日本の近代的探偵小説

――特に江戸川乱歩氏に就て――

平林初之輔





 探偵小説を、一般の小説から、特にきりはなして、これを特殊の眼で見、特殊の批評の尺度をもってこれにのぞみ、あたかも、探偵小説が、先天的に、特殊の価値を約束されているように見做すのは、間違いであると私は考える。
 たとえば、コナン・ドイルが、結局イギリスにおいて二流の作家に過ぎないと仮定しても、それだから探偵小説が第二義的の芸術価値をしかもたぬとは言えない。それはコナン・ドイルの芸術的天分が、二流以上に出ないというだけのことで、探偵小説そのものの価値には少しも触れない議論である。その証拠には、アラン・ポーと同時代のアメリカの作家で、ポー以上の芸術的天分を発揮した作家がはたしてあっただろうか? 前者の論法をもってすれば、この場合には、探偵小説が最高の芸術価値をもった小説であるという議論がなりたつわけである。
 探偵小説は、探偵事件をとり扱った小説であるというだけで、一般の小説との間に価値の差異や高下があるものでないことは、以上のべた通りであるが、探偵小説が発達するためには、一定の社会的条件が必要であるということはもちろんである。一定の社会的環境ができあがらないうちは、探偵小説は生まれないのである。その社会的条件、あるいは環境とは、広義に言えば、科学文明の発達であり、理知の発達であり、分析的精神の発達であり、方法的精神の発達である。そしてこれを狭義にいえば、犯罪とその捜索法とが科学的になることであり、検挙および裁判が確実な物的証拠を基礎として行われ、完成された成文の法律が、国家の秩序を維持していることである。
 たしかなことは、調べてみなければわからないけれども、探偵小説の重要な要素となっている指紋などは、恐らく小説家の想像力よりも、実際の探偵に早く応用されたであろう。また極端な例ではあるが、地下鉄のサムがすりの常習犯であるにもかかわらず、現状を押さえられないというだけの理由で、官憲につかまらないことや、小説ではないけれどもいつか本誌〔『新青年』〕に連載された「死刑か無罪か」の主人公が疑わしい点が無数にあるにかかわらず、直接の証拠がないために無罪になるというようなことは、一定の法律によりて検挙、裁判が行われてはじめて起こる現象である。これらの例だけでも、私の前にあげた条件が、探偵小説の出現に必要であることはわかるであろう。
 そこで、西洋では探偵小説は十九世紀になってはじめて現れ、最近において最も読み物として普及しているのであり、日本では、ごくごくの最近に、はじめて探偵小説がぼつぼつあらわれたに過ぎないのである。しかし、日本に探偵小説があらわれたのは、決して遅すぎはしない。近代の小説は、ボッカチオにまでさかのぼらずとも、少なくも、十八世紀には相当の有名な作品をのこしている。しかるに日本における近代小説は、せいぜい明治十七八年以前へは辿ってゆけない。近代小説がはじめて現れてから三四十年にして、探偵小説の萌芽があらわれたということは、決して西洋の例と比較して遅すぎはしないのである。それに黒岩涙香その他によりて翻案の探偵小説は、明治二十年代に既に一般読者に歓迎されていたし、翻訳の探偵小説は、最近数年来、多数の読者を吸収している。


