貧乏一期、二期、三期

わが落魄の記

直木三十五




 第一期
 僕は、僕の母の胎内にゐるとき、おへその穴から、僕の生れるうちの中を、覗いてみて、
「こいつは、いけねえ」
 と、思つた。頭の禿げかゝつた親爺と、それに相当したばゝとが、薄暗くつて、小汚く、恐ろしく小さい家の中に、坐つてゐるのである。だが、神様から、こゝへ生れて出ろと、云はれたのだから、
「仕方がねえや」
 と、覚悟をしたが、その時から、貧乏には慣れてゐる。
 僕の母親は東京にゐるが、父は、大阪にゐる。何んと云つても出て来ない。物好きな読者があるなら、僕の父の家を見に行くといゝ。さう、矢鱈やたらに存在してゐる家ではない。大阪南区内安堂寺町うちあんだうじまち二丁目、交番を西へ行つて、茶商と、おもち屋との間の露次を入ると、井戸のすぐ脇にあるのが、それである。二畳の玄関――それから、二畳半の奥座敷。それつきりである。
 いくら金持でも、物好きでも、合せて四畳半しか無い家には、余り住むことを欲しないものである。父は今年八十二歳になるが、五十年間、古着屋をして、かういふ家にゐたのである。
 だから、僕は、貧乏に慣れてゐて、貧乏の苦しさといふものを知らない。母親が、僕が、いくつのとしだつたらう――鶏卵を見せて、
「宗一、これが卵やで、御飯へかけて上げるから、たんと食べて、身体からだを丈夫にせんといかんで」
 と云つて、熱い飯に、卵をかけてくれた。それから、間食をした記憶が無い。可成り大きくなつてから、八の日に立つ縁日に行く時二銭もらつた記憶がある。そして、何を買はうかと、縁日中さがして歩いて、何も買へないでとうとう戻つてきた。十二三からは、父の後方うしろについて、質屋だの、古着市へ行つて、父と二人で古着を背負つて戻つてきた。中学へ行くやうになると、毎日、油揚げのさいばかりなので、
「湯葉が、たべたいな」
 と、いふと、母が、湯葉の屑を、風呂敷に一杯買つてきてくれた。僕の弟も、この湯葉屑の弁当を、随分持たされたらしく見受けるが、僕のせゐであらう。その時分から、十歳年齢としの下の弟が生れたので、これを背負つて、夕方、母の代りに、本町ほんちやうから骨屋町ほねやまちへ、惣菜を買ひに行つた。
 普通なら、僕の家では、僕を中学へはやれなかつたにちがひ無い。弟を大学へやる時には、父の力がつきて、弟は給費生として大学を出たのだ。だが、父は、自分の落魄してゐるのを、僕によつて回復しようとしてゐた。それは、僕の祖父が、郡山こほりやま藩の儒者だつたからであるし、僕が小学校に於いて、秀才だつたし、それから、四十の歳になつて生れた子だから、ひどく可愛いがつたのである。
 そして、父は、僕の為に、二十五年間奮闘をしてくれたが、僕の奮闘も、今年で十七年になる。親の子といふものは、争はれぬもので、父も貧乏の顔色を見せるのは嫌ひであつたが、僕もさうである。それは貧乏人のひがみの一つであると同時に、又、意気でもある。隣りに金持があつたが、そこから何かくれると、きつと、それと同等のお返しをする。長州藩の家老山県やまがた九郎右衛門、後に男山おとこやま八幡の宮司ぐうじをしてゐた人の落魄してゐたのを引取つて、世話をしてゐたし、んなに、ぴい/\してゐても、痩我慢一つで、押通してゐた。
 この親に、仕込まれたのだから、僕の痩我慢も、決して人後に落ちるものでは無い。恐らく、僕のいかなる友人でも、僕の父が、二畳と、二畳半の家に、未だに頑張つてゐることを知らないであらう。正月の「中央公論」「現代一百人」の中に、僕が卒業の写真(婦人公論、正月号に提出の物)をとつて、それを種に、洋服代をせしめたなど、僕の代々の貧乏を知らぬから出たゴシップで、そんな甘い手にのる親爺でもなければ、そんな余分な金など有るべき道理がない。第一に、僕は、入学当時から、洋服など着てやしない。

