田山録弥




「馬鹿に鳴くね。大きな犬らしいね」Bを見送りに来たMが言ふと、すぐそばの籐椅子に腰をかけてゐたT氏は、
「H領事の犬だらう? 先生方も今日立つ筈だからね」
 その犬の悲鳴する声は、甲板の下のハツチのあたりから絶えずきこえて来た。小さな箱の中に入れられて、鉄の棒の間から鼻を出したり口を出したりして、頻りに心細がつて鳴いてゐるのであつた。
「Hさん、何処に行くんですか?」
 Mが訊いた。
赤峰せきはうにやられてね」
「赤峰――それは大変ですね? それで奥さんも一緒ですか?」
「さうだよ」
「それは大変だ――」
「でもな、あゝいふ人達はさういふところから階段を経なくてはならないからね? まア一二年仕方がないさ――」
「それでも奥さんがえらいですな。まだ若いのに、赤峰つていへば北京ぺきんから十日もかゝるつていふぢやありませんか?」
「でもな、細君でも一緒につれて行かなければ、一月だつてあんなところにゐられやせんからね」
「それはさうですな。それにあの奥さん子供はないし、美しいし、置いて行くわけにも行かないでせうからな」
 Bは黙つて聞いてゐたが、しかもさうした会話のうちに若い美しい細君を発見せずにはゐられなかつた。Bは一種ロマンチツクな情緒を感じた。
 Bは海を眺め、煙突から湧き上る煙を見、遠く港外に漂つてゐるジヤンクの帆を見廻したりなどしてゐたが、しかも間もなく桟橋から船へとのぼつて来るその夫妻の姿を見落しはしなかつた。それに、今日の船旅では、すくなくともその人達が一番多く見送人を集めてゐたので、その周囲にはいろいろな色彩が巴渦うづを巻いて、裾模様がチラチラしたり、ダイアの指環がかゞやいたり、派手な水色のパラソルに日影が照つたり、出帆の時刻が近づいて行くにつれて、談話が囁きに、囁きが歔欷きよきに、次第に別離の光景をそのあたりに描き出すやうになつて行つた。
 若い細君は軽快な洋装に水色ボンネツトをつけて、宝石の首飾をあたりに見せてゐたが、ふと此方こつちを振向いた顔には、美しい眉と整正せいせいな輪廓と大きい黒い眼とがかゞやいた。やがてT氏の紹介でBはH夫妻と挨拶を取り交はしたりなどした。
 T氏もMも、H夫妻を見送りに来た人達も皆な桟橋の方へと下りて行つた。やがて汽船は出帆した。岸でも船でも長い間互ひに手巾ハンケチを振つてゐたが、それもいつか遠く小さくなつて行つた。

 Bの船室から右舷の方へと出て行くところに、ひとり立つてじつと海を眺めてゐる若い美しい女――それは一目で狭斜けふしやの人であるといふことがわかつたが、さつきBが夫妻を見た時には、その女が送つて来てゐる待合のおかみらしい年増とさびしさうにして何かこそこそ話してゐるのが眼に着いたが、(天津てんしんにでも鞍替するのかな)と思つたが、今またその白い頬とさびしい眼とがわるくBの体に迫つて来るのを感じた。Bはそのかたはらをそつと掠めるやうにして向うの方へと行つた。
 Bにはさういふ人達のことが何も彼もはつきりとわかるやうな気がした。つかんでもつかんでもつるりと抜けて行つて了ふやうな男の心、浮気な男の心、それは女の方でも破れた草鞋わらぢでも捨てるやうに惜しげもなしに捨てゝ捨てゝ来てはゐるけれども、しかも何うかして、その男の心を一つはつかまずにはゐられないために、さうした女達はかうして遠く海を渡つて行くのではないか。不知案内ふちあんないのさびしい海をもひとりさびしくわたつて行くのではないか。(それから思ふと、何んなに遠いところでも、どんなに不知案内の砂漠の中でも、ひとつの男の心をしつかりとつかんで、それに縋つて、何処までも何処までも行かうとするH夫人の方が何れだけ幸福だらうか。同じさびしさにしても何れだけ力強いさびしさであらうか――)Bはじつと夕暮近い海を眺めた。

 幸ひに航路は穏かで、心配した濃霧もかゝらずにばうと静かに海は暮れて行つたけれども、しかもさびしさは遂に遂にBを離れなかつた。Bは波濤の舷側に当る音を耳にしながら、長く寝床ベツトの上に身をよこたへた。
