静かな日

田山録弥




 箇に立籠つて、自からその特色を護るのもわるくはないけれども、願くは、自分の書いたものが横に社会に影響して、実生活の上までにも感化乃至動揺を与ふやうなものでありたい。しかしその程度が、今のやうに単に面白いとか、めづらしいとか、新しいとかいふ以上に――。

 せめて世間から憎まれるとか、抗議を起されるとか、異端視されるといふあたりまで行きたい。世間がそれに対して真面目に考へさせられるあたりまで行きたい。理想を言へば、この世を度する程度までその筆を進めて行きたい。
 しかし、小説でそこまで行くのには、矢張大きな天才を待たなければならない。何故といふのに、抽象的にはつかんで言ふことは出来ても、具象的にそれを展開させた上に――わからない民衆程度にそれを引下げて見せるといふことは非常に難かしいことであるからである。

 或人は言ふ。『さうした隠遁は無意味でせう。つまり、さうした隠遁から社会に出て来た処に始めて意味が出て来るのでせう。ですから釈迦の苦行は、あれは何でもありますまい。その証拠には、山から社会に出て来ればこそ意味を成したが、山に隠れたきりでは、一仙人としてより以外に何でもなかつたでせう』それはたしかにさうである。しかしあの苦行がなければあの社会への驀進ばくしんはなかつたのである。その孤独がなければあの融合はなかつたのである。そこを考へて見なければならない。社会的栄華に、または世間的成功に酔つてゐる時が、一番孤独であることを考へて見なければならない。

 世間に迎へられた時は、世間から一番圧迫される時であることを私達は覚悟しなければならない。さういふ時には、世間はいろいろな注文を私達に持ち来たす。左せよ。右せよ。もう少し上を向け、もう少し頭を低くせよ。こんなことを勝手に言つて来るものである。煩さいものである。腹の立つものである。時には何うかしてさうしたうるさい圧迫から遁れたいと思ふものである。さういふ時には、世間は慾のかたまりか何かのやうに私には見えた。

 ひとつの議論として話されるものにはいかなる場合にも私は黙つてゐたいやうな気がする。何故なら、本当のことは、ひとつの議論ではないからである。一度議論される形になれば、それは最早何うしたつて具象的ではあり得ないからである。そして具象的になればなるほど口では言へないやうな形になつて行くからである。
 しかし、さういふ人達には、それでは何うしても物足らないやうに見える。抽象的にして了はなければ満足が出来ないやうに見える。そしてさういふ人達はいつもかういふ。『それはさうに違ひないけれども、それでは話にならないからね』と。しかしその話が話にならないところに深い面白いところがあるのではないか。人生の機微があるのではないか。本当の心持が深く横へられてあるのではないか。それを一たび右か左かにきめて了つては、本当の有機体がひとつの固体にかためられて全く化石して了ふのではないか。世間には化石の多いことよ。また化石になりたがる人の多いことよ。

 更にまた空想を餌にして生きてゐる人の多いことよ。私は曾て空想を排して、『兎に角空想を食物にすることはいけない。何事でもその時に打つかつてから考へた方が本当だ。現に戦争などには空想は禁物だ……』かう私は言つたことであるが、今でもそれをくり返したいほどそれほど空想で生きてゐる人達が多い。それに、さういふ人達は常に将来ばかりを見てゐる。さういふ風に空想で将来を見てゐるといふことの上に一種の優越さへ感じてゐる。そしてさういふものは忽ち空中楼閣のやうに崩壊して了ふものであるといふことについては少しも思ひを致してない。それといふのもつまりはこの自然といふものに対して、またはこの自然の一部であつてそして全部である人間といふものに対して本当の接触を保つてゐるものが少いからである。更に言ひ換れば、自己といふものと自然といふものとを本当につかんでゐるものが少いからである。私の考へでは、現在――現在に近く生活してゐるものが最も活躍してゐる人間で、あくまで現象的に物を見るといふことが人間として最も大切なことであると思ふ。経済的に物を見るといふことも、見方としては確実であるとは言ひ得るけれども、空想的議論的分子の多分に雑つてゐることを否むことは出来ないと思ふ。

 自然は決してさういふ風に固つたものではない。またきまつたものではない。流通無碍なものである。何うにでもなるものである。これはいけないと思へば、その刹那からすぐ変つて行くものである。人間は一生の中には何遍も何遍も自然に訂正されて、それで漸く自然らしくなつて行くやうなものである。自然を師とするといふことは、それを言つてゐるのである。社会は自然のあらはれであるけれども、自然と社会とは同じではない。自然は社会なしでも存在することが出来るのである。

 静かな日だ。山茶花が刺繍でもしたやうに紅く白く硝子窓に映つた。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「夜坐」金星堂
   1925(大正14)年6月20日
初出:「文芸春秋 第三年第一号」
   1925(大正14)年1月1日
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:hitsuji
2021年6月28日作成
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