侯爵夫人(The Marquise) ノエル・カワード作 (1926年) 初演 1927年 Graham Browne演出 Marie Tempest(侯爵夫人)Graham Browne(ラウール) Frank Cellier (エステバン)
カワード自身の書いたものによると、(Play Parade の序文に)・・・「侯爵夫人」はマリー・テンペストのために書いた。書いている時、彼 女の声が私の今書いているその台詞をどのように喋るか、私の耳に響いてきた。実際に演じられたものを観た時、私のあらゆる予想がその儘ピタリとなされているのを感じた。彼女の「三つ角の帽子」、いたずらっぽく輝く目、計算された素早い動き、全て。しかし、もし私が、マリー・テンペストのこの素晴らしい演技から少し離れることが出来、冷静にこの芝居を観ることになれば、なんて薄っぺらで(tenuous) 不真面目な(frivolous) 作品なんだ、と思うだろう。特に最後の幕、ラウールとエステバンが決闘する、それをオレンジを齧りながらエロイーズが眺める場面は、あざといだけでなんて弱いのだ(weak and meretricious) と、鳥肌を立てずに読むことは出来ない(I might read with disdain) 。こんな壊れやすい(brittle) 現代の恋愛喜劇をわざわざ18世紀を舞台にした作者の軽々しさ(flippancy) と傲慢さ(impertinence)を、笑わずにはいられない。・・・ と、酷評をしている。The Times, 17 Feb. 1927 にも、・・・エロイーズがクレメント神父をピストルを使って脅し、ジャックとアドリエンヌを結婚させることに成功する。面白いところはここまで。ラウールとエステバンが決闘する、そしてエロイーズとラウールが仲直りする、そんなことがどうして面白いか。クレメント神父がやられてしまい、若い恋人がうまく逃げおおせる。観客の興味を繋ぐことの出来るタネはそこで出尽くしているではないか。テンペスト嬢の名演技をもってしても、観客の興味を最後の幕まで繋ぐことは出来なかった。・・・
とあるが、私はそうは思わない。非常に奇妙なことに、私が何故これを翻訳したかと言うと、決闘の場面と最後の仲直りの場面が面白かったからなのだ。(能美武功 平成10年10月25日 記す)
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