石窟

田山録弥




         一

 そこに来た時には、二人は思はずはつとした。大きなものに――何とも言はれない大きなものに打突かつたやうな気がした。かれ等はかうしたものが此の山の中にあらうとは思はなかつた。
「む、む――」
 暫くしてから洋画家のAは唸るやうな声を出した。
「大したもんだな――何んとも言はれんな――」
 ひとりは小説家でMと言はれてゐた。
 二人はまた押黙つた。その感動を言ひあらはすための総ての言葉を失つて了つたといふやうに、または何も彼もすつかりそれに奪はれて了つたといふやうに。Aはヘルメツト帽を傾け、Mは麦稈帽子を手にしたまゝ、じつとその石刻の仏像に対して立つた。石窟の内はしんとして、外から入つて来た午前の光線が微かにその周囲を取巻いてゐる浮彫になつてゐる無数の仏像を照した。千二三百年を経過した塵埃のにほひが静かに鼻を撲つた。
 二人は体が引緊められるやうな気がした。かれ等は昨日この古い歴史を持つた土地に来て、久しい間そのまゝに残つてゐる池や、城址や、寺の塔や、帝王の陵や、日本では今日は容易に見ることの出来なくなつてゐる亀趺※(「虫+璃のつくり」、第3水準1-91-62)首や、大きな鐘などを見て、過ぎ去つた長い人生の上に※(「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57)忽に現はれてそしてまた※(「倏」の「犬」に代えて「火」、第4水準2-1-57)忽に過ぎ去つた人達のことを思つて、その空気やら感じやらに深く捉えられて、現に昨夜もよくは眠られないくらゐであつたが、今はさうした感傷的な心持どころではなく、全く何か大きなものに圧倒的に支配されて了つたやうな感じがした。石刻の仏像は、しかも何も知らぬやうに、何者が来てそれと相対しやうが対すまいが、感動しやうが感動しまいが、そんなことには頓着ないといふやうに、寂としてそこに立つてゐるのであつた。

         二

 二人が通り一遍の遊覧者であつたならば、唯、大勢の言ふやうに、「えらいもんだな?」とか、「こんなものは日本にはない」とか、「千年前にもこれだけのものをつくる人がゐたのだね?」とか言つて普通に下山して来て了つたであらうけれども、同じく芸術に精進してゐるかれ等に取つては、とてもそんな軽るい心持で下りて来ることは出来なかつた。かれ等の心はその石刻の仏像と雑り合つた。その仏像を刻んだ人の心と雑り合つた。その深く且つつらかつたであらう心の努力と雑り合つた。かれ等はそこに自分等の意気地のないのを見出した。努力の足りないのを見出した。かういふ純一無二の境にまで既に行つてゐるもののあるのを見出した。かれ等はお互ひに言ひたいことが胸に満ち溢れてゐたけれども、しかもそれを言出すべく余りに感動に満たされてゐた。
 かれ等は尠くとも二三十分はそこにさうして立つてゐた。ことに、Aの眼はその仏像から少しも離れなかつた。スケツチ帖を出すことすらをかれは忘れてゐた。