 そのすぐ向うには、社用で天津に行かうとしてゐるまだ若い三十二三になつたかならないくらゐの会社員のKが雑誌を持つて坐つてゐた。
 Kは雑誌をつまさぐりながら、あごで向うを指し示して、
「そこに立つてゐましたらう?」
「あ、女ですか?」
「さうです……あれは大連たいれんでもでしたんですがね?」
「御存じですか?」
「え、二三度……。何でも大きな油房ゆばうか何かを持つてゐる人の持ものだつてきいてゐましたがね? 何うして天津になんか行くんですかな?」
「もうあつちに行つたきりなんですか。何か用事でもあつて行くんぢやないんですか?」
「行つたきりださうです? さつきちよつときいたら、さう言つてゐました……」
「無論いろいろなことがあるんでせう?」
「割合に評判のわるくないはうでしたんですけど……矢張、あゝいふ人には、わるい虫がつきやすいですからな」
「何うもしやうがありませんな。矢張、女だつて、何うかしてひとりをしつかりつかまうとしますからな」
「本当ですよ。あゝいふ社会でも存外さうですな」
「浮気な稼業だけに猶ほさうですよ。そして、あの女にもさういふ虫がついてゐるんですか?」
「いやさういふわけぢやないでせうけども――私はさう深く知つてゐるわけでもないんですけども」
なにつていふんです?」
「名ですか? 徳子とくこです」
「それでも、大連にも随分好い芸者がゐますか?」
「私なんかにはよくわかりませんけれど、随分好いのがゐるやうです?」
「あなた方の仲間にも随分遊ぶものがありますか?」
「駄目ですな。まだ巣立つたばかりですから……。もう少し経てば、さういふことも出来ますが、今では――」
「お子さんがあるんでせう?」
「え、二人あります――」
 BにはKの生活もはつきりとわかつて来たやうな気がした。大きい子の方を若い父親が抱いて寝る時代のことをBは繰返した。続いて三人目の女の児が出来た時分から、嵐のやうな愛慾の中に突進して行つたその生活を繰返した。Bは昨夜ゆうべもある宴会からつて戻つて来ようとすると、「好いぢやありませんか。一体あなたはそんな方ぢやなかつた筈ですがな。何んなところへでも入つて行く方だとばかり思つてゐましたがな? 何うしたんです? 一体?」かうその人達が言ふので、戯談じやうだんのやうにしてそれをはづして、「だつて君、一刻も忘れずに待つてゐる人がゐるんだからね。その人のためにもさういふことは出来ないよ……」かう言つてすたすた帰つて来たことをBは思ひ起した。あとでは皆なは唖然としてあつけに取られてゐたに相違なかつた。しかしそれは単なる戯談ではなかつたのである。Bはその眉を、その髪を、その額を、その眼を常に到るところに感じた。否、旅に出て日を経るに随つて、一層その面影のこまやかになつて来ることを感じたのである。Bは夫人のうちにも徳子といふそのおんなうちにもそれを発見せずにはゐられなかつたのである。
 まだ頻りに悲鳴を挙げてゐる犬の声に耳を留めたKは、
「あれは犬ですかね? さつきから鳴いてゐますが――?」
「さうです――さびしがつて鳴いてゐるんです。大きな犬ですよ」
 かう言つてBはH夫妻のことをKに話した。Bはさつき食堂で晩餐の卓についた時、すぐその前にH夫妻がゐて、夫人とは言葉を交はさなかつたけれども、H氏とは種々いろ/\と話をしたことを思ひ起した。夫人がきまりがわるさうに黙つてフオークを運んでゐたさまを思ひ起した。「あれで、犬といふ奴は中々役に立ちましてな、あゝいふところに参るには、護身のためにも必要で御座います――それに、馴れると可愛いもんでしてな。家内などでも伴れてあるくと、好い護衛になりますのです……。え? たねですか? ドイツだねです」H氏がかう言つたことを思ひ起して、それをそのまゝKに話したりした。波の舷側に当る音がサ、サ、サ、と静かにきこえた。

