マルクス主義と唯物論

三木清





 言葉は魔術的なはたらきをする。或る人々にとっては、唯物論の名は、すでに最初から何かいかがわしいもの、汚らわしいものを暗示する。彼らはその名を聞くとき、肩をゆすぶり、十字を切って去り、それを真面目に相手にすることをさえ、何か為すまじき卑しきことであると考える。それにもかかわらず自己の唯物論として憚るところなく主張するマルクス主義は、もはや誰も見逃すことの出来ぬ現実の勢力である。一般に現実を回避することによって思想の高貴さを示そうとする者は、ただ単にか自己を粧うのみであり、かえってたまたま彼の思索の怯懦と怠慢とを暴露するにほかならない。かつて哲学はフランス革命に対する感激によって著しい進展を遂げたように、今はまたそれは何らかの仕方でマルクス主義と交わることによって、恐らく現在の無生産的なる状態を脱し得るであろう。マルクス主義はそれ自身多岐多様なる意味において語られる唯物論の長い歴史の列に属している。人々はこれに特に近代的唯物論の名を負わせている。このとき冠せられた近代的とは正確には何をいうのであるか。マルクス主義はそのいかなる構成の故に、そもそも唯物論として自己を規定するのであろうか。
 この問を正しく捉えようとする者は、唯物論の名とともに不幸にも最もしばしば連想されているところの、一は理論的見解に関する、他は実践的態度に関する、唯物論のかの二つの形態を遠くに追い退けておかねばならない。マルクス主義は第一に生理学的唯物論ではない。それは意識の現象が脳髄の物質的構造そのものから導き出され、もしくは思想が、あたかも尿が腎臓から排泄されるように、人間の脳髄から分泌されるというがごときことを説くものではない。かくのごとき唯物論は、それをマルクスが形而上学的と銘打って排斥した当のものである。ところでまたマルクス主義は第二に倫理学的唯物論でもない。それは人間の一切の行為を物質的欲望の満足と個人的幸福の追求とに従属せしめようという主張ではないのである。マルクスはこのような快楽主義的、功利主義的思想に対して手酷しい攻撃を加えており、それについてはつねに侮蔑と憎悪とをもって語っている。
 十八世紀風の、粗雑なる、粗野なる唯物論が退けられた後に、我々はまずいかにして、マルクス主義的唯物論のために、現実の地盤を獲得すべきであろうか。我々はすでに、唯物史観の構造を規定する人間学が、プロレタリア的基礎経験の上に立っていることを論述した。したがって近代的唯物論がまた実に近代的無産者的基礎経験のうちにその理論の具体的なる根源を有するということを明白ならしめることが、我々の現在の課題でなければならぬであろう。私はこの課せられた問題を十分に解決し得ることを期待する。
 私の意味する基礎経験とは現実の存在の構造の全体である。現実の存在はつねに歴史的必然的に限定された一定の構造的連関において組織されている。存在の組織――アリストテレスのいうτ※(鋭アクセント付きα、1-11-39)ξι※(ギリシア小文字ファイナルSIGMA、1-6-57)――は、最も原始的には、それらの全体を構成する契機であるところの、人間の存在と自然の存在との動的双関的統一のうちに横たわっている。それが現実性においてある限り、人間は自然における存在すなわち生であり、そして自然はこの生に関係して限定されてゆく存在である。基礎経験が我々にとって構造づけられたまたは組織づけられた存在、したがってまさに現実の存在そのものを意味する以上、人々はこの概念によって、何者かの意識もしくは体験が直接に表現されていると考えてはならない。私が無産者的基礎経験というとき、私は特に無産者の体験する、あるいは無産者のみの体験し得る意識をいっているのではない。かえって私はそれによって特殊なる構造ある現実の存在そのものを指しているのである。ひとは基礎経験の名においてなによりも存在的なるものを理解すべきであって、決して意識的なるもの、したがってまた観念的なるものを理解すべきではないのである。むしろ私は意識的なるもの、観念的なるものが一定の構造と組織とを有する――それ故にこそまさに存在は運動し、発展することが出来る、――存在の運動と発展の過程において初めて、現実的になるということを主張したいと思う。基礎経験の「基礎」とは、このものが種々なる意識形態の根柢となって、それを規定することを表わすのである。現実の存在そのものを特に「経験」と称するのは、さきにも記したごとく、存在をそれ自体において完了したものと見なすところの、したがってそれを特に運動において把握することなく、かえって静的なるものに固定する傾向を含むところの、素朴実在論から我々を出来る限り截然と区別するためである。かくして基礎経験とは、相互に自己の存在性を規定しつつ発展する諸契機を有する、動的なる、全体的なる存在にほかならない。しかるに存在を組織づけ、構造づけるものは、根本的には人間の存在の交渉の仕方である。この交渉の仕方そのものは歴史的社会的に限定されているのであって、「無産者的」とはこのような交渉の仕方のいわばひとつの歴史的類型であり、またそれによって規定された現実的存在そのものの歴史的なる性格である。それ故に我々はそれを恐らく正当に存在の歴史的範疇のひとつに算え得るであろう。
 さて無産者的基礎経験の構造を根源的に規定するものは労働である。無産者は感性的実践として特性づけられる交渉の仕方をもって存在と交渉する。このとき、彼らがそれをもって、またそれとともに働くところの物は、もし労働ということがその本質を維持すべきであるならば、彼らの心の映像というごとき観念的なるものであることが出来ない。実践はそれの存在においてそれの対象が実践する者とは異なる他の独立なる存在であることを本質的に必然的に要求する。そうであるから、最も徹底した観念論者であったフィヒテにあってさえ、自我は自己の「実践的なる」本質を発揮するために、自己の克服すべき「抵抗」として、自我ならぬものを要請し、かくして必然的に非我を定立するに到る、と考えられた。むしろフィヒテは自我の実践的なる根本規定から感覚、したがって感性的なる世界を演繹した。人間が実践的に交渉する限り、彼のはたらきかける存在がそれの存在において空無なる影であることは不可能である。もとよりフィヒテにおいては、実践はどこまでも叡智的活動であったから、自我がみずからの抵抗として定立する非我もなおかつ観念的なる性格を失うことがない、と彼は思惟することが出来たのであった。これに反して、我々にとって実践は、労働として、それ自身人間的感性的活動であるが故に、かくのごとき交渉の仕方においてその存在性を顕わにする存在は、最後まで独立なる、感性的にして物質的なる存在のほかに何物でもあり得ない。労働はあらゆる観念論を不可能にする。フォイエルバッハはいう、「観念論の根本欠陥はまさに、それが世界の客観性または主観性に関する、実在性または非実在性に関する問題を、単に理論的な立場から提出し、そして解決するところにある。けれど実際には世界は、それが意志の、存在に対する、また所有に対する意志の客体であるの故をもってのみ、もともとはじめて、悟性の客体なのである。」心の外に世界が実在するか否か、そしてこの世界が感性的物質的であるか否か、の思弁的なる問題は、労働において存在と交渉する者にとっては、問題となることさえ出来ぬ、ひとつの原始的なる事実において解決されてある事柄である。
* Feuerbach, Ueber Spiritualismus und Materialismus, besonders in Beziehung auf die Willensfreiheit, ※(ローマ数字10、1-13-30), 216.
