私の要求する探偵小説

平林初之輔




 私も以前にはだいぶ探偵小説を耽読たんどくしたことがあった。四五年前までは新本でも丸善で二十五銭で買えた菊版の六片版シックスペンスエディションを十銭位で古本屋からあさってあるいたこともあった。黒岩涙香の二三十冊もある翻案物を、神楽坂の貸本屋から次々にかりてきて一ヶ月かそこいらで大部分読んでしまったこともあったが、近頃は仕事が忙しいので余り探偵小説を読んでいるひまがない。それでも病気などになって堅い本を読めなくなると必ず探偵小説を手にする。『新青年』や博文館や金剛社あたりで出しているシリーズはたいてい読んでいる。ことに小酒井博士の書いたものなどは手にはいった範囲では読みおとしたことがないほど愛読している。
 けれどもただ手あたり次第に、面白いから、読むだけの話で探偵小説について何か書けなんて言われると何も書くことはない。ただ好きで読んでいるという以外にべつだん感想もない。強いていえば、日本の普通の小説は、むずかしくてよくわからないから、そして私の頭のように疲れてしまった頭を刺激する力がないから、刺激を与えてくれる読み物としてまず第一に探偵小説を選んでいるだけのことである。
 探偵小説の中にも、他の場合と同様に、つまらないのもあれば、傑作もある。そこで私は、これまでに読んだもののぼんやりした印象から、私一個のすきごのみに従って、どういう作品が好きかという探偵小説に対する注文をしてみることにする。もちろんこれは私一個の私見であって、探偵小説はすべてこうでなければならぬなどというのではない。ただ私だけが、こういう条件をそなえている作品が探偵小説の上乗のものだと考えるその条件をならべてみるまでである。
 第一の条件は取り扱っている事件が有り得る事件であり、犯罪や探偵の方法が実行し得るものであるということである。日本で有名になっているアルセーヌ・ルパンなどはこの条件から見ると上乗のものとは言えぬと思う。ドイツ皇帝がルパンに面会に来たり、ルパンが一人で同時に三人に変装していたりするのは、痛快には痛快だが、それ以上に現実味を損するという欠点がともなう。一体にやたらに変装して神出奇没するのは不自然な感じを与えて私などの年輩の読者には興味が余程そがれる。
 第二に探偵の方法が科学的である必要がある。あまりに眼にもとまらぬような直覚的探偵法は読者の好奇心をじゅうぶん納得させるかわりに混乱させてしまう。ある程度まで読者に探偵と一緒になって探偵させるくらいでなくてはいけない。もちろんこれが過度に失して、読者の方ではとうに犯人の目星がついているのに書中の探偵が一生懸命でまごまごしているようでは困る。けれども、たとえばセクストン・ブレイクのある作品のように、電光石火的の判断によって犯人をつきとめてしまわれては、読者の方が物足りない。一般に数の関係、時間の関係、距離の関係、およびあまりに専門的に流れぬ範囲で医学、薬学、物理、化学等に関する説明をいれることは有効である。少なくもこれらの学理的説明に矛盾しないことは絶対に必要である。
 第三に舞台はなるべくその国の首都もしくは枢要都市が中心になっているのがよい。印度インドだとか、南洋だとか、アフリカの蕃地ばんちだとかを舞台にするのは、どうしても必要の場合にはいたしかたがないが、なるべくやめてもらいたい。それは読者の努力をあまり必要でないことに浪費させる。たとえば聞いたこともないような地名がたくさん出てきて、その地理的関係がよくのみこめぬような場合である。そして已むを得ずそういう舞台をつかう時は、その土地に関する相当な知識をもっている場合に限ってほしい。ただ空想的に異境を舞台にするなどは、読者に誤った知識を与えるという点で教育上から見ても面白くない。コナン・ドイルの『緋色の研究』や『四人の署名』やその他のものなどは印度と本国とに跨がったものだがそういう欠点の少ない傑作だと思う。
 第四に犯罪者と探偵とが競争する場合にはほぼ互角の腕前であることが必要である。モーリス・ルブランの『水晶の栓』における、ルパンとドーブレークとのごときはこの条件を完備している。『虎の牙』などもそうである。この理由は簡単で角力すもうをみても、野球の試合をみても、段ちがいの勝負よりも実力の伯仲した場合のほうが面白いのと同じである。
 第五に、科学的ではあっても、そして、現実的ではあっても、常識的でないことが必要である。探偵も犯罪者も超人であること、人間以上であることは、第一にあげた条件によって許されないが、人間として許される範囲においては天才的の能力を具有している必要がある。これは多くの探偵小説家がみな心得て実行していることである。けれども純粋な探偵小説でなくて、単なるセンセーショナル・ノヴェルの場合になると、非凡な知力や体力などの他に、異常な想像力とか、奇妙な心理状態などをもっていることが効果を強めることがよくある。純芸術作品としてドストエフスキーの小説などは、この心理の描写が実に精緻を極めているように思う。モーリス・ルヴェルの作品などにもなかなか微細な心理を描いたものがあったように思う。この心理状態の動きは、筋道もなく、連絡もなく、全く突発的なものでも許される。これが、心理の場合と実際の行為の場合と異なる点で、科学的ということが心理状態まで規則的にはたらかせることでないということをことわるためにちょっと一言した次第である。
 第六に犯罪の背景に時事問題や、国際問題などがあることはいっこう差し支えないが、それが安価な教訓的であったり、わざとらしい愛国心の鼓吹であったりしてはいけない。戦争中に出た探偵小説にはこの種の弊害に陥っているものが随分あった。たとえばウィリアム・ル・キューのものなどがその一例である。モーリス・ルブランなどもその頃の作品にはそういう傾向のものが多い。アメリカの作家などにさえ最近まで、ドイツ人をわざとらしく敵役かたきやくに回したものが随分あったように思う。
 そのほか探偵小説に要求したいことはいくらもあるが、きりがないからこの辺できりあげる。最後に日本の探偵小説がほとんど発達しないのは、日本はまだ機械文明が幼稚であることや、日本の家屋が孤立的でかつ明けっぱなしで、大規模の秘密犯罪に敵しない等の外部的理由もあろうが、日本人の頭脳が、特に小説家の頭脳が非科学的で、立派な探偵小説が要求するような知識に乏しいという点が最大の原因だろう。が遠からず日本からも必ず探偵小説家の二人や三人は出ると思う。読者は既にそれを要求していると思う。





底本:「平林初之輔探偵小説選※()〔論創ミステリ叢書2〕」論創社
   2003(平成15)年11月10日初版第1刷発行
初出:「新青年 第五巻第一〇号夏期増刊号・探偵小説傑作集」
   1924(大正13)年8月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年1月4日作成
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