 Bは招かれて船長室に行き、そこで麦酒ビールを御馳走になり、いろいろとめづらしい航海の話を聞き、船長と一緒に夜の海と空とを眺め、星座の位置などをゆびさし、もとの船室には帰らずに、そのまゝひとりそこに眠つて了つたが、しかもつひにひとりではなしに、かの女が絶えずそこにやつて来てゐるのを感じた。Bは船室の中のH夫妻をすらBたちのものとして感じ、B達のものとして慰め、B達のものとして楽むやうになつた。(あゝいふ人達のやうに自由に旅に出られたら、それこそ何んなに好いだらう? 蒙古の中でも、砂漠の中でも、何でも進んで行くだらう。あらゆるものを捨てゝ捨てゝ行くだらう。さうした時には、かの女の眼はこの身の眼となるだらう。かの女の手は自分の手となるだらう。かの女の心は自分の心となるだらう。……しかし、失望するにはあたらない。いつかはさういふ時が来る。この旅をなかば以上終へた時には必ず来る……)こんなことをBは自分で自分に囁いたりなどした。
 暁は来た。もはや船は太沽タークーの沖に来てゐた。Bのすぐ前では、早くもやつて来た水先案内を相手に船長が双眼鏡を眼に当てゝ頻りにあたりを眺めてゐた。やがて[#「やがて」は底本では「やかて」]むづかしい白河はくが遡航さくかうが始つた。船の両側にすさまじい濁流が巴渦を巻き出した。風車かざぐるまが見え出した。オランダを思はせるやうな赤煉瓦の古風の建物などもあらはれ出した。次第に河の両岸に桃の咲いてゐるのが、その桃の花も盛りを過ぎて僅かにその面影だけを残してゐるのが、それと微かに指さゝれ出して来た。川は何遍となく屈曲して、同じ建物が右に見えたり左に見えたりした。こんな濁つた赤ちやけた水の中にもあの美しい白魚が生息して居て、それを獲るための小舟が、すさまじい急流に逆らひつゝ頻りに網を引いてゐるなども見え出して来た。Bは甲板に立つてじつと眺めた。しかもかれはあらゆるものにかの女を感じた。岸の芦荻ろてきに、その根元にたぷたぷと打寄せて来てゐる濁流に、遠い空に捺されたやうにあらはれて見えてゐる風車に、微かに岸に残つてゐる桃の花に、更に揃つて下りて来るジヤンクの暗いわびしい帆に、そこらに集つてあたりを眺めてゐる船客の群に――。

 天津の埠頭に近く、もとの船室に戻つて来たBは、そこにそのKと徳子とが親しさうに頻りに立話してゐるのを不思議にした。
 暫くしてBのかたはらにやつて来たKは、いくらか弁解するやうに、
「向うに着いても、誰も迎へには来てゐないだらうつていふんです。為方がありませんから、私が伴れて行つてやることにしました」
「それは大変ですね?」
 Bは微笑みながら言つた。
「何でも無理に出て来たんださうです……。矢張、いろんなことがあるらしいんですな。ひとりきりで、案内がわからなくつて困つて了ふつて言つてゐるもんですから」
「それで行くところはわかつてゐるんですか?」
「え、それはわかつてゐるんですがね。苦力くりの車にひとりで乗せてやるわけには行かないのです。何うもしやうがありませんよ」
「まア、然し、そのくらゐの義務は負つても好いでせう。同じ船に乗つたよしみだけでも……」
「さうですかなア」
 Kは頭を掻きながら笑つた。
「フランス人なんかその点に行くと親切なもんださうですよ。美しい女のことなら何んな世話でもしてやるさうですから――。日本人だつて何方どちらかと言へば、女に親切な方ですからな」言ひかけてBも笑つて、「それで遠いんですか?」
「行くところですか。それはそんなに遠くもありませんがね? ……兎に角、誰か迎へに来てゐて呉れる方が好いですな」
 埠頭まではもはやそこからいくらもなかつた。汽船の速力も次第に緩く、岸には赤煉瓦の建物や倉庫らしいものも見え出して来て、縫ふやうにへりに並んで生えてゐる楊柳やうりうの緑についさつきから吹き出した蒙古風もうこかぜがすさまじくきいろ埃塵ほこりを吹きつけてゐるのを眼にした。船や、ヂヤンクや、小蒸汽や――たうとうB達の船はその埠頭に横附けにされた。
 そこには自動車や、車や、荷車や、迎へに出てゐる人達があたり一杯に混雑ごた/″\と巴渦を巻いてゐて、踏板を此方こつちから渡すと同時に、三等の方の人達は大きな包を抱へて先を争つて急いで出て行くのであつた。舷側に添つたところには、H夫妻も徳子も皆な鞄や手提を持つて出てゐた。