 ところで労働において自然と構造的連関に立つ者として人間はまた彼自身感性的存在でなければならぬ。彼は彼の物質的な力をもって絶えず自然にはたらきかけ、かく交渉することにおいて直接に彼は自己の存在を感性的として把握する。すなわち労働は自然を感性として、そして人間をまたかかるものとして構造づける。この場合ひとは感性を抽象的に理解してはならない。それは感覚そのものもしくは純粋感覚というがごときものを意味するのでない。かえって感性とは存在の「存在の仕方」の概念である。それは魂または意識そのものの作用をいうのではなく、むしろこの現実的なる人間の「存在」――「私は魂ではなく、かえって人間である」、とプルタークの失われた書の断片の中ですでにひとりのギリシアの哲学者がいっている、――がその存在の現実性において存在するひとつの特殊なる仕方を示すのである。人間は言うまでもなく精神物理的統一体である。この存在を感性的として規定するとき、それは感覚主義的観念論の立場を採るものではもとよりないが、しかしながらまたそれは精神から絶対に分離された物質を説く機械的唯物論の立場に与するものでも断じてない。「真理は唯物論でも観念論でもなく、生理学でも心理学でもない。真理はただアントロポロギー(人間学)である」、とフォイエルバッハはいっている。彼は抽象的な観念論や唯物論に反対して、具体的なる、人間学的なる立場を支持する。単に霊魂が考えたり、感じたりするのでないと同じく、また単に脳髄が考えたり、感じたりするのでない。意識とはかえって全体的な人間的存在の具体的なる存在の仕方にほかならない。マルクスが「意識(das Bewusstsein)とは意識された存在(das bewusste Sein)以外の何物でも決してあり得ない」、といったのはこの意味に解されねばならぬであろう。総じて精神と物質とを絶対的に対立せしめ、その一つを排してその他を樹てる思想は、いずれも抽象的思惟の産物に過ぎぬ。そこでまたフォイエルバッハは記している、「人間を身体と精神に、感性的本質と非感性的本質とに分離することは、ただひとつの理論的なる分離である。実践において、生において、我々はこの分離を否定する**。」実践において生きるマルキシストは観念論者であり得ないとともに、抽象的な意味における唯物論の把持者であることも出来ないであろう。かくて唯物論と観念論の問題は、物質から意識を「導き出し」、もしくは思惟から存在を「演繹する」というがごとき、それ自身すでに形而上学的なる見地から放たれて、他の地盤に移されねばならぬ。マルクス主義はいかにして、具体性を失うことなしにしかも唯物論であり得るであろうか。答えはすでに与えられている。存在は人間がそれと交渉する仕方に応じてその存在性を規定するのであるが、人間はまたかくのごとく交渉する仕方に即して直接に自己の本質を把握する。それ故に労働すなわち感性的物質的なる実践において存在と交渉するところの者は、自己の存在の存在性あるいは存在の仕方を感性的物質的として理解せずにはいられないであろう。マルクス主義の唯物論にいう「物」とはかくして最初に人間の自己解釈の概念であり、我々の用語が許されるならば、一つの解釈学的概念であって、純粋なる物質そのものを意味すべきではないのである。労働こそ実に具体的なる唯物論を構成する根源である。
* Feuerbach, Wider den Dualismus von Leib und Seele etc., ※(ローマ数字2、1-13-22), 340.
** Op. cit., ※(ローマ数字2、1-13-22), 345.
 労働はその一層具体的なる規定において生産である。しかるに近代的なる生産はその様式において特に社会的である。マルクスは『経済学批判』の序説の首めにいっている、「社会において生産しつつある人々が――したがって人々の社会的に規定された生産が言うまでもなく出発点である。スミスやリカアドがそれをもって始めるところの、個々の孤立的な猟夫や漁夫は、十八世紀の想像力なき空想に属する。」我々の研究は現実には存在せぬ一個の抽象体であるロビンソンをもって始むべきでなく、社会において生産しつつある人間を出発点とすべきである。人間は彼ら相互に一定の関係に入り込むことなくしては生産し得ない。彼らは彼らの活動を相互に交換してのみ生産する。社会的である限り、私はいつまでも単に私としてとどまることが出来ない。その活動において相互の間に作用し合う限り、我は汝となり、汝は我となる。私は私に対しては我であり、同時に他の人に対しては汝である。私は主観であるとともに客観である。それ故にフォイエルバッハの次の言葉は正しい、「現実的な我はただそれに汝が対立するところの我であり、そしてこの者自身は他の我に対しては汝であり、客観である。しかるに観念的な我にとっては、客観一般が存在しないように、いかなる汝もまた存在しない。」我と汝との統一として人間の現実性は初めて成立する。人間はひとつの綜合的概念である。「私はただ主観―客観(Sabjekt-Objekt)としてあり、思惟し、否、感覚する**。」しかしながらこのとき、主客の綜合、もしくは統一(Einheit)というのは、両者の同一(Identit※(ダイエレシス付きA小文字)t)と直接には等しくないのである。ロマンティクのいわゆる同一哲学諸体系(Identit※(ダイエレシス付きA小文字)tssysteme)は主観と客観との絶対的な同一性を主張した。これに反して、我々にとって我と汝、主観と客観はどこまでも互に相異なる他の存在である、――もしそうでないならば相互の間の実践的交渉は不可能であろう、――そしてあたかもその理由によって人間は、社会的存在として、主客の綜合である。私は、私の存在の現実性の最後にして最初の根拠から、本質的に私を私以外の他の存在に関係させる存在であり、この関係なくしてあり得ない。このようにしておのおのの人間の存在が主観・客観であり、そしてその意味において独立的であるならば、そこにはもはや、あらゆる客観を生産するものとしての、もしくは支持するものとして観念的な絶対自我、または純粋意識は、どこにも存在すべき余地を見出し得ないであろう。社会的生産はあらゆる種類の絶対的観念論を不可能にする。
* Feuerbach, Ueber Spiritualismus und Materialismus etc., ※(ローマ数字10、1-13-30), 214.
