にもう一つの手段に訴えた。これは余り高尚な手段ではないが、まま用いられる手で、つまり側面から召使同士の馴染を介して、チチコフの下男たちが旦那の前身なり境遇について詳しいことを知っていないかと、いろいろ訊き糺してみたのである。が、やはり大して得るところはなかった。ペトゥルーシカからはただ、例のむさくるしい変な臭いを嗅がされただけであったし、またセリファンからは、『お上の役を勤めあげた人で、前に税関にいたことがある』ということ以外には、何も聞きだすことが出来なかった。こういう階級の者には実に奇妙な癖があって、何か肝腎なことを訊かれると、何一つ思い出すことも出来ず、頓と見当さえつかずに、ただ知らないと答えるだけであるが、そのくせ大して必要でもないことだと、恐ろしくきおい立って、こちらが知りたくもないことまで、いやに詳しくべらべら喋りたてるのである。で、役人連がありとあらゆる探索をした挙句、ようやく知り得たところは、チチコフの正体はどうしても分りっこないということ、それにも拘らずあの男は確かに曲者であるということだけであった。結局、役人連は、この問題についてもう一度よく相談して、少なくともこの際どうしたらいいか、如何なる手段を取るべきであるか、将又、彼は何者であるか、あの男が悪人として逮捕され拘束さるべき人間なのか、それとも、あの男こそ自分たちを悪人として逮捕し拘禁する権力を持つ人間なのか、それからして先ず決定することにした。それがためにわざわざ、あの、読者には先刻お馴染の、この市の慈父であり恩人であるところの警察部長の邸で集会が催されることになったのである。
*1 スコナペル・イストアール これはフランス語の ce qu'on appelスコナペル histoireイストアール(謂ゆる大事件)の意である。
*2 リナルドー・リナルジン 種々の山賊物語の主人公として用いられる伝説的な盗賊。
*3 オルリョール、オルリョール、オルリョール! これはフランス語の horreurオルール, horreurオルール, horreurオルール!(怖ろしや、怖ろしや、怖ろしや!)を訛って発音したのである。
*4 ソリウイチェゴーズスク ロシアの東北地方ウォログダ県下の郡の首都で、ウイチェグダ川の河港。
*5 ウスチスイソーリスク 前項と同県下の郡の首都。
*6 アルシャード 一種の酒精飲料。
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第十章


 読者には先刻お馴染の、この市の慈父であり恩人であるところの警察部長の邸に集まった役人連は、ゆくりなくも、重なる不安と焦燥からげっそり痩せ細った顔を、互いに見合わせた。事実、新らしい地方総督の任命と、あのような重大な内容をもった報告の到着と、何が何やらさっぱり訳の分らない例の風説とが一緒になって、彼等の顔にまざまざと苦労の跡を刻みつけ、多くの者の燕尾服は眼に見えてゆるくなっていた。誰も彼もがげっそり憔悴してしまって、裁判所長も痩せ、医務監督も痩せ、検事も痩せ、またいつもただセミョン・イワーノヴィッチと呼ばれて決して姓を呼ばれたことのない、人差指に大きな指輪をはめて、それを婦人連に見せびらかしてばかりいる男までが、げっそりと痩せ細っていた。中には勿論、どこにもよくあるように、いっこう平気でビクビクしない手合いもあるにはあったが、それは極めて少数で、実は郵便局長一人きりであった。彼だけは相変らずの泰然自若たる態度を少しも変えず、こんな場合にも、いつもの癖で、『我々はあなた方のことはちゃんと知っておりますよ、総督さん! あなた方は三人も四人も更迭なさることでしょうがね、私なんざあ、もう三十年も同じ職についていますからね。』などと言い言いした。それに対して他の役人どもは、こう言って応酬したものである。『そりゃ君はいいさ、シュプレヘン・ジイ・ドイッチェのイワン・アンドレーイッチ。君の携わっている郵便事務ってやつは、郵便物を受附けて発信するだけのことだからさ。インチキをやるといったところで、締切を一時間も繰りあげて、それに遅れて来た商人から書信の時間外取扱料をせしめたり、規定に反した小包を差出したりする位のものだから、無論、涼しい顔もしていられる訳さ。とにかく君は、いつも悪魔を袖の下に潜ませているんだから、自分で取らないつもりでも、悪魔がちゃんと押しこんでおいてくれるって訳さ。君は実際うまくやってるよ、何しろ子供だって一人きりでさ。だがプラスコーヴィヤ・フョードロヴナはああいう羨ましい体格をしているのだから、また一年もたてば姙って、男の子か女の子を生むよ。そうなった暁には、あまり暢気なことも言っていられまいぜ。』役人連はこんな風に言ったけれど、実際、悪魔の誘惑に打ち克つことが出来るかどうか――それは作者のかれこれ言うべき筋合いではない。さてここに開かれた集会には、一般の民衆のあいだで分別といわれている最も肝要なものの欠けていることが著しく眼についた。一体我々はどうも会議というものには不向きな国民である。下は村の百姓どもの寄合いから、上はいろんな学会や委員会などに至るまで例外なしに、我々ロシア人の集会というやつは、ちゃんと一同を統制する主脳部が存在しない限り、きっと飛んでもない混乱におちいってしまうものである。一体どうしてそうなのか、ちょっと説明に困るが、どうやらこの国の人たちは、ただ飲んだり騒いだりするために催される、つまりドイツ流の倶楽部や停車場の酒場でやる集まり以外には、どうもぴったり合わないらしい。が、いつも心掛だけは殊勝で、どんな会合にものこのこ集まって来る。我々はすぐに、おいそれと慈善団体だの、後援会だの、その他いろんな会を拵らえる。主旨はなかなか素晴らしいのだが、そのくせ何ひとつ結果は生まれないのだ。これは多分、我々が初めだけは有頂天になって、能事おわれりと考えるところから生ずるのであろう。例えば、貧民救済のために慈善団体の設立をもくろみ、相当巨額の金を集めると、さっそく我々はこうした美挙を記念するために、市の高位高官連を残らず午餐会に招待する、無論それで集めた拠金の大半は費えてしまい、残りの半分では、取りあえず委員会用に、暖房装置と守衛のついた堂々たる家を借りる。そうすると、貧民救済のためには、たかだか五ルーブリ半ぐらいしか残らないことになる。しかもその金額の割当てについて、会員同士のあいだに意見が対立し、みんながめいめい勝手に自分の親戚縁者を被救護者に推挙するのである。ところが、きょう催された会合は、全然それとは趣きを異にしていた。つまり必要にさし迫って開かれたもので、ここでは貧民などといった第三者のことは問題ではなく、すべての役人の一身上に直接影響する問題が起こっているのである。一同を等しく脅やかす災厄が問題となっているのである。従って、否応なく一致協力し、緊密に結束しなければならない筈である。だが、それにも拘らず、飛んでもない事になってしまったのである。どんな会合にも附きものの、各自の見解の相違はともかくとして、ここに集まった連中の意見は、何かしら妙に不可解なほど矛盾を曝け出していた。或る者は、チチコフを帝国紙幣の偽造者だと言っておきながら、すぐその後で、『しかし、ひょっとすると、そんな犯人ではないかも知れない』と附け足した。また或る者は、彼を地方総督庁に属する役人だと断言しながら、その舌の根の乾かぬ先きに、『だが、何だか分ったものじゃないさ、額にちゃんとそう書いてあるわけじゃなし』と遁辞をかまえたものである。彼が化の皮をかぶった強盗であるという臆測には皆がみな頭から反対して、自然に彼のそなえた上品な風采にも増して、彼の話しぶりには、そんな兇行を敢てするような人間と思われるふしが少しもないと言った。この時、数分のあいだ何か物思いに耽っていた郵便局長が、不意に霊感でも受けたのか、それとも何か他に原因があったのか、突然思いがけないことを叫び出した。『諸君、あれを誰だと思います?』こういった彼の声には何かしら人の心を震えあがらせるような響きがこもっていたので、一座の者は思わず、『じゃあ、いったい誰だね?』と一斉に叫び出さずにはいられなかった。『あれは、諸君、てっきりコペイキン大尉に違いありませんよ!』――そこで一同が異口同音に、『一体そのコペイキン大尉というのは何者です?』と訊ねると、郵便局長は、『では、諸君はコペイキン大尉が何者だか御存じないのですか?』と言った。
 一同は、コペイキン大尉が何者だか少しも知らないと答えた。
「そのコペイキン大尉というのはね、」と郵便局長は、誰かそばから他人が指を突っこむのを恐れて、自分の嗅煙草入れの蓋を半分だけひらきながら、言った。――というのは、彼は他人の指を決して清潔なものと思うことが出来ず、常々、『あんた方はどんなものでも指でいじくりなさるけれど、煙草というやつは不浄を嫌いますからね。』などと、つけつけ言うほどであったからだ。さて、「そのコペイキン大尉というのはね、」こう彼は、先ず嗅煙草を一服やってから、繰りかえした。「だがしかし、これを諸君にお話したものなら、それこそ、そんじょそこいらの小説家はだしの、とても面白い一篇の叙事詩になりますからなあ。」
 その場にいた一同の者は口をそろえて、是非その話を、つまり郵便局長のいわゆる※(始め二重括弧、1-2-54)そんじょそこいらの小説家はだしのとても面白い一篇の叙事詩※(終わり二重括弧、1-2-55)というやつを聞かせて貰いたいとせがんだ。そこで彼は徐ろに語りはじめた。