         三

「素敵だね?」
「何とも言はれんね!」
「あゝいふものがあるんだからな!」
「本当だな――」
 二人がかういふ言葉を交したのは、そこを出て、ずつと此方へ下りて来てからであつた。かれ等は行く時にもそこで休んだ。其時には何ういふものがその前にあらはれて来るだらうといふ期待がかれ等を楽しませ且つ力づけた。かれ等はその期待のみを伴侶にして板を竪てたやうな勾配の急な嶮しい山路をのぼつて来た。そしてそこに来て、もう先が近いといふのでほつと呼吸をついたのであつた。そこからは波濤のやうに重り合つた山を越して、藍のやうに碧い海がひろびろと展げられて見えてゐた。かれ等は再び草を藉いて坐つた。
「あれは、君、あの石窟全体を刻り抜いたものかね」
 小説家のMが訊いた。
「さうだらうな。あすこにあつた石のまんまだらうな? えらいことだな……」AはMの顔を見るやうにして、「あの山の中にひとり入つて、あれをコツコツやり出した時の心持が想像されるね? えらい Life-work だね。あのくらゐのものを拵へるための踏張がやつて来れば愉快だな……?」
「容易にはやつて来んね?」Mは頭を振つた。
「あそこに人間があるぢやないか。人間の血と汗があるぢやないか。何よりもはつきりと残つてゐるぢやないか。あれが本当の人間だ。自然と同化した人間だ。あれから比べたら、そこらにゐる人間なんか惨めなものぢやないか。小さなあはれなものぢやないか?」
「本当だね? さういふ気がするね?」Aも激して、「傑作に触れるといふことは大きなことだな。眠つた心を覚まして呉れるな、萎えた心を起して呉れるな……。僕もこんなにしてはゐられないやうな気がして来た――」
「僕は思ふね……。普通では、あゝいふ心は起されないね。何か感激するものがその人になくつては――? 僕はあそこの中から、あの石の仏像の中から、あらゆる苦しみをさがして来ることが出来るやうな気がするね。あゝしたものでも踏張つてつくらなければ生きてゐられなかつたやうな苦痛をそこに発見することが出来るね。あれはその苦痛――じつとしてゐれば死ななければならない苦痛から蘇つて来るためにつくられたもののやうな気がするね。でなくつてはあゝいふものは出来ない。あの中には恋愛がかくされてゐるかも知れない」Mはこんなことを言つた。
「兎に角、えらゐ作だな。あの全体から発散して来る気分は何とも言へないぢやないですか。その冴えた鑿のあとがはつきりと線になつて残つてゐるぢやないですか? 僕はスケツチしながら、情けなくなつて来ましたよ」
「僕もさつき涙が出て来てしやうがなかつた。……」
 Mは悲しさうな表情して何か言ひかけて止した。Mはかうして二月も前から異郷に彷徨はなければならなくなつた理由――何も彼も捨てゝさびしい野に呼吸しなければならなくなつた理由に今しもぴたりと打突つたのであつた。かれの心は暫し内に向つて開けた。かれはそこにかの女を見た。何うしても捨てゝ了はなければならなくなつたかの女を見た。(何うしてその身もさうした苦痛から奮ひ起てないのか。否、あの石仏を刻んだ人のやうなあゝしたすぐれた努力がありさへすれば、この身はかの女を捨てなくとも浮かべたのだ! 此方の心が、苦しみが浅かつたのだ! 世間並だつたのだ!)しかしMはそれについては何一言も人に話さなかつた。

         四

 Aにも矢張さうしたラブ・シツクがあつた。かれが此方に来てゐるのは、それはそれが直接の原因ではなかつたけれども、間接にはそれが痛さに、その失恋に触れられるのが痛さに望んで此方へとやつて来たのであつた。Aは此方に来てから、もはや三年以上にもなつた。誰もがさうした恋の苦悶を持つてゐるなどとは知らなかつた。Aは何方かと言へば交際上手で多くの人達に好かれてゐた。感じも明るい方であつた。しかし、夜などひとりでゐると、その恋が生き生きと胸に動き出して来て何うすることも出来ないやうなことがをりをりあつた。
 しかしMがその恋の苦痛をAに話さないのと同じやうに、Aもその心の中をMに語らうとはしなかつた。二人はやがてそこから起ち上つた。
 かれ等は来た時の路を静かに下りて行つた。重つた山は次第に開けて、眼下には赤ちやけた低い山で取巻かれたかなりにひろい野があらはれて来た。気が附くと、そこには白い烟を出して走つてゐる汽車が玩具か何かのやうに小さく小さく見えてゐた。
「もう一度、あとに戻つて、あの石窟のところにゐたいやうな気がしますね。あゝした静寂な芸術の世界もあるのにあれを捨てゝ、一歩々々娑婆に下りて行くのは、残念なやうな気がしますね」
「本当ですね」
 二人はかう言つただけであつた。かれ等は各自に自分のことを考へてゐた。





底本:「定本 花袋全集 第二十一巻」臨川書店
   1995(平成7)年1月10日発行
底本の親本:「アカシヤ」聚芳閣
   1925(大正14)年11月10日発行
入力:tatsuki
校正:林 幸雄
2009年4月9日作成
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