草道

田山録弥




         一

「とてもあんなところには泊れやしないね、あんなところに泊らうもんなら何をされるかわかりやしない」かうBが言つたのは、その深い草道を半里ほどこつちに来てからであつた。かれ等は伴れて来た支那人の案内者をまぜて五人、今夜はその山の寺に泊るつもりでやつて行つたのであつたけれども、そのあたりの光景のわるく無気味なのと、そこらに馬賊が出没していつそれが襲つて来ないともかぎらないといふのに不安になつて、もう午後四時過ぎの日影が山の端に低くなつてゐるのにも拘はらず、あわてゝそこから飛び出して来たのであつた。彼等は草やしのかやの一面に茂つてゐる谷合の路――路といつてもどうかすればすぐ見失つてしまひさうな細い路を走るやうにして一生懸命にわけて行つた。
「馬賊ツて、別にやつて来るんぢやなくつて、あいつ等がすぐそれになるのかも知れないからな……こんなところにとても泊れないよ。こんな山の中では、殺されたつて、永久にわかりやせんからな。第一日本の官憲の力だつて、あそこまでは入つて行けないからね……」
「本当だとも――」
「そいつだつて、何だかわかりやしない。彼奴等の廻しものかも知れない」Hはかういつて、少し前に歩いて行く支那人の案内者をあごで指した。
 皆は一層不安になつた。たれの頭にも、その山寺の一室のさまが気味わるくうつつた。肥つた大きな男、わるこすさうな眼つきをした坊主、床の上にあぐらをかいて坐つてゐる統領らしいおやぢ、どう考へて見ても水滸伝の中にある光景としかかれ等には思はれなかつた。それはかれ等とて毒の入つたまん頭やしびれ薬の雑ぜられてある酒なぞがそこにあらうとは思はなかつたけれども、今朝から持つてゐる不安――その山の中ではいつ馬賊に出会すかわからないといつたやうな不安が、絶えずかれ等をおびやかして、山越しに、否、むしろ岩石づたひに辛うじてそこに行着いた時には、どうして好奇にこんな山の中に入つて来たかと後悔されたのであつた。皆はそこで互に眼を見合せてため息をついた。つかれてはゐたけれどもどうしてもそこには泊る気にはなれなかつたのである。

         二

 アカシヤやブナやハクヨウが一面に深くしげつて、わけて行く草道は、ともすれば人の肩を没するほどそれほど深かつた。細長い谷は五町ぐらゐの狭い幅で、右にも左にも前にも後にも樹や影の深い山巒が高く高くおほひ重なつた。それに、爪先上りになつてゐる路は、行つても行つても容易に尽きやうとはしなかつた。
「これはさつき通つて来た路ぢやないね?」
「さうだ……さつきは、向うだつた」
「これで好いのかね?」
 支那語を片語でやるSが一行の不安を表して、何遍も何遍もしつこく聞いて見たけれども、唯だ大丈夫だとばかりで、案内者はぐんぐん彼等の先に立つて歩いて行つた。
「本当に大丈夫かな?」
 BはHにいつた。
 Hも不安さうだ。曇つた顔をしてちよつと立留まつたが、「でも、為方がありますまい。ついて行くより?」
「………………」
 BもKも歩いた。
 どうも方角が全く違つてゐるやうにかれ等には感じられた。しかしかれ等は何も言はなかつた。かれ等は疲れはてゝもゐた。もしここに馬賊が出て、持つてゐるものを皆な出せといへば、いふなりに何も彼も出してしまふより外に仕方がなかつた。草路は行つても行つても続いた。萱や篠や薄が樹の枝の下葉とまじり合つてにさし込んで来る日影と促迷蔵をしてゐた。急にけたゝましい音が前に起つた。皆なは青くなつて立留まつた。
「何だ! キジだ!」
 暫らくした後には、一行はかう言つて山ふところの方へ飛んで行く大きな鳥の翼を見送つた。

         三

 いつとはなしに、さつきの谷とはわかれて、今度は左に、草深い別の谷を見るやうになつた。山にも次第に近く迫つて行つて、まばらに立つた林の中からいくらか午後の日影に照された明るい空を仰ぐやうな形になつた。
 一行は案内者を先きに、H、S、B、Kといふ順で歩いてゐた。中でもKは一番疲れてゐた。何ぞといふとおくれ勝ちになつた。それをBは気にして、何遍も何遍も立留まつて待つた。
「疲れましたか?」
「なアに、大丈夫です――」つとめて元気を振ひ起すやうにしてKは言つた。
「何しろ今日帰つて来るのは無理でしたからな?」
「でも、君間に合うだらうか? 石灰発掘所のトロコには?」
 Bは時計を出して見て、「まだ五時少しすぎたばかりですから――七時まではトロコはありますから――」
「七時までに行けますかね?」
「是非行かなけりやなりませんね。それに間にあはないとすると、今夜一夜歩かなくつてはなりませんから」
「そいつは大変だ……」かういつてKはまた急いで歩き出した。
 一歩々々草を分けて進んで行く一行のすがたは、時には樹のかげに、時には岩角に、また時には林の中にそれと長く連つて、Hの負つた水筒にをりをり樹間をもれて来る影がキラキラと美しく光つたりなどした。Sの大きなヘルメツト帽もあたりに際立つて動いて行つた。