コペイキン大尉の物語

「ね、*1十二年の役の直後のことですよ、君。」と、その部屋には話相手が一人だけではなくて六人もいたのに、郵便局長はこんな調子で話しだしたものである。「十二年の役の直後に、他の負傷兵と一しょにコペイキン大尉も故国へ送還されてきたのです。どうも尻の落ちつかぬ、恐ろしく気随気儘な男で、しじゅう営倉へ入れられたり、監禁されたりで――実にいろんな目にあってきたんですがね。*2クラースヌイの戦いか、*3ライプツィッヒの戦いで、片手と片足を失ったんです。ところが、その頃はまだ負傷兵を救済する何等の法令も定まっていなかったのでしょう。あの癈兵の年金というものが制定されたのは、それからずっと後のことですからねえ。そこでコペイキン大尉は働かにゃならんと考えたのですが、どうでしょう、残っているのは左手一本きりなんですよ。家へ帰って父親に相談してみると、父親は、『わしにはとてもお前を養うことは出来ない』って言うのですよ。『自分の口を養うだけがかつかつなんだから』ってね。そこで君、コペイキン大尉は、これは一つペテルブルグへ出かけて、自分はこれこれの次第で、いわば一命を捧げて君国のために血を流したのだが、何分の扶助を願われまいものかと、関係当局に奔走してみることにしたのです……。で、君、まあ荷馬車か御用運送車の厄介にでもなって、やっとのことでペテルブルグまで辿りついたという訳ですよ。まあ何とか一つ想像してみて下さい、つまりそのコペイキン大尉は、あの、いわばこの世に二つとない首都みやこへひょっこり姿をあらわしたのです! 急に彼の面前にぱっと光りがさしたのです、つまり人生の活舞台が現われたのです。あのアラビヤン・ナイトの*4シェヘラザーダがひょっこり顔を出したというわけなんです。そうでしょう、いきなりあのネフスキイ通りや、あの素晴らしいゴローホワヤ街や、それからリテイナヤ街が現われたんですからねえ。高い高い尖塔が空にそびえており、橋梁はまるで神業のように、全然脚柱というものなしに架っている、つまり*5セミラミーダの天の浮橋そっくりなんですよ、君! そこで先ず部屋を借りようとして方々あたって見たのだが、それがまた恐ろしく高いのです。窓掛といい、捲上げカーテンと云い、絨氈といい、まるでペルシアへでも行ったようなんで……一口にいえば、惜気もなく、ふんだんに金がかけてあるという訳です。街をあるいていても、鼻につくのは何千何万という大金の匂いばかり。ところが、わがコペイキン大尉の懐ろにある全財産といえば、せいぜい*6青紙幣あおざつが十枚に、銀貨で小銭が少しばかりという心細さ……。こんなはした銭では小村一つ買えませんからね、村を買うには四万ルーブリも積まなきゃなりませんが、四万ルーブリといえば、フランスの王様にでも貸して貰うより他はないという始末。そこで、一日一ルーブリのレーヴェリとかいう安宿に泊って、食事は玉菜汁シチイと敲いた牛肉一切れだけで済ますことにした……。だが、いつまでもそんなことはしていられないと思ったのです。そこで彼は、一体どこへ訴え出たものかと人に訊ねてみたのです。すると、『さあ、どこへ訴えたものでしょうねえ?』と、人々は答えたものです。『なにしろ今は、最高機関が首府にいないんですからね。』つまり、最高機関はパリにいたという訳です、軍がまだ帰っていなかったのです。ところが中に、『臨時委員会が出来ていますよ。一つ掛合って御覧なさい、何とか取計らってくれるかもしれませんから』という人があったのです。『じゃあ一つそこへ行ってみましょう』と、コペイキンはそれに応じたのです。『そして、これこれで国家のために血を流して、いわば、己れの生命を犠牲にしたのだと陳情します。』そこで、君、彼はいつもより早目に起きて、床屋なんかへ行っては金がかかるという訳で、左手で鬚を剃って、軍服をひっかけると、不自由な義足をたよりに、その臨時委員会の主事の許へ出かけて行ったのです。主事の住いはと訊くと、『あの、海岸通りの家だ』と教えられた。行ってみると素敵もない邸で、窓にはめてあるガラスなどは、考えても御覧なさい、一間半もある鏡ガラスでしてね、ふんだんに大理石を使ったり、漆を塗ったりしてあって、ねえ、君……一口にいえば、頭がぼうっとなるくらいなんで。扉についている金属製の把手なども、実に素晴らしいものだったから、そいつを掴むには、先ず第一に店へ駈けつけて、石鹸を二銭がとこも買って、ものの一二時間もそれで手を洗い浄めてからでなくては、気が咎めるといった代物。玄関には鉾を持った門番が一人立っていたが、そいつが、まるで伯爵みたいな面がまえで、バチスト麻のカラーをつけているところは、何のことはない、ブクブク肥らされた狆にそっくりなんでね……。我がコペイキンは例の義足をひきずって応接室へ通ると、うっかり肘などで、アメリカかインドから渡来した金ピカの花瓶でも押しこかしては大変だと思って、隅っこの方に小さくなっていたものです。彼がそこでうんざりするほど長く待たされたのは、いうまでもない。それというのも、彼のやって来たのは、まだやっと主事が床から起きたばかりで、これから方々を洗うために、侍僕に銀の洗面器を持って来させたところだったからですよ。コペイキンがちょうど四時間ばかり待ったところへ、ようやく当直の役人が入って来て、『主事が只今お出ましになります』というのです。もう部屋の中は、肩章や金モールをつけた人々で、まるで芋を洗うように立てこんでいるのです。とうとう主事が顔を出しましたねえ。いやどうも……まあ思ってもごらんなさい――謂ゆる長官というやつで! その顔には、いわば、その…… 身分なり、又…… いいですか…… 官等なりにふさわしい…… 表情が浮かんでいるのです。万事、都風の応対ぶりで、請願者に一人々々、『あなたはどうして来たのです? どうして来たのです? どんな用事があるのです? 問題は何ですか?』といった調子で対応するんです。最後に、君、コペイキンの番になったのです。そこでコペイキンは、『これこれの訳で、国家のために血を流し、片手と片足を失って今は働くことが出来ません。つきましては、何分のお指図によって、相当の報酬とか、年金とかいうようなものを頂いて、何とか扶助の道が講じて頂かれないものかと、推して罷り出た次第でございます』と、述べたわけです。主事が見ると、義足をつけた男で、その右袖はペシャンコのまま、軍服に縫いつけてある。『よろしい、では近日中に改めて出頭なさい』という答えです。コペイキンがどんなに喜んだかは想像が出来るでしょう。『ようし、これで望みが叶ったぞ』と思ったのです。彼はもう、歩道をピョンピョン跳ねるようにして、パルキンスキイの酒場へ立ちよって、ウォツカを一杯ひっかけ、それから『ロンドン』で食事めしを食ったというわけですよ。先ず続随子ホルトそうを添えたカツレツと、いろんな添物をしたチキンを注文して、葡萄酒を一本ふんぱつしたものです。晩は晩で芝居を見に行きました――つまり、精一杯のおごりをやってのけたという訳ですねえ。歩道へ出て見ると、こう、まるで白鳥のようにすらりとした、一人のイギリス婦人がやって行くじゃありませんか。コペイキンの胸の血は俄かに沸き立ったのです――そこで義足をつけた足でコツコツとその女の跡を追って駈けだそうとしたのです。それでも、『いや、いけない』と考えたのですよ。『忌々しいが、女にいちゃつくのは暫らく待とう! 扶助料がさがってからうんとやるさ。きょうは俺は少しお調子に乗りすぎているぞ。』ところが、そんなことをして、彼はその日一日で所持金の殆んど半分は使いはたしてしまったのです。三四日すると、彼は再び委員会の主事のところへやって行ったのです。『例の件がどうなりましたか、お訊ねに参りました。まだ傷も癒えませんのに余病まで併発しまして……何しろ国のために血をながしたのですから……』というようなことを、切口上で述べたてたものと思って下さい。すると主事がこう言うのです。『だがね、何より先きに一言お断わりしておかねばならんが、君の願いの筋は最高機関の認可がなくては、どうすることも出来んのじゃ。そもそも今はどういう時であるか、それは君も知っとるじゃろう。いってみれば、まだ戦役はすっかり終ってはおらんのじゃ。大臣が帰国されるまで、我慢して待ち給え。そうすれば君は決して見殺しにされるのでないことを納得するじゃろう。どうしても、それまで食いつなぐことも出来んというのなら、わしに出来るだけのことはしよう……』ってね。それでまあ、無論わずかばかりではあったが、倹約してやってゆけば、認可の下るまでぐらいはどうにか持ちこたえられるだけの金が与えられたのです。ところが我がコペイキン先生は、そんなけちなことはしたくなかったのです。彼は明日にも、『さあ、これを持って行って、鱈腹のんだり、楽しんだりしろ』ってんで、何千という大金が貰えると思っていたのに、案に相違して、ただ待てというだけで、時期の指定もしてくれないという訳なんです。もう彼の頭の中は、例のイギリス婦人や、スープや、いろんなカツレツで一杯になっていたんです。そこで彼はしおしおと、まるでコックに水をぶっかけられて、尻尾を巻き、耳をたれて逃げ出す*7プーデル犬そっくりに、玄関を飛び出したのです。ちょっぴり味を覚えたペテルブルグの生活がもう彼を蝕みかけていたのです。それだのに何という惨めな暮らしでしょう、うまい物などは何一つ口にすることが出来ないのですからね。ところがまだ若くてピチピチした男のことですから、まるで狼のように食慾が旺盛だったんですよ。どこかの料理店の側でも通ると、そこでは外国人のコック、それはきっとフランス人なんですがね、そいつが明けっぱなしな顔附をして、オランダ製のシャツに雪と見まがうような真白なエプロンをかけて、松露を添えたカツレツかなんかを拵らえています――まったく贅沢な御馳走で、ほんとに咽喉から手が出るくらいなんです。またミリューチンの店の前でも通りかかれば、そこの窓からは素晴らしい鮭だとか、一粒五ルーブリもする桜ん坊だとか、恐ろしく大きな、まるで馬車ほどもある西瓜などが顔をのぞけて、そんなものに百ルーブリも払おうという馬鹿な買手を待っているんです――要するに、一歩ごとに誘惑が待ちうけており、何を見ても涎がだらだら流れるといった始末ですが、こちらは――おあずけを喰わされてるんですよ。まあ、彼の立場を想像して御覧なさい……一方からは鮭や西瓜を見せつけられながら、片方からは『明日』という不味い料理が押しつけられているだけなんですからねえ。『ええ、もう我慢が出来ない』と彼は思いました。『あいつらは一体どんなつもりでいるのかしらないが、おれは一つ出かけて行って、委員会もへったくれもあるものか、奴らをみんな狩り出して、一体どうするつもりだか詰問してやるぞ!』ってね。実際、彼は臆面のない、恐ろしくうるさ型の男で、こうと思ったが最後、理窟もへちまもあったものではなく、がむしゃらに突進する癖だったのです。で、彼はそのまま委員会へやって行きました。『どうしたんだね?』と先方が言うのです。『まだ何か用なんかね? もう君には、ちゃんと話がしてあるじゃないか』ってね。すると彼は、『ふん、何用ですって? あっしはこんなけちけちした暮らしは真平御免ですよ』と、つけつけ言ってのけたのです。『あっしだってカツレツを食ったりフランス葡萄酒の一本も飲んだり、また芝居にでも行って憂晴らしをしなきゃなりませんからね』って。『いや、そうは行かないよ……』と主事が言うんです。『こういうことには、いわばその、辛抱が肝腎なんだ。君には、その決定が下るまでの生活費があげてあるし、いずれは然るべき報償を受けることが出来るにきまっているのだ。そもそも我がロシア帝国では、祖国のために奉仕した人が何の保護も受けずに見殺しにされた例しはまだないのじゃから。しかし、君が今すぐにカツレツを食べたり芝居を見たりしたいというのなら、そいつはどうも困ったものじゃ。そういうことなら、自分で資力を見つけて勝手にやってゆくがよかろう』ってね。ところが君、コペイキンは平気の平左で、それ位のことではビクともしないのです。彼はがんがんと騒ぎたてて、誰彼なしに喰ってかかる始末です! そこにいた係り役人や書記連一同をさんざんにこきおろしはじめたのです……。『君だって、そうだ! お前さんだって、そうだ!』と、彼は一人々々に向って、『あなた方は職務というものを御存じない! あなた方は禄盗人だ!』などと罵って、一同をこっぴどくやりこめたのです。挙句の果てには、全然別の役所の将官がひょっこり顔を出したのにまで喰ってかかる始末で! 飛んでもない騒動を持ちあげてしまったのです。こんな没不暁漢わからずやにかかっては何とも仕方がありませんて! とうとう主事も、これは手ぬるい手段では駄目だと思ったのですよ。そこで、『よろしい!』と主事が言いました。『もしも君が、当座の給与だけでは満足することが出来ず、君の扶助料の決定するまで、おとなしくこの首都みやこで待っていることが不服なら、君を本籍地へ送還するまでのことじゃ。さあ、伝令兵を呼んで、この男を本籍地へ送り届けるようにしろ!』すると言下に伝令兵の姿が扉口に現われたが、七尺ゆたかの大男で、その頑丈な手が、生まれながらに馭者にでもなるように出来ているといったやつで――いわば歯医者の手先といった男なんです……。そこで、神のしもべなる我がコペイキンは、その伝令兵と一緒に馬車へ乗せられてしまったのです。『ふん、少なくとも馬車賃を払う必要がないから、それだけでも有難いというものさ』と彼は、ふてくされたものです。こうして彼は護送されて行ったんですがね、護送されて行きながら、肚の中ではこんな風に考えたのです。『よおし! 手前たちはおれに、自分で金を儲けて勝手に食っていけっていやがるのだな。よおし、おれは自分で儲けてやるぞ!』ってね。さて、彼が果してどこへ送りとどけられたのか、その辺のことは皆目不明なんです。そのままコペイキン大尉の噂は、詩人たちがレタ河と名づけている、あの忘却の河の底深く消え去ってしまったのです。ところが諸君、そもそも物語のいとぐちはここからはじまる訳なんですよ。さて以上のような次第で、その後コペイキンの行先は杳として分らなかったのですがね、いいですか、それから二月ふたつきもたたない中にリャザーニの森林地帯に物取り強盗の一団が現われたのです。しかもその一味の首領かしらというのが、君、他ならぬあの……。」
「いや、ちょっと待ち給え、イワン・アンドレーエヴィッチ。」と、この時、不意に警察部長が話を遮って言った。「君のお話では、第一コペイキン大尉には、片手と片足がないというんじゃありませんかね、ところがあのチチコフにはちゃんと……。」
 ここで郵便局長は、頓狂な声をあげて大きく手を振りまわし、自分の額をポンと一つ叩くと、一同の前で成程わしは頓馬だと公然自分を罵った。彼はどうしてそんなことぐらい最初から気がつかなかったのか不思議で堪らず、ロシア人というやつは謂ゆる後で気のつく癲癇もちだとは、なるほどよく言ったものだと感心した。しかし、暫らくすると彼は又しても狡く立ち※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)って自分の非を糊塗しようと思い、英国では機械学が非常な進歩を遂げて、最近の新聞で見ると、或る人が実に精巧な義足を発明したそうで、なんでも、ちょっと眼につかないような小さな弾機ばねが仕掛けてあって、それを押すと、その義足をつけた男がひとりでにのこのこと歩き出してどっかへ行ってしまったため、爾来その男の行方がさっぱり分らなくて困っているそうだ、などという話を持ち出した。
 しかし一同は、チチコフがコペイキン大尉だなどということには甚だしく疑問を抱いて、郵便局長の説を余りにも見当はずれであると思った。とはいえ、彼等はまた彼等でなかなか人後には落ちず、郵便局長の穿ちすぎた臆測と五十歩百歩の揣摩臆測を逞ましゅうしたものである。いろんな、皆それ相応にこじつけた臆断の中から、しまいにはこんなのまで飛び出してきた――それは口に出すのも可笑しいくらいだが――チチコフはナポレオンの変装したものではなかろうかというのであった。元来、イギリス人はロシアの領土が非常に広大であることを妬んでいる、だから漫画などにも、よくロシア人がイギリス人と話をしているところが描いてあるが、そのイギリス人は綱をつけた犬を後ろにつれて突っ立っている――この犬は言うまでもなくナポレオンを指すのである。で、イギリス人は『気をつけろ、お前の方でこうこういう風にしなければ、おれはすぐさまこの犬をお前にけしかけてやるぞ!』と言っているのだ。ところで、今やイギリス人がその犬をいよいよセント・ヘレナの配所から放免したのかも知れない。そこでナポレオンはロシアへもぐりこんで来たのに違いない。チチコフの姿に化けてはいるけれど、その実チチコフなどとは真赤な嘘だというのである。
 勿論、こんなことを役人連が信じた訳ではなかったが、それでもよくよく考えて、てんでに肚の中でそれを吟味してみると、成程そういえば、チチコフがどうかして横を向いた時、その顔がナポレオンの肖像そっくりであることを思い出したのである。警察部長は十二年の役に出征して親しくナポレオンの風※(「蚌のつくり」、第3水準1-14-6)にも接していたが、成程ナポレオンは背丈もチチコフとどっちつかずだし、姿形なりにしてからが、チチコフ同様、あまり肥ってもいなければ痩せてもいなかったことを容認しない訳にはゆかなかった。恐らく読者の中には、そんなことはみんな出鱈目だと言われる方があるかもしれないし、作者も矢張り、そういう方たちの意を迎えて、まったくこれは出鱈目ですと申しあげたいところであるが、残念ながらこれは、現在お話するとおり寸分の違いもない事実であり、さらに一そう驚くべきことは、それが蒙眛な山間僻地の出来ごとではなく、両首都のどちらからもさして遠く離れていないまちで発生したという点である。尤もこれは、かの有名なフランス軍撃退の後、程なく起こった事件であることを記憶しておく必要がある。その当時、凡て我が国の地主や、役人や、商人や、売子等、苟くも読み書きの出来る者はもとより、眼に一丁字なき手合いに至るまで、少なくともその後八年間というものは、まるで政治問題に熱中していたのである。『モスクワ報知』や『祖国の子』が矢鱈に奪いあいで読まれて、それが最後の読者の手に渡るころには、もう何の役にもたたない、ぼろぼろの紙屑同様になってしまう有様であった。『やあ、おとっつぁん、燕麦は一升いくらで売ったね?』とか、『昨日の薄雪で、いい猟ができたろうね?』と訊く代りに、猫も杓子も、『新聞には何と出ているね? ナポレオンをまた、島から釈放したんじゃなかろうね?』などと言ったものである。商人連中はそれを非常に気遣っていた、というのは、彼等は、もう三年このかた牢獄につながれている或る予言者の言葉をすっかり信じきっていたからである。その予言者は木皮のサンダルをはき、プンプンと魚の腐ったような臭いのする裸皮の皮衣をきて何処からともなくやって来て、ナポレオンは反基督者アンチクリストで、今は頑丈な鎖につながれて、六つの壁と七つの海にかこまれているが、やがてその鎖を断ち切って、全世界を征服するだろうといいふらした。そんな予言をして※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ったかどで、彼は当然の報いとして投獄の憂目をみたのであるが、それにも拘らず彼の予言は効を奏して、商人どもをすっかり狼狽させてしまったのである。その後、長いあいだ商人連は、どんなに有利な取引のある時でも、料亭へ行ってお茶を飲みながら、反基督者アンチクリストナポレオンの話に暇を潰したものである。官吏や貴族連の多くも矢張り知らず識らずの間にその問題を考えるようになり、周知の如く、その当時非常に流行していた神秘主義にかぶれて、『ナポレオン』という名前を構成している文字の一字々々に或る特殊の意味を発見したり、中にはその名前から*8黙示録の神秘の数を引き出した者さえ少なくなかったのである。こんな次第だから、役人連が我れ知らずその問題に引っかかって、深く考えこんでしまったからとて、別に不思議ではないが、しかし間もなく一同は、そうまで気をまわすのは余りにも早計で、どうもこれは見当はずれであると気がついて、ハッと我れに返ったものである。彼等は、又しても考えに考え、さまざまに談合を重ねた末、結局、もう一度よくノズドゥリョフに訊き糺してみるのも強ち無駄ではなかろうという意見に落著したのである。そもそも最初に、死んだ農奴などという話を持ち出したのは他ならぬ彼で、又どうやらチチコフとは何か特別深い関係を結んでいるとのことであるから、従ってチチコフの素性についても必らず何か多少は知っているに違いない。してみれば、一応ノズドゥリョフの言うことに耳をかすのも無益ではないというのである。
 この役人諸子だの、その他いろんな身分の連中は、まったく以って奇態な人々である。そもそもノズドゥリョフが大の嘘つきで、彼の言うことなすこと何一つ信用の出来ないことは百も承知でいながら、しかも尚その彼に助けを求めるのだからおかしい。いやまったく、こういう手合いにかかっては降参である! 彼等は神は信じないで、眉間がムズムズすれば必らず死ぬなどという馬鹿げたことを信じきっているのだ。彼等は素朴な高い叡智と調和に隈なくみたされた白日のように明澄な詩人の創作をば頓と見向きもしないで、そこいらの身のほど知らずがっちあげた、まるで自然をぶちこわして裏返しにしたような、怪しげな眉唾ものに飛びついてゆく。彼等にはそんなものが恐ろしく気に入って、『これ、これ、これこそ真に心の秘奥を解いたものだ!』と叫びだすのだ。彼等は生涯、医者には三文の値打も認めず、いよいよとなると、加持や祈祷で病いをなおす老婆にかかったり、又ひどいのになると、自分で何かわけの分らない塵芥を寄せ集めてあやしげな煎じ薬をこしらえて飲んだりするが、そんなことで果して病気がなおると思う気持がとんと解せないのである。尤も、実際苦境に立っている実情から見て、役人諸子の立場にも幾ぶん恕すべき点がないでもない。よく、溺れるものは藁をもつかむと言うが、危急存亡の場合には、一本の藁に身を託すことの出来るのはせいぜい蠅ぐらいのものだという、分りきったことが分らない。しかも彼の体重は二十貫まではなくても、十七貫はたっぷりあるのだ。が、そんな分別も今は頭に浮かばず、一本の藁に縋りつくのである。それと同じく我等の役人諸子も、ついにはノズドゥリョフという藁に取りすがったのである。で、さっそく警察部長がノズドゥリョフに宛てて夜会の招待状を認ためると、大長靴をはいて、いかにも気持のいい桜色の頬をした一人の平巡査が、すぐさまサーベルを押えて小走りにノズドゥリョフの宿をさして駈けだして行った。折からノズドゥリョフは重大な仕事に没頭していて、ここ四日間というものは部屋から一歩も外へ出ず、誰ひとり部屋へは入れないで、食事も小窓から出し入れさせていた――で、げっそり痩せて土色の顔をしていた。それは多大の注意を要する仕事で、数十組の骨牌の札から、最も忠実な親友のように全幅の信頼をかけることの出来る、的確無比な一組を揃えることであった。その仕事はまだこの先き少なくとも二週間はかかりそうであったが、その間じゅうポルフィーリイは、例の*9メデリャンカ種の仔犬の臍を特殊のブラシで掃除したり、一日に三度ずつ石鹸で洗ってやらなければならなかった。ノズドゥリョフは、そうして引籠っているところを邪魔されたので、非常に腹を立て、いきなり巡査を頭くだしに口汚なく罵ったが、市長の招待状を一読すると、いずれその夜会には一人や二人ずぶの素人がやって来ようから、こりゃ一儲け出来そうだと思って、忽ち機嫌をなおし、手早く部屋に錠をおろして、ぞんざいに着物をひっかけながら、一同のところへやって来た。ノズドゥリョフの陳述と証言、ならびに推定は、役人連のそれとは凡そ対蹠的な相違を示したため、彼等の最後の臆測などは根柢から覆えされてしまった。そもそもノズドゥリョフという男にとっては、如何なる疑惑も絶対に存在しなかった。で、役人連がいろいろと臆測するにあたって甚だしく不安動揺の色を見せたと同じ程度に、彼の方は確乎不動の信念を示したものである。彼はあらゆる条項に対して、少しの淀みもなく答え、チチコフは数千ルーブリにのぼる死んだ農奴を買いこんだが、別に売ってはならないという理由がないから自分も売ってやったなどと公言した。チチコフは探偵ではなかろうか、そして何事かを探り出そうとしているのではあるまいかという質問に対してノズドゥリョフは、たしかにチチコフは探偵であると答えて、まだ自分と一緒に学校へ行っていた頃から彼は『告げ口屋』という渾名をつけられていた位で、一度など何か密告したかどで生徒仲間から――その中には自分も加わっていたが――こっぴどく袋叩きにされて、そのために後で両方の顳※(「需+頁」、第3水準1-94-6)だけでも二百四十匹からの蛭を吸いつかせなければならなかったほど顔がぽんぽんに腫れあがったことがあるなどと話したものだ。尤もノズドゥリョフは四十匹と言うつもりだったが、口から出る時、ひとりでに上に二百がくっついてしまったのである。チチコフが贋紙幣にせざつづくりではないかという質問に対しても、ノズドゥリョフは立ちどころに、そうだと答えて、今度はチチコフの驚くべき機敏なことを示す一つの逸話を物語った。それは彼が二百万ルーブリからの贋造紙幣を隠匿していることが分って、直ちにその家に封印がほどこされ、扉口という扉口には二人ずつの番兵がつけられた。ところがチチコフはその夜一晩のうちに紙幣を残らずすりかえてしまったため、翌日その封印をとって調べたときには、本物の帝国紙幣ばかりになっていたというのである。またチチコフは果して知事の娘を誘拐しようと計画しているのだろうか、そしてノズドゥリョフ自身それを幇助するため、この事件に関係しているというのは、本当かという質問に対しては、いかにも自分が力を貸している、もし自分がいなかったら、何一つ成就はしないだろうと答えた。が、ここで彼はハッと我れに返って、こんな言わずもがなの嘘をつけば、自から求めて災いを招くようなものだと気がついたけれど、彼はどうしても自分の舌を制することが出来なかった。成程それも無理からぬことで、後から後からひとりでに、面白いほど細々とした出鱈目が口をついて出て来るのだから、あたらそれを無駄にする訳にはゆかなかったのである。で、二人は田舎の教会でこっそり結婚式を挙げることになっている、その村はトゥルフマチェフカというのだなどと、誠しやかに村の名前まで言い、式を司るのはシードル神父という坊主で、謝礼も七十五ルーブリで話がついたが、それも、この坊主がミハイルという穀物商をその教母と結婚させたことを告発してやると言って自分が嚇しつけたからこそ渋々納得したのだ。そればかりか、自分は軽馬車までチチコフに提供して、立場々々にはちゃんと替馬の用意までしてやってあるのだと言った。こうした出鱈目な話がいよいよ詳しくなって、しまいには駅逓馭者の名前までが一々あげられだした。初め役人連は例のナポレオンの話を持ち出しかけたが、その口の下から、そんなことを切りだそうとしたことを後悔した、それというのも、ノズドゥリョフが調子にのって、とても本当と思われないばかりか、まるで雲をつかむような馬鹿げきった話を喋りだしたからである。それで役人連はフーッと溜息をついて、その場をはずしてしまった。ただ一人、警察部長だけは、せめてのことに何か手掛りでも得られないかと思って、なお暫らく耳を貸していたが、これもしまいには手を一つ振って、『何が何やら、さっぱり分りゃしない!』と呟やいたものだ。結局、どんなに骨折ったところで牡牛から乳はしぼれないという諺につくづく感心するぐらいが落ちであった。で、役人連は前よりも一層困った羽目になり、到底チチコフの素性を知ることは不可能だと諦らめてしまった。これでみても人間というものの頼りなさがはきっり分る。それが自分のことでなくて他人のことでさえあれば、なかなか賢い智慧がまわり、いい分別もつくのである。他人が何か苦しい羽目に立っているような時、彼は実に周到な、しっかりした助言を与える! 『なんという機敏な頭だろう! なんというしっかりした人格だろう!』と群衆は叫ぶ。ところが、この機敏な頭に何か不幸が降りかかり、彼自身が苦しい羽目に立つようなことになると――そんな人格などはどこかへ雲がくれをしてしまうのだ! その確乎たる人物が、すっかり狼狽してしまい、似ても似つかぬ憐れむべき臆病者に、見る影もない弱々しい子供に変ってしまう、いや、何のことはない、あのノズドゥリョフがよく口癖にいう、助平になってしまうのである。