** Ebd., 215.


 人間が社会的に生産することにおいて相交渉することによって、ここにひとつの著しい現象が生まれる。すなわち意識の埋没がそれである。従来の唯物論が処理するに最も苦しんだところの、したがってそれらのすべてに対してあらゆる機会において試金石であったところの「意識の問題」は、この現象を根本的に把握することによってのみ無理なしに、具体的に解決され得る、と私は信ずる。
 現代の認識論の中心問題は意識である。意識がむしろ今の哲学にとって唯一の、あるいはすべての研究対象を形造っている。それはいかなる哲学も必ず取扱わねばならぬ、最初にして最後の問題であり、それ故に自明なる、永遠なる問題である、と考えられている。しかしながら、我々にとって自明なるものは多くの場合我々にとって悪しき因縁であるものであるに過ぎず、永遠なるものは時として我々にとって宿命であるものを意味する。我々はかくのごときものを支配し得る位置に身をおくのでなければ、我々の学問、また我々の生を発展させることが出来ない。現代の哲学は意識の問題に対してそれを自由になし得る優越なる立場を発見し得るのでないならば、恐らく身動きのならぬ、もはや前進することの出来ぬ状態に固着されてしまうであろう。この状態を脱却するためには、哲学は我々が歴史的破壊的方法と名づけようと欲する特殊なる方法にしたがって、自己の道を開拓してゆかねばならぬ。けだし一切の存在は歴史的であり、歴史的なる存在はすべて我々を解放することから我々を圧迫することにまで必然的に転化する矛盾の存在である。この矛盾を歴史的必然性の根源において把握することが我々の要求する方法である
* 我々の学問にとって最も重要な意義を有するこの方法については他の場合に詳論されるであろう。
 あらゆる存在は発見された存在である。いかなる存在ももともとから単純にあるのでなく、我々が歴史においてそれに出会いそれを見出して在るのである。意識が哲学の中心に現われて来たには歴史がある。外的社会的生活の一切を排して個人の内面的生活に唯一の、最高の価値をおくキリスト教の宗教的態度において意識は初めてその存在において捉えられたのである。宗教的関心の要求にしたがって、内的世界の実在性と独自性とを明らかにし、意識の事実の無限なる豊富さを顕わにしたのはアウグスティヌスであった。かくして発見され闡明された意識は、デカルトに至って、知識、殊に数学、力学等の認識の確実性の基礎づけに対する関心によって著しい変容に出会った。アウグスティヌスにあっては、意識はそれが精神生活にとって何物かを意味する限りにおいて解明されたに反して、デカルトの意識の解釈は絶えず学的認識に対する支配的なる関心によって導かれている。カントはさらに、彼においてはまた数学的自然科学の普遍妥当性の権利づけがその中心問題であったのであるが、この関心からそれまでは「存在の領域」であったところの意識を意識一般の概念のもとに「主観」として解釈し直した。それとともに主観はもはや存在の一つであることをやめて、むしろあらゆる存在を向うに廻してそれを統括するという普遍的意味を負うものとなった。最近においてフッサールの現象学は、――彼にとっても数学や形式論理学の認識の理念性のモデルである、――デカルトの物心二元論を排棄しつつ、しかも意識を、アウグスティヌスの場合ではその最も根本的なる規定は神と関係させられて恐怖や欲望として顕わにされたところの意識の存在を、デカルトの Cogito ergo sum の方向に徹底して解釈するとともに、このものにすべての存在がそれに還元されるという普遍的意味を担わせている。このようにして、もともと宗教的内面性とのつながりにおいて見出され、その意味においてその存在を規定された意識は、その後次第にその根源を離れて、純粋なる理論、それも主として形式論理学、数学、自然科学等の基礎づけをなすべき任務を負わされて、ついにその視点からのみ根本的には解釈され闡明されることになった**。この転釈(Umdeutung)の過程において意識は次第に普遍的意味を獲得した。けれどこの普遍的意味は、マルクス的用語における「妖怪的対象性」(gespenstige Gegenst※(ダイエレシス付きA小文字)ndlichkeit)のうちに横たわっているに過ぎない。かつて人間の生を解放する役目をもっていた意識は、今はそれの固定された妖怪的対象性によって我々を身動きもならず支配する。意識は今や矛盾の存在である。マルクス主義的唯物論はこの矛盾の解決でなければならぬ。
* デカルトとアウグスティヌスとの対立を、デカルトと、彼と同時代に生きていてアウグスティヌスの思想につながっていたパスカルとの対照において眺めることは、我々にとって教訓多きことであるであろう(拙著『パスカルにおける人間の研究』参照)。
** 現代の心理学もまた主知的傾向から自由でない。そこでは知覚、表象、注意、思惟などが主なる問題を形成している。これに反して中世の哲学的心理学においては如何であるか。情緒もしくは情念(Passiones)はそれの最も好んで取扱った対象であった。近世の初めに当っても、デカルトやスピノザは、その主知主義的傾向にもかかわらず、また情念について詳細な、卓越した研究を遺している。
 我々が足をギリシアの思想世界の中に踏み入れるとき、そこには全く新しい展望が開ける。我々はもはやいわゆる主観の概念に出会うことがない。今日主観と呼ぶ代りにギリシア人は我々[#有気記号付きη、U+1F21、155-下-6]με※[#曲アクセント付きι、U+1FD6、155-下-6]※(ギリシア小文字ファイナルSIGMA、1-6-57))といった。主観が我々であると同時に、主観の内容としての意識に対して、我々は言葉λ※[#鋭アクセント付きο、U+1F79、155-下-8]γο※(ギリシア小文字ファイナルSIGMA、1-6-57))として内容を規定された。ギリシア人にとっては人間は本質的に社会的であり、孤独なる人間というがごときはそれ自身矛盾した概念であった。したがって我は最初から[#「最初から」は底本では「最切から」]我々を意味する。そして社会的である限り、意識はつねにただロゴスによって代表され、むしろロゴスにおいてのみ存在することが出来る。そこで彼らは人間を二重の規定において、すなわち、社会的なる生存(ζ※[#曲アクセント付きω、U+1FF6、155-下-15]ον πολιτικ※[#鋭アクセント付きο、U+1F79、155-下-15]ν)として、言葉ある生存(ζ※[#曲アクセント付きω、U+1FF6、155-下-15]ον λογιστικ※[#鋭アクセント付きο、U+1F79、155-下-16]ν)として、最も根本的に規定し得ると考えたのである。社会的に生きる限り、個人の意識は公共的なる存在である言葉の中に埋没する。個人は自己の意識を言葉をもって表現することによって、それの主観性を言葉の中に没入せしめて、それを公共的ならしめることなしには、社会的に交渉し得ない。言葉こそ社会において唯一の現実的なる意識である。人間を歴史的社会的存在として考察したマルクスはいっている、「言葉は意識とともに古い、――言葉は実践的なる、他の人間に対しても存在する、したがって私自身にとっても存在する、現実的なる意識である。そして言葉は、意識と同じく、他の人間との交通の欲望と必要とから初めて、生ずる。」ここでは運動する空気の層、音、簡単に言えば言葉の形式において現われる物質と結合した精神が意識と考えられたのである。物質を呪う「純粋なる」意識は実践的であることが出来ない。我々はフォイエルバッハにおいても同じような思想を見出すことが出来る、「人間は人間に話すという器官を通じて彼の最も内面的な思想、感情、欲望をみずから進んで伝達する。ところでこの感性的に言い表わされた本質から区別されて、魂、内面、本質そのものは一体何であるのか**。」
* Marx-Engels Archiv, ※(ローマ数字1、1-13-21). Bd., S 247.