         四

 ふとかれ等はその前に人の影の動いて行くのを眼にした。しかもそれはかれ等が不安に襲はれてゐる馬賊でもなければ、それに近い無気味な支那人の男の群でもなかつた。かれ等は赤と青との雑り合つてゐる支那女の着物を見た。ぐるぐると後にかためてまいてゐる黒い髪を見た。続いて十一二歳ぐらいゐになる可愛い女の児の白い顔色を見た。
「ほ! これは好い道伴だ――この母子づれと一緒に行けば大丈夫だ」
 かう思つたのはKとBばかりではなかつた。HもSもさう思つてほつとした。彼等はそのまゝそこに立留つた。
「この人達もK、Sまで行くんでせう?」
「それはさうだらう?」
「それは丁度いい道伴れだ……。せめて峠の上までも一緒に行つてもらはう。さうする方がいい。この母子づれと一緒に行けば、あやしいものに出会しても、ことわりをいうてもらうことが出来るから……」
「さうだ、それがいい――」
 それには案内者にその旨を言つてもらつておく方が好いといふので、Sにそれを取次がせるやうにしたが、片語なので、それが案内者にもその母子づれにも十分にはつきりと通じたとは思へなかつた。
 かれ等は後になつたり先きになつたりして歩いて行つた。時にはその後から一行がぞろぞろと並んで続いて行つたり、時にはその母子づれがあまり足が遅いので、後からそれを押すやうな形になつたり、また時にはそつちが休めばこつちも休み、そつちが歩き出せばこつちも歩き出すといふやうな形にもなつたりした。少くともかれ等はさういふ風にもつれあつて五六町は歩いて行つた。
 BとSとはこんな話をした。
「ちよつと好い上さんぢやないか?」
「さうだね」
「色が白いね。それに、まださう大して年をとつてゐないね?」
「いくつくらゐだらう?」
「さうさな、二十七八といふところだらうね? 娘が十一二だから、丁度その位ゐだよ。支那の女は十五六になると結婚するからね?」
「丁度いゝうば桜といふところだね?」
 後からも口をはさんで笑つた。
「娘をつれて、里にでも行つた帰りといふ形だね。あの風呂敷包みには、いろ/\おみやげが入つてゐるんだよ」
 不思議にもその今までの不安を忘れたといふやうにして、みんなはこんなことを言つて笑つた。平生なら何でもなかつたであらうけれども、また都会の真ん中であつたなら、こんなことは問題にもならなかつたであらうけれど、皆なホテルの二人寝の床の上にひとり長いこと寝て来てゐるやうな連中なので、さうした異種族の女にすら一種のあこがれを感ぜずにはゐられなかつたのであつた。
「それでも、かうしてこんな山の中をひとりで歩くのは、大胆だね?」
「本当だね」
「矢張、馴れた土地だから平気なんだな?」
「でも、野郎がひとりだつたら、娘が一人ぐらゐくつついてゐたつて、何をやるかわかりやしないね?」
「さうかな――そんなもんかな」
 それはさうした言葉はわからなかつたにしても、その話しの調子に、その笑ひ声に、わるく問題にしてゐるやうな気配に、それとなく母子は圧されたといふやうにして、その路傍の草の中に立どまつて了つた、一行の通り過ぎて行くのを待つてゐるといふやうに。
 一行はすれ違つて先になつたにはなつたけれども、峠までは一緒に行つてもらひたいと思つてゐるので、その母子づれのあとからつゞいてやつて来るのを待つやうにして歩調をゆるめて歩いた。
 と、その女は、一行の案内者である支那人に向つて頻に声高く何かを言ひ始めた。真面目な顔で、とがつた声で、激昂した調子で。
 こつちの言葉が先方に通じないと同じやうに、その女の言葉も一行にわからなかつたけれども、兎に角そのたゞ事でないといふことは、その声や調子や表情でわかつた。甲走つた女の声の連続がしきりに一行の後にきこえた。
「どうしたんだえ?」
 一番先きにかうBが言つた。
「本当だね。何か怒つてゞもゐるのかしら?」
「だつて怒るわけがないぢやないか?」
「さうだな……別に怒るわけはないな――」
 Sは案内者の支那人の傍に行つて、何かしきりに聞いてゐたが、暫らくすると、こつちへやつて来て、
「何でもないですよ。心配しないでも大丈夫ですよ。あの女の方で恐れてゐるんだよ。あの日本人何かしやしないか。大事ないかつて聞いてゐるんださうだよ」
「さうか。それはわるいことをしたな」
「何うして先きに行かないんだつて言つてゐるんださうですよ」
「矢張、怖いんだな? 野郎がかう大勢ゐるから大丈夫だけれど、僕ひとりなら何をやるかわからんからな。無気味に思ふのも無理はないよ。」
「ところが、大勢ゐるから却つてこわいんだよ。輪姦でもされやしないかと思つてゐるんだよ。何といつてもかよわい女の身だからね――」
「それに異人種だし、さう思ふのは無理はないな」
「先きに行かう――」
 かういふHを先頭にして、一行はまたガサガサと深い草路をわけて進んだ。馬賊に対する恐れは皆の心の底にまだ残つてはゐたけれども、しかもその女が却つて反対にこつちを恐れてゐたといふことの為に、そのためにいくらかまぎれさせられるやうな形になつた。かれ等は狭く狭くなつて行く谷合の路を一歩々々のぼつて行つた。
「矢張、こわかつたんだな!」
 突然Bは一行の沈黙を破つた。それでBを始めその他の人達も長いことその若い女のことを念頭に浮べてゐたといふことがわかつた。樹や草の上には夕日が低くさし込んで、もつれ合つた影と影とが深くかれ等一行を埋め尽すやうにした。





底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
   1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
   1925(大正14)年11月10日発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
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