 ところで、こうしたいろんな風説や評判や取沙汰が、どうした訳か誰よりも一番、あの気の毒な検事に非常な打撃を与えた。その打撃があまりにひどかったため、彼は家へ帰ってからも、あれやこれやとしきりに考えこんでいたが、突然、別にどうしたという訳もないのに、ぽっくり死んでしまった。脳溢血でも起こしたのか、それとも何か他の病いが突発したのか、とにかく坐っていたのが急にふんぞり返って、椅子からバッタリ転げ落ちてしまったのである。例によって家人は驚いて、『こりゃ大変だ!』と叫ぶなり、放血でもする他はないと思い、急いで医者へ人を走らせたが、よくよく見れば、すでに検事は魂のない亡骸となっていたのである。その時になって初めて人々は、成程この男にも良心は確かにあったのだが、謙遜のあまり、ついぞそれを見せなかったのだと気がついて、悼ましく思った。とにもかくにも、偉人であると小人であるとに拘らずかくも果敢なく人が死ぬという事実は、恐ろしいことであった。まだつい昨日までは達者に歩きまわったり、ヴィストをやったり、いろんな書類に署名をしたりして、あの濃い眉と頻りに瞬きをする左の眼とを、よく役人連中のあいだに見せていた男が、今は変りはてた姿をテーブルの上に横たえているのだ。もはやその左の眼もまったく瞬きをしなかったが、しかし一方の眉だけは、まだ何やら物問いたげに釣りあがっている。この故人の訊ねているらしい、なぜ自分は死んだのか、いや、なぜ自分は生きていたのか、という疑問には、神より他に答える者はないのである。
『だが、それはどうも変だ! だいたい子供にだって大凡の見当はつく筈のことに、苟くも役人ともあるものが、自からそんな妄想を描いて怯えたり、そのような馬鹿げた真似をして、いよいよ真実から遠ざかるなんて、どうもこれは眉唾ものだ!』こう言って読者の多くは、かくいう作者の脱線ぶりを咎めたり、或は又あの可哀そうな役人連を馬鹿だと言ったりされるだろう。なにしろこの馬鹿という言葉ほど人間がふんだんに使う言葉はなく、日に二十度ぐらいはこれを平気で隣人に捧げるからである。とおのものなら九つまで相手に美点があっても、たった一つ欠点があれば、あいつは馬鹿だという烙印を捺すために、九つの美点は無視されてしまうのである。ずっと四方を見透すことの出来る高処たかみに坐って、静かに下界を見おろしてござる読者には、下界で行われているいろんないざこざも楽々と批判することが出来ようけれど、下界にうごめいている人間には、つい目と鼻の先きのことしか分らないのである。世界人類発達史の中には、全然取るに足らぬものとして、さっさと抹殺されてしまったと思しき世紀がかなり多くあるようだ。現今いまなら三歳の児童でもよもや犯すまいと思われるような誤ちが、この世界ではざらに犯されて来たのである。ひたすら永遠の真理に到達せんものとして、選りにも選って人類は、どんなに曲りくねった、狭い、薄暗い、通りぬけることも難かしい、その上ひどく遠まわりな道を歩いて来たことだろう! その実、人類の前には、皇居に定められた荘麗な宮殿へでも通ずるような、真直ぐな、広々とした大道がひらけていたのである。他のあらゆる道よりも広々として美しいこの大道は、昼は白日に照らされ、夜は夜もすがら灯火に照らし出されていたにも拘らず、人類はそれを他所に無明の闇をさ迷っていたのである。すでに天よりの啓示に導かれながら、しかもなお彼等はこの大道を外れて、あらぬ方へと踏み迷い、白昼、道もない山里に進路を失って、互いに五里霧中をさ迷ったり、また鬼火にさそわれて深い沼地に踏みこんだ挙句には、恐怖のあまり、『出口は何処だ? 道は何処だ?』と、どんなに互いに訊ねあったことだろう! すべてをはっきりと認識している今日の人々は、寧ろかくの如き間違いを不思議に思って、自分たちの祖先の無智を哂っているけれど、そうした過去の年代記こそ、天の聖火によって記録されたもので、その中に書かれた一字々々は烈しい叫び声をあげ、どの頁からも、我等現代人を指導する厳かな手が差し伸ばされているのだとは知らない。しかも今日の人々は祖先を哂いながら、さも偉そうに大きな顔はしているけれど、豈図らんや自分たちもまた、やがては後世の物笑いになる数々の新らしい誤謬を犯しはじめているのである。
 しかし、チチコフは夢にもそんなこととは知らなかった。丁度その頃、まるで故意わざとのようにちょっと風邪を引いたのが因で、歯槽膿※(「やまいだれ+易」、第4水準2-81-52)と軽い喉頭炎に悩まされていた。こういう病気の蔓延には、我が国の多くの県下町は気候が頗るお誂えむきである。万一こんなことから、後継者あとつぎも残さずこの世を去るようなことがあっては大変だと思ったので、彼はその三四日は大事をとって部屋に引きこもっていたのである。その数日のあいだ、彼は絶え間なく、無花果を浸した牛乳で含漱うがいをしては、後でその無花果を食べてしまい、加密爾列カミツレの煎汁と樟脳の湿布を頬にあてていた。彼は時間つぶしに、買いこんだ農奴全体の詳細な表を新らしく拵らえたり、旅行鞄トランクの中から捜し出した10ラワリエール公爵夫人の著書を読んだり、手箱の中からいろんな持物や書附を出して調べたり、二三の書類を改めて読み返してみたりしたが、何をしても矢張りひどく退屈だった。彼には、この市の役人連のうち、誰ひとり安否を訊ねに来てくれる者もないのが、何としても不可解であった。また最近までは、やれ郵便局長だ、やれ検事だ、やれ裁判所長だといって、入れかわり立ちかわり、始終いろんな馬車が旅館の前に停っていたものじゃないか。彼はただ部屋の中を歩きまわりながら、肩をすくめるより他はなかった。それでも、やっとのことで気分が少しよくなり、これなら新鮮な外気にあたっても差支えないと分った時、彼は何とも言いようのない歓喜の情に駆られたものだ。そこで一刻の猶予もなく、さっそく彼は身仕舞に取りかかった。まず例の手箱を開けて、コップに一ぱい湯を注ぎ、髭ブラシと石鹸を取り出すと、やおら顔をあたりにかかった、これは併し、もうずっと前から必要に迫られていたことで、手をちょっと顎に触れながら鏡を一目見るなり、彼は、『ひえっ、まるで林みたいに髭ぼうぼうじゃないか!』と、口走ったほどである。まさか、林というほどではないまでも、一面に頬から顎にかけて、春蒔の麦のように濃い髭がツクツクと伸びていた。顔を剃りおわると、今度は服を著けはじめたが、あまりせかせか急ぐものだから、ズボンが今にもずり落ちてしまいそうだった。ようやく、ちゃんと服を著け、オーデコロンをふりかけて、暖かく外套に身をくるむと、用心のために頬を包んで、さっさと街路おもてへ出て行った。久しぶりに戸外そとへ出た彼の心は、ようやく恢復に向った病人が皆そうであるように、ひどく陽気だった。出っくわすほどのものは家でも、行きずりの百姓でも、何もかもが自分に向って笑いかけてくるように思われた――その実、彼がすれちがった二人の百姓は、かなり険悪な顔をしていて、その一人は既に仲間の横っ面に拳骨を一つ喰らわせたところであった。彼は最初に先ず、知事を訪問してやろうと思った。道々も彼の胸にはさまざまな思いが浮かびあがり、例の金髪娘の姿が頭の中でぐるぐると渦を巻き、ちょっと悪戯をしてやりたいような空想さえ頭をもたげて、疾くも彼は自分を少しからかってみたり、にやにやと一人笑いをしたりしはじめたものである。そうした上乗の御機嫌で、彼は知事邸の玄関さきに姿を現わした。さっそく玄関へ入って、手早く外套をぬぎすてようとした途端に、『お通しすることは出来ません!』という、まったく思いもかけぬ門番の言葉に、彼はすっかり度胆をぬかれた。
「なに! どうしたと! 君はどうやら、わしを見違えてるんだな? ようく顔を見るがいいぞ!」と、チチコフは相手に言った。
「どうして見違えるもんですか! 何も、初めてお目にかかる訳じゃなし。」と、門番が言い返した。「あなただけは、確かに、お通ししてはならないんです、他の方なら、いっこう差支えありませんがね。」
「これはしたり! そりゃどうしてだね? 何故だね?」
「そういう※(「口+云」、第3水準1-14-87)咐なんですからね、どうもしようがありませんのさ。」そう言ってから、門番は『ふん』と一言つけ足したが、それから先きは平気な顔で相手の面前に立ちふさがったきり、前にはあんなにいそいそと外套をぬがせながら、よく示した、あの愛想のいい態度などは露ほども見せなかった。どうやら、彼はチチコフを見ながら、肚の中では、※(始め二重括弧、1-2-54)へっ! 旦那がたに門口から追い返されるようでは、どうせこいつも、いい加減の碌でなしに違いない!※(終わり二重括弧、1-2-55)とでも考えているようだった。
※(始め二重括弧、1-2-54)さっぱり分らない!※(終わり二重括弧、1-2-55)と、チチコフは心の中で考えた。そしてすぐその足で裁判所長のところへ※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)ってみた。ところが裁判所長も彼の姿を見ると、ひどく狼狽してしまって、一言として辻褄の合った話が出来ず、両人ふたりとも照れくさくなるような頓珍漢なことを言いだしたものだ。裁判所長の家を出たチチコフが、道々、所長はいったい何を思っているのだろう、彼のいった言葉にはどんな意味があるのだろうと、とつおいつ、その真意を明らかにしようと躍起になって考えてみたが、結局、何一つ了解することが出来なかった。それから彼は、他のいろんな連中のところ、つまり、警察部長だの、副知事だの、郵便局長だのの家へも寄ってみたが、どれもこれも、彼に玄関ばらいを喰わせたり、又たとえ通しても、変な態度で、まるで奥歯にものの挟まったような不可解な口をききながら、妙にそわそわするばかりで、何もかもがひどく妙竹林なことになってしまい、果てはチチコフの方で、こりゃ、どいつもこいつも頭が変なのじゃないかと疑いだしたほどであった。彼はなお二三の人を訪ねて、せめてその理由わけだけでも突きとめようとしてみたが、結局なんら得るところはなかった。夢に夢みる心地で、彼はフラフラと目的あてもなくまちじゅうを歩きまわりながら、これは一体、自分の頭が狂っているのか、それとも役人どもの気がふれているのか、これは夢の中の出来ごとなのか、それとも夢にも劣らぬ馬鹿げたことをうつつでやっているのか、頓と見当もつかない為体ていたらくであった。おそくなって、もう殆んど暗くなりかけた頃、さっきはあんなに上乗の機嫌で出かけた我が宿へ、ようやく立ちかえると、退屈まぎれに、お茶を持って来るように言いつけた。彼がじっと考えこんで、自分の変てこな立場について、とつおいつ空しき思いをめぐらしながら、やおら茶を注ぎにかかった時、不意に部屋の扉があいて、まったく思いがけもなく、ノズドゥリョフがぬっと姿をあらわした。
「そら、諺にもいうだろ、惚れて通えば千里も一里ってね!」そう言って彼は無縁帽カルツーズをぬぎながら、「今この側を通ると、窓に灯りが見えるじゃないか。ようし、一つ寄ってやろう! きっとまだ起きてるに違いない、と思ったのさ。おや! こいつは素敵だ、お茶が出てるんだね、喜んで一杯御馳走になるぜ。きょうは昼飯にいろんなしつこいものを自暴やけにつめこんだため、胃の腑の中がじわじわしてるんだよ。なあ、そういって煙草を一服つめさせてくれよ! 君の煙管はどこにあるんだい?」
「だって、僕は煙草をやりませんからね。」と、チチコフは素っ気なく言った。
「馬鹿な、君が煙草のみだってことをおれが知らないとでもいうのかい。おうい! 君んとこの下男は何とかいう名前だったねえ? おうい、ワフラーメイ、ちょっと!」
「ワフラーメイじゃない、ペトゥルーシカですよ!」
「なんだって? でも以前、君んとこにワフラーメイってのがいたじゃないか?」
「ワフラーメイなんて下男は、僕のとこにいたことがありませんよ。」
「うん成程、ワフラーメイってのは、デリョービンのうちにいる下男だ。デリョービンっていえば、奴は素晴らしい幸運を掴みおったぞ。奴の伯母さんがね、なんでも息子が農奴の娘と結婚したとかいうので、かんかんに怒って、今では遺産をすっかり野郎に譲ることに遺言を書きかえっちまったというのさ。おれも子々孫々のために、そんな伯母さんがせめて一人あったらと思うねえ! ときに兄弟、君はどうしてそう引っこんでばかりいるんだい? どこへも顔出しをしないじゃないか。そりゃ、おれだって、君が時々、学問上の仕事に追われてることや、本を読むのが好きだってことぐらいは無論、知ってるけどさ。(ところでノズドゥリョフが、どういうところから我等の主人公が学問上の仕事に携わっていたり、本を読むのが好きだなどと断定したのか、それは正直なところ、我々にはさっぱり分らない。チチコフにしては尚更のことである。)あっ、そうそう、チチコフ! 君があれを見たのだったらなあ……。それこそ屹度、君の諷刺的才能の素晴らしい材料になったのだがなあ。(どうしてチチコフに諷刺的な才能があるというのか――これもやはり分らない。)実はねえ、リハーチェフっていう商人のところでゴルカをやったのさ。その時だよ、大笑いをやらかしたのは! おれと一緒だったペレペンジェフの野郎がね、『こいつあ、チチコフがいたら、持ってこいだがなあ!……』ってきやがるのさ。(ところがペレペンジェフなんて、チチコフにとっては、生まれてこのかた聞いたこともない名前だった。)それはそうと、兄弟、君はまったく卑劣きわまるインチキをやったじゃないか、そら、おれと一緒に将棋をさした時にさ。ありゃ、おれの勝だったんだからなあ……。おれはただ、君にまんまと挙足を取られたというだけの話さ。しかし、どういうものか、おれは頓と怒るということの出来ない性分でね。つい近頃も、裁判所長と一緒に……。うん、そうそう! これは是非、君の耳へ入れておかなきゃならんが、まちではどいつもこいつも君のことを糞味噌に言ってるぜ。奴らは君を贋金づくりだろうと言って、しつこくおれに耳こすりをしやがるのさ。で、おれは極力、君の肩をもって――君とは学校も一緒だったし、君の親爺のこともおれはよく知ってるって、大いに弁じておいたよ。うん、何のことはない、彼奴らをすっかり煙にまいてやったのさ。」
「えっ、僕が贋金づくりだって?」と、チチコフは椅子から飛びあがりながら、喚いた。
「だが、君はどうして、ああ彼奴らを嚇しつけたんだい?」と、ノズドゥリョフは言葉をつづけた。「彼奴らは、君、怖ろしさのあまり気が狂っちまったようなんだぜ。君のことを、やれ強盗だの、やれ探偵だのと、そりゃ大騒ぎなのさ……検事なんぞは、あんまり吃驚したために死んじまったじゃないか。あす、お葬いだよ。君は参列しないのかい? 実をいうと、彼奴らは新任の地方総督を怖がってるんだよ。君の口から何かばれやしないかと思ってさ。だが、おれは、地方総督って奴についちゃあ、こういう意見を持ってるのさ――もし奴さんが反り身になって、威張りちらしたりすれば、貴族階級は手に負えなくなるにきまってるんだ。貴族ってやつは、ちやほやして貰うことが無性に好きだからさ。そうだろ? そりゃ無論、じっと書斎の中にとじこもっていて、舞踏会なんぞ一度も開かなくたって構わないさ。あんなことをやったって、いったい何になるんだい? そんなことで何一つ得になる訳はないじゃないか。それはそうと、チチコフ、君もずいぶん危ない芸当を企らんだものだなあ。」
「え、危ない芸当って?」とチチコフは、不安そうに訊ねた。
「知事の娘を連れて逃げようってやつさ。尤も、実をいえば、それをおれは待っていたんだがね、いや、まったくの話さ! 初めて、いつか舞踏会で、君とあの娘とを一緒に見た時、おれはすぐそう思ったよ、※(始め二重括弧、1-2-54)ははあ、チチコフの奴、どうも只事じゃないぞ……※(終わり二重括弧、1-2-55)ってさ。だが、君があんな娘に白羽の矢を向けたのは、どうかと思うなあ。おれはあんな娘なんて、ちっとも好いとは思わないよ。好い女といえば、ビクーソフの親類に一人、素敵なのがあるぞ、あいつの妹の娘なんだがね、そりゃ素晴らしい娘だぜ! ああいうのこそ、ほんとうの上玉っていうやつさ!」
「そりゃ又、いったい、君は何を変なことをいうんです? 僕が知事の令嬢と駈落をするんだって? そりゃ、いったい何のことです?」と、チチコフは眼を丸くしながら言った。
「ううん、そんなこたあ、もう沢山だよ。君はずいぶん白っぱくれることの好きな男だなあ! 実はそのことでおらあやって来たんだぜ、何なら君に一臂の力を貸そうと思ってさ。なあに、構うこたあない、結婚式も挙げさせてやろうし、馬車や替馬のこともおれが引き受けようぜ、但し一つ条件がある――おれに三千ルーブリだけ貸してくれるっていう条件なんだ。なあ、兄弟、今おれはどうしてもそれだけ要るんだよ!」
 こんな風にノズドゥリョフが、べらべらとくだらぬことを喋っている間じゅうチチコフは、これは夢の中で聞かされているのではないかと、それを確かめようと思って何度も眼をこすったものだ。贋造紙幣の犯人だの、知事の娘の誘拐だの、どうやら自分が原因もとになっているらしい検事の急死だの、さては地方総督の赴任だのといった、まったく思いもかけぬいろんな話に、彼はすっかり驚かされてしまった。※(始め二重括弧、1-2-54)ふん、いよいよそんなことになったとすれば、※(終わり二重括弧、1-2-55)と彼は肚の中で考えた。※(始め二重括弧、1-2-54)もう何も、かれこれぐずついていることはない、こんなところは一刻も早く逃げ出さなきゃ駄目だ。※(終わり二重括弧、1-2-55)
 彼は早々にノズドゥリョフを追っぱらうと、直ぐさまセリファンを呼んで、翌る朝の六時には間違いなくこの市を出発できるように、馬車に油をさしたり、その他、万遺漏なく、夜明けまでによく調べておくように言いつけた。セリファンは、『はい、畏まりました、パーウェル・イワーノヴィッチ』と答えたが、そのくせ暫らくのあいだは扉口でもじもじしていて、すぐには立ち去る様子も見せなかった。旦那はそれにはかまわず、早速ペトゥルーシカに言いつけて寝台の下からもうかなりひどく埃のつもっている旅行鞄を曳っぱり出させると、二人がかりで、靴下だの、シャツだの、肌着の洗ったのや洗ってないのだの、長靴の型木だの、カレンダーだのを、手当り次第に詰めこみはじめた。何もかも無茶苦茶に片づいてしまった。彼は翌日になって何一つ差障りの起きないように、ぜひ前の晩にすっかり用意を整えておこうと思ったからである。セリファンは二三分間、扉口にもじもじしていたが、ようやく、のろのろと部屋を出た。まったくのろのろと人間の頭で想像の出来る限りの、ゆっくりした足どりで、磨りへった階段に、濡れた長靴の跡をベタンベタンとつけながら階下したへ降りると、彼はまた長いこと後頭部をボリボリ掻いていた。彼が頭を掻いたのは一体どういう訳だろう? いや一般にこういう手合いが頭を掻くのはどういう時だろう? 明日あたり、何処かお上の酒を売る居酒屋で、見苦しい毛皮外套の上にぎゅっと帯を緊めた兄弟分と出会うつもりでいたのが、不意におじゃんになって忌々しいというような時だろうか? それとも新らしい土地で好いたらしい女と懇ろになり、毎晩、宵闇が町を包んで、赤いシャツをきた若者たちが召使どもの前でバラライカを掻き鳴らし、仕事を了えた平民どもが低い声でぼそぼそと語りあうといった頃おい、いつもの門口に立って女と逢曳をしたり、その白い手を心ありげにぎゅっと握ったりするのも、いよいよこれでおしまいだというような時だろうか? それともただ、しも台所のペチカの側で、毛皮外套をかぶってごろ寝をした、ポカポカと暖かい古巣にもお別れなら、都会風の柔らかい肉饅頭を添えた玉菜汁シチイに舌鼓を打つのも今日限りで、明日からはまた、雨や泥濘ぬかるみや、あらゆる道中の労苦を忍びつつ、旅をつづけて行かねばならないというような時だろうか? いずれとも神ならぬ身には知る由もない。ロシア人が頭を掻くのには、その場合々々によって、実にさまざまな意味があるのである。
*1 十二年の役 一八一二年、ナポレオン一世の率いるフランス軍がロシアに侵入した時の戦いをいう。
*2 クラースヌイ スモレンスク県下の町。一八一二年露軍が仏軍と会戦したところ。
*3 ライプツィッヒ ドイツのサクソニヤにある有名な市。一八一三年にこの市の附近でナポレオン軍と露独同盟軍との間に激戦が行われた。
*4 シェヘラザーダ 『アラビヤン・ナイト』で一千一夜に一つずつの物語をする美女の名前。
*5 セミラミーダ 古代アッシリヤの伝説的な女帝で、首都ニネヴィヤの市に、天の浮園という荘麗無比な大厦高楼を造営したといわれる。
*6 青紙幣 五ルーブリ紙幣のこと
*7 プーデル 剛毛で耳の垂れた犬の一種。非常に賢いけれど猟には向かない。
*8 黙示録の神秘の数 ヨハネの黙示録第十三章十八節に出ている神秘の数六六六のことで、暴君ネロの名前をユダヤ文字に当てはめると、この数が出てくるというのであるが、ここではネロの代りにナポレオンという名前をその数にこじつけて、ナポレオンを反基督者と断定したというのである。
*9 メデリャンカ 大型でずんぐりした猟犬の一種、熊狩等に用いられる。
10 ラワリエール公爵夫人 ルイズ(1644-1710)フランス王ルイ十四世の寵妃で、四人の子女までもうけたが、王の愛がモンテスパンに移るに及んで修道院へ入り、そのまま世を終った。彼女の書簡及び自伝が著書として世に流布された。
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第十一章