** Feuerbach, Wider den Dualismus von Leib und Seele etc., ※(ローマ数字2、1-13-22), 343.
 それ故に私は進んで言葉が存在に及ぼすはたらきのうち最も注目すべきものに関して研究しよう。言葉はその具体性において社会的である。話すということは、或る人が、或る物について、或る人に対して話すという構造をもっている。言葉のこの構造によって、語られた物は、語る私のものでもなく、聴く彼のものでもなく[#「ものでもなく」は底本では「ものてもなく」]、誰という特定の人のものでなく、我々の共同のものになる。このとき存在を所有する者は「我々」であり、「世間」であり、範疇的なる意味における「ひと」(ドイツ語の”man“――フランス語の≪on≫)である。言葉の媒介を通じて初めて存在は十分なる意味で公共的となる。そして世界を相互いに公共的に所有することによってまた初めて社会は成立する。言葉が社会的であるというのは、言葉によって社会が存在するということである。アリストテレスも人間がロゴスをもっていることが彼の特に社会的なる存在である理由だと述べている**。しかるに存在が言葉によって表現されて社会的となり、「ひと」という範疇において成立する世界へ這入って来るとき、それはひとつの著しい性格を担うに到る。我々が存在の凡庸性もしくは中和性と名づけるものがそれである。私がいま机を買いに行くとする。私は家具屋の主人に向って「机をくれ」という。このとき彼は私をただちに理解して、若干の机を取り出して私に示すであろう。彼が私を理解し得るのは机が言葉において中和的にされているからである。家具店よりの帰途私は電車に乗る。車の中には高位高官の人もあるであろう。場末の商人もあるであろう。また悲しみに充てる人もあり、喜びに溢れたる人もあるであろう。しかしながらこの場合それらの人々のすべては乗客という言葉において凡庸化され、むしろこの言葉の見地から経験されるのである。そのとき二、三の空席が車中に見出されるならば、私はそのいずれであるかを構わず私に与えられた席に腰を卸すであろう。それはそれらの空席がすべて空席として中和的にあるからである。存在がかくのごとく中和性においてあることによって、我々の特に社会的なる実践は可能になる。机がもし中和的に存在し得ないならば、商人は机を売り、私は机を買うことは不可能であるであろう。言葉はその根源性において理論的でなくかえって実践的である。存在の凡庸性の現象はこのことを何よりも明らかにする。言葉が本来社会的実践的であるということを理解するのは、ロゴスとともにまず第一に論理あるいは理論を考えることに慣れている今の人々にとって極めて大切である。そのことと関係して、存在の中和性があたかも概念の普遍性に基づくもののごとく見なす普通に行なわれている誤解から、ひとは全く自由にならねばならぬ。私が家具屋と理解し合うのは机という概念の普遍性によるのである、と一般には思われている。しかしながら、私が「机をくれ」というとき、私は抽象的なる、すなわち理論的に普遍的なる机を意味しているのではなく、かえって私は一個の具体的なる、現実的なる机を買おうと欲しているのである。しかもそのとき机という言葉は私が商人の示す種々なる机を選択し吟味した後買って帰るところの全く特定の机をまさに最初から意味しているわけでもない。もしそうであるならば、何故に商人は一個の机の代りに数個の机を取り出し、そして何故に私は選択と吟味を行なうか、は理解し難きことであろう。存在の中和性は概念の抽象性もしくは普遍性によって成立するのでもなく、また反対にそれの特殊性もしくは個別性によって基礎づけられているのでもない。むしろそれは独立なる、具体的なる、しかもそれぞれの存在を表現する。簡単にいえば、それは存在の Jeweiligkeit のいいである。現実のどれでもの存在が凡庸性ということによって意味される。アリストテレスのいうτ※[#重アクセント付きο、U+1F78、158-上-2] ※[#有気記号と鋭アクセント付きε、U+1F15、158-上-2]καστονとはかかる性格における存在であって、多くの場合考えられているように個別的なるものの謂ではない。言葉が最初には実践的性質のものであり、そしてこの実践が本質的には社会的性質のものであるところに、存在の凡庸性はその根源をもっている。このとき存在はもちろん交渉的存在である。前段で述べた、「意識―主観」の形式にあってはそれに対するものは客観または対象としての存在であるが、これに反して「言葉―我々」の形式においてそれに対するものは交渉的存在であるのほかない。それ故にギリシア人は物をπρ※[#曲アクセント付きα、U+1FB6、158-上-12]γμαという語で表わした。ところで存在の凡庸性において意識の埋没の行なわれることはもとより明らかであろう。我々が存在に対して懐く愛も憎しみも、主観的なるもの、内面的なるものの一切はそこでは埋没してしまい、したがって存在の主観的なる、内面的なる規定はそこでは隠され蔽われてしまう。けれどもかくして失われるものに比して得られるものは一層大であるであろう。人間の社会的なる、実践的なる規定はそこにおいて発揮され、満足させられることが出来るのである。しかしながら、最も注意すべきことには、かつてはこのように人間の社会性を発展させることに役立ち得た存在の凡庸性は、今ではそれの発展に対する桎梏にまで転化した。かかる転化が行なわれるためには、現実の存在そのものの構造においてすでに重大な変化が成就されていなければならない。けだし近代における存在の凡庸化の原理は商品である。商品が次第に支配的範疇となり、ついには普遍的範疇となるに及んで、存在の凡庸性は人間の社会性の発展を拘束し、妨害することにまで到達した。存在の凡庸性はかくして矛盾に陥り、それとともにロゴスもまた同じ矛盾に陥らねばならなかった。我々はこのことについて考察を試みるであろう。
* アリストテレスは言葉が三つのものから結合されていることをすでに述べている。すなわち第一には話す人([#有気記号付きο、U+1F41、158-下-15] λ※(鋭アクセント付きε、1-11-49)γον)、第二にはそれについて彼が話すところのもの(π※[#ε異体字、U+03F5、158-下-16]ρ※[#重アクセント付きι、U+1F76、158-下-16] ο※[#無気記号と曲アクセント付きυ、U+1F56、158-下-16] λ※(鋭アクセント付きε、1-11-49)γ※[#ε異体字、U+03F5、158-下-16]ι)、第三にはその人に対して彼が話すところの人(πρ※[#重アクセント付きο、U+1F78、158-下-17]※(ギリシア小文字ファイナルSIGMA、1-6-57) ※[#有気記号と鋭アクセント付きο、U+1F45、158-下-17]ν)。Aristoteles, Ars rhetorica, A. 3.
