静夫はその高台のどんな細い道をもよく知つてゐた。そこを出れば坂がある。丘がある。林がある。その林は疎らで、下には
しかし坂を下りても川はすぐには見えはしないのであつた。もし、そこに帆が浮んでゐなかつたならば――緩く垂れた、または大きく孕んだ帆が見えてゐなかつたならば、誰でもそこにさうした大きな川が溶々として流れてゐるとは夢にも思はなかつたであらう。否、丘の裾に添つたやうな道をぐるぐると廻るやうに、行つても行つてもその岸には出ずに、却つて反対に松の木の疎らに生えた丘の上へと出て行くのを見るであらう。そしてその上り切つたところで、始めて布を引いたやうな大きな川に接して、その眺めの美しいのに眼をるであらう。しかし静夫に取つては、さうした誰でもが喜ぶやうな美しい眺めよりも、却つて林の中や森の下道や赤く一ところ抉られたやうになつてゐる
で、その街道――それも時に由つては、此方から向うに越して行く車やら荷馬車やら乗合自動車やらの轍のために泥濘が深くこね返されて、それを拾つて歩くのにも容易でないのであつたが、その深い
その街道を八分通り上つたところから、赤土の崖になつてゐるところをひよいとのぼると、疎らなひよろ松の林があつて、下草と言つてもさう沢山は生えてゐないのであつたが、そこに晩春の頃には、よく
(何故、田舎に
そこから少し行くと、疎らな松の幹の間に赤い小さな鳥居が見えて、その向うにさう大きくない稲荷の社が置かれてあつた。静夫にはその赤い小さい鳥居が際立つて眼についた。しかもそれは何故であるかは、かれにもわかつてゐなかつた。或は何処かの無名画家の小さな展覧会か何かで見た油絵の一小幀にそのシインが似てゐるので、それでその眼を惹いたかもわからない。それともまた、それから向うに松林がつゞいて、川がつゞいて、その下にかの女のゐる町の甍が見えてゐるためであつたかも知れない。それともまた、ある日そこに来て、深くかの女を思つた余りに、その祠の前に手を合せたためかも知れない。いつだつたかかれはその小さな鳥居の下で、三年も人知れず燃えてゐるその恋心をかの女に打明けて
そればかりではなかつた。かれはその小さい赤い鳥居を中心にして、さまざまな空想にも耽つた。かれはそこにかの女を伴れて来ることを想像した。そこまで誘ひ出して来るのはわけはない。あそこの窓の下に行つて、コトコトと叩いて、そこにその白い顔が出た時に、春の風のやうな微かな
林を抜けたところに、あの日思ひもかけない静かな草原のあるのを発見して、静夫はそのまゝそこに身を倒して仰向けになつた。
日は麗かにあたりに照つた。
かれはじつと空を眺めた。春ではあるがよく晴れた空。かげろふのキラキラする空。一鳥の翼にすらその静けさを破られない空。それでゐて秋とは違つてわるく人の頭を重苦しく憂欝にさせずには置かないやうな空。かれはその空の中にはつきりとその眉を見た。その眼を見た。その
起き返ると、そこからは沼が見えた。細長い沼が。芦荻の芽の青々と生えてゐる沼が。点描派の絵のやうに遠くにキラキラと日の光つて輝いてゐる沼が――。かれはその光線の中までもその自分の持つてゐる恋心が細かに
その癖かれはかうしてゐながらも、その美しさにだけ満足してゐるのではなかつた。かれはもつと暗い心持を、もつと憂欝な重苦しい心持を期待した。(その方が本当だ――かうしてあくがれてゐるのは表面に立つてゐる
到るところにその恋心のひろく展げられてあるのを、細かく織り込まれてあるのを、巧に
かの女を知らない以前にあつては、坂の途中にあるその一軒の百姓家についても、かれは曾て一度だつて注意深い眼を向けたことはなかつた。そこには誰が住んでゐるかすらも知らなかつた。否、何ういふ人達が住んでゐやうと、そんなことは問題にすらならなかつた。ところが、今では静夫はそこに住んでゐる人達を知るやうになつた。新しい手拭を姐さんかぶりにして五月晴の暑い日に、父母と一緒に唐枷を麦に当てゝゐる頬の紅い娘のゐることをも知つた。否、ある日の午後には、その向うの丘のかげで、不意にその娘がかれの前をきまりわるさうに顔を赤くして通つて行くのに出会した。
かれは
かれは裏の離れから、かの女のゐる窓の傍を通つて、その窓の紙の徒らに白いのをよそに、
そこからは町が見えた。半は甍で半を板葺きの田舎町が。白壁がをりをり交つてゐたりするジツクザツクした田舎町が。ついさきまで町の医者の二階のガラス窓に夕日が金属か何かのやうにピカと光つてゐたのであつたが、それも全く消えて、今は半ばエルのやうな夕靄に包まれたその田舎町が。そしてその二階屋のその向うに見えてゐる瓦甍の家、そこにこそかの女はゐるのである。かの女の眉も髪も眼も心も何も彼もあるのであると思ふと、そこにぽつつり点された
しかもその夕暮の散歩には、かれはその高台の方までは行かなかつた。とつつきの丘の、その上から町の灯の美しく輝いて見られるあたりまで行つて、そこで足を留めて、ぢつと長く立尽した。かの女の家の屋根の上には、いつも見馴れた星がキラキラと一つ美しく輝いてゐた。(あの星がかの女を守つてゐる! かの女の美しさと純潔さとをいつまでもいつまでも守つてゐる……)かう考へると、静夫の心は堪らなく
さうして林の中を
(何といふ操のない心だらう。それでもお前はかの女を愛してゐるといふのか。かの女でなくては、その恋を捧げるに値ひしてゐないと言ふのか。他にも美しいものが沢山あるではないか。そしてそれ等の美しいものが常にお前の心を引寄せてゐるではないか。操のない男の心! 放蕩にすらわけなく誘はれて行かないとは限らない男の心! それでもお前はかの女に値ひしてゐるといふのか。あの純な眼に、心に――)かう思ふと、静夫はその身が地上深く全く泥土に
(かの女の愛に比べたら、功名も何もあるものではない。都会も何もあるものではない。それだけですべて満ち足りる。かの女をわがものにしただけですべてこの世の願ひは足りる。如何なるものを犠牲にしても、自分の一生を犠牲にしても、コルシカの離れ
その恋心は啻にそこらにひろがつて行くばかりではなく、またそこらにある林や森や丘や川に満ち漲つて行くばかりではなく、うねうねと折れ曲つて行つてゐる丘添ひの道にも、深く泥濘に喰ひ込んでゐる車の轍の中にも、草の葉の上にも、篠笹の葉の