 しかし、何一つチチコフが予想したようにはゆかなかった。まず第一に、彼は思ったよりも遅く眼を覚ました――これがそもそも面白くないことの初めだった。起きると直ぐさま彼は、馬車に馬が附けられて、万端の用意がととのっているかどうかを見にやった。ところが、まだ馬車に馬も附けてなければ、何一つ準備が出来ていないとのこと――それが第二に心外であった。彼は赫っとなって、我等の友セリファンをどやしつけてくれようと思いながら、それでも相手が何を楯に弁解するだろうと、じりじりしながら待ち構えていた。間もなくセリファンが扉口へ姿をあらわした。そこで旦那は、たいてい今出発という間際になって必らず召使たちから聞かされる、いつもの御託を拝聴する栄誉をになった訳である。
「だけんど、パーウェル・イワーノヴィッチ、馬に蹄鉄かなぐつをうたなきゃなりましねえでがしょう。」
「えい、この、ぼんくらの豚め! 木偶の坊め! それならそれと、なぜ前に言わなかったんだ? それだけの暇がなかったとでもいうのかっ?」
「そりゃ、暇がなかったちゅう訳ではありましねえがね……。それから車の輪でがすがね、パーウェル・イワーノヴィッチ、あれも輪鉄わがねをすっかり取っ替えなきゃ駄目でがしょうなあ、なにせ、今頃は道路がでこぼこで、どこへ行ってもガタガタと揺れますだから……。それから、これも一言いわせて貰いますが、馬車の前の方が、まるでぐらぐらになっておりましてね、あれじゃあ、とうてい二丁場とはもちますめえよ。」
「えい、この悪党め!」チチコフが両手を振りしぼりながら、そう喚きざま、ずかずかと相手の前へ歩み寄ったので、セリファンは、旦那から鉄拳のお見舞を受けるのではないかと、びくびくしながら、二三歩うしろへ退った。
「貴様はおれを殺そうとでも思ってるのかっ? ああん? おれの咽喉首でも掻き切ろうというのかっ? 街道へ出たら、このおれをばらそうとでも企らんでやがるのだな、この忌々しい豚め、この海坊主野郎め! ああん? ああん? おれたちはもうここに三週間もじっとしてたんじゃないか、ああん? この碌でなしめが、そうならそうと、前に一言ぬかせばいいのに、こういうぎりぎりのどんづめになって無理難題を吹っかけやがるんだ! さあいよいよという間際になって、もう乗りこんで出かけるばかりになると、どうだ? 貴様はこういう醜態をさらけやがるじゃないか、ああん? ああん? ああん? 貴様はちゃんと前から知っていたんだろう? そうだ、知っていたんだろうが? ああん? ああん? 返答をしろ。知ってたんだろうが?」
「知ってたでがす。」と、セリファンは首をたれて答えた。
「じゃあ、どうして前に言わなかったのだ、ああん?」
 セリファンはそれに対して一言の口答えもしなかったが、首を垂れたまま、どうやら肚の底では、『ちぇっ、飛んでもねえことになっちまったぞ。成程おらは知っていて、それを言わなかっただもの!』と、独り言をいっているようだった。
「さあ、早く行って鍛冶屋を連れてこい。そして二時間のうちに何もかも仕上がるようにするんだぞ。分ったか? 間違いなく二時間のうちにだぞ、それがもし出来ないなんてえことになったら、おれは貴様を、おれは貴様を……飴ん棒みたいに捻じまげて、結びこぶを拵らえてくれるぞ!」我等の主人公はかんかんになって怒っていたのだ。
 セリファンは命令を果しに行くつもりで、扉口の方へ躯を向けようとしたが、ふと思いとまって、『それから、まだ一つ、旦那、あの連銭葦毛の野郎ですがね、ほんとにあいつは、もう、売り飛ばしちまいたい位でがすよ。だって、パーウェル・イワーノヴィッチ、あいつは全くのやくざで、何ともかんとも、お話にならねえ馬でしてね、邪魔になるだけでがすよ。」
「よし! じゃあ、おれが市場へ行って、売り飛ばしてしまおう!」
「ほんとでがすよ、パーウェル・イワーノヴィッチ、あいつは、見かけだけは立派でも、その実、狡いことこの上もない馬で、あんな馬って、まったく……。」
「馬鹿野郎! 売ろうと思えば、おれが勝手に売るわい。余計なことを貴様がぐずぐず言うには及ばん! さあ、おれはちゃんと見ておるぞ、貴様がすぐさま鍛冶屋をつれてきて、二時間以内に何もかも用意をととのえればよし、さもなければ、うぬを叩きのめして……そのしゃっ面を台なしにしてくれるぞ! さあ、行きゃあがれ! さっさと出ていけ!」セリファンは部屋を出て行った。
 チチコフはすっかり不機嫌になって、サーベルを床へ投げつけた。それは必要な場合、相手に怖れを抱かせるため、旅行中、片時も手許をはなさなかった品である。鍛冶屋とも、かれこれ四半時間ときあまりも啀みあった挙句、やっと折れあったものだ。鍛冶屋というやつは、大抵きまって仕様のない悪党で、急ぎの仕事だと見て取ると、普通の六倍も高い手間賃を吹っかけるからである。我等の主人公がどんなに激昂して、彼等を悪党だの、泥坊だの、旅人を苦しめる追剥ぎだのと罵り、果ては最後の審判の怖ろしさまで引合いに出して脅してみても、いっかな、鍛冶屋たちをへこますことは出来なかった。彼等はどこまでも強情を張りとおして、賃銀をまけなかったばかりか、二時間でしろという仕事に五時間も暇をかけたのである、その間じゅう彼は、あらゆる旅行者のよく知っている、あの不愉快な気持――つまり、持ち物は残らず鞄に仕舞いこまれ、部屋の中には紐きれや、紙屑や、いろんな塵芥が散らばっているばかりで、まだ道中に出た訳ではないが、さりとてじっと坐ってもいられぬ、あの落ちつきのない気持を、心ゆくまで味わされたのである。そんな時、旅行者はしようことなしに窓から往来を覗きながら、自分たちの僅かな小金のことなどをベチャベチャ喋って通る人たちが、愚かしい物珍らしげな眼差でこちらを見あげては、またさっさと通りすぎて行くのを眺めて、まだ出発の出来ない自分の身が一層みじめに思われて、いやが上にも心を苛立てるものである。彼の眼につく、ありとあらゆるもの――こちらの窓と向いあいの小店も、向う側の家に住んでいて、短かいカーテンの懸った窓へ近寄って来る老婆の顔も、何もかもが彼には厭わしく思われるのだが、それでも彼は窓をはなれようとしない。或は我れを忘れ、或は眼の前で動いたり静止したりしているものをぼんやり眺めて立ちつくしながら、たまたま自分の手許の窓ガラスにぶつかってブンブンいっている蠅などを、忌々しさに押しつぶしたりするのである。しかし、どんなことにも終りはあるもので、ようやく待ちに待った時が来た。万端の用意がととのって、馬車の前部は然るべく修繕され、車の輪には新らしい輪鉄わがねがはめられ、馬は水飼場から曳き出され、泥坊鍛冶屋も受取ったルーブリ銀貨を数え直しながら、旅の平安を祈っておいて、さっさと帰って行った。とうとう馬が馬車につけられ、買いこんだばかりの焼きたての輪麺麭カラーチが二つ載せられて、馭者台に陣取ったセリファンも何か自分の食い物を衣嚢かくしへねじこむと、最後に我等の主人公が、例の半木綿のフロックを著て、無縁帽カルツーズをふりながら立っている給仕ポレオイや、自分とは関係のない旦那が出発するのを欠伸の出そうな顔で眺めている旅館の下男や、他所の従僕や馭者たちに見送られながら、出立の間際には必らず附きものの、いろんな情景を眼の前に、やおら馬車に乗りこんだ――すると、もうずいぶん長くこのまちに逗留して、いい加減、読者を退屈させたに違いない、例の、独身者ひとりもののよく乗りまわすような半蓋馬車ブリーチカがいよいよ旅館の門をすべり出たのである。※(始め二重括弧、1-2-54)やれやれ、助かった!※(終わり二重括弧、1-2-55)チチコフはそう思って、十字を切ったものだ。セリファンはビューンと鞭を鳴らした。はじめのうち暫らくは踏台の上にしゃがんでいたペトゥルーシカも、間もなく彼の横へ割りこんで来た。我等の主人公は*1グルジヤ毛氈の上にゆったりと座を占めて、鞣革のクッションを背中にあてがった拍子に、まだ温かい二つの輪麺麭カラーチを押し潰してしまった。馬車はくだんの、よく物を撥ねあげる力のある鋪石道に出たため、またしてもガタゴトと跳ねたり躍ったりしはじめた。妙に莫然たる気持で彼は、家や、壁や、木柵や、往還を眺めやった。それらは又それらで、てんでにこちらへ飛んで来ては、徐々に後へ引き退ってゆくように思われた。生涯のうち、いつの日にかまた再びそれらを見ることが出来るかどうか、それは神より他に知る者はないのだ。或る街角を曲ったところで一行は馬車を停めなければならなかった。というのは、見渡すかぎり蜒々たる葬礼の行列が今しもこちらへ進んで来るところだったからである。チチコフは首を突き出して、ペトゥルーシカに誰の葬いだか訊いてみろと言いつけたが、それは検事の葬式だと分った。彼はひどく不快な気分に襲われて、すぐさま馬車の隅へ身をひそめると、革の膝掛をかぶり、窓掛を引きおろした。こうして馬車が立往生をしている間に、セリファンとペトゥルーシカとは恭※(二の字点、1-2-22)しく帽子をとって、誰がどんな恰好で、どんな服装をして、どんな馬車に乗ってゆくかと、じろじろ眺めながら、徒歩かちの人は幾人、乗物の人は幾人、両方あわせて一体どの位あるだろうと、人数をかぞえたりしていたが、彼等の主人は、誰に会っても知った顔をするな、知合いの従僕を見ても挨拶をしてはならんぞと固く戒めておきながら、そのくせ自分も革の窓掛についているガラスごしに、おずおずと葬列を眺めにかかったものだ。棺の後ろからは、ぞろぞろと例の役人連が帽子をとったままついて行く。チチコフは自分の馬車が見つけられはしないかと、びくびくしていたが、彼等は今それどころではなかったのだ。よく会葬者のあいだでぼそぼそと取り交わされる、いろんな世俗的な談話にすら彼等は心を向けようとしなかった。その時の彼等の思いは、ただ自分たちの身の上にのみ集注されて、新任の地方総督とは一体どんな人物で、どんな風に事にあたり、自分たちをどう取扱うだろうなどということばかり考えていたのである。徒歩かちでゆく役人連の後には箱馬車が何台もつづき、その窓からは喪服用の頭巾をかぶった婦人連の顔が見えていた。そのくちや手の動き具合よりみれば、彼女たちは確かに何か活気のある話をしているようであった。恐らく女たちも新らしい地方総督の赴任を話題にして、総督がどんな舞踏会を催すだろうなどと、いろいろ取沙汰をしながら、相も変らず、衣裳につけるレースや縫附飾アップリケのことであれやこれやと心をくだいていたのに違いない。そうした箱馬車に次いで、空の軽馬車が数台、一列になってつづいて行くと、それで葬列もようやくおしまいになったので、我等の主人公も再び馬車を進めることが出来た。革の窓掛をあげて、ほっと吐息をつくと、彼はさも感に絶えたように、『ああ、あの検事も! すったもんだで生き永らえた末、とうとう死んでしまったのだ! 定めし新聞には、部下と全人類の哀惜の中に尊敬すべき市民が逝去したとか、類い稀れな父であり、模範的な良人であったとか、その他いろんなことを矢鱈に書きたてることだろう。また屹度、後に残した妻や子の悲歎の涙と共に葬られたなどとも書き加えられるだろうが、しかし、つらつら考えてみれば、結局、間違いのない事実としては、君が恐ろしく眉毛の濃い男だったということ位しか伝えられはしないのだ』と呟やいた。そこで彼は、セリファンに出来るだけ急ぐようにと命じながら、心の中では、『だが、葬式に出会ったのは縁起がいいぞ、死人に出会えば幸先がいいっていうからな』などと考えていた。
 そうこうするうちに半蓋馬車ブリーチカはいよいよ寂しい街から街を通り抜けて、やがて市街もこれで終りらしく、木柵だけが長くつづく傍らへと出た。間もなく鋪石道も終いになり、関門を通り抜けると、市はもう後ろになって、ぐるりには何ひとつなく、一行はいよいよまた旅の空へ出たのである。こうして、又しても街道の両側を、里程標だの、宿場役人だの、井戸だの、荷馬車の行列だのが、後へ後へと飛びすぎて行き、灰色の村落にさしかかる度毎に、サモワールだの、女房連だの、旅籠屋から燕麦をかかえて飛び出して来る素敏っこい亭主だのが眼についた。もう八百露里からの道を歩いているという、ちぎれ草鞋をはいた徒歩旅行者にも逢えば、木造の小店や、麦粉の桶や、草鞋や、輪麺麭カラーチや、その他いろんながらくたの眼につく小さな町も通りすぎた。だんだらに塗った関門だの、修理中の橋だの、右にも左にも目路のつづく限り涯しない野原だの、地主の乗っている古風な旅行馬車だの、『何々砲兵大隊』と書いた緑いろの砲弾箱をはこんでゆく騎馬の兵士だの、曠野のそこここに点々として連なる、緑や黄や、まだ掘りおこしたばかりの黒々とした畠の縞だの、遠くから聞こえてくる歌声だの、霧の中に浮かんでいる松の梢だの、遠く消えてゆく鐘の音だの、蠅のように見える鴉の群れだの、涯しない地平線だの……。ああ、我がロシアよ! ロシアよ! 作者は今、御身の姿を心に浮かべている、*2遠くこの妙なる麗わしの国から御身を眺めているのだ。総じて御身は貧弱で、散漫で、どうも居心地が悪い。人を楽しませたり驚異の眼を瞠らせるような、奔放な自然の奇もなければ、摩訶不思議といわれるような人工の美もない――断崖の上に聳り立つ、窓の沢山ある宏荘な宮殿をもったまちもなければ、邸内や、瀑布の轟きや絶え間なき水しぶきの中に生い茂る絵のような樹木や常春藤きづたもなく、涯しもなく頭上はるかに巍々と聳え立つ巌を仰ぎ見ることもなければ、葡萄蔓や常春藤きづたや、数知れぬ野薔薇のからみついた重畳たる拱梁アーチもなく、その拱梁アーチの間から、銀いろの明るい空に浮かぶ輝やかしい山脈の悠久な輪郭が仄見えることもない。御身のうちにあるものは凡て茫漠として平板である。坦々たる平原のあいだにたちの低いまち々が、まるで点か記号のように突起しているだけで、何ひとつ人の眼を惹き、心を魅惑するものがない。しかもどんな神秘な捕捉しがたい力があって、かくまで御身に心惹かれるのだろう? どうして御身の、あの退屈な歌が、国土のつづく限り、涯から涯まで、どこへ行っても嫋々として小止みなく鳴り響き、耳朶を打つのだろう? 一体、この歌の中には何があるのだろう? 何がかくも我れを呼び、慟哭し、心を緊めつけるのだろう? どんな声音がかくも悩ましく胸を打ち、魂に喰い入って、わたしの心臓にからみつくのだろう? ロシアよ! 御身はこのわたしに何を望んでいるのか? どんな不可思議なつながりが御身とわたしのあいだに匿されているのか? 何をそんなに御身は眺めているのか、また御身のうちにあるありとあらゆるものが、どうしてそう期待に充ちた眼をわたしに向けているのか?……。そればかりか、わたしがかく疑惑にとざされて、じっと立ちつくしているとき、今にも雷雨をもたらしそうな重々しい雨雲がわたしの頭を翳し、広漠たる御身を前にしてわたしの思考力ははたと鈍ってしまうのだ。この涯しなき広袤は何を予言しているのだろう? そもそも御身そのものがかく宏大無辺である限り、そこにこそ、その御身の懐ろにこそ、測り知られぬ大思想が生まれる筈ではなかろうか? 御身の懐ろで縦横に腕をふるい、駈けまわることが出来るとしたなら、そこにこそ剛勇無双の勇者が生まれる筈ではなかろうか? その力強い広袤がわたしをむんずと鷲掴みにして、怖ろしい威力をわたしの魂に反映させているのだ。今わたしの両の眼には、本然ならぬ威力が宿っている……。ああ、なんという輝やかしくもいみじき、世に知られぬ僻地であろう! ロシアよ!……。
「締めろ、手綱を締めろったら、馬鹿っ!」と、チチコフがセリファンに呶鳴りつけた。
「こら、サーベルでも真向から喰らいたいのか!」こう、そのとき先方から馬車を飛ばせて来た、二尺あまりもある泥鰌髭をのばした伝令兵が、喚きたてた。「やい、何をぼやぼやしてやがるんだ、椋鳥め、手前の眼にゃあ、お上の馬車くるまが見えねえのかっ!」それなり、三頭立の馬車はガラガラッという凄まじい音と共に、濛々たる土埃をたてて、幻影まぼろしのように姿を掻き消してしまった。
 旅路という言葉には、何という不思議な、人の心をそそって、どこかへ持って行ってしまうような、微妙な響きがこもっていることだろう! 実際にまた、旅路そのものは堪らなく好いものだ! 快晴にめぐまれた日で、秋の木の葉がサラサラとさやぎ、外気はひんやりと……。旅行者は旅外套の襟を掻きあわせ、帽子を目深に引きさげて、出来るだけぴったりと居心地よく馬車の隅へ身を擦り寄せる! 最後にもう一度、ブルッと戦慄が五体を通りすぎると、今度は気持よくぽかぽかと暖かくなる。馬は一散に走っている……。いつか、誘いこむように睡気が忍びよって両の瞼がくっつきあい、※(始め二重括弧、1-2-54)彼方に見えるは白雪ならで※(終わり二重括弧、1-2-55)という小唄も、馬の鼻息も轍の音も、もう夢現つに聞きながら、いつか隣りの乗合客を片隅へ押しつけるようにして、グウグウ鼾きをかいているのだ。ふと眼を覚ますと、もう宿場を五つも通り越しており、月が出ている。見も知らぬ町、古風な木造の円頂閣と黝んだ尖塔のある寺院、くすんだ丸太づくりの民家と白い石造の邸宅、月の光りがそこここに落ちて、まるで壁や鋪石道や街路に白麻の手巾でも撒きちらしたよう[#「撒きちらしたよう」は底本では「撤きちらしたよう」]。それを斜めに炭のように真黒な陰影かげが横断しており、斜光を受けた板屋根は、さながら磨きたての金属のようにピカピカ光っている。猫の仔一匹すがたを見せず、何もかもがまどろんでいる。ポツンとただ一つ、どこかの小窓に灯影が映しているのは、その市の町人が自分の長靴でも縫っているのか、それとも麺麭屋が麺麭を焼いているのでもあろうか?――だが、そんなことはどうでもいい! ああ夜!……天上の力! 何という素晴らしい夜が天空を領していることだろう! ああ大気! そして高く遥かな大空が、その近づき難き天涯の底に朗々と晴れわたって、限りなくひろがっている!……。しかし、冷たい夜の息吹に爽々しく瞼をくすぐられると、いつか好い気持になって、ついうつらうつらして前後を忘れてしまい、グウグウ鼾きをかきはじめる。すると片側へおしつけられた可哀そうな隣りの乗合客が、何かひどく重いものがのしかかってきたことに気がついて、腹立たしげにからだをねじまわす。眼を覚ますと――眼の前は、またしても田畑と曠野ばかりで、何一つ変ったものはなく、見渡す限りがらんとして、何の変哲もない景色だ。数字を書いた里程標が眼をかすめて飛びすぎて行く。夜が明けそめる。仄白くなって冷々とした地平線の上には、ぼやけた金色の縞がかかり、風が一段と爽やかに寒々と身にしみるので、防寒外套を一層ひしと掻きあわせる!……。何という快適な寒さだろう! ついまた快い睡りに落ちてしまう! ガタッと揺れて――また眼を覚ます。日はもう空高く昇っている。『お手やわらかに頼むぜ! お手やわらかに!』という声が聞こえる。馬車は急坂をくだるところで、下には広い堰があり、大きな明るい池が陽光を浴びて、銅器の底のように輝やいている。部落があって、傾斜地に百姓小屋が散らばっている。その片側には、田舎寺の屋根の十字架が星のようにチカチカ光っており、百姓どもの喋り声もガヤガヤ聞こえ出して、胃の腑が堪え難くギュウギュウいい始める……。ああ! この長い長い旅路も、時には実にいいものだ! 何度わたしは、溺れる者が藁に縋るように、あわただしく旅に出たことだろう、そのたんびにわたしは快適な旅に救われて危く破滅から免れたものだ! そして旅の空では、どんなに素晴らしい構想や詩的情緒が生まれ、どんな素敵な感銘を受けたことだろう!……だがこの際、我等の友なるチチコフも全然散文的な夢想にばかり耽っていた訳ではない。それでは一体どんなことを感じていたのか、それを一つ観察してみよう。初めのうち彼は何の感興をも覚えず、ただ恙なくまちを出はずれたかどうか、それだけが気になって絶えず後ろばかり振り返っていたが、やがて市はもう疾っくに姿を消して、鍛冶場だの、磨粉場こなひきばだの、そのほか市の界隈にあるいろんなものが何もかも見えなくなり、石造の教会堂の白い屋根の頂きさえも、ずっと前に地平線の彼方に影を没してしまったのを見究めると、ようやく彼は専ら道中のことに思いを潜めて、ただ右を見たり、左を見たりするだけで、もうN市のことなどは、遠い遠い少年の日にでも通りすぎた場所ところかなんぞのように、まるで彼の記憶から消え失せてしまったのである。やがて道中のこともいっこう注意を惹かなくなると、彼はかるく眼をとじて、枕の上へ顔を押しつけてしまった。実のところ作者は、こうして、ようやく自分の主人公の身の上話をする機会が得られて寧ろ嬉しいのである。読者も御存じのように、これまでは、やれ、舞踏会だの、婦人連だの、やれ、ノズドゥリョフだの、町の風説だの、さては、こうして書物に記載してみると実にくだらないことのようであるが、そのくせ、実社会に於いてはなかなか重大なことと目される、あのさまざまな些事に妨げられて、絶えずその機会を逸していたからである。だが、今こそそういう余事はさておいて、ひたすら我等の主人公の前身を語ることにしよう。
 さて、私の選んだ主人公が読者のお気に召したかどうかは甚だもって疑わしい次第である。彼が御婦人がたのお気に召さないことは、確信をもって断言することが出来る。それは御婦人がたが、小説の主人公というものはどこまでも完全無欠な人間であるようにと望んでおられるからで、たとえ僅かでも、精神的乃至は肉体的に、何らかの欠点があれば――もう駄目である! 作者がどんなに深く主人公の魂の奥底を観察し、その形貌をまざまざと鏡に映すよりも明瞭に描きだしたところで、そんなものには三文の値打も認めてもらえはしないのだ。そもそもチチコフが中年で、でっぷり肥っていることが、甚だ彼に不利なのである。どんな場合にも、小説の主人公がでぶでぶ肥っていては落第で、たいがいの御婦人がたは外方そっぽうをむいて、『ちぇっ! 何ていけすかない!』と仰っしゃるにきまっているのだ。嗚呼! 作者には何もかもそれが分っている、それにも拘らず、作者は主人公として謂ゆる高潔の士を選ぶことが出来なかったのである。しかし……やがてこの物語の中でも、これまでついぞ一度も奏でられたことのない別種の琴線が鳴りだして、ロシア魂の無限の宝庫が開かれ、神の如き勇気をそなえた男性や、優にやさしい女ごころの美しさの限りをそなえ、寛容と自己犠牲の念に満ちあふれた、世界中どこを探しても見つけることの出来ないような素晴らしいロシア乙女が飛び出してくるかもしれない。そうすれば、人種を異にするどんな優秀な人々も、これに比べてはまるで死人のように見えるだろう――ちょうど生きた言葉に比べては書物が死物に等しいと同じように! やがてロシアの国民運動が興るだろう……そして、他国民にあってはその品性の上面を軽くかすめたに過ぎないものが、どんなに深くスラブ民族の品性に喰い入っているかを悟るだろう……。だが、いったい何のために、そんな先きのことまでかれこれ言う必要があろう? もう疾っくに一人前の男として、辛酸な内的生活や、孤独な何ものにも迷わない新鮮味の中で鍛えあげられたはずの作者が、まるで青年のように我れを忘れてしまうのは、甚だ不体裁である。何事にもちゃんときまった、順序と場所と時とがあるはずだ! が、とにかく、この小説の主人公には高潔な人間は用いられていない。どうして用いられなかったかという理由をあげることも出来る。第一、もういい加減に一息つかせてやらなければ、高潔な人間が可哀そうだ。またむやみに、高潔な人間、高潔な人間と、この言葉が濫用されすぎる。そればかりか、高潔な人間を馬に見たてて、作家という作家がそれに打ち跨がり、鞭や手あたり次第の得物で追い立て急き立て乗りまわしたのだ。高潔な人間はあまりに苛責を受けたため、今では高潔のの字もなくしてしまい、五体は痩せさらぼうて見る影もなく、骨と皮ばかりになっている。高潔な人間ともてはやすのも表面うわべだけで、その実、高潔な人間を尊敬している訳ではない。いや、もうそろそろ悪党を駆りだしてもいい頃だ。だから卑劣漢を主人公としてお目見得させた次第である!