** Derselbe, politica, A. 2.
 資本主義社会の全体を明らかにし、それの根本的性格を示そうとした、マルクスの二つの大なる、成熟した著作が、ともに商品の分析をもって始められているのは偶然でない。社会とは近代においては現実には商品生産社会である。人類の発展の現段階にあっては、いかなる問題も、それの究極の分析は必ず商品を指し示し、それの最後の謎はつねに商品の構造のうちに横たわっている。商品の問題は特殊科学としての経済学の特殊問題ではなく、さらにそれの中心問題であるばかりでなく、かえって資本主義社会そのものの全体的なる問題である。商品の構造はこの社会におけるあらゆる存在の対象性の形式の原型である。この社会的特性に応じて、存在の凡庸化の傾向は極限にまで推し拡げられる。そしてそれに応じて意識は我々の現実の生活からますます埋没し、かくて存在の物質化はいよいよ支配的となる。そこでは人間の労働、その最も内面的なるものも、一個の商品に過ぎない。最も物質的なる労働といえども、もとよりそれが精神的なる意味を有し得ることを妨げるものではない。或る時は他に仕えて他のために働くということが、一つの道義的精神の現われであることもあったであろう。しかるに商品が全体の社会的存在の普遍的範疇として支配する資本主義社会においては、単に人間相互の間の意識的なる関係のみならず、一切の社会的関係そのものが埋没し、没入してしまう。商品の構造の本質は人間の間の関係が物質性の性格をえ、かようにしてこのものにそれ自身の厳密な法則性において人間の間の関係の一切の痕跡を隠蔽するところの、かの妖怪的対象性を賦与するところに存在する。本来おのおのの労働は社会的全体的労働の一部分であり、そしてそれらのすべての部分は互いに依存する。ところがそのことは、我々の社会においては、事実上は相互のために働くところの人間の間の社会的連関は、我々の眼に隠されてしまうような形式において、行なわれているのである。資本主義の世界においては人間の間における労働結合は眼に見えぬものである。それは何によってであるか。事物がすべて商品の形態をとり、市場において運動し、そして人間が合理的に市場を支配するのでなく、かえって市場がその価格をもって人間を支配しているからである。人間の間の関係はかくのごとくにして商品の間における関係として現われる。これがまさにマルクスが「商品の魔術性」(Fetischcharakter der Ware[#「Ware」は底本では「Waare」])と呼んでその秘密を暴露したところのものの意義である。彼は次のごとく記している、「商品形態の全秘密はそれ故に単純に、それが人間に彼ら自身の労働の社会的性質を、労働生産物そのものの対象的性質として、これらの物の社会的なる自然性質として反射し、かくしてまた総労働に対する生産者の社会的関係を、彼らの外部に存在する対象の社会的関係として反射するところに横たわっている。この quid pro quo によって、労働生産物は商品、すなわち感性的に超感性的なる、あるいは社会的なる物となる。……ここに人々の眼に物と物との関係の幻想的形態を採って映ずるものは、ただ人間自身の一定の社会的関係にほかならない。」商品の世界のこの魔術的性質は、商品を生産する労働の特有なる社会的性質から生ずるのである。この根本的事実によって、その背後に真実には人間の相互的労働が隠れている事物の運動は自己の法則にしたがって固有の運動をし、そして逆に人間を支配するに到る。それによって、人間に彼自身の活動、彼自身の労働が或る客観的なるもの、彼から独立なるもの、すなわち商品として、彼を人間とは縁なき自身の法則性によって支配するものとして対立することとなる。簡単に言えば、人間は人間みずからの作ったものによって支配される。ここにおいて「人間の自己疎外」(die menschliche Selbstentfremdung)は成就される。資本主義社会の特質は存在の凡庸化がかくのごとき自己疎外において普遍的に完成するところにある。
* Das Kapital, ※(ローマ数字1、1-13-21), 38-39.