 第二期
 月二十円の学資だ。当時、それで、何うにか不自由ながら、やつて行けた。所が――こゝで、断つておきたい事は――今、僕には、名実共に、妻も、恋人も、一切の女人関係がない。嘘と思つたら、戸籍謄本を御覧になるといゝし、中本たか子女史と、同じ所に、食客をしてゐるから、中本氏に、僕が、旅行以外に(それは、毎月一度、父を訪問に、大阪へ行くのだ)外泊した事があるか、或は又、女が泊まつた事があるか、聞いてみるがいゝ。
(それで、今、若くて、利口で、美しい人を求めてゐる。本当に求めてゐるが、誰も戯談じやうだんにして取合はないし、女など居ないでも、さう淋しくないが、その内、恋人でもできて、矢張り、独身は、本当だつた、それなら、と後悔する人の無いやうに、ついでながら、広告しておく)
 所が、僕の妻、即ち、子供の母が(子供の母は必ずしも、妻では無い)彼女の若い時分、二十七歳の時(現在四十八歳)東京へ脱走してきた、のである。父も食客を置いてゐるから、僕もおいてやれと、置いてゐる内に、んしろ、二十七と、二十一歳の美少年とだから、かなはない。
 そこで、学校へ納める月謝を、家賃へ廻して、家をもつた。(卒業しなかつたのは、このせゐである)それまではよかつたが、卒業すると、学資は絶えるし、子供が一人生れてくるし、細田源吉と田中純とは、春陽堂へ、保高やすたか徳蔵は、読売へ、宮島新三郎はパトロンがゐるし、西条八十には女学生のフアンが――取残されたのは、青野季吉すゑきちと、僕とで、青野は、毎日夫婦喧嘩をしては、その報告と、休養とに、出てくる。
 本を売り、着物を入質いれじちし、女の物を売り、貸間へ落ちとうとうどん底へ来てしまつた。生まれながらの貧乏は、かういふ時に、きもが坐つてゐる。相馬御風氏の所へも、吉江孤雁氏の所へも、片上天絃氏の所へも、就職の頼みには、絶対に行か無いし、原稿など売れやしないから、そんな事はてんで考へない。友人にも、親族にも、黙つて、
「何とかなるよ」
 と、云ってゐた。だが、最後に「実業の世界」で、記者入用の広告を見て、今は無いが、日比谷の角にあつた同社へ行つた。十銭玉一つ。往復だと七銭、片道四銭の時分だ。電車にのつて考へた。
(片道なら六銭残る。もし採用されたら、もう四銭出して乗つて帰ればいゝのだが、採用されなかつたなら、歩かないと――)
 と、今にして思へば、試験官は、安成やすなり貞雄氏だつた。くりくり坊主が振向いて、
「もう、採用してしまつたから」
 さう云つて又ぐるりと、向う向いてしまつた。
(二度と、求職などに歩くものか)
 貧乏鍛えの負けじ魂は、この時に決心をした。そして女には、この事を黙つて、
「餓死はしないよ」
 実際、餓死状態までになると、大家だつて、警察だつて、すてゝはおくまいと、決心してゐた。何かの仕事をくれるだらう。その方が、あんな坊主に断られるよりはましだ、と考へてゐた。だが、もう、何うする事もできなくなつてゐた。その時に、相馬御風氏から一つの仕事が、田中純を通じて、持込まれた。これが、六十円だ。
(三つき食へる)
「戦争と平和」を、二百枚に縮めろといふ仕事だ。訳の出てゐない時分だ。死物狂ひに英訳を読んだ。書いた。三月経つた。保高が、
「妻君になら口があるんだが」
 と、云つてきてくれた。生れて三月目の赤ん坊がゐる。だが、女が働くより法が無い。今なら、女給などゝいふのがあるし、女房は美人だつたから、少々齢をとつてゐても、勤まつたゞらうが――その口は、読売新聞に新設される婦人欄の外務記者で、月給十八円、手当五円、電車のパス月に二冊。僕は、女を働かせて、子守りである。
 飯を焚くし、ミルクを作るし、夕方のさいから、こと/″\く僕だ。三四月からだつたゞらう。僕が、胡座あぐらをかいて子供を、脚の間へ入れると、丁度、股が枕になつて、すつぽり、子供の身体が入る。これを上下へ動かすと、子供はよく眠る。(この子供が十七になつて文化学院へ行つてゐる)そろそろ暑くなると、家にをられないので、風呂屋へ行つて、三時間位、かうして子守りをしてゐる。この期間八ヶ月つゞいた。八ヶ月目に、女は、
「もうあはせが無いと、いくら何んでも、働けない」
 と、云つた。これまでと夏の間に、さういふ金目の物は、皆無くなつてゐるのである。十月にかゝらうとするのに、女は単衣物ひとへもので、訪問して歩いてゐたのだ。僕は言下に、
「よせ」
 と、云つた。そして、大日本薬剤師会の書記になつた。それから、当時「わんや」にゐた神田豊穂とよほと知合になつて「わんや」が金を出して「春秋社」を創立した。そして、トルストイ全集を出した。こゝで、第二期の貧乏がしばらく、名残りを惜しみつゝ、別れて行つたのである。