 我等の主人公は、取り立ててこれというほど立派な家柄の出ではなかった。両親は貴族ではあったが、古くからの代々の貴族なのか、それとも成りあがりの一代貴族なのか、その辺のところは皆目わからない。彼の顔立は両親に似ていなかった。少なくとも、出産の時その場にいあわせた親戚の女で、普通にちび女と呼ばれているような、ちんちくりんの女が赤ん坊を抱きあげるなり、『おやおや、思ったとはまるで違う赤ちゃんだよ! この子は母方のお祖母ばあさんに似るはずだったのに、そしてその方がよかったのにさ。それがどうだろう、諺にいう通り※(始め二重括弧、1-2-54)父親にも似なければ、母親にも似ない、どこかの風来坊そっくり※(終わり二重括弧、1-2-55)って顔をしているじゃないか』と、口走ったほどであった。そもそも最初に人生というものが、雪にうずもれた仄暗い小窓越しに一種味気なく頼りない光りを彼の上に投げたのであった。少年時代にも、彼には友達もなければ遊び仲間もなかった! 夏冬ともついぞあけられたことのない小窓のついた小さな部屋、仔羊の毛皮を裏につけた長いフロックを著て、素足に編物のスリッパをはき、絶えず溜息をついて部屋の中を歩きまわりながら、片隅においてある砂箱へ唾ばかり吐く病身の父、明けても暮れても、指や唇まで墨汁で真黒にしながら、ペンを持って腰掛に坐らされていること、いつも眼の前にぶらさげてある手本の『嘘をつくな、目上の者に従え、心を正しくせよ』という格言、絶えず部屋を歩きまわるスリッパの音、単調な手習いに飽きて、書いている文字に髭や尻尾をくっつけていると、不意に響きわたる『また悪戯いたずらをしているな!』という、聞き慣れてはいるが、いつも刺々しい声、いつもそうした言葉についで、後ろから長い指を伸ばして耳の縁をグイとひどく抓られる時の、あのお馴染の不快いやな気持――こういったものが、どうやらぼんやり記憶に残っている、彼の幼年時代の惨めな思い出であった。しかし人生というものは束の間に急激な変化を齎らすもので、或る春のはじめの、日ざしも麗らかに、水の流れも滔々たる一日、父は我が子をつれて、ガタ馬車に乗って出かけた。その馬車につけたのは、鹿毛にぶちのある、博労仲間で『かささぎ』という異名でとおっている痩馬で、チチコフの父の所有に属していた唯一の農奴の家長で、主人の家の仕事を殆んど全部その双肩に引きうけていた、小柄な傴僂男が御して行ったのである。一行は一昼夜半あまり、その『かささぎ』に曳かれて行った。途中で泊って、川を渡り、冷たい肉饅頭と羊の焙り肉とで弁当をつかい、三日目の朝になって或る市に辿りついた。少年の眼の前へ思いもかけぬ荘麗な街並がパッと現われたため、彼は暫らくはあいた口も塞がらなかった。やがて『かささぎ』は馬車もろともに、バシャンと穴の中へ飛びこんだが、そこからは狭い泥濘だらけの横町がだらだらと下へつづいていた。馬はそこで傴僂の馭者や主人に追い立てられて、長いこと、一心不乱にもがいたり足掻いたりした挙句、やっとのことで一行を、坂の途中にある小さな邸へ運びこんだ。その古ぼけた小さな母家の前には、花を一杯につけた林檎の木が二本あり、家の後ろには、ななかまど接骨木にわとこの木だけの、たけの低い小さな庭があって、その叢みの奥に、柿板こけら葺きの木造の小舎がかくれており、擦ガラス入りの小さな窓が一つ見えていた。ここには、チチコフ一家にとっては親戚にあたる、皺くちゃの梅干婆さんで、いまだに毎朝、市場へ出かけては、帰って来ると靴下をサモワールで乾かす婆さんが住んでいた。彼女は少年の頬っぺたを軽く叩きながらその丸々ふとった肉附につくづく見とれた。彼はここに留まって、これから毎日、市の学校へ通わなければならなかった。父は一晩とまって翌る日かえって行った。いよいよお別れという時にも父は涙一滴こぼさなかった。何か甘いものでも買ったり、お小遣にしろといって、銅貨で五十カペーカくれたが、何より肝腎なことは、こういう賢明な教訓を与えて行ったことである。『いいかえ、パウルーシャ、よく勉強をしろよ、馬鹿な真似をしたり、悪戯をしてはいけないが、何より大切なことは、先生や目上の人の気に入るようにすることだよ。目上の人の気に入ってさえおけば、よし学問は出来なくても、生まれつき才能には恵まれていなくても、結構うまくいって、他人などはみんな追い越すことが出来るんだよ。友達づきあいなんぞすることはないぞ、どうせ碌なことは教えてくれやしないから。それでも、どうしてもつきあわなければならなかったら、なるべく金持の子供とつきあうがいい、そうすれば、いざという時にはお前の助けになるからな。他人ひとにおごってやったり、御馳走をしてやることはないぞ、それより、他人ひとからおごってくれるように、巧く立ちまわるがいい。何より、貯蓄に心懸けて、銭をためることだ。銭がこの世では一番たよりになるのだからな。友達や仲間というやつは、こちらが落目になると、第一番に裏切るけれど、銭というやつは、どんな不幸な場合にも決してお前を裏切るようなことはないよ。この世では銭さえあれば、どんなことでも出来るし、何でも貫徹することが出来るのだ。』こういう教訓を与えて、息子に別れを告げると、父はまた『かささぎ』に馬車を曳かせて家へ帰って行った。それ以来、少年は二度と再び父には会わなかったが、その言葉と教訓とは、彼の魂の底に深く沁みこんでしまったのである。
 パウルーシャはその翌る日から学校へ通いだした。特にどの科目といって特別よく出来る学科はなかったが、何よりも勤勉で几帳面な点に於いて彼は衆に抽んでていた。その代り、他の方面――即ち実際的な方面で、素晴らしい才能を発揮した。彼は忽ち物事の要領を呑みこんでしまい、友達との交際に於いても、うまく自分が御馳走になるようには仕向けても、自分の方からは決しておごらなかったばかりか、時としては、おごって貰った物をこっそり隠しておいて、後でそれを、おごってくれた相手に売りつけるようなことさえしたものだ。まだ子供の時分から、彼は何事にも自己を制することが出来た。父から貰った五十カペーカには決して手をつけなかった。いやそれどころか、まるで並はずれな縦横の機智をはたらかして、その年の中にもう幾らかそれを殖やしたほどで、なんでも蝋でうそ[#「與/鳥」、U+9E12、181-15]の形を拵らえて、それに彩色をほどこして、非常にいい値で売ったのである。それからまた暫らくのあいだは別の投機やまに熱中したもので、それはこうである――先ず露店で何か食べ物を買いこんで来て、教室ではなるべく金のある仲間のそばに腰をかける、そうして、その仲間が生唾を呑みこみはじめるや否や――それは相手が空腹を感じだしたしるしだが――それを見てとると、彼はそしらぬ顔をしながら、ベンチの蔭から生姜餅だの白麺麭の一片をそっと見せびらかして、相手をじらして、その食慾につけこんで金をせしめたのであった。また彼は、二ヶ月のあいだ部屋にとじこもって、二十日鼠を一匹、小さい木の檻籠に入れて、少しの休みもなく飼い馴らした挙句、とうとうしまいには、命令どおり、後足で立ったり、横に寝たり、起きあがったりするように仕込んでから、それを矢張り非常にいい値で売ったものだ。貯金が五ルーブリに達した時、彼は嚢を縫って、また新らしくめにかかった。上長に対しては、彼は更に上手に立ちまわった。ベンチに掛けるにしても、彼ほどおとなしく、じっと坐っている者はなかった。ここで一言しておかなければならないのは、受持の教師というのが、生徒が静粛で行儀のよいことの恐ろしく好きな人物で、いわゆる利口な、頓智のいい生徒には、我慢がならなかったことである。彼にはそういう連中が、どうしても自分を嘲笑っているように思われて仕方がなかったのである。どうも才走った奴だと睨まれているような生徒は、ほんのちょっと身動きをするとか何心なく眉でもしかめようものなら、もうそれだけで、たちまち教師の不興を買うに充分であった。彼はそういう生徒をどこまでも追及して、情け容赦なく懲罰を加えたものだ。『ようし、貴様のその図々しい、人を食ったような態度を叩きなおしてくれるぞ!』と、彼はがなりたてるのだ。『ちゃんと貴様の肚は知り抜いているんだぞ、貴様が身のほどを知らないのと同じくらいに、わしは何もかも知ってるんだ。さあ、膝を突いて立っておれ! 少しはひもじい目を見るがよかろう!』こうして、哀れな少年は、何の咎とも分らずに、膝頭を擦りむきながら、一昼夜の飢えを忍ばねばならないのだった。『才能だの天分だのというものは取るに足らん!』こう、常々その教師は言った。『わしは何よりも品行に重きをおいている。たとえ、いろはのいの字一つ知らないでも、品行さえ方正な生徒には、わしは全科目に満点をつけてやる。しかし、根性がまがっていて、人を嘲けるような癖のある子供は、たとえ*3ソロンを瞠若たらしめるほど学問が良く出来ても、ゼロをつけてやるのだ!』こんな風に言うその教師は、*4クルイロフが死に際に、『酒は飲んでも飲まいでも、務めるところはちゃんと務める』などと言ったというので、この寓話作家を死ぬほど嫌い、自分が前に奉職していた学校では、生徒が非常に静粛で、蠅の羽音さえ聞こえる位で、一年中を通じて生徒のうち、教室で咳をしたりはなをかんだりする者は一人もなかったから、放課の鐘がなるまでは、教室の中に人がいるのかいないのか、とんと分らないくらいだった、などとさも満足そうに、眼を細くして物語ったものだ。チチコフは直ぐにこの先生の気風を呑みこんで、品行をよく見せるにはどういう風にしなければならないかというコツを会得した。課業ちゅうには、後ろからどんなに突つかれようと、彼は眉毛一筋うごかさず、まばたき一つしなかった。そして放課の鐘が鳴ると同時に、驀地まっしぐらに駈け出して、彼は誰よりも先きに三角帽を教師に取ってやった。(その教師は三角帽をかぶっていたからである。)三角帽を渡してやると、今度は誰より先きに教室を飛び出して、二度も三度も教師に出会うようにして、そのたんびに彼は帽子をとってお辞儀をしたものだ。こうした努力は完全に効を奏した。で、ずっと在学中は素晴らしい点を取り、卒業の折には全課目に満点の成績をつけられて、卒業証書と共に、『学術優等品行方正を賞す』と金文字を入れた本を一冊もらった。学校を卒業する頃には、もうそろそろ下顎に剃刀を当てなければならない位の、かなり風采の立派な若者になっていた。丁度その頃、彼の父が亡くなった。遺産として残されたのは、もうどうにも繕いようのないぼろぼろに着古された四枚のジャケツと、羊の毛皮を裏につけた二着の古いフロックコートと、それから、ほんの僅かばかりの金子かねであった。どうやら彼の父は、金子かねを貯めよ金子かねを貯めよと、口先だけは喧ましく言っても、自分ではいっこう貯めなかったものと見える。チチコフは早速、古ぼけた家邸を、取るに足らぬ僅かな地所もろとも、一千ルーブリの金子かねにかえ、農奴の一家をまちに移して、そこに落ちついて勤務につこうと目論んだ。丁度その頃、静粛で品行の正しいことをあれほど愛好した哀れな例の教師が、あまり馬鹿げていたためか、それとも何か他に原因があってか、とにかく学校を罷免くびになったのである。教師は自棄やけになって酒を飲みだしたが、とうとうしまいには、飲代もなくなってしまい、おまけに病気になって、一片の麺麭もなければ、頼る人もなく、どこか場末の、犬小屋のような火の気もない荒ら家に逼塞していた。以前の教え子で、始終この教師から、やれ従順すなおでないの、態度が傲慢不遜だのと言われていた、謂ゆる利口な生徒や頓智のきく学生が、この旧師の気の毒な境遇を知ると、中にはいろんな必要な持物まで売り払って、さっそく彼のために義捐金を集めた。ただパウルーシャ・チチコフだけは、自分も貧しいのだからと言い逃れて、なんでも五カペーカ銀貨を一枚だけ出したきりであった。で、級友たちは即座にそれを彼に叩きつけて、『えい、この吝嗇漢けちんぼめ!』と罵ったそうだ。哀れな教師は、自分の以前の教え子たちがそんなことまでしてくれたと聞いた時、両手で顔をおおって、霞んだ両の眼からぼろぼろと涙をこぼしながら、頑是ない子供のように、おいおいと泣いた。『死に臨んで、わしは初めて心から泣かされました。』と、彼は弱々しい声で言ったが、チチコフのことを聞くと、せつなそうに溜息をついて、こう附けくわえたそうだ。『えっ、あのパウルーシャがね! 人間って、そんなに変るものかしら! ほんとに心懸けのいい子でな! 乱暴なところなど少しもない――仔羊のようにおとなしい子供だったが! それじゃあ、猫をかぶっていたのだな、まんまと猫をかぶって……。』
 だが我等の主人公が、生まれつき、それ程までに冷酷無情で、憐憫も同情も知らないほど鈍感な性質であったとは、一概にいうことは出来ない。彼とても憐憫も感ずれば、同情も禁じ得なかったのだ。それどころか、旧師を扶助したいのは山々であったが、ただ、これだけは手をつけまいと決心した金子かねに手をつけるのが厭さに、あまりまとまった金額は出せなかったのだ。つまり『倹約して銭を貯めよ』と諭した父の教訓が骨身にしみこんでいた訳である。しかし、彼は決して金子かねそのもののために金子かねに執着を持っていたのではない。彼を支配したのは決して吝嗇でも貪慾でもなかったのだ。そうだ、彼を動かしていたのは決してそんなものではなかった。彼は何ひとつ不足のない栄耀栄華な生活を未来に夢見ていた。馬車や、素晴らしい設備の住宅や、美味しい料理――そういうものが絶えず彼の胸裏に浮かんでいたのである。そのうちには何時いつか、必らず身をもってそういったものを享楽することが出来るようにと、只管それがために当分のあいだは自からの慾望を抑え、他人ひとへの義理を欠いてまでも、零細な金子かねを粒々として貯めていたのである。自分の傍を金持が、素晴らしい馬具をつけた※(「足へん+鉋のつくり」、第3水準1-92-34)馬に曳かせた軽快な美しい馬車に乗って景気よくやってゆくのを見ると、彼はその場に釘づけにされたように、じっと立ちすくんでしまう。が、やがて長い夢からでも覚めたように、我れに返って、こう口走ったものである。『なんだ、あいつも帳附をしていた頃は、頭をおかっぱにしていたじゃないか!』とにかく、富とか安逸の匂いのするものは、何によらず、彼には自分でも訳の分らない異常な印象を与えたのである。学校を出ると、彼はもう一刻もぼんやりしていることが出来ず、少しも早く勤め口にありついて精勤を励みたいという強い念願に駆り立てられた。けれど、立派な成績の卒業証書がありながら、支金庫の下っ端役人になるのにも、彼は並々ならぬ難関を突破しなければならなかった。どんな辺鄙な片田舎でも、やはり手蔓というものが必要なのだ! 彼はやっと詰まらない職にありついたが、給料は年に三四十ルーブリに過ぎなかった。それでも彼はその職務に精励して、どんなことにも打ち克とうと決心した。実際、前代未聞といってもいいくらいの、克己と忍耐と節約を彼は示したのである。朝早くから夜おそくまで、精神的にも肉体的にも倦まず撓まず、公文書の中へ埋まりきりで、彼はせっせと書きものに没頭し、夜も家へは帰らず、役所の事務室でテーブルの上に寝て、時には小使と食事を共にしたりもしたが、それにも拘らず、身のまわりをさっぱりとし、服装もきちんと整えて、顔には気持のいい表情をうかべ、そのうえ物腰にどことなく上品な趣きさえ添えるコツを心得ていた。支金庫の役人といえば、面相つらがお粗末で、風采のあがらないことで特に知られているものだ。中には麺麭の焼け損いみたいな顔をしている連中もあり、頬が右へふくれあがっておれば、顎は左へひん曲っているし、上唇は水腫のようにむくれて、おまけに亀裂が入っている始末――一言にしていえば、まったく見られた面ではないのだ。この連中の言葉づかいがまた実に乱暴で、がみがみとまるで噛みつくような劔幕でまくしたてる。何かといえば*5バッカスに贄を捧げて、今なおスラヴ族の血が多量に異教時代の名残を留めていることを証拠だてる。時には、謂ゆる一杯機嫌でもって、役所へのさばり出ることさえあるので、そうなっては神聖なお役所も台無しで、文字どおりかんばしからぬ空気に充たされてしまうのである。こういった役人連のあいだに伍して、一から十まで全然この手合いとは正反対で、顔立も綺麗なら、声にも愛嬌があり、そのうえ強い酒などは一滴も飲まないチチコフが、一段と図抜けて目立たない筈はなかった。が、それにも拘らず、彼の進路には苦難が横たわっていた。第一、彼の上役というのが極めて旧弊な、まるで木石のように冷酷な、梃子でも動かぬ頑固屋の標本そっくりの課長で、生涯に一度として笑顔を見せたこともなければ、人に向って御機嫌は如何と挨拶ひとつしたことのない、実に近寄りにくい人物であった。この男が往来に出た時にせよ、家にいる時にせよ、ついぞいつもと違った顔をしているのを見た者はない。何か一度でも彼が同感を示したこともなければ、酒を飲んで酔って笑ったこともなく、酔っぱらった時には山賊でもやる、あの馬鹿騒ぎに彼がうつつを抜かした例しもない。いや絶対に彼は、そんな気振りも見せなかった。何一つこの男には、悪人なら悪人、善人なら善人という、はっきりしたところがなく、そのどちらでもないところに、何かしら不気味なものが現われていた。彼の大理石のように冷酷な顔は、どこといって際立った欠点がなく、それでいて、見たところ全然類いのない顔で、その線と線が互いに深刻な均衡を保っていた。ただやたらに痘斑や窪みがその輪郭を破っているため、民衆的な表現に従えば、悪魔が夜な夜な豌豆をはたきにくるといった顔に数えられる訳である。こんな人物に取りいって御機嫌を取り結ぶなどということは、とても人間業では出来そうもなかったが、しかしチチコフは進んでそれをやって見た。最初に彼は、ごく詰まらない事柄で相手に取り入ろうとした。先ずこの男が使っている鵞ペンの削り方をよく調べて、それに傚って何本も鵞ペンを削っておき、始終それを相手の手許へ差し出すようにした。また、相手のテーブルの上にこぼれた砂だの煙草の粉を、吹き払ったり掃き落したりもした。相手のインキ壺を拭く新らしい布片きれを持って来もした。また、いつも退庁の一分間ぐらい前になると、世の中によくもこんな帽子があると思われるような、とてもひどい相手の帽子を捜して来て、そっと手許に置いてやり、もし相手が背中を壁で擦って白い粉でもつけておれば、それをよく払ってやりもした。しかし、そうした努力も、まるでそんなことは何一つしなかったと同様に相手からは全然、認められなかった。最後に彼は課長の家庭生活と家族関係をさぐって、相手が年頃の娘を持っており、それがやはり、夜な夜な悪魔が豌豆を搗きにやってきそうな御面相の持主であることを嗅ぎ出した。そこで彼はこの搦め手から攻撃してやろうと考えた。その娘の日曜日ごとに行く教会を調べあげると、彼はさっぱりした服装に、ピンと糊のきいた胸当をつけて、毎週その教会へ出かけては、彼女と相向いに席を取るようにした。この戦法がまんまと図にあたり、さすがに頑固な課長もついに折れて、彼をお茶に招待したのである! 役所の連中がまだそれと気づかぬ中に、事をどんどん運び、逸早く先方の家へ引き移って、もうその家にとって必要欠くべからざる人間になりすまし、麦粉を買ったり砂糖を買ったりして、娘に対しては婚約者のような態度を取り、課長をお父さんと呼んで、その手に接吻したりしたものだ。役所ではみんなが、二月の末か、遅くとも大精進期の前には婚礼が挙げられるものと決めこんでいた。頑固な課長も、我等の主人公のために当局に奔走してくれるようにさえなり、間もなくチチコフには、たまたま空いた課長の椅子が与えられることになった。どうやら、彼が老課長に接近した第一の附け目はそこにあったらしく、目的を達すると同時に、彼は自分の荷物をこっそりまとめて、もう次ぎの日には早くも新らしい宿へ移っていた。もはや課長をお父さんと呼びもしなければ、その手に接吻することも罷めてしまい、結婚の話などは、全然何事もなかったように、そのまま立ち消えになってしまった。それでも老課長に会うたんびに、彼はいそいそとその手を握って、どうかお茶に来て下さいなどと愛嬌をふりまいた。だから、さすが物に動じない頑固一点張りの相手も、そのたんびに頭を振り立てては、こう鼻の先きで呟やいたものだ。『一杯くわせやがったな、畜生め!』
 これが、我等の主人公の乗り越えた最大の難関であった。もうこれから先きは、ずっと容易らくに物事が首尾よく成就して行った。どうやら彼も一角の人物になった。彼には処世のために必要なあらゆる武器がそろっていた――洗煉された挙措動作はいかにも気持よく、事務にかけてはキビキビと縦横に敏腕をふるった。そういう武器によって間もなく彼は、謂ゆる割のいい地位を贏ち得て、それをまた実に巧みに利用したのである。かの収賄に対する極めて厳重な糺明が行われだしたのは丁度その頃だったということを心得ておく必要がある。ところが、彼は一向そんなことに驚かなかったばかりか、そういう弾圧に逢って初めて本領を発揮する、あのいかにも露助らしい目端をはたらかして、忽ちそれを、逆に自分に有利な武器に変えてしまったのである。では一体どんな風にしたかというと、こうである――まず請願者がやって来て、やおら手をポケットに突っこんで、我がロシア帝国に於ける一般の表現によれば、謂ゆる*6ホワンスキイ公爵の署名した紹介状を取り出そうとするとき、その手を押えるようにして、『いや、いや、その御斟酌には及びませんよ』と彼は、にっこりしながら言ったものだ。『あなたは私をそんな人間だとお思いになるんですか…… いや、決して決して! これは我々の義務なんです、我々の職務なんです。だから決して報酬などは頂かなくても、手続きはちゃんといたします! その点はどうか御安心ください。明日までには万遺漏なく整えておきますから。では、ちょっとお住いを伺わせて下さい、わざわざ御足労をかけるまでもなく、こちらからお宅へお届けいたしますから。』そこで請願者はすっかりいい気持になり、殆んど有頂天になって、※(始め二重括弧、1-2-54)いや、まったく立派な男だ、ああいう人間が一人でも余計にいてくれると有難いんだがなあ! あれはまったく、素晴らしいダイヤモンドだ!※(終わり二重括弧、1-2-55)と考えながら、家へ帰って行く。ところが、請願者が一日待っても二日待っても、頼んでおいた一件書類はいっこう家へ届けてくれない。三日目になっても、やはり来る様子がない。痺れを切らして彼が役所へ行ってみると、書類はまるで手もつけてないのだ。そこで素晴らしいダイヤモンドに会って様子を糺すと、『おや、御免なさい!』こう、チチコフは相手の両手を握りながら、馬鹿叮嚀に言うのである。『何しろ、このところ仕事が嵩んでおりましてね、しかし、明日は万事ととのえておきますよ、明日は間違いなく! いや、まったく申訳ございません!』そう言いながら、実に魅惑的な素振りをするのであった。そんな折に、着物の裾でもはだかっていたりしようものなら、急いでそれを直して、裾を手で抑えたものである。ところが、明日あすになっても、明後日あさってになっても、そのまた翌る日になっても、書類はいっこう届けてくれない。そこで請願者は、※(始め二重括弧、1-2-54)ははあ、こりゃ何か曰くがあるんだな?※(終わり二重括弧、1-2-55)と、ようやく気がつく。で、それとなく当ってみると、『幾らか書記には掴ませなくっちゃあ』という話だ。『勿論、出しますとも! [#「出しますとも! 」は底本では「出しますとも!』」]二十五カペーカ銀貨の一つや二つは、ちゃんと出す覚悟なんで。』――『いや二十五カペーカ銀貨じゃ駄目ですよ、白紙幣しろざつ一枚ずつは奮発しなくっちゃあ。』――『えっ、書記に白紙幣しろざつを一枚ずつですって!』請願者はおったまげてしまう。――『何をそんなに吃驚なさるんで?』と、先方が応酬した。『つまり、こうなんですよ。書記には結局、二十五カペーカずつしかあたらないで、残額は上役の懐ろへ入るって訳でさ。』血のめぐりの悪い請願者も、ここでポンと額を一つ叩いて、新らしい制度だの、収賄の取締りだの、役人連のいやに上品ぶった、馬鹿叮嚀な態度だのを、糞味噌に罵るのである。※(始め二重括弧、1-2-54)少なくとも以前は、やり方のコツぐらいはちゃんと分っていた。まず課長に*7赤紙幣あかざつの一枚も握らせさえすれば、滞りなく鳧がついたものだが、今どきは白紙幣しろざつでなくっちゃ通用しないと仰っしゃる。おまけに、相手の肚をさぐるのに一週間もかかるんだ……ちぇっ、役人どもの清廉だの潔白だのなんて、糞くらえだ!※(終わり二重括弧、1-2-55)なるほど請願者がこういうのは尤もである。その代り大っ平に賄賂を取るような者は一人もなくなり、課長や局長といった上役はこの上もなくお上品に取りすましていて、ただ秘書だの書記だのという手合いだけが悪者にされた訳である。間もなくチチコフには素晴らしい幸運がめぐって来た。というのは、非常に大規模な予算で、或る官立の建物を造営する、建築委員会が組織されて、彼もそれに推挙されて、最も活動的な役員の一人になったことである。委員会はすぐさま事業に着手した。その建物をめぐって荏苒六ヶ年の歳月が費やされた。ところが、天候に妨げられたとでもいうのか、それとも建築材料の所以だとでもいうのか、とにかくその建築は、基礎工事以上には少しも捗っていなかった。それに反して、市の別々の方面に、委員会の役員の住いとして、それぞれ一軒ずつの瀟洒な構えの住宅が、いつの間にか立派に出来あがっていた。どうやらこの方が、ずっと肥料こやしがよくきいたものらしい。役員連はそろそろ好い景気になって、めいめい家庭を営んだりし始めた。ようやくこの頃になって、チチコフも初めてあの厳しい禁慾と頑固な自己否定の掟を少しずつ緩めにかかった。この時分から初めて、あの久しい間の精進がようやく緩和されるに至り、彼とてもいろんな快楽に対して必らずしも無関心であった訳ではなく、ただ血の気の多い青年時代には誰ひとり完全に抑制する者のない情熱をよく彼が制御し得たに他ならないことが明らかになった。ちょいちょい奢侈が頭をもたげて、相当腕ききの料理番コックを雇ったり、オランダ渡りの薄手のシャツを身につけるようになった。また、その県下ではまだ誰も著ていないような素晴らしい服地を買いこんだりして、その頃からして、どっちかといえば、ピカピカして赤味の勝った、例の肉桂色というやつに執着を持つようになったのだ。また素晴らしい二頭立の馬車を手に入れ、自分で片方の手綱をにぎって、脇馬の首をぐっと外方そっぽうへ引きしぼって駈けさせた。オーデコロンを混ぜた水を海綿にふくませて、それでからだじゅうを拭く習慣のついたのもその頃だし、また肌を滑らかにする目的で、非常に高価な石鹸を買ったりし始めたのもその頃からだし、それから矢張り……。