 この社会にあって無産者的存在の可能性はいかなるものであろうか。社会的存在の客観的現実性は、それの直接性においては、無産者にとっても有産者にとっても「同一」である。けだし無産者は資本主義的社会秩序の必然的産物として現われる。一切の生のかの物質化をそれ故に無産者は有産者と共同に分有する。しかしながら両階級がこの同一なる直接的現実性を、それの媒介性において、本来の客体的現実性にまで高める範疇は、両階級の存在の存在の仕方の相異なるにしたがって、根本的に相異なるものでなければならぬ。マルクスはこのことを次のごとき明瞭な言葉をもって言い現わしている、「有産階級と無産者の階級とは同一の人間的自己疎外を現わす。しかし第一の階級はこの自己疎外において幸福さと確実さを感じ、この疎外を彼自身の力として知り、そしてそれにおいて人間的存在の仮象を所有する。第二のものはこの疎外において否定されたのを感じ、それにおいて彼の無力と非人間的存在の現実性を見る。」彼はさらに我々に語る、「一切の人間性からの、人間性の仮象からさえもの抽象は、発達したプロレタリアートにおいて実践的に完成されているが故に、プロレタリアートの生活条件のうちに、今の社会のすべての生活条件はそれの最も非人間的頂点において総括されているが故に、人間はプロレタリアートにおいて自己自身を亡失しており、しかしながら同時にこの亡失の理論的意識を獲たのみならず、またもはや拒むべからざる、もはや掩うべからざる、絶対的に命令するところの窮迫に――必然性の実践的表現に――よって直接的に、この非人間性に対する叛逆にまで余儀なくされているが故に、それ故にプロレタリアートは自己を解放し得るし、また解放せざるを得ぬ。」このようにして、同じ直接的現実性に対して相反する二様の実践的態度が可能となる。有産者はこの社会の自己疎外において彼らの存在を肯定されているから、その存在の必然性にしたがって、この疎外の現象形態をそれの資本主義的地盤から、したがってそれの歴史性から游離せしめて、それを独立のものとし、そしてそれを――商品形態において構造づけられた人間の間の関係を――人間の関係の可能性一般の無時間的なる典型として永遠化する。かくのごとき永遠化は一応可能であるかのごとく見える。なぜなら今や商品の構造は社会的存在一般の対象性の原型として普遍的意味を担うことにまで到達したからである。そこで彼らはこの永遠化を実現するためにいわゆる「永遠なる」イデオロギーを打ち建て、いわゆる「普遍妥当的なる」理論を築き上げる。真実を言えば、このそれ自身抽象的なる永遠性もしくは普遍妥当性は、商品における人間の自己疎外の、人間性そのものからの抽象の反映にほかならない。資本主義の発展の過程において、商品の構造は絶えず一層深く、一層運命的に、一層構成的に人間の意識の中にはいってゆく。あらゆるロゴスは商品の範疇の普遍的なる、決定的なる支配のもとに、人間から抽象された、したがって現実の存在から游離された、悪しき意味におけるイデオロギーに移り変ってゆき、かくして逆に人間性の発展を抑制し、圧迫する。しかしながら有産者にはこのようなイデオロギーを批判する可能性がその存在のうちに与えられていない。なぜかならば彼らの存在はそこにおいて直接に肯定されており、それ故に存在を過程において、歴史において考察することが拒まれているからである。これに反して、無産者は現在の社会においてその存在が否定されているが故に、まさしくその否定性の故に、存在を運動性において、歴史性において把握することが出来、また把握せざるを得ない。彼らはいわゆる永遠なる理論が資本主義社会の歴史的条件の上に立っていることを理解する。「支配階級の思想がおのおのの時代において支配的なる思想である**。」彼らはいわゆる普遍妥当的なるイデオロギーが有産者階級のイデオロギーに過ぎないことを理解する。プロレタリアートは、その存在の必然性にしたがって、必然的に批判的である。私はさらにこの批判の特性、そしてそれと関係して、マルクス主義的唯物論の特性を見るであろう。
* Die Heilige Familie oder Kritik der kritischen Kritik, Nachlass, ※(ローマ数字2、1-13-22) Band, S. 132-133.
** Marx-Engels Archiv, ※(ローマ数字1、1-13-21), 265.


 イデオロギーを現実からの游離において見出した批判は、必然的に現実そのものから出発せねばならぬ。したがって唯物論はその限りにおいてまず現実主義、実証主義を意味する。マルクスの先蹤として、宗教的イデオロギーの批判に従事したフォイエルバッハは、すでに記している、「思弁は宗教をしてただ、思弁みずからが考えた、そして宗教よりも遙かによく語ったところのものを、語らしめる。それは、宗教から自己を規定せしめることなく、宗教を規定する。それは自己から出ることがない。しかるに私は宗教をして自己みずからを語らしめる。私は単にそれの聴手と通訳をなし、それの後見をなさない。案出することでなく、――被いを去ること、〈現実の存在を顕わにすること〉、が私の唯一の目的であった。正しく見ることが私の唯一の努力であった。」すなわち『キリスト教の本質』の中で彼の行なおうとしたことは、「物に忠実な、それの対象に最も厳密にくっついてゆく、歴史的―哲学的分析**」(eine sachgetreue, ihrem Gegenstand sich aufs Strengste anschliessende, historischphilosophische Analyse)にほかならなかったのである。彼はまたこうもいっている、「私は精神上の自然研究者にほかならぬ、ところで自然研究者は器具なしには、物質的なる手段なしには何事もなし得ない。」物質的なる手段とは経験の謂である。もし我々が同様の思想をマルクスにおいて見出し得なかったならばむしろ不思議であるであろう。実際、彼はいっている[#「いっている」は底本では「いつている」]、「我々がそれをもって始めるところの前提は、随意なものではなく、ドグマではない、それは、それからひとはただ想像においてのみ抽象し得る、現実的な前提である。……これらの前提は純粋に経験的な方法で確められることが出来る***。」また我々は、「この考察の仕方は無前提ではない。それは現実的な前提から出発し、それを瞬時といえども離れない。その前提は、何らかの空想的な閉鎖性と固定性における人間ではなく、かえって一定の条件のもとにおける、彼らの現実的な、経験的に見ることの出来る発展過程における人間である。」という言葉に出会う。マルクスは唯物史観の歴史考察を、従来の観念的な歴史叙述に対立せしめて、「現実的な歴史叙述」(die reale Geschichtschreibung)と呼んでいる****。あたかもそのようにマルクス主義は本来の意味における現実主義である。そしてこのことはマルクス主義の理論的構成の必然的帰結であるであろう。この理論はもともと自己のうちに実践の契機を含んでいる。しかるに存在に対して実践的にはたらきかけ、それを実践的に支配し得るためには、存在それ自身の法則を認識せねばならぬ。「自然はそれに従うのでなければ征服されない」、とはベーコンの有名な言葉である。現実の変革の理論は、現実にどこまでもかぶりついてそれの運動の法則を見究めるほか方法をもつことが出来ぬ。マルクス主義は、革命の理論として、現実から游離した悪しき意味におけるイデオロギーではあり得ないのである。
* Vorrede zur zweiten Auflage vom ”Wesen des Christenthums,“※(ローマ数字7、1-13-27), 283.
