玉野川の渓谷

田山録弥





 K先生。
 私は昔から陶器できこえた尾張の瀬戸に住んでゐるもので御座います。甚だ失礼で御座いますけれども、先生の『日本一周』を読んで、いろ/\感じたことが御座いますので、それで突然こんな手紙をさし上げることになりました。
 私は二十歳の一青年です。
『日本一周』には、前編にも後編にも土岐川のことが書いて御座います。そして先生は之れを激賞されて居られます。是非一度は汽車でなしに川に沿つて歩きたいとまで仰しやつてゐらつしやいます。私はその土岐川について申上げたいと思ふので御座います。
 K先生。
 先生は土岐川と仰しやつた。しかし、私の申上げるのは、美濃に属した土岐川の方よりは玉野川の方が十中八九を占めてゐるので御座います。私は多治見以東については多く知るところが御座いません。そこにも好いところが沢山あるさうですが、それは知りません。一体、この土岐川といふのは、東美濃の土岐郡を流れる中だけの名で、尾張に入つては、玉野川と呼ばれ、更に名古屋平野に落ちて行つては、庄内川と呼ばれて居ります。下流はかなりに大きな川です。
 先生が『日本一周』の中に、丁度四条派の絵巻を見るやうだ。日本にもめづらしい美しい川だと仰つたのは、主として玉野川と称する部分をお指しになつたことは、前後の文章の具合で、それもよくお察し申上げることが出来ます。実際、土岐津多治見間は、矢張同じやうに汽車が渓流に添つてゐたにしても、距離も短かく、眺望も狭く、とても玉野川と呼ばれる部分に匹敵しようとは思はれませんから……。


 K先生。
 それは大正八年の十一月でありました。私は先生が『是非一度は下りて歩いて見たい』といふ言葉に誘はれて、玉野川をつたつて下つて見る気になりました。で、多治見駅で下りて、駅前の下街道を西に行き、十四号トンネルのある池田の稲荷山に先づ登つて見ました。この山から見ますと、多治見平野は稍開けて一目に入つて来ました。この平野は東も南も西も山巒さんらんに囲まれてゐて、言はゞまあ猫の額と言つたやうなところで御座います。その東の山間から土岐川は流れ出して来てゐる。そしてこの平野に出て、多治見町を貫いて、暫く平野を流れてゐますが、この稲荷山に突当るのが初めで、また山と山との間を西に流れて行つてゐるので御座います。つまり玉野川の勝は、そこを起点と致して居るので御座います。その時、私はこの玉野川の峡谷がなかつたら、多治見平野は大きな池であつたらうなどと思ひました。
 で、先づ下街道を歩き出しました。これは名古屋から木曾への昔から交通路で、そこに、美濃と尾張との境に、境杉と申す峠が御座います。かなりの難場で、杉が深く繁つて居ります。昔は、これからずつと山の方を名古屋へと出て行きましたので、川には添ひませんので、今汽車の窓から見るあの眺めは、昔の旅客は全く知らなかつたので御座います。否、あの美しい眺めは、全く榛莽しんばうの中に埋れてあつたので御座います。
 ところが、明治になつて、その路が余りに不便なため、玉野川に添つて新道が出来ることになりました。その頃、人々は『道がこんなところに出来るとはえらいこつちや。これぢや今に、岡蒸汽(汽車)もやつて来らア』と申したさうで御座います。実際、この工事は難工事だつたさうです。渓の西岸は半は絶壁、半は榛莽で、獣なんか沢山ゐたさうで御座います。しかし、兎に角その新道は出来たので御座います。そして昔の境杉の方が衰へて、その街道のある村の如きは、全く潰れて了つたのに引かへて、この渓谷の西岸の玉野といふ部落は、忽ち賑かな宿駅となつたので御座います。しかし何うでせう? K先生。矢張、因果は廻る小車です。新道のために、一時栄華に誇つた玉野村も、三年の後にやつて来た岡蒸気のために、すつかり駄目になつて了つたので御座います。一時は鉄道工事や何かで、人が大勢入込んで賑やかであつたけれども、その出来上つた後は、高蔵寺こうぞうじ(玉野)と多治見との間に十四ヶ所のトンネルが穿たれて残されたばかり、またその間に明滅する山水が汽車中の旅客の目をなぐさめるばかり、玉野の村落は、再び元の寂寞に帰つて了つたので御座います。先生が『再び草の野に』に書かれた通りになつて了つたので御座います。