 H氏はBに言つた。
「今日は天津にお泊りですか?」
「一泊つて行かうと思ひます。貴方あなたは?」
「何うしようかと思つてゐます……。都合につて北京に行きたいと思つてをりますけれども――」
 しかもそはそはしたB達はそれ以上言葉を交すいとまを持つてゐなかつた。その行くべきはうへと各自に行かなければならなかつた。Bは船長や船員達の世話になつて、其処そこに迎へに来てゐるTホテルの自動車へと乗ることにした。で、少し此方こつちに来てそれとなしに振返つて見た時には、Kが徳子を介抱して頻りに苦力の車に乗せてゐるのを眼にした。
 やがてBはすさまじい蒙古風が屋根に当り四辻に吼え※(濁点付き片仮名ヱ、1-7-84)ランダにうづまくのを見た。街路樹の楊柳が枝も幹も地につくまでにたわわに振り動かされてゐるのを見た。黄い埃塵が北国ほくこくの冬の吹雪のやうに堅くとざしたホテルの硝子窓の内までザラザラと吹き込んで来るのを見た。次第に空もくらく、日の光もおぼろに、ホテルの廊下などでは、電灯のスヰツチをひねらなければならないほどそれほどあたりが暗くなつて行くのを見た。蒸暑くても窓を明けることは出来ず、その硝子窓の外に並べて置かれてある大きな鉢植ゑの万年青おもとの葉が埃塵で真白になつてゐるのを見た。
 何処でもBはひとりではなかつた。かの女は片時もBから離れてはゐなかつた。Bは到るところにかの女を置いた。それにしても此処にやつて来てこれを見たら何う思ふだらう? この蒙古風に逢つたら何と言つたらう? あの眉を蹙めるだらう。埃塵に白くなるあの髪を佗しがるだらう。肌の中までザラザラするのを気持わるがるだらう。しかしそれをも我慢するだらう。何故なぜといふのに、それは旅だから。かの女もこの身もともに好きな旅だから――。
 天津で友達に招かれた料理屋は大きなへやの中に小さな室が幾つも幾つもあるやうなうちであつた。そこでBはBの前に坐つた年増のに、「矢張、女だつて同じことですよ。一つづゝ心をつかんでゐなければ安心して生きてゐられないのですよ。だから矢張つひにはそこに落ちて行くのですな――」などと言つた。
 あくる日もそのすさまじい蒙古風は止まなかつた。Bは少しばかりあつた用事をすまして、午後の三時の汽車で北京へと行つたが、生憎あひにくその日は日本人はひとりも乗つてゐず、それに例の臨城りんじやう事件が昨夜ゆうべあつたばかりなので、一層さびしいさびしい旅を続けなければならなかつた。Bは唯黙つて荒漠としたを見た。行つても行つても村落らしい村落はなく、暗い鼠色の空にすさまじく埃塵のみなぎりわたつてゐる広い広い地平線を見た。停車場ていしやぢやうと言つても、ほんの小さな建物があるばかりで、町らしい形を成してゐる部落などは何処まで行つても眼に入つては来なかつた。をりをり唯遠くの楊柳の枝のたわわに風に吹かれてゐるのが見えるばかりであつた。
(こんなところに一国の首都たる北京があるのかしら? 不思議な気がするなア)かう何遍もBは腹の中で思つた。やがて薄暮に近く、次第にその北京はあらはれ出して来た。暗い城壁を取廻した大妖怪か何かのやうに――。

「おや! H夫妻は矢張此処に泊つてゐるな」
 Bは室に入るとすぐかう独語した。
 Bはその窓の下のところで、例のドイツ種の大きな犬が頻りに悲鳴を挙げてゐるのを聞いた。かれは何方どちらかと言へば狭い一室のテイブルかたはらにある椅子に腰をおろして、さう大した明るいとは言へない光線のもとに、寝床ベツトの上に敷かれた白いシイトや、鞄などの置くやうになつてゐる棚などの静かに照されてゐるのを見廻した。かれは何とも言へないさびしさのひしと身を襲つて来るのを感じた。しかもそれは旅情と言つたやうなものではなかつた。Bは身につまされたといふやうな心持で、かうした蒙古風の吹きすさんでゐる塞外そくぐわいの地に入つて行くH夫妻に同情した。(でも若い二人だから好い……。何んな困難でも二人で切抜けて行かうといふのだから好い――)かう独語したBは、T氏の言つた言葉などをも思ひ出さずにはゐられなかつた。