 ところが不意に、これまではいつものほほんをきめこんでいた長官のあとへ、今度は軍人あがりで、とても口喧ましく、収賄はもとより、少しでも不正なことは断じて許さない、新らしい長官が赴任して来た。到着したすぐ翌る日、彼は一々始末書を提出させて、職員という職員をすっかり震えあがらせたが、収支が曖昧で、到るところに使途不明のまま、公金が不足しているのを発見すると、忽ち、例の素晴らしい構えの瀟洒な住宅に眼をつけて、さっそく調査の歩を進めた。役人連は続々と免職になり、瀟洒な素晴らしい構えの住宅は国庫に没収されて、種々の保護院や*8少年兵カントニストの校舎などに姿を変えた。誰もかもが散々に叩きのめされた訳であるが、殊にチチコフはひどい目にあった。あんなに気持のいい表情をもっていたにも拘らず、彼の顔が最初はなから長官の気に入らず――いったいどうした訳か、それはさっぱり分らない。間々こういうことには、まるで原因のないことだってよくあるものだが――とにかく、チチコフを死ぬほど毛嫌いしたのである。尤も、この頑迷不霊な長官は、何人にとっても恐ろしい脅威であった。が、矢張り軍人あがりであるだけに、従って、官吏社会で行われる巧妙なトリックには、いっこう気がつかなかった。それで暫らくの間に他の役人連が、いかにも尤もらしい偽装と巧みな操縦によって彼をまんまと丸めこんでしまったため、間もなくこの将軍は以前のより一層ひどい悪党どもの傀儡に化してしまった。しかもその手合いがそんな悪党だとは夢にも知らず、それどころか、適材ばかり集めたものと自惚れて、おれには人の才能を見分ける鋭い眼力があるなどと、本気で自慢したものである。婦人連は忽ち彼の気風と性格を会得のみこんでしまった。彼の配下に属する者は一人残らず、悪辣極まる不正不義の追求者となり、さながらもりを携えた漁夫がよく肥った※(「魚+潯のつくり」、第4水準2-93-82)ちょうざめでも追いまわすように、一事が万事、不正の利慾を貪るに汲々として寧日なき有様であった。しかもそれが悉く図にあたって、役人どもは短日月のあいだにめいめい数千ルーブリずつの私財を積むに至ったのである。その時分には、先きに馘首された役人連も多くは正道に帰って、再び復職を許されていた。が、チチコフばかりはどんなに奔走しても復職の願いが叶えられなかった。すっかり将軍の鼻づらを捉まえて、好きなように引っぱりまわすを心得ている将軍の主席秘書が、例のホワンスキイ公爵の紹介状にそそのかされて、どんなに彼のために骨を折ってくれても、こればかりは絶対に如何ともすることが出来なかった。成程この将軍は、好きなように鼻づらを持って引っぱりまわすことは出来ても(とはいえ、御本人はそんなことに気がついていた訳ではないが、)その代り、一旦こうと思いこんだが最後、その考えが、まるで鉄の釘でも打ちこんだように、しっかり頭に食いこんでしまって、どうしてもそれを引き抜くことが出来ない、といった類いの人間であった。賢明な秘書がようやくなし得たことといえば、ただチチコフの勤務履歴に汚点を留めぬように取り計らったぐらいが関の山で、それも、チチコフの家族の悲惨な運命をまざまざと、眼に見えるように述べたてて、同情に訴えた結果、ようやく長官を動かすことが出来たのである。が、我等の主人公にそんな家族のなかったことが、せめてもの仕合わせであった。
『ふん、何ということだ!』と、チチコフは呟やいた。『うまく引っ掛けて、手近まで引き寄せた途端に、まんまと取り逃がしちまった訳だ。今さら泣いてみたところで始まらない、何とか善後策を構じなくっちゃあ。』そこで彼は意を決して、これまでかなり勝手気儘にふるまっていた、放漫な生活をすっかり引き緊めて、再び辛抱の二字をこうべに、新規まきなおしに、改めて栄達をはかることにしたのである。それにはほかの市へ引き移って、そこでもう一度名をあげなければならないと思った。しかし、どうも思うようには行かなかった。ほんの短時日のあいだに、彼は二度も三度も勤め口をかえなければならなかった。その勤め口も、むさくるしくて卑しいものばかりだった。ここでぜひ御承知おき願いたいのは、チチコフという人間が天地開闢以来、類のない、いたって潔癖な虚飾漢みえぼうだったということである。最初のうちは、ずいぶん野卑な連中とも接触しなければならなかったけれど、それでも彼は、心には常に潔癖をたもち、事務室などもワニス塗りのテーブルをそなえて、きちんとよく整頓されていないと、どうも気にくわなかった。話をするときにも、彼は決して無作法な言葉を口にしなかったが、他人がもし、こちらの身分や官等に適わしい敬語を使わないと、いつも機嫌を悪くしたものだ。読者は彼が、平素一日おきには必らず肌着を取り替え、殊に夏、暑い時分には毎日取り替えたという事実を聞いて、さぞかし満足されることと思うが、彼は何かちょっとでも不快いやな臭いがすると、すぐに腹を立てるのであった。そんな理由から、例のペトゥルーシカが着物や長靴を脱がせに入って来るたんびに、彼は急いで鼻の孔へ丁字香を押しこんだもので、彼の神経はまるで少女のように敏感であった。従って、いつもアルコールの臭いをプンプンさせて、無作法な真似ばかりしているような手合いと再び肩を並べるということは、彼には堪え難い苦痛であった。で、心ではどんなに頑張っていても、矢張りそうした不遇時代には、さすがに肉も落ち、顔色まで蒼色あおざめたほどである。もうその頃から彼はそろそろ肥りだして、読者がこの男と知合いになって、初めて彼を御覧になった時のような、あのでっぷりした、申し分のない恰幅をそなえ、鏡を覗くたんびに、一再ならず、初々しい妻のことだの、可愛い子供のことだのといった、いろんな楽しい空想に耽っては、いつもその後でにっこりと微笑を浮かべたものである。が、ふと今、鏡に映った自分の姿を眺めると、彼は思わず、『おや、おや! おれのきたなくなったことはどうだい!』と、口走らずにはおられなかった。そしてその後は久しいあいだ、鏡など覗こうともしなかった。しかし、我等の主人公はすべてを耐え忍んだ、一心に、我慢づよく辛抱した。そして最後に税関吏の職にありついた。ここでちょっと一言しておかねばならないのは、この勤めが久しい以前から彼の野心の秘かな対象となっていたことである。彼は税関の役人が洒落た外国製品を身辺にそなえたり、珍らしい陶器やバチスト麻布あさを教母だの、叔母だの、妹などに送ってやったりするのを知っていた。ずいぶん前から、彼は溜息をつきながら、よくこんなことを呟やいたものだ。『ああいうところへ勤めたいもんだて。国境は近いし、同僚はみな教育があるし、第一、あの素晴らしいオランダ渡りのシャツだって幾らでも手に入れることが出来るんだからなあ!』それからもう一つ、肌をとても白くして、頬に生々した艶を出す、或る種のフランス石鹸のことを、その際、彼が心に浮かべていたことも、序でに附け加えておく必要がある。それが一体どんな名前の石鹸やら、さっぱり見当がつかないけれど、彼はそんなのが外国には必らずあるに違いないと想像していたのである。そんな訳で、もう前にも彼は税関へ入りたいと思ったのだが、ちょうど例の建築委員会のいろんな当面の利益に阻まれたり、また税関がどんなに有利であるにしても、まだ空を飛んでいる鶴に他ならないが、委員会の方はとにもかくにも手に握った四十雀だという、至御尤もな考えから、そのまま今日に及んだのであった。が、今や彼は、是が非でも税関へ入りこもうと肚をきめた――そして、ついにその目的を達したのである。彼は異常な熱心さで職務についた。さながら彼は、税関吏たるべき運命を担ってこの世に生まれて来た観があった。これほど機敏で洞察力に恵まれた烱眼の持主は、ついぞこれまで誰も見たことがないばかりか、話に聞いたこともないくらいであった。三四週間のあいだに彼はもう、すっかり税関の事務に手馴れて、一から十まで何もかもすっかり呑みこんでしまった。そればかりか、わざわざ秤にかけたり、物指ではかってみたりするまでもなく、ちょっと品質を見ただけで、羅紗なり他の織物なりが何ヤールあるかということを一目で見抜いたり、小包みを手に持って見ただけで、即座にその目方が何百匁あるかを言いあてたりすることが出来た。旅客の持物を検査する段になると、他ならぬ彼の同僚の言い草ではないが、まったく犬のようによく鼻がきいたもので、彼が釦の一つ一つまでを、一々手でさわって行く根気のよさには、まったく驚嘆の他はなかったが、しかも彼は、冷静石の如き落着きと、殆んど信じられないような慇懃な態度でそれをやってのけたのである。身体検査をされている当人がむかっ腹を立て、堪忍袋の緒を切らして、この税関吏の、いかにも気持のよさそうな顔をした横っ面をぶんなぐってくれようと、うずうず苛立ってくるような時でも、彼は顔の筋ひとつ動かさず、例の慇懃な態度も失わないで、ただこんな風にいうだけであった。『まことに恐縮ですが、ちょっとお立ちになって頂けないでしょうか?』とか、『恐れ入りますが、奥さん、ちょっと隣りの部屋までお越しねがえませんでしょうか? あちらで、ここの官吏の一人の細君が、ちょっとお耳を拝借いたしますから』とか、『失礼ですが、あなたの外套の裏を、ちょっとナイフでほどかせて頂きます』とか。そう言いながら、彼はそこから肩掛ショールだの、ハンカチだのを、まるで自分の旅行鞄トランクからでも取り出すように無頓着に曳っぱり出したものである。上官連ですら、あいつは悪魔だ、人間じゃないと評したほどで、馬車の輪からも、轅からも、馬の耳からも、そのほか、そんなところに物が隠してあろうとは、作者などにはとても考えもつかない、つまり税関役人だけが眼をつけるようなところからいろんなものを探し出したものである。だから、国境を越えた哀れな旅人たちは、暫らくのあいだは茫然自失の体で、全身にかいた冷汗を拭き拭き十字を切りながら、ただ『えい、何てこった!』と呟やくばかりであった。その有様は、教師から何か訓戒を受けるために秘密室へ呼びこまれた生徒が、訓戒どころか全く思いもかけぬ、こっぴどい打擲を受けて、そこから飛び出して来るのにさも似ていた。暫らくのあいだは、彼のために密輸業者どもは戦々兢々として生きた空もない有様であった。これはポーランドに住む全ユダヤ人にとっての大恐慌であり、絶望であった。彼の公正と廉潔とにはまるで手の施しようがなく、それは殆んど不自然に思われるほどであった。彼は、いろんな没収した貨物をごまかしたり、押収はしたものの、却って手続きが面倒だというので国庫へは収めない細々こまごました品物などを着服して、ケチな資本を拵らえるというようなことさえしなかった。これほど熱心で無慾恬淡な勤務ぶりが、一般的な驚嘆の的とならずにいる筈はなく、しまいにはそれが長官の耳に入らぬ訳はなかった。で、然るべき官等を授かり、地位も一級あがったが、すると彼は、密輸業者を一網打尽に検挙する案を提出して、その実行方法を自分に一任して貰いたいと願い出た。彼は直ちにその指揮権と、あらゆる探索をする無制限の権力を委託された。これこそ予て彼が望んでいたところであった。ちょうどその頃、極めて正確な方法で、実にうまく考えた、密輸業者の有力な団体が組織されていた。その大胆な計画が図にあたれば、何百万ルーブリという利益のある見込みがついていた。彼はもう疾っくにその情報を手に入れており、剰つさえ自分を買収するために派遣されて来た使者に、『まだその時期でない』と耳打ちをして、拒絶したほどであった。が、いよいよ例の命令を受けると、彼はすぐさま、『さあ、今こそ時だ』と密輸団に知らせた。この計算には一分の狂いもなかった。今こそ彼は、二十年の精励恪勤によっても得られないほどのものを、たった一年で手に入れることが出来るのだ。前に彼がそんな手合いと容易に関係を取り結ぼうとしなかったのは、どうせ詰まらない手先に使われるだけで、大して金になる見込みがなかったからである。が、今は……今は事情が全然別で、どんな好き勝手な条件でも持ち出すことが出来るのである。なるべく支障のないように事を運ぶため、彼は自分の同僚の、もう一人の役人を抱きこんだ。その男はもうこうべに霜をいただく年配であったにも拘らず、その誘惑を退けることが出来なかった。約定が取り結ばれると、密輸入団はいよいよ活動に移った。活動は華々しく開始された。恐らく読者諸君は、スペインから緬羊を移入するように見せかけて何度も行われた、あの巧妙きわまる密輸入の話を聞いておられるに違いないが、その緬羊どもは二重に毛皮を著せられて、毛皮の下には何百万ルーブリという価格にのぼる*9ブラバントのレースが匿されていたのである。それが丁度チチコフの税関に勤めていた頃の出来事であった。もしチチコフがこの計画に加わっていなかったなら、世界じゅう何処のユダヤ人にも、こんな芸当がうまうまとやってのけられる筈はなかった。こうして三四囘、緬羊の群れに国境を越えさせると、二人の役人の懐ろには、おのおの四十万ルーブリからの金がころがりこんでいた。それどころか、チチコフの方は一層大胆であっただけに、恐らく五十万ルーブリを越えていたろうという評判であった。で、もしも或る不吉なけものが道を横切るようなことさえなかったなら、この素敵もない金額はどこまで殖えて行くとも見当がつかなかった。ところが魔がさしたとでもいうか、二人の役人は、つい前後の考えもなく、有体にいえば、つまらないことから赫っと逆上して、仲違いをしてしまったのである。二人が何か夢中で議論をしていた際に、それも、少しは酒の勢いがまじっていたかも知れないが、チチコフは相手の役人を、なんだ坊主の伜めと罵った。ところが、相手は事実坊主の子であったにも拘らず、どういう訳か、恐ろしくかんかんになって腹を立て、即座に噛みつくような烈しい調子で、こんな風に言い返したのである。『なに、嘘をつけ! おれは苟しくも五等官で、坊主の伜なんかじゃないぞ! そういう貴様こそ、まさしく坊主の小伜だ!』そして、いよいよ相手をやっつけてやろうものと、逆捩をくわせるように、『どうだ、それみたことか!』とつけ加えた。彼はこんな風に体をかわして、先方から吹っかけてきた悪口を逆に相手へ投げ返したばかりか、『どうだ、それみたことか!』などと、ずいぶん人を喰ったことを言ったにも拘らず、それでもまだ足りないで、相手を秘かにその筋へ密告したのである。だがこの二人は、何でも税関吏たちの言い草では、そんなこととは別に、まるで瑞々しい蕪のように新鮮で、ピチピチした一人の若い女を張りあって、喧嘩をしていたということで、いつか闇夜に暗い横町かどこかで我等の主人公を闇討にするため、数人の男が買収されているという噂さえあったくらいだ。が、二人の役人が啀みあっている間に、その女は二等大尉のシャムシャリョーフとかいう男にまんまと弄ばれていたという話である。果して真相がどうであったか、それは神より他に知る者がない。もし物好きな読者があったら、一つお好きなように筋を立てて戴きたいものだ。何より肝要なことは密輸業者との秘密な関係がばれてしまったことである。五等官は自分も身を滅ぼしたけれど、とにかく相棒を暗いところへちこんでしまった訳だ。二人の役人はその筋に逮捕されて、あらゆる財産は差押えられ、残らず没収されてしまった――すべてが、あッという暇もなく、晴天の霹靂のように二人の頭上へ襲いかかったのである。悪夢からでも覚めたように我れに返ると、飛んでもないヘマをやったことに気がついて、二人は愕然とした。五等官は運命に抗すること能わず、何処か辺陬の地へ左遷されて、あたら一生を棒に振ってしまった。が、六等官は飽くまで運命に反抗した。彼は検証にやって来た長官の鋭い眼をかすめて、金子かねの一部を巧みに隠匿しとおせた。彼はもうどこまでも経験をつんで、裏の裏まで世間を知っている人間の、あらゆる微妙な、変転自在な手練手管を駆使した――或る時は如才のない態度で効果をあげ、或る時は感動的な言葉でホロリとさせ、また或る時は、どんな場合にも決して事をぶちこわすことのない阿諛で煙に巻き、或る時はそっと袖の下を使った――一口にいえば、免職にはなっても、例の相棒みたいな不体裁な羽目に陥らないだけの工作を施して、刑事裁判をまんまと免れたのである。だが、もはや彼には、あの莫大な金も、いろんな外国製の雑貨も、何一つとして残されていなかった――そういうものは、それぞれみんな他に愛好者を見つけてしまったのだ。彼の手許には、どじを踏んだ時の用心にもと隠しておいた僅々一万ルーブリの金と、オランダ製のシャツが二ダースばかりと、よく独身者が乗りまわすような例の小型の半蓋馬車ブリーチカと、二人の農奴――馭者のセリファンに従僕のペトゥルーシカ――とが残っているだけであった。それに税関役人が親切に残しておいてくれた、頬の肌理きめをよくするための石鹸が五つ六つ――それだけで一切合切だった。こんな訳で、又しても我等の主人公は惨めな逆境に身をさらしたのである! 怖ろしい災厄の海嘯つなみが彼の頭上にどっと押し寄せたのである! これこそ彼が、勤務中にも正義のために苦しんだと称するところのものである。今や、このような暴風あらしや、試煉や、運命の有為転変や、人生の悲哀に責め苛まれた後では、手許に残った虎の子の一万ルーブリを後生大事に、どこか平和な田舎町へでもすっこんで、明け暮れ更紗の寛衣へやぎにくるまって、建の低い家の窓際に坐りながら、日曜ごとに窓さきでおっ始められる百姓どもの喧嘩を取り裁くとか、新鮮な空気を吸うために、ちょっと※(「奚+隹」、第3水準1-93-66)舎へ出かけて、スープにする牝鶏を手づから触ってみたりしながら、彼がそんな風にして極めて静穏な、しかしながら、それはそれで必らずしも無用でない半生を送ることになるだろうと推測されないものでもない。が、事実はまるで正反対であった。ここで彼の不撓不屈の性格を正当に見なおす必要がある。人間一匹を台無しにしてしまわないまでも、その情熱を冷まして、すっかり骨抜きにしてしまうには十分な目にあいながらも、チチコフの身内に燃えている不思議な情熱の火は決して消えなかった。彼は悲しみもした、怒りもした。全世界に対して不平不満も漏らした。運命の不公平に立腹もすれば、人間の不公平に憤慨もした。しかも尚、新らしい画策を棄てることが出来なかったのだ。一言にしていえば、彼は極度の忍耐を示したのである。それに較べては、あのドイツ人のしぶとい我慢づよさなどは物の数ではなかった。ドイツ人の我慢づよいのは、ただ血の環りが遅々としてのろくさいことに起因している。それに反してチチコフの方は、血の環りがよすぎて、それが奔放自在に跳ねあがり飛びまわろうとするのを、適当に制御してゆくには、思慮に富んだ意志の力がかなりに必要であったのである。彼はとつおいつ考えた。その考えにも成程もっともな点がない訳でもなかった。※(始め二重括弧、1-2-54)おれはどうしてこんなことになったのだ? どうしておれにばかり災難が降りかかって来たのだ? 今どき誰が後生大事に役目のことばかり考えている奴があろう?――どいつもこいつもみんな自分の懐ろばかりこやしているじゃないか。おれは誰ひとり他人を不幸にした覚えがない。寡婦ごけのものをふんだくったこともなければ、人を破産させたこともない。おれはただ有り余った上のおあまりを頂戴しただけのことだ。みんなが取るような場合に限って取ったまでのことだ。おれが着服しなければ、きっと他の奴が着服したにきまっているのだ。他の奴らが富み栄えているのに、どうしておればかり蛆虫のように滅びなければならないのだ? いったい今のおれのざまはなんだ? この有様で何の役に立つというのだ? どの面さげて、ちゃんとした一家の父に顔が合わされよう? 今のおれはただこの世の場ふさげに過ぎないと知って、どうして良心の苛責を感じないでいられよう? 後になって、おれの子供たちは何というだろう? 屹度、『見よ、うちの親父は犬畜生も同然で、財産らしいもの一つ残して行かなかったじゃないか!』と言うにきまっている。※(終わり二重括弧、1-2-55)
 チチコフが自分の子孫のことをひどく心に懸けていたことは、すでに周知の事実である。これはまったく感慨無量な対象である! 誰にしてもこの、『子供たちが何というだろう?』という疑問が、どういう訳とも知れず、ひょいと頭に浮かんで来るようなことさえなかったならば、まさか、こうまで浅ましい真似はしないだろう。で、今やこの未来のとおおやは、恰かも用心深い猫が、どこかから主人が見ておりはせぬかと、片方の眼であたりに注意をはらいながら、石鹸でござれ、蝋燭でござれ、獣脂でござれ、金糸鳥カナリヤでござれ、手近にさえあれば、何でも大急ぎで掻っぱらってゆくように――つまり、何一つ見逃そうとはしなかったのである。我等の主人公は、このように不平をいったり、涙を流したりはしたけれど、そのあいだも、彼の頭脳は決して活動をやめることなく、捲土重来の意気に燃えながら、ひたすら計画の熟するのを待ち侘びていた。そこで彼は、又しても小さくなって苦しい生活に堪え、あらゆる慾望をおさえて、身綺麗でお上品な地位から、再び卑しい下等社会の泥沼に身をおとしたのである。そのうちには良い芽が出るだろうと思いながら、彼は甘んじて代弁人の職に就いた。これはまだ我が国では、まともな人間扱いも受けていない職業で、どこへ行っても爪弾きをされ、下っ端役人は愚か、当の依頼人からまで馬鹿にされて、いつもペコペコと玄関側に匍いつくばって、人にこき使われるものと相場がきまっていた。が、窮乏の前には背に腹はかえられなかったのである。依頼を受けたいろんな事件の中に一つこういうのがあった。それは数百人の農奴を抵当に、貴族保護局から金を借りる手続をしてくれという依頼であった。その依頼者の財政は紊乱の極に達していた。家畜が瘟疫で全滅したり、管理人が大の山師だったり、兇作がつづいたり、疫病が流行して優良な百姓がバタバタと死んで行ったり、就中、当の地主が無分別で、モスクワの別邸をば最新の流行様式に飾りたて、その調度に有金を一文のこらずかけてしまったりしたため、果てはもう日々の糧にも事を欠くという事態に立ちいたったのである。それがために、とうとう、最後に残った農奴まで抵当に入れなければならない羽目になったのである。ところが、そんなものを抵当に、国庫から金を借り出すなどということは、その頃はまだ珍らしいことであっただけに、借りる方でも聊かおっかなびっくりの為体ていたらくであった。で、チチコフは代弁人として、先ず予めその筋の役人を巧く手懐けた。(周知のように前もって役人を手懐けておかないことには、ちょっとした問合せや照会だって、なかなか受附けてくれるものではない。たとえマデーラの一本ずつでも、みんなにふるまってからでなければ駄目である。――そこで彼は、役人連を然るべく手懐けておいて、さて徐ろに、実は抵当に入れる農奴の半数はすでに死んでいますが、と事情を打ち明けて、後で何か面倒なことが起こりはしないでしょうかと、恐る恐る伺いを立てた……。『しかし、人口調査簿には載っているんだろう?』と、書記が言った。『そりゃ載っていますよ』と、チチコフは答えた。『ふん、それなら何もびくびくすることはないさ!』と、書記が言った。『一人死ねば、一人うまれる、それで結局いけいけだ。』このように書記は、うまく語呂を合わせるように言ったものだ。が、同時に我等の主人公の頭に、人間がこれまで思いついたこともないような、素晴らしい天来の思想が閃めいたのである。※(始め二重括弧、1-2-54)ちぇっ、俺はなんという頓馬だ!※(終わり二重括弧、1-2-55)と彼は肚の中で呟やいた。※(始め二重括弧、1-2-54)一生懸命さがしていた手套が、ちゃんと帯にはさんであったという訳じゃないか! そうだ、こういう死んだ農奴でまた農奴名簿から削ってない奴を、おれが買い占めて、仮に千人も手に入れてみろ、そいつを貴族保護局へ抵当に入れたら、一人あたり二百ルーブリは貸してくれる、そうすれば二十万ルーブリという大金にありつけようってものだ! それに、今は絶好の時機だ――つい先頃、伝染病がはやって、有難いことに、だいぶ百姓が死んでいる。地主どもは地主どもで、骨牌に負けたり、放蕩に耽ったりで、いい加減左前になり、どいつもこいつも勤め口でもないかと、のこのこペテルブルグへ出かけて、領地などは放ったらかしで管理は出鱈目ときているから、租税を納めるのも年々苦しくなるばかりだ。してみれば、誰だって、人頭税を払いたくないだけにでも、そんなものは二つ返辞で譲ってくれるだろう。旨くゆけば、これでまた一儲け出来るかもしれないぞ。尤も、なかなか難かしい芸当で、いろいろと面倒でもあろうし、その上、こんなことから万一へんな評判でも立っては、それこそお仕舞いだ。だが、それならそれで人間は天から智慧才覚を授けられているのだ。ところで、何より都合のいいことは、これが他人にはちょっと思いもよらぬ代物で、誰ひとり真面目にとる奴のないことだ。尤も、土地がなくては農奴を買うことも、抵当に入れることも出来ない訳だ。それならおれは、移民の目的で農奴を買うことにするんだ、移民という名目で。今でもクリミヤ地方かヘルソン県あたりなら、農奴を移住させるとさえ言えば、土地はいくらでも無償で払い下げてくれる。そこへみんな移住させるんだ! ヘルソン県へ! 一件の農奴たちはそこに住まわせておく訳さ! そして移民の手続きは、ちゃんと正式に、合法的に踏むことが出来るのだ。もし、本当に百姓たちがいるかどうかを検査すると言いだしたって、なあに、それも一向かまわないさ、どうしてそれを拒むもんか! おれは、警察署長が自分の手でちゃんと署名した証明書だって見せてやるさ。村の名はチチコフ村とでもするかな、それとも、おれの洗礼名をとって、パウロフスコエ村とでもしておくか。※(終わり二重括弧、1-2-55)こんな風にして我等の主人公の頭に、あの奇怪な計画が組み立てられたのである。それに対して、読者が彼に感謝の念を抱かれるかどうか、それは与り知るところでないが、作者自身は、とても筆紙に尽されないくらい、それを有難く思っているのである。それはなんと言っても、もしチチコフの頭にこういう考えが浮ばなかったなら、決してこの叙事詩も世に出る運命を担わなかったからである。