 ま、然し、さういふことは何うでも好いとして、私は稲荷山から幅一尺程の小径をつたつて、渓に沿つて下りました。この路は、たまに樵夫きこりが通る位のものですが、南岸の路は、新道で、ところに由つては、草に全く埋れたところもあるさうですけれども、山奥の小木、三倉等といふ方に通ずるところは、その荒廃を免れてゐるといふことです。今、その南岸に、温泉が経営されてゐて、大変賑かになつてゐます。多治見からは自動車も通へば、舟も行きます。十四号トンネルの真南になつてゐます。
 私はちよつと近道をしたため、狭い、草の露の多い径路を通つて下つて行きました。非常に美しい山水でした。私のやうなものには、とても形容が出来はしません。四条派の絵巻物のやうだと先生は仰しやつたが、実際さうだと思ひます。それに山の勢に従つて渓の曲り流れて行く具合、そのところどころに橋のかゝつてゐる具合、それは何とも言はれませんでした。汽車で見たのとは違つて、非常に静かなのんびりした渓流だと感じを深くしました。
 九号のトンネルのところに、釣橋があります。こゝが濃尾の国境で、橋は新道開通の時の遺物だといふことです。大分古くなつたので、今は、真中に支柱が一本立つてゐます。
 ところが、こゝまでは、まア好う御座いましたが、路に草が茂つてゐて、露つぽい位ですみましたが、九号と八号とのトンネルの間まで行くと、そこで新道は全く尽きて、細い細い道になつて了ひました。まア、これから先は、いかに山水が美しくつても、余程の好奇でなければ、大抵辟易して引かへして了うだらうと思ひます。トンネルの外側の小径は草に埋れたり、崩れかけたりして楽には通れませんでした。仕方なしに、私は七号からトンネルの中を通つて行くことにしました。
 十四あるトンネルの中では、この七号が一番長いといふことでした。で、私はちよつと躊躇しました。何だか危険なやうな無気味のやうな心持が致しました。ところが、丁度好い塩梅に下りの汽車がやつて来て、通つて行つて了ひました。幸ひにも、トンネルは真直でした。私は一銭銅貨位の大きさの明るい丸みを日当に暗い暗い中を縁にくつつくやうにして歩いて行きました。漸く出たと思ふと、六号のトンネルがつゞいてゐます。何うすることも出来ないので、また入りました。トンネルの中には、滝のやうに水の落ちてゐるところがあつたりして、草履もピチヤピチヤにぬれて了ひました。それに、五号も六号も曲つてゐるので、前が見えず、真暗で困りました。
 五号のトンネルを出たところは、渓が何とも言はれず鮮かで御座いました。しばし私はそこで立尽しました。
 こゝから下の細道を通つて、信号所の下の城ヶ峰橋に出ましたが、此間はさう遠くはありません。
 この信号所は高蔵寺駅に二哩五分、多治見駅へ五哩で、三号と二号とのトンネルの中間にあるのです。定光寺駅と言つて、八月十五日より十月末まで臨時停車場になつてゐます。行く行くは、本当の停車場になるさうです。
 この辺は木も多く、岩も多く、玉野川の中では、一番景色のすぐれてゐるところで御座います。
 私は橋をわたつて、定光寺じようこうじの方へ行きました。


 K先生。
 もつと詳しく書きたいので御座いますけれど、元来が筆を持つたことのない一青年のことで御座いますから、うまい形容も出来ないで、山水に負くことが多う御座います。しかし、私の見たところでは、五六ヶ所好いところがあると思ひました。城ヶ峰橋、八屋の大岩、鹿乗橋、定光寺、高岩なども、この渓の中では名高いところです。
 玉野川の渓は、先生の仰つしやつた通り、決してつまらないものではないと思ひます。ことに紅葉の頃、さつきの躑躅の頃がすぐれて好いと思ひます。K先生、何うかおひまでも御座いましたら、一度御出かけ下さいまし。瀬戸町、K、Sで御手紙を下されば――私は何の駅にでも、多治見でも、定光寺でも、高蔵寺でも、きつとお迎へに出てゐますから……。先生がお出下すつたなら、玉野川もよろこぶことでせうから……。





底本:「定本 花袋全集 第二十四巻」臨川書店
   1995(平成7)年4月10日発行
底本の親本:「黒猫」摩雲巓書房
   1923(大正12)年4月15日
※底本は、物を数える際や地名などに用いる「ヶ」(区点番号5-86)を、大振りにつくっています。
入力:特定非営利活動法人はるかぜ
校正:hitsuji
2020年12月27日作成
青空文庫作成ファイル:
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