** Op cit., ※(ローマ数字7、1-13-27), 290.
*** Marx-Engels Archiv, ※(ローマ数字1、1-13-21), 237.
**** Zur Kritik der politischen ※(ダイエレシス付きO)konomie, [#ローマ数字46、163-下-14].
 唯物論の批判的実践的意義を認識することは極めて重要である。マルクスは『神聖家族』においてフランスの唯物論と対質するに際して、それのこの意義を明らかにしている。彼に従えば、フランスの唯物論にはその起源をデカルトにもつものと、ロックにもつものとの二つの方向が存在する。前者は本来の自然科学の中へ流れ込んでしまったに反して、後者は直接に社会主義または共産主義と結合した。例えばフーリエは直接にフランスの唯物論の思想から出立している。共産主義と十八世紀の唯物論との連関は、主として、このものが神学や観念論的な形而上学、そして両者から影響されている道徳に対して行なった批判の鋭さのうちに存する。唯物論は神学の独断的な信仰、形而上学と倫理学との説く永遠なる観念や理念に反対して、時と境遇とに応じて人間の道徳や価値判断の変化することを教えた。マルクスはイギリスおよびフランスの社会主義または共産主義が唯物論の社会批判的方面と特に密接に結合していることを示している。彼は、「人間の本性の善、平等な知的天分、経験、習慣、教育の万能、人間に対する外的境遇の影響、産業の重大な意味、享楽の是認、等々に関する唯物論の説から、それと共産主義および社会主義との必然的な連関を洞見するには、大なる慧眼を少しも必要としない。」と述べた。唯物論の実践哲学が何よりも特に共産主義の基礎であったのである。しかしながら、マルクスは同時に、この実践哲学が何よりも特に共産主義の基礎であったのである。しかしながら、マルクスは同時に、この実践哲学と関係する唯物論の理論的方面の、したがってまたこの実践哲学そのものの欠陥を紛う方なく認識した。この欠陥は第一に、十八世紀の機械的唯物論が存在の歴史性について何事も理解しなかったところにある。それ故にそれは一つの抽象的理論に終り、その上に立てられた実践哲学はまた一つの空想に終らねばならなかった。それは真に現実的な、そしてその意味において真に学問的な方法を知らなかった。マルクスは『資本』の中で、「抽象的、自然科学的唯物論の欠陥が歴史的過程を除外するにある**」ことを記している。これに反して、「唯一の唯物論的な、そしてそれ故に学問的な方法」(die einzig materialistische und daher wissenschaftliche Methode)であるマルクス的方法は、現実をそれの現実性において、歴史的過程において把握する。第二に、「あらゆる従来の唯物論(フォイエルバッハのそれをも計算に入れて)の主欠陥は、対象、現実性、感性がただ客観のまたは直観の形式のもとにおいてのみ把握され、感性的・人間的活動、実践として把握されず、主観的に把握されないことである***。」いわゆる「純粋なる唯物論者達」は、人間を静的、観照的存在として分析し、分解する。これに反してマルクス主義にとっては、生産行為――人間相互と自然との材料交換行為――が、人間の存在の、生活の、意識の基底である。「初めに行為があった」(Am Anfang war die Tat)、それ故に人間は思惟する前に行為していた、――これがマルクス主義的唯物論の根柢である。
* Nachlass, ※(ローマ数字2、1-13-22), 238-239
** Das Kapital, ※(ローマ数字1、1-13-21), S. 336 Anm※(グレーブアクセント付きE小文字)rkung.
*** Die Thesen ※(ダイエレシス付きU小文字)ber Feuerbach, ※(ローマ数字1、1-13-21).
 従来の唯物論はあたかも右の欠陥の故に、それの上に立つ変革的実践は単にユートピアを描くにとどまり、あるいはそれ自身は現存の世界の革命的変革に到ることなく単にイデオロギーの理論的変革を要求するにとどまった。これらの唯物論はすべて片端である。けだし唯物論は、空想的実践にはしるときそれの現実主義的本質を失い、イデオロギーの範囲内に終始するときそれの唯物主義的特質を発揮し得ないからである。簡単に言えば、それらのすべては理論と実践との弁証法的統一を理解しない。これを把握するものはまさにマルクス主義的唯物論である。このものは第一に理論を重んずる。それはユートピア的社会主義に対して自己を科学的社会主義として規定する。「革命の理論なくしていかなる革命の運動もあり得ない」(レーニン)、とはそれのモットーである。現実の忠実な歴史的哲学的分析がそれの第一の課題である。第二にこの唯物論は本質的に実践的である。マルクスはいう、「実践的唯物論者、すなわち共産主義者にとっては、現存の世界を革命すること、現在の事物に実践的にはたらきかけ変化することが問題である。」しかしながら、マルクス主義は理論と実践とを、第一のもの、第二のものとして、単に対立せしめるのでなく、かえって両者を弁証法的統一にもちきたす。そこでは理論は実践の要求する限りの理論であり、実践は理論に指導される限りの実践である。理論と実践との対立物は相互に制約し合い、実践は理論に指導されることによって発展し、かくして発展した実践はさらに新しき段階における理論を要求する。理論は実践を発展させるとともに自己を発展させ、かくして発展した理論はさらに新しき段階における実践を要求する。理論と実践とはかかる必然的統一においておのおのの段階を通じて相互に発展する。かくのごとき弁証法的統一の故に、理論は決して現実の地盤から游離することが出来ない。マルクス主義がひとつのイデオロギーでありながら、決して悪しき意味におけるイデオロギーであり得ない理由は根本的にはここに横たわっている。またあたかもその故に、ひとはマルクス主義の概念のもとに固定したドグマを考うべきでなく、かえってつねに発展の過程にある現実的なる理論を理解すべきである。そしてマルクス主義が従来の哲学的用語法における相対主義もしくは絶対主義のいかなるものでもない理由は、またまさにその故である。この理論と実践との弁証法的統一においてマルクス主義はそれの現実性の頂点に到達する。マルクス主義が単に従来の唯物論に対してのみならず、またあらゆる観念論に対して、理論として有する最も固有なるもの、最も優越なるものは、実にかくのごとき弁証法のうちに表現されている。そしてこのような特質はマルクス主義が無産者的基礎経験をそれの現実の地盤とする限り必然的なる帰結として生まれるであろう。今ひとりの労働者が机を作るとせよ、彼は木材を鋸でひき、それに鉋をかけ、鑿で孔を穿ち、そしてそれを組合わせる。このことは彼の労働過程そのものから段階的に要求される。鋸でひくとき彼はその法則を必要とする、けれどそのとき彼は鉋を用いる法則を必要としない。このものは彼が鉋をかける段階にまで進んだとき初めて必要とされるのである。鋸でひく実践は必然的に鉋をかける法則を要求するに到る。あるいは鋸を用いる法則は必然的に鉋を使う法則にまで転化する。かくのごとく、無産者的労働者にあっては理論と実践とは弁証法的統一にあり、これなくしては彼は彼の存在をもち得ないから、彼にとってはいわゆるイデオロギーは成立のしようもないのである。