 日本の文明が、多くの点において、西洋に半世紀ないし一世紀おくれているという事実、近代小説の発達においてもほぼ同じくらいおくれているという事実を考えると、日本に、探偵小説と名づくべき作品がほとんどなく、探偵小説の作家がまだほとんど現れないということは当然のことのように思われる。それは、日本の科学文明が、探偵小説を生む程にまで達していないからに他ならない。
 多くの人が日本に探偵小説の発達しない理由として、日本の家屋が、孤立的、開放的で秘密の犯罪に適しないからであると考えたようであるが、それはほんの一部分の理由である。そういう理由なら幾らでも列挙することができる。たとえば日本人は人種の関係で、西洋人との区別がすぐにつくから、日本という国は、国際的犯罪の舞台になり得ないというのも一つの理由であるし、日本人が官僚主義の国民であるために私立探偵などの活動する余地がほとんどないというのも理由となろう。しかし、それらは、大きな原因の一部であって、結局は日本人の生活、文明が科学的に幼稚であり原始的であるというところに一切の原因は胚胎はいたいしているのである。
 してみれば、科学文明が進むにつれて、ことに、資本主義の発達に伴う富の集中、大富豪の出現、華美な生活、信用取引の発達、官吏商人等の不正行為の増加、その他これに類似の様々な生活現象は、ますます一般人の探偵小説的興味を刺激し、探偵小説を盛んならしめるであろう。それと同時に、国民の思想が科学的、方法的な推理を喜ぶようになってくるにつれて、これに知的満足を与える読み物としての一種の小説が、従来の尋常一様な生活記録の小説を駆逐してくるに至ることは必然のいきおいといってよかろう。いかにそれらの小説家が「芸術的」という一枚看板を後生大切にまもっていたところで、創作力の消耗した、希薄な、番茶の出がらしのような作品を出していたのでは、読者をひきつける牽引力はますます弱くなってゆく一方である。「一流雑誌」の文芸付録を見て、てんで読書欲の起こらぬ人は、今日私だけではなかろうと思う。二三の作家が、探偵小説に筆を染めるという話をきいているが、これは当然の成り行きであって、その作家が、わざと調子をおろしたり、読者を軽蔑してかかったりしない限り、決してその作品が「芸術的」に価値の少ないものにならぬだろうと私は思う。それに、読者の方では、相当すぐれた西洋の探偵小説を読んでいるのであるから、いわゆる「眼が肥えている」この読者に、つまらぬ読み物を提供したって、歓迎される理由はない。探偵小説の読者は、活動写真の愛好家と同じように、一種の群団的批評家である。ファンの批評は、往々にして、専門批評家の批評よりも厳正で公平であることがある。群集心理にのみかられて、付和雷同する場合にはとんでもない「価値の転倒」が行われるおそれがあるが、情実や交友関係に左右された幇間ほうかん的批評よりも、厳正を失うおそれは少ないと言えよう。
 これまでに、探偵小説を発表した日本の作家に、谷崎潤一郎、佐藤春夫、久米正雄、松本泰等の諸氏があるということである。そのうちで、私は谷崎氏の作品を一二読んだだけである。今ではどんな作品だったか一つも記憶に残っていないが、そうとう興味をもって[#「もって」は底本では「もつて」]読んだことだけはおぼえている。一体、私の芸術観から言えば、谷崎氏の小説には、好ましからぬ要素が非常に多いが、氏の創作の態度が熱心であるように思える点には、私は、若い作家の中では特に氏を敬服している一人である。けれども探偵小説の作家としては、怪奇を求めるに急であって、推理の鋭さにおいて非常な物足りなさを感じたように思う。ただしこれは正確な記憶を失っているので何とも断言できない。佐藤氏の探偵小説はそうとう特色をもったものだということは友人から聞いただけで自分では直接読んでいない。松本氏に関しては、探偵小説の研究家であり、作家であって、近頃、探偵文芸とかいう雑誌を出されたという話をきいているだけである。その他本誌の読者になじみの深い小酒井不木氏、森下雨村氏なども探偵小説を発表されているということであるが、遺憾ながら、私はまだ読んでいない。