 そのあくる日であつたか、北京の宮殿の見物からBが戻つて来ると、そこにこれから外出しようとしてゐるH夫妻がゐて、「おや! あなたも此方こちらでしたかな?」などと声をかけられた。ドイツ種の大きな犬は、盛装した夫人の周囲を頻りにぐるぐると廻つてゐた。そして時々大きな声を立てゝ吼えた。
「こら、こら! ヂヤツク!」かうH夫人はやさしく制した。
「中々好いですね。奥さんが伴れてあるくと、よく調和しますよ」
 こんなことをBが言ふと、
「左様で御座いますか。……」かう夫人は言つて顔をあかくして、「それでも、役には立ちますので御座いますよ……。今日も午前に万寿山まんじゆやまで、あそこの乞食をこれが退撃たいげきして呉れましてね。大変に助かりました――」
「そんなに乞食が多う御座んすか?」
「え、え、あそこは――。汚ない恰好かつかうをして近くへ寄つて来るので御座いますもの――」
「あゝいふ時には、かういふ奴は役に立ちますよ」
「さうでせうな……」かう言つたBはすぐ言葉を続いで、「それで、まだお立ちにはならないのですか?」
「いや、もう行かなければならないのですけれども、丁度、今、せつがわるくて、馬車が御座いませんものですから……」
此方こちらからいつでも馬車を仕立てゝ行けるのではないんですか?」
「北京にゐるやつは、何うも行くのをいやがりましてな。何しろ遠いんですから。向うから来てゐるものでないと、何うしても行かうとは言はないんです?」
「それは大変ですな……。それにしても、その赤峰といふところまで一体幾日かゝるんです?」
「さうですな……。路がわるいですから、内地のやうなわけには行きませんから。里程はそんなにないですけれども、百里足らずですけれども、十二三日は何うしてもかゝりませうね――」
「大変ですな――。それにしても、赤峰といふところは、錦州きんしうからも行けるやうにきいてゐますが、あつちの方が近くはないのでせうか?」
「あつちの方がいくらか近いですけれども、馬車が北京よりももつと乏しいさうですから」
「さうですかな。何にしても大変ですな。あなたはまア好いとしても、奥さんが大変ですな」
「え……」
 それだけで別れてBは二階の方へと行つた。Bはそれからあちこちと見物した。万寿山へも行けば、万里ばんり長城ちやうじやうへも行つた。梅蘭芳メイランフワンの劇をも見れば琉璃廠るりしやうの狭斜へも行つた。Bは北京に三泊つた。かれがそこを立つて奉天ほうてんの方へ来る時にも、H夫妻はまだその旅舎りよしやの一室に滞留してゐた。
 しかもそのH夫妻が例の轎車けうしやに乗つて、蒙古風のすさまじく吹き荒む中を、遮るものとてもない曠野の中を、小さな集落があつたりさびしい町があつたりする中を、埃塵に包まれてガタガタと進んで行くさまは、はつきりと絵になつてBの眼の前に描き出された。Bは古い駅舎の※(「火+亢」、第4水準2-79-62)かうの上に毛布を敷いて夜ごとに佗しく寝るH夫妻を想像した。一輌の轎車の覚束なく塞外の地へと一歩々々動いて行くさまを想像した。またあのドイツしゆの大きな犬が絶えずその若い美しい夫人を護衛して進んで行つてゐるさまを想像した。





底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
   1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
   1925(大正14)年11月10日発行
初出:「婦人公論 第九年第九号」中央公論社
   1924(大正13)年8月1日発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
青空文庫作成ファイル:
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