* Marx-Engels Archiv, ※(ローマ数字1、1-13-21), 241.[#「241.」は底本では「241」]
 マルクス主義は理論と実践との弁証法的統一を知るが故に、それはいかなる当為をも、いかなるゾルレンをも知り得ない。マルクスはいう、「共産主義は我々にとって作り出さるべき状態ではない、現実がそれに準ぜねばならぬ理想ではない。我々は今の状態を止揚するところの現実的なる運動を共産主義と呼ぶ。この運動の諸条件は今現存する前提から生ずる。」そこでエンゲルスもまたいっている、「マルクスはそれ故に彼の共産主義的要求を決して我々の道徳的感情の上に基礎づけなかった、かえって彼はそれを我々の眼前で毎日日増に成就されつつある、資本主義的生産社会の必然的な崩潰の上に基礎づけた、彼は、ひとつの単純な事実である、剰余価値は支払われざる労働から構成されている、ということを語るのをもって満足する**。」ところでマルクス主義に従えば、この理論的な必然性は必ず実践的な表現を得ていなければならない。プロレタリアートの窮迫(Noth)はまさにこの必然性の実践的な表現(der praktische Ausdruck der Nothwendigkeit)である、とマルクスは考える。今や人類の大衆が全く「無産」となり終り、彼らの貧困はもはや忍び難きものとなった。かかる現実を将来した資本主義的生産方法はもはや「堪え難き」力となり、それを革命することはもはややむを得ざることとなった。無産者の生活の窮迫はかくしてもはや拒否し得ぬ絶対的命令において社会の変革を命令する。これがマルクス主義の理論の「実践的前提」である。マルクス主義は理論と実践との弁証法的統一の上に立つが故に、全無産階級の物質的貧困と窮迫とをその理論のうちに止揚する。ここにマルクス主義が自己を唯物論として規定するひとつの根源は横たわっている。
* Marx-Engels Archiv, ※(ローマ数字1、1-13-21), 252.
** Mis※(グレーブアクセント付きE小文字)re de la philosophie, Pr※(アキュートアクセント付きE小文字)face, p. ※(ローマ数字12、1-13-55).
 さて無産者は彼らの基礎経験の特殊なる構造の故に生まれながらの弁証論者であるから、彼らは自己を物質的窮乏から解放するために、全く物質化された彼らの現実、そして全社会そのものの現実とは少しの縁もなき何らか精神的なる方法に従うことが出来ない。むしろ彼らの物質的要求を最も徹底的に主張することによってのみ、単に彼らの現実のみならず、現実の全社会を変革し得る、ことをこの弁証法は彼らに必然的に認識せしめる。しかしながら、真実を語るならば、物質の最も徹底的なる主張によって解放されるものは、弁証法の本質に従って、単に物質のみではないのである。すでにマルクスはいっている、「プロレタリアートはだが、彼自身の生活条件を止揚することなくしては、自己自身を解放し得ない、プロレタリアートは彼の状態のうちに総括されている今日の社会の一切の非人間的生活条件を止揚することなくしては、彼自身の生活条件を止揚し得ない。」無産階級運動の本質は、かれもしくはこれの無産者を解放することでなく、むしろ全無産階級を解放することであり、そしてこのことは、無産者的存在そのものの歴史的本質にしたがって、かえって一切の階級を止揚することなくしては実現されない。あたかもそのように、物質の解放を要求する無産者は、これもしくはかれの物質的欲望の解放を要求するのでなく、むしろ全物質的生活の解放を要求するのであり、しかもこのことは、弁証法的唯物論の内的本質そのものにしたがって、かえって全人間的生活を解放することなくしては成就されない。最も徹底的に主張することによって解放されるのは単なる物質のみではない、単なる精神ではもとよりない。かえって物質と精神とは止揚されて全体の人間性そのものが解放されるのである。そこでは虐げられた物質は自由となるであろう、埋没した意識は回復されるであろう。そこでは物質的精神的人間の全体がそれの全体性において輝き始める。――私は私の研究が史的唯物論としてのマルクス主義に多少の解明を与え得たことを期待する。
* Nachlass, ※(ローマ数字2、1-13-22), 133.
――(一九二七・七)――





底本:「現代日本思想大系 33」筑摩書房
   1966(昭和41)年5月30日初版発行
   1975(昭和50)年5月30日初版第14刷
底本の親本:「唯物史觀と現代の意識」岩波書店
   1928(昭和3)年5月刊
初出:「思想」
   1927(昭和2)年8月号
※底本の二重山括弧は、ルビ記号と重複するため、学術記号の「≪」(非常に小さい、2-67)と「≫」(非常に大きい、2-68)に代えて入力しました。
※底本の亀甲括弧は、アクセント記号と重複するため、山括弧の「〈」(1-1-50)と「〉」(1-1-51)に代えて入力しました。
※本作品は「唯物史観と現代の意識」に第2章として収載されています。
※誤植の確認には「三木清全集第三巻」岩波書店、1966(昭和41)年12月17日発行を参照しました。
入力:文子
校正:川山隆
2011年10月12日作成
青空文庫作成ファイル:
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●表記について

有気記号付きη、U+1F21    155-下-6
曲アクセント付きι、U+1FD6    155-下-6
鋭アクセント付きο、U+1F79    155-下-8、155-下-15、155-下-16
曲アクセント付きω、U+1FF6    155-下-15、155-下-15
重アクセント付きο、U+1F78    158-上-2、158-下-17
有気記号と鋭アクセント付きε、U+1F15    158-上-2
曲アクセント付きα、U+1FB6    158-上-12
有気記号付きο、U+1F41    158-下-15
ε異体字、U+03F5    158-下-16、158-下-16
重アクセント付きι、U+1F76    158-下-16
無気記号と曲アクセント付きυ、U+1F56    158-下-16
有気記号と鋭アクセント付きο、U+1F45    158-下-17
ローマ数字46    163-下-14


●図書カード