 ロシア人の流儀で胸に十字を切って、彼はいよいよ実行に取りかかった。そこで先ず、永住地を捜しているように見せかけたり、その他いろんな口実をかまえて、彼は我が帝国の所々方々を視察してまわることにした。殊に凶作とか、悪疫とか、その他さまざまな災厄を蒙って、他よりも一層疲弊しているような地方、つまり、死んだ農奴をなるべく容易らくに、なるべく安く買い取ることの出来そうな地方ばかり捜しまわったのである。彼はどんな地主にでも、行き当りばったりに話を持ちかけるというようなことはしないで、なるべく自分の嗜好に適した人物、つまり、こういう取引を、何の故障もなく、すらすらと運ぶことの出来そうな相手を選んで、先ず近づきになると、出来るだけうまく取り入って、死んだ農奴などは、商取引というよりは寧ろ好意ずくで、ただでも譲ってくれるように持ちかけたものである。だから読者は、これまでに登場した人物がどうも自分の趣味に合わないからといって、作者をどうか責めないで戴きたい。それはチチコフのせいなんで。ここでは飽くまでチチコフが主人公だから、彼が行こうと言えば、どこへでも随いて行くより他はないのである。また、登場人物の外観に生気がないとか、性格がみすぼらしいからという非難に対しては、作者としてはただ、広大な事件の全貌なり発展なりが、そう初めから、すっかり分るものではないとお答えするより他はない。どんな大都会へ乗りこんで行っても、それがたとえ一国の首府であっても、最初は必らず何となく殺風景なものである。初めのうちは何もかもが平凡で、単調なものだ。まず、煤煙によごれた工場が涯しもなくつづいて、それからようやく六階建の家の角が見えだし、商店や看板が見えだして、やがて都会らしい輝やきと、喧々囂々たるどよめきと、いみじくも人間の頭と手とで作り出されたありとあらゆる物象につつまれた、鐘楼や、柱廊や、銅像や、塔だらけの、壮大な街路の展望がひらけるのである。チチコフの最初の農奴買入れがどんな具合に行われたかは、すでに読者諸子の御覧になったとおりであるが、さてこれから先き問題がどう発展して、我等の主人公が如何なる成功や失敗を繰り返すか、更に困難な障害にぶつかって、彼がどうしてそれを解決し、克服して行くか、又どんなに偉大な人物が次々に登上して、秘められたこの厖大な物語の枢軸がどう※(「廴+囘」、第4水準2-12-11)転して、そのスケールがどんなに広く展開して、全篇が荘厳な抒情的進展を見せるか――それはやがて追々に分って戴けることと思う。この中年の紳士と、独身者がよく乗りまわす半蓋馬車ブリーチカと、従僕のペトゥルーシカと、馭者のセリファンと、それから既に読者諸子が名前まで御存じの、『議員』から、あの狡い連銭葦毛に至るまでの三頭の馬とから成る旅行者の一団の前には、まだまだ、長い道中が横たわっている。さて、これが我等の主人公のありのままの姿である! しかし、詮ずるところ倫理的資質に於いて彼が如何なる人物であるか? それを一口に断定しろという声がかかるかも知れない。彼が十全の徳を具えた聖人でも君子でもないことは、すでに明白である。では、いったい何者なのか? 厚顔無恥な破廉恥漢だとでもいうのか? それでは何が故に破廉恥漢なのだ? 何が故にそうまで他人を苛烈に取扱わねばならないのだ? 今日の我が国には、厚顔無恥というほどの破廉恥漢は見当らない。みんな心懸けのいい、愉快な人々ばかりだ、満座の中で頬桁をひっぱたかれるような公然の屈辱にも、恬として恥じないほどの人間は、捜し出してもせいぜい二三人ぐらいしかいない。しかもそういう連中までが、今では、どうのこうのと徳操を論じあっている始末である。我等の主人公は『敏腕家やりて』の『取込み家』とでもいっておけば、まあ穏やかであろう。やたらに取込むこと――これがすべての悪因となり、そこからして、世間で余りかんばしく言わないようなことも仕でかされるのである。成程こういった性格には、どこか人を反撥するようなところがあるから、日常生活ではそういう人物とも水魚の交わりを結び、結構面白おかしく時を過ごしているような読者でも、一旦それが劇や詩の主人公となって登場すると、忽ち白眼を向けるのである。だが、どんな性格をも軽蔑することなく、じっとそれに観察眼をそそいで、裏の裏までそれを吟味検討することの出来る人は賢明である。人間の内心は実に変幻常なきもので、ちょっとうっかりしていると、いつの間にかもう怖ろしい蛆虫がわいて、そいつが忽ち人間の生命いのち液汁みずを遠慮会釈なく吸い取ってしまう。また屡※(二の字点、1-2-22)、大きな情慾ばかりか、何かつまらないものに対するけちな慾望までが、立派な功績を立てるために生まれた人間の内心に根を伸ばして、神聖な、偉大なる義務を忘却させ、つまらないがらくたを神聖な偉大なるものと思いこませ勝ちである。浜の真砂のように数限りない人慾は、皆それぞれ趣きを異にしており、その高きと卑しきに拘らず、どれも初めの中こそ人の心に従順であるが、やがてそれが人間に対して怖ろしい暴君となるのである。あらゆる情熱の中から、最も優れた情熱を自分のために選び出した人は幸いである。限りなき彼の幸福は時々刻々に倍加して、彼はいよいよ深く、その涯しなき楽園に入り浸ることが出来るのである。しかし、人間の心にまかせぬ情熱というものもある。それは人がこの世に生まれる刹那、彼と共に生まれて来たもので、人間には到底それを振り捨てるだけの力がないのだ。それは最高の指揮者によって操られるもので、その中には、生くる日の限り、絶えず人間に呼びかけて、決して声をひそめることのない何ものかがある。こうした様々な人慾は、地上に於いて偉大なる役目を果すべき運命を担っている。それが暗澹たる形をもって現われようと、或はこの世を喜ばすような明るい現象となって現われようと、それはどちらでも同じことで、いずれも等しく人間には推し量ることの出来ない幸福のために呼び出されるのである。従って、チチコフの内心に巣くうて彼を曳きずりまわしている慾望も、恐らく彼の与り知らぬところのもので、彼の冷酷な存在の中にも、やがては人間を天の叡智の前に膝まずかせ、三拝九拝せしめるような何ものかが潜んでいるのかも知れない。それではどうしてこのような人物が、いま江湖にまみえんとする物語の中へ拉し来られたかという理由も、まだ暫らくは秘密である。だが、こういう人物に御不満でさえあれば、別に気に懸けることはないけれど、どうも、こういうチチコフのような人物がとかく読者に好かれるという確たる信念が胸にあればこそ心苦しいのである。作者がもし、主人公の魂に深く立ち入りもせず、彼が人の眼を晦まして世間に隠しているものを魂の底から曳きずり出しもせず、人間が誰にも打明けない秘密の思想を発き立てもしないで、チチコフをあの市の連中なり、マニーロフその他の手合いなりの眼に映ったと同じような姿に描いたならば、きっと誰にも気に入って、面白い人物だと持て囃されるかもしれない。彼の顔や、その全貌が、いっこう眼の前に生々として浮かびあがって来なくても構わない。その代り、それを読み終っても、読者の魂は何の感動も受けず、すぐに又、あの全ロシアの慰みとなっている骨牌テーブルに向う気にもなれるというものだ。そうだ、我が善良なる読者諸子は、赤裸々な人間の浅ましさなど、余り見たくも思われないだろう。『どうして? 何のために、そんなことをしなければならないのだ?』と、諸君は言われるだろう。『我々はこの実社会に、唾棄すべき愚劣きわまるもののざらにあること位は、ちゃんと心得ているじゃないか? 何もわざわざ見せつけられなくても、そんな糞面白くもないことなら、我々はいやというほど目撃しているのだ。それよりも、何かもっと美しい、心のときめくようなものでも見せて貰いたいねえ。我々は寧ろ自分というものを忘れさせて欲しいんだから!』同じように、『おい、貴様はなんだってうちの財政状態がよくないなんてことを、一々おれに聞かせるんだい?』と、地主は管理人にむかって言うだろう!『そんなことは、わざわざお前に聞かなくっても、おれはちゃんと知っているよ。それより、何かもっと他の話が出来ないものかね、ああ? そんなことは聞きたくもない、どうかそれは忘れさせてくれ――その方が結局おれは仕合わせなんだから。』そして、何とか更生の役にも立つ筈の金が、いろんな憂晴らしのために浪費されてしまうのである。で、若しかすれば素晴らしい方策を生み出す、思いがけない源泉となったかもしれない智慧才覚が、徒らに惰眠を貪っているあいだに、一方では所領が見す見す競売に附せられてしまう――そこで地主は窮迫のあまり、前にはあんなに怖じ恐れていた浅ましい境涯をもいとわず、身を捨てて乞食の群れへと堕ちて行くのである。
 なお、謂ゆる愛国者の側から作者に非難が浴びせられることと思う。この愛国者たちは、ふだんは静かにめいめいの家に引きこもって、まるで愛国とは関係のない仕事に携わり、他人の懐ろで自分の運命を拓りひらきながら、せっせと金をためてござるが、一朝、彼等の考えで何か国辱になると思われるような事態が出来し、痛烈に真実を発きたてるような書物でも現われると――得たり賢しと、まるで自分の巣に蠅がかかったのを見つけた蜘蛛のように、四方八方から飛び出して来て、いきなり喚きたてる。『こんなことを世間へ発表してもいいのか? こんなことをあからさまに書きたててもいいのか? ここに書いてあるのは、みんな我が国のことじゃないか? こんなことをしても構わないというのか? これを見て外国人が何というだろう? 自分のことを悪様にいわれるのを聞いて気持がいいとでもいうのか? 彼等はきっと、我々が痛痒を感じないと思うだろう』と。第一我々にはこういう賢明なお咎めに対し、殊に外国人の思惑についての御懸念に対しては、正直なところ、何とも弁明のしようがないのである。ただ一つ、こういう寓話をもって答えに代えておこう。ロシアのさる片田舎に、二人の男が住んでいた。一人は歴乎とした一家の父で、その名をキーファ・モーキエヴィッチといって、ごく柔和な性質で、一生をのんべんだらりと暮らしてしまった男である。家庭のことには一切かまわず、彼は常日頃心を専ら思索的な方面へ傾注して、自から哲学と称している、次ぎのような問題に、いつも没頭していた。『例えば獣類だが』と、彼は部屋の中をブラブラ歩きまわりながら、呟やくのだった。『獣類というやつはみんな赤裸かで生まれてくる。一体どういう訳で赤裸かなんだろう? どうして鳥類のように卵から孵化しないのだろう? まったく、どうも、その…… 自然ってやつは、深く考えれば考えるほど、さっぱり分らなくなってしまう!』こんな風に、キーファ・モーキエヴィッチは思索に耽っていたのである。しかし、これは別に重要なことではない。もう一人の男は、血をわけた彼の息子で、モーキイ・キーフォヴィッチといった。これは、ロシアで一般に猛者と呼ばれている類いの若者で、父親が獣類の生まれ方について夢中になっている間に、彼の筋骨逞ましい二十歳の肉体は、盛んに羽翼を伸ばしていたのである。ちょっとでもこの男の手にかかったが最後、必らず、誰かが腕を折られるとか、鼻の頭に瘤を作られるとか、決してただでは済まされなかった。家の中でも近所隣りでも、下女下男から飼犬の末にいたるまで、彼の姿を一目見るなり、みんな急いで逃げ出してしまった。彼は自分の寝室にある寝室まで、滅茶々々に敲きこわしてしまったほどである。モーキイ・キーフォヴィッチはそんな風な男ではあったが、根は案外善良であった。しかし、これもさして重要なことではない。『あの、旦那様、キーファ・モーキエヴィッチ様!』と、うちの召使ばかりか、よその下女下男までが、父親に訴えたものである。『若旦那のモーキイ・キーフォヴィッチは何てお方でございましょう! 若旦那のお蔭で、誰ひとり生きた心地もない有様でがすよ。ほんとに乱暴な方ったらありませんから!』――『うん、どうもあいつは腕白でな』こう、父親はいつもそれに答えたものである。『だが、どうも仕様がないよ。今更あいつを折檻するという訳にもいかんからなあ。それだのに、乱暴で困る乱暴で困るといって、わしばかりみんなが責めおるのじゃ。だが、あいつは見栄坊でな、誰か他人のいるところで叱れば屹度おとなしくなるのじゃが、それでは世間に聞こえるから、どうも困りものじゃて! そんな事が町中へ知れようものなら、あれのことを手のつけられん悪たれじゃといって罵るじゃろからなあ。まったく、そんな風に思われては、わしも辛かろうじゃないか? わしだとて父親じゃないか? わしが哲学に身を入れたり、あれやこれやで暇がないからといって、それでわしが父親じゃないとでもいうのかね? いんにゃ、どうしてどうして、わしじゃとて父親じゃよ! 誰がなんと吐かそうが、わしは父親じゃ! モーキイ・キーフォヴィッチは、わしのこの胸の中にちゃんと住まっておるのじゃ!』そう言うとキーファ・モーキエヴィッチは、拳骨を固めてドンと一つ自分の胸を叩いて、すっかり彼は昂奮してしまうのであった。『たとえあれが手のつけられん悪たれであるにもせよ、それをわしから世間へ漏らすようなことは出来んのじゃ、わしはあれを突っぱなすような真似は出来んのじゃ!』彼はこのような父性愛を披瀝して、伜のモーキイ・キーフォヴィッチには相も変らず猛者ぶりを発揮させておいて、自分はまた例のお気に入りの題目にかえって、フイとこんなような問題に頭をひねるのであった。『さあて、象がもし卵で生まれるとしたら、その卵の殻はよっぽど分厚に出来ていることじゃろうな。大砲でだってちぬくことは出来まいて。そうすると、何かもっと新らしい飛道具でも考え出さにゃなるまいなあ。』こんな風に、平和な片田舎に生まれた二人の住人は生涯を送ったのである。が、彼等がこの巻もそろそろ終りに近づいた頃、まるで小窓からでも覗くように、ひょっこりと不意にここへ顔を覗けた訳は、そんじょそこいらの短気な愛国者たちから受ける非難に、やんわりと一矢を酬いんがために他ならない。尤もその愛国者たちも、今のところ、おとなしく何か哲学みたいなものに憂身をやつしたり、彼等が熱愛する祖国の富をちょろまかして私腹をこやしながら、自分たちが不正をはたらいていることは棚にあげて、ひたすら世間から不正をはたらいているようには言われまいと、是努めているのである。しかしながら、その非難の真の理由は、愛国心からでもなければ、前例の父性愛からでもなく、もっと別なものがその下に匿れているのである。別に言葉をにごす必要はない! 作家をおいて、誰が聖なる真理を語る義務を負っていよう? 諸君は物事を深く洞察するまなこを怖れ、自分でも深刻にものを観察することを躊躇して、何事も漫然と表面うわべだけを眺めて喜んでおられるのだ。諸君は肚の底からチチコフを笑われさえするだろう。若しかすると、作者を褒めて、『だが、この男はなかなか味をやるぜ! きっと面白い男に違いないぞ!』などと言われるかもしれない。そんなことを言った後では、いよいよ自信たっぷりになって、得意満面の笑みをたたえながら、『そりゃ、なるほど地方ところによっては、実に変梃な、滑稽きわまる人間もあるもので、それに、破廉恥漢だってざらにあろうさ!』と、附けて加えて言われるだろう。だが、諸君のうち誰か、基督教徒らしい謙譲の念に充たされて、人前ではなく、一人しずかに胸に手をあてて自問自答するような時、『だが、おれの中にも、どこかにチチコフの片鱗がありはしないだろうか?』という、苦い疑問を起こして、それを心に深く刻みつけるような人はないだろうか? ところが、そんな人はありっこないのだ! たまたま、その人の知合いで、大して位が高くもなければ低くもない男が傍らでも、通りすぎると、彼はすぐさま連れの肱を突っついて、抱腹絶倒せんばかりに吹きだしながら、『ほら、見給え、あれはチチコフだよ、チチコフがあすこへやって行くよ!』と言うぐらいが関の山だろう。その上、身分や年齢に適わしい節度も忘れて、まるで子供のように、その跡を追って駈け出しながら、後ろから、からかうように、『やあ、チチコフだ! チチコフだ!』と囃したてることだろう。
 だが我々は、自分の経歴が語られている間じゅう寝こんでいたチチコフが、疾っくに眼を覚まして、自分の名前がやたらに繰り返されるのを、若しかするともう耳にとめているかも知れないことも忘れて、うっかり大きな声で喋り立てていた。彼は短気な男で、自分のことを少しでもぞんざいに言われると、すぐ腹を立てるのだ。チチコフが腹を立てようと立てまいと、読者にはいっこう痛くも痒くもなかろうけれど、作者としては、どんなことがあっても、自分の主人公と喧嘩をしてはならないのだ。まだまだこれから先き長いこと、二人は互いに手に手を取りあって旅をしなければならないから。10後続の厖大な二篇――こいつが生やさしいものではないのだ。
「おい、こら! どうしたんだ、貴様は?」と、チチコフはセリファンに向って言った。「ああん?……」
「なんでがすかね?」とセリファンが、間伸びのした声で言った。
「なんでがすかもないもんだ! この獄道めが! なんちゅう走らせ方をしているんだ? さあ、もっとピシピシ鞭をくれろっ!」
 それもその筈で、セリファンはもうかなり前から、うつらうつらと半眼をとじながら、これもまた半ば居眠りをしながら足を運んでいる馬どもの側腹へ、夢うつつで時たま手綱をしゃくるようにするだけで、のろのろと馬車を走らせていたのである。ペトゥルーシカは又ペトゥルーシカで、いつの間にやら帽子も何処かでおっ落してしまい、後ろへふんぞり返ったまま、頭をチチコフの膝のあいだへ割りこませて来た。だからチチコフは、その横っ面をひっぱたいてくれなければならなかった。セリファンは、ようやく正気に返ると、例の連銭葦毛の背中に、ピシピシと三つ四つ鞭をくれた。するとそいつは急に※(「足へん+鉋のつくり」、第3水準1-92-34)足で駈けだした。それでみんなの馬の上で鞭を振りまわしながら、甲高い歌うような声で、『びくつくこたあねえぞう!』と喚いた。馬どもは元気づいて半蓋馬車ブリーチカを軽々と曳きながら一散に駈けだした。セリファンはただもう鞭を振りまわして、『ハイよう! ハイ! ハイ!』と喚きつづけるばかりで、三頭馬車トロイカが、やや降り勾配に走っている街道の、そこここにやたらにある坂を、ガラガラと駈けあがったり、一気に駈けおりたりするたんびに、馭者台の上でゆらりゆらりと身を躍らせるのであった。チチコフは革のクッションの上で軽く揺れながら、ただニコニコと微笑わらっていた。彼も矢のように馬を飛ばせることが好きだったからである。いったいロシア人に滅茶苦茶な疾駆の嫌いな者があるだろうか? 浮いた浮いたの放蕩が三度の飯よりも好きで、なんかといえば、『えい糞、どうにでもなれっ!』と不貞くされがちな露助の気性に、どうしてそれが好かれずにいるものか! 何かしら恍惚うっとりするような不思議な魅力がひそんでいるのに、どうしてそれを好かずにおられよう? 恰かも眼に見えぬ力の翼にでも乗せられたように、自分も走れば、森羅万象も走る――里程標が走れば、幌馬車の馭者台に乗った行きずりの商人も飛びすぎて行く。樅や松の鬱葱と茂った両側の森が、斧の音や鴉の鳴声とともに飛びすぎて行けば、どこまで続くとも涯しれぬ街道も、後へ後へと飛んで行く。殆んど応接に暇もなく、森羅万象が次々と飛び去って、じっとして動かないものといえば、ただ頭の上の空と、ふんわり浮かんだ雲と、雲間から覗く月の他にはないような、この目まぐるしい推移の中には、何か怖るべきものが潜んでいる。おお、三頭馬車トロイカよ、鳥のような三頭馬車トロイカよ! いったい誰がお前を発明したのだ? 明らかにお前は、ひとり溌剌たる国民のあいだにのみ――この眇茫坦々として世界の半ばにまでまたがり、一々里程標など数えていたら眼がかすんでしまいそうな、冗談半分なことが嫌いな、国にのみ、生まれ出ずる運命を担っていたのに違いない。しかもお前は、鉄の螺釘などを使った複雑な交通機関ではなく、11ヤロスラーウリの器用な百姓が、一梃の斧と鑿とでカンカンと手早く、間に合わせに作りあげただけに過ぎないのだ。馭者も、ドイツ製の長靴などをはいた奴ではなく、蓬々と顎鬚をはやして、百姓手袋をはめただけで、なんとも訳の分らない物を尻に敷いているが、そいつが腰を浮かして、鞭を振り振り、歌をうたいだすと――馬は疾風のように駈けだして、車のは消えて、まるで一枚の円板のようになってしまう、道がぐらぐらっと震動し、徒歩の人がおっ魂消て、アッと叫び声をあげたかと思うと――もう三頭馬車トロイカは矢のように、ずんずん先きへ駈け去ってしまうのだ!……。そら、もう遠くの方に、何か埃を立てて、空気を劈いてゆくものが見えるだけである。
 ああ、ロシアよ、お前もあの、どうしても追いつくことの出来ない三頭馬車トロイカのように、ずんずん走って行くのではないか? お前の駈けて行く道からは煙のように埃がまいあがり、橋がとどろき、何もかもが後へ後へと取り残されてゆく! まのあたりに、この不思議な神業を目撃した人は、これは天から閃めいた稲妻ではないかと、茫然として立ち竦んでしまう。この恐怖をもたらすような活動は、いったい何を意味しているのか? この、まだ世に知られぬ馬たちには、どんな不思議な力が宿っているのか? おお、馬よ、馬よ、――なんという素晴らしい馬たちだ! お前たちのたてがみには、嵐が宿っているのか? お前たちの全身は敏感に聴耳をたてているのか? 天上からの懐かしい歌声を聞きつけると、お前たちはさっと一斉にあかがねの胸を張って、殆んど蹄も地に触れないで、空気を切って飛ぶ一本の直線と化し、神意を体して驀進する!……ロシアよ、お前は一体どこへ飛んで行くのか? 聴かせてくれ。だが答えはない。リンリンという妙なる鈴の音が鳴りわたり、きれぎれに千切れた空気が轟々とはためいて風になる。ロシアは地上のありとあらゆるものを追い越して飛んで行く。横目でそれを眺めながら、諸々の他の国民と国家とは傍らへ寄って彼女に道を譲るのである。
*1 グルジヤ毛氈 裏コーカサスの一地方、グルジヤで出来る毛氈。
*2 遠くこの妙なる麗わしの国から これはイタリアのことで、ゴーゴリは一八四〇年の秋から翌年の夏までローマに落ちついて『死せる魂』第一部の仕上げに従事していたのである。
*3 ソロン 紀元前六世紀から七世紀にかけてアテネに住んでいた有名な立法家で、ギリシアの七賢人の一人。
*4 クルイロフ イワン・アンドレーヴィッチ(1768-1844)有名な寓話作家。初めオペラや悲劇喜劇等の劇作をしていたが、後寓話を書くに及んで揺ぎなき一家をなし、凡そ三百二十余篇の寓話を残した。
*5 バッカスに贄を捧げる バッカスはギリシア神話の酒の神であるから、それに贄を捧げるといえば、酒宴を催して浮かれ騒ぐこと。
*6 ホワンスキイ公爵 アレクサンドル・ニコラーエヴィッチ(1771-1857)ロシアの帝国紙幣銀行の総裁で、元老院議官たりし人。当時、帝国紙幣にはこの人の署名が印刷されていたため、帝国紙幣を『ホワンスキイ公爵の署名のある紹介状』といったのである。
*7 赤紙幣 十ルーブリ紙幣のこと。
*8 少年兵カントニスト 兵士の息子で、生まれるとから[#「生まれるとから」はママ]軍籍に編入され、少年兵学校に於いて軍隊教育を施されていたもの。一八五六年以後廃止された。
*9 ブラバント ベルギーとオランダにまたがる一地方。レースの産地として有名なところ。
10 後続の厖大な二篇 『死せる魂』第二部及び第三部のこと。
11 ヤロスラーウリ 大ロシアの中心部に位し、非常に産業の発達した県の名前。同名の首都がある。