 そんなわけで、現在私のはっきり記憶している日本の探偵小説家は、江戸川乱歩氏一人である。もっとも、同氏のものも発表されたものをぜんぶ読んでいるわけではない。本誌に発表されたものはたいてい読んでいるつもりではあるが、記憶に残っていない。有名な処女作「二銭銅貨」も読んだかもしれないが、まるで忘れてしまっている。ただはっきりおぼえているのは、今年になってから本誌に発表された「D坂の殺人事件」「心理試験」「黒手組」の三編に過ぎない。これだけのわずかな材料で、探偵小説家としての、氏の前途を予断することは、軽率でもあろうし、特に私には、そんな洞察力は全くない。私にできることの一切は、この三編の小説の出来栄えに対する批評、これらの小説の構成の分析、作者に対する希望等に限られている。
 江戸川乱歩という名前は、言うまでもなく、エドガー・アラン・ポーの音からとったペン・ネームである。これは、江戸川氏が特にポーの小説に傾倒しているためではなくて、ただポーが探偵小説の鼻祖であるためと、発音がうまく漢字にあてはまったからの理由だろうと思われる。それは、氏の小説には、ポーとの類似点がほとんどないことによってわかる。
 前掲の三編の小説を通じて、第一人称の主人公があって、明智小五郎という素人しろうと探偵がでてくるところは、たとい無意識的であるにもせよコナン・ドイルの模倣である。「私」と明智との関係のうしろには、ホームズとワトソンとの原型プロトタイプがはっきり読者には観取される。おまけに探偵的推理に熱中する時、明智が「もじゃもじゃした頭」をしきりにかきまわす癖なども、意識的か、無意識的かの模倣と言えよう。
 しかし、シャーロック・ホームズが中年を過ぎた、理知そのもののような風貌を連想させるに反し、明智は、三十前後の、ぶらぶら遊んでいる、そして犯罪や探偵に関する書物を耽読たんどくしているいわゆる「書生」を連想させる。シャーロック・ホームズが大洋をまたにかけて、印度インドの神秘境から、ロンドンの下町の隅々にまで活躍するに反して、明智の活動舞台は、東京の山の手に限られている。これは、ホームズが既に大成円熟の境に達した押しも押されぬ名探偵であるに反して、明智は、まだほとんど世間に名を知られていない、かけだしの素人探偵であって、その大活動は主として未来に約束されているために、わざと複雑な大事件をあとにまわそうとする作者の下心にもよるだろうが、作者そのものの経験の範囲が、取材や舞台の限定を余儀なくしているせいもあろうと思われる。最も近代的犯罪に適した下町を選ばずに、山の手の小さい通りや、戸山ヶ原などが選ばれているのは、恐らく、作者の在京時代の経験(作者は今は大阪に住んでおられるが、東京にそうとう長く在住した人であることは容易にわかる)が大いに預っているであろう。
 しかし、明智の社会的地位が、素人探偵の域を脱しないにかかわらず、その探偵としての推理はかなり非凡であり、その探偵方法はそうとう複雑である。「D坂の殺人事件」においては二人の女の背中に無数の創痕そうこんがあるという事実から、殺人事件が変態性欲に関係していることを見抜いたり、棒縞の浴衣ゆかたを甲は黒衣と断定し、乙は白衣と断定したことに対して、人間の感覚、記憶のあてにならぬことを知って、この「証言」を無視したりしている。「心理試験」では精神分析学を応用して、たくみにたくんだ犯人に自白させている。「黒手組」では、足跡がないという事実から、驚くべき推理をしてみせたり、暗号を解いてみせたりしている。
 変装とか、変幻出没の超人的行為の力を借りない点において、ともかく、自然味をあまり損じていないのがこれらを通じて作者の手柄である。そして犯罪の捜査法が、科学的である点は、近代的探偵小説の名にそむかぬものであると言えよう。しかし、細かい点に至ると、まだ不自然で、迫真力が乏しいうらみがある。たとえば、「D坂の殺人事件」において、古本屋と蕎麦そば屋との抜け道のことが臨検の時に警官の注意をひかなかったり、切れた電球が明智のスイッチをひねったときに偶然についたり、「心理試験」において、わざと犯罪とぴったり符合した連想ばかりをさせたり、「黒手組」において、いかに闇夜とは言え、人間の視力は長時間のうちには暗さに適応してくるはずであるのに、牧田が、複雑な変装をしている間中あいだじゅう富美子の父がそれに気がつかなかったりするところなどはその一例である。
 私は、三編のうちでは「心理試験」が最も成功していると思う。この作は、その犯罪の形式から、犯罪者の心理状態、明智との対話等においてドストエフスキーの『罪と罰』に酷似している。ことに終わりの方の場面は予審判事とラスコーリニコフの対話の場面を連想させるほど、中々よく書いてある。けれども第一に犯罪が無理にこしらえてある。ばばを殺す理由が実に薄弱である。探偵小説が、単に暗号を解くのと同じように、理知の過程を紙上に記せばよいのであるなら、いかなる犯罪でも仮定してよい。犯罪そのものの動機や自然性などは眼中におかずに、ひたすらその解決に、鮮やかなところを見せれば、よいであろう。けれども私のように、これに芸術的価値を要求する場合には、それだけでは足りない。全体の芸術的結構が問題にならざるをえない。
 この意味において、「黒手組」が、あまりくだけすぎて、物語じみた描写法をとっているのは作者のために若干の危険を感じさせる。この点において、探偵小説家としてのデビューをとった作者のためにも、作者らの手によって揺籃時代を通過しつつある日本の探偵小説の前途のためにも、私は作家の自重をのぞんでやまない。正直に言って、欧米の作者のでも、拙劣な作品は別として、少なくもビーストンとかランドンとかいう程度の人の作品に比べると、江戸川乱歩氏の前記の三編にはまだまだ非常な遜色そんしょくがある。ただ私の知っている限りにおいて、日本における真の近代的探偵小説家として、私は氏に十分の期待はもっているのである。そしてこの期待は作者が、厳正な態度を失わずに精進するという方法によってのみ実現されうる。一度気をゆるめたが最後、少なくも氏を発足点とする日本の探偵小説は、見るもあわれな状態を展開するであろう。ちょうど、自然主義末紀まっきの日本の小説がそうであったように。
 それだから、私はあえて、苦言を呈することにしたのである。いずれ、本誌に連載される短編を一年もひきつづいて読んでから、改めて、私の杞憂が真の杞憂に過ぎないことを知ることができることを、私は信じたい。





底本:「平林初之輔探偵小説選※()〔論創ミステリ叢書2〕」論創社
   2003(平成15)年11月10日初版第1刷発行
初出:「新青年 第六巻第五号」
   1925(大正14)年4月号
入力:川山隆
校正:門田裕志
2011年1月4日作成
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