 第三期
「人間社」をやつた。久米、田中、里見、吉井が同人どうにんである。高利貸から、金が借りられるまでになつてゐた。高利貸なんて、便利なものだから、ちよい/\、利用してゐると、強制執行が、時々きた。
 この時分、人間に第六感のある事を信じるやうになつた。それは、借金取の電話のかゝつてくる前になると、きつと、眼ざめるのである。
(いけない。電話だぞ)
 と、思ふと、きつと、鳴る。僕は決して、避けない。逢ふて、今無いよ、困りますねえ、差押へでもし給へ。それだから、貴下あなたは困る。せめて利子だけでも――と、三人の高利貸が、競売にすると損だから、利子をとる事ばかりにかゝり出した。かうなると、こつちの方が強い。
 大家の方は、十八ヶ月家賃をためた。僕が出入とも自動車だから、今に何んとか成るだらうと思つてゐる内に、そんなに、たまつてしまつたのである。家賃も、この位たまると、大家も出て行けと云はないし、こつちも、義理が悪くて動けない。
 この時に、救つてくれたのが、三上於菟吉おときちで「原泉社」といふ出版屋を二人で始めた。白井喬二の「神変呉越草紙」などといふ大衆文学の皮切りの作品を出したし、片岡鉄兵訳の、探偵小説も出した。所が、一向儲からない。その内に、と、思つてゐると、関東大震災だ。揺れやんで、市ヶ谷見附へ逃げて行つた時に、心の底から、
(やれ/\、せい/\した)
 と、思つた。そして、これをいゝ口実に、大阪へ行つてしまつた。
 菊池寛に、救済されたのは、この時分だ。僕は、着たつきり、女房も同然、それでも、この貧乏の時、高利貸からこそ金は借りたが、一人の友人からだつて、金は借りなかつた。菊地にだつて、
「困つてゐるからかしてくれ」
 とは、断じて云はなかつた。云はないでも、
「君、金いるだらう」
 と、云つて、たもとの中から、くちや/\の十円紙幣を、二枚か三枚かづゝくれた。上の女の子は、もう大きいから、時節の物を着んと承知しないが、下の男の子は、冬の最中、夏服をきて、下へ、綿など、脊負つてゐた。
「冬服を買つてやりたいが」と、それを、ずゐ分、苦にしてゐた時に、菊池が、
「これやるよ」
 と、云つて二十円くれた。今でも、この二十円をくれた時の有様を、はつきりと、憶えてゐる。貰ふとすぐに、さよならをして、街へ出ると、涙が出た。いくら拭いても出てきた。貧乏をして泣いたのは、この時だけだ。借金取りは、二度なぐつた。
 大阪で「プラトン社」へ入つて「苦楽」を編輯し、それから、キネマへ手を出して、これが、又、差押へつゞきだ。東京へ越さうと、荷造りをしたのが、そのまゝ競売にされるし、その時のが、今でも、時々、やつてくる。僕の家に、何んにも無いのは、そのせいで、無い方が、身軽だと思つてゐる。
「近頃は、いゝだらう」
 と、時々、人が云ふが、僕の手に入らん内に、半分消える稿料があるし、三分の一は、人が持つて行くし、貯金としては、金八百円ある切りだ。
 文士家業なんてものは、大抵、十年が寿命だ。少しは、ためておかんと、困るだらう、と、さういふ考へ方を僕はしない。食へなくなつたら困るから、僕は、勉強をする。一昨年僕は「××社」と絶交して書かなかつた。大衆作家が「××社」と絶交するのは、糧道を断つに等しい。だが貧乏育ちは、そこがいゝ。かまふもんか、貧乏が苦しけりや、勉強していゝ物を書くやうになるだらう、と。それで、一昨ゝ年さく/\ねんより勉強した。将来も、入るだけの金は使つて、貧乏に追はれながら、勉強で打勝つつもりだ。父の魂が、十分に残つてゐる。
 子供の事は、かう考へてゐる。一人で食へんやうな奴に、なまじ、家だの、小金だのを残してやる事は、罪悪だと。利子で食へるんだつたら、勿論罪悪だし、家賃はいらないから、百二十円の月給で、これ/\と、女房と二人で、おつかなびつくり世渡りして行くやうなせがれなら、何うなつたつていゝ。
 今に、プロの世の中になつたら、僕の父の奮闘と、僕の胎内からの奮闘とは、物嗤ものわらひ話になるだらう。然し、僕は、僕が貧乏で無かつたなら、今の僕の根強さと、楽観的とは、生れて来なかつただらうとおもふ。貧乏の無い人生はいゝ人生だが、貧乏をしたつて必ずしも、人間は不幸になるものではない。





底本:「日本の名随筆85 貧」作品社
   1989(平成元)年11月25日第1刷発行
   1991(平成3)年9月1日第3刷発行
底本の親本:「直木三十五全集 第十五巻」改造社
   1935(昭和10)年6月
入力:渡邉 つよし
校正:門田 裕志
2001年9月19日公開
2006年1月9日修正
青空文庫作成ファイル:
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●表記について