第一部完
[#改丁]

補遺


*1第九章の末尾

(改作されたもの)

 あれやこれやと考えに考えた末、一同は、チチコフがいろんな駈引をして、そうした謎の死んだ農奴を買い取った、当の相手の地主たちに、前後の模様を訊き糺してみることにした。検事はソバケーヴィッチのところへ行く役目を仰せつかり、裁判所長は自分から進んで、コローボチカのところへ行く役を買って出た。では我々も彼等の後からついて行って、一体その先々でどんな話が持ちあがるか、一つ見てやることにしよう。

*2第……章


 ソバケーヴィッチは細君と一緒に、盛り場から少し離れたところに宿をとっていた。その宿も、天井の抜けるような心配のない、安心して泊れる家をわざわざ選んだのである。宿の主人はコロトゥイルキンという商人で、これも矢張りがっしりした男であった。ソバケーヴィッチは細君と二人きりだった。子供はつれて来ていなかったのだ。そろそろ退屈になって来たので彼はもう村へ帰ろうと考えていたが、ただ、このまちの三人の町人に、蕪畠として貸しつけてある土地の地代を受取るのと、細君が気紛れに市の仕立屋へ注文した、なんでも近ごろ流行はやりだという綿入れの家庭服の出来てくるのを待っていたのである。彼は安楽椅子に腰かけたまま、そろそろ借地人の横着や細君の気紛れに悪態をつきはじめたが、例によって細君の顔は見ないで、煖炉ペチカの角へ眼をやっていた。ちょうどそこへ検事が入って来たのである。ソバケーヴィッチは『どうぞ』と言って、ちょっと腰を浮かせたが、すぐにまた椅子に腰をおろした。検事はフェオドゥーリヤ・イワーノヴナに近寄って、その手に接吻すると、やはり椅子に腰をおろした。フェオドゥーリヤ・イワーノヴナは自分の手に接吻をうけると、これもまた同じく椅子に腰をおろした。三人が腰をおろした椅子は、いずれも緑色の油性塗料をぬって、その四隅には下手な壺の絵が描いてあった。
「実は、ちょっと御相談いたしたいことがありましてね。」と、検事が言った。
「じゃあ、お前、自分の部屋へ行っていな! おおかた仕立女してたやが来て待ってるじゃろから。」
 フェオドゥーリヤは自分の部屋へと引き退った。
 そこで検事は、『一つお訊ねしますが、あなたがあのパーウェル・イワーノヴィッチ・チチコフにお売りになったのは、どんな農奴なんですか?』と、いった具合に口を切った。
「どんな農奴ってね?」と、ソバケーヴィッチが言った。「そのことなら、登記書類さえ見りゃ分りまさあね。あれには、これこれの農奴と、ちゃんと書いてありますからね。一人は馬車大工の……。」
「ところが、まちでは、」と、検事は少し言い淀みながら、「市では、いろんな噂がたっていましてね……。」
「市には馬鹿が多うがすからね、そりゃ、いろんな噂もたちましょうわい。」とソバケーヴィッチは、平気な顔で言った。
「ところがミハイル・セミョーノヴィッチ、それがまた奇怪きっかい千万な噂でしてな、チチコフの買いこむ農奴というのは、決してあたりまえの農奴ではなく、また移住させる目的なんてことも出鱈目で、第一チチコフという男そのものがまったく謎の人物だ、どうも疑わしい点がある……そういった取沙汰で市じゅうが大騒ぎをしていますんで……。」
「そういっちゃあなんだが、あんたは女子おなごでごわすかい、ええ?」とソバケーヴィッチが訊いた。
 この質問には検事も面喰らった。彼はついぞ一度も、自分が女子おなご女子おなごでないかなどという疑問を起こしたことがなかったのである。
「あんたものこのこと、そんな馬鹿なことを訊きにやって来るなんて、よくも極りが悪くごわせんなあ。」と、ソバケーヴィッチが言った。
 検事はかれこれ弁解しようとした。
「そんな位なら、いっそ、晩になると妖女ウェージマの話ばかりしている糸紡女いとひきおんなのところへでも行ったらどうです。もう少し気のきいた話も出来ないっていうのなら、小さな子供と一緒にバブカ遊びでもやったがようがすぜ。実際、どうして又あんたは、歴乎とした男子をまごつかせになどやって来なすったのです? 一体わしがあんたにゃどう見えますい、そんなことを言って笑いものにでもなさる気かね? 碌に自分の職務も、きちんきちんとは果さないでさ。つまり、何とかして祖国に尽し、隣人の利益ためをはかり、しかも友達を助けることも怠らないという――そういう風なことはちっとも考えないで、ただもう、人を押しのけよう押しのけようとしておいでなさるだ。馬鹿者どもが尻押しをすれば、どこへでも、のこのこやって行きなさるだ。そんなことでは、今につまらないことで身をしくじって、後々まで碌なことは言われないような始末にならんとも限りませんぜ。」
 この思いがけないお説教に対して、検事は何と答えていいのか、さっぱり見当がつかなかった。さんざん脂をしぼられた彼は、すっかりしょげ返ってソバケーヴィッチの許を辞したが、ソバケーヴィッチはその後ろ姿に向って、『とっとと出て失せやがれ、犬め!』と、棄て科白を投げつけたものである。
 ちょうどそこへフェオドゥーリヤが入って来て、『おや、どうして検事さんはこんなに早くお帰りになったの?』と言った。
「気が咎めて、いたたまれなかったのだよ。」と、ソバケーヴィッチが言った。「な、お前にもあれがいい見せしめだぞ。もういいかげんの年寄りで、頭髪かみのけも真白になってる癖にさ、あいつが今だに、他人の女房をつけまわしていることを、おれはちゃんと知っておる。あいつだけじゃない、どいつもこいつもそうなんだ。みんな犬畜生みたいな奴ばかりだよ。ただのらくらと娑婆塞げをしているだけでは足りないで、そういう馬鹿な真似までしてやあがるんだからな、どいつもこいつも、ひとつ袋へ叩きこんで、水ん中へでも沈めてしまった方がいいだ! 市じゅうが、まるで盗賊の巣窟だからな。もうこんなところに、何もぐずぐずしているこたあねえだ、さあ、帰ろう帰ろう!」
 細君は、家庭服がまだ縫いあがって来ないし、それに、祭日につける頭巾帽の飾りリボンかなんかを買わなくてはならないからと言って、抗弁しようとしたが、ソバケーヴィッチは、『そんなものは、お前、みんなくだらない流行はやりもので、どうせお前の身のためになるもんじゃないわさ』と一言の下に撥ねつけてしまった。そして出発の準備を命じておいて、自分は巡査を伴って借地人のところへ出かけて、地代を取り立て、その足で仕立屋へ寄って、まだ出来あがってもいない家庭服を、なあに、村へ帰ってから縫いあげるからと言って、針や糸をとおしたまま、無理矢理に受けとって来ると、こんな市へはちょっと立ち寄るのも劒呑だ、なにしろここは、悪党が悪党に負ぶさっているようなところだから、そういう手合いの巻添えを喰って、どんな罪に落ちこまないにも限らないからと、言い訳をしながら、早々に市を発ってしまった。
 話かわって検事の方は、ソバケーヴィッチのけんもほろろな挨拶にすっかり当が外ずれて、いったい裁判所長にはどう言ってそれを弁解したものかと、途方に暮れてしまった。
 ところが裁判所長の方も、やはり大していい聴きこみをして来た訳ではなかった。第一、弾機附馬車を駆って、恐ろしく濘った狭い横町へ乗り入れたことからして、そもそもがわるく、そのお蔭で道々もずっと、右の車輪が左の車輪よりぐっと高く持ちあがるかと思えば、左の車輪が右の車輪より高く持ちあがるといった為体ていたらくであった。それがために、彼はステッキの頭で顎をいやというほど打ったり、そうかと思うと、今度は後頭部をゴツンとぶっつけたりで……、結局はからだじゅうを泥だらけにしてしまったのである。泥のグチャグチャいう音と豚のゲーゲー啼く声に送られながら、彼は祭司長の家へと乗りつけた。馬車を降りると、てくてくと徒歩でいろんな鶏舎とやの後ろをまわって、ようやく玄関へ辿りついた。ここで彼は、何より先きに手拭を借りて顔の泥をふいた。コローボチカは、チチコフを迎えた時と同じような、憂鬱な顔附で彼を迎えた。彼女は頸に何かフランネルのようなものを巻いていた。部屋の中には無数の蠅がワンワンと舞っていて、何か蠅取り薬を入れた皿が置いてあるけれど、どうやら蠅はもうそんなものには慣れっこになっているらしかった。コロボーチカは彼に椅子をすすめた。
 裁判所長は先ず最初に、自分も貴女の御主人とは以前に知合いであった、などというようなことから話をはじめて、それから不意に話頭を転じて、『是非ひとつお話を承わりたいのですが、お宅へ、なんでも夜よなか、或る男がピストルを持って押し入って、何か曰くのある農奴を譲ってくれ、さもなければ、あなたを殺してしまうと言って脅迫したとかいうのは、ほんとのことなんですか? それから、その男は一体どういう目論見でそんなことをしたのか、一つお聴かせ願うことは出来ないものでしょうか?』と、質問の矢を放った。
「ええ、そりゃあもう、お安い御用でございますとも! まあ、妾の身にもなってみて下さい、お紙幣さつで二十五ルーブリもらったきりでございますよ! ほんとに、妾はなんにも知らないもんですからね。寡婦ごけで、世事にはうとい女のことでございますもの、あんたさん、正直なところ、ちっとも訳の分らない、ああいうことで妾を騙かすのは、そりゃもう朝飯まえのことでござんすよ。麻だったら、妾にでも相場ぐらいは分りますし、脂なんかは三ぞう倍にも売ったことがありますからね……。」
「いや、先ず何よりもう少し詳しく聴かせて下さい、一体どうだったんです? その男はピストルを持ってたんですか?」
「いいえ、お前さま、ピストルなんぞは妾ゃちっとも気がつきませんでしたよ。なにせ妾は寡婦ごけのことで、死んだ農奴が一体どのくらいの相場やら、とんと知らないのでございますよ。なあ、お前さま、どうか、せめてのことに、正真正銘の値段だけでも聴かせておくんなんしょ。」
「何の値段ですかね? 値段って、そりゃ何のことですか、阿母さん? 一体どういう値段ですかね?」
「いいえさ、その死んだ農奴って、今どのくらいするんでございますかね?」
※(始め二重括弧、1-2-54)おやおや、こいつは生まれつきの馬鹿か、それとも、気が変になってるんだな。※(終わり二重括弧、1-2-55)と、裁判所長は相手の顔をまじまじと眺めながら、心に思った。
「どうでしょうねえ、二十五ルーブリぐらいなもんでしょうか? 妾はなんにも知らないもんでございますからね。ひょっとしたら、五十ルーブリもするか、それとももっと高いのじゃないかとも思いましてね。」
「ひとつ、その紙幣さつを見せて下さい。」そう言って所長は、老婆から紙幣を受け取ると、それを明りに透かして、贋造紙幣ではないかと検べてみた。が、紙幣は確かに本物の紙幣だった。
「じゃあね、その男はお宅でどんな風にして買ったんです? いったい何を買ったんですね? どうも私は頭がこんぐらかって……何がなんだか、さっぱり分らないんですが……。」
「買ったには買ったのでございますよ。」とコローボチカが言った。「だけど、お前さま、あんたさんはどうして妾に、死んだ農奴の相場を教えて下さらないのですか? 妾は死んだ農奴のほんとの値段が知りたいのでございますよ。」
「飛んでもない、あなたは一体、何を仰っしゃるんです! どこの国にそんな、死人ほとけさまなんかを売り買いするものがあるもんですか!」
「一体どうしてお前さまは、値段を言いたがりなさらないんですかね?」
「どうして又、値段々々と仰っしゃるんですか? 一体、そんなものにどんな値段があるんです! それよりも一つ、前後の事情を真面目に話して下さい。その男は一体どんな風にしてあなたを嚇かしたんですか? あなたを誑かそうとでもしたんですか?」
「なんの、お前さま、あんたさんとしたことが、ほんとに……。ああ、やっと分りましたよ、じゃあ、お前さまも、やっぱり仲買人なんですね。」そういって、彼女は胡散くさそうに相手の顔をじろじろと見つめた。
「いや、わしは所長ですよ、阿母さん、当地こちらの裁判所の……。」
「いんにゃ、お前さま、そんなことを言いなさっても、その手には乗りませんよ……何のかんのと言って……お前さまも妾を騙かそうと思っていなさるのでしょう。けれど、そんなことをしたって、何になるものですか? お前さまの損じゃありませんか。それよりか鳥の羽根でも買って貰いましょうよ、降誕祭のころになると、うちには鳥の羽根がたまりますからね。」
「阿母さん、わしは裁判所長だと言ってるじゃありませんか。そんな鳥の羽根なんか、わしに何の用があるんです? わしは何にも買やしませんよ。」
「けれど、商売というものは、正直にやるもんでござんすよ。」と、コローボチカは語をついで、「きょう妾がお前さまに売れば、明日はお前さまが妾に売って下さるという塩梅でな。それを何ですね、こんな具合に、お互いに騙かしたり騙かされたりしているなんて、それじゃあ、いったい真実というものは何処にあるのです? それこそ神様に対して申訳のないことじゃありませんかね。」
「阿母さん、わしは仲買人じゃない、裁判所長なんですよ!」
「さあ、どうですかねえ? ひょっとしたら、その所長さんとかを勤めておいでなさるかも知れませんがね、そんなことは妾の知ったことじゃありませんよ。そうじゃありませんか? 妾は寡婦ごけの身ですからね。それに、なんだってお前さまは、そう根掘り葉掘り訊きなさるだね? いんにゃ、妾にはちゃんと分っていますだよ、お前さまもやっぱり……その……あれを買いこもうっていう肚でござんしょう。」
「阿母さん、あんたは医者に診て貰った方がいいですよ。」と裁判所長は、むかっ腹を立てて言った。「あんたは、ここが少し変ですからね……。」そう言って、彼は指で自分の額を叩いて見せた。そしてコロボーチカのところを飛び出してしまった。
 コロボーチカは、あれはてっきり仲買人に違いないと思いこんで、それにしても世間の人々がずいぶん怒りっぽくなったものだと驚き、ますます哀れな寡婦の身を頼りなく思ったものである。裁判所長は馬車の車輪を壊したり、いやな臭いのする泥をあびたりした。おまけにステッキの頭で顎に怪我をしたことを含めて、これが結局、不首尾きわまる遠征によって彼が贏ち得たところの総てであった。自分の家の近くまで来たところで、これもやはり意気銷沈して、首うなだれながら弾機附馬車を駆って戻って来る検事と、ばったり出逢ったのである。
「やあ、ソバケーヴィッチから何か聴きこんで来ましたかね?」
 検事は首うなだれたまま、『いや、生まれてこの方、こんな酷いことを言われたことはありませんよ……』と言った。
「いったい、どうしたんです?」
「さんざんに人をこきおろすんです。」と、検事はさも忌々しそうな様子で答えた。
「どうして?」
「私などは職務上、何の役にも立たないんだそうですよ。そういえば、ついぞ一度も自分の友達を告発したことがありませんからねえ。他処だったら、検事は毎週のように告発をしますがね、私などはどんな書類でも、『調済』と記入して、どしどし通してやるのです。時には、告発をしてもいいような場合でも、ついぞそれを抑留するようなことはしませんでしたからね。」
 検事はいたく悔悟の情に駆られているようであった。
「それで、チチコフのことはどんな風に言ってるんだね?」と裁判所長が訊いた。
「どんな風に言ってるですって? 我々を女子おなごだといったり、馬鹿だと罵りましたよ。」
 裁判所長は考えこんでしまった。丁度その時、弾機附馬車がもう一台やって来た。それには副知事が乗っていた。
「皆さん! 僕は諸君によくよく御用心を願わねばならないことを申し伝えますよ。どうやらほんとに本県へ新らしい地方総督が赴任されるらしいんです。」裁判所長も検事も、あいた口がふさがらない為体ていたらくであった。裁判所長は独言のように、『そりゃ丁度いいところへやって来やがるというものさ! 悪魔でもちょっと味加減を試してみたいような素晴らしいスープが煮えているんだからなあ! この市に持ちあがっている不検束ふしだらは、すぐにばれてしまうだろうて!』と呟やいた。
※(始め二重括弧、1-2-54)泣き面に蜂だ!※(終わり二重括弧、1-2-55)と、いよいよ悲痛な面持で検事は考えた。
「一体その地方総督に任命されたのは誰で、その気風や人柄はどんな人か、あなたは何にも御存じないんですか?」
「まだ一向なにも分らないのです。」と副知事が答えた。
 そこへ今度は郵便局長が弾機附馬車でやって来た。
「やあ、皆さん! いよいよ地方総督が赴任してくるそうですぜ!」
「その話は聞きましたがね、まだはっきりしたことが分らないんです。」と副知事が言った。
「いや、誰かってことまで分っていますよ。」と郵便局長が言った。「アドゥノゾローフスキイ・チェメンチンスキイ公爵っていうんです。」
「それがどんな人だというんですか?」
「それが、あんた、厳格この上なしという人物なんでしてね。」と郵便局長が言った。「おっそろしく眼力が鋭い上に、頑固一点張りの性質ときているんですとさ。なんでも前に、さる大がかりな政府おかみの建築を監督したことがあるそうですがね。その建築に、何か疑獄事件があったそうで。すると、あんた、その関係者一同を滅っ茶苦茶に弾劾して、結局、グーの音も出させなかったといいますからねえ。」
「しかし、何もこの市じゃあ、そんなに手厳しいことをすることはないじゃありませんか。」
「ところが、あんた、役柄はいわゆる検非違使でさ、人物がそういう大がかりな器ときているんではねえ!」と、郵便局長は言葉をつづけた。「なんでも一度、こんなことがあったそうですよ……。」
「いや、それはそうと、」と郵便局長はここで語調を改めて、「我々はこんな街中で、馭者のいる前でベラベラ喋っているんですなあ。まあ、とにかく邸へ帰ることにしましょう。」
 一同は我れに返った。往来にはもう弥次馬がたかって、馬車を四台も停めて頻りに話しあっている役人連を、ぽかんと口をあけたまま、じろじろと眺めていた。役人連が馭者にやれと呶鳴ると、四台の弾機附馬車は、裁判所長の邸をさしてゴロゴロと動きだした。
※(始め二重括弧、1-2-54)それにしても飛んだところへチチコフなんて奴が舞いこんで来やがったものだ※(終わり二重括弧、1-2-55)と、裁判所長は、泥まみれになった外套を玄関でぬぎながら、肚の中で考えた。
「私はまるで頭の中が五里霧中ですよ。」と、検事が外套をぬぎながら言った。
「どうも私には、この一件を詳らかにすることが出来ませんねえ。」と副知事も外套をぬぎすてながら言った。
 郵便局長は無言のままで、外套を投げだした。
 部屋へ入ると、そこにはもうちゃんと前菜が出ていた。県の役人連には必らずこの前菜がつきもので、役人が県下で二人おちあえば、次ぎに顔を出すのは前菜と相場がきまっているのだ。
 裁判所長はテーブルに近づくなり、最も強い苦蓬にがよもぎ入りのウォツカを一杯ついで、『わしは一体全体、あのチチコフという男が何者なのか、ぶち殺されたって分りませんよ』と言った。
「私は尚更ですよ。」と検事が相槌を打った。「こんな訳の分らない難問題には、法理の上でもぶつかったことがありませんからねえ、手をつけるのも気がひける位ですよ……。」
「だが、それでいて人間としては……なかなか洗煉されていますねえ。」と郵便局長が言った。そういいながら彼は、最初にまず黒ずんだウォツカを注ぎ、それに薔薇色のウォツカを混ぜて、いろんなウォツカで混合酒をこしらえながら、「あれは確かにパリ仕込みですよ。ひょっとしたら外交官じゃなかったかと私は思いますがね。」
「やあ、皆さん!」と、ちょうどその時、例の市の恩人であり、商人社会の人気者で、御馳走の手品師である、警察部長が入って来て、声をかけた。「皆さん! チチコフの身許は皆目わかりませんよ。何か、あの男の持っている書類からでも探ってやろうと思いましたが、それも出来ませんでした。どこか加減が悪いとかで、部屋から一歩も外へ出ないんです。それで召使どもを訊問してみましたがね。ペトゥルーシカという下男と、馭者のセリファンって奴なんです。この下男の方は酔っぱらっていましてね、尤も、いつだって素面しらふでいたことはありませんが。」そういいながら、警察部長はウォツカの方へ進み寄って、三種類のウォツカで混合酒をこしらえた。「そのペトゥルーシカのいうことにはですねえ、うちの旦那は申し分のない旦那で、これまでも立派な人たちとばかり交際つきあってきたようだ。たとえばペレクローエフとかなんとか…… とにかく、いろんな地主の名前を沢山あげましたがね。みんな六等官とか五等官とかいう連中ばかりで。馭者のセリファンの方は、『旦那は立派に勤めをはたしただからね、』と言うのです。『みんなから利口な人だと言われておりますだよ。税関にいたこともあるし、何だか政府おかみの普請をやったこともありますだ』ってね。しかし、果してどういう普請に関係したのか、はっきりしたことは知らないんですよ。馬は三頭でしてね、『一頭は三年まえに買っただし、川原毛のやつは、やはり川原毛のやつと交換とりかえたのでがす。もう一頭の方も買ったんで……』と言っています。そして、当のチチコフは確かにパーウェル・イワーノヴィッチといって[#「パーウェル・イワーノヴィッチといって」は底本では「パーウェル・イワノーヴィッチといって」]、間違いなく六等官なんですよ。」
 役人連はみんな考えこんでしまった。
※(始め二重括弧、1-2-54)ちゃんとした人間で、六等官ともあるものが、※(終わり二重括弧、1-2-55)と検事は心に思うのだった。※(始め二重括弧、1-2-54)あろうことか、知事の令嬢を誘拐しようと企んだり、死んだ農奴を買うだの、夜な夜な、静かに余世を送っている老耄れの女地主を脅やかすだのという、血迷った考えを起こすなんて、そりゃ驃騎兵の見習士官あたりのやり口で、断じて六等官の所業ではない。※(終わり二重括弧、1-2-55)
※(始め二重括弧、1-2-54)苟くも六等官ともあろうものに、紙幣贋造なんていう刑法上の犯罪などがどうして犯されるものか!※(終わり二重括弧、1-2-55)と副知事は考えた。そういう当人も、やはり六等官であったが、彼はフリュートを吹くことが好きで、凡そ犯罪などとは縁の遠い、粋な芸術に心を傾けるといった精神の持主であったのだ。
「とにかく、諸君、これは何とか始末をつけなきゃなりませんよ。総督が赴任すれば、この何ともかんともお話にならない醜態に、すぐ眼をつけますからねえ。」
「じゃあ、一体どうすればいいと思われるのです?」
 すると警察部長は、『断乎たる処置をとる必要があると思います』と答えた。
「断乎たる処置といいますと?」と、裁判所長が言った。
「あの男を、不審人物として逮捕するのです。」
「ところが、あの男が逆に、我々を不審のかどで逮捕するようなことになったなら?」
「どうしてそんなことが?」
「左様、あの男がもし、密かに派遣されたものだとしたら、どうします? もし秘密の使命をおびてやって来ているのだとしたら? 死んだ農奴だって! ふむ! そんなものを買うような振りをして、その実は、ひょっとすると、謂ゆる※(始め二重括弧、1-2-54)死因不明※(終わり二重括弧、1-2-55)として片づけられた変死人のことでも何か探り出す手じゃないのかな?」
 この一言に、期せずして一同は黙りこんでしまった。検事はそれを聞いて愕然とした。裁判所長も、自分でそんなことを言っておきながら、やはり考えこんでしまった。
「さあ、どうしたものでしょうかね、皆さん?」そう言いながら、市の恩人であり、商人社会の庇護者であるところの警察部長は、甘口のウォツカと辛口のウォツカで混合酒をこしらえて、まず前菜をつまんでから、それをぐっと一息に呑みほした。
 そこへ召使がマデーラの壜と盃とを持って来た。
「まったくのところ、どうしたらいいのやら、私には見当もつきませんよ。」と、裁判所長が言った。
「諸君!」と郵便局長が、さっそくマデーラを一杯ひっかけて、オランダチーズの大きな一切れと、バタをつけた蝶鮫の燻製とを頬ばりながら、言った。「私の考えでは、この問題はよくよく研究し、審議する必要があると思いますねえ、ちょうどイギリスの議会でやるように、腹蔵なく互いに意見を開陳してですねえ、いいですか、あらゆる迂余曲折を明確に闡明するため、内輪にひとつ会議をする必要があると思うんですがねえ。」
「勿論ですよ、じゃあ一つ集まることにしましょう。」と、警察部長が賛成した。
「そうですねえ。」と、裁判所長も同意して、「じゃあ一つ集まって、チチコフが何者であるかということを、みんなで決めることにしましょう。」
「それが何よりの上分別ですよ――チチコフがいったい何者であるかということから先ず決めるんですねえ。」
「そうですねえ、みんなの意見を集めて、チチコフが何者であるかを決めることにしましょう。」
 こう言うと一同は、異口同音にシャンパンが飲みたくなったなどと言いながら、その会議さえ開けば、何もかもが明白になり、チチコフが何者であるかということもはっきり分るだろうと、すっかり安心して散会したのである。
*1 第九章の末尾 これは『死せる魂』第一部が刊行された後ゴーゴリが改作を思い出ち、草稿にしておいたものである。
*2 第……章 第九章の末尾につづく点からいえば当然第十章となすべきであるが、そうした暁に既刊の第十章を如何にすべきかがまだ決定していなかったため、第何章とはっきりきめることができなかったものと思われる。





底本:「死せる魂 中」岩波文庫、岩波書店
   1939(昭和14)年2月15日第1刷発行
   1969(昭和44)年10月20日第20刷発行
※「旧字、旧仮名で書かれた作品を、現代表記にあらためる際の作業指針」に基づいて、底本の表記をあらためました。
その際、以下の置き換えをおこないました。
「噫→ああ 茲→ここ 不図→ふと 兎に角→とにかく 兎も角→ともかく 兎にも角にも→とにもかくにも 何は兎もあれ→何はともあれ 露西亜→ロシア 蘇格蘭→スコットランド 波蘭→ポーランド 西班牙→スペイン 高架索→コーカサス 伊太利→イタリア 白耳義→ベルギー 欧羅巴→ヨーロッパ 羅馬→ローマ 莫斯科→モスクワ 西比利亜→シベリア 匈牙利→ハンガリー 独逸→ドイツ 印度→インド 彼得堡→ペテルブルグ 仏蘭西→フランス 巴里→パリ 希臘→ギリシア 猶太→ユダヤ 波斯→ペルシア 亜米利加→アメリカ 英吉利→イギリス 和蘭陀→オランダ 襯衣→シャツ 留→ルーブリ 釣床→ハンモック 刷毛→ブラシ 硝子→ガラス 弥撒→ミサ 瓦斯→ガス 哥→カペーカ 彼得→ペテロ 卓子→テーブル」
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
※「コローボチカ」と「コロボーチカ」の混在は、底本通りです。
※底本は巻末に訳註をまとめていますが、中見出しごとに「*番号」で設定しました。
※訳註の頁数は省略しました。
※「與/鳥」の「具−目」は、底本では「冖」と作ってあります。
入力:米田
校正:坂本真一
2016年9月21日作成
青空文庫作成ファイル:
このファイルは、インターネットの図書館、青空文庫(http://www.aozora.gr.jp/)で作られました。入力、校正、制作にあたったのは、ボランティアの皆さんです。




●表記について

「與/鳥」、U+9E12    181